はてなキーワード: WIkiとは
数年前まで香港台湾は国だと思ってた。チャイニーズタイペイという言葉は知っていた。中国だったんだね。
台湾の女性首相?トップの人、支持率も高くて中国寄りでもないと聞く。さっさと独立すればいいのに、とずっと思ってた。今もそう思うけど。なにが阻んでるのか。
ウイグルについてwikiで調べてみた。臓器売買のニュースも最近みた、都市伝説…だよね?
国連って何のためにあるんだ?
この間のASOBINOTEでもアイマス関連のほうが注目されていた気がして悔しいのでナムコは昔からダンスミュージックに親和性があるってことを酒にやられた頭で書きたい。
自分はリッジレーサーのゲーム自体は余りやってないけどサントラは全部買ってるSampling Masters信者。ゲーム自体の流行りと若干世代がずれてる。
間違っているところと言わず、当時ゲームやってた人とかに是非補足してもらいたい
そもそもナムコのダンスミュージックの源流はF/Aっていうシューティングゲーム・・・なはず。
漁れば動画出てくるけどゲーム自体はクッソ地味。それに対して音楽はこの時代でこんな尖ってたの?っていうくらい尖っているガチガチのデステクノ。
このゲームも全く世代ではない上に、家庭用も無ければゲーセンでもあまり見かけないのでプレイする機会がないのが残念なところ。
幸いなことにサントラ自体はリマスター版が出てるので興味があればぜひ手にとって欲しい。
Sampling Mastersというか細江慎治氏の曲で行くとドラゴンスピリットとかあってこっちも名曲は多いけど今回は割愛。
曲の雰囲気で行くと、このF/Aのデステクノの流れからリッジレーサーにつながっているのがよく分かる。
特に有名なこの曲
仮に自分がゲームのプロデューサーかなんかしてたとしても頭おかしくなったんか?と思うけど、やっぱり革新的なのは間違いない。
ゲームで行くと今でこそ音ゲーでガバとかハードコアとか普通に入るしやってる人からすると一般的だと思うけどリッジレーサーがでた93年とかによくゲームに載せようと思ったなと・・・
ちなみにbeatmaniaが出たのが97年(Wikipedia調べ)らしいので4年前にすでにこの流れを作ってたことになる。
他個人的に好きな曲だと
どれも好きなんだけど、Grip初めて聞いたときは天才かと思った。
この曲は佐野電磁氏が作った曲で氏が作ったWikiでも天才を自称してる。実際天才だと思う。
勝手に大久保時代と読んでる。今ではバンダイナムコ研究所の本部長という偉い人になっているらしい。beatmaniaのDJ YOSHITAKA氏といい音楽で出世した人は偉い人になる法則でもあるのだろうか?
特にR4はゲーム自体の完成度、グラフィック、演出、ストーリー、音楽どれをとっても一級品というゲーム。
PSPとかPS3稼働できる人は是非アーカイブスにあるのでやってほしい。
ここらへんの音楽はだいぶデステクノとかガバは鳴りを潜めてる感じなんだけど、ゲームや楽曲の完成度で色々ねじ伏せてるっぽのがすごい。当時の空気感が知りたい・・・
特に有名なのがラストコースで流れる以下の曲。演出含め素晴らしいのであえてゲームプレイ動画で。
だいぶ飛んでPSP版。これまでの集大成感がある。賛否両論あるニトロが入ったのもこのシリーズから。
ゲームとしても音楽としても過去のリミックスが入ったりしていて総集編な感を感じる。
その手のことはおいておいて、個人的にでかいのは、とっくにナムコを離れていた細江慎治氏、佐宗綾子氏が復活していること。
各々方がセルフリミックスしている曲があるけどいずれの曲も原曲に負けず劣らず素晴らしい。
F/Aにせよリッジレーサーにせよ数年前にクラブイベントやったりしてるあたり、ナムコサウンドは昔から親和性があったんだと感じる
このあとのシリーズもサントラだけは持ってるけど疲れたし思い入れがあるのはここらへんまでなので割愛。
今日紹介したものとかリマスター版が買えたりiTunesで結構売ってたりするのでおすすめ。レンタルショップにも結構見かける。
「リベラリズムに従えよ」の増田だが、すまん、lawfulとかchaoticっていうのは文字通りの法律とか無法とかって意味じゃなくて、TRPGでキャラクタの性格を表す「属性」のことなんや。
詳しくはアニヲタwikiやWikipediaの記事を見てくれ。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/39404.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%9E%E6%80%A7_(%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BA%26%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%82%BA)
だから、俺みたいなchaotic neutralな人間からすると、lawful goodは天敵なんや……
診断できるサイトがあるので、自分がどの属性にあてはまるかやってみるのもいいと思う。
http://elvl.blog48.fc2.com/blog-entry-97.html
https://www.misericorde.net/2019/09/alignment-test-in-japanese.html
元増田です。
あれからブコメやトラバを参考に色々考えたけど、まあ買い切り型のレトロゲーが一番マシ、それも手持ちのiPhoneで遊べるのが手軽かなと思うようになった。
それを踏まえ、まずは文句なしの名作の中から、とっつきやすそうなのということで、Bluetoothのスタンド付きコントローラーだけ買って、FFⅦをネタバレ禁止で完全初見プレイしてみようと思っていたところ。
筆者にとってはかなり久々なRPGなので、多分クリアするのに一ヶ月以上かかりそうだけど。
あとRPGだったらクロノ・トリガーが次点候補。こっちも完全初見で。
あとiPhoneで遊べるか知らないけど、みんなのリズム天国もそのうちやるかも。
プロの音楽家が「音楽的に気持ちいいタイミングを押さえている」と賞賛していたので、それなら趣味が楽器の自分でも楽しめるだろうと。
他に名作だと、スーパーマリオもよく挙がるけど、「Bダッシュジャンプってどうやんの」レベルかつ、クロノア遊んだ時点で「アクション向いてないかも」と思った人間が最初に手を出す代物ではないだろうから保留。
ブコメやトラバにあったマイクラは、やるならサバイバルモード一択だけど、ソロプレイ派で、この数年でゲームのwikiは「困ったら見る」派に転向した自分が遊んだら、ゲーム開始から数ヶ月くらいは、かなりの頻度でアイテム全ロスをやらかしそう=しんどいプレイになりそうなのが目に見えているので、これも今すぐ遊ぶ気にはなれなかったり。
主に動画配信でのレビューってさゲーム実況と同じで他人のふんどしで相撲をとっている様なもんなんだよね。
でも最近それをわかってない質の低いレビュアー気取りの投稿者が増えた気がする。特撮映画にテレビ版ロクにみないで語ってる人、なろう系だからと見下していざ動画が消されたら掌返しして被害者面して喚く人…etc
上記を解説するとまず特撮映画の件に関していえば、その映画はテレビ版からの伏線が結構ある、ある意味続編みたいなものなんだよね。だから完全初見だと分かりにくい所が結構ある、それはしょうがない。だけどさテレビ版ロクにみてませんってわざわざいう必要あったか?映画見た後にテレビ版をちゃんと見ました〜じゃダメなのか?
忙しいならWiki見ながら動画作っても良かったじゃん、大体なんとかなるし言わなきゃいいだけ、何故それをしなかったの?サムネのゆっくりの顔含めて最早燃やして下さいって自分からいってる様なモンだよ?コメント欄のやり取りからして炎上しても仕方ないよこれは
なろう系のやつに関してはもっとヤバイ。その人は昔からニコニコでレビューしててつい最近ようつべにきたんだけど、いくつかの動画を角川に消されて発狂してた。まぁなんで消されてるのかというと著作権表記書かずに一話丸々のせてネガキャンしてたから(同じ理由でもう1人動画消されている)。角川が動画消すのも分かるよ、下手したらそこらにいるゴミクソ無断転載野郎よりも影響力を持っているもの、たとえ自分でも影響力を持っている方を消すよ。あの人は多分自身が持つ影響力を知らないんだろうなと思う、だから平気でネガキャンするし、ツイッターで作者と喧嘩を始められるのだろう。某池の店長かよ。
まぁ、最近になって著作権表記し始めた見たいだが……今度は一迅社に消された(ついでにチャンネルも)みたいだね、本当の会社からのかは分からんけどね。かなりご立腹だったのか、なぜか絵師さんに凸してたけど。掌返しが酷すぎるのと謎にイキリまくってるのはさすがに草。今度集英社にも消されたらどうなるのだろうね^ ^
あの人別名義で一からやり直した方がいいよ、絶対。今のままじゃ何やっても上手くいかない。本が好きなのは分かるけど、やり方がダメすぎる。
と、こんな感じで2人くらい取り上げたけど、実際の所問題のあるレビュアー結構いる。中身はどうあれ作品があるからこそ自分達が成り立っていることを理解して欲しい、最低限の敬意と礼儀を持って欲しい
ブコメにもあったが、アレルギーってのが意味的には妥当だよなあ。
・事例が多くなってきて、危険性が周知されてきたなら、提供側が表記するほうが親切ではある。(この作品には○○を使用しています。同じ鍋で茹でています等)
・食らう側が発作を起こす。なんで出したの!ってヒステリーも起こすことが。
Wikiよりーーーー
アレルギー疾患
外部からの抗原に対し、免疫反応が起こる疾患。ただしその抗原は通常生活で曝露される量では無害であることが多く(たとえば春先の花粉そのものが毒性を持っているわけではない)、不必要に不快な結果をもたらす免疫応答が起こっているといえる。アレルギー性疾患とも言う。
ーーーー
4月以降断続的に発生している爆破予告がゆゆうたと恒心教徒ゆゆうた攻撃派との「宗教戦争」の余波であることが分かったのでメモ。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%86%E3%82%86%E3%81%86%E3%81%9F
https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%86%E3%82%86%E3%81%86%E3%81%9F
2015年頃からニコニコ動画の例のアレ(淫夢などの日本独自のインターネット文化の総称)カテゴリでの活動を始めた動画投稿者。
この弁護士が誹謗中傷されるようになった原因・経緯については今回の件とあまり関係ないので割愛する。
ゆゆうたの最大のヒット作が『弾き語り「一般男性脱糞シリーズ」』である。
これは恒心教徒が弁護士を揶揄するために作成した「一般男性脱糞シリーズ」という作品をゆゆうたが弾き語ったものだ。
この動画も公開当初は「注目度・知名度こそ高いが、恒心関係は脱糞だけの一発屋で記事も書きにくい(のでWikiに個別記事を建てない)」として教徒も特に気にとめていなかったが、
2020年1月に吹奏楽団関東サウンドプロジェクトと一般男性脱糞シリーズを400人で演奏したことで教徒はこれを文化の盗用として反発。
特にゆゆうたは恒心ネタを冒用しているだけで布教に全く貢献しない上、自己の利益を求める恒心営業によりタレント化を押し進める臭芋であるからポアしなければならない。
として攻撃を開始することになる。その一連の攻撃の一つがゆゆうたの本名を名乗って行った爆破予告である。
379 名前:一般ノルウェー市民:2020/06/13(土) 08:13:24.81 ID:aVKQqpPY0
攻撃をやめないだの攻撃するぞだのなんでゆゆスレ民はwikiのトップにそういう宣言文載せたがるの?
新規記事のSEOなんてDMCA適用ですぐ弱体化させられるオチだというのに
もうドメイン自体がカルマ引き継いで直接通報してる人物項目以外でもほぼ出てこなくなったんだっけな
ニンジャスレイヤーというコンテンツがある。通称忍殺。ネットやってる奴なら名前くらいは聞いたことがあると思う。詳しく説明する気はないので気になったら検索するなりしてほしい。
以前の自分はかなり重篤なヘッズであったと思う。ヘッズというのはこの作品のファンの自称だ。物理書籍が出始める前後から何となくツイッターで読み始め、物理書籍で世界観を把握した後はずるずるとハマってい行った。仕事の時間帯の関係でツイッターでの実況には参加できなかったが、専用アプリやまとめに頼って読んだ。wikiも読んだ。
1部。ヘンテコな世界観に笑い、レイジアゲンストトーフで掴まれ、モブ市民の生き死ににハラハラし、ラオモトに勝ったときは震えた。
2部。1部とは違うディストピアが描かれる。格差社会。新キャラもそれぞれ魅力があり、引き込まれた。シャドウウィーヴが好きだった。
3部。また違うディストピア。今度は管理社会だ。ディストピアSFが好きなのでたまらなかった。ニチョームウォー、ロンゲストデイ、アガメムノンとの決着。市民やニンジャの行動がうねりとなってアマクダリを打ち倒す。たまらなかった。
アニメも漫画もそれぞれにクールだった。アニメについては色々言われているし納得できる意見もあるが嫌いではなかった。
そしてプラットフォームがnoteに移り、4部が始まった。新しいニンジャスレイヤー。滅茶苦茶になった世界で強かに生きる人や機械やニンジャやヤクザ。最初の頃は楽しかった。noteのマガジンにも勿論登録し、次々に更新される記事を貪るように読んだ。
だが途中から、今になって思うとフジキドが再登場した頃から、ノれない自分に気が付き始めていた。ニンジャスレイヤーでなくなったフジキドは、ニンジャの圧政に苦しめられながら自分を助けてくれた子供に報いることなく自分の国に帰ってしまう。あれ?という感じだった。
ストーリーがつまらなくなったわけではないと思う。変わったのはコンセプトだ。4部は一つの話が大河的に長くなっており、長い話の中では必然的にマスラダら主人公の物語が描かれる。一方、noteの短編で主役を張るのは過去に登場した(あるいは情報だけが既出の)人気キャラ。悪くはない。面白い。
だが、「ディストピアでモブ市民が振り回され、奮闘し、報われたり報われなかったりしてオチが付く」という形式の短編を好んで忍殺を読んでいた自分にとっては食い足りない。3部までは革命と闘争の話としても楽しんでいたのだけれど、4部になるとマスラダもフジキドも支配体制や社会構造をひっくり返そうとしてくれない。そうなのか、という感じだった。本編の長さも、一エピソードが終わるとまとめて読むというスタイルで読んでいた自分としては、まとめ読みのタイミングが掴めない。
更新された記事を溜めることが多くなり、有料マガジンの購読は止めてしまった。ツイッター連載では明智光秀が大変なことになっているようだが追う気力が湧かない。特にオチはない。
どこのページ見ても長々とした擁護と主観に溢れてて見るだけで疲れる。
なぜドルフロwikiの様に簡潔に分かりやすい指針とデータを示してくれないのか……。
多分だが、アズレンに中級者が育たないのもここら辺に起因してる気がする。入るだけなら楽だし、ガチャも排出率が良いからイベントなんかあったらすぐに揃う。そうやってガチャで新規艦船出して「おりゅ?」するだけなら凄い楽しい。
が、そんなのはどうせ飽きる。
そっから次の段階に行こうとするとすぐ詰まる。
wikiが役に立たないからだ。一ページ一ページがオタク特有の早口で書かれてるような長文だらけだし、内容にしてもいまいち結論がはっきりしない。
アズレンユーザーは公式の分かりにくい説明文を難なく理解できるユーザーばかりなので、分かりやすく説明するなんてことは頭に浮かばないんだろうか。
他には艦船の数が多すぎて客観的データを取るのが大変で誰もやってないとか
装備も無駄に多い。ドルフロなんか一スロットに使える装備なんかほぼ一つで選択肢ほぼ無いに等しい状況だからな……
データが多すぎてまとめられないなら初心者向けに簡略化した汎用的な強さ順のページ作っておくべきでは。当然初心者に入手しやすい装備、艦船のみ対象でな
観たら絶対に自分は怒るだろうなと分かっている映画がある。原作の小説がとても好きで、映画化の際に「そこは変えちゃ駄目だろ」と思うような根底の部分にドひどい改変をされた映画だ。予告CM開始3秒でそれが分かったので公開当時は絶対観ないと決めていたし、観るような気分になる日が来るとは思ってもみなかった。
しかし最近、「公式との解釈違い」のような文言を用いて苦しむ人々をよくSNS上で目にするようになってその映画の存在を思い出し、いい機会だから観てみようかなと思った。何かコンテンツとの付き合い方における知見を得られるかもしれないし。原作版を大事に思いつつも、派生版も楽しんで愛せるような人間になれるならなりたいし……。
観た後では感情が大きく動いて今の気持ちを100%は思い出せないだろうから、観る前に今抱いている改変ポイントについての思いを書きとめておく。
(ひとつその映画について鑑賞前から確実に言える腹立たしい点は、原作者が亡くなった途端にその映画が作られ、「映像化は不可能と言われていた名作が遂に!」みたいな売り文句付きで世に出された事だ。映像化を何度も断ってきていた作者だから余計に……今までは作者が止めていた設定企画を、もう止める者がいない+追悼とか言える勢いから好き勝手にやっただけではないのかと思う。せめて存命中の公開なら「作者はこの映画化を了承したんだな」と思えたし、そうしたらきっと作者は何かしらのコメントを映画へ寄せるだろうから、それを見られればもうそれで良かった。原作レイプ(こんな言葉があったのを久々に思い出した)を通り越して屍姦みたいだ。大切な人の墓に立小便をされた気分だ。)
映画のタイトルは『悪童日記』と言う。原作の小説も同題だ(海外文学の中では普通によく知られてる方だと思うので、勿体ぶった言い方をしてしまって少し恥ずかしい)。
十年以上前、私は好きな作家がたまたま雑誌でこの本に言及するのを読んで、高校の夏休み中に手にとったそれに首ったけになり、ひと夏の間何度も何度も繰り返し読んで過ごした。だからこんな、映画を観るのに支障をきたすほどに思い入れが強くなってしまったんだと思う。
しかしそもそも映画化されたものをこき下ろしたい訳ではなく、映画を映画として楽しめる作品にするためには原作からの多少の改変もやむを得ないというのは充分承知の上だ。だからこの作品についての改変もなんとか納得したいという思いから、今自分は何に納得いっていないかを整理して考えたく、文章に起こしている。
(このカッコ内は余談なのでとばしてくれて構わないが個人的に、映画化された作品は映画→原作の順でふれた方が大抵の場合はどちらも楽しめるように感じる。原作→映画の順だとカットされた箇所や改変部分が気になってしまって映画を100%楽しめない事もままある。例えば私は『ジュラシック・パーク』に映画から先に入ったおかげでスピルバーグのあの映画をメチャクチャ最高不朽の名作だと思っているが、もしも原作の小説を先に読んでいてファンだったら、そこまで手放しで褒められたかは分からない。映画と原作では構成も人物もかなり別物だからだ。原作ではティムとレックスはティムの方がしっかり者の兄でレックスは足ばかり引っ張る幼い妹だし、Tレックスは二頭いて小さい方がかなりチャーミングだし、グラント博士は最初から子供に優しいし、ハモンドさんはかなり嫌な感じの爺さんでコンピーに集られて無残に死ぬのだ。)
改変箇所について書いていきたい。
映画の予告から分かる改変箇所は主に「父親の存在」「日記帳というアイテムの出自」だ。私はこれがこの物語においてかなり重要パーツだと思っているので、予告CM開始3秒で見られる改変にガタガタ白目をむき憤死する羽目になった。
原作の小説は主人公(双子の少年)の一人称「ぼくら」で書かれた日記の形式をとっている。彼らが母親に連れられて小さい町の祖母の家に疎開してくる所から話は始まる。詳しいあらすじが知りたい人は原作のwiki(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E7%AB%A5%E6%97%A5%E8%A8%98)でも見てくれ。ラストまでネタバレされてるから気をつけて。別にあらすじを知らなくてもこの文章を読むのに支障はないと思う。そういうふうに書けていることを願う。
父親云々の話に戻ろう。
主人公の家族について、母親は冒頭から登場するし、すぐに主人公たちを置いて行ってしまうがその後、他の男の赤ん坊を連れて二人の前に現れ、どうこうなるくだりがある。二人が母親に対して色々思いを抱いていることが分かるような描写もある。
描写があるという事は、書き手である主人公の双子がそれを必要だと判断したという事だ。詳しくは後述するがこの日記はそういうルールの元で書かれている。主人公が無関心もしくは不必要だと判じたものは書かれず、必要なものだけが書かれる。例えば作中の時代設定は戦争中なのだがそれが一体いつの戦争なのか、年号や国名、地名や人名などの固有名詞はほとんど出てこない。<大きな町><小さな町><解放者たち>などの言葉でしか分からない。関わる人々も名前はなく、ほとんど代名詞や役職やあだ名などでしか呼ばれない。双子自身の名前も出てこない。彼らは大抵はあんた達、時に祖母からは雌犬の子などと呼ばれる。
「父親の不在・不干渉」が、この小説(というか作者であるアゴタ・クリストフの作品はわりとどれも)に通底するテーマのひとつだと私は思っている。そして出てこないということはそれは「書かない」という姿勢で主人公たちの無関心を示しているのだから、映画にも変にひっぱり出してほしくなかったのだ私は。しかも作品の根幹である日記に関する部分で。一原作ファンの気持ちを言わせてもらうならば。
以下は物語終盤のネタバレとなるので、知りたくない人は読まない方がいい。
原作の終盤、国境付近にある双子(主人公)の家に、国境を越え亡命したいという一人の男が訪れる。双子はその男が自分たちの父親だと気がつくが、父親は二人が自分の息子だとは気付かないまま、亡命の協力を頼みこむ。双子はそれを承諾する。国境までの間には地雷があちこちに埋まっているし、軍の見張りもある。双子は彼に地雷が埋まっていない道筋や、見張りの目の外れる時間帯などを教える。
亡命決行の日、父親は国境へたどり着く前に見事地雷を踏み抜いて死ぬ。すぐにその足跡の上を双子の片割れが辿り、その死骸も踏みつけて国境を越え、亡命を果たす。地雷は国境と平行して並べられている。一度爆発した地雷と国境を結ぶ線上にはもう地雷は無いので、先に一人立てるのが最も安全な亡命のやり方だ。
原作の小説ではこの場面がラストだ。一人は父親の死骸を踏み越え国境の向こう側へ渡り、一人は残ってそれを日記に記録する。父親殺しと、それまで一心同体のようだった双子の別離が同時に強く印象づけられて終わる。
それなのに映画ではどうして、別れる息子達に日記帳を与えるような父親像に変え、それを受けて日記を書く子供たちに設定したんだ? 原作では双子は自分たちの稼いだ金と自分たちの意志で紙と鉛筆を買い、自分たちの定めたルールの元で事実だけを、ただ必要と思われた事だけを淡々と記録し続ける。彼らは感傷や感情は不必要とし、そういったウェットなものが取り払われ切り詰められた文体はこの作品の特長の一つだ。彼らの考えのもと自発的に書かれていくその日記こそが『悪童日記』という作品となっているのだから、日記帳というアイテムとその経緯は何というかかなり……成り立ちの部分ではないのか? この作品の根幹において、重要な位置を占めるはずだ。
それが映画ではいきなり、別れる父親からの最後のプレゼントという陳腐でウェットなしろものとなる。双子は父の言いつけを守り日記を書き出す。制作側はそこに何の違いもないだろうと思ったのかもしれないが、違うのだ! と言わせてもらいたい。強く。
日記帳は、それにものを書き続けるということは、戦時下に父とも母とも別離し粗暴で抑圧的な祖母宅に身を寄せねばならなくなった主人公の双子が、初めて自分たちで選び獲得した、何かそれこそ父親や教師代わり(彼らは学校にも行かない)のような、「この世界で生き抜く上で己の力になり、時に導いてくれる(と彼らが信じ掴んだ)モノ」だ。繰り返しになるがそれを「彼ら自身が」、彼らの面している世界であるところの小さな町で、そこの文具店で「身銭を切って」獲得した点が肝心なのだ。この話は平たく言えば庇護されない子供たちが、彼らの対峙する厳しい世界の中で、自身の力で何とかやっていこうとする物語だからだ。
「父親から与えられた道具」では過ぎ去りし想い出のよすがであるばかりか(感傷は双子がつとめて日記から排除してきたものの一つだ)、それが上の者から与えられたという性質上、彼らにとってただの環境の一つに過ぎない。それでは全く意味が違ってしまう。そうでは無いのだ。彼らは道具がたまたま得られたから書くのでは無く、もちろん父親に言われたから書くのでも無い。書くことは彼らが生きるために必要で、だから彼らは道具を求め、書いた。「書くこと」自体彼らの周りには教えてくれる者がおらず、二人は一冊の聖書を使って独学で読み書きを学んでいった。
「彼らが巻き込まれるしかなかった環境に逆らって、初めて自分で望み獲得したモノ」であったはずなのだ、この日記帳は。「書く」という行為は。そういう意味合いがあったのだ、原作の中では……。
そしてこれは作者の生い立ちや創作の源泉とも重なることが多いので(この作品を含めた彼女の作品群は半ば私小説と呼べるものが多い)、私は映画でこんな改変をされた事について作者の気持ちを思うと、勝手にやり切れないものを感じてしまう。作者はもう亡くなっており、死者が尊重されないのは彼女の作風からするとむしろ合っている事なのかもしれないが……。
とりまとめて言えばまだ子供な上にただでさえ不自由が多い戦火の中、それが主人公たちにとっての武器であり糧であり強く生き抜くためのモノだった日記帳が、映画ではまるで父親から受け取った愛みたいなものに、ともすれば別れた父親を想って書かれているようにも受け取られるものにすり替えられてしまった。かなりアイデンティティぶっ潰れではないか? どうしてそんなことをしたんだ? この日記は彼らの「書く」という意志のもとの話でしかないのにその根本を摘み取り別な物に置き換えたのは何故? 映画を観れば何か納得できる答えは得られるだろうか。頼む、納得させてくれ! 煽りではなく心からそう思っている。
観たら本当にメチャクチャ怒り狂ってしまうかもしれないので心の準備をするためにいくつか映画レビューを読んだのだが、映画では日記帳にパラパラ漫画が描き込まれている描写があるという。パ……パラパラ漫画!? と二度目の憤死をした。あの全ての無駄を省き贅肉を削ぎ落としたような原作の文体、淡々と事実の記録しかしない所に物語的にも大きな意味が込められている事を知っているはずの制作側はどうしてそんな付け足しを? 主人公(ひいては作者)が定め、遵守してきたルールを踏みにじるような真似を……どうして……。
もちろん、映画化された事によって現代日本の読者からは想像もつかないような、主人公たちが生きた当時の暮らしの風土や感覚などを凄いリアリティで感じられる事などについては大変嬉しく思う。そういった映像表現についてはきっと素晴らしい映画であるだろうと感じられるのだ、予告からだけでも。
主人公の双子を演じる少年たちのビジュアルも、原作から受ける印象そのままと言っていい。もうそれだけでも十分以上のものだし、納得出来ない点があっても他に目を向けて感謝して観れば良いのだ……と思えるようになるまでに何年もかかってしまった。映画が公開されたのは2013年のことだ。
私は本当にこの映画を観て納得したいし、納得出来なくてもそれはそれで良かったと思えるようになりたいと本気で願っているが、どこまでまっさらな気持ちでこの映画を受け止められるかが分からない。願わくばこの物語に関する記憶を消して映画を観られたら、その後で初めて原作を読めるのなら、とても幸せなことだと思う……。でも、それは無理な話だ。
だから私はこれから記憶も思い入れも抱えたまま歯を食いしばってでも全部観て、自力で噛み砕いて納得するしかない。きっとそれはこの先の自分にとって有意義なことなんだろうが、こんな文章をジタバタ書いて整理しないと腹がキマらない位には苦しいものがあった。長くなってしまったが、読んでくれた方は本当にありがとう。
せめて映画ではラスト、父親はちゃんと地雷で惨たらしく死んで、主人公はその死骸を踏んづけてくれるんだろうなあ!? などとうるさく言いながら観ることにする。そういう観方でもしなかったら多分無理だ。その後言える感想があったら追記する。怒り狂っていたらすまない。
☆いきなり管を巻きまくってしまったが、小説『悪童日記』はマジの名作の上にアッと言う間に読めるので、気が向いたら是非読んでみてほしい。もし面白かったなら続き(『ふたりの証拠』、『第三の嘘』)もある。全三部作で、全て読むと分かる構成が本当に、本当に素晴らしいんだ。
(差分 | 履歴) . . MTG Wiki:井戸端; 13:22 . . (+733) . . (トーク | 投稿記録) (→ユーザー:T のアカウント凍結提案: )
(差分 | 履歴) . . MTG Wiki:井戸端; 11:51 . . (+4,229) . . A (トーク | 投稿記録)
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管理者ブロックを食らった時点で、少なくとも管理者から見た自分はTより分が悪いことを理解できないか?