他の命の意味が圧倒的にわからない。
ミクロ的にはわからないこともない。
自分を愛してくれている人の為
子供のため
社会の為
種の保存の為
でもそれがなんだと言うんだろう?
自分はいずれ死んでしまうし、自分を愛してくれている人も死んでしまうし、子供も死んでしまうし、人類だって滅びてしまう。
要するに自分が何をやったとしても、もしくは何もやらなかったとしてもはっきりいって無意味だし無価値だ。
圧倒的な無意味の中でどうやって生きていけばいいんだ?
どうすれば、他の命が価値あるものだと思えるんだ?
僕はつねに正しくあろうとしてきた。
その正しさの根拠をどこかに求めようとしてきた。
では、社会に正しさの根拠を求めればいいのか?
いや、社会的動物なのであれば生物として存在し続けること = 種の保存に則って生きていけばいいのか?
いや、そもそも生物は化学的な反応によって、もっとたどれば物理的法則にもとづいて活動をしている。
しかし、物理法則なんてものにはなんの意味もないじゃないか。そこにあるのはルールだけだ。
いや、そもそも化学的反応だって物理法則に則ったただのルールだし、種の保存だってDNAに記述されているただのルールだ。
DNAのルールに則って活動しているヒトという生物が作り出した社会だって、そこにあるのはただのルールだ。
結局、どこにも他の命の意味なんてない。
・・・そんなことをいつも考えながら蛾を叩き潰している。
そう。あなたの言うとおりだと思うな。
「生きること」に「意味」は無いでしょう。意味は人が考えて与えるものだから、海辺の砂粒と同じようにただあるだけという生きることには意味がないと思うよ。
「生きること」に何か価値を見いだそうと思っても、永続的な価値は見つけられないでしょう。ほとんどの人は死ねないから、死ぬのが苦しいから、生きているのであって、生きることの意味は死なないこと、苦しまないこと(=楽しむこと)になっているのではないかな?
永続的なものが一切無いこの世にあって、ただ存在するあなた、私がある、ということに、
そして自我を持って考えられるということに、
ただただ驚き、そして限られた人生をどう生きるか考え、実践する、
それが意味を付けることにならないでしょうか?
そんなのわかりきったことだ。
でも無意味だからってやっぱりホイホイ死にに行くわけにもいかん事情はそれぞれあるだろうし、しょうがないから生きてるわけですよ。
いいじゃん、DNAとか化学反応が乗っかって通り過ぎていくだけのところにいるんだって、それで自分の価値が上向くことも沈むこともない。
いろんな化学反応のひとつの総体として自分の身体がここにある、意味があろうあなかろうがとにかくここに自分の身体があることだけはたぶん事実なんだから、事実をただ見ることができればそれでいいんじゃないの。
昔からいたような気がするけど。
世の中はいろいろな人がいるからどういう報道をしようと気に入らないと思う人は出てくる。こっちは意図的に嘘をつこうとしてることはない。間違えることはあるが。それを揚げ足取りして世の中の悪いことは全部マスコミのせいであるかのようなのがネットには多すぎる。会社が倒産するのだって不祥事や経営のミスが主因だろ。あとは政府の経済政策とか。にもかかわらずマスコミバッシングに熱中する連中は政治家か経営者の手先なんじゃないかと思うよ。
>僕はつねに正しくあろうとしてきた。
これと似たようなこと、自分も考えたこともある。
で、「正しくありたいのは何のため?」って考えた。
今のトコ「その方が楽に、少なくとも大きくブレずに生きられそうだから」って理由だと思ってる。
あくまで現時点での考えなので、明日には変わっちゃうかもしれないけど。
2ちゃんはスルー力が高い人ばかりでむしろさびしいが、粘着質が多いはてな村はやはり変なのが多いとは思う。絡みたがるけど変でない人がいることを期待する自分が馬鹿なんだということだろうけど。
これなんとかならないのかなと思う。
言論の自由は守らないといけないけど、ネットというものが出来てから匿名性の蓑をかぶってやりたい放題な連中が出てきた。
2chだと2chの中だけで完結してるからまだ良かったんだけど、
はてブってユビキタスなものだから、例えば俺のブログのエントリにもはてブしていく奴がよくいて、
もちろん、それは自由なことだし止めさせることは難しいのだろうけど、
一定数いつもいる馬鹿な寄生虫のような蛆虫野郎(女だったらゴメン)がいる。
増田でもそうなんだけど、いつもくだらない反論してくる人や的外れな意見をぶつけてきて言い返したらますます意地になる奴とか。
他の先進国と比べて人口当たり公務員もすくないから公務員カウントすれば日本は他より年功序列終身雇用だとも限らないだろう。それに天下りするのも早期退職で定年までいさせないためだから官僚が終身雇用といえるわけでもない。そもそも会社員が主流派になったのも高度成長期以降でその前は農家とかの自営が多数派。だから会社員がマジョリティという状況自体が40年前後の歴史しかない。
ついさっきのフジテレビの特番だかなんだかで、衝撃の瞬間を捉えたカメラマンがどうたらこうたらというシーン。
そのカメラマン当人がインタビューで「あの時は…」みたいな事を言ってたら、親父が唐突に「お前らの仕事の自慢話なんぞ面白くも何ともない」と言い捨てて書斎に引っ込んでしまった。機嫌が悪そうな雰囲気でもなかったんだが、中高年にもこういう番組は鬱陶しくなってきているんだろうか。
「英霊」なんかいるわけないだろう
空とか地面があるだけだ
人々よ単に今を生きろ
失うものは鉄鎖のみ
命を賭けるに値するものなどない
宗教はアヘンだ
人々よ日々何事もなく
終わりなき日常を生きろ
おまえ一人だけだと君は言うかもしれないが
実はそうでもないんだぜ
君も早く目を覚ましてこっちの世界に来いよ
私有財産の廃止!
同意しないなら君は人民の敵だ
生産力の増大がすべてを解決する
人民よ今こそ起て
獲得するのは全世界だ
おまえ一人だけだと君は言うかもしれないが
実はそうでもないんだぜ
君も早く目を覚ましてこっちの世界に来いよ
春の日射しが穏やかな日は、祖父がにこにこ笑っている顔が目にちらついて、私は少し辛くなる。祖父はアルツハイマー型痴呆症になり、特別養護老人ホームにいる。もう二年くらいになると思う。祖父が施設でにこにこと笑うようになってから、父も母も笑えるようになった。私も弟妹も笑えるようになった。
それまでの日々は、家族にとって、特に父と母にとって、地獄のような日々だった。
祖父は、元々厳しくて頑固なところのある人だった。成人する前に両親を亡くし、大人に混じって農家を切り盛りしていたから、気が強くなってしまったのだろう。祖母と結婚して、父の姉と、父が生まれた。その後、警備員と農家を兼業するようになった。祖父も祖母も厳しい人で、昔の農家気質だったから、母は嫁入りした当初から辛い思いをすることもあったようだ。ただ、祖父も祖母も、孫である私たちには多少甘い部分をみせていた記憶がある。
祖父が定年になる前、私がまだ小学生だった頃、祖母が亡くなった。五十代後半の死は、あまりにも早かった。母には、祖母の役目と母の役目、両方がのしかかった。今から約二十年前で、家事は女の仕事、女は男を立てるもの、という価値観はまだまだ当たり前にあった時代の話。祖母が亡くなってから、祖父の母に対する当たりがきつくなったと父は言う。また、この頃から酒量が増えた、とも。
それから一年経って、私や弟とは歳の離れた妹が生まれた。母は仕事をやめた。祖父は歳の離れた末の孫を溺愛した。しょっちゅうかまうものだから、母は機嫌を悪くして、時々父や私に愚痴を言った。
祖父と母の関係が決定的に悪化したのは、私が高校生になり、妹にある程度手がかからなくなって、母が再び働きに出るようになった後だ。祖父はとっくに定年になっていて、ずっと家にいるようになった。趣味の合う友人と連れだって遊びに出かけたことも時々はあったけれど、家にいることがほとんどで、昼間は自室に籠もっているか、畑で仕事をしているかだった。祖父には、母が五時過ぎに仕事から帰ると同時に台所の自分の席に座ってお酒を飲み始める習慣があった。母が夕食の支度をしている後ろ姿の、その後ろで二時間くらい、じっと座っているのだ。六時になる頃には私も弟妹も家にいたけれど、居間でテレビに釘付けだったから、その状態には気づけなかった。七時も過ぎて父が仕事から帰ってくると、夕食。六人で食卓を囲む。私と弟妹は思い思いにおしゃべりをする。ひとしきり話し終わった頃、祖父が口を開く。ときどき意味の分からないことを言う。話が通じないことに、私たちはイライラし始めて黙ってしまう。父が間に入って話すけれど、お酒の入っている祖父は興奮しやすく、時々興奮しすぎて母に当たった。祖父が母に当たると父も頭に血が上って、怒鳴り合いになる。しまいには祖父が「そんなに邪魔なら殺せ!包丁で刺せ!」などと叫んで、部屋に籠もってしまう。こんな日々が続いた。
今思い出すと、この頃にはまだらボケが始まっていたのかもしれない。それで執拗にいろいろと尋ねたのかもしれない。私も弟妹も、学校がお昼頃で終わった日は居間でテレビを見たり、宿題をしたりしていた。そのとき、祖父がいつも居間にあらわれて話をしようとするのをうっとおしがっていた。なにも分かってない子供なんてワガママなもので、無視して自室に籠もることもあった。食卓を囲んでいるとき、怒鳴って気分をめちゃくちゃにする祖父の理不尽さも大嫌いだった。
学校でもいろいろあるというのに、「殺せ!」と怒号の響く家は気が休まらなくて大嫌いだった。弟は、高校生になると、わざと夜遅く帰ってくるようになった。父が叱ったが聞く耳を持たなかったし、男の子だと言うこともあり、いつしか容認されていった。私にはそんな要領のよさはなかったし、妹はまだ小学生だったから、毎晩のように繰り返される怒鳴り合いをそばで聞いているしかなかった。
私が大学への進学を考えた頃、両親は地元大学を勧めたけれど、私は県外の大学に願書を出した。願書を出す直前までは、後期試験は地元を受けると言っていたくせに、結局後期試験の願書も県外の大学に出した。今思えばふざけた話だが、初めての反抗らしい反抗だった。県外の大学に進学した後は、部活、バイト等、わざと忙しくして下宿にいないようにしていた。家からの電話が憂鬱だったからだ。下宿に居ないのを両親に詮索されるのも嫌だったし、なにより、家族の誰かが別の誰かを殺したという電話がいつか入ることを本気で心配していたのだ。講義がない時期には帰省が憂鬱だった。夏も冬も理由をつけて、一週間くらいしか家に帰らなかった。家に帰るとおなじみの怒鳴り合いの日々だった。帰って一、二日は静かだが、三日目を過ぎると怒鳴り合いが始まる。家から下宿に戻った後はますます電話が怖くなった。酷いときは電話線を抜いた。
一歳下の弟も大学に進学して、家を離れた。家は、祖父と両親と妹だけになった。私たちは両親と妹を犠牲にしたのだと思う。
大学三年の夏、父から電話がかかってきた。この時は不思議と電話を取る気になった。電話の内容は中学生の妹のことだった。食事を全く取らなくなったという。父は毎晩のように妹の訴えを聞いていたけれど、最後には「頑張れ」と言うしかなく、なにもできないまま悪くなったという。妹に対しては罪悪感があった。夏休みはほとんどを家で過ごした。
家に帰ってすぐに父と話した。母にはもう無理だからと言われ、母のお薬手帳を見せられた。そこに並んでいる処方薬の名前を調べると、抗精神病薬ばかりだった。母は頻繁に被害妄想を訴えるようになっていた。最初は、家に祖父と二人でいる間、いつも祖父が後にいるから怖いという訴えだった。それがいつの間にか、家の中で誰かに監視されている、家の中に盗聴器がある、近所ぐるみで監視している、警察に狙われている、と徐々に変化していった。祖父の行動ひとつひとつが、何者かによる母への攻撃であるかのように見えていたようだ。父は祖父に、母を刺激しないように何度も言ったが、祖父はその場では返事をするものの、すぐに忘れてしまうらしく、全く変わらなかった。
その日会った妹はどこか異様だった。何を聞いても無表情で「うん……」と、けだるそうに返事をするだけ。本当に食事を取らなくなっていた。一口食べて箸を置き、体がだるいのかすぐ居間で横になる。重症だと思った。その日の晩、私が自室でうとうとしかけている頃、妹が枕を抱えて部屋に来て「一緒に寝ていい?」と言った。招き入れると、妹はしばらく黙っていたが、突然堰を切ったように話し始め、もう無理だと訴えた。妹は、いつか家の中で殺し合いが起こるといって怯えていた。母の被害妄想が始まってから、夕方の台所で母と祖父の言い争いが起こるようになった。妹はなるべく早く学校から帰り、食事の準備をしている母のそばにずっといた。妹がいる間は、母は穏やかで、祖父の機嫌もそう悪くはならないから。妹は毎日のように母の愚痴を聞いた。しかし状況は変わらず、母は夜中に突然飛び起きて、怖いと言って泣くようになっていった。妹の部屋は両親の寝室のすぐ隣だったから、母の泣く声で眠れないこともしばしばあったという。学校の人間関係は、妹にとってあまりよくない状態で、妹の気が休まる時間はどこにもなかった。妹は、父には何かしてくれるようには言えないという。父は毎晩のように祖父と戦っていたし、母をなだめるのでいっぱいいっぱいだから、これ以上無理はさせられないと。
父に遠慮している妹には悪いと思ったが、現状を父に伝えた。その上で、父にはしばらく黙っていてもらうことにした。妹の体調があまりよくないこともあり、病院に連れて行った。妹は検査で採血をされ、胃カメラを飲み、点滴を打たれて「病人みたい」と笑った。「検査に異常はないから精神的なものだと思う、食べられないのが続くようなら精神科を紹介するから様子を見て」と言われた。その日からしばらく、妹は私にべったりと甘えていた。何をするにも一緒だった。帰省してきた弟は、帰ってくると真っ先に「おい大丈夫か?」と言った。進学して家を出てから、これだけ長い間弟妹と一緒にいたのは初めてだった。三人でくだらない話ばかりした。「この家、超不幸だ」と言いながら笑った。妹は、プリンやゼリーから始めて、普通の食事も少しずつ摂るようになった。妹が笑うようになった頃、大学の講義が始まって時間切れ。私はわざと忙しくするのを止め、電話を取るようになった。
その後もしばらく膠着状態だった。祖父も母もあいかわらずの調子で、間に立つ父は本当にたいへんな思いをしただろう。
私が大学を卒業した頃、状況がますます悪い方に動きはじめた。昼間のうちに家のあちこちに水たまりができ、家族がしばしばそれを踏んづけるようになった。水たまりの犯人は祖父。時々失禁をするようになったのだ。何度注意しても改善せず、おむつを勧めても頑として受け入れない。以前は熱心に畑に出ていたのに部屋に籠もることが多くなり、同時に食事や入浴を忘れるようになった。部屋に籠もる一方で、ふらっといなくなることもあり、連絡をもらった父が慌てて迎えに行って頭を下げるのだ。時々真夜中に近所の家を訪ねることまであり、消耗した父は何度も祖父に「勘弁してくれ」と土下座したが、状況はまったく変わらなかった。祖父は自分の状況が分かっていなかったか、分かっていてもどうしようもなかったのだろう。他にも、庭先に祖父がどこからか拾ってきた妙なガラクタが増えたりもした。捨てようとすると祖父が怒るので、だんだん量が増えた。祖父は車の免許を持っていたけど、ちょうどこの頃に庭先で車をぶつけたこともあり、危ないので免許証を取り上げて車の鍵を隠した。祖父が車の鍵に執着して家じゅうを探しまわるので、母が影響されて荒れることもあった。
さすがに近所にも親戚にも隠し通せなくなり、父は、隣県に住む伯母に相談した。伯母はその何年か前にヘルパーの資格を取っており、福祉関係の仕事も長いのでしばらく預かることを父に提案した。父も母も限界だったから、一ヶ月程度ということで祖父を伯母に預けた。庭先のガラクタを片づけ、荒れ放題になっていた祖父の部屋を片づけ、少し落ち着いたところで事件が起こった。伯母に預けた後、二週間も経っていないうちの出来事だ。伯母はその日も祖父に声をかけ、パートタイムの仕事に出かけた。伯母が帰ると、祖父がなにも持たずにいなくなっていた。すぐに探しに出かけたが、祖父は見つからなかった。警察やご近所に連絡し、数日経って、祖父が警察に保護されていると連絡があった。伯母宅からはずいぶん離れていた。祖父は警察に、家に帰せと主張していたそうだ。
父はこの時、もう自宅で見るのは無理だと思ったそうだ。病院で検査を受けるように祖父に勧めたが、祖父は昔から親は子よりえらいと思っている人で、このときも言うことを聞かなかった。父は、祖父が唯一頭の上がらない祖父の友人に状況を話し、祖父を説得してもらうことにした。祖父の友人は「もうずっと前からボケておかしくなっていることが分かっていたけど、言われるまで言えなかった」と、父に頭を下げた。祖父は友人の説得でしぶしぶ承諾し、父と友人に付き添われて病院で検査を受けた。
アルツハイマー型痴呆症には、根本的な治療薬がない。当時あったのは進行を抑えるだけの薬で、祖父を「治す」ことはできなかった。介護施設を探すことを医者から提案されたが、老人病院にも介護施設にも空きがなく、どこも順番待ちの状態で、診断がついても状況は変わらなかった。祖父の友人の協力を取りつけられたおかげで、祖父を説得しなければならないときにその人から強く言ってもらうこともできるようになったのはよかったが、祖父が内容を忘れてしまうことが何度もあったため、どれくらい効果があったのかは分からない。
注意して祖父を観察するようになると、物事をしっかり認識できているときと、そうでないときがあることが分かった。普通に過ごしていても、時々どこを見ているのか分からないような様子でいることが、しばらくの間続くのだ。その直後の祖父は決まって難しい顔をした。どこか悲しそうで、戸惑っているような表情。話しているときも、前後の文脈が分からなくなっている様子があった。つい一瞬前に話した内容を忘れてしまうのだ。そして何度も直前の話を聞き返す。説明しなおして話が繋がるときもあれば、辻褄が合わないままのときもある。その時の祖父の表情は、やっぱりどこか悲しそうで、戸惑っているようだった。いわゆるまだらボケと呼ばれる症状だ。頭がしっかりしているときは、その直前まで自分が呆けていたことを分かっていたのかもしれない。
診断がついてから何ヶ月も経って、家からそれなりに近い場所に介護施設が見つかったので、祖父を入居させる手続きをした。これで一件落着のはずだった。ところが、一週間後には「無理なので引き取ってください」と連絡が入った。何度も頼んだが、手に負えないから無理だと断られた。手に負えない原因は、主に精神的な症状だ。場所や状況を認識する能力が低下しているので、そこがどこなのか、なぜそこにいるのか理解できない。家にいたはずがいつの間にか知らない場所に連れてこられたと思いこみ、何度も脱走しようとした。止めようとしても、自分は被害者だと思っているから暴れる。祖父は身体も大きく、農作業で身体を動かしていたこともあり、暴れると抑えるのは難しかった。収集癖の悪化も災いした。他の入居者の部屋に入りこみ、物を自分の場所に持ち帰るのだ。職員が返すように言っても、自分のものだと言い張って返さない。そして他の入居者とトラブルになる。こんなことが入居直後から繰り返されたので、ついには断られたのだ。
それからは施設探し。祖父の身体疾患のこともあり、施設からは精神的に安定するまでは介護施設よりは病院に入った方がいいと言われた。受け入れてくれる病院などそうそうないから、しばらくは再び悪夢の日々。次の病院が見つかるまでに数ヶ月かかった。
鍵のかかった病院に入ってから、祖父はぼうっとしていることが増えた。薬の影響もあったのだろう。週に一度、一時間かけて病院に行き、洗濯物を預かり、祖父と少し話した。最初の頃は、よく歩いていると職員に聞かされた。その後、車いすに座ってぼうっとしていることがだんだんと増え、歩くことも減った。話しかけると「よく来たなあ」と笑った。祖父から話しをすることはあまりなく、もっぱら私たちの話を聞いた。しっかり話を聞いていると思うと、急にぼうっとしてしまうこともあった。もう慣れていたから、そんなものだと思うようになった。祖父の顔は、だんだん穏やかになっていった。
入院から半年ぐらい後のことだと思うが、祖父の状態が落ち着き、特別養護老人ホームに空きが出た。すぐに祖父をそちらに移すことになった。ホームには病院と同じように鍵がついており、入居者が自由になれるエリアは鍵の内側だけだったが、病院に比べると明るく開放的で、入居者が昼間に集まっているロビーの雰囲気も、なんとなく暖かみを感じるものだった。祖父をそちらに移してからも、週に一度、洗濯物を取りに行っている。施設に全部まかせることもできたが、父がその程度の面倒は見たいと言って譲らなかった。祖父は他の入居者とは少し離れた場所、ロビーのそばにある職員詰め所の入り口に、椅子を置いて座っている。職員は「いつもあそこに座ってますよ。よく分かりませんけどお気に入りみたいです」と言う。昔、警備をしていた名残だろうか。守衛として座っている時間も長かっただろうから。祖父に声をかけると「よく来たな」と私の名前を呼んで、にこにこ笑う。私が久々に祖父を見舞ったのは、ちょうどこの時期、少し暖かくなってきた頃だ。
その後も現在まで、父は週に一度は祖父を見舞い、祖父の洗濯を愚痴もこぼさず楽しそうにやっている。母は「お母さん、ノータッチだから楽でいいわ」と、のほほんとお茶をすする。一時期の被害妄想は、ほとんどなくなり、よく笑うようになった。家に寄りつかなかった弟は、遠方で就職したくせに「家の方が落ち着く」と、長期休暇のたびにぎりぎりまで長居する。妹は地元で大学に進み、家の中ではよい意味でワガママな振る舞いをするようになった。弟妹はときどき、父について祖父のところに行く。以前とは違う意味で家の中がやかましくなった。みんな、笑えるようになった。
私は結婚して家を出た。ときどき、父と一緒に祖父のところに出かける。このごろ祖父は私のことがわからなくなった。祖父は私を、祖父の娘の名前で呼び、話しかけてくる。私はにこにこしている祖父のために、にこにこながら受け答えをする。内心はかなり複雑だが、もしそれを表に出せば、また祖父を難しい顔にさせてしまうかもしれないから。同じ時間と場所を共有していても、祖父が見ている景色と、私が見ている景色は多分違う。それを共有できることももうないかもしれないが、いつも難しい顔をしていた祖父がにこにこと笑っているのだから、これでよかったのだと思いたい。
イヤなら自分たちが、胸に手を当てて考えても、自信と誇りを持てる仕事を、自分達がすればいい。
だいたい、世間のまっとうな会社を何社も倒産に追い込んでおいて、どの口で、
と言うか。視聴者はイヤガラセで倒産・不買(不試聴)運動をしているのではない。
混ぜ物・偽物の入っている品物は買いません、見たくありませんと言ってるだけだ。
世間だってそうさ。
いくらタダといえど、クーポンマガジン(ホットペッパーなど)や求人フリーペーパー(タウンワークなど)が、
ウソ・大げさ・紛らわしい記事に満ちていては、読者も広告主も離れていく。
いくら受け手から直接お金をとっていないといえども、広告収入モデルで商売をしているならば、
年功序列、終身雇用というけれども、高校卒業、あるいは大学卒業で入社して定年まで一つの会社で働き続けた例って言われるほど多くなかったような気もする。
だいたい、だってさ、それやるためには少なくとも設立40年以上ないと無理なわけで。
何割くらいなんだろう?
少なくとも、大企業に入社して、そのまま定年までずっと同じ企業というパターンはそれほど多くないんだろうと。
男のくせに好きだよとか愛してるとか本気で言ってんの?気持ち悪い奴だなまじで
いいとこ狙ってるんだったらあんまり偉そうにアドバイスできないけど
基本的なことを書いてみます。参考になればいいなぁ。
ところによると思うけど、普通のとこなら最後の質問に過度な自己アピールは不要。
普通に気になることを聞けばいい。
入社後のイメージを明確にできるような質問をいくつか事前に考えて臨んでください。
かといって「特にありません」は100%落とされる。
たぶんそれが原因でお祈りの連続なんだと思うよ。
なぜなら、入社後のイメージも明確にしたくないような奴は
本気で入社する気がないと思われるから。
というか実際ないんだろうなあと思ったよ。増田の文章見てると。
人の目ばかり気にしていないで、多かれ少なかれ人生を左右することなんだから
もうちょい地に足をつけて考えてみて欲しい。
そしたら気になる質問が自然と出てくるはず。こっちだって会社を選ぶ立場です。
連続で落とされているにもかかわらず原因に気付いていないところを見ると
焦りすぎて空回りしているんだろうなあ。
私は、前の増田が言ってるみたいに「嫌悪感の強い奴」という風には見えなくて
単に考えすぎて用意周到になってるだけだと思ったけど、
「面接の態度とプライベートな人格を切り分けて考えることが出来ていなさ過ぎる」という指摘は
すごく正確だと思う。
正確には「見抜く」じゃなくて「見做す」なんだよね。
だったらそう見られないように行動すればいい。それが求められている。
別に学生の本当の性格になんて誰も興味を持っていないし判断材料にしない。
つうか面接の場で素の性格を出す学生なんていねーだろってことぐらい面接官も知ってる。
行動が全て。
とりあえず落ち着いて、なぜ落ちたのか、何を求められているかを
自分で考えてください。わかってみると意外と簡単なことだったりするよ。
難しく考えすぎたら負け。力が抜けたときに内定は降ってくる。
誰のどんなアドバイスも色んな文脈から降ってきていて、正解だとは言えないし
自分で考えて試行錯誤するしかないよ。というか、そうすれば大丈夫。
まだ3月だし、不安で当然だと思う。去年の私も今頃は撃沈でしたよ。
がんばれー。
ここまではいいんだけど、これで 3+16+80+401=500 にしなかったところが甘すぎると思った。
なるほど。
625=5^4なので、625の倍数は4回カウントして欲しい。
125=5^3なので、125の倍数は3回カウントして欲しい。
25=5^2なので、25の倍数は2回カウントして欲しい。
5=5^1なので、5の倍数は1回だけカウントすれば良い。
また、
625の倍数は125の倍数でもあり、25の倍数でもあり、5の倍数でもある。
125の倍数は25の倍数でもあり、5の倍数でもある。
25の倍数は5の倍数でもある。
すると、
625の倍数は2007÷625=3…132で3つ。
125の倍数は2007÷125=16…7で16つ。
25の倍数は2007÷25=80…7で80個。
5の倍数は2007÷5=401…2で401個。
の3+16+80+401=500で答えはでたんだな。
答えを考えている時には気付かなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20090301211254
これと
http://anond.hatelabo.jp/20090301211254
これをみて思ったこと
俺、なにやってるんだろう。
最初の言語はCOBOL。というか、きっとこれからもCOBOL。
まあ、わかりやすい言語だと思う。凄くわかりやすい。
でも、つぶしってきかないんだろうなと言うのが悩み。
仕事はなくならないよ、みたいな神話を語られたことがあるけれど、
そんなのわからないと思う。
やっぱりいろいろなことが出来ることって大切なんじゃなかろうか。
新しい知識を得たいけれども、社内ではきっと無理だ。
って言うかCって何って言うレベルだ自分。きっと一部を除けばそんな人ばかりで社内は構成されているのではないだろうか。
特化するっていいことばかりではないような気がする。
とかうだうだ悩むのに併せて、会社が嫌いになってしまった……。
飲み会が合わない。
ああ、死んでしまいたいなあ。
なんか疲れてきた。
あひゃ。