2007-02-19

「公共性」と「ジャーナリズム」の欺瞞

NHK問題(asin:4480063366)の冒頭から抜粋

好きになれない人間タイプが二通りある。「公共性」を口癖のように軽々しく言葉にする手合いと、「ジャーナリズムかくあるべし」と説教する輩だ。

公共性を口にする連中が好きになれないのは、ひとつに、その定義があまりにゆるく、だらしないことがある。「最近若者には公共心が足りない」云々という言い方など、もはや言いがかりに近い。そこで「公共」の語は、若者以外の「われわれ」を指して使われているにすぎない。最近若者は気に食わないと言うべきところを、公共性という言葉を持ち出して、あたかも普遍的な議論のように語る。その狡猾さ----しかも底が浅い---が、公共性を口にする人を嫌う理由のひとつになる。

ジャーナリズムかくあるべし論にも同じような欺瞞の匂いがする。ジャーナリズムは、「不偏不党」「客観報道」を心がけ、「権力の監視」を怠ってはならない、---彼らは、そう主張する。

しかし、メディア歴史を調べることを仕事のひとつにしている筆者の立場からいうと、「かくあるべし論者」が述べるように、ジャーナリズムが中立公正で、客観的かつ科学的で、しかも市民の見方であったためしなど過去に一度もなかった。ジャーナリズムは常に偏り、常に主観的で、非合理的であった。市民の見方になったように見えた時期があったとしても、それは市民社会ジャーナリズム組織の利害がたまたま一致した偶然結果にすぎない。「お行儀よくできるのにできなかった」のではなく、はじめから「お行儀よくなどできない」ものとして生まれ育ったのがジャーナリズムだということを、その歴史は如実に物語っている。

そんなジャーナリズムに「もっとお行儀よくあれ」というのは無い物ねだりに近い。特に現役ジャーナリストジャーナリズム出身の大学教授などに、そう主張し、ジャーナリズムの現状を憂いて説教をたれる人が多いのだが、それは歴史に対する無知ご都合主義が加算された産物である。厳しい言い方になるが、彼らにとってジャーナリズムを美化するのは自分を美化するにひとしいのだ。

(略)

そうした批判が、「報道の公共性」について確かな考えをもっているわけではなく、あるいは実りのある議論を重ねてゆこうという強い意志をもっているわけでもなくただ「公共性かくあるべし」「ジャーナリストかくあるべし」と、ご都合主義的な理解をし、わかったような気になって、NHKに唾をはきかけるに等しい拙速な行為だからだろう。


google:ジャーナリズム 公共性 site:d.hatena.ne.jpをみると、はてなにもその手の輩がいるようだ。特にご都合主義な理解をし、わかった気」になっているところには注意。

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