とある用事のついでに嫁の実家に行った。
ちょっと疲れたので、ビールをいただいた。
そしてケーキも出してくれた。
お義母さんは甘い物とビールじゃってんで、お茶を勧めてくれたんだけど、遠慮した。
ビール頂きますっつって。
そしたらお義母さん「んまあ、しょっぱい物だけじゃなくて、甘い物でもビール飲めるなんて。両刀使いね」
両刀使いて!
>>性犯罪の根源には性差別があり、これを解消していくことができれば自ずと性犯罪も減るであろう、と。
すごい納得した。
>>ややもすれば、「性犯罪被害者」という誰も責めることができない人々を、まるで水戸黄門の印籠のように「完全無欠の正義」として掲げ、自らの信条であるところのフェミニズムを推し進める武器としてしまってはいないか。
きたようだ
頭悪そうなギャルが出てきてがっかりした
こいつ、まぢでうぜー。
そいつは「自衛厨」か「ケモノ」なんだろ。
ナンパに付いて来たってことは「結果を期待している」ってことだから、睡眠導入剤を使うのは口説く手間を省いただけで、何の問題もないっていう思考回路。
元増田。
まあ、こういう認識のおかげで、プレゼンとかにWikipediaから引用してるような手合いに「どこの誰が書いたか分からんようなホームページを根拠にするな。原典を出せ原典を。」と言ってくれるので結果的によしとしときます。
なにかについて自分の意見の正しさを主張するとき、その根拠が正しい情報かどうか、それが根拠として十分で「だからこれが正しい」と言えるものなのかどうか、などなど、考えてしまって自信が持てない。そもそも絶対の自信なんて持ち得ないというか、持つべきではないものだとも思う。そんなに単純じゃないし何に重きを置くのかの価値観は人それぞれだし、人の知識や思考には限界があるし。だけどなんの意見も持たずにいることもできない。自分が間違ってるいるんだと思っているときでさえそんな自分を正しいと思う自分がいて、世の中には意見を求められるし。そんなわけで、私は常になにかしら意見を持ちつつ(それを主張するかどうかは別として)いやしかし間違っているかもしれないと思って暮らしている。一体どこまで考えどこで考えるのを止めればいいのか、「自分の意見」というものとどう付き合えばいいのか、そういうことについて増田に聞きたい。
例えば「自殺するのは個人の自由だ。なぜならそれは個人の身体だし、個人の人生だからだ。育ててもらった恩だとか周囲にかける迷惑だとかそんなことは関係ない。全て社会が勝手に言っていることで、自殺する人間はそういう押し付けられたものを拒んで死ぬんだ。」という意見についてどう思うだろうか。
(1)その理由でその結論を持つに足るとしたことに根拠はあるか
更なる思考が異なる結論をもたらす可能性は常にあると思う。かといって延々と考え続けるわけにはいかないので適当に切り上げるのだけど、どこで切り上げたらいい? 増田たちはどうしてるの? そこで切りあがる=途中で終わりにする、で、だから間違っているかもしれないと不安にならない?
(2)自分の意見を「正しい」と思うか、思うならなぜか、どのように「正しい」のか
自分の意見を持つことには持たざるを得ないようなところもあるので多少目を瞑ってもらうとして、その意見でもって人や物を批判するとき、批判するに足る理由というのはどういうものだろうか。どういう意識で言っているんだろう。(例えば「君の意見は僕のと違うね、僕はこう思うのだけど、どう思う?」ということなのか、「君は間違っているよ、正しいことを教えてあげるね、こうだよ」ということなのか、「あああ分からない君の言うことが全然分からないよ!僕の頭にあることを聞いてくれ言わずにはいられないんだ!」ということなのか。)
(3)中立の立場(「分からない」「なんともいえない」)でいることの意義
分からないということの自覚は大切だと思うのだけど、認めてしまったら逆に分かることがなくなる気がする。加えて、「一概には言えないよ、だって…だけど…だし…」というような状態でいると、それはいろんな事実を知る限り並べたものだからとても「正しい」のだけれど、そのまんま過ぎて意味がないように思う。なにか考えるときに(例えば自殺に関する法律の制定だとか、予防策を講じるべきか否かとか)は「意見」が必要だ、でも「分からない」、という場合どうしたらいいんだろう?
(4)別の意見、別の正しさをどう思うか
もしかしたら増田の意見は反社会的で有害で愚かで誤った情報に踊らされた結果の無意味なものかもしれないけれど、それに気づくのは難しい。自分の意見は間違っているかもしれないと意識しているだろうか、すべきだろうか、どうしたら自分の誤りに気づけるだろうか、あるいは別の正しさにシフトできるだろうか。
(4)哲学ってどうよ
考えているといつも「ああこんなこと考えるの自体なんか違うんだろうなぁ」と思うのだけど、どうなんだろう。これが哲学かどうかはともかく答えが出ないことが殆ど前提になっているようなことと、どう付き合えばいいんだろう。とんでもない間違いをしていそうで怖い。
読んでくれてありがとう。ついでにトラバもらえると嬉しいです、どうしてそう思いますか。
先日、睡眠導入罪で女性を昏睡させて乱暴した男が逮捕されたってニュースがあった。
居酒屋の店員が、容疑者がつれてくる女が毎回違っていて、しかも全員すぐに酔いつぶれてしまうことから不審に思って、容疑者のグラスを保管しておいたのだという。
けしからん事件だと思うんだが、この事件でよくわからんのは、連れてこられた女ってのはどうも容疑者がナンパした女らしい。
芸能関係のスカウトを装ったとか詐欺的な手段を使ったのかもしれんが、そうじゃないのなら、ナンパできる時点で合法的に口説き落とすまであと一歩じゃん。
なんでわざわざ犯罪犯すんだろうか。
今回の騒動で思ったこと。
性犯罪被害者は悪くない。どんな対策(=自衛)をしても防げないものは防げないのであって、自衛を勧めることはセカンドレイプにもつながるのでやめた方がいい。
まぁココは納得できる。しかし同時に、やはり犯罪に対してある程度の効果がある予防策というものも存在し、周知された方がいいのでは、という思いがある。
では被害を減らすために何が出来るのだろうか。
フェミニスト達は言う。性犯罪の根源には性差別があり、これを解消していくことができれば自ずと性犯罪も減るであろう、と。
ここで引っかかった。本当に性犯罪と性差別は深くリンクしているのか。この説を証明する有意な統計でもあるのだろうか。
ややもすれば、「性犯罪被害者」という誰も責めることができない人々を、まるで水戸黄門の印籠のように「完全無欠の正義」として掲げ、
自らの信条であるところのフェミニズムを推し進める武器としてしまってはいないか。
男女同権の考えそれ自体は現代社会にとって必要不可欠な要素であることは間違いがない。しかし、すべての性犯罪被害者が自らをこのような形で議論の場に持ち出されることに納得するだろうか。
犯罪があり、その予防策・自衛策・罰則があり、また、被害者に対するケアがあることと、男女同権という大きな思想を同列に語ることは難しいのではないかと思う。
ありゃまあ。そりゃ鬱陶しいわ。しばらくそっとしておくしかないね。
いやいや、すれみが「DQNと言われる」とは言ってないって。
文章へたでごめんね。
最後の部分はひらがなの名前について聞いてみたかったんだよ。
実際ひらがなの名前を付けてもらってる人はどう思ってるんだろうって。
別に気にしてないとか漢字がよかったとかいろいろありそうじゃん。
http://anond.hatelabo.jp/20091208180237
何のために大学行くのかってのは、時間やお金に余裕のある(どの程度が妥当だろうね、死なないは言い過ぎ?)中で
そうすれば学力の高い上澄みだけが大学生となれるし、いけなかった人たちはそいつらのことを「ガリ勉(笑)」と馬鹿に出来るし。
いけなかった人たちで、すぐ役に立つ力が欲しいというなら、
専門学校なり、資格予備校へ行けばいいんじゃないか。ただし、就ける仕事は限られるかも。
こんばんは。元増田です!
トラックバックありがとうございます。
もし残業時間に制約が無い状態で、前者を基準に就業規約定めてたら後者の立場なくなるんですよ。普通に働いて普通に家族との時間を大事にしているだけなのに不当に労働力を安く見られるんです。
ここの部分で論理が跳んでて解らなかったので、もう少し書き下してもらえると有難いです。
どうして不当に労働力を安く見られるんだろう。「残業代なくてもバリバリ働くぜ!」という人に併せて基準をつくると、その人達にお金をどんどんあげちゃって、仕事を生活の手段と割り切った人に企業が支払いを減らすのかな。
漢字で名前が付いてる場合は、それをひらがなに開いた表現にすることも
普通に出来るけど、ひらがなで付いた名前は、それに当て字することは出来ないから、
ちょっと損した気分にはなるかもなー(だからなんだよって話ですか。すみません)
エホバの証人は小児性愛の被害者が虐待者を仲間の間で訴えた場合、他に証人がいなければ不問とする。
告発されても、もし当人がそのような事実はないと言うなら、長老たちは告発した人に審理措置は何も講じられないことを説明すべきです。 そして会集は告発された人を引き続き潔白な人とみなすでしょう -ものみの塔95年11月1日 28~29頁
被害者「わたしが7歳のとき、あの兄弟がパンツに指を入れてきて、」
加害者「してません」
監督者「ということなので調査するわけにはいきません。ほかに見た人がいれば別ですが」
たとえ二人以上の人が、同じ人から虐待を受けた"覚えがある"としても、 その種の記憶は至って当てにならない性質のものであるため、 裏付けとなる他の証拠がない限り、審理上の決定を下す根拠になりません
被害者B「わたしも数年前にあの兄弟からパンツに手を突っ込まれたことがあるんです」
監督者「ということなので調査するわけにいきません。証拠があれば別ですが」
実はエホバの証人は内部の問題を外部の法廷に持ち出すのは「神の御名に疵をつけること」として禁じられている。
自分たちの信教の自由のためにはしょっちゅう争っているのだけれど、信者が信者を、特に監督者を訴えるのは原則禁止。
→被害者は警察へ。刑事訴訟で虐待者は有罪に。そして組織を排斥される被害者
ということがアメリカのNBCで放映されたドキュメンタリー・ニュース番組で特集されたが、日本のエホバの証人のほとんどはこのことを知らない。
https://www.youtube.com/watch?v=8psxo0s1MXk
ものみの塔聖書冊子協会に好意的でないニュースは背教者の手によるものなので、絶対に見てはならないと警告されているからだ。
見たり聞いたり読んだりした内容を、仲間に話したり、監督者に質問したりすると背教者として排斥される恐れがある。
1. 母親がエホバの証人である37歳の男性。エホバの証人の間での立場 奉仕の僕 開拓者
「その人はそうせずにいられなかったんじゃないかな…」
「だから責めるのはかわいそうっていうこと?」
「そう」
「…」
仲間の信者を世の法廷で訴えることは情状酌量の余地があるとはいえ、重大な悪行である。
だから彼らの多くは被害者になっても沈黙を守るし、守らなければ信者の間で反逆者として敵意を買う。
2. 28歳でエホバの証人になった43歳の女性 エホバの証人の間での立場 開拓者
「え…でも世の法廷に出したらいけないんじゃない?」
「じゃあ、私があなたのお母さんを目の前で殺したらどうする?」
「どうするって…悲しい」
「それを見たのがあなただけで他に証人がいなかったとするよね。
私が容疑を否認したら協会内部ではお咎めなしということになる」
「そうだね」
「警察へは行かないの?」
「ああ、そりゃ、殺されたら警察行くよ」
「じゃあ強姦は?」
「…え、強姦だったら…どうかなあ」
「あ…まあ、そうか」
ちなみにエホバの証人内部の性暴力が明らかになったのは皮肉なことに性暴力被害から身を守る記事を「目ざめよ!」で特集したことがきっかけだった。
記事の反響として全世界から子供時代に協会内部のレイプされたという声が寄せられたのだ。
本部はこれを隠蔽しようとして、「証人が必要」「記憶はあてにならない」「世の法廷に持ちだしてはならない」という記事を次々に出した。
結果的にはアメリカでの裁判に惨敗して空前の慰謝料を支払うことになり、ニューヨーク本部を引き払うことになったんだけどね。
http://www.jwstudy.com/ja/candace_conti_summary/
「その話、どこで知ったの?」
「インターネット?そういうの見ると霊的に影響受けるよ」
「会衆で発表がないことなら、私達が知る必要のない情報なんじゃないの?」
こうしてインターネットを介してエホバの証人やものみの塔協会関連の犯罪を知ることは背教行為として厳しく調べられる。
長老と呼ばれる監督者に呼び出され、潔白が証明されないなら「排斥」または「戒め」として文字通り一切口を利くことを禁じられる。
これを書いたことがバレたら自分も教者リスト入りすることになる。
■日本のエホバの証人が「信者が増えない国ランキング」1位になった理由 ※追記あり