っていうのは煽りタイトルなんですが(一部界隈でホットなので、自らセカンドレイプをしかけてみる)
こういう事例というか、「自助努力が欠けているからそうなったんだ」という俗流自己責任を持ち上げる輩はわりといますね。
で、ちょっとトポロジーな類例をふたつばかり考えてみたので、ひとまず被害程度の問題を無視して、読んでみてください。
要するにこれは、レイプの話題で言えば「胸を露出させる服を着ているのが悪い」とか、「ひとりで夜出歩いているのが悪い」的な言説ですね。いじめられる側の隙を探して、いじめる理由に足るものを指摘して、「お前がデブでハゲでバカでフケ散らかしてるのが悪い」って話です。
レイプ含め、性犯罪を根絶することは不可能でしょう。同様に、いじめを根絶することも無理だと思います。起こってしまったときに、適切な対応と、理解を促すぐらいしか、方策はないように思います。
別方面でもそれなりに話題になりがちなテーマですね。よく「コミュ障だから内定がない」となかば自虐的に書き込まれるケースが多いですが、それ以外にも「社会人としての自覚が足りないからだ」とか「甘えてるからだ」とか、飛躍して「○○大学なら当然だな」とか、無い内定になるのにはさも当人に落ち度があるのだから当然という主張がまかり通っています。
学歴に依る差別は合理的なものだから、区別であって正しい、という主張をする人がまだまだ多いです。それを盾にして「だから低学歴は無い内定になって当然。今までの努力が足りないツケだ」と主張すること自体も正統的な目線で見られがちです。
そもそもの話として、自助努力というのは存在しうるのでしょうか。こういう場で使われる努力というのは「最適解」を前提にしています。つまり、努力しようがしなかろうが、当人にとっての最善の努力だろうが、実現しなければ「甘え」であり「努力が足りない」ということです。
性犯罪で例えれば「深夜にバイトをしないで生活できるように、最善の努力をしてこなかったお前が悪い」とか「努力せずに低学歴になったんだから、性風俗のような相応の産業で働いてあたりまえだし、その帰り道でレイプされてもどうせ売春婦なんだから一回ただ働きしたようなもんでしょ、適切な努力をした人はそんな事されない」とか臆面もなく主張してくるわけですね。
社内いじめが功を奏してクビになってしまったとしても、それは政治力のないあなたが悪い、とも言われてしまうわけです。
能力がなくてクビになったとしても、勉強する時間を創ってこなかったお前が悪いと、誰も取り合わないわけです。サビ残ばかりで終電帰宅な毎日でもね。
されたのが悪い、されたのはお前に原因がある。
努力すれば報いがあるのだから、報いがないのはお前の努力が足りない、というわけです。
負の努力をすれば負の報いがくるのだから、正の報いがないのはお前が負の努力をしているからだ、ということです。
先天的にせよ後天的にせよ、それを改善しようと努めないなら相応の報いを受けるのだ、というのは一見聞こえはいい(自分に火の粉は降りかからないから)ですが、弱肉強食に塗れたキケンな思想だと言わざるをえないでしょう。他責的言説が支持されないのはこういう背景があると睨んでいます(他人の因果がなぜ自分と関係があるのか!と思う人は多いんじゃないかな)
そして自分が喰われる側となれば「もっと努力すれば」とスーパーマンを期待し、
相互で相互のハードルを上げあって、互いに息苦しくなる(もちろん、この息苦しささえ「それはお前が弱いからだ」と言い切る人もいるでしょう)
自律意志を持たず、ひたすらルーティンワークをして錆止めの油(給与)を与えられるだけのサラリーマンを皮肉ったものとして。
しかし、すべての成員は歯車だ、と私は思うのです。どちらかというとポジティブに。
つまり自分が歯車として機能しているということは、他の歯車も機能しており、自分の馬力が他人に作用している何よりの証拠なのです。
すべての事象は、社会に参与するすべての人間に関係があるのです。
なぜ、熊森は生態系撹乱を無視してまでどんぐりを森に撒くのでしょう。
なぜ、我が国の文化はガラパゴスとして他国からCrazyと思われるのでしょう。
なぜ、起業しろと、起業ノウハウも金銭もない人間に主張するのでしょう。
すべてを理解しろと言っているのではありません。超人ではないのだから、私とて理解できないモノだってあります。
自己を律するのは勝手ですが、同じだけの律を他人に求めるのは不寛容です。
そして、できるだけ、すべてを包摂していくことこそが求められるべきです。
同棲するのがオチだろ?
そういうキモ親にとって、彼氏なんて認めていない性犯罪者同然だよ
を招くのは、本人がお馬鹿さんなだけだと思うぞ
それがどう反論になってるのか全くわからない。ごめん。
素直に「コードが大好きなので楽しいコードが書けて金が貰えればビジネスの結果なんてどうでもいいです」って本当のことを言えばいいのに。
その本音自体は別に悪いことだとは思わない。
女叩きのように不特定多数の人を叩くか、知り合いのように特定の人を叩くかは別もん
自身の素性明かして後者を行う時はそれなりの覚悟が必要
それ見てるよー!
うん、どうでもいいということがよくわかる秀逸なまとめでした。
僕が高校を卒業したのはもう何年も前のことで、いい加減高校時代の友人と連絡を取る機会もほぼなくなり、それぞれが自分の人生を一人で歩んでいる2011年。とっくに就職し、結婚し家庭を築いているかつてのクラスメート達とは違い、恥ずかしながら僕はまだ文献や論文に囲まれた生活を送っている。
深夜、PCに向かって作業していると何故かいつも決まって思い出すのが、高校時代にクラスメートだったY君のことである。彼は今どうしているのだろうか。
僕の通っていた高校の文化祭ではクラスで出し物を企画したりすることはなかったが、毎年クラス対抗の校内合唱コンクールがあり、進学校なのに意外とクラス全員がかなり真剣に取り組んでいた。音楽系のクラブに所属していた僕はいつも合唱の責任者や指揮者を任されていて、高校三年生の時に僕が指揮者をやるのに対してピアノ伴奏をしてくれたのがY君だった。
正直Y君とはそれほど仲が良いわけではなかったし、かといって悪くもなかった。仲というものがそもそもなかった。それ以前にY君自体がかなり謎の多い子で、元々大人しい性格が災いしてかクラスでもY君と仲の良い子はいなかった。ただ分かっていることは幼い頃からピアノを本格的に習っていてかなり上手だったということだけだった。
何の曲をやったかははっきりと覚えていないが確か高田三郎の『水のいのち』より「雨」だったような気がする。この曲はアカペラではなく伴奏があるので、ピアノが弾ける生徒がいないといけない。ということで僕は、どうやらY君はピアノが上手いらしいという情報のみを頼りにして、Y君に伴奏をお願いした。
その時のY君の微笑みは今でも忘れることは出来ない。「なんで自分が…」「僕じゃなくても他に弾く人いるんじゃないの?」ということを、決して口には出さないが目で訴えつつ波立てずごまかすように苦笑い…というのが容易に見て取れた。本来なら考えておいてほしいと選択を任せてその場は一歩退くものなのだろうが、当時の僕はまだ人と接する方法を知らず、Y君の人の良さに浸け込み、無理やり拝み倒してOKを頂いた。今思うとつくづくウザい奴である。そういう訳でY君は(おそらく嫌々ながら)伴奏を引き受けてくれた。
練習は(僕とY君の間で多少のコミュニケーションの齟齬はあったにせよ)順調に進み、合唱コンクールは無事に終了、僕らのクラスは3位を取ることができた。まぁこのへんはなんともなく終わったから割愛する。
問題はそこからまた少しばかり時が経ち、卒業した後のパーティの席だった。
卒業パーティで僕らは学校の愛唱歌(校歌ではない)を歌うことになった。これが変わった歌で、構成が合唱部分→独唱部分→合唱部分となっていて、この独唱部分を、我が高校に昔から在籍する外国人の教員さんが歌うのが通例になっていた。そしてこのパーティでも例外ではなかった。そしてこの愛唱歌での指揮&伴奏が僕とY君に命じられたのだった。公式の場だから適当に4拍子振っておけばいいので指揮は問題ないが、伴奏はそうも行かない。やはり練習する必要があり、本来なら楽譜が必要なのだが何故かピアノ伴奏の楽譜が存在しないらしく、Y君は受験前後のバタバタしていた時期だというのに自分で伴奏編曲して練習してきてくれたのだった。
そして本番。愛唱歌を歌い、一つ目の合唱部分は無事に終わった。だが次の独唱部分で事件が起こった。
肝心の外国人の教員さんは結構なお年だからか、完全にその独唱部分を、僕の指揮もY君の伴奏もガン無視の自分のテンポで(しかも若干の調子っ外れで)歌い出したのだ。指揮はまぁ適当に振ってるのか振ってないのかでごまかせるが伴奏は完全にストップ。ちらりとピアノの前にいるY君の顔を見ると、どうしようどうしようとパニックに陥っていて次の合唱部分も弾けるか危ういくらいに焦っていた。そんな僕とY君のパニックなんか露も知らず外国人の教員さんは朗々と気持よく独唱部分を歌い続ける。
そして第二の合唱部分は伴奏がなかった。でも生徒はみんな散々イベントのたびに歌わされた愛唱歌なので別に伴奏なんてなくても歌えたのだった。
この地獄のような愛唱歌斉唱が終わった直後、僕は一礼するとすぐにY君の元に駆けつけて声をかけた。
「大丈夫?まぁあの人完全にお年だったから予想できない事故だったし…一番の合唱のところはすごくきれいな伴奏だったよ、ありがとう」
なんかそんな感じのことを彼に言った。実際泣きそうになりながらごめんなさいと呟くY君を慰めるために何を言ったのか正確には覚えていない。ただY君の伴奏は練習では完璧だったし、忙しい中伴奏編曲までやってくれたY君には感謝さえ覚えていた。
そして卒業パーティは僕とY君の心に深い傷跡を残して終わった。
数日後担任の先生から手紙が来た。そこにはY君とご両親が僕に非常に感謝していたこと、初めてピアノをやっててよかったと心から思えたと言っていたこと、そして良ければ手紙を下さいとY君の住所が添えられていた。
だが僕はいつか手紙を書こうと思っていたにも関わらず結局送らずじまい、そのまま引越しのドタバタで恩師から頂いた手紙も紛失してしまった。
以上が僕とY君の思い出である。
今でも自分は薄情な人間だなとこの事を思い出すたびに実感する。
ただY君にもし逢うことが出来たら一言言いたいのだ、「僕は君の友達です」と。何年もの間、君のことを忘れられなかったよと。会って、あの忌まわしい卒業パーティのことを笑って話し合える日はいつか来るのだろうか…
http://www.asahi.com/business/update/0120/TKY201101200149.html
asahi.com(朝日新聞社):中国、GDP世界2位へ 前年比10.3%増で日本抜く - ビジネス・経済 (1/2ページ)
一億総メンヘラ認定のid:xevraはここでも中国語アピールしてるけど、はたして中国語を学ぶ価値はあるとはいえ、英語を蔑ろにしてまで学ぶほどの意味があるのだろうか。
言ってることはもっともだし、実際かつてのブランド物はそういう役割があったけど、今となってはそんなモノに訴求力なんてないってこと。
いったい何をどう通報するというんだ。
身に着けるに値しない品のない奴がブランド物ちらつかせながら集まって、お互い話題もその手のものしかないっていう。
話題にし、主張するのはそれ以外に主張できるものがないからだよ。
あれ、そうかな。
ファッションってのは結局自分の支持するものの表明と同じようなもんだから、話題作りにもなるし、そういう交流を図るために
露出狂が放置されるようなところなら痴漢も居るだろう、という推測は必ずしも成立しない気がする。
気がするだけなので議論する気はない。
横だけど
http://anond.hatelabo.jp/20110120142356
http://anond.hatelabo.jp/20110120142515
首都圏に住んだら痴漢にあうって話がどう解釈したら”地方都市のバス痴漢なめんな”になるんだ?
つーか、首都圏だろうが地方だろうが痴漢に遭うのは当たり前なんだから
元増田が「性犯罪者」って呼んでいるのは一般的な痴漢じゃないと思う
つまり彼氏
俺の場合、anondとtwitterへの投稿が滞っていると、仕事も滞っている。自分のアウトプット力がガタ減りしているためと考えられる。
仕事中twitter禁止、anond禁止とか言われても、行き場のないアウトプットを押し殺す過程で本来仕事に向くはずのアウトプット力まで減衰させることになり、精神衛生上大変よろしくない。
話をあわせるためだったり、話題作りのためである場合もあるわけだし。