たかが訳ひとつで、ここまで変わるものか。
『ティファニーで朝食を』(カポーティ)を読んだ。感動した。これってば、すごく面白い話なんじゃん。知らなかったよ。前ちょっと読んだときは、名作とか言われているけど全然おもしろくないじゃんって、途中で積読行きしてたから。
いや違う。前読んだ時もちゃんと最後まで読んでいたようだ。ようだってのは、今回読んでみて改めて気づいたから。あ、私この本のあらすじ知ってんじゃん、そう思いながら読んでいって、最後のおちまで知ってたことに気づいたのは、そのまさにおちを読んだとき。そう、すっかり記憶から抜け落ちるほどに、以前読んだ時には感動も何もなかった、面白みもなにも感じていなかったわけです。
同じ新潮文庫、同じ作者、同じ話。何が変わったって、訳が変わった。
以前読んだのは、龍口直太郎訳。今回読んで、感動したのは、村上春樹訳。
何が凄いって、訳一つでここまで変わるのか、と。文学ってのはコンテンツに依存するものだとおもってた、そりゃあ文体なり表現なりはコンテンツの一部だけれど、そもそも外国文学ってのはその微妙な表現を理解するには、原語に長けていないと無理だし、名作と呼ばれるものは訳にたがわず名作なのだと、そう思い込んでいた、今までの私よ!無知であった。訳って重要だ。何はともあれ重要だ。物語の再構築じゃん。
たとえばさ、私が共感した一文がこれ。自分のことをずうずうしい女だとおもってるでしょ?という問いに対し、そんなことないよ、と返されたときの返しの一文。
(村上春樹訳)
「ふん、思ってるわよ、みんなそうなんだから。でも別にいいんだ。そう思われてるほうがらくちんだもの」
(龍口直太郎訳)
「いいえ、そうよ。だれだってそう思うもん。でもあたし、気にしないわ。それが役に立つんだもんね」
ぜんぜん違うよ!春樹訳は圧倒的に共感しちゃうんだよ。それから、これ。
(村上春樹訳)
「人は誰しも、誰かに対して優越感を抱かなくてはならないようにできている」と彼女は言った。「でも偉そうな顔をするには、それなりの資格ってものが必要じゃないかしら」
(龍口直太郎訳)
「だれでもだれか他の人に優越感を感じないではいられないもんよ」と彼女はいった。「でもその特権を使うまえに、ちょっとした証拠をみせるもんなのね」
もうさ、春樹すげーよ。共感しまくりんぐだよ、私。龍口さんの役だと、意味はとれるけど共感とカ感動からは程遠いですよ。
訳者によってこうまで変わるか文学!と思った。なんだろう、読んだ時の私自身の状況とか環境とか、考え方の差はもちろんあるんだろう、あるんだろうけどでもね、その差を差し引いても、この感動は以前にはなかった。あんまりおもしろくない話だと思い込んでいた。それがここまで変わるかおまいさん、だよ。
あぁ、日本の編集者の皆様、名作といわれる作品を、もっともっと訳してください。きちんとした訳者で。物語を再構築できるような、適切な言葉を選べるような、そんな素晴らしい訳者をつかってください。そう強く思ったので、自分の日記に書いても誰も見ないし、ちょっとここに呟いてみた。
二人の訳が違いすぎて、原文を読まないと何とも言えん。 ただ 「だれでもだれか他の人に優越感を感じないではいられないもんよ」と彼女はいった。「でもその特権を使うまえに、ち...
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