一応素材集めてたけどジェイドおばさんを引くのはやっぱやめだ
予告番組であのなんとも言えん声と態度が好きになったから雲璃ちゃんのために天井はとっとこう
やっぱり美少女はいい、特に気の抜けた美少女からしか摂取できない栄養素は貴重だ
微課金で9割方のキャラは取ってるけど振り返ると限定知恵は景元しかとってねえ
アーカイブ見たら未所持は刃/飲月/アルジェンティ/ジェイド/ブートヒルか
自分のこと女キャラ絶対取るマンだと思ってたけどさすがにCV三石琴乃さん(56)はおばあちゃんボイスと感じるわ
でも更におばあちゃんボイスの浮生フカCV高山みなみさん(60)は引いてたんだよなあ過去作では
妖艶な鞭ペシペシSMおばあちゃん声はNGってことなんだろうか
つってもリークで雲璃が動いてる動画見てた範囲ではそこまで刺さってなかったんだよな
物理のカウンターキャラとか最推しのクラーラと被るしどうなんと思ってたが声が入ると違うな
wikipediaみたら俺が知ってるアニメで言うとSSSSグリッドマンの南夢芽か
うむ、確かににいい声いい演技だったな
っていうかゼンゼロのエレンと同じ声か毎日使ってるのに気づかんかった
この気持ちはよく理解できますが、少し違った視点で考えてみるのも良いかもしれません。
まず、夫が美味しいものを一緒に楽しみたいという気持ちは素晴らしいことです。食事は単なる栄養補給だけでなく、コミュニケーションの場でもあります。夫が「一緒に美味しいものを食べよう」という気持ちで献立を決めているのであれば、その気持ちを大切にするのも大事だと思います。
ただ、同時にあなたが感じる「贅沢すぎるかもしれない」という感覚も無視してはいけません。これまでの食事スタイルに対して少し不安を感じるのは自然なことですし、その気持ちを夫に伝えることも大切です。
「最近ステーキが続いているけど、たまには違う料理も楽しんでみない?例えば和食とか、ヘルシーな料理も取り入れてみたらどうかな。新しいメニューに挑戦するのも楽しそうだし。」
「ステーキは美味しいけど、毎日続けると健康面が心配になってきたの。バランスの取れた食事も取り入れたいな。夫の健康も気になるし、私も少しヘルシーな食事をしたいなと思って。」
「いつも美味しいものを一緒に食べてくれてありがとう。ステーキも本当に美味しいし感謝しているんだけど、少し変化をつけてみるのもいいかもしれないね。新しい料理に挑戦してみたり、たまには違うものも食べてみたいな。」
こうしたアプローチなら、夫もあなたの気持ちを理解しやすくなり、食事のバリエーションを増やすことにも賛同してくれるかもしれません。
最終的には、夫婦のコミュニケーションが大切です。お互いの意見を尊重しながら、より良い食事スタイルを見つけていけるといいですね。
ガイドラインでは、誤嚥リスクのある宿主に生じる肺炎、と定義される。
そのうち最も多くを占めるのは高齢かつ進行した認知症患者が発症する誤嚥性肺炎である。
内科救急で最も多く経験する疾患で、入院で受け持つ頻度もかなり高い。
特異なことに、最も多く接する疾患の一つでありながら、専門家が存在しない。
肺炎だから呼吸器なのかといえば、呼吸器内科医は認知症への対応は専門ではない。
精神科は認知症診療が業務範囲に含まれるが、身体疾患が不得手である。
脳神経内科医は嚥下や認知症を専門領域の一つとするが、絶対数が少なく、専門領域が細分化されている。
そんなわけで多くの場合は内科医が手分けして診療することになる。
そういうわけだから、誤嚥性肺炎に対する統一的な見解はない。ガイドラインも2013年から更新されていない。また誤嚥性肺炎に関する文献や書籍はあるし、質の良いものが出版されているが、多くは診断、治療、予防に重きを置く。価値観に深く踏み込んだものは殆どみない。患者自身が何を体験しているかを推定している文章は殆ど読んだことがない。
病状説明も僕が研修医でほかの様々な医師の説明を聞いても、肺炎です、誤嚥が原因です、抗菌薬で治療します。改善しないこともありますし、急変することもあります、といった通り一遍の説明以上のことを聞いたことは殆どなかった。
もっともよく経験する疾患でありながら、どうするべきかの具体的な方針は大学教育でも研修医教育でも提供されないのだ。
にもかかわらず、認知症患者の誤嚥性肺炎は最も多い入院かつ、その患者は入院期間が長い傾向にある。入手可能なデータだとおおよそ一か月の入院となる。死亡退院率はおよそ15-20%で、肺炎としては非常に高い。疫学については良いデータがないが、専門病院などに勤務していなければ、受け持ち患者のうち5人から10人に1人くらいは誤嚥性肺炎が関連している印象がある。
誤嚥性肺炎は、進行した認知症患者ほど起こしやすい。そして、誤嚥性肺炎を起こすことでさらに認知機能が低下する。しばしば経口摂取が難しくなる。そして自宅や施設へ退院することが難しくなり、転院を試みることになる。
典型的には進行した認知症を背景に発症するので、意思決定を本人が行うことができない。患者は施設入居者であることも多く、施設職員がまず来院する。その後家族が来院して、話をする。肺炎であるから、治療可能な疾患の前提で話が進む。進行した認知症=治療不可能な疾患があることは意識されない。
ここでは、進行した認知症、つまり意思決定能力があるとは考えられない患者、今自分がどこにいて、周りの人がだれであって、自分の状況がどうであるかを理解できないほどに進行した認知症患者、と前提する。
退院してもらうための手段、という意味では治療は洗練されてきている。口腔ケアを行い、抗菌薬を点滴する。嚥下訓練を含めたリハビリテーションを行い、食事を早期から開始し、食形態を誤嚥しづらいものに変える。点滴を早期に切り上げて、せん妄のリスクを減らす、適切な栄養療法を併用して低栄養を防ぐ…。
そういったことを組み合わせると、退院できる可能性は高まる。身体機能も食事を再開できないレベルまで低下することはあまりない。
しかしそこまでして退院した患者は、以前の身体機能・認知機能を取り戻すわけではなく、少し誤嚥性肺炎を起こしやすくなり、活動に制限がかかり、介護をより多く要するようになり、認知機能がさらに低下して退院していく。
だから人によっては一か月とか半年後に誤嚥性肺炎を再び発症する。
家族や医師は以前と似たようなものだと考えている。同じような治療が行われる。
そこに本人の意思はない。本人の体験がどうなのかを、知ることはできない。
というか、進行した認知症で、ぼくらと同じような時間の感覚があるのだろうか。
本人にとって長生きすることの体験の価値があるのか、ないのかも知ることは難しい。
というのは逃げなんじゃないか。
状況認識ができなければ、そこにあるのは時間感覚のない快・不快の感覚だけではないか。だとすればその時間を引き延ばし、多くの場合苦痛のほうが多い時間を過ごすことにどれほどの意味があるんだろうか。
なぜ苦痛のほうが多いかといえば、状況を理解できない中で食形態がとろみ食になり(これは美味とは言えない)薬を定期的に内服させられ(薬はにがい上、内服薬をへらすという配慮がとられることはめったにない)、点滴を刺され、リハビリをさせられ(見当識が障害されている場合、知らない人に体を触られ、勝手に動かされる)、褥瘡予防のための体位変換をさせられ、せん妄を起こせば身体拘束をされ、悪くすると経鼻胃管を挿入される(鼻に管を入れられるのは、快適な経験ではない)
どちらかといえば不快であるこれらの医療行為は、治療という名目で行われる。
多くの医師は疑問を抱かずに治療する。治療される側も、特にそれに異をとなえることはしない。異を唱えるだけの語彙は失われている。
仮に唱えたとしても、それはせん妄や認知症の悪化としてとらえられてしまう。
老衰の過程が長引く苦しみがあり、その大半が医療によって提供されているとは考えない。
ここで認知症というのは単なる物忘れではないことを説明しておく。それはゆっくりと進行する神経変性疾患で、当初は認知機能、つまり物忘れが問題になることが多いが、長期的には歩く能力、座る能力、食事する能力が失われ、昏睡状態となり最終的には死に至る疾患である。
多くの内科医はこの最後の段階を理解していない。肺炎で入院したときに認知機能について評価されることは稀だ。
実際には、その人の生活にどれだけの介護が必要で、どのくらいの言葉を喋るか、笑顔を見せることがあるか、そうしたことを聞けばよいだけなのだけど。
進行した認知症で入院するのがどのような体験か、考慮されることはめったにない。
訴えられるかもしれないという恐れの中で、誤嚥のリスクを減らし、肺炎を治療するべく、様々な医療行為が行われる。身体が衰弱していくプロセスが、治療によって延長される。
医療において、患者の権利は尊重されるようになってきた。僕らは癌の治療を中断することができる。良い外科医を探すべく紹介状を書いてもらうこともできる。いくつかの治療法を考慮し、最も良いであろうと考える治療を選択することもできる。
しかし患者自身が認知機能を高度に障害されてしまった場合はそうではない。医師が何を希望するかを聞いても、答えてくれることはないし、答えてくれたとしても、状況を理解できないほどに認知機能が損なわれている場合は、状況を踏まえた回答はできない。
そこで「もし患者さん本人が元気だった時に、このような状況をどうだったと考えると思いますか」と聞くこともある。(これは滅多に行われることはない。単に、どんな治療を希望しますか、と聞くだけだ。悪くすると、人工呼吸器を希望しますか、心臓マッサージを希望しますか、と聞かれるだけだ。それが何を引き起こすかは説明されずに)
しかし問題があって、認知症が進行するほどに高齢な患者家族もまた、高齢であって、状況を適切に理解できないことも多い。また、記憶力に問題があることもしばしばあって、その場合は話し合いのたびに最初から話をしなければならない。このような状況は、人生会議の条件を満たしていない。もしタイムマシンがあれば、5年前に遡れば人生会議ができたかもしれない。
親類がいればよいが、これからの世の中では親類が見つかりづらかったり、その親類も疎遠であったり、高齢であったりすることも多いだろう。
そうした中では、理解が難しい場合も、状況を理解して改善しようという熱意に乏しい場合も、(本人の姉の息子がどのように熱意を持てるだろうか)、そして何より、医師が状況を正確に理解し彼の体験を想像しながら話す場合も、めったにない。
意思決定において、話し合いは重要視されるが、その話し合いの条件が少子高齢化によって崩されつつあるのだ。
「同じ治療をしても100回に1回も成功しないであると推定されること」
この二つを満たすことが無益な治療の定義である。この概念を提唱した、ローレンス・J・シュナイダーマンと、ナンシー・S・ジェッカーは、脳が不可逆的に障害された患者を対象としている。
彼らはいかなる経験をすることもないから、治療による利益を得ることもない、だから無益な治療は倫理的に行うべきではなく、施設ごとにその基準を明示するべきだ、というのが彼らの主張である。
高度に進行した認知症患者の誤嚥性肺炎の治療は、厳密な意味での無益な治療ではない。彼らは何かを体験する能力があるし、半分以上は自宅や施設に帰るだろう。自宅や施設では何らかの体験ができる。体験を感じる能力も恐らく完全には損なわれていないだろう。
この完全ではない点が、倫理的な空白を作り出す。
そこで死に至る疾患である印象が失われた。
専門家の不在は、価値の普及を妨げた。病状説明の型がある程度固まっていれば、それがどのような形であれ、専門家集団によって修正され得ただろう。ガイドラインは不十分である。医療系ガイドラインはエビデンスのまとめと指針である。つまり誤嚥性肺炎の診断・治療・予防であり、その価値に関する判断はしばしば言及されない。ガイドラインはないにしても、診断・治療・予防に関して役立つ本はある。ただ、価値に踏み込む場合も、基本的にはできる限り治療するにはどうすればよいか、という観点である。
人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン、人生の最終段階における医療・ケアに関するガイドラインは存在するが、そもそも高度な認知症を合併した誤嚥性肺炎が、人生の最終段階と解釈されることはめったにない。だからこのガイドラインを用いた話し合いができることは少ない。また、多くの医師は、押し付けられた仕事と認識していることから、じっくりと時間をとって家族と話をすることはなかなか期待できそうにない。多忙であればなおさらである。
さらに状況が不利なのは、個々の病院のKey performance indexは、病床利用率であることだ。
認知症患者の誤嚥性肺炎は、しばしば酸素を必要とし、時に昇圧剤やモニター管理を要するなど重症であることが多く、入院期間が長くなる。そのため、看護必要度を取りやすい。多くの病院は、その地域に病院が不可欠であることを示す必要がある。不可欠であることの証明に病床利用率と、看護必要度は使用される。そのため、誤嚥性肺炎の患者を引き受けない理由はない。救急車の使用率も高く、数値上は確かに重症であるので、病院経営上は受け入れておきたい。
介護施設に入所した場合は、誤嚥性肺炎の死亡で敗訴し、2-3000万円の支払いを命じられる訴訟が複数あることもあって、搬送しないという選択肢は難しいだろう。
介護施設から搬送された患者が誤嚥性肺炎であることは多い。その一方で、こういった場合家族が十分な話し合いの時間を割けないことが多い。片手間でやっている医師も、長い時間をかけて説明したくはないので、お互いの利益が一致して肺炎治療が行われる。
一方、最近増えている訪問診療は、誤嚥性肺炎の治療を内服で行うとか、そもそも治療を行わないという選択肢を提案できる場である。そこには期待が持てる部分もある。定期的な訪問診療でそうした話がしっかりできるかといえば難しいが、可能性はある。ただ、訪問診療医になるまでに、誤嚥性肺炎に関する専門的なトレーニングを受けるわけではない点が問題になる。しかし家での看取り、という手段を持てるのは大きいだろう。
訪問診療を除けば、医療の側からこの状況を改善することは殆ど不可能なように思える。
病院の経営構造、施設の訴訟回避、医師の不勉強と説明不足、そしてEBMと患者中心の医療を上っ面で理解したが故の価値という基準の不在、めんどうごとを避けたい気持ちと多忙さ、患者自身が自己の権利や利益を主張できないこと、家族の意思決定能力の乏しさや意欲の乏しさ、こうした問題が重なりあって、解決は難しいように思える。
現在誤嚥性肺炎を入院で担当する主な職種である内科医は、糖尿病の外来診療を主たる業務とする内分泌代謝内科という例外を除いて、減少しつつある。
専門医制度が煩雑になったからというのもあるが、ぼくは少なからず認知症高齢者の誤嚥性肺炎を診療したくないから、希望者が減っているのだと思っている。確かに診療をしていると、俺は何をやっているのだろうか。この治療に何か意味があるのだろうか、と考えることがあった。同じようなことを考えている医師は少なからずいる。露悪的なツイートをしている。しかし構造上の問題点について踏み込むことはそこまでない。
僕は構造的な問題だと思っていて、だからこういう文章を書いているわけだ。
進行した認知症患者の誤嚥性肺炎とは延期可能な老衰である、という共通の認識が広がれば、状況は変化してくるかもしれない。事実、認知機能が低下していない高齢者で、延命を希望しない方は多い。その延命の意味は具体的に聞けば、かなりしっかりと教えて頂ける。
誤嚥性肺炎の診療は、所謂延命と解釈することが可能な範疇に入ると僕は考えている。
後期高齢者の医療費自己負担額一割と、高額療養費の高齢者優遇の組み合わせを廃止することや、診療報酬改定によって、誤嚥性肺炎の入院加療の色々なインセンティブを調整することで、否応なしに価値が変化するかもしれない。そういうやり方をした場合、かなりの亀裂が生まれる気もするけど。
材料:
・米 食べたい分
・ピーマン 1個
・えのき 適量 1/5くらい?
・キャベツ 適量 1/6くらい?
・玉ねぎ 1個 あるいは半分
・ツナ缶 一個
調味料:
・サラダ油
・コショウ
・醤油
・酢
作り方:
①玉ねぎを一口サイズくらいに切る。皮を剥いた段階でフライパンを強火にかけておく。
②キャベツを一口サイズに切る。フライパンが温まってれば油を入れる。
③ピーマンを一口サイズに切る。油が温まってれば玉ねぎを投入。
④えのきを縦に三等分に切る。根本はほぐれやすいように適当に刃を入れる。玉ねぎを軽く混ぜる。
⑤フライパンにチューブにんにくとチューブ生姜を投入。この際特に生姜がよく跳ねるのですぐにキャベツで蓋をする。他の切った具材も投入。
⑥ツナ缶を投入。混ぜる。
⑦コショウを投入。混ぜる。この後少し放っておいていいのでまな板と包丁を洗う。
⑧少し焦げ目が入ってくるらいが一番うまいので香ばしい匂いがしてくるまで少し混ぜては放置する。
⑨香ばしい匂いがしてきたら酢、醤油、ラー油を適量混ぜたものを投入。軽く混ぜる。
⑪うまい!!
・キャベツはその時によって小松菜になったりほうれん草になったりする。一度スーパーで見かけたタァサイという葉物を使ったらうまかった。
・ツナを豚コマか何かに変えて玉ねぎ、にんにく、生姜を入れた後に肉を入れ、その後酒と⑨の調味料を入れてから他の具材を投入して炒めたものを作ったら感動するほどうまかったが、ツナ缶のほうが楽なので2、3回ほどしか作っていない。
という飯を一年間ほぼ毎晩、誇張抜きで365日中350日ぐらいは作っては食べている。飽きはしない。むしろ下手にファミレスや牛丼屋に行くくらいならこっちのほうがうまいし安いので余程疲れている時しか外で飯を食わない。
安さとうまさと手軽さだけで作ってるから栄養面とかもっとこうしたほうがうまいとかあったら教えてほしい。
以下追記
思ったより反応があって嬉しい。いくつか返事を書く。
>おいしそう
せやねん!作ってみて!
>作ったよ!おいしかった!
嬉しい!ありがとう!
>糖尿になりそう
>玉ねぎ多くない?
せやねん。保存するよりそのまま使ったほうがうまいからそのまま使ってるけど、作りたい人はお好みで量調節してくれ。俺も本当はピーマン2個いきたいし、えのきももうちょい量があれば玉ねぎとの釣り合いがとれると思っているが、何分底辺非正規口座ボロボロリボ払い月20000円男なのでな。贅沢はできない。できないのだよ。
>卵入れたら?
なんか俺はいまいち卵のそのフライパンの端でやるやつが下手でな。卵食いたいときは卵かけご飯にしてその上にこの料理を乗せてる。でもそのやり方でやってみたいから研究してみる。
自画自賛になるが、この料理の最も素晴らしいところは自由なカスタマイズに堪えうる懐の深さだと思っている。具材を細かく切ればそれこそ餃子のタネになるだろうし、ナスとかもやしとか入れてもうまいはず。ごま油とか使ってもいいし、豚キムチのレシピを調べて掛け合わせてもうまいだろう。この中で俺がやったことがあるのはナスだけだが。
旦那さんがそうかは分からないしそうだとも言わないが発達障害は気に入ったものを一定期間食べ続ける傾向にある
ステーキ出すのが嫌だと思う理由を自己分析することを提案したい
→健康に影響は出てる?
一時のブームに過ぎないので影響がないならそのまま続けても良いと思う
例えば赤ん坊って偏食だと心配だしバランスよく食べさせたいと思う気持ちも分かる
でも別に偏食でもいいんだ。育つから。大事なのは何を食べるかではなく食事が出来るということ
→いつも家庭を回してくれてありがとう。あなたのおかげで生活できる
お金を受け取った後、内訳は共有している?今月の食費はXX万円、雑費がYY万円という具合
使いすぎていれば「なんでそんなにお金がかかってるの?」となりメニューや日数に交渉の余地が出来る
→それは世間体だ
それ以外の人の目は気にする必要ない
気になるのであればそれは外の目を言い訳に使ってるということだ
本心を見つめてみてほしい
・夫の決めた献立に私が口を挟むと「もういい、もういい」という感じでまともに取り合ってくれずに怒る
・多分、食事に関しても「あいつに美味いものを食べさせてあげよう、一緒に食べよう」という気持ちでやってくれているんだと思う
→「ステーキばかりはちょっと…」ではなく増田が食べたいものをアピールするのはどうか
「私今日は蒸し野菜のおろしポン酢が食べたい」と言えば『旦那さんが増田の望むものを食べさせる』という大義名分は出来る
(夫と一緒に)私が食べたいもので良いのだ
もしこれでも増田が″普通の″食事を望むなら修羅の道となると思った方がいい
増田が普通の家の食事を旦那に求める時、旦那の視点を増田に置き換えると「週4ステーキを求められてる」心境だ
辛くないか?それなら食べたいものを食べるようにしたいと思わないか?
(追記)
そう。なぜ元増田夫が発達障害の傾向にあるかもしれないと気付いたかというと増田は発達障害、正確には自閉症スペクトラムなのである
アスペに発言を慎むように言う増田がいるけれどアスペの私と推定定型発達であるあなたとでこの場で有用な発言をしたのはどちらか、第3者には分かってもらえると思う