はてなキーワード: Internet Archiveとは
自分も同じような感じで英語がわかるようになったので、BLに限らず英語で二次創作(fanfiction)を読みたいと思っている人向けに書く。
ちなみにShipperは性別関係なく単純に特定のキャラクター同士をくっつけて楽しむ人のことを指すよ。特に男性×男性のカップリングを楽しむ人はSlasherっていうよ。
英語圏で最もメジャーな二次創作投稿サイト。二次創作メインだけど一次創作(original work)を投稿する人もいて、形式も小説に限らずイラスト・ビデオ・オーディオなんでもある。英語以外の言語で投稿している人もいる(ドイツ語・フランス語・イタリア語・ロシア語・アラビア語・中国語・韓国語・タイ語など)。
ほとんどの作品はユーザー登録なしでも閲覧できるけど、ナマモノ(RPF: Real Person Fiction)とかは作者が登録ユーザー限定公開で書いている場合が多いので登録がおすすめ。あと登録するとブックマークとかサブスク機能が利用できるので便利。形式選択して電子書籍としてダウンロードもできる。
AO3が出てくる前にメジャーだった二次創作投稿サイト。AO3の開設が2009年なので、それ以前に流行った作品の二次創作がAO3にないときにここで探すとあったりする。転載防止のために範囲選択ができないので単語を調べるとき少し面倒。
あきらめるのはまだ早い。Quotev, WattPad, Tumbler, DeviantArt(メインはイラストだけど小説を投稿する人もいる), LiveJournalのサイト内の検索バーでキャラクター名やカップリング名で検索すると見つかることがある。
基本は A x B (xはアルファベットXの小文字)またはA / Bで表記で、上のPrivatterのリンク先にも書かれてるけど表記の順番に受け攻めは関係ない。すでに特定のカップリング名がついているものもある(Johnlockとか)。
作者がアカウントを消去したとかで見れない場合はInternet ArchiveのWayback Machine(魚拓サービス)で作品のリンクアドレスを検索すると過去に保存されたページを見れたりする。
夢主はReaderまたはOFC(Original Female Character)/OMC(Original Male Character)で表記されることが多いので、上にあげたサイトの検索窓で「キャラクター名 Reader」「キャラクター名 OFC(男性主人公の場合はOMC)」とかで検索するとヒットする。
名前変換はGoogleの拡張機能できるらしい(使ったことない)。Chrome ウェブストアで"InteractiveFics"と検索したら出てくる。
海外の二次創作ファンの間では自分が良いと思った作品のリストを作ってシェアする文化(?)があるので、手っ取り早く楽しみたい人はGoogleで「カップリング名 fic rec list」で検索すると作品を探す手間が省ける。
iOSの場合は内蔵辞書。Androidは良い辞書アプリがなかったからあきらめてブラウザで毎回英単語を検索してた。Chromeの拡張機能のWeblioポップアップ英和辞典は便利。スラングはUrban Dictionary。最初はいちいち単語引くの面倒だけど読めば読むほど単語引く回数も少なくなっていくよ。
辞書を使わないで読めるようになったら洋書に挑戦するのもいい。Project Gutenberg(著作権の切れた作品を無料公開しているサイト)やAmazon Classicsなら英語の古典が無料で読める。
動画もいい。カップリング名をYouTubeで検索するとどこかの誰かがそのカップリングのキャラだけが出ているシーンを再編集した動画を投稿していたりする。
本当はリンク全部貼りたかったけどスパム認定されて投稿できなかったから自分でググってください。
最初から気合い入れると疲れるので飽きたら途中でやめてまた気が向いたらやるみたいな感じで大丈夫。ネイティブも単語のスペルや文法を間違えることがあるので、調べてもわからない箇所は読み飛ばしてOK。自分のペースでコツコツやってたらわかるようになるのでがんばってください。
今日は昨日一昨日に引き続き、さむかったですね。
今日は、読み応えのある日記を読みました。これ。→ https://anond.hatelabo.jp/20201026003439
で、これを読んで、匿名性の高い、でもって、誰かに読まれる日記を書くというのは
おもしろいかもな~と思ったしだい。 アカウントに紐づかないのが気楽すぎる。2ch/5chとかもそうだけどさ~
今日はてなにアカウント登録をし、はてラボ人間性センターとかに阻まれつつ
日記をつけはじめることにしてみた、と、こういうことです。
そもそも小学校6年から大学2年まで、私は日記をつけ続けていて。その日記帳は53冊にわたります。
時間をおいて、54冊目のかわりに「さるさる日記」というネットサービスに登録していくらか日記をつけたんだけど(2002年ごろだったっけ)
その内容は、「さるさる日記」ともども完全に失われてしまった。ということを今日知った。
Internet Archiveにも残っていないので、発掘はむりですね。どうせろくな事記録してないし、いいや。
(2020-11-02)
昔あるゲームのサイトをよく見ていたのだがある時期から見なくなった。
今そのサイトはどうしてるだろうと気になって見るとアクセス不可になっていた。
しかしInternet Archiveに残っていたので見ると、どうやら2001年頃に閉鎖されたようだった。
どうして閉鎖したんだろうと思いつつ、当時のサイト内BBS(BBSってもう死語?)を見ると、かなり投稿数が少なかった。残った少数のコメントには「どうして消したのか釈明しろ」「2chの奴らは相手にしない方が良い」「著作権侵害したのは事実だ」などとあった。
なるほど、2chの奴らにサイト内画像の著作権侵害をネタにおもちゃにされてしまったのかと理解した。2chからの荒らしレスを大量に消し、それでも止まらないからサイト閉鎖という。
年上と年下の男性二人が海外で1週間同居する番組。いつの間にか新作が作られなくなっていた。
はてなではhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1003469: 土井先生がキューバに行った回]が有名か。
私は小川直也と竹内涼真の体育会系コンビ回が好きだった。竹内涼真が一瞬で上下関係を作り出し小川直也の腰巾着にまわり、可愛い女の子を進んでナンパする様に爆笑した。
南明奈とはあちゅうの回の緊張感がやばかったが、女子同士の組み合わせでももっと見たかった。
タイトル通り、いろんな都市で入りにくそうな居酒屋に取材する番組。単にネタが尽きて終わったものと思われる。
公式サイトに毎回レシピや大量の写真が公開されるのが楽しかったが、今はその公式サイトも消えてしまった……(Internet Archiveからは見られるが)。
印象に残っているのは韓国回で、美人なおかみさんが下町のおじさまたちから愛されている様がほほえましかった。ズッキーニのチヂミは未だによく作る。
NHK BSの旅番組ファンにはおなじみ、関口知宏の鉄道旅のフォーマットに生中継を加えたシリーズ。街道を歩きつくしたため終了したか?
公式サイトで見られた旅日記が楽しかったが、もちろん今は見ることができない(Internet Archiveからは見られるが写真はアーカイブされていない)。
注や参考文献でページが増えるのがやなら、せめてウェブに載せて欲しいよねー。Internet Archiveにも登録してさ。出版社さまお願い。
これが本当の「詳しくはウェブで!」
(2)
当時の惑星開発委員会はオタク界隈ではけっこう話題になっており、それを象徴するのが岡田斗司夫の来訪です。
4月12日(金)
逃避でネットを覗いていたら「惑星開発委員会」というサイトを見つけた。
http://members.tripod.co.jp/toumyoujisourin/rvtop.htm
惑星開発大辞典コーナーに僕の名前もあったので掲示板に挨拶したら、さっそく管理者の方からメールをいただく。
返事で「なぜ岡田斗司夫は作家を自称しているのか、については次の日記で答えましょう」と約束してしまうけど、なんでオレは仕事でもないところで働こうとするのか。とほほ。
その後、岡田さんはこのサイトを気に入り、定期的に掲示板に書き込みをしたり、知り合いに紹介したりしていたみたいです。
8月13日(火)
「ロスノフスキ家の娘」、あっという間に読了。
しょっちゅう覗いてるサイト「惑星開発委員会」にこんなテキストがあった。僕も今、格闘技オタクたちが嫌いで嫌いでしかたないので、思わずここに紹介してしまう。
(中略)
あああ、俺の言いたいことを俺より上手く書いている~!もう俺、物書き引退しようかなぁ。
相当宇野さんのことを買っています。当時の日記にはこんな記述もあり「これは善良な市民のことでは?」と言われてました。
知り合いから「就職活動に失敗した」というメールを受け取る。彼に「就職なんかせずにライターになれ」と忠告したばっかりなので、これはなんとか編集者に売り込んであげなければいけない。
まぁ僕よりは才能もある人だし、なによりまだ20代前半という若さなので、ライターとして喰っていくことぐらいはできるだろう。しかし彼を「こういう人生」に引き込んだ責任というのは、あるのかな?
僕は「自分への責任は、他者には移譲し得ない」という考えなので、あんまり悩んだりしないけど、これが唐沢俊一さんのように責任感の強い人なら、あとあとまで面倒見たりするんだろうなぁ。
この日記も宇野さんのことですね。実際に会って話したようです。
10日(水)
朝、マクドナルドでハンバーガーを食べる。ついに一個まるまるを完食できるようになった。まだ喉の痛みは残っているけど、まぁ一安心。
おもしろ会の武さんと5年ぶりぐらいに会う。なにかと思えば「物書きになりたい」という相談。彼女の同人誌を預からせてもらって、編集さんを紹介する約束をする。
続いて京都から宇野くん。彼とは初対面だけど、昔に彼が浅羽通明氏に説教された話を教えてもらう。浅羽氏の書き下ろし本『教養とはなにか』を院生たち取り巻きと話してるときの浅羽さん「これで革命を起こす」と叫んでいたらしい。当時10代だった宇野君がこれに疑問を呈したら喫茶店で閉店まで説教されたらしい。やはり浅羽さんは熱くて面白い人だ。
そして、岡田さんは惑星開発委員会のオフ会にまで顔を出すまでに。その時のことを日記でこう書いています。
27日(火)
木曜のオフ会に向けてリビングをかたづけ、そのあと覚悟を決めてついに北歯科へ。
もうずっと前に神経を抜いた歯なので、おそらく歯茎が炎症を起こしているのだろう、
ということで今回は様子見。
ブックスルーエで宮脇檀の『男の生活の愉しみ』(PHP文庫)を買う
20年近く前、仕事で一山当てたら宮脇氏に自宅を設計してもらおう、と思っていた。
不幸なことに宮脇氏は98年に他界し、僕はいまだに一山当てれずにいる。
でまぁ、書店で氏の本を見かけたら自分の果たせなかった夢への供養だと思って
買うことにしている。
……その後、岡田さんが惑星開発委員会に言及することはなくなりました。「あんなもん」だったので飽きてしまったんでしょうか?
惑星開発委員会の更新をやめ、善良な市民のキャラを捨てて2003年8月頃にはてなダイアリーで新たに始めたのがヘルシー女子大生(id:kurosawa31)と言われています。挑発的な言動、サブカルへの豊富な知識、そして女子大生であることが話題になり「はてな界の斎藤美奈子」と称されたりします。
と書かれているのである程度の騒動を起こしたことがわかります。
しかし、今となっては日記はプライベートモードに設定されており、internet archivesに残っている断片的なものしか読むことができません。
それによるとヘルシー女子大生は京都在住ということになっており、宇野さんは立命館大学卒業後、京都で就職したのではと推測できます。
2ちゃんねるの過去ログを追うと初期から善良な市民との類似性が指摘されているのが面白いです。その時は「言っていることが似ている」と言われる程度ですが、しばらくして2004年3月に「オトコノコ」「キャラ売り」「同じ穴のムジナ」「ブンガク」などのワードの相似性、話してることが一緒などの指摘がされヘルシー女子大生=善良な市民なのが濃厚となります。この指摘に伴って日記の更新頻度は落ち、プライベートモードとなったわけです。
この頃の宇野さんは旧・惑星開発委員会のような「有名サイトになろう」とか今のような「ライターとして成りあがろう」という気概はなく、ネカマして周りを翻弄させて楽しみつつ、趣味としてドラマなどの評論を書いていこう、という印象を私は持ちます。
社会学者千田有紀先生、キズナアイの記事について印象操作を指摘されるも反論としてキズナアイの相槌を数え始める→そもそも相槌「しか」打たないって話だったのでは - Togetter
キズナアイさんが相槌「しか」打たないことを、社会学者さんは相槌の数で判断されようとしています。しかしどのくらいの割合であれば相槌「しか」打っていないと言えるのかの基準が無いため議論が成立しません。
だったら鈴木福さんと比較すればよいのではないでしょうか?2017年のNHKノーベル賞特集では鈴木福さんが同様の役割で出演されています。
【ノーベル賞がまるわかり!】ことしのノーベル賞、注目の研究は?タレントの鈴木福君が、ゲノム編集、腸内細菌、重力波に量子コンピュータ-、人工光合成まで最新科学を学びました。ノーベル賞のまるわかり解説のページです。
NHKからは2017年の特集は削除されていますが各種アーカイブ上に一部の内容が残っています。
鈴木福さんとキズナアイさんを比較すれば、キズナアイさんが相槌「しか」打っていないという議論のベースができると思います。
アーカイブ上に鈴木福さんのデータが残っていることを社会学者さんあるいは議論に参加している関係者さんにどなたかお伝えしてもらえませんでしょうか?私はTwitterアカウントを所持していないので。
(補足)
・ 2017年版の医学・生理学賞ページはアーカイブからは見つけられませんでした。
・ 2016年版もアーカイブされていましたが今回のような形式ではありませんでした。化学賞 2016(Internet Archive)
・ それ以前の年度の特集ページは見つけることができませんでした。
internetarchivebooksで、日本画での波の描写をまとめた本がダウンロードできるとハテブで上がってきてて、自分が好きなアルフォンス・ミュシャがないか探そうと、muchaで検索をかけたんです。
後はよくわからんと思っていたところ、muchakuchadaisukiというタイトルで、英訳された漫画がまるっと一冊。2巻以降もある様で。
サムネの左上にカーソルを持っていくと、マンガライブラリというグループが出てきます。そこを選ぶとずらっと出てくる漫画といくつかのラノベ。エロなのかぼかしが入っている物もあります。
投稿は2013年かららしく、アイテム数はもうすぐ2万件。閲覧数は昨年末から急激に数を増やし、累計300万を超えています。
カリフォルニア、フィリピン、インドネシア、コスタリカとアクセス数の多いリージョンが表示されているのは面白いです。
また、今回の投稿者のリストを見ると、大量の資料の中にいくつものゲームソフト、メディアや雑誌などもありまして、
これをもとに広告付きのサイトも作れることを考えると、早いとこどうにかしてほしいものです。
もっともこれでも氷山の一角で、ほかに大量にあるように思いますし、そもそもアーカイブとして集めることが目的なら、公開の前にしっかり著作権を確認しているのでしょうか。
サイトのURLがわかれば、Internet Archiveに画像が残ってる可能性もある
ジオシティーズのURLは、現在では http://www.geocities.jp/~ だけど、それじゃなくて
当時のURL http://www.geocities.co.jp/AnimeComic/(数字)/~ とか http://www.geocities.com/~ を
http://web.archive.org/ に入れてみる
趣味の一環として翻訳していて3大困ること、2つはこれまでに書いてきた「日本語にその語彙のない言葉」「現地で有名だが日本ではそれほどでもない固有名詞」なわけだが、もう一つが表題のものだ。とはいえこれはダジャレに限った話ではない一般的な言葉遊びも含まれる。
「夏休み、ハートはドキドキ!」という映画がある。既に10年前の映画だ。残念ながら前回書いたような全セリフ字幕収録なんてことはしてくれないDVDが発売されているのだが、とある日本人女優が出演していることもあり、是非とも日本語字幕付きで見たいということで野良英語字幕からの翻訳を試みたのだが、これが意外と困難を極めた。
先達はありがたいもので、その苦労が書かれている文章がある。「夏休み、ハートはドキドキ!」という映画に野良字幕(だと思う)をつけた人がその苦労話を書いたページがある。もう既に元のページは失われていて、Internet Archiveにしか残っていないのだけど、以下がそれだ。
タイ映画 ピットタームヤイ フアジャイワーウン 「夏休み ハートはドキドキ!」 ปิดเทอมใหญ่ หัวใจว้าวุ่น Hormones
この人も字幕は他所に公開しなかったようだが、苦労話を書かれているだけでも参考になるのはありがたい。
คำผวน(カムプアン)は日本でも地味に流行ったことがある。これを知っている人はそこそこの年寄りだと思うが「スネークマンショー」の「ジャッキー大山」が「こなさん、みんばんは」という形で多用していた。今、念のために調べてみたところ、スプーナリズムというらしい。こなさんみんばんは、みたいに意味の通らない言葉なら、通じるかどうかは別として日本語字幕でも再現可能なのだが、苦労話にもある「パンディー犬」(パンダ熊のคำผวน)や、自分をさして「猿」とするようなคำผวนはどうにかして訳さないといけない。前者はしょうがないので言葉をそのままカタカナ書きして意味をカッコ書きで付け加えた。問題は後者だ。
そもそも後者は何のคำผวนなのか。答えは別ページに用意されていたらしいのだが、さすがにアーカイブにも残されていない。本人がトホホ、といいながら訳した言葉を信じて、"ลิงจั๊กๆ"(リンチャクチャク)は"รักจริงๆ"(ラックチンチン)のคำผวนであろうとあたりをつけた。日本人はどうしても"チンチン"に反応してしまうのだが、"จริง"(チン)で本当に、"ๆ"(その繰り返し)で内容を強調するので、"จริงๆ"は「すごく」と言った意味になる。決して男性器とは関係がない。
そこまではいいとして「本当に愛している」をどうダジャレで訳せば「サル」が絡むようになるのか。3日断続的に悩んだ挙げ句、「愛ささる」という方言混じりのくだらないダジャレになった。他にいい訳があればご提案いただきたい。ちなみに野良英語字幕でこの辺どうしていたかというと、まるっきり無視されていた。คำผวนを利用したダジャレナゾナゾもあったが、คำผวนは無視され、ビールを用いたナゾナゾに勝手に変換されていた。そんなのでいいのかどうかは自分にもわからない。
คำผวน以外にも言葉遊びはある。別の「I fine thank you... love you」という映画には英語の空耳的なダジャレが多用されていた。奇しくもこの映画にも「夏休み ハートはドキドキ!」にも出演していた、とある日本人女優が出演しているのだが、だから言葉遊びがあるのかと言われれば偶然の一致だろうと思う。
具体的にはGuysがกราย(クライ、口語的にはガイ、近くで)に聞こえると言うので「I'm good. And I'm glad to meet you, guys?」が「私はコック ガス台では魚を近火で焼きます」という意味の文章でのダジャレに変換されていた。見てわかるかどうかはわからないが、全部ダジャレ変換しているわけではなく、脚韻的に最後の部分だけダジャレ変換しているだけだし、goodがcookに聞こえるというのは日本語でも流用できるのだが、guysはどうダジャレ訳すればいいのだろうか。一応やってはみたのだが、あまりにひどすぎてここには書けない。勘弁していただきたい。
http://web.archive.org/web/20170617200237/http://toianna.hatenablog.com:80/entry/2016/12/21/222010(internet archive)
http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/12/21/222010(本文跡地)
http://b.hatena.ne.jp/entry/toianna.hatenablog.com/entry/2016/12/21/222010(はてなブックマーク)
2016-12-21
4℃というジュエリーがある。市場が縮小する中で着実に売上を伸ばすトップブランドであり、ハート形とピンクゴールドの組み合わせなど甘々なデザインが特徴。SweetやCanCamなど女性誌でも引っ張りだこで、結婚指輪としても人気がある。
その一方で、「4℃はダサい」という意見も根強い。4℃は女子高生から女子大生を主に支持を受けているブランドで、似合いそうな服は真っ白なコートやパステルカラーバッグ。アラサーのほとんどが着るのをためらう色合いだ。価格帯は2万円台がボリュームゾーンで決して安くもない。「だったら、年相応のブランドがいい」という気持ちはわかる。
年齢層を無視しても、4℃が背負う王道イメージも私のような日陰者にはずしんとくる。デザインモチーフはハート型、ピンク、ディズニー。ううっ、胃もたれする。年末年始の繁忙期を『日曜日よりの使者』を流して乗り切っている痛いアラサーに何てことするんだ。4℃が悪いんじゃない。こっちの感性が悪いんだ……。
4℃はクリスマスプレゼントでよく登場する。
ほとんどの男性はジュエリーブランドに詳しくない。若いうちから女性のジュエリーに詳しかったら業界人かよほどの遊び人だろう。だからクリスマスプレゼントに困る。「彼女 プレゼント」で検索するとネックレスやリングなど貴金属がお勧めに出てくる。検索1位で出てくるサイトのお勧めはティファニーのオープンハートか、4℃のハートモチーフ。ティファニーの方が高いし、どっちも王道なら4℃かな……。と、直前になって男性は慌てて店へ駆け込む。相手が4℃やティファニーが好きで選んだのでもない限りは、プレゼントしたら彼女の笑顔がどうも引きつっている……という顛末になる。
「貰いものに文句を言うなんて」という層もいるだろうが、彼氏からのプレゼントはおいそれと捨てたりできないからしんどい。次回のデートにはつけないと気まずいし、さりとて合わせる服もない。いっそ白いワンピース、買うか…? ムリムリ。彼の検索結果を恨むしかあるまい。
何歳になっても4℃で心から喜べる女性はチョロい。王道ファッションを好むと分かっているからだ。リッツ・カールトン、ディズニーランド、パリ旅行と喜びそうなものが想像できる。従って男性がプレゼントを考える時間も少なくてすむ。どれもお金さえ払えば手に入るから、彼女の笑顔をたやすく手に入れられる。
その点、王道でない私のような人間のなんと面倒なことか。4℃が嫌なのは「この年だからヴァンクリがいい♡」とかそういうことじゃなくって、自分の好みを元に熟考してほしいからだ。今年なら私は手間暇かけた料理かシリアへの寄付をしてくれたら嬉しい。そういうねじくれた願望には「王道プレゼントをくれる君は、私のことを本当に考えて選んでくれたのか」という答えのない問いが待っている。彼にとってみれば、プレゼントを慎重に選ぶ苦痛が毎年続く。去年あげたものと同じものでは済まないからだ。
王道を好む女性は「浅はか」「チョロい」というそしりと引き換えに、男性の思考コストを大幅に削減しているのである。クリスマス1日前に駆け込んだ店で手に入る愛情を喜んでくれる。それはなんと大らかな性格なんだろう。こっちは何てワガママなんだろう。
だから4℃を喜ぶ女性を馬鹿にして「私は違いが分かる女だから」なんて振るまえやしない。それは4℃という優れたブランドを踏み台にして自分をお高く見せようとする、別の呪いに過ぎないのだから。ディズニーなんて絶対行けない、ピンクのハートなんて耐えられない。そんな自分を相手にしてくれるパートナー候補の数は絶対に4℃を喜ぶ王道女子より少ない。わかっちゃいるけどmiu miu♡Tiffany♡になるのはムリだなあ……そもそもがはてなブログを選ぶ女なんだからさ。
もしあなたが私と同じように4℃で喜べないなら誇りも抱いてほしい。単なるアンチ王道になって「私は違いがわかる女だから4℃は選ばないのよ」なんてつまらない態度になるのはもったいない。どのブランドにも駄作や傑作はあり、4℃もその例外ではない。
けれど「ああ、これじゃなくていいかな」と思うあなたを含めた複数の価値観がこの世にあれば、多様性が生まれる。価値観が一つしかない社会では「絶対開成から東大へ入るのよ」なんてベクトルが一直線のママが生まれてしまう。価値観は1種類ではない。子どもが4℃を好きになろうが自作のネイティブアメリカン衣装を着ようが、「いいじゃん」と言える度量は多様性から生まれる。
将来子どもが彼氏に4℃を貰ったら「いい彼氏じゃないの、大事にしなさいよ」と言ってあげられるように、同じくらい自分の価値観も大事にしていい。どちらが優れているわけでも、劣っているわけでもない。
ただ、もし王道プレゼントやもっと言えばプレゼントをもらうこと自体も苦手なら自分が王道女子のように大らかな女ではないと自覚しておきたいし、そんな人間がクリスマスプレゼントを欲しがるなら「これ買って」と指定すべきだろう。ややこしい好みなのにプレゼントはサプライズがいいなんて、モノを貰うプロセスだけ王道サプライズにあこがれてしまうのは都合がよすぎる。
かつては私も「クリスマスに欲しいものを自分から言うなんて、せびっているようで失礼なんじゃ」と思っていた。その結果サプライズでもらったのは高さ1mほどあるサルの置物、自作の小説、私のために作られた曲たちだ。ハッキリ言って、4℃貰ったほうがマシだった……。そう思うくらいなら自分でブツを指定すべきである。男へ女向けブランドの知識を与えることなくサプライズに甘えるな。
お互いに同じくらいの予算で前からほしかったものを交換したいと言えば、王道女子がターゲットの人間も納得してくれる。4℃を喜べるなら、自分の大らかさに自信を持って。4℃を喜べないなら、チョロくない女として誇りを持とう。優劣を付ければ、そこに単なる「王道への僻み」が生まれてしまうから。そして自分が面倒な側に立つのなら、クリスマスは本当にギフトを贈り合うべきなのか?サプライズである必要はあるのか?と、根底から面倒な疑問を呈しようじゃないか。
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曖昧さ回避 「ベートーヴェン、ベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
Beethoven.jpg
別名 楽聖
生誕 1770年12月16日頃
死没 1827年3月26日(56歳没)
活動期間 1792 - 1827
ベートーヴェンのサイン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。
目次 [非表示]
1 生涯
2 作風
2.1 初期
2.2 中期
2.3 後期
3 後世の音楽家への影響と評価
4 芸術観
5 思想
6 人物
6.1 名前
7 死因また健康について
7.1 聴覚障害について
8 親族
9 弟子
10 代表作
10.1 交響曲(全9曲)
10.2 管弦楽曲
10.3 協奏曲、協奏的作品
10.4 室内楽曲
10.5 ピアノ曲
10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
10.7 宗教曲
10.8 歌曲
11 著作
12 伝記
13 脚注
14 参考文献
15 関連項目
16 外部リンク
16.1 録音ファイル
16.2 伝記
生涯
ベートーヴェン(1803年)
1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。
20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。
40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。
1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。
作風
初期
作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。
中期
1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。
中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。
これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。
後期
1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。
後世の音楽家への影響と評価
ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。
ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。
中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。
一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。
芸術観
同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた[7]。
ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。
思想
ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスやプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。
また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。
政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒのウィーン体制では反体制分子と見られた。
その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。
人物
身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。
基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。
当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。
潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。
性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。
師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。
パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。
テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。
交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。
聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。
死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。
これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。
メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番やハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。
彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。
パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。
コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。
名前
原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。
日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナー、ヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。
姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラント(フランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。
vanはドイツ語、オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。
偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。
詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照
死因また健康について
慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。
ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。
1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。
聴覚障害について
難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。
耳硬化症説
伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。
又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。
先天性梅毒説
「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。
鉛中毒説
上載の死因また健康についてを参照。
メッテルニヒ政権説
ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。
有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。
デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。
完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。
親族
フランドル地方・メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンス・アウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。
祖母:マリア・ヨゼファ
父:ヨハン
母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版) ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。
甥:カール(ドイツ語版) カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。
弟:ニコラウス・ヨーハン
同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。
弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。
弟子
カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。
フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。
ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。
ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。
アントン・シンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。
代表作
詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照
交響曲(全9曲)
第1番 ハ長調 op.21
第2番 ニ長調 op.36
第3番 変ホ長調 『エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]
第4番 変ロ長調 op.60
第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]
第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]
第7番 イ長調 op.92
第8番 ヘ長調 op.93
第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]
『レオノーレ』序曲第1番 op.138
『レオノーレ』序曲第3番 op.72b
序曲『コリオラン』ハ短調 op.62
交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91
『命名祝日』序曲 op.115
『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113
『献堂式』序曲 ハ長調op.124
協奏曲、協奏的作品
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61
ロマンス第1番 ト長調 op.40
ロマンス第2番 ヘ長調 op.50
三重協奏曲(ピアノ・ヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56
合唱幻想曲 ハ短調 op.80
弦楽四重奏曲(全16曲)
第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1
第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2
第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3
第10番 変ホ長調(ハープ) op.74
第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95
第12番 変ホ長調 op.127
第13番 変ロ長調 op.130
大フーガ 変ロ長調 op.133
第14番 嬰ハ短調 op.131
第15番 イ短調 op.132
第16番 ヘ長調 op.135
弦楽五重奏曲 (全3曲)
ヴァイオリンソナタ(全10曲)
第5番 ヘ長調 『春』 op.24
第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47
チェロソナタ(全5曲)
ピアノ三重奏曲(全7曲)
第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1
第7番 変ロ長調『大公』 op.97
その他の室内楽曲
ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17
六重奏曲 op.81b
七重奏曲 変ホ長調 op.20
管楽八重奏曲 op.103
ピアノソナタ(全32曲)
第8番 ハ短調『悲愴』 op.13
第15番 ニ長調 『田園』
第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2
第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53
第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]
第26番 変ホ長調『告別』 op.81a
第30番 ホ長調 op.109
第31番 変イ長調 op.110
第32番 ハ短調 op.111
その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)
創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34
創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35
『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78
『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79
創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80
創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76
ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120
アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57
幻想曲 op.77
ポロネーズ ハ長調 op.89
7つのバガテル op.33
11の新しいバガテル op.119
6つのバガテル op.126
バガテル『エリーゼのために』 WoO.59
本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。
オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
歌劇『フィデリオ』 op.72c
劇付随音楽『エグモント』op.84
劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113
宗教曲
ミサ曲 ハ長調 op.86
ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]
修道僧の歌
歌曲
アデライーデ op.46
汝を愛す
鶉の鳴き声
新しい愛、新しい生
口づけ
追憶
懺悔の歌
部屋を整理していたら12歳の自分からの手紙というコンテンツを発掘した。
そういえばむかし実家に帰ったときに渡されたなあと読み返してみたら、「東京水道局の水はどうですか?」だと。
何だお前。
いや、実際いま東京に住んでるけどさ。
あと、酒とタバコと麻薬を同列に並べて「絶対に手を出すな」と。
お酒大好きだよ!ごめんな。
封筒には、当時使ってたYahoo IDなどを羅列して「まだ使ってますか?」と書いてあった。
いくつか試してみたところ、MSNはアカウントごとなくなってて、Yahoo IDはなんとログインができた。
当時使っていためちゃくちゃ簡単なパスワードですんなりとログインができた。
念のためにログイン履歴を見たら数千数百日ぶりのログインとのこと。
そこから色々と辿ったら色々と昔の恥ずかしいホームページやらなんやらがたくさんInternet Archiveに保管されてるのを発見して、インターネットつらいという気持ちになってきた。
ちなみに、昔のメールが読めるかなとちょっと期待したらYahooは6ヶ月以上メールにアクセスしないとデータが消える仕様になったらしく、見れなかった。
来週から出勤。
いきたくねー!