はてなキーワード: LIBERALとは
https://twitter.com/kadokawahonyaku/status/1731097324615860583
角川トランス本のツイートでもこの大学生40%がやたらみんなの琴線に触れるっぽいので調べてみた。
https://www.cspicenter.com/p/diverse-and-divided-a-political-demography
Liberal arts colleges are the least politically diverse. Many have almost no conservatives, and thus very low viewpoint diversity. But they have high sexual diversity, at nearly 40 percent LGBT.
というわけで、米国のリベラルアーツカレッジでは40%がLGBT、というのがソースらしい。
一方で、大学全体だと、
23%となるらしい。
だから角川のツイートは不正確で、大学生の23%がLGBTQ、リベラルアーツカレッジの40%がLGBTというべきだね。
ただ、リベラルアーツカレッジではなぜLGBT率が高まるのか、この差は気になるよね。
以下のブログにおいてホストに高額の金銭を費消する女性のことを「(実存的)貧困」とカテゴライズし、ブコメにおいて否が多めの賛否両論となっている。
「いったいホストに何千万もつぎ込む売春女のどこが貧困なんだよ(笑)」「ここです」。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/somethingorange.jp/entry/jituzonntekihinnkonn
批判の内容としては、「貧困って言葉を金銭的な貧困者から奪うな」「それは依存症だろ」「キャバや風俗のために借金する男性にそれを言ってきたか?」などなどだ。
歴史は繰り返すとしたのは、過去、自由という言葉にもそういった歴史があったからだ。
現代においては、自由は消極的自由と積極的自由に区別されている。そしてこの二つは非常に相性が悪い。
国家・権力に干渉されない権利のこと。具体的には信教や身体生命、経済活動の自由などが該当する。
自己実現できる権利のこと。したがって貧しくて自己実現できない者に対する生活保護やアファーマティブアクション、障害のために社会参画できない者のための各種施策も自由の実現の範疇に入る。
元来自由(liberal)というのは消極的な自由の意味だった(アメリカ憲法などからもそれは明白)。
何故かというと積極的自由を実現しようとすると、どうしても「理想的な人間」を規定する必要があり、国家によるお仕着せ(パターナリズム=家父長主義)をせざるを得ないからだ。
これは消極的自由を重要視する人からするととても認められるものではないため、消極的自由を信奉する人たちは積極的自由論者たちを「反動(反自由主義者)」などと攻撃した。
そこで、積極的自由論者たちは「私たちの考えるものも自由の一部なんですよ」と主張して現代に至るというわけだ。
自由主義者として有名なハイエクという学者は、これを「彼ら(積極的自由論者)は自らのイメージが悪いことを嫌って私たち(消極的自由主義者)の言葉(自由)を奪った」と表現している。
現代では消極的自由も積極的自由も、「自由」にカテゴライズされることが多い。特にアメリカなどでは「リベラル」というと後者が優勢で、ハイエクの危惧した「言葉が奪われ」た状態にあると言って良いだろう。
そこで、ハイエクなどの系譜にある人は「古典的自由主義者」や「リバタリアン(リバタリアンはハイエクの主張とかなり異なるが)」という言葉を好んで使っている。
そうなった場合、現在的な意味での貧困(経済的な貧困)への救済へのリソースは減らざるを得ないだろう。
こういった女性は「困難女性」として法や事業による救済対象となっている。話題となったColaboによる都の事業はそのモデルケースだ。
であれば風俗で借金しまくってる男性も同様に救済対象とするべきだと思うのだがこれまで無視されてきたようだ(少なくとも若い女性ほどには問題視されていない。「困難男性」などで救済の対象になっているだろうか)。何故だろうか。
オタクの王が不倫してた! 表現の自由戦士が求めてたのはこういう不倫の自由だったってワケ(笑)みたいなIQ二桁ブクマカがまあまあおってたまげてる。
そしてこういうことを書くと切断処理だーとか反応してくる感じもあってかなり厳しい
党派性をインストールしたBOTって結構最悪な部類のヤツじゃん
でもあそこらへんの人たちを神輿にして喜んでたオタクさんサイドも終わってる感じするんだよな
リベーラとかいうリベラルをもじった名前の敵をやっつけて喜ぶマンガをLiberal Democratic Partyの一員が描くっていう滑稽さったらこれもまた厳しかったね
しかも最後の最後に「って感じでどーでしょ」みたいな作中作の体裁をとっていてガチじゃないんですよwみたいな保険掛けててダサすぎワロタって感じ
話がズレたが、「表現の自由は不倫の自由(笑)」みたいな反応はヤマーダ()レドマツ()より知能指数低いからやめた方がいいよ
日本の左派ってあんまりリベラル(自由主義)的じゃあないんだよね。どちらかと言うと自称リベラル。以前はリベラルと言わずに革新勢力とか言ってた。保守対革新とかね。
彼らがリベラルと自称しだしたのは割と最近のことで、アメリカの「リベラル」勢の真似なんだと思う。紛らわしいったらありゃしない。
今でもイギリスだと古典的な意味でLiberalという言葉が使われる事が多いし、ホントはやめて欲しいんだよね。ああいう「リベラル」の使い方は。
ちなみに日本で Liberal を党名にうたった政党は、有名なところだと、自由民主党(Liberal Democratic Party)や、吉田茂の自由党(Liberal Party)や、板垣退助の自由党や、小沢一郎の自由党などがある。
わたしは1995年生まれだ。ここ最近になって政治をめぐる世の中の温度感が急変したように感じていたが、わたしの記憶にある限り、本当に他者を思いやることのできた平和な時代など実はなく、物心ついたころからすでに物事はこの方向に向かって動き出していたのではないだろうか。2000年代にはすでに国家レベルでそういう状況に突入しており、わたしたちは今あの時代に張り巡らせた伏線をひとつひとつ回収しているのだと考えるほうが、世の中がここ何年かで急速に変化したと考えるよりも自然な気がする。
教科書に書いてあることはいつだって周回遅れだから、わたしたちの世代ならまだ、教科書をまじめに読んでいた人は一昔前の価値観に触れることができていた。かろうじてそれを正しいとみなして人格形成することもできた。しかし、見ないようにしていただけで、見てはいけないと自分に言い聞かせていただけで、そこにはすでに分断はあった。わたし自身、これまで分断を見ないようにしたり、うまいこと避けたり人のことを見下したりしてのらりくらり過ごしてきたが、そうした態度は結果的にこうした時代の到来を早めることに繋がったかもしれない。でもあの時はどうしようもなかったのだ。わたしも幼かったし、大人たちも幼かった。大人らしく振る舞うとはどういうことか、誰もわかっていなかった。わたしは教科書を読めたし、読めるのに読むなというのは無理な話だった。
2010年、わたしたちはRADWIMPSを聴いていた。給食の時間、校内放送のスピーカーは「僕が総理大臣になったら~」と歌っていた。「厨二」みたいなことを言って人々は馬鹿にするけれど、気づいたらこちらが馬鹿にされる側にまわっていたという意味では、本当に間抜けだったのはこちら側なのではないだろうか。
すごく怖い話をすると、もしかして自民党に投票する人ってリベラルなつもりで入れてんじゃないかと思う。Liberal Democratic Partyだけに。LiberalでもDemocraticでもないだろふざけんなと思ってきたが、まあ東谷さんに比べたらどう考えてもliberalだしdemocraticですね。
とにかくみんな余裕がなくなっている。自分と自分の身内以外の誰かほかの人のことを考えるにはあまりにも疲れすぎているし知性も足りなすぎる。コミュニケーションは日々奪われており、わたしたちの会話はゆっくりと、しかし確かに通じにくくなっている。誰にもこの流れを止めることはできない。
若い世代はそもそも思いやりという文化を知らない。それほど若くもない世代は、たとえ本人が忘れてしまっているとしても、そういう文化が存在していたこと自体は知っているはずだが、今ではみなそういう文化のことを冷笑するか雑巾を見るような目で一瞥するだけになってしまった。それほどまでに、今、わたしたちは貧しい。明日ご飯が食べられるかどうか、という次元にいる。
投票率が上がっても下がってもろくなことは起こらないような気がするという意味で、わたしたちは今、どうしようもないところまで来ている。そんなことはあり得ないだろうけれども、仮に次の選挙で政権が交代して志位さんが総理大臣になったとしても、その傍らで東谷さんのような候補は当選し続ける。投票率が上がるというのはそういうことだ。そして、投票率が下がれば、政治家の票田は市井から宗教団体に移り(実際には宗教団体の教団内部が完全に「市井」でないとは言い難いが、ここでは便宜的に二者を区別することとしたい。つまり、宗教勢力と政治家とのかかわりが密接なものとなるということだ)、今回のように銃撃に倒れる政治家は後を絶たないだろう。どっちにしても地獄だし、どっちかを選べと言われても困るのが実情である。選挙に行っても詰み、行かなくても詰み。死ぬしかないのかもしれない。まあこの状況では、放っておいても人はばたばた死んでいくだろうが。
選挙に行っても詰み、行かなくても詰みの状態になったときに人間がどういう行動に出るのかは興味深い。どっちでも最悪の結果になるとわかっているとき、わたしたちはどちらの地獄を選択するのだろうか?
レビューが載る載らないの話をしてるのではなく、レビューに集まる評価の話をしてるのですよ。
レビューを検閲したとして、検閲者の趣味嗜好に似合ったレビューが集まるだけになり、かえってレビュー全体の信憑性が薄れるだけでは?
漫画のレビューにさえ検閲を望むのはあなたの勝手ですが、そうしたあなたの思想だけをもってして自由主義が終わったと決めつけるのは暴論です。
それに、自由主義がとうに終えたものだとして、代わりにどのような主義が始まっているといえるのでしょうか?
自由主義(liberal)の対義語として保守主義(conservative)という言葉がありますが、もしかして世界は保守主義に回帰していると言いたいのでしょうか?
自由な表現よりも権威者による検閲を望むとは、現代社会では到底相いれない主張ですね。
もっとも、私は自由主義者としてあなたの保守主義的な主張にも表現の自由の一環として寛容であるので、特にあなたの思想を咎める訳ではありません。