2007-03-12

人間は虐げられる無力な弱者か、世界を統べる支配者か

ケールリング人間観というものがある。これはケールリング・ヨヅという分類学者の提唱した「自然や神や宇宙や猫といった強大な存在が広がり闊歩するこの世界にあって、人類は怯える弱者以外のものにはなりえない」という思想で、おおむね人類を卑下する文脈において語られる。

 人間弱者である。人間は野を這う魔獣になす術なく蹂躙され、竜によって理不尽に殺戮され、神々によっては容易に滅ぼされる。人間はこれら脅威に抵抗することなどできはしない。

 数度に渡る地獄解放事件を見るがよい。当時の我々にできたのは、同胞が異形の存在によって喰い散らかされるのを物陰に隠れてただ見守ることだけであった。今の平穏だとて、決して人間が勝ち取ったものではない。ただ竜や神が人間に興味をなくし、たまたま今その脅威の矛先を向けていないに過ぎないのだ。連中がその気になれば、人間の命運など十日やそこらで尽きるだろう。

 人間は真の力に対して無力である。己の住処でただ静かに身を潜め、次の標的とならぬよう運を天に任せ祈るのが人間に残された最も賢いやり方である。


それとは逆にヨンダライト人間観というものもあって、これは「人類はあらゆる存在の中で最も優れた存在であり、その叡智をもってすればいかなる困難を克服することができる」という思想になる。提唱者のヨンダライト・ハルアモンドはケールリングよりも後世の人間で、その文面もケールリングのそれと対比するように書かれている。

 人間こそが、この世界にあって至上の存在である。魔獣も紀竜も神々も、遂に人間によって退けられた。我々の知恵と結束と勇気をもってすれば、いかなる存在にも我々の存在を断つことはできないのだ。

 たとえば神々の時代より残された数々の遺跡について考えよう。永遠に未踏の地と言われたそれらの遺産を、いま我々人間は次々と踏破している。紀の宝玉を手にして世界の命運を握るのは、人間の中でもっとも無力であるはずのたった一人の娘に他ならない。度重なる地獄解放においても、我々はその全てを自らの力で退けてきたではないか。

人間は異形を調伏し、竜に打ち勝ち、神をも越えた。今後いかなる困難が人間を襲おうとも、我々はその貪欲な生命力をもってこれを克服し、征服することだろう。今や世界の頂点は、我々人間そのものである。


というところまで書いたけど特にオチは思いつかない。前者は悲観に過ぎるし、後者もまた楽観に過ぎる。クトゥルー邪神がうようよいるなら前者を採用してもいいし、イーガンディアスポラくらいになれば後者を採用してもいいかなとも思えるけれど。今は過渡期なのかなあ。

(クランテルトハランス)

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