本文の入力欄ってこんなに文字小さかったっけ。
相変わらず匿名ダイアリーなのにログインしなきゃ書けないっていうのが気になる。
はてなユーザー用のサービスだからっていうのはわかってるんだけど。
urlの「anond」の意味がしばし分からなかった。「anodi」とかにはしなかったのね。
それもどうかと思うけど。
せっかくなんでハッシュタグつけてみよう。
#followmeJP #hisshidanaww
#twitterdeyare
遺書を置いて消えた人を探す手伝いをした。無事見つかったそうだ。ほっと一息ついたけれど、ふと思った。
それは本当に、「その人のために」いいことなんだろうか?
時折「いきてくのやだなあ、しんどいなあ」と思う自分としては、助けるのは簡単だけどその後のことまで考えてくれるの?と思ってしまうことがある。
私なんか転職回数は多いわ、恋人はおらんわ、人間関係ヘタで精神病んで三十なのに無職暦数年、あげくの果てに治る見込みのない慢性疾患もち。
医者は「やすんでいていいんだよ」っていうが、もう三年だ。まだ治んないのか。治ってない。家でたら三十分で鍵かけたか心配になる。引き返す。確認する。
仕事でたら手順が正しいかどうか何回確認するかわからない。
一応資格の勉強はしているけれど、受かったところで職につく見込みもあるわけじゃない。
暗いこと考えれば考えるほどイヤになってくる。手が汚いような気がしてきて何回も手を洗う。薬を飲む。
なんだかどーでもよくなって漫然と時間が過ぎていく。過ぎた時間はかえってこない。
死のうなんて意志もとっくに消えうせて薬で動いてるゾンビ状態だ。
それでもやすんでていいと医者はいう。
このあとはどうなるんだろう。治らなかったらどうなるんだろう。家族も全員死んでそのあとは廃屋になった自宅に一人で孤独死だろうか。
それより前に薬が切れて発狂か、慢性疾患で死ぬか。遅いか早いかの違いだ。
私はもう死ぬなんて気力もないけれど、昔自殺しようと思ったとき、仮に助けてくれた人がいたとしてその人に感謝できるだろうか。
状況は何一つ変わらない。私の病も職歴もなにもかも変わらない。なにかできるかもしれないと希望を抱くには年をとりすぎたかもしれない。挫折しすぎたかもしれない。
命を助けてくれる人はその後の面倒まで見てくれるわけじゃない。結局なにも変わらない、悪化したとしても逆はない事態があるだけだ。
それでも自殺をとめるなんてことが私にできるんだろうか。
「生きていればいいことがあるよ」たぶんそれでもそういって私は自殺を止めるだろう。
そんなことはあんまりないと知っていても見捨てることはできそうにもない。おそらく、見殺しになんか怖くてできないのだ。その人のためでなくて、自分が見殺しにしないということを証明するためだけに助けてるのだ。情けない。
年をくって簡単に助けるなんていえないんだとやっとわかったが、やることは変わらない。また私は安易に手助けするだろう。仮に私が生きていたら。
生きていればいいことがあるんだろうか。たぶん、あるんだろう。そう思わなかったらやりきれない。
DSMの改訂の度に、論議を呼ぶような追加があるが、今回も例外ではない。実際、マニュアルはだんだん厚くなっている。今回提案の改訂で最も不穏なのは、いわゆる医療の専門家が個人の性格を調査する際の方法が、ずうずうしく露骨な新方式になっていることだ。
変わった個性を持つ子供が、その個性のために奇抜な行動を見せると、精神疾患と分類されることになる。昔からこの基準で診断されてきたならば、モーツァルトやアインシュタインのように通常の枠組みから飛び出して新しい発想にたどり着く人は存在しなかったかもしれない。
「今日、7才のモーツァルトがコンチェルトを作曲しようとすれば、注意欠如・多動性障害と診断され、投薬で才気の無い『正常』にされるかもしれない」
性格の違いまで精神病と解釈するとなると、人間は個人的な義務を感じなくてよくなるが、同時にユニークな人間性を奪われることになる。自分で考えることができず、医薬品でコントロールされるだけの存在に貶められる。
この子(http://www.youtube.com/watch?v=6-owL1vM4nE)みたく飛びぬけていたり、見つけて伸ばしてもらえた子は良いのだろうけど、そうじゃない出る杭になっちゃった子は打たれるんだろうな。
医師の自殺率は高い。1980年代前半の英国における医師の自殺率は、一般人口に比べて、男性で3倍、女性で6倍である(a'Brook,1989)*1。最近の米国では、一般の男性に比べて、男性の医師は自殺を試みることが1.41倍だが、一般の女性に比べて、女医は自殺を試みることが2.27倍と高く(SchernhammerとColditz,2004)、女医の19.5%がうつ病の既往を自己報告している(FrankとDingle,1999)。
1967年から1972年の米国では、精神科医の自殺率は、他の医師の2倍である(Richら,1980)。自殺率が高いだけでなく、精神科医は医師の中で喫煙率が最も高く、禁煙に最も失敗しやすい(TamerinとEisinger,1972)。1980年代の米国では、男性の精神科医の7.1%、女性の精神科医の3.1%が、自らの患者と性的に接触している(Gartrellら,1986)。これらは1960年代から1980年代にかけてのデータだが、精神分析が流行していた当時の米国の精神科医たちは一般の医師よりもさらに不健康な人たちの集まりだったようだ。
全国自死遺族連絡会が2010年3月までに行った調査によると、自殺者1016人のうち精神科を受診、治療中だった人は701人で、69.0%を占めた。自殺者のうち飛び降り、飛び込みは197人で、自宅のマンションから飛び降り自殺を図った場合は全員が受診していた。また、自殺した20~50歳代女性も100%が通院していた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100504-00000000-jct-soci
さて、このグラフは何を表しているのでしょうか?これはものの
示しています。
(中略)
精神科にかかる患者が増えるのも、抗うつ剤の売り上げが増えるのも
それが本当に患者のためになるのであれば、私は一切批判はしません。
しかし、私の知っている現実はそれと全く逆です。精神医療現場では、
患者の尊厳や命までも、精神医療産業の利益と比べてあまりにも軽視
されていて、不当な診断をされたり、知らされなかった薬の副作用で
被害に遭う人が本当に多くいるのです。
薬害エイズ事件は、患者の安全や命、尊厳が無視された結果、必然的
に生じたものでした。私は、抗うつ剤に限らず、向精神薬による薬害
は、薬害エイズ以上に大規模な問題であると考えます。そして、無用
に患者を隔離拘束薬漬けにしてきた精神医療は、ハンセン病問題を
はるかに超える規模の犯罪・不作為であると考えます。
http://blog.livedoor.jp/mizikanamondai/archives/50929735.html
昨今、気軽に精神科にかかろうといった風潮があるけれど、精神科について知るにつれ、よほどのことがない限りあまり近寄らない方がいい場所に思えてくるんだけれど、どうなのだろう。
授業中の友達とのやり取りは小さなメモで
先生に見つからないように消しゴムに忍ばせて貸すフリしたりとか。
丁寧な言い回しを事前に用意してたりとか。
携帯が普及して、便利になったっちゃ便利になったんだけど
失った感覚が取り戻したいものばっかりだ。
って思うのは時代に着いていけてない証拠かも。
でもあの時はあの時で楽しかったよねぇ。
酔ってるようにしか思えない。
可愛いって言われる事が何なんだ。
男だと思ってるんだったら男として胸張って生きろよ。
何をしたんだ。何をしたってんだよ。
簡単に死にたいとか言うな。
「中学生」と「未就学児」では、保護者の責任の重さが違うよ。中学生をみているのは「学校の先生」で未就学児をみているのは「なんの資格もない素人」だよ?
自分の子供に対して責任もてない状態になるってわかってるところへ、未就学児を連れて行くって行為自体が疑問だと私は思ってるわけ。
元の投稿のトビ主さんは、先生のボランティア精神に感激して、自分の態度を改めますって投稿していたよ。
だから、トビ主さんの意志や考え方とは、もうかけ離れたところで疑問があるわけ。
自分の子供だったら、どうするだろう? まずは連れて行かない。どうしても連れて行かねばならん事情が出来たら、見えるところにくくっとく。と答えは用意してあるのだけれど、じゃあ、現実問題、そう出来たかと言ったら、無理なんだ。だって、娘はそういう風に扱われても、スケッチブックと色鉛筆を与えておけば、何時間でも絵を描いてる幼児だったけれど、息子はたぶん大泣きした挙げ句、紐引きちぎって逃亡したろうから。
たぶん、一般化して考えることは出来ない問題なんだろうな。
もう店頭に無い曲を探すには最適なんだよな。
流行ったのは10年も前だ。
レーベルとの関係がこじれたのか、ある時期から忽然とCDを見なくなった。
それも今やYoutubeで見ることが出来る。
人々に忘れられ埋もれていく曲が、生き延びられる。
いい時代だ。
僕は戸籍は女。身長もとても小さく、顔立ちもかなりベビーフェイスのため、可愛い・守ってあげたいとよく言われる。でも心は…。女の子ならきっと嬉しいこと。でも僕には「お前は女だ」と言われているだけの傷つく言葉でしかない。実際、男を好きになったこともない。体に丸みが出ないように、ずっと痩せている。ボウズにもしてみた。服装も男物しか着ない。でも、周囲からは可愛いという評価。カミングアウトしてないから手術もできない。でも堪らなく、もう嫌なんだ。手術したところで、顔も身長も変わらない。現世では救われない気がする。でも、大事に育ててくれた家族を裏切ることになるから死ねない。偽りの人生。早く終わらないかなってずっと冷静に思ってる。そしてニコニコとして今日もまた偽って生きてく。雷、落ちないかな、僕の上に。誰も傷つけずにフェードアウトしたい。
最近よくはてぶでtogetter.comを見かけるが、2ちゃんまとめブログと比べてハズレが多いような気がする
以下が考えられる理由
編集が下手な人も混ざる(ブログの場合は下手な人は淘汰されて可視化されない)
趣味の合わない人も編集する(ブログは編集者の趣味が事前にわかってるので選べる)
レス番号がないので誰のどの発言への反応かわかりにくい
RTが重なると引用される文も中途半端になるので元発言からの流れもわかりにくい
長文を書く場合いくつにも分割されるので読みにくい
改行なしで読みにくい
ちょっと前にハローワークに行こうとして自転車乗ってたら、ハンドルのバーテープが剥がれてきた。持ち手に近いところだったのでうざい。その日はちょうど火曜日で行きつけの自転車屋が閉まっている日だった。しかたないので道端に止まってiPhoneで検索して、近場の自転車屋を探したんだ。商店街のはずれにあって古くて雑然とした店だった。「バーテープを止めたいんだけど」と言ったら店主は「うちはビニールテープで止めているよ」と言っていた。ビニールテープは時間とともにべたべたになってしまうのだけど、そうなったら取り替えるとのことだった。
ふうむ。
落ち着いてよく見るとすごい店だった。パン屋と飲み屋と自転車屋が一緒になっている。この店が実在することが恐ろしい。狭い店内にパン屋のメニューと飲み屋のメニューが同じ空間に貼ってあり、その側には自転車が大量に置いてある。たぶん自転車屋だけではやっていけないのだろうけれども、カオティックな世界。
帰ろうとすると自転車のポジションが変であることを指摘された。確かにポジションとか適当なので、自分が都合のいいポジションで乗っている。じゃあついでなのでちょっと直してもらう。話をしていくとケーブルが短すぎるので、延長せねばならないらしい。その日はもう遅い時間だったので、数日後にまた来ることになった。
数日後、小雨が降っていた。自転車をみてもらっていると、なんとフレームに割れを発見される。普段あまり見えないヘッドチューブの割れだったので気がつかなかった。結局このフレームを使い続けることが危険ということで、ケーブル延長を含むポジションの本格的な調整は行わないという結論になった。かといって自分は金がないし、すぐに新しいフレームを買えるわけでもない。とりあえず調整のために剥がしたバーテーブだけを購入して巻いてもらうことに。
今は新しいフレームをなににしようかということばかりを考えている。新しいフレームを買えることがうれしい。金はないし、意味がわからないのだが、お金を使う理由が明確にできたことがうれしいのかも。なるべく安いフレームでカーボンのがよかったんだけど、いろいろなフレームをみたんだけどどうも納得のいくカーボンフレームがない。
捜索範囲を広げてみていくとカレラのフレームが目にとまった。MAMAYAMAというモデル。MAMAYAMAってなんだろう。意味がわからない変な名前だ。イタリアの会社だけどイタリア語ではない。でも、このデザインが気に入った。今乗っているのもカレラだし、どうもカレラのデザインにはフィーリング的にぴったりくるものがあるようだ。安いしアルミフレームだけど、ヘッドチューブは両端が膨らんでいて以前に比べると強化されているように見える。ヘッドチューブの割れがなければきっと長い間乗ることができるだろう。今のフレームも10年近く乗ってきたわけだし。フレーム交換くらいなら自分でもできるかもしれないな。ちょっとやり方を調べてみよう。
最近テレビでやってた「抱きしめ士」に似た発想で、俺には「褒め屋」のアイデアがある。
以前TVドラマで「殴らせ屋」の話があった。路上パフォーマンスで、不満を抱えた人に有料で顔を殴らせてやる話。
「褒め屋」は、落ち込んだ人を「エライ!」「すごい!」等、あらゆる前向きな言葉で褒める仕事。生の声だけでなく、マイク大音量で褒めちぎるとか。昔、貨物列車コンテナを使ったカラオケBOXがあった。そんなコンテナの中でマイクを使って「褒め屋」をやる。名付けて「カラオケBOXボックス」ならぬ「褒めちぎりBOX」。
「褒め屋」が職業になるとは思わないが、カウンセリングの一手法に採用したらおもしろいとは思う。現行カウンセリングは決して医師が患者に積極的に働きかけたりせず、患者の言葉を反復したり、それとなく誘導するだけ。これは「医師が原因を教えるのではなく、患者自身に原因に気付いてほしい」という、カウンセリングの基本的立場があるからだ。そのため医師がズバッと「ああしろ。こうしろ」と指示を出す事はマレ。医師は無理に患者を変えようとはせず、患者が自発的に良い方向に向かう手伝いが主な役目・・カウンセリングはそんな考えに基づいて行われる。しかしこうした医師の態度が時に患者に「まわりくどい」「早く結果を得たい」など悪印象を与える場合もある。
俺の個人的意見では、カウンセリングはもう少し医師が積極的に患者に変化を促すよう働きかけを強めてもいいように思う。その一案として、俺が先に述べたような「何でも褒める事で患者の自信を促進する」という治療手法はどうかと思う。褒める内容は実に小さな事でも良い。例えば「1人でカウンセリングに来れて偉いねえ」「しっかり髪をセットしてからここに来たのかい?すごいねえ」など、一般人から見れば「そんな事」と思えるような事まで大げさに褒めてみせる。初めは患者も恥ずかしがるだろうが、次第に効果が出てくるのではないか。「次第に」とは言っても、従来の「ひたすら患者の変化を待つ」型の治療に比べ、はるかに短期間で効果が得られると思う。
「褒め屋」と共に俺が考えたのが「不満発散BOX」。これも貨車コンテナのカラオケBOXがヒント。不満がある人がコンテナに入り、マイクで「バカヤロー!」「ふざけんな!」など、不満を思い切り絶叫する。サンドバックを吊るし、気が済むまで殴る蹴るがOK。出てきた時に「ああスッキリ」というわけである。他人の憂さ晴らしを手伝う「ストレス発散ビジネス」である。
「サンドバックでストレス発散」で思い出したが、そんな大げさな事をしなくても身近な物を使い少しずつストレスを発散する方法は多い。ガラスを割ったり壁を破ったり、再生不可能な物に当たるのはマズいが、壊しても大丈夫な物や再生できる物に当たるのは賢い工夫。例えば、組み立てたブロック玩具(レゴ等)や積み木作品をガラガラ崩したり、使用済み楊枝や割り箸をバキッと折ったり、ハンカチをクシャクシャ揉み潰したり・・。とにかく不満は小出しに何度も爆発させる事が大事。不満を溜めこむばかりだと1回目の爆発がいきなり大爆発になる。それは避けたい。
カウンセリングのあり方や、不満発散法について書いた。俺は大学で一応心理学を専攻したので、言った事はさほど的外れではないと思う。「臨床心理」ではなく「行動科学」を学んだだけだが、一応精神衛生の授業も最低限受けた。大学の事はまた期を見て書く。
それ結構古い情報だったはず。最新はこっちかと。
http://www.hatatomoko.org/SCN_00016.pdf
【呼びかけ人】五十音順127名
阿知波吉信
網屋信介
井戸まさえ
石井登志郎
今井雅人
糸数慶子
打越あかし
大久保勉
奥野総一郎
加藤学
加賀谷健
柿沼正明
神本美恵子
工藤仁美
工藤堅太郎
櫛渕万里
黒岩宇洋
小室寿明
近藤正道
今野東
齋藤つよし
齋藤やすのり
阪口直人
櫻井充
白石洋一
杉本かずみ
瑞慶覧長敏
高野守
高橋昭一
高邑勉
武内則男
橘秀徳
玉置公良
玉城デニー
中後淳
外山斎
中川治
中根康浩
中島隆利
中島正純
中島政希
中野譲
那谷屋正義
野田国義
橋本博明
橋本べん
初鹿明博
浜本宏
平山泰朗
広田一
藤田一枝
前川清成
松崎哲久
松野信夫
皆吉稲生
宮崎岳志
向山好一
森山浩行
森本哲生
山口和之
山田良司
山下八洲夫
湯原俊二
吉泉秀男
吉川政重
【賛同人】五十音順53名
石森久嗣
大西孝典
岡本英子
大泉博子
金森正
黄川田徹
京野きみこ
桑原功
後藤英友
空本誠喜
高井崇志
玉木朝子
永江孝子
中野渡詔子
仁木博文
野木実
畑浩治
平野達男
福嶋健一郎
藤田憲彦
藤谷光信
村上史好
森本和義
矢崎公二
山本剛正
山崎摩耶
柳田和己
柚木道義
若泉征三
鳩山にハシゴを外されたFushi-ana-eyesのバーゲンセール。
こいつらどうするんだろ。特に社民党、連立離脱はするけど選挙協力はしますとかいう巫山戯た事言ってるけど。
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l l l ●l l l l● l l l お久しぶりです[きゅんきゅん]
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「顔面をパンチ」が想像で済むうちはまだいい。俺はもう親父の顔を何度も殴った。
先日も夕食中に親父が俺に「女の腐った奴」だと言うからブチ切れた。親父だって会社潰して一億借金自己破産。法的返済義務が消えた途端安心し、再就職の努力もせず今まで来た。自己破産しても親類への返済は道義的に続けるもの。なのに「真剣に」返済する態度がなく陰口を叩かれてるのが親父の姿だ。年金受給をいい事に「就職しなくても年金の範囲内の返済でいい」と軽く考えている。引きこもりの俺と再就職を怖がる親父と、どこが違うか?俺は親父のコピーとして育っただけ。そもそも親父自身が新世界に出る意欲欠如。俺だけ「女の・・」呼ばわりされる覚えは無い。
俺は「自分の借金も返さない奴はメシなんか食うな!」と親父を怒鳴りつけた。取っ組み合いで俺は親父の顔を殴り倒した。そもそも俺は親父への堪忍袋の緒が何年も前から切れている。親父に対しては「この人は信じちゃいけない。ついて行っちゃいけない」という結論に達した。俺は普段から「ケンカでは必ず親父の顔を狙う」と心に決めている。しかし、これは決して皆に暴力を奨励しているわけではない。暴力なしで解決できるのが一番いい事は明らかだ。俺は親父の顔を殴る事にだんだん抵抗感が麻痺していく自分が怖いし、皆には「俺みたいになるな」としっかり伝えておく。
親父は耳から血を流して自室に逃げ込み、中からドアを閉めたが、俺は収まらない。しがみつく母を引きずったまま親父の部屋の前まで追いかけていき、あらゆる悪態を叫びながら、ドアに向かってドンブリは投げる、温度計は投げる、花瓶は投げる・・その後5分くらい暴れまくった。
俺たちは借家住まいなんで家に傷をつけたらマズいんだが、もちろんそんな事は怒りの最中は忘れている。「キレる」って状態はそもそも「借家だから我慢」なんて理性的判断が出来ない状態を言う。
親父はたまらず隙を見て自室からも逃げ出し、「病院に行く!」と言って車で慌ててどこかに逃げていった。「病院に」というのはもちろん嘘で、日曜の夜だったから開いている病院などあるわけがないのだ。夜間救急病院に行くにしても、借金一億の我が家には、その1回の治療費を払う余裕すらない。実際には親父は、どこかで車中で一泊し、俺の怒りが収まった頃を見計らって翌日の朝7時頃にまた戻ってきた逃げる時にすら「病院に」などと体裁を繕おうとした親父にはヘドが出る。素直に「怖いから逃げる」と本心を白状する強さはないのか?その方がよっぽど「可愛げ」がある。
俺に向けて「女の・・」と言った親父がそれでは男らしいかというと、全くそんな事はない。実際親父は一晩の非難から戻ってきた後に俺と同室でメシが食えなくなった。俺が食堂に入ると、親父は自分の分のメシやオカズをお盆に載せて自室に引きこもり、1人でビクビク食うようになった。引きこもりの親として、子供から尊敬や信頼を失う最悪の対応パターンである。俺を「女の・・」呼ばわりした以上は、親父は自分の強さにたいそう自信があるんだろうから、俺から殴られようが何だろうが堂々と俺と一緒にメシを食えばいいのだ。それが出来ないというのは「俺(=親父)は弱い」という事を態度では認めたも同然だ。それはいい・・親父に限らず誰にも弱さはある。悪いのは、弱さが態度に現れていながら、口では「俺は弱くない」などと虚勢を張る事だ。言行(げんこう)は必ず一致していなければならない。