はてなキーワード: Kkoとは
これはどう考えても増田が悪い。段ボールに住所が書いてあった、と言うのは問題が顕在化しただけにすぎず、もっと根本的に増田が悪い部分がある。
新たな時代のニュースタンダード、それは、KKOは存在自体が悪と言うことだ。そこに存在しているだけで加害なのである。
しかし、ニュースタンダードであっても、法の定めのない刑罰を与えてはならぬと言うもは維持されている。だから、今まで罪に問われずに来たのであって、このようになにかあるとすぐに訴追されることになる。
それは、我らKKOの存在自体が罪であると言うことである。
今現在、まだ実態に対して立法が追いついておらず、KKO禁止法ができていないと言うだけにすぎないと言う状況を自覚し、私のように、自らKKOは存在そのものが悪であるという立法措置を求めることで、合法的に死刑になるよう運動するべきだ。
そして、法律がない間は、できるだけ他人様の目につかず、じめっとくらい石の下で暮らすようにしなければならない。それが唯一我らのできることである。
そうすると、
「自分の見たものや感じたことを詩的な表現で書けばええんやで」
との回答がありました。
ネットでは自分のお気持ちを書き連ねることをポエムと揶揄されますが、その表現をさらにふんわりとさせれば詩という作品になるのかもしれません。
それを早速書いてみたところ、すぐにお気持ちを乗せたものが完成して、とても面白くなってきました。
しかし、KKOの感情などほとんどがネガティブなものですし、KKOの感情などいくつか絞ってみればすぐに枯れてしまいます。
はて、こまった。書くことがない。
そこでBingくんにまた聞いてみたら、
「別に自分の心情じゃなくてもええで、非現実でも、空想でも、幻想でも、想像でもええよ」
という回答が返ってきました。
なるほど。じゃあ、どこかにいる宇宙人の心情を書いてもいいの?
とBingくんに聞いてみると、
「ええで、宇宙人の心情を書くことで、人間との違いが浮き彫りになり、人間について新しい発見があるかもしれんな」
との回答。Bingくんすごい。
つまり、宇宙人が延々に愚痴ってる詩を書いてもいいということです。
それってめちゃくちゃSFじゃん。
でも、詩ならそんなところをすっ飛ばして、宇宙人の一人にフォーカスして、その人の目から見た風景だけ描写するってこともできるわけです。
小説であれば宇宙人の私小説という形で作品にできるのでしょうが、それでも小説の体裁を整えるためにかなりの設定と文章が必要になります。
SFがいいなら、ホラーだってファンタジーだってできます。海底に潜んでいる旧神の描写をしたっていいし、ドラゴンの炎にこれから焼かれようとしている男の恐怖をつづってもいいし、ふたなり天使がおちんちんをシコシコするところを表現してもいい。
ポエムという言葉のイメージに囚われていたために、お気持ちを表現する手段としてしか見ていなかった自分がバカでした。
楽しくなってきましたね😊
たとえばさ、「私キスもしたことがなくてー」とアイドルが言ってたのに彼氏とのハメ撮りが流出したら大嘘憑きとして各地にクギまみれの藁人形が乱立するじゃん?
でも青山の「私って友達とかいなくてー。それでーこないだいつものメンバーで旅行に行ったときの話なんですけど~」は許されるのね。
お前それはもう友達じゃろ!本物のぼっちが職場の人間と仕事以外で団体行動するわけ無いやろ!出張先でも理由つけて食事会さえ断るのが真のぼっちやろ!
チェンソーマン構文を使うまでもなく明らかにぼっちの行動ではないだろこれは。
なぜコレが許されているのか俺には全く理解が出来ない。
童貞を自称していたツイッタラーや同人作家が「子供が~」「嫁が~」とか突然言い出しても許される空気も意味分からん。
何なんだこの世界は。
「年収1兆円あるけどこれは買わない」とか「46億年ぶりにはてブでコメントするか」みたいな嘘と同じ枠に「ぼっち」「童貞」「KKO」を入れるんじゃねえ。
夜の大型ショッピングセンター内のスーパーに買い物に行く。
休日は賑わっている商業施設だが流石に閉店まで1時間を切る時刻になると人は少ない。
とはいえ人がいないわけではないのは当たり前なので、
いつも通りに大きな通路を道幅いっぱいに広がりながら歩いてくる家族連れを避けるのはKKOである私の役目だ。
大昔には、せめて人ひとりが通れる「スペース」を残す配慮が出来ないものなのだろうか?
と疑問を持ったりもしたが最近では当たり前のこととして受け入れている。
とはいえ人がいないわけではないのは当たり前なので、
私が買いたい商品がある棚の前でスマホを弄ることに夢中でそこから動く気配がない30代くらいの女性がいるのは当然だ。
そういうときKKOである私は、その女性の傍によって手を伸ばし商品を取るということはできない。
そんなことをすれば、まるでこちらが酷いマナー違反だとか無遠慮な行為をしたかのような態度をその女性に取られるからだ。
別にそういう態度を気にしなければいいだけの話だろうし、必ずそういう態度を取られるわけでもない。
しかし、もしも他人にそういう態度を取られると私は多少なりとも心が傷つくことになる。
だから、私はその商品を手にとることは一度諦めて、他の必要な商品を買い物かごに入れてから戻ってくることにした。
そうやって一度その場を離れてから戻ってきても、まだその場にその女性がいる場合も多いが幸いにも立ち去ってくれていた。
そして、私が買いたい商品を手に取ろうとしていると、先程の女性が急いだ様子で戻ってくきて、私の「スペース」にズカズカ入り込むと棚に並んでいる商品の物色をし始めた。
どうやらスマホに夢中になる余り、肝心の買い物を忘れていたようだ。
当然、その女性にとっては私がその場所にいることは、あり得ないことであり、さっさと立ち去ることを望んでいるようだ。
もちろんKKOである私は素早くその女性のために「スペース」を譲った。
少々人混みを嫌う傾向にある。
だから、出来るだけ人から離れていたいのだが、どういうわけか世の中には人がいるところに来たがる人というものがいる。
客が1人もいないセルフレジで決済をしていると、どういうわけかわざわざ私の真隣に中高年の男性がやってきた。
ガラ空きのスーパーなのでセルフはもちろん有人レジも待たなくていいのに、わざわざ私の隣のレジにやってきた。
まあ、買うものは一点だけのようなので素早く買い物をして立ち去るだろう、と思っていたがうまくセルフレジを使えないようだ。
どうしてセルフレジが使えないのに有人レジに行かずに私の真隣にやってくるのだろうか?
そのあと店員を呼びつけて、ああだこうだと大声でやりとりを始めた。
たった一点の商品を買うだけなのに。
私は今流行りのHSPというわけでもないが騒がしいのはあまり好きではない。
昼間の人が多いスーパーなら致し方ないが、どうして閑散として静かな店内の一番うるさいところが私の「スペース」にやってくるのだろうか?
実に不思議だ。
境界知能
チー牛
子供部屋おじおば
「ケーキの切れない〜」
いま・その時点の社会の自称多数派の振る舞いに従わないというだけで、今までいろいろなレッテル貼られてきたな。
最近は「生きづらさに名前をつけてあげてるだけ」みたいな上から目線のクソパターナリズムをさも思慮深さのように語る自称支援者も多い。
自助グループはすべて最終的に「周囲の社会人サマにヘイコラしてご迷惑おかけしないようにシツケられましょう」って具合の洗脳会しかない。
レッテル貼られて、そのレッテルがなんの役にも立ってないのに「お前のため」呼ばわりされて、対価も税金も払ってるのに半端者扱いされて、礼儀正しくしたり人に優しくすると「弱わさ」「他人に対する責任のなさ」みたいな具合に付け入られて、とにかく社会から指さされ続けて、
なんで、そんなに俺たちのことが嫌いな社会のルールに従わないといけないんだろうな?
自分が「私は社会の多数派としてあらゆる無数の規範からして「ふつう」であることを証明します!」なんてやってる状態こそ、すごい病的だろ。
脳性麻痺の人々が70年代に「青い芝の会」って言う運動をやってたのを知った時、発達障害者らにはこれが必要だって思ったよ。発達障害者版、アスペ版の青い芝の会。
どんなに発達障害者やアスペのコミュニケーションが社会の自称多数派にとってキモがられようが、非効率で非生産的だと言われようが、不健全だと言われようが、それをやり続けるべきだ。
多数派の、自分が普通だと思い込んでる人々のルールやらマナーやらも、過去に「発明・創作・そういうことにした」瞬間があるわけだろ?なんで発達障害者やコミュ障が今それをやっちゃいけないんだ?
何かあるたびに、自称多数派は、色々な不安材料を発達障害者やアスペらに求めてきたよな。少し前の「ケーキの切れない〜」もそうだろ。アレ読んで、少し物事が分かった気になって、だが実際は「うちは普通でよかった」って思うだけ。
それで、外部に不安材料を求め切れなくなったら?今度は自分たちの社会の底辺から足切りして、「氷河期世代はテロ予備軍!」「子供部屋おじおばきもい!」と作り出すだけ。次はAIの発展でかなりの人が切り捨てられるだろうけど、どんなレッテル貼るんだろうな?
なあ、これ見てる発達障害やアスペいたら、いい加減怒ろうぜ。少しでいいから怒ってくれよ。
もちろん、それぞれがレッテルごとに連帯できるみたいな夢は見てないよ。でもそれぞれの立場でまずは怒ってくれよ。
こんなに、なんか、後天的に卑屈にされた集団いないだろ。反出生とか三十になったら自殺とかそういうネタに食いつく前に、ちょっとでも生き生きと一度怒ってくれよ。十代しゃべり場みたいに空回り気味でも、いいから。キモくていいんだよ。むしろ、「自分のコミュニケーションや生活はキモくありません」と思い込んでる方がキモいんだって言ったれよ。俺もお前もキモいんだって。空気読んで人をいじめる本末転倒な社会を構成してる空気読みのお前らも病気だって。
「青い芝の会」を100%見習えとか思わないが、50年前の麻痺者たちが自分にできて世の中を動かそうとした、あの精神を1%でも引き継いでみようぜ。あるいは在日が差別に反抗して自分達の学校や社会を新たに作り出した事例でもいい。そういう泥臭さ、「キモさ」を少しでも見直す。
そこからしか、発達障害者やアスペ他いろいろのレッテルへの抵抗と破壊、そして新しい「多様性ある」社会なんてやつはできないだろ。