2010-01-16

間違いの証明の必要性と、正しさのフリーライダー

正しいかどうか分からないことを、正しいと信じて試して間違いだったと決まったとき、「奴らは馬鹿だったからあんなことしたんだ」という外野は手を汚さずに後出しジャンケンをしているようにしか見えない。

今間違っていると思っている人も、昔の時代にタイムスリップしたら、間違っているかどうか分からないだろうし、間違っていると思わない可能性がある。間違っていると言えるのは先人が間違ったからだ。我々はそこから学ばなければならないのであって、先人を一概に全否定すればいいという代物ではない。我々は何も知らなければ先人と同じ間違いを繰り返すことがありうるからだ。

それに、なぜ間違っているか分からないのに間違っていると言うことはおかしなことだ。それではおかしいと思う人たちが反対側に行ってしまうことを止められない。ネオナチ在特会なんか正にそんな感じだ。彼らを生みだしたのはレッテルを貼ることしか出来ていない世間に他ならない。

あげく正しいか間違っているかを証明しようとする努力を否定するに至っては訳が分からない。エスパーでもないのにやらずに間違っているか証明できるのか? 間違っていると証明してこそ、間違っているからやめろと初めて言える。


調査捕鯨の結果、ミンククジラは別に増えていないし、生態系に大勢に影響はないという結果が出た。このことについて「だから調査捕鯨なんてやるべきではなかったんだよ」という論者がいる。じゃあその論者はその結果を出すために何か努力したのか? してないなら偉そうに言うな。

調査捕鯨の問題は商業捕鯨の禁止を受け入れた結果生じたものであり、商業捕鯨の禁止の正当性を探るための、そして商業捕鯨の禁止を不当と考えていたからこその調査捕鯨だったはずだ。調査捕鯨は控えめに言っても証明のため必要なプロセスだったと言えるだろう。

これからは商業捕鯨の禁止は正当化されるだろう。ただしこれまでの調査捕鯨プロセス的に必要不可欠だったし、失敗にもかかわらず、その失敗をこそ評価しなければならないはずだ。


私は「失敗した奴らは馬鹿だったからあんなことをしたんだ」的な論者を憎んでいる。彼らは知識に対するフリーライダーであって決して偉くないし、さらに悪いことに反知性主義者だ。そういう奴が正しさにフリーライドしているからといって、評価されることがあってはならない。何もしてないくせに何だ。さらにそういう奴らが説明責任を果たさないでネオナチ在特会を生むのを見るとますますムカムカしてくる。

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