戦争に何の関係もしてない生まれてさえなかった僕に戦争責任は存在するか?
あるわけない・・・よね
違う。
罪はあくまでも行為者のものだから。
どういう未来を選ぶかはいま生きている世代の自由であり、
その自由によって今の世代が、
(それを自覚しているか否かに関わらず)未来を作っている以上、
誤解する人がいるので繰り返し書く。
「平和の責任」があり「過去の戦争を問わない未来の平和はあり得ない」と言っている。
そういう意味では、「戦争に何の関係もない人間」は一人も存在しない。
どうしても「関係ない」「存在しない」という言葉を使いたいなら、「過去の戦争行為の結果責任とは関係ない」「罪は存在しない」という具合に、言葉を限定すべきだ。
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的でほなく個人的なものであります。
人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してほいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。
ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
《略》
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は卒直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
R.ヴァイツゼッカー「荒れ野の四〇年」1985年5月8日ドイツ連邦議会演説
戦後世代に「戦争の罪」があると言っているのではない。 「平和の責任」があり「過去の戦争を問わない未来の平和はあり得ない」と言っている。 つまりハルモニ土下座ツアーみた...