はてなキーワード: 21世紀とは
方言にはいくつかの要素が挙げられるが、重要な要素の一つが発音だと思う
「ズーズー弁」などはその代表例だ。鼻にかかった発音でフランス語のように聞こえなくもない。
「ダ、ディ、ドゥ、デ、ド」としかいえないというのを見たが、
上野発の夜行列車内で車掌が「つぎはメト、メトに停まります」と放送したのを聞いたとき、
軽い衝撃を受けたが、行った先ではもっとひどかった
東北の人の会話がまったく聞き取れないし、語彙も未知なものばかりだった
1980年代でこうなのだから、テレビやラジオ以前の活字メディアの時代はなおさらだろう
幕末維新期の志士たちが「ばい」とか「ぜよ」とか語尾につけるだけで、
「方言いっちょ上がり」みたいな感覚なのだろうが、安直な発想だ
実際には、おそらく互いに「は~、こいつ何しゃべってんだ、全然わかんねぇ」とか思っていたのではないかな?
松本清張「砂の器」により、東北弁に似た発音が出雲地方の一部でも見られることが知られるようになったと思うが、
21世紀の、発音が平準化した現代ではむしろその意味するところはわかりにくいだろう。
どちらも楽しめたのは間違いなくて、面倒くさい原理主義ファンじゃなくてよかったなー、と思いました。
ただね、公開順は海外と同じプログレ、オルタナの順にすべきだったんじゃねえかな、とは思います。
プログレはフリクリの「アクション豊富」「わけわからん」といった直感的な「フリクリぽさ」を追いかけた作品でした。
だからぱっと見の歓びはプログレの方がずっと高かった。でも、だんだん「これはレクイエムだ」という思いに駆られ始めたのです。
21世紀初頭のセンスを今風に辛うじてリアレンジしているものの、プログレで歓ぶポイントはあくまで「鶴巻フリクリぽさ」にあった。
つまり、海外ではまず、「鶴巻フリクリファン」の幻想に蹴りをつけたうえで、オルタナという新境地を提示したのです。
プログレは2001年の作品で見せた新しさを2018年に追いかけるという奇妙な構造の作品で、作家陣の思いは「あの時好きだった鶴巻フリクリぽい」ものを作ろう、という風に見えた。
一方のオルタナはフリクリとして最低限守るべき、リスペクトすべき(と監督が判断した)部分と本人のやりたいこと(監督のキャリアの中で描いたことのない「普通のJKを描く」こと)
のミクスチャーで結果的にフリクリぽくないと判断されかねないところもフリクリらしさとして機能していたように思うんです。
でもどっちも楽しかった。違った良さがあった。
A3!/アイドリッシュセブン/アイドルマスター SideM/あんさんぶるスターズ!(2科目以上選択必修)
文豪ストレイドッグス/文豪とアルケミスト(選択必修)
誰ソ彼ホテル
21世紀覇権ジャンル学(戦国BASARA・忍たま乱太郎・Axis powers ヘタリア・弱虫ペダル・Free!・ユーリ!!! on ICE)
週刊少年ジャンプ学(遊☆戯☆王・ONE PIECE・NARUTO・家庭教師ヒットマンREBORN!・黒子のバスケ)
バンドやろうぜ!
当たり前だが、これがまず第一だ。
21世紀の現代世界では『人権』は絶対ということになっている。
ここまでは当然わかっているだろう。
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増田も無理だろうと予想したうえで、半ば罠として質問したのだろうと思う。『人権』とは所詮、人間が生来持っている感情の発露でしかないからだ。"なんとなく群れの仲間とは平等に餌を分けないといけない"という、社会性動物の人間が生来もつ感情的本能が、フランス革命周りの歴史的経緯の中で前面に押し出された思想が『人権』なのである。この感情はサルにすらある。餌を不平等に分けられると猿は怒りをあらわにするらしい。この怒りだけが『人権』=差別はダメだという結論を根拠づける。
強いて言えば、現代に至るまでに理論が明らかにしたのは、非白人や障害者や子供や貧乏人を、群れの仲間と見做さないことは論理的ではない、ということだった。「感情論抜きで答えろ」という問いをかつて投げつけられ、そして屈服したのは、黒人やユダヤ人(場合によって差別対象の別の単語に入れ替わる)は仲間じゃないからエサを平等に分けなくてもいいですよね? という論理のほうだった。かつて僕らは、感情論抜きで、差別してもいい理由を見つけようとしていたのだよ。それができない。だから差別はダメだ。そういうことだ。
左翼リベラル派としては「冷戦時代は良かった」と思ってるかも知れない
しかし本当にそうだろうか?
確かに、現在のような中国韓国への悪しざまなヘイトや排外主義は、少なくとも戦後、1980年代までは目立たなかった
が、その手の言説が庶民大衆にまで熱烈に支持されてるかというと少し微妙
在特会や主権回復はすでに「右派のプロ市民化」して現状以上に幅広く人が増える気配は感じられない
(本物の庶民大衆てのは、活字のヘイト本なんか読まず、昨日の野球の試合や今日の夕食、人気タレントの出てるドラマ、学校や職場の愚痴、身近な男女の誰それがくっついた別れたといった話をしてる奴のことだ)
排外主義政党の日本のこころ(旧・次世代の党)はちっとも議席が伸びず消滅した
自民党支持派の中でもコアな連中は極端な復古主義・排外主義だろうが、大多数は経済政策を支持してるだけで、深く考えてない
ひょっとして21世紀に入って以降の右傾化って、単に論壇インテリ業界の枠内で右派が目立つようになっただけじゃね? という気がしている
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冷戦時代の1980年代まで(つまり昭和の時代)、世の庶民には、男尊女卑、セクハラ、体罰、運動部は水飲んじゃいけない、年功序列、社員は会社に滅私奉公、嫁は姑に逆らっちゃいけない等々の、家父長的体育会系的価値観が蔓延して、みんなそれを当たり前だと思ってた
が、現在ではそれらを露骨に前面に出せばひんしゅくを買う、論壇インテリ業界内の話でなく、なんの変哲もない庶民の多数が、そういうのを嫌う価値観になった
これって、伝統的保守的価値観の否定なんだから「左傾化」じゃねえのw
無論、これらは小難しい社会主義や共産主義イデオロギーと何の関係もない
しかしそもそも、右翼左翼という概念は、フランス大革命のあと議会で伝統保守派(王政と教会の価値観を踏襲)が右側、改革派が左側に座ったことに由来する
つまり右派つうのは「昔ながらの価値観」を大事にする人たちのことだ
「『昔ながらの価値観』なんてキツいからヤダ」という思想こそが左翼なのだとすれば、8時間労働制やら週休二日やら近代以降の世の中はもうずっと左翼化してる
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ある意味では、一部のリベラル派インテリ(言い換えればインドア派のオタク)だけでなく、世の庶民の多数が、男尊女卑、セクハラ、体罰、運動部は水飲んじゃいけない、年功序列、社員は会社に滅私奉公、嫁は姑に逆らっちゃいけない等々の、家父長的体育会系的価値観を平然と嫌がるようになった現在の方が、昭和期より世の中が良くなったという気がする
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例えば、印象派の代表格であるマネやモネですら、その絵画表現の価値が理解されるまでには長い年月が必要だったようだ。
当時の自称知識人からはコテンパンに叩かれたらしいが、もし21世紀の今彼らの絵が発表されたなら「性的消費」「文化の簒奪」と批判されると思う。
昔の格言か何かで、『戦略レベルのミスは戦術レベルでは取り返せない』というのがある。
確かに、近年電機業界で大きな損失を出した会社を見てみると、この戦略レベルのミスが非常に目立っておりなるほどなと思う。
プラズマディスプレイに社運をかけて大赤字を出したPanasonicやPioneer、巨額の開発費をCell Processorに投資して爆死したSONY、Westinghouseの買収でやらかした東芝等。
ところが、最近増田で話題のNECを調べてみると、こうした会社とは不振の状況が違うように思えてきた。
なんというか各事業で競争力を失って徐々に敗退していくというような。言い換えれば戦術レベルの敗北を繰り返してじり貧になったとでもいうか。
昔半導体がらみの仕事をしていてNECの事業所にも出入りしていたことがあり、個人的にも興味があったので歴史を少しまとめてみた。
なお、この記事を書くのに参考にしたのは下記NECのIRで、1990年からの業績データと、1995年からの会社紹介資料が閲覧可能。
https://jpn.nec.com/ir/index.html
1999年 半導体メモリ事業を日立と統合して分社化。後のエルピーダメモリ。2012年に経営破綻。
2000年 家電部門のNECホームエレクトロニクス事業停止。
2001年 有機EL事業をサムスンSDIと合弁化。2004年に有機EL事業から撤退。
2004年 プラズマディスプレイ事業をパイオニアに売却。
2010年 半導体子会社のNECエレクトロニクスをルネサステクノロジと統合。半導体事業から事実上撤退。
2011年 液晶事業を天馬グループとの合弁化。2016年に完全売却。
1991年 NECの研究員だった飯島澄男がカーボンナノチューブを発見
2001年 スーパーコンピューター地球シミュレーターが世界一の性能を発揮
2001年 2000年度3月期決算で過去最高の売り上げ5兆4000億円達成。 ※バブル期の1990年度でも3兆7000億円程度。この時期までは比較的うまく経営ができていたと思われる。
NECに出入りしていたころに思ったが半導体事業部に新卒で入った社員は大体優秀かつ深夜残業休出当たり前なモーレツリーマンだった。
設備投資も研究開発費も年間3000億円コンスタントに投資しており、今の水準で考えても少ないことはなさそう。
しかも20世紀終わりから21世紀にかけて爆発的に伸びた情報通信産業に社内のリソースを集中してて、バックに住友財閥もついている。
会社の置かれた状況を考えると韓国のサムスン電子や中国のHuaweiみたいに、今でも世界を席巻できていただろうに。マジでどうしてこうなった…
当時気になったのは本業と関係ない関連会社が異様に多いことぐらい。(不動産のNECファシリティーズ、運送業のNECロジスティクス、食堂運営のNECライベックス、企業研修のNECラーニング等)
どうでもいいけど最近のスローガンのOrchestrating a brighter worldってのはマジで意味不明。迷走ぶりを象徴している。
NEC全盛期を知っている人間からすると、今の凋落ぶりは目を覆うばかりだよ。バブル前に『C & C』- コンピューティング & コミュニケーションだったかのキャッチフレーズの元、コンピュータ / 通信 / 半導体を3本柱にして世界を席巻していたのがすべて壊滅だもんな。
後知恵で今から振り返っても、この分野は90年代から21世紀にかけて伸びまくってたわけだし、バブルのころは理系就職人気No.1で優秀な人材が殺到、半導体は世界1、PC / 携帯電話では日本1のシェアを獲得。
ここ最近の流れを見ていて昔懐かしい「バーチャルアイドル」なる肩書を見た
その瞬間ひらめいた
これは、Vtuberってキャラクターの「エロなしライブチャット」なんだと
ならば、このキャラクターを動かしながら配信でしゃべるというフォーマットは「エロ」に転用できるんじゃないかと
可愛いバーチャルな少女を前にハアハアしているきっずは、エロチャットで盛り上がってるオジサンといっしょだよ
エロなしのライブチャットが盛り上がるのなら、エロ有りのライブチャットだって技術的には可能なはずだ
だけど問題がある
「あのフォーマット」をバーチャル"youtuber"と呼んでしまったので、youtube=非エロになっちゃってるんじゃないか?
ああ、これは21世紀の日本人が創りだした「ニュースピーク」だ
3Dの美少女キャラクターにアレほどヒトが群がるなら、エロも成り立つはず!
ほら、どうです?
その昔、ギリシアの哲学者がみんな「俺はこんなに頭が良い」と自慢合戦をしていたとき、ソクラテスという賢者は「私は、自分にも知らんことがあることを知っている」と言った、謙虚である
世のリア充陣営の人間はどいつもこいつも、自分はモテるとかスポーツの試合でこんな成果を挙げたとか、自慢合戦が大好きである
自慢ばっかりしてる奴のなかには、本当に学歴も収入も社会的地位も高い奴もいる。確かにスペックが高いのは認める、が、謙虚そうに見えないという点で尊敬する気が起きない
この点、我らオタク陣営の人間は自分がいかにダサくて格好悪いかを軽いノリで自虐ギャグにできる、こっちの方がよほど知的な態度じゃないか――そんな風に思っていた
が、それから幾星霜、「ジャパニメーションは日本が誇る文化」みたいな言説が流布されるようになってから、何やらおかしくなってきた
21世紀の現在、すっかりオタもリア充と同じく自慢したがりが増えた。いや、そら自虐するより誇りたい欲求はどんな人間でもあるだろう、そらわかる
とはいえ、皆が皆「日本スゴイ」とか「オタク文化スゴイ」とか自画自賛ばっかりなのには知性が感じられない気がするのは俺だけだろうか?
もちろん、日本はこんなにダメだとかオタクはダメだとか「自虐しかしない」奴もそれはそれでおかしいと思う
だが、自分で自分の問題点を指摘できる、さらにそれをギャグのネタにできるというのが頭の良いことだと俺は思うんだがなあ、こういう考え方、古いんだろうか?