だからこそ「所得制限を設けろ」という声は「社会保障に使え」ということだし、「後で消費税上げるなら意味ない」というのは「給付金やらずに借金減らせ」ということのはず。
実行しても評価してくんねーじゃんよどうせするならバカが喜ぶ政策を後先考えずやった方がマシだよマシという打算で動いてるから無理だろ。
科目の本道とはズレるけど、テクニック自体は「テクニック学」にしてもいいほどおもしろいけどな。「例の方法」を読んだ時そう思った。ちょっと前、ロンブーのクイズ番組でくりぃむしちゅーが出てて、有田が「例の方法」を完璧にマスターしてバンバンクイズを当ててたのを見て、さすがだなと思ったし。
つまり殴る以外の方法で「あぁこんなことやっちゃいけないんだな」と思わせる方法を考案すればいいわけだ。方法は一つじゃないんで。
「愛の鞭」としての体罰は必要悪、という発言を見る度にそう思う。
つまりさ、
1.特定の生徒に何らかの問題がある
2.教師側はそれを是正したいと考えている
という状況のとき、解決方法はいわば無数にあるわけだ。
そのとき「暴力」によって解決しようという発想は、実際のところ全く持って合理的でない。
「俺はこんなに憤っているんだ」という感情ばかりが先行して、肝心の方法論を見失っているというか。
つまりこれって、旧来の「根性さえあれば何でもできる」という精神論的発想と、いわば根が一緒ではないかと。
そんな人たちに、僕はこの言葉を送りたい。
「えーマジ、根性論!?」「根性論が許されるのは昭和までだよねー」
高校のときの話。
何かと「社会に出てないのに偉そうな口を叩くな」と言われてたことにフラストレーションが溜まり
「何かと社会に出た、社会に出たと言ってますけどいったいどこで出たんですか?
恐らく普通なら幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と過ごしていったでしょう。
さて問題、今あなたはどこにいますか?」と皮肉たっぷりに言うと顔真っ赤にして殴られた。
せめて否定してくれよ、別の意味で悲しくなった。
直接体罰を受けたことはないけど、殴られた奴を見て「あぁこんなことはやっちゃダメだな」って思うことは多々ありましたよ。
確かに体罰は良くないことだと思うけど、「何をしても絶対に殴られない」ということがわかれば、子供は絶対にナメてかかると思いますよ。
どういう経緯でそうなったのか知らんが。
で、通帳が戻ってきたら、渡したときよりも残高が減ってたそうだ。
使い込みの理由は彼女曰く「欲しいものがあったから」とかなんとか。
まあ、これだけだと、ただ彼女に貯金を使い込まれてしまったというだけ話なんだけど、
問題がある場合は結婚後の財布の紐を自分のものにする事ができる
いい手だと思った。
よく結婚すると何も考えずに財布のひもを奥さんに渡してしまう旦那が多いけど、
なんでそんなことしちゃうのか理解できない。バカなの?死ぬの?
旦那が財布のひもを握ってると信用できなくて、
奥さんが財布のひもを握っていれば安心なんていう根拠はどこにもない。
(逆もまたしかりなんだけど。)
いちど財布のひもを握られてしまうと覆しようがないけど、
こういった経緯があると、財布の紐を取り戻すことができる。
「使い込んだことがあるから、財布の紐はおまえには任せておけん」
といって突っぱねれば、ぐうの音も出ないはずだ。
もしそれでもなんだかんだ理屈をこねたり、感情面に訴えたりして、
財布の紐を確保しようとするなら、
そもそも結婚しない方がよいんじゃね?
同じく…というか「今の大学は少なくとも20年前より遥かに入りやすい」という話を書いた増田だけど、前回は「人口だけ見ても入りやすいよ」という話を書いたが、大学入試自体も過去とは比較にならんほど易しくなってきている。
かつては一流半の大学を目指す人間ですら、「自分なりの勉強」を考え、努力していた。今は学力自体がやせ細り、昔並の試験をしたら誰も受からないという冗談のような状況。
その分「金で買ったテクニックで受験をクリアする」という発想の人間が増えた。先日も内田樹にブログで揶揄されてたけど、要領やテクニックの解説書ばかりが増え、勉強するための問題集が減ったのがその典型。頭使わず、金でテクニックを「買う」とか阿呆なことを考えてるから、頭は悪くなる上金がかかるという悪循環。
そんな状況で「金のない人間は大学に行く権利がない!」とか叫ばれても、オレにもやっぱりギャグにしか見えない。グラフだけ見る世間知らず、か。いやはや。自分にどれだけ受験以外の「世間」が見えていると思っていることやら。
読むなよ?絶対読むなよ?ってかw
サーセン全部読みました。
あなたはきっと、人の痛みに親身になってあげられる、すごく優しい人なんだろうと思った。
「ほっとけない」って誰かに真剣に思ってもらえること、
それがどれほどかけがえのない大きな支えになっているか、私達はよく知っている。
ところが、その優しさや真剣さが諸刃の剣となってしまうのが鬱病の悲しい所で。
そいつはトドメを刺してくる。善意でトドメを刺してくる。 俺の同期は入社後一年で二人が刺された。同期入社の仲間によってたかってメッタ刺しにされた。 刺されるのが嫌なら刺す奴からは逃げろ。まともな奴にだけ助けを求めろ。
そう、純度100%の善意で刺してくる。
「本人はきっと刺してる自覚は全く無いんだろうな、『力になりたい』って思うからこそこう言うんだろうな」
って伝わるからこそ、こちらも喜んで刺される。
自分の味方になってくれている人を失いたくないから。
最終的にその人からは逃げた。
きっとこうなることはお互い望んでなかったはずなのに、って思いながら。
逃げたくなかったけど、もう逃げるしかなかった。
鬱病になって、大切な人とのつながりを自らたくさん失った。
だから何なんだって言われればそれまでの話だけど、なんというか、そういう病気です。
いやまさにそういう議論をすべきなんじゃないの?
だからこそ「所得制限を設けろ」という声は「社会保障に使え」ということだし、「後で消費税上げるなら意味ない」というのは「給付金やらずに借金減らせ」ということのはず。
体罰にある種の尊さみたいなものを求めていた時代だったので、そこを逆手にとって悪いことに利用しようとする輩は必ず出てくるんだよ。
そのヨットスクールは摘発されはしたんだけど、体罰容認派の文化人や政治家たちが持論を通すために事件を利用した。センセーショナルだったからね。単なる殺人事件が教育問題にまで結び付けられて、結果一部の層では体罰は必要悪だという声も出始めた。こうなってくると同じような私塾が今後現れ、仮に摘発されたとしても「社会が護ってくれる」とタカをくくって同じ悲劇を繰り返すに違いないんだよ。
「体罰は何が何でも厳禁」ってことにするとあんたみたいな被害者も出てくるのだろうけど、「体罰は尊い」という風潮になるとより多くの死者が出てくるんだよ。どっちがマシですか、となると、まぁ普通は前者だわ。残念だけどあきらめてくれ。恨むなら、そのヨットスクールだろうな。
まったく同感。体罰によって救われた人間ばかりがクローズアップされるっていうのも変だ。体罰がトラウマになってる奴だって居るだろうよ。
後輩が年上(社会人歴は俺より長いけど社歴は短い)だから呼び捨てなんてできない
やろうと思えば際限なく仕事がある職場。しかも上がちゃんと管理してないから、適当にこなしてる奴が得をして、ちゃんとやってる奴は損をしている気がしてならない。いつも自主的に「ほかにやれることはないか」と頑張ってたが、ばからしくなってきた。上司は遊んでる、同僚は使えない、人は増えずに負担が増えるばかり。これからはもう、最低限のことだけやってさっさと帰って趣味でも楽しむよ。
必ずしも羨ましいか?
「仕様書の間違っている部分の特定」
「仕様書が間違っていることの証明」
という仕事が増えるだけ、という場合も・・・。
気分が高揚して言ってしまったことが、むむむになることはあるのだけど、言葉遊びが遊びとして一貫していなかったのがね。まあ彼が例の議論においてカウンターを入れたことは意味があったろうし。
ていうか、とりあえず黙ってたんだけど、「本人」はどこに行ったんだろう?
よく似た人はいたけど、たぶん気のせいじゃないだろうか。もう狩にでていったのかもしれないしね。疑似科学も彼の狩場なようだし。
持ってかれるのが嫌なら本の束に水をかけてふやかしとこうぜ。