はてなキーワード: WIkiとは
これへのブクマでTwitterより5chの方がマシと言ってる連中は本当に今の5chのこと知ってるのかな?
ワッチョイによる強制IP表示が行われて完全な半匿名となってる今の5chの現状を。
Q.半匿名になってアフィまとめによる介入は減ったのか?
A.増えている。悪化している。最悪へと近づいている。
前提として知るべきなのは、アフィまとめってのはヤクザ組織とかがバックにいて、あいつらは大量の捨てIPを用意できるってこと。
それらを駆使して自分たちに都合の悪いワッチョイIP、つまりはアフィと戦おうとしている人達を道連れにしていく。
自力で検証したデータが一瞬でアフィWIKIに奪われて起源を主張されたり、アフィにとって都合が悪いように改竄された上で自分のせいにされるうちに、まともな検証班は5chを去った。
今の5chって、アフィによって作られる見せかけの世論と、それに踊らされる愚民で構成されてる。
昔からインターネットってのは一皮むけばそういう側面が合ったのは事実だけど、その濃度が来る所まで来てる。
泥水で遊ぶことが出来る魚も、猛毒のヘドロの中では生きていけない。
暮らしてるのはそこが毒まみれという事を知らない無知な連中か、そこに適応できるように改造された品種だけ。
今の5chは完全に壊れてるよ。
もう無理だよ。
民度ってのは実名>半匿名>匿名の順で高くなっていると思われていたけど、実際は違う。
匿名は誰だって思い立った日に荒らし放題ではあるけど、半匿名は明確な意思と準備をした奴が荒らし放題になる。
これが本当に最悪で、半匿名で荒らしが行われだすともう完全にコミュニティが崩壊してしまう。
しかも、方向性のある疑心暗鬼は方向性のない疑心暗鬼よりも過激化しやすく揮発時間も長というのが最悪に拍車をかける。
半匿名ならば匿名よりは民度が高いっていう錯覚は世の中を完全におかしくしてる。
半匿名こそが最も民度が下がるということを皆が共有しないとどうしようもない。
そして、すでに5chはソレをやった所で復活はできない。
ヤクザってのは鳩やゴキブリのようなもので、住み着かれるのを防いでても潜り込んでくるけど、そこで戦うことを諦めると完全にその家を乗っ取ってしまうから戦わなきゃいけない相手なんだ。
5chはそのタイミングを完全に間違えて、今はもう完全にアフィで稼ぐヤクザ連中の餌場として認識されてしまった。
骨が燃え尽きた後の灰までしゃぶろうと奴らが認識してしまった以上、もうアソコは復活することはないよ。
Twitterはね、なんだかんだいってまだ戦おうとしている方だと思うよ。
5chと比べればね
そのコミュニティやそのサイトの「利用規約」や「ローカルルール」をしっかり見て、掲示板や交流のあるwikiならどういう事をしたら管理者に怒られたりアク禁食らうかを確認し
その上で、そのルールに違反しないラインで他人を罵倒し荒らしを行う
それが一番楽しい
一見は罵倒に見えない皮肉で相手をイラつかせたり、余計な一言を一言と言わず五言ぐらい付け加えたり
ゲーム系のページならファンが多いが弱いキャラ、職、武器とか特有の愛のある説明を、思いっきり辛口(と言う名の「こいつ雑魚だから使わないほうがいいよ」という否定)に書き換えたりとかね
俺は荒らしをしているが、マナーとルールの範囲内だから荒らしにならないのだ
あー、楽しい
カラーリングで、開発環境でコードが見やすくなる。マークアップ言語には、markdown, html, wikiなどがあげられると思う。
また、xml, jsonなどのデータもマークアップ言語と言ってよいだろう。
(pythonを使えば否が応でもスペース4つを空けることになるだろう。(あるいはtab一つ分))
まずは、ブラインドタッチでマークアップ言語を書き、一文字でも違うとコンピューターは、こちらの意図通りには動いてくれないという悲しみにひたらないかぎり、
全角スペース、半角スペースを目grep出来るようにならないと、プログミングは上達しないことをここに宣言したい☆
あるジャンルに20年以上もの間、没頭していた。青春を捧げたと断言できる。
どのジャンルか詳細はボカすが、90年代末のポケモンブーム真っただ中に登場した、漫画・ゲーム・アニメのメディアミックス作品だ。
比較的マイナーだが作品名を聞けば、30歳前後なら誰もが口にすることだろう。「あー懐かしい」「そんなのあったね」「まだやってたんだ」と。
まさにそのような、最新の情報を調べようともせず、調べても「昔の方がよかった」などと抜かし、そのくせ恥ずかしげもなくファンを自称しては雑語りをするような連中を啓蒙する活動を何年も続けてきた。
確かに一度「死んだ」ジャンルではあることに違いないのだが、10年も前にゲームの新作を出して復活して以来何作も続編を出し、web漫画も連載中で、新しいグッズもたくさん発売されている。
今ではれっきとした、「生きた」ジャンルなのだ。出戻りや懐古厨どもに好き勝手言われる筋合いなど微塵もないのだ。
健やかなる時も病める時も、自分はジャンルに人一倍貢献してきた自負がある。
復活前の空白期間からwikiを運営していたし、希少な資料から情報を得るために国会図書館にも足を運んだ。
イベントには公式・非公式問わず顔を出した。ジャンル最大級の合同誌に寄稿したこともある。
ゲームが出れば毎回現物を複数とDL版も購入したし、ブログやツイッターで考察だってした。
そして暇さえあれば作品名で検索し、雑語りを見つけてはツイッターのフォロワーたちと一緒にRTした。
東に懐かしいと言うニワカあれば 行って 現行作品を認知しろと言ってやり
西に昔の方がいいと言う懐古厨あれば 行って 思い出補正だろと言ってやり
南に低迷期の不人気作品disあれば 行って お前の感性は浅薄だと言ってやり
そうしてあらゆる方面から、20年以上という気の遠くなるような歳月を、ジャンルを支えることに費やしてきたのだ。
アニメが終わったとか主人公が変わったとか雑誌連載が終わったとか、そんなくだらない理由で脱落したお前らに代わって、ずっとずっと。
そんなジャンルを、なぜ離れたのか。早い話が、疲れてしまったのだ。
自分やフォロワーたちがどれだけ半可通を見つけ出して正しい知識を啓蒙しようとも、思い出に憑りつかれて過去を美化し続けるゾンビのようなオタクたちが毎日毎日無数に湧いてくる。
更には自らの無知や不見識、無礼を棚に上げて我々をブロックする者やレスバを仕掛ける者、過激派のレッテル張りをする者など、反感を隠そうともしない者も少なからず現れた。
自分が、否、我々がこれだけ作品への認知や売り上げに貢献してきたにもかかわらず、こともあろうに今年始まったスマホアプリで懐古厨に媚びた。
ボイスに、戦闘システムに、デザインに……随所に「みなさんご存じのあの頃」の要素をちりばめたのだ。
システムやキャラやシナリオが気に食わないとか、バグが多いとか、展開がへたくそだとか、そういった点はいくらでも庇ってきた。
せっかくシリーズ再始動に伴って一新した部分もあったのに、間違いなくそれを支持していた人もいたはずなのに、ノスタルジーのためだけにそれらを否定して退行する姿勢にうんざりしてしまった。
そうして公式から錦の御旗を下賜された懐古厨どもは出戻りと合流して急速に勢力を増し、ギルドの様相を呈している。
いかに我々が精鋭といえど、もはや手に負えないほどの規模に膨れ上がった。
ブログは放棄した。ツイッターもジャンル者の99%をブロックした。
必死に守り抜いた結果がこれでは殉教者か、はたまた道化か。どちらにせよ自分の戦いは終わった。
今後は他ジャンルでひっそりとやっていく。もしどこかで見かけても、そっとしておいてほしい。
だってあれ、wiki読むか、知っている誰かに訊かないと進められないゲームっぽいじゃん。
でも知っている誰かなんて中々いないので、大抵の人はwikiを頼ると。
あんなの読み始めた日には、ゲーム遊んでいるのか調べ物しているのかわからない状態になりそう。
wikiを読むとか、虚無以外の何物でもない時間を使わせるゲームなんて、その時点でダメダメだと思うんだけど。
「誰かと協力することを学ぶ」とかあって、くっさーって感じ。
バカバカしい。
なんでゲームごときで、そんな小難しいことを勉強させられなきゃいけねーの?
ゲームなんて楽しくてナンボであって、とりあえず暇つぶしの脳死プレイでも面白いのが最低条件なのに、その真逆を行ってどうすんだ。
マジウケるんだけど。
同人から商業化した等のwikiに書いてあるような基本の事実は知ってる。その基本的な事実達が、あまりにトントン拍子すぎて驚く。
同人時代は月姫を中心に頒布、体験版の時点で3桁の枚数を捌いたらしい。初めて出したもので、しかも一次創作で、そんなに多くの人が求めるの?数字を疑ってる訳ではなく、単純に不思議。元々ネット界隈で有名だったのかな。もう20年近く前の事だから、調べても当時の反応が埋もれて出てこない。
それから商業のStay night。自分は結構最近になって読破した。時代を感じる部分はあったけど、終始楽しめた。その商業1発目、めちゃくちゃ売れてる。PCアダルトゲー興隆期とはいえ。なんで?とある美少女ゲームランキングサイトによれば、2004年当時の売り上げが14万本で1位。2位はCLANNADでこちらも10万本以上売り上げているが、3位以下は5万本〜と一気に半数以下になる。そしてその前後年は、1位でも6万本。
2000年代前半なんて今ほどヲタク文化は受け入れられてないし、ましてやエロゲな訳だから購入する層は相当絞られるはず。でもファンが買うだけじゃこの本数行かない。一体どこの層が手にとっていたんだろう。
とにかく2000年代前半、当時の型月に関する、ファンでない層の評判とか感想が見たい。公式は竹箒日記アーカイブ、ファンはブログとかで何となくわかるんだけど、そうでない遠巻きに見てた人たちの空気感が知りたかった。
日本人は議論が苦手だ、とは長年言われてきた。実際どうだかは知らない。比べるほど世界を知らないからである。日本では西欧に比べて議論が好まれない、と主張する文化論がある。これは実体験として概ね正しいと思える。実際にそうかはわからないが。
ともかく日本人は議論もしないし苦手と言われているにも関わらず、ネット上では議論が盛んだ。ネット上で議論するようなレスバオタク野郎にはリアルの居場所がないからかもしれない、が、ともかく日本人もネットでは活発に議論している様が観察できるのである。
しかし、ここで憂慮すべき事態は、ネット上の議論はほとんど噛み合わないということである。例えばTwitter、例えば増田、5ちゃんでもYouTubeのコメント欄でもいい、少しページをめくれば簡単に議論のダイアログは見つかるが、見つかるものはどれも頭が痛くなるような破綻した議論である。このような破綻した議論の多くが
・論点がはっきりしない、ずれている
・主張の根拠が示されていない
というものではないかと思う。その欲求に従って議論すると上記のような実のない議論になりやすいのだろう。また、テキストによる議論では相手の反応が窺えないためすれ違いが生じやすいと言うのも理由の一つだろう。更に、インターネットには知識の量・方向性が異なる様々なか人間がおり、背景知識の共有がなされていないというのも大きな問題の一つである。
実りある議論を行うにあたって重要なことの一つが議論の場を作ることだ。議論の目的を設定し、事前配布資料を用意し、進行をおき、書記をおき、発表者をおき、聴衆をおく。各々の役割分担をはっきりさせ、進行役に従って議論を続けることが望ましいだろう。
インターネット上で果てしない議論を生んだ案件の一つに石川優実氏発端のkutooがある。
と、レスバトルを発展させやすい格好の材料だったと認識している。この案件の特徴的な点は「進行役を設定してルールを決めて討論会」を開いた点である。発達バズりアカウント借金玉氏主導で、彼の友人でありネット論客を自称するアカウントせいしきあろん氏(変換がめんどくさい)と石川氏がプレゼンテーターとして聴衆を招いての討論会を行った。これは今までのネットの議論ではなかった画期的な試みである。自分はこれに大変期待した。現地には赴かなかったものの、有志のメモやツイート殆どに目を通した。
特に最終的にアジテーションに終わったと言う点から(また他の様々な理由で)この討論会には失望しかなかったが、それはともかくとして、あの討論を開こうとしたこと自体は素晴らしい行為だったと思う。最近では、ネットでレスバトルをしていたもの同士がツイキャスで公開討論を行うこともあり、レスバトルに時代の風を感じる今日この頃である。
ネット上の議論のホットスポットといえばTwitterだろう。Twitterは議論の場としては最悪である。
話者にとって
・140字という制限
・横やりが入りやすい
聴衆にとって
・発言を追いにくい
・後から見返すことが難しい
という絶大なデメリットを抱えている。また、基本的に議論は2者の間でしか行えない。グループで議論すること(討論)は出来ないのである。これは大きな制約である。
インターネットで質の高いレスバトルを繰り広げるための案を考えてみた。
①進行役を設定すること
②議題を絞ること
④議事録をつけること
⑤外部ツールを用いること
である。無論こんなに意識の高い議論などなかなか成立させられるものではないだろう。だが、少しずつなら可能だろう。クソリプがついたらすかさず「②〇〇についてわたしはこう、あなたはそう思うんですね。③あなたの意見を理解したいのでもう少し話してもらえませんか?××についてはどうお考えでしょうか?」と畳み掛け、議論の場に引き摺り出すのである。④はTogetterなどによって実現可能だ。①については難しいが、ツイキャス討論会を開くのと同じ程度の労力だろう。
先ほどからリプが続いておりますがこのままでは水掛け論です。進行役に@unchiburivurigogogoさんを招いて議論しましょう
とかなんとか書けば済む話である。
⑤は、Twitterよりも議論に向いたSNSでレスバすることだが彼に関しては適切なものを見つけられていない。Wikipediaの議論のページのようにテキストでの議論のために設計されたものが必要だ。さらに、匿名でアカウント開設が簡単でスマホで見やすいことが最低条件だろう。さらにそこに、議長AIなどがいれば完璧である。例えるなら白熱教室のマイケル・サンディルのように(例えが適切か自信がないが)、話者の発言の趣旨を汲み出しながら議論を進めるAIがそのうちきっといつか開発される筈だ。
ここまで書いていて思ったが、wikiの討論ページならオープンソースで誰でも開設できるじゃないか。少子化、働き方、移民、表現の自由、とか、その辺のセンセーショナルな話題で掲示板感覚にひとつ開いてみれば良いのかもしれない。
サバイバルモードは最初から文字通りサバイバルなので全然ゆるくねーだろ。
まあね、全部wiki読めば事前に回避できるんだろうけど、別にこのゲーム、予習が義務付けられているわけじゃない。
で、予習を全く行わないで始めると、かなりハードな死に覚えゲーじゃね?
というか予習してても「ゆるい」とはならないだろ。
表題の通り。
四連休の3日目の月曜日の今日、暇でゴロゴロ布団で惰眠を貪っていたんだけど、その時、歯車のような、流線型のような、模様のような黄色?の幻覚のようなものが見えたんだ。イメージ的にはお洒落な雑貨の幾何学ちっくなデザインのような、あるいは典型的なサイケデリック模様のような感じ。
特に昼寝の時、覚醒と睡眠の狭間にいるときに、多かれ少なかれ見るんだ。で、これは自分にとってまあまあ普通のことで高校ぐらいから見える、というか知覚できるようになった。当時、友達に話してみたけどわかんないって言ってた。増田のみんなで経験がある、またはその分野に詳しいという方、コメント待ってます。
以下追記です。
→閃輝暗点
偏頭痛もちだけど、その時は現れない。しかも、生理的な、単にギザギザした光の形というというよりは無意識、夢の世界に近くて、アーティスティックぽささえあるように思える。頭痛はないけれど、倦怠感はある。
→ ナルコレプシー
Wikiで調べたんですが、これ系ぽいですね。わりと慢性的にやや倦怠感があり、特に感情が高ぶったりすると、運動神経全般がぎこちなくなるような感覚があります。ただ、軽く力が抜けるという程度で、倒れたり、体が動かなかくなるというのはないので、この症状と上手く付き合っていきたいところです。なお、神経内科で診てもらうのも検討しておきます。
当時から結構な音楽好きで、サイケデリック・ロックやプログレッシブ・ロック(すまんが知らん人はググってください)をよく聴いていて、何となく幻想的な精神世界に興味を持っていました。初めてこの症状を見たときは、高1の冬休みに、チャイコフスキーの『冬の日の幻想』を聴いていた時で、(とは言ってもそこまで自分には響かず、退屈感も少なからずあった)目を閉じると幻覚的な光景が、色鮮やかに映し出されていって、不思議でもあり、怖くもあったのでますが、知的好奇心に身を任せ、束の間の風景を楽しんでいました。こうしてみると、この症状は少なくとも自分にとっては音楽と強い関わりがあるように思えます。
Emacs、一生入門できない
あたまがうんちで出来てる俺にはむり
package, use-package, leafやらのいろんな方法が混在していてわけわからん
便利そうなパッケージの説明見に行くと、設定方法の説明に使ってるのがpackageだったりuse-packageだったりもっと古いやつだったりでわけわからんくなる
結局packageとuse-packageの混在したわけわからんinit.elを書く羽目になる
しかも設定書いたつもりでも反映されてなかったりするし原因調べようにも全部英語
さっきもRedoってどうやるんだ?ってなってググった
いちいちググりに行かないといけないのがしちめんどくさい
しかもなんだよC-g C-/って。覚えてられっかよ。C-yでRedoさせろよ。なんだよyankって。
・とにかくキーバインドを覚えるのが面倒
「キーボードから手を離さずに操作を完結させる」ってものに憧れてEmacs触り始めたんだけどさ。
結局のところキーバインドいちいち忘れるから調べるのに結局時間かかって意味ねえじゃん
物覚えいい人達は気にならないんだろうけどさ
でもCtrl+f, b, p, n, a, e, m, hだけは覚えた これだけは他のエディタでも便利なので使ってる
あと、他のエディタでこういうの有効にする設定使うとコピーがM-wだったり検索がC-sだったりになるけどそこは我慢して使ってる 一回覚えちゃったし
・使ってる人が居ないので情報もない
もう既に使いこなせてる強い人だけが使ってるのか知らんけど、全然情報が無い
「2020年代のEmacs入門」とかいう記事書いてる人が居たんだけど、例によって強い人がなんかいろいろ書いてんなーぐらいしかわからん
あれ読んだ後によしEmacs使ってなんか書くぞ~~って進めるとは思えん 俺の頭がパッパラパーなだけな気もするけど
同じ人が書いた「Emacs入門から始めるleaf.el入門」とかもそうだけど、「初心者を想定して書いてます!」みたいな雰囲気を初め出しといて途中からぜんぜんわっからーん状態になる
Emacsについての情報が集まるらしいEmacs-jpとかいうslackのグループがあるらしいので覗いてみたんだけども
そこでされてる会話がムズすぎてロクに聞けん
beginners-helpって書いてる場所でされてる質問も回答もいみわからん
稀にいるガチ初心者も、幾つかやりとりした後は「〇〇って本読んで勉強してね」って答えだけ貰って満足してるし
俺その本持ってんだけど上で書いたパッケージのくだりとかわからんまんまだわ
さっきの入門記事もだけど、人はLinuxか、あってもMacしかつかわん前提なんか?ってくらいwindowsに冷たい
windowsのEmacsだと日本語打てるようになるまですら一苦労だった
なんかimeパッチ?とかいうのをあてたやつを配布してる人がいたからそれ使ってるけど
その人が居なくなったら俺Emacsのバージョン上げられなくなるじゃん!
WSLとかいうのも使ってみたけど、外部からファイルいじったら全てがバグってしんだ あとブラウザの起動ができなかったりそんなこんなでやめた
「windowsでEmacsを使う方法」とかいう便利そうなwikiに書いてあったからいけるやん!って思ったんだけどな~~~~~アホには無理でした
俺はほぼ初期設定のVScodeでやっていくわ
どうせ俺の仕事とかには関係ない趣味だけの話だしな いちいちイライラしたくない
文字打てたらそれで満足することにするわ
大学初年時に、プログラムって文字で書くんだーみたいな知識すら初めてだった自分が課題で使わされて以来、
いつか使えるようになりたいとおもってたけど諦めますわ
イギリス人のブルマーの調査から、ずいぶん遠くまで来た。脱線に脱線を重ねてきた結果だ。しかし、昔から気になっていたので、バレエのチュチュ(ふわっとしたスカートみたいなあれ)についても調べておこうと思う。子どもの頃に、やっぱりこれがエッチだと思ったからだけではない。どんなことでも、疑問を持ったならば調べることは大切だからだ。それに、こういう素朴な疑問だけれども面と向かって聞きにくいことについて調査し、書き留めておくことは、誤った憶測に対抗する上での価値があると信じている。
これは、単純にお尻フェチだとかパンチラ萌えだとかだけの話ではない。僕たちの欲望がどのような仕組みになっているのか、そして欲望を喚起するシステムがどのように働いているのかを理解することは、逆説的に欲望の暴走をコントロールすることにつながるはずだ。言い換えるならば、社会が求めている女性像/男性像から自由になる手段であり、政治や広告から発せられる都合のいいメッセージから身を守るすべにもなる。
前置きが長く、堅苦しくなってしまった。どうか肩の力を抜いて読んでいただきたい。
https://tutusthatdance.com/blogs/faq/parts-of-a-tutu
これは、クラシック・バレエのチュチュの基本的な構造である。pantyと書かれている項目に、「ここにフリルが縫い付けられる」と書かれている。要するにお尻の曲線はそこまで丸見えにはならないのである。
しかし、このフリルにもいくつか種類がある。英語版wikipediaのtutuの項目には、現代のチュチュとして、次の4つが挙げられている。
短く硬い、釣り鐘状のスカートを持ったチュチュ。通例、パンケーキ・チュチュより長い。ドガの作品で多く見られる。
これだけを調べるのにも、意外と時間がかかった。当たり前だが、カタログの写真では普通、スカートの中まで写さない(というか、写すべきでもないだろう)。「inside pancake tutu」では、こういう資料は見つけたが。
https://www.pinterest.jp/pin/560487116124411506/
http://4.bp.blogspot.com/_Ozo7z2zkqWs/S-i2wVfcR1I/AAAAAAAACYQ/zDek9ewzWno/s1600/platter.jpg
世の中には私と同じような疑問を持つ御仁もいらっしゃるようである。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11205496201
さて、ウィキペディアのチュチュの項目を見ると、「ツン」というパンツ部分を指す言葉が出ている。引用すると「ツン(Tune)はスカートと一体になったチュチュのパンツ部分。……(中略)……構造的にロマンティック・チュチュには存在せず、ロマンティック・チュチュではバレリーナは下着としてステージ・ショーツを別途着用する(広義では、これもツンと称する場合もある)」となっており、幾分ややこしい。
また、その下着の項には「チュチュを身に付ける際は下着として薄手のキャミソールレオタード状をしたバレエ・ファウンデーションを着用する……(中略)……色はほとんどの場合ベージュ系である」との記載がある。
要するに、レオタードみたいになっている場合は普通に下着を身に着けるし、パンツ部分がチュチュと分かれているものでも、オーバーパンツをはいているわけである。当たり前ではあるが。
ロマンティック・チュチュは1832年、「ラ・シルフィード」で初めて案出されたらしいので、先ほどのツンについての記述と比べれば、現代につながるフリル付きの見せパンの起源はそこにある、と判断できそうである。ただし、英語版wikipediaには「ツン」の項目はなかった。
また、興味深いのは注釈の「ただし、アンダースコートとは異なり、ツンのフリルは横方向よりも縦方向に付けられる場合が多い」という個所だ。確かにさっきの画像でもそうなっていた。フリルの趣味の時代的変遷だろうか?
Wikipedia英語版のballetの記事でバレエの歴史を振り返ると、拾い読みだが、次のような流れになっている。
まず、バレエの起源はルネサンス期の宮廷でのダンスにさかのぼる(ルイ14世も踊ったほどだ)。それが徐々に劇場で公演されるようになった。
17世紀の頃は、女性の衣装は重たい生地と膝丈のスカートで構成されていて、動きやしぐさを出すのが難しかった。しかし、これでは動きやジェスチャーに制限ができてしまう。これが18世紀になると、スカートは地面から数インチの高さになる。色はパステルカラーが主流となり、さまざまな飾りが華やかでフェミニンなスタイルを強調するようになる。現在踊られているバレエでは一番古いものがこの時代で、「ラ・シルフィード」「ジゼル」が知られる。以下は18世紀の絵画だ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/MarieSalle.jpg
19世紀初頭には、身体にぴったりとフィットした衣装が用いられるようになる。具体的にはコルセットが導入され、身体のラインが見えるようになった。また、花冠、コサージュ、宝石などの小道具も導入された。クラシック・バレエでは「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」がよく知られる。次の画像では、少しスカートが短くなっているのが確認できる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Giselle_-Carlotta_Grisi_-1841_-2.jpg
そして20世紀、バレリーナのスカートは膝丈のチュチュとなった。正確なポワント(足の技)を披露するためである。舞台衣装の色も鮮やかに変わった。20世紀の作品としては、「牧神の午後」「春の祭典」が名高い。1910年の写真を貼る。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Agrippina_Vaganova_-Esmeralda_1910.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Grace_in_winter,_contemporary_ballet.jpg
画像をご覧いただければ、スカート丈がどんどん短くなっていくのがよくわかる。
さて、結論を述べよう。Wikipediaによれば、衣装が重いと細やかな表現ができないのと、脚を使ったテクニックを見せるようになったため、スカートが短くなったようである。
ちなみに、海賊というバレエでは、へそ出しの衣装も存在しているらしい。確かにbunkamuraに食事に行ったとき、バレエの衣装を展示していたが、そこにへそ出しファッションの衣装があったことを思い出した。バレエにしては大胆だと思った覚えがある。
ブックマークのコメントはありがたく読ませていただいており、不快だというお叱りも真摯に受け止めたく思っている。確かにパンツじゃないのにパンチラに見えてしまって欲情する人がいるってのは幾分デリケートな話題であり、増田ではないとやりづらい。また、どの程度ユーモアを交えて描くか匙加減も難しい。それを受けて、少し考えておきたい。
僕は割と美術鑑賞が好きで、ドガの作品も好きなのだが、その背景を知っていると、手放しで褒めることはできない。再びウィキペディアから引用しよう。日本語版からだ。
エドガー・ドガがバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサーは現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。主役以外のダンサーは薄給で生活しており、パトロン無しでは生活するのが困難だったとされる。パトロン達は当然男性が多く、女性ダンサーを娼婦の如く扱っていたと言われる。かくして、フランスのバレエ界から男性ダンサーはいなくなり、フランスのバレエは低俗化することになる。
もちろん、どんな事情があったとしても、弱い存在を表現しようとしたドガの作品の価値は損なわれない。しかし、僕は問わねばなるまい。スカートが短くなったのは、果たして本当にダンサーの意志だったのか、と。そして、女性が身体を見せるようになった流れの誕生は、観客も共犯だったのではないか。こうして性的好奇心を持ってしまう僕も、同じではないか。
もちろん、過去のことだからわからないことが多いし、究極的には真相は明らかにならないかもしれない。女性が美しい肢体を見せたいと思ったとしても、それは男性が主流だった時代の文化の中で育ったからそう思っただけなのかもしれず、どこまで本当に主体的に判断したかの判断は難しい。とはいえ、過去の人間が何を考えていたのか、それはどの程度自分だけの決断によって決められたことか、証拠が不十分なままでこちらが断定するのは越権行為だろう。
しかしながら、現代に生きる僕らは、自分が主体的にしていると思っている行動の多くも、無意識のうちに同時代の文化に支配されていることには、自覚的であることが求められるだろう。欲望の仕組みを知るとは、そういうことだ。読者諸氏も、自分のフェチの起源を考えてみると、きっと得るものがあると思う。
身体を使った表現と性の問題は扱いが厄介だ。ただでさえスポーツは厳しい師弟関係でパワハラになる危険があるうえに、新体操などの身体表現のあるスポーツでは、性暴力にまつわる訴訟は絶えない。
スポーツではないが、芸術と性も深い関係にある。どちらも人間の根源に根差しており、安易に善悪を論じることが困難だ。バレエも例外ではない。師弟の間で身体が親密に触れあい過ぎて恋愛関係になってしまう例がある。美しさへの憧れが恋愛感情や欲望と混同されることだってある。現に、男女だけでなく、ディアギレフとニジンスキ―の同性愛関係もよく知られている。こうしたことが、後から振り返ってみれば不適切な関係だった、師弟の力関係を利用していた性暴力だった、と判断されることにもなるかもしれない。とはいえ、これらは個々の具体例によって判断すべきだ。正直なところ手に余るし、多くの人の人生について書くことになる。ここでは語りつくせない。
今までこうした社会的な側面から女性のファッションの歴史に触れてこなかったのは、元々は衣装そのものの歴史を書きたかったのであり、社会の反応まで行くと本題がその中に埋もれてしまうことを恐れてのことだった。しかしながら、ドガが好きな自分としては、いい機会なのでここで一言断っておく必要がある、と感じた次第である。
何を好きになっていいし、対象にはどんな感情を抱いてもいいと思うけれど、歴史や経緯は知っておきたい。それが、芸術やスポーツに励む女性に性的な魅力を感じてしまう僕なりの折り合いのつけ方だ。そして、盗撮などの犯罪には断固反対する。
今回の調査では、見せパンの起源と推測される年代までは確認できた。しかし、細部は依然として明らかではないため、何らかの形で補完したい。
そこから、メイド服、またはロリータ服における、見られても恥ずかしくない下着について調べるかもしれない(知識がほぼないのでとんでもない誤解かもしれない)。または、キャバレーでのラインダンスやバニーガールについて、になるかもしれない。あるいは、再びブルマーに回帰するかもしれない。それは明日の気分次第だ。
とはいえ、しばらくは休みたい。自分の欲望やその起源について考えることは有意義であったし、文章化することで過度のブルマーへの執着やフェティシズムは手放すことができたからだ。一段落した感じがある。この言語化は妖怪に名前を付けて対処法を見つけたようなものだろうか。どろどろ、もやもやした不可解なブルマーに対する欲望が、知的なものとして把握できるようになった。
つまり、増田に欲望を垂れ流すことで、落ち着くことができた。知識が増えて勉強になったという肯定的な意見、ねちっこく不快だという否定的な意見、どちらも自分の姿を客観的に見せてくれた。すべての意見に対して、ここに感謝の言葉を述べたい。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando#/media/File:Edgar_Degas,_Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando,_1879.jpg
なわとび:401回
ボクシング:113kcal/27歳
流石にちっとは減ってるかなと期待に胸を膨らませながら久々に体重計乗ったら1kg増えてた……なんでや……
廃品置き場で中公新書の一次大戦の本を拾ってきたのでちょっと読んでる
そうはならんやろって勢いでトントン拍子に世界大戦になだれ込んでいくのでツッコミが止まらない
シュリーフェン・プランが代表的だけど、ドイツフランスロシアの軍隊が紛争という概念を持っていないので一度戦争を始めると総力戦をやるしかないというのはもうギャグにしか見えない
耕して海に至る塹壕戦とか、あらゆる次元で現代につながる戦争のやり方が手探りだった時代なんだなあと
ネトゲだったらものすごい勢いで日々wikiが更新され日々掲示板で攻略情報がやり取りされる段階といえるかも
個人的な補足です
この騒動はIP一致以外はすべて可能性や疑惑という表現になります
5chの76→Cottage疑惑・アイドル部炎上→ドルアンec騒動・ゴースティング疑惑
前所属運営に虐げられた結果独立し麻雀界から支持されつつ人気を得たVTuberのシンデレラストーリー(アイドル部炎上)の主役が
独立後5chの前運営アンチスレで本人age共演者sageをしていた書き込みとnoteのIPが一致し(ドルアンec騒動詳細なwikiあり)
時系列的にアイドル部炎上が独立又は移籍を前提としてファンを取り込むために計画された動きだった可能性(Cottage疑惑・5chの76)がもちあがっています
また、麻雀で相手の手を読む能力に長けていた理由としてゴースティング(相手の配信画面を見て手の内を把握していた)疑惑がもちあがっています
元々前運営には熱心(厄介)なファン(又はアンチ)が居て彼らが交流していたのが5chのアンチスレです
その彼らに前運営や所属メンバーを公の場で批判する「正義」を与えたのがアイドル部炎上でした
その後彼らは個人勢化したメンバーや彼女と仲の良いCottageを応援することとなります
彼女は彼らの応援、麻雀界隈の後押しや人気VTuberとの共演の効果もあって大人気!
それから数か月ある日彼女が自殺した友人を揶揄するような配信をしたそうでその「正義」が彼女に向かうこととなりました
彼らが色々調べた結果自分たちが交流しているアンチスレで彼女本人ではないかと長く疑われていた
書き込みのIPと彼女のnoteのIPがある方の発見で一致しさらに調べていった結果その他疑惑ももちあがったのです
増田に書いた部分だと配信だけ見て決めつけているだけの変な人に見えるかもしれないが、MMORPG的なものを今やっていないというだけでコミュニティ要素があるブラウザゲームなどは今も多数こなしている。
そういうところのギルドコミュニティも昔のネトゲと比べるとプレイヤー同士で絡もうとすることはほとんどないし、そもそもコミュニケーションを取る必然性がないデザインのゲームが増えていることは実感している。
上位を狙っていくところだと意思疎通は重要になってくるが、歴戦を重ねて仲良しになっていくというよりは、ギスギスしながら定期的にメンバーを足切りしていくようなコミュニティばかりになる。
これは俺が属したところだけでなく、5chスレなどを見ていても最近のゲームはどこもそういう感じだし、wikiや公式コミュニティ掲示板的なところを見ている限りでもそういう傾向は変わらない。
昔のように、ギルドメンバー一覧をギルドホームページ上に書いてギルドBBSで和気あいあいとしていたような、オフ会の話が湧いてくるような、ああいう雰囲気を今、ゼロから作れているゲームが今どれほどあるのか。
俺はそういうことを言っているんだよ。文章だけで全てが伝わると思わんでほしい。書ききれないだけであらゆるところから総合的に判断しているんだよ、誰もが。