はてなキーワード: SF映画とは
陰核機動隊(いんかくきどうたい、英語タイトル:CLITS IN THE SHELL)は、秘豆正宗による漫画作品。
ジャンルは「ハードクリトリスSF」。同作を原作としたアニメ映画、TVアニメも公開されている。
本作は近未来を舞台とし、機械化されたクリトリスによって特殊能力者となった女性のみが所属する、内務省直属の警察組織「陰核機動隊」の活躍を描く。
主人公の栗薙豆子(くりなぎまめこ)は任務中の事故が原因でクリトリスを失ってしまうが、クリトリス義体化手術を受けて「陰核機動隊」に入隊する。しかし、義体化したクリトリスはあまりにも感度が高く、少し擦れただけで連続絶頂してしまうほどの敏感さだった。
イキまくるドスケベなクリトリスと、日々敏感になっていくカラダに翻弄される一方、豆子もまた、特殊な能力に目覚め始めていた。
本作、および本作を原作としたアニメ作品は『キンタマトリックス』などのハリウッドSF映画に多大な影響を与えたことで知られている。
アメリカ大統領の若い頃の写真を一通り見てみたけど、漏れなくイケメンだ。強いて言うならトルーマン、アイゼンハワー、クリントンが童顔で正統派イケメンではないくらいだ。アメリカ大統領には容姿フィルターがかかってるよな。顔が全てでは無いが、容姿が人生や社会に与える影響がいかに凄まじいかを思い知った。以下はそれぞれの大統領に対する感想。ブサイクのくせに人の容姿を上から目線で評価していきます
絵なのか写真なのか分からないけど男前。でも、年取ってからの方がカッコいい
恰幅の良いイケメン。正直画質が悪くてよく見えない。
男前。
イケメン。おひげが立派
イケメン。いくつか写真があるが個人的にひげを生やした写真が超絶格好良い。
イケメン。おひげが立派
同上
イケメン。上述の例に漏れずひげ生やすとかっこよさが格段に増す
いかにも英国紳士という感じのおひげが立派なハンサム。レットー・バトラーを思い出す
面長のイケメン。引き締まった顔つきの他の大統領と比べると穏やかな顔つきで坊ちゃん的な印象
丸顔。格好良いと言うよりは愛嬌のある顔。ハリーだけにハリー・ポッターに似ている
・ドワイト・アイゼンハウアー
童顔。これも格好良いと言うよりは愛嬌のある顔
下ぶくれ気味だがイケメン
いかにもアメリカのスクールカースト上位って感じのイケメン。SF映画で陰キャの主人公を虐める役として出てきそう
唇厚いのが玉に瑕だけどイケメン
イケメン。
童顔。格好良いと言うより愛嬌のある顔。優しげな印象を与える。
優しげなイケメン
世の中のSF作品には嘘が多くそれによって勘違いをする人が多く居て困る。
私は前々からそういった人達の勘違いからくる発言によって迷惑してきた。
取材だったり、質問だったり、若手の失敗、取引先の相手との行き違い、あらゆる場面で「SFから得た間違った知識」にストレスを感じさせられてきた。
同じような間違いを何十人何百人という人間が口にし、その度に指摘し続けることに疲れた。
巷でSF映画が話題になる度に、そういった勘違いをした人がまた自分のもとにやってくると思うとウンザリする。
映画のCMを見るだけで、作品の面白さが最優先で現実の科学なんてものはそのための触媒としか思ってないことが伝わってくる。
詳しい人間に大雑把な質問をぶつけるだけで好奇心を満たしてしまわずにもっと根源的な部分からしっかりと知識を積み上げて欲しい。
SF作品であっても、現実の事象をちゃんと再現しようという気持ちがあるのなら否定する気はなく、それらが「正しい知識」を多くの人に授けてくれる事さえ期待する。
私は前に「プラネテス」という漫画もまさにそういった作品であるかのように誰かに薦められた。
そのことを思い出してふと手にとって見たが、なんのことはないこれもまた嘘まみれの作品であった。
私は非常に強く傷ついた。
私が嘘にまみれたSFを嫌いだと知っているはずの人達からこんなものを薦められたことに苛立ち、孤独感に襲われ、この世界から断ち切られた絆を必死に取り戻そうと焦ってしまった。
私の頭の中で「プラネテスという作品」「その作品の読者」「フィクションから得た間違った知識を信じる人」「間違った知識を信じたことで宇宙事業の足を引っ張るような人」がごちゃまぜになっていた。
特に最後の「間違った知識を信じたことで宇宙事業の足を引っ張るような人」と「プラネテス」が結びついた時、過去のあらゆる悲しみの原因がプラネテスにあるかのように私の脳が錯覚を起こしたのだと思う。
幾千の作品の行く万という嘘によって作り出された幾億の人の勘違いの全てから産まれた苛立ちを、たった一つの作品にぶつけてしまった。
もしも私が突然「私は日本人に沢山酷いことをされたので、日本人である貴方を殺すことで憎しみを晴らします」とお互いに初めてあう相手同士で言われたらギョッとするだろう。
それと同じことをしてしまった。
私が理解してほしかったのは「作品としてしっかりしている」と言われるようなSFでも「サイエンスとしての考証がしっかりしていること」は全く保証されていないという事だったのに。
そして、その違いを切り分けることなく安易につなげて考え「この作品は面白いから、この作品は本当なんだ」というような勘違いはしてくれるなという事だったのに。
これも少し違っていて、実際には「勘違いはしてくれてもいいが、それが勘違いなのかどうかを自分で本を読んで学ぼうという姿勢を持ってくれ」なのだ。
漫画から得た知識を繋ぎ合わせてもどこまでも漫画から得た知識の連鎖にしかならない。
自分でしっかりと学んで欲しい。
面白いSFを読んだ次に向かう先が、次の面白いSFではなく、科学雑誌であってくれればいいのに、そういった自分の気持ちが世の中とすれ違っていると感じて、産まれた孤独感が暴走してしまった。
「作品の面白さは科学的な正しさを保証しない」ということを、世の中のすべての人に理解してもらおうなんて押し付けだったのかも知れない。
リアリティがある作品こそが素晴らしいという価値観が逆流していき、素晴らしい作品であればそれがリアリティであると世の中が歪んでいったのだなんてのは私の杞憂なのかも知れない。
兎にも角にも、私が自分の長年の苛立ちを特定の作品そのものにぶつけたのは度が過ぎたことだ。
ありとあらゆる罪の根源を特定の何かを生贄にして押し付けるようなことなどが許されるのは神様ぐらいのものだ。
人間のくせに「現在過去未来その全ての悪の象徴としてお前を断罪する」なんて口にしたのは「分を弁えない」ことだった。
人間に出来るのは、あくまで一度に一つの作品に対して、一人の人間に対して、一つの間違いに対して、一つずつ対処していくことだったのに。
長い時間の間に溜まってきた不満を一度にぶつけてはいけなかったのだ。
個人的なわだかまりや消化不良な怒りの積み重ねから出た99%の八つ当たりをさも100%正当な怒りのようにぶつけたことを謝らせて欲しい。
それでもわがままを言うならあの怒りに1%ほどは正当なものがあったということぐらいは許してもらえないだろうか。
私達はいつだって「フィクションから産まれた嘘によって現実がおびかやかされること」に怯えて暮らしてきたのだ。
有名な作品であれば有るほど些細な嘘がより多くの人を巻き込み大きな渦となって現実に襲いかかってくる。
「作品において嘘を書く」ということは、どこかで現実の科学と戦っている人間に突然の大嵐となって遅い来る可能性を生むとういことを知っておいて欲しい。
それでも、これは私達科学者が戦わなければいけない私達の問題なのだということから目を逸らすつもりはない。
ただ、「分かった上で、それでも誰かを楽しませるために仕方なくやっているだろう」と思わせて欲しい。
本当に、本当に不安になるのだ。
娯楽作品で安易に飛び交う嘘を見る度に、それがどんな形で自分たちを脅かしにくるのかが。
私達の臆病さを、慈悲を持って許してくれるとありがたい。
こんなもんかな?
なんで俺が言語化するのかって?
かんたんだよ。
あの爺さんはプライドも高いし半端に知識も有るしその癖ボケが進行しているからもう自分の口で自分が言いたいことも言えなくなってるからさ。
だからその代わりに俺が言ってやるのさ。
言語化ってなにも本人がしなきゃ駄目ってこともないだろ?
クリストファーノーランの最新作。時間が巻き戻しの世界で戦ったり、順行の時間と交差しながら戦う。何が起こっているか途中で分からなくなるので、「爆発だー」「どうやって撮ったんだー」とかの感想しか出てこない。ネタバレサイトor3回は見ないと分からない。でもおすすめ。ヒロインは相棒
虫注意。世界は氷におおわれていて、人類が列車でしか存在していない世界。乗車時のチケットのランクで居住エリアが決められていて、主人公達は無賃乗車組なので最後尾で奴隷扱い。そこから反乱を起こす話。設定からして面白い。でもなんか中盤は見てて飽きた。
エミネム様の映画。数曲知っているandニコ動で有名な曲が流れるので見てみたいと思って視聴。コンテナハウスで貧乏な暮らししつつ、ラップしつつ、必死に生きていく感じ。ラップシーンはかっこいい。特に最後やつは何回もみちゃう。しっかり濡れ場があったので注意
有名かな?サスペンスが見たい人にはおすすめ。いきなり妻が失踪して、警察が捜査すると「あれ?主人公犯人じゃね?」ってなって主人公の妹とか刑事さんとか弁護士とかがわちゃわちゃする映画。詳しく書くとネタバレ。途中がっつりトップレスシーンがあるので注意。
キャプテンアメリカの映画。アベンジャー系列のもの見たいなーと思って視聴。なんか普通に王道だった。のであまり覚えていない(笑)第2次大戦関係だったかな
ジュリアロバーツ主演のドロドロ家族劇。終わり方も後味悪い。父が行方不明になって家族が集まるけど、色んなことで喧嘩する感じ。ドンパチもエログロも無いけど、気まずい雰囲気とか言い争いがめっちゃ面白い。でも実際その場にいると泣く。吹き替えもいいけど、字幕の方が良かった
最近話題になった?胸糞悪い映画の筆頭。胸糞悪いと思いながら見たらそこまでダメージ無いかも。前情報なしで映画館で見てたら泣く。でもそういう楽しみ方もしたいよね
帰還兵の主人公が親友の訃報を家族に知らせて、そこになぜか住まわせてもらうハートフル映画(大嘘)主人公がサイコパスで一家をぼっこぼこにします。最後はなぜかホラーテイスト。謎の鑑後感。
失敗した。なんか人狼かな?
いえーい!特殊部隊の銃撃戦サイコー!!ベニチオ・デル・トロかっこいいー!!シビアな世界恐いいいい!!ってなる映画
胸糞映画で調べたら出てきた。ちゃんと胸糞。主人公の娘が殺されたんやけど。。。これ以上はネタバレ!話し合いは大事。マルコも言ってた。(進撃の巨人より)
SF映画。ファンタスティックフォー的な。アクション有り、ドッグファイトあり、誰でも楽しめます。王道すぎてあんまり記憶に残ってません。木の妖精のグルートがかわいい。口笛で動く魔法の矢は殲滅力最強
パンデミック映画。よく作られている。ワクチンが誕生日毎に抽選で配られたり、デマ野郎が死ななかったり、メインキャラ死んだり、主人公(ブラピ)の奥さんが不倫してたり、悲しい映画だった。
寝たらウイルスに乗っ取られて別の人間になってしまうパンデミックもの。設定がおもろい
コロナ禍で撮影されたアンハサウェイ主演の映画。離婚寸前のカップルがダイヤをすり替えて盗んでやり直す話。強盗ものに見せかけて、ヒューマンドラマ寄り。アンハサウェイの顔芸がとても良い。コロナのうっぷんたまってんなーって感じがでてた。盗みに入るシーンはやっぱハラハラする
娘が強姦されたのに捜査しない警察に対して、看板広告で警察署長に喧嘩を売ることから始まる話。悲しい要素あり。見た後の何とも言えない良い感じが良い。見て損はない
プレデター最新作。プレデターが地球にやってきたと思ったら、一回り体のでかいプレデターがやってきた!主人公一味がいいパーティー。ふざけあったり、助け合ったりが良い。B級感も洗練されてる
仕事で忙しくしてた間に母と祖母が揃ってコロナ陰謀論者になってた。きっかけはYouTubeの字が流れる動画らしい。祖母は私が中学生の頃に子宮頸がんワクチンの接種があった時も自然派にハマってて接種拒否させられたから、そうなる下地は既にあったのかもしれないから防げなかった私にも責任はあるけど…
職域接種の時、私の職場は結構開始が早かったから当時は副反応の事例が大きいニュースになったりしてて、分からないことも多かったから怖くて、後で国から接種の案内来るだろうし様子見してようって思ってワクチン打たないでいた。そしたらコロナ陰謀論どっぷりの祖母が危険だって言って私が不在の時に家に届いてたワクチン接種券捨ててたのと、母と祖母の言葉をあえて使うなら「私が外部の人間に洗脳を受けて怪しい行動をしないように」見張られるようになったから今からワクチンを自分で打ちに行くこともできない。もし体調が悪くなってもPCR検査は受けさせないし病院には絶対行かせないって言われたから、自力で病院に行けないぐらいの症状出たら詰み。挙句「コロナはでっち上げで存在しない病気。もし体調が悪いなんて会社に報告したら、検査を受けさせられて陽性にさせられて薬を打たれて殺されるだろうから、風邪やコロナを疑われそうな症状が出たら嘘の報告をして休むか体調不良である事は隠して会社に行きなさい、私もそうするから」とかやばい事を言われた。当然従うつもりはないけど、親の口からこんなん聞きたくなかった。
最近は祖母がYouTubeの中でも特に頭のおかしい連中の動画を観ちゃったみたいで「バイデン大統領は悪人で処刑者リストが存在してトランプ氏がいつか復活して世界を救ってくれて」みたいな系統のやつを信じてしまってる。そのせいで「トランプ氏がいつか世界中の人に大金をばら撒いてくれるから裕福になる、借金もすぐに返せる」と本気で信じて貯金もクレカも使いまくってるから、私は早く死なないとその負債の返済に追われる羽目になるかもしれないとすら思ってる。そうじゃなくてもシンプルに今の状況が普通にしんどくてこの人たちより長く生きたくない。家に帰ったら毎日毎日SF映画みたいな、現実じゃない世界の話みたいな事を大真面目に、盛んに議論しててともすれば意見求められて頭おかしくなる。耳聞こえんくなりたいって何度思ったか知れない。2人とも友達もいないから、職場や病院の先生などの外の人たちの事を「真実を知らないで踊らされているバカ」か「私たちを陥れようとしている悪人」のどちらかだと本気で思い込んでいて、3人家族のうちの2人がそれだから私1人が何を言っても聞き入れられないし響くこともない。
私の家(というか家系?親戚の家も皆そうだから)は女性は結婚以外の理由で実家を出る事を許されていないから、父が死んだ後は母と2人で働きながら祖母の介護をして暮らしてきたし、私は生涯結婚しないつもりでいる(これは大した理由じゃなくて、単に私は自分の顔にコンプレックスがあって大嫌いだから私に似て醜く生まれたら可哀想だから子供は絶対産まないし、自分は自分の事を嫌いなのに他人には自分を愛してもらおうなんて身勝手で失礼だと思っているから恋愛も結婚もしないことに決めてるってだけのごく平凡な理由)から、祖母と母の介護をして家のことをやって後は孤独死かなってうっすら考えてたけど何かもうそんなん言ってる場合じゃないのかも。
自殺は誰かしらに迷惑かけるから極力は避けたいけど、それでも何かもうなるべく早く死んだほうが良くない?って結構真剣に思う。ワクチン打ってないからって毎年ちゃんと真面目に通ってた子宮頸がん検査はとりあえずもうやめる、一応身辺整理の仕方の本とかはこっそり買って準備してるし、ここ数ヶ月でかなり私物断捨離した。あとは何したらいいかな。私までやばいやつだと思われそうで友達とか周りの人には絶対相談できないから、どうにか1人で対処しないといけない。
まあでも、デルタ株とかで私と同じ20代でも死者が出てる中、ワクチンを打ってない私はコロナにかかったら重症化するかもしれないけど、それでも病院に行くのを全力で阻止してくるだろうから、そうなったら近いうち死ねるんじゃないかなあとはふんわり思っているけど。多少恐怖はあるけど仕方ない。生きるよりまし。
映像コンテンツの倍速視聴に関する話題を目にして、ふと思い出したことがある。以下に記すのは、個人的な昭和の思い出話である。
歳の離れた兄が買っていた『SCREEN』と云う映画雑誌が、実家の本棚に何冊も置かれていることに気づいたのは、私が小学校の高学年になった頃だった。裕福な家庭ではなかったので、我々兄弟は一つの部屋を共有して過ごしていた。だから実際には、もっと以前から、その雑誌が本棚に置かれていたことを私も知っていた。したがって、正確に言えば気づいたではなく、興味を持つようになったと言うべきであろう。
それらは70年代に発売されたもので、ちょうどSF映画、オカルト映画、パニック映画が流行した時期に該当する。だから、これらのジャンル作品のスチール写真を載せたページを眺めるだけでも、子供には十分に楽しめたものだった。
やがて、そう云うビジュアル記事を眺めるだけでは飽き足らず、活字の部分にも目を通すようになった。最初は、やはりSF、オカルト、パニック作品に関係するところから読み始めたが、それらにも限りが有る。こうして、あまり子供向けではない記事にも、当時の私は目を通すようになっていった。現代とは異なり、地方の非富裕層の家に生まれた子供には、娯楽の選択肢が極めて少なかった。従って、ほとんど已むを得ずと云う形で、元々は興味対象外だったものにも手を出すことになったと云う次第である。私と似た境遇に在った地方の名も無き小中学生も、私と大同小異の経験をしたのではなかろうか。例えば、家に置きっぱなしにされた古いジャンプ/マガジン/サンデー/チャンピオンを、何度も何度も読み返し、その結果として、元々は興味が無かった作品の魅力に気付かされたといった、そう云う経験のことである。
話を戻すと、こうして結果的に活字記事も読むようになった私は、雑誌『SCREEN』に淀川長治の連載記事が掲載されていることに気づいた。当時の子供でも、淀川長治の顔と名前は知っていた。テレビに出て「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」のセリフを言うことでお馴染みの、有名なオジサンであった。その連載記事は、読者からの質問や相談に淀川長治が答えるコーナーであった。
読者から寄せられた「僕は映画監督になりたいのですが、どうすれば映画監督になれますか?」と云う質問に、淀川長治は次のような回答をしていたと私は記憶している。
「こうすれば映画監督になれると云うような、確実な方法や手段は無い。それは無いが、強いて言うならば、同じ映画を十回は観なさい」と。
馬鹿な小学生だった私は、これを読んでも何のこっちゃとしか思わなかったが、世の中には淀川長治が言わんとするところを正しく理解して、きちんと実行した人も存在したのだった。それを後に私が知ったのは、中学生になった頃、GAINAXが初の作品『オネアミスの翼』を製作・劇場公開した時のことである。
中学生になった私は「何だか凄いアニメ映画が、若手クリエイターたちによって作られて、劇場で公開されるらしい」との情報を知った。知ったは良いが、そこはド田舎に暮らす非富裕層の哀しさである。公開する映画館は近隣に無かったし、そんな映画館が有る都市部まで行く手段も無かった。当時の私に出来ることといえば、劇場公開に合わせて発売されたムック本を、少ない小遣いで買って、それに掲載された場面の絵を見て、実際のスクリーンで動いているところを想像することぐらいであった。これもまた、同じような経験を持つ人がいることだろう。なお、そのムック本には物語の最後の場面までしっかり掲載されていたので、話そのものに関しては、当時の私も知ることができた。
さて、映画の場面を載せたビジュアル記事を読み終えた私は、もちろん活字記事の部分にも目を通した。そこには、本作品で監督を務めた山賀博之氏のインタビューも掲載されており、映画監督を目指そうとした山賀氏の若き日の思い出も語られていた。その思い出話こそが、淀川長治の「同じ映画を十回は観なさい」に関する話なのである。
雑誌『SCREEN』の淀川長治の当該記事を読んだ当時の山賀博之氏は、その教えどおり、同じ映画を十回観たと語っていた。ちなみに、実際に山賀氏が十回観た作品の例として挙げていたのは、少年野球チームの少年少女とコーチの奮戦を描いた、アメリカ映画『がんばれベアーズ!』である。テイタム・オニール、かわいい。山賀博之氏が語ったことは、概ね以下のようなことであった。
「最初の2〜3回目は、普通に観客として楽しんで観ているだけ。4〜6回目辺りは、もう観たところばかりだと思って、飽きて退屈する。それが7回目頃を過ぎると今度は、場面場面で作り手が何をしようとしているのか、ココで溜めてココで盛り上げようとしているんだなとか、画の見せ方とか、そう云う作り手の意図に気づき始める。同じ映画を十回観ると云うのは、こういうことかと理解した」やはり、何かを成し遂げる人は同じ文を読んでも、凡人とは違い有益な学びを得る能力が高いということなのだろう。
ここで紹介した淀川長治氏の教えと山賀博之氏の実践エピソードは、あくまでもプロを目指す人たちに向けた話なので、我々一般人とは関わりの無い話に思えるかもしれない。また、現代はコンテンツの数量が昔よりも多い時代なので、一つの作品を繰り返し読む/観るという時間的な余裕が無い現代人が大半だろう。しかしそれでも、一つの作品を繰り返し味わうこと、そして運が良ければ、そのリピート鑑賞を通じて何かを気付く/発見することは、貴重で豊かな経験であると私は思う。倍速視聴をしてまで観る作品の数を増やすことにも、一定の理由や合理性は有るのだろうとは思うが、何かしら自分のレーダーに引っ掛かるモノを持つ作品に出会った時には、少しだけ立ち止まって、それを繰り返し味わうことも試してみるのも一興ではないだろうか。
ここまで書いた上に蛇足だが、もう少し思い出を書き残す。昔、Blu-rayやDVD、レーザーディスクはおろか、家庭用ビデオすら普及していなかった時代の思い出話である。その頃は、アニメ映画作品の音声を収録した、LPレコードやカセットテープが販売されていた。(一部では家庭用映写機で上映出来るアニメ映画作品のフィルムテープのリールも販売していたが、これを買って楽しむことが出来るのは、本当の金持ちだけだった。)私は子供の頃、この手の音声収録レコード商品の一つ『ルパン三世/カリオストロの城』を所有する人物から、兄弟のツテでカセットテープにダビングしてもらい、それを何度も何度も繰り返し聞いて、頭の中では『水曜ロードショー』で観た『カリ城』の映像を想い起こして楽しんでいた。この体験のおかげで、私は今でも『カリ城』の全セリフを暗誦できる。何の自慢にもならないが。
そして、歳月が流れた。
後に社会人となって働き始めた兄が、VHSビデオデッキを買ってくれたので、我が家もビデオを利用できるようになった。金曜ロードショーで放映された『カリ城』を録画すると、当然それも繰り返し何度も視聴した。カーチェイス場面などはコマ送り再生で作画をチェックしていたので、倍速視聴とは正反対の行為である。
ほどなく小さなレンタルビデオ屋が我が町にも出来て、兄がスプラッター映画とかゾンビ映画とか借りてきてくれて、一緒に楽しんだりもできるようになった。古い『SCREEN』の記事を読んで、勝手に凄い作品だと思い込んでいた『巨大蟻の帝国』や『スクワーム』が、実際の映像を観るとショボい作品であることも思い知った。
大人になって、現在の宮崎駿のことは反吐が出るくらい大嫌いになり、ルパン三世作品としての個人的な評価も、軍配は『vs.複製人間』の方に上げるようになった。
子供の頃には観ることはおろか、存在を知ることも叶わなかった様々な作品の数々を、今では視聴して楽しむことが出来るのだから、明らかに子供の頃よりも、現在の私は恵まれている。
それでも、熱に浮かされたように古い映画雑誌を何度も読み耽って、観たことも無い映画の内容を勝手に想像したり、何度も何度も『カリ城』のカセットテープに耳を傾けて台詞を暗誦していた子供自体の思い出は、それらが経済的な制約から生じた行為だったにも関わらず、何だか私には宝物のように思えるのである。ただのガラス玉が宝石より愛しく思えるように。
昔から個人的に、日本語のカタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説、映画、漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくまで個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝ります。すみません。
日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内の作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。
海外のSF周辺の作家や作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きである。ものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編『魔法を売る店』も好きである。SF作家の視点から「魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバート・シェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である。
日本を含めて世界的に『ハリー・ポッター』シリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズが劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画のジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法の世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズ』シリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。
「剣と魔法」系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビやビデオで観た『アルゴ探検隊の冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである。
『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才でモテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリザリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリザリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長があんな依怙贔屓をするような人間だから、スリザリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリザリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえ、ギリシア神話の英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公に理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。
LoTRが苦手なのは、正義の側のキャラクターは白人がベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしてダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種のイメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物を相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。
こんな感じでカタカナ・ファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルク』である。
外形的には、人知を超越する異形の存在や怪物、魔法などが存在する世界を舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語のファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターやLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」である。ハリー・ポッターやLoTRのファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。
ゴットハンドの名前(スラン、ユービック、ヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将の名前(ボスコーン)からは、作者の原体験にSF作品が有ったことは想像に難くない。だから、ベルセルクの物語世界では「魔法のような人知を超えた事象が存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家がSF的視点から「魔法が存在する世界を舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。
少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢の卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンのコント「スーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議な世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから、不思議な世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである。
話を戻すと、『ベルセルク』の物語は魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公のガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンドが召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルクの物語における魔法や人知を超えた異形の怪物のほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力や人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドーと養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである。
それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンドを召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分の王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラでドリーム状態を実現した、ハンサムな野比のび太」である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから、主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である。
こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロ、ファルネーゼ、セルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士や魔女による魔法的サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態で物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナ・ファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。
長い長い時を経てキャスカが正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太の物語を、作者は描いてくれる。長期間の休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。
私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身のペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。
このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家や作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。
人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズを引用するぐらいしか出来ない。
「風が、旅の終わりを告げていた」と。
序盤のシンジ達が身を寄せた村でのシーンが始まった時には、
「この人達もみんな死んじゃうんだろうなあ。そういう舞台装置なんだろうな(泣」
と真っ当なエヴァウォッチャーの多くが陥ると思われる酷く捻くれた見方をしていたのだけど、
その役目をじゃない人ひとりに背負わせた辺りから違和感に襲われ、
「あー風呂敷畳み始めたなあ。そうかあ、最後って触れ込みだしなあ。
「ああ、庵野監督は物語を本気で、全力で終わらせに掛かっているんだな(涙」
と感慨に浸っている最中に、ナウシカと公開日1週違いの特撮SF映画『さよならジュピター』の主題歌「VOYAGER〜日付のない墓標」が掛かったシーンが自分の完全涙腺崩壊ポイントでしたぁ。
そっからほじくるの反則ぅううう。
40年前くらいのSF映画でもそういうのを倒す戦略は出てたと思う
吸気口から入るとか搬入口から入るとかしてから自分もろとも敵陣をふっとばす
自分が人気Vtuberになってバカを騙して馬鹿どもが死滅するように億とか稼いじゃえばいいよ
そういえばこないだ億稼いでる日本のVtuberみたいな記事 ホッテントリしてなかった?
1から立ち上げるのもなんだし Vtuberさんたち彼氏彼女の大ファンになって馬鹿どもを崖まで率いて全員まとめて海に落下させちゃえばいいんじゃない?
今人気の雑談してるだけで億かせぐVtuberの一番のファンを名乗ってほかのファンを凌駕する投げ銭で馬鹿どもを率先して寄付額を煽って馬鹿どもの財布を焼き尽くしちゃえ
くれぐれも馬鹿どもなんかより先に一人で焼け死んで 馬鹿どもが消し炭になった貴方を遠巻きにみて反省してまともな思考にもどったりしないようにちゃんとやつらが全滅しつくすまで最後の一人のファンとして寄付額トップを維持してね
最後の一人のファンが破産した最後をみてあなたが作戦終了を高らかに宣言するその時 きっとみんなあなたの功績をたたえるよ
もしかしてもうそんな取り組みで上限額寄付してる人もいるかもしれないよね
がんばって
鬼滅の刃に感動しない
二回観たなりの感想を述べたい。原作は未読。今後の展開も知らない上で話す。(ぶっちゃけテレビアニメもまじめに観てない)
《映画:良かったところ》→《映画:良いとは思わなかったところ》→《鬼滅の刃は感動しない》
《映画:良かったところ》
この映画の素晴らしいところは、ジャンプ原作の王道の努力•友情活劇の中に非常に高品質な心情描写があった点だと思う。前半の炭治郎の夢の描写が素晴らしい。
家族との幸せな日常の夢に浸かる炭治郎。さっきまで列車に乗って鬼を探していたはずなのに、突然夢に惑わされた。夢を夢だと気付くまでの演出の仕掛けは、往年のホラー映画やSF映画を思い起こさせる。ねずこを運ぶ箱だったり、咄嗟に口に出る“昼間のねずこ”の違和感だったり。その加減が多すぎず少なすぎず非常に絶妙なのだ。ジャンプのアニメ映画だという大前提を守りながら、観客の我々は「炭治郎は本当に現実世界に戻るのか?」と不安にさせてくれる。六太の「置いてかないで!」という絶叫は悲しくも最高だった。子供の絶叫ってどうしてあんなに不安になるんだろう。初回観たとき泣いてしまった。再会できるはずのない家族ともう一度会えた炭治郎の喜びと後悔を観た我々は、夢から覚めるために進む炭治郎の辛さが理解できた。夢にいれば鬼なんて来ないのに、鬼を倒すために炭治郎は進んだ。そして、戦うために“自決”の賭けに出た。炭治郎は鬼を倒すために、自分の首を斬る選択までしてしまうのだ。なんて胆力だと、鬼と一緒に私も驚いた。そしてダメ押しのしんどいバージョンの夢。なによりも家族を優先してきた炭治郎が、父親母親弟たちに恨まれる様子を見せられる。そのときに「言うはずないだろ!俺の家族が!!」というセリフは演技演出共に本当に素晴らしかった。家族の死という最大のトラウマを乗り越えて、彼は鬼と戦って勝った。最高のカタルシス体験だった。今まで鬼滅の刃は流行っているからとりあえず観ていた作品だったが、ここまで観に来て良かったと思った。
あと、作画と音楽も良かった。ハイクオリティだった。声優の演技も高品質だった。
《映画:良いとは思わなかったところ》
新キャラ同士の戦闘にあんまり感情移入できなかった。顔は知ってるだけの先輩と、なんの前触れもなく現れためちゃ強い敵の急な戦闘に頭がついていかない。さらにこの二人も初対面同士だし。ヤタガラスにもアカザ打倒を命令されてもいない。アカザが“なんかいた”のだ。なんかいた、という理解しかできない。因縁もなにもないやつとの戦い入れる必要ある?煉獄さんがえんむとの戦いであんまり活躍出来なかったからアカザ戦投入したとしか思えない。戦闘が非常にぬるぬる作画だったし私が長子だから耐え切れたが、テレビ放送だったら耐えきれずチャンネルを変えていたかもしれない。
煉獄さんの親、お前なに言ってるの?「自分がどうして他の人間より強いか理解できるか」って、そんなこと言う親いるのか?少し斜に構えすぎかもしれないが、選民意識が強くはないか。煉獄父の奥方がそんなドストレートな言葉で表現するかいな。ノブレス•オブリージュを表現したいなら、「なぜ強い“火の呼吸”を我々が代々受け継いでるのか」とか………もっとオブラートに包めよ!若干鼻につくんだよ。
あと皆んな煉獄さんの死で泣きすぎ。先輩が命をかけて戦ってくれたので、ちょっと泣きたくなるのも分かるがあれは泣きすぎだろう。ほとんど寝てた善逸はなんで泣くんだ。炭治郎のメンタルは強いんだ。家族の未練を断ち切り鬼を倒す自決を繰り返す、ちょっと異常な強さのメンタルを持つ男だ。自分の意思で家族を振り切れるんだから、並の10代の精神力じゃない。そんな強い男が、顔見知り程度の先輩の死にあれほどまでに泣くだろうか。炭治郎は苦しくとも前に進める心の強さがあると思っていたのに、結局は号泣してる伊之助にハッパをかけられてしまう始末。おいおいどうしちまったんだよ。赤ん坊みたいに泣かないでくれよ。お前はこれまでの鍛錬と旅で強くなったはずなのに、先輩の死であそこまで泣かないでくれよ。この作品はやたら人が泣きすぎるんだ。
《鬼滅の刃は感動しない》
書いてて分かったことがある。鬼滅の刃のアニメは料理人の腕は神だが、レシピ作成者は二流だ。アニメーターの匙加減でなんとか名作の域に食い込んでいるが、元々の原作はかなりポンコツだ。たしかに面白いは面白いんだろうが、この程度の面白さだったら流行で終わる。なんとなく面白いが、人の生き方を変えるほど感動は与えない。私はそう思う。
あらゆるジャンルの作品で我々視聴者が求めるものは、『感動』の一点のみだ。作画がすごいとか、声優の演技がすごいなんてのはおまけにすぎない。視聴に耐えうればおおよその場合そこまで重要じゃない。
で、この感動を私なりに噛み砕いてみると、“昔の自分から生まれ変わる”ことの体験だ。映画『ラピュタ』で軍要塞からシータを振り向きざまにかっさらうパズーだとか、映画『ハウルの動く城』でソフィに「ようやく守るものが出来た。君だ」と言うハウルだったり。洋画でもいい。映画『タイタニック』にて海に沈むジャックをあとに自分の好きなように生きることを選んだローズなど。今回の映画でも、炭治郎がえんむに立ち向かったところなんて本当に感動した。現実を生きる我々にはしがらみが多すぎる。新しい選択肢を取るのは怖いし、自分で自分に不幸な暗示をかけてしまっている。でも、画面の向こうの彼らは、恐れの中でも古い自分を断って生まれ変わった。それを目の前で証明され、心が動くのだ。
長々と書いて申し訳ない。鬼滅の刃の話に戻ろう。この作品の最大の問題点は「あるはずのしがらみが都合よくぼかされてる」からだ。鬼殺隊でありながら鬼の妹を連れること、政府非公認組織の鬼殺隊、絶大な力を持ちながらただの鬼殺しに明け暮れる柱など、キリがない。今回だってそうだ。なんで精神の核を破壊しなかった。なんでえんむが人間を食わなかった。意図的に炭治郎たちが苦境に立たないよう誘導されている。そういうしがらみを無視されたまま話が進んでしまうから、ご都合主義だと思ってしまう。折角いい設定を持ってるんだから、ストーリーに生かしてほしい。鬼より悪どい柱がいてもいいし、警察に逮捕される鬼殺隊がいてもいい。ねずこが炭治郎の恋人を食べてしまってもいい。いくらでもあるんだから、アカザみたいなよく分からん敵をぶん投げて戦わせるんじゃなくてしがらみからけりをつけてくれ。原作がご都合主義に甘んじるポンコツだから、アニメの味付けがいかに最高でも私は感動しない。ハマらない。
鬼滅の刃が、日本人が一緒に楽しめるコンテンツになってくれたことは事実だ。皆んなが観ていた月9や朝ドラが、今は鬼滅の刃になった。立派なメインカルチャーだ。炭治郎たちは間違いなく時代を代表してる。
両親が駅弁フェアで買ってきたやつしか食ったことない。あれはいわば死んだ駅弁・養殖の駅弁で、天然の駅弁・活きた駅弁は車内でしか食えないと俺は思う。調べてみるとわりと駅弁趣味の人なんかもいるみたいで、旅行をしては駅弁を食べ比べてブログに綴るその姿はかなり眩しい。
いつか食いたい。できたら新幹線とかで食いたい。
かつては時々見かけてたけど最近は全然見ないな…と思ってたけど、実はかつてより全然見てないんじゃないか?俺が飛行船を見たと思ってるのはニセ記憶なんじゃないか?という疑惑がある。それほどまでに朧なのが飛行船というもの。「飛行船 (都市名)」なんかで検索をかけても2008年の記事とかしか出てこないあたり、いまの日本で飛行船に乗るのはかなり難しいっぽい。
なんとなく豪華客船並みの広さを持つ船内で優雅に過ごせるイメージを持ってたんだけど調べてみると客室はショボい飛行機程度の広さしかないみたいで、なんというか夢破れた気分。でも憧れは憧れだし、機会があったら乗りたい。
SF映画に出てくるようなゴリゴリのホログラムデバイスを使いたい!「物理画面使いは老害」みたいな世の中にいつかならないかなあ。
羊肉、カレーとかでしか食ったことなくて味が全然わからない。いっぺんガッツリ食ってみたくて、となるとこれもまた味がわからないジンギスカンと組み合わせてエニグマチックな食体験に臨みたい。
ジンギスカンに関しては謎を残しておきたくてあえてあまり調べないようにしてるところがある。中央が出っ張った謎の鍋を使う焼き肉のようなものらしいが、はたして…
一回も受けたことない。姿勢悪いし、絶対すげえ効果があるというか、効果はなくても劇的な体験になるだろうと思う。
そのうちそのうちと思ってるうちにコロナで行きにくくなってしまった、というのは大体の憧れに共通するな。涙、涙、涙!
「自転車で海まで行った」という思い出が欲しい。
あまり雪の降らない地域で生まれ育ったので雪をみるとテンションが上がる。雪だるまくらいは作ったことがあるけど、かまくらを作るには至らなかった。
かまくらの中で何か(みかんなど)食べたい。せっかく作ったんだしと思ってできるだけ長居するけどやがて寒くなって家の中に逃げ帰り、こたつに潜り込んだときの安心感!同時に感じる一抹の罪悪感と未練!そういう体験がしたい。
皿に並んだフグ刺しを箸でガッと4〜5枚とか取って食うやつ絶対やりたい。
弦楽器はギターしか触ったことなくて、バイオリンとかの弓つきのやつに憧れる。たぶん才能ないからロクな音は出ないしすぐ飽きるんだけど、それはそれとして一音でいいから出してみたい。
絶対行けるんだけどなんかめんどくさくて行かないままになっている。3時間とか取って入りたい。そして1時間半くらいでグロッキーになって知ってる曲を入れるだけ入れて伴奏だけ聞いたりするんだろうな。それでもいい!
イイって言うしいっぺんくらい試してみたい。幻覚が見えるって感じでもないのか?これまで明確な幻覚とか幻聴を感じたことがないので、もし感じられるんならわりとライフチェンジングなんじゃないかと思う。感じられんくても良い。
ときどき酒を飲んだ時も思うんだけど、化学物質で思考パターンが変わるのって人間の儚さのようなものを感じられてメチャいいよね。脳!脳か〜!脳だよなあ〜(最悪の酔い方)
考えてみると俺はふつうの水の浮力しか知らないわけで、もうちょい強いのを試してみたいという気持ちがかなりある。
怪我をした状態で入ると染みるから気をつけて!なんて注意があるのがまた渋い。
Twitterなんかで知り合った、というかフォローしあった人と現実で会うの一回くらいはやってみたい。でも会いたくなさもかなり強く、難しいところ。一方的に見たりできねえかな。