はてなキーワード: 21世紀とは
「私は長い間、法律の通じない野蛮人の間で暮らしてきました」彼は言った。「それで私は自分が法律だというやりかたが身についてしまった。どうか、ホームズさん、それをご理解ください。私はあなたに危害を加えたいとは全く思っていません」――『悪魔の足』, アーサー・コナン・ドイル
でも、こんな言い訳がリアリティを持つのはヴィクトリア朝のイギリスなのであって、21世紀の日本ではありませんよ。たとえば、戦場ジャーナリストにジェームズ・ナクトウェイという人がいますが、彼がそんなことをしたなんて話はついぞ聞きません。
私はこのナクトウェイのことでいつも思い出す話があります。彼が取材中、激昂した民衆になぶり殺しにされようとしている人を目の当たりにしたとき、彼はその人の前に立ち、「この人を殺さないで下さい」と言ったそうです。当然民衆はそれを聞かず、件の人物はボコボコにされていく。ナクトウェイも足蹴にされる。それでも彼は、自分から暴力を行使することなしに言い続けたそうです。「この人を殺さないで下さい」と。「戦争はたった一人にさえ許されぬ行為を万人にする」と言った彼らしいエピソードです。
戦場ジャーナリストは、一般社会ではありえない暴力を目の当たりにします。暴力を行使する側に人が生殺与奪権を握られ、絶対的に支配される姿も目の当たりにすることでしょう。しかし、それを是とするのならば、その時点で彼はもはやジャーナリストではないのです。取材対象を客観視しよう、その視点を何とかして死守しよう、そう誓いつつ取材を続けなければ、ただ暴力に加担しつつその存在を喧伝するだけの存在になりさがってしまうのですから。
ですからあの人には、そういう解釈を加える必要もないのです。ああいうことをやった段階で、暴力の理不尽さを一般社会に伝えることで鬻ぐ資格を自ら放棄しているんですから。その彼の態度と行動を以て評価するだけで十分なのであって、それ以上何もいらないでしょう。彼の「理由」を考えても、彼と違って矜持をもって仕事をしている他のジャーナリストには何の足しにもなりませんしね。
大量の人間が
「東京がいい」と考えているからかろうじて東京の優位性は保たれているが
近い将来多くの日本人が「あれ?別に東京じゃなくてもよくね?」と気づく時がくるだろう
昔ならば
インターネットがその壁をどんどん低くしていっている
それも徐々に仮想空間に移行していくだろう
結果数十年後
地元に残り、少ない支出で両親の手厚い補助を受け、家庭や資産を築いてきた地方民と
というか普通に考えれば
技術が進歩すればするほど東京の優位性は減少していくのはわかるはずなのに
※追記
■近い将来について
これは曖昧な言い方をした俺が悪かった
■仕事について
まさか普段から「21世紀にもなってガン首並べてミーティングとかアホかよ。Web会議でいいだろ」って言ってるはてな民から
こんな否定されるとは思ってなかった
よく自分の一日の仕事を思い出してほしいんだけど本当に東京じゃないといけない業務内容だろうか?ほとんどがネットや電話でも理論上は可能じゃない?
東京にいる理由って直接会ったほうが良いという感情的な部分が大半じゃない?
今の科学技術水準でもそうなんだから数十年後はどうなると思う?
SF映画とかでバーチャル会議室でホログラムが討論してるのとか見たことあると思うんだけど
「(物理的に)面と向かった方がいい」というのも科学技術の発展と世代交代により廃れていくだろう
ネット上だけで何かの契約をしたり買い物(厳密には買い物も契約の一種だけど)するのは「怖い」とか「不安」とか「無機質で冷たい」なんて言われてたわけだけど
今ではそんなこと言ってるの極一部の人間か老人だけだろ?
「直接会えたほうがいい」なんて言ってたら老害一直線だぞ
「駅徒歩○分」なんてのはまったく意味がない
■集中による効率化について
もちろんインフラ整備などの面で集中したほうが効率的なのはわかる
ただこの災害大国で東京だけに一極集中することがどれだけリスクか説明するまでもないだろう
科学技術の進歩と世代交代のアップデートにより東京の優位性が幻想であると露呈したとき
※追記2
なんか勘違いして人がいるけど
現時点の技術レベルで、2019年のオッサンたちが運営する社会の話じゃなくて
今年生まれた赤ちゃんがオッサンになって社会をまわしていく時代の技術レベルと価値観のアップデートが行われた時代の話だぞ
あと、はてな民ってそんなにリアルで会うことを重視するとは思わなかった
俺が言ってるのは(おそらくはてな民には同意がえられるであろう)
「インターネットやATMで基本的な取引ができるようになったので、近い将来銀行の窓口担当者はほとんどいらなくなるでしょう」
ってのと同じベクトルの話だと思うんだけど
それとどれほどの田舎にもよるってことだけど
別に山奥の限界集落まで維持しろっていってんじゃない(むしろそういうところは積極的に潰すべきだとすら思ってる)
日本各地にミニ首都圏みたいなものを複数作るようになっていくだろうという話
いわゆる「地方の有力企業」的な会社に転職し、義実家の隣町に自分で土地買って家建てたので
単純に人手が2倍(自分たち夫婦と妻両親)なだけでも全然違うなと感じてる
将来義両親介護問題が発生したとしても
年収は2割ほど減ったけど
俺は運良く移住?が上手く行ったほうだと思うけど
一言で切って捨ててしまえばそれは国家とか社会とか行政に何でも100%叶えてくれるお母さんだとか、神様だとかであってほしいっていう甘えなんだけどさ。
世の中がフェアであってほしい、理不尽なことはなくなってほしいって。
それは甘えだよ、って切って捨てられる人間なんてのは大概がタフ(精神的にだったり経済的にだったり)な人間だから言えることだよ。
トリアージ的な考え方で「仕方がない」で犠牲にされる人間ってのは、他人からすれば何百分の一、何万分の一、何億分の一の、言うなればコラテラルダメージってもんだろうけど、
当事者からすれば一つっきりの命なわけよ、言うまでもないんだけども。
そんなのは当たり前じゃん、それが人生だ、それが世の中だ、ってみんながみんな言えるほどタフじゃねぇんだよな。
そんなのは中学生や高校生で卒業しとけよって言うけど、実のところ卒業した気になって麻痺したり鈍感になってるだけなんじゃねぇの。
いや、、、人類にとって大いなる一歩なんてものは、はじめからたいしたものじゃなかったのじゃないか?
でっかい夢なんてのは、成せばでかいという目標と多大な過程があり、成し遂げたから称賛される。
なせばでかい目標なんてものはそうそうない。無論イノベーションやらででかい企業になれば後付で「でかい夢を叶えた」とかいうやつはいるだろう。
実際の行動ははこれができたらすごいんじゃない?というクラスで、世の中に有るスキマ、綻びをめがけて、
誰も称賛しないようなものを自分の頭の中で想定顧客と実物とのすり合わせを重ねて作り上げる。
無論、後ろ盾のない個人とやらの「多大な過程」なんざ、金が尽きて大半が途中で終了だろう。
組織としての投資家は金を出してくれた人に対する責任があるから、あまり未完成なものなんざに出せない。
さらには、夢を含めた感情を煽って金だけ奪っていく詐欺師も起業界隈に近いところにいる。いや、煽った夢を叶えなければ、そりゃ正しいことをやっていても詐欺師呼ばわりされるだろう。
個人としての投資家は流石にその大量の詐欺師なんかに含まれた原石なんて相手にできない。知識量的にも、詐欺師を見抜く力的にも、詐欺師を成敗する能力的にも。
そもそも「投資」という理屈がわかっていれば「いくら金と期間が必要で、それができればおおよそこれぐらいの売上と利益が出せる」というのが必要だ。
「まだできていないし、見立ても全くつかないものに金を出してくれ」というのは詐欺師にほかならんというのはまあ、そうだろう。
そうしてぼくらに、残されたのは、 かわりにぼくらが、抱えているのは、 不安とほんの少しの 幻想(ユメ)
本当のユメを叶える道程すらもそうだとはおもうし、何で儲けるかすら考えてないしネタもないワナビーはなおさら。
そもそも、「夢を叶える」というのは、なにかでかいことをなして「何らかの形で他人に称賛される」ということを求めているのかもねぇ。
そうして、脱社畜サロンみたいな、「ほんの少しのユメ」を見させてくれるようなものに行く。
そもそも現代社会に残されてるのはすべて「ほんの少しのユメ」じゃないのか?
そうして、大人しく、何も知らずに、ただ夜に怯えていなさい
非可逆世紀への一方通行、通れば取り返しはつかない、…私の様に。
それがはてブの総意じゃなかったの?
教員の働き方がブラックすぎて、教育学部の倍率がヤバイことに。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1309183
日本の英語力は国際的に見ても壊滅的だから、英検の上級やTOEICの高得点を持っている教師に低学年からの厚い教育を期待するんじゃなかったの?
情報理論の時代遅れの知識ではなく、プログラミングの実務面にも明るい教師を求めるんじゃなかったの?
運動会で組み体操などの危険な演目に走らずとも児童全員に見せ場を用意し、児童の安全にも完璧に配慮できる教師を求めるんじゃなかったの?
児童のエスニックバックグラウンドの多様性に配慮して、日本語が拙い児童にも個別にケアし、場合によっては外国語しか話せない保護者の方ともコミュニケーションを取りつつ、誰もが劣等感を抱かず自分のアイデンティティに誇りを持てる教室作りを目指すんじゃなかったの?
発達障害や運動協調障害の児童にも配慮して、誰もが自分のペースで学びを深め、体育の時間にも競技を安易にやらせて終わり、ではなく運動が本当は楽しいことを伝えるべき素質が教師に求められるんじゃなかったの?
糖尿病や重度身体障害、知的障害の児童も特別支援校や特別学級へと排除するのではなく、適切なケアを提供しつつインクルーシブ教育を推進するのが今の教師なんじゃなかったの?
家庭科では子供を持たない人生もあっていいことなど多様なライフタイルの存在を伝え、ジェンダー平等の追求だけでなく性的少数者の児童にも寄り添い、誰もが自分の性のあり方に誇りを持てる性教育の実践家としての教師、じゃなかったの?
アルビノの生徒に髪を染めさせるような人権侵害は言語道断として、そもそも無意味な校則で子供達を縛るのではなく、自主性を尊重した上で公共心を養わせ、自分達の手で自然とルール作りを行うことのできる場を教師は提供すべきなんじゃなかったの?
さくらんぼ計算や掛け算の順序、漢字の瑣末な書き順といった意味不明なカリキュラムに拘泥するのではなく、生徒の多様性と教育の本質を理解し、かつ学びが速い生徒の能力も尊重してカリキュラム外の高度な代数や三角関数を用いた解法を用いた算数の答案にも合格点をつけられる教師が21世紀のありうべき教師像じゃなかったの?
イジメを未然に防げるよう児童同士の関係性を日々気にかけて、それでも起きてしまったら迅速な関係児童へのケアと関連公的機関との連携、さらに社会へのコンプライアンスを全うできない教師は失格じゃなかったの?
何、あらゆる事態に対処できる有能な人材は有限だとか、私生活のことも考慮すると教師一人一人の時間は有限だとか、トレードオフ構造を今さら理解しましたみたいに、皆しおらしくなっちゃってるのよ。
書いていてめちゃくちゃ今更かよ、もう二週間も経ったよって思ってしまったけど、書いちゃったから上げる。
パイを投げられている広告の女性差別の的外れがこないだ話題になったけれど、この一年でこういった女性差別ものの見方が随分変わった気がする。
女性差別について、前なら、ひどいなあ21世紀になってもまだこんなひどいことが横行しているのかという気持ちだった。でも今だと日本だもんなそんなもんだろうなっていう気持ちになる。
あの広告をつくった人間がどういう気持ちでつくったのかは知らない。でも私にどんな文才があったとしてもあの広告にはたどりつかないだろう。
きっかけは就職活動だ。私は就職活動で初めて自分が差別される側の人間だということを知った。
家庭内で差別されたことは一度もなかった。成績の良し悪しについて性別を理由に文句を言われることもなかった。大学に行くことも反対されたことがなかった。祖母も喜んでくれた。
学生のうちでもそういう差別を見たことがなかった(単に私が気がつかなかっただけなのかもしれないけれど)。大学だって私の学科は男女比が半数だったのもあって肩身の狭い思いをしたこともなく、所属サークルの今の代の長は女の子だ。
ちょうど昨年まで運よく痴漢にもあったことがなかった。(よくよく考えれば高校は下り電車に乗る関係で痴漢ができるほど混んでなかったし、大学では田舎住みだった関係で朝は基本的に座ることができたのが大きかったのだと思う)故に私にとって女子差別とは過去のものという印象が強かった。
でも就職活動が始まるようになってそんなことないんだっていうことを有り有りと認識させられた。
説明会に行けば、女性の働き方というものがわざわざパワポで一枚使って表示させられる。育休から復帰する女性の人数ですと出される。女性社員の育休からの復帰率はわかったけどじゃあ男の人は育休とるの?って何度も思った。(これに関しては男性差別でもあると思う)
面接を受ければ、結婚後はどうしていきたい?出産後も働く?みたいなことを聞かれる。知るかよ、結婚するかもわかんねえよ、出産したいかもわからんわ。
男の子であればこんなしょうもないこと聞かれないんだろう。男性社員だって育休とってがっつり子育てに関わりたい人だっているのかもしれないのに。
会社によっては、もっとあからさまだった。エントリーシート通過後に説明会開催の企業では、私が希望した部署はそもそも男性社員しかいないということを私は説明会で初めて知った。今年女性を取る気があったのかはしらない。でも、それを知った時点で私は何を考えたらいいのかわからなくなった。今となっては落ちてよかったなと思うけど。「重いものを運ぶことが多いから今のところ男性社員しかいないですね」みたいなことを言っていた。じゃあそれをどうしてエントリーシート書かせる時点で明記しておかないの?っていう気持ちでいっぱいだった。私の他にも女の子は何人もいたけれど彼女たちは何を思っていたんだろう。
最終面接直後に、「うちは女性社員が少ない会社だし、あなたを取るかはこれから会議にかけてから決めます。しばらく時間をください」って言った企業もあった。私が女だから、会議にかけないといけないのかと愕然とした。面接や説明会内では確かに女性は少ないという話はあった。別に私自身はそんなことあまり気にしないし、大丈夫ですと何度も言ってきた。
でも、私の性別が男だったらこんなこと言われないんだろうなって思ったらものすごく悔しかった。結局私がこの企業からOKもらえたのかはわからない。ここの結果を待つより先に他の企業の内定をもらって、ここには断りを出してしまったから。
日本という国は私にとって生き辛い部分が少なからずあるのだ、ということを突きつけられたのが2018年だった。(ついでに就活中に初めて痴漢にあった。クソみたいな社会だなって余計に思った)
2018年の一月の私ならめちゃくちゃ文才があったらあの広告をつくったかもしれない。でも今の私には絶対に作れない。
だって、「わたしは、私。」、ということを訴えてもどうしようもないのだから。面接という場において、「あなたという人物が見たいです、ありのままを見せてください」なんて言う面接官は多い。私も何度も見てきた。つまり「わたしは、私。」を発揮する場所みたいなもんだろう。でも、その場で私はお前は女だからちょっと結果待っててよ。会議かけるわって言われたのだ。
たとえ仮に、「私は私です。女というレッテルで判断しないでください」って最終面接後に会議しますっていった面接官に言ったところで何が変わるのだろうか?きっとその人は困った顔をしながらも、「そういう訳にはいかないから」としか言わないのだろう。
だって時代の中心は男なのだから。あの面接官は私の気持ちなんてちっともわからなかったはずだ。だってわかっていたら、「あなたが女の子だから会議にかけます」なんて絶対に言わない。あの面接官は自分が社会の中心である男であるから、こんなことが言えたのだろう。私がその言葉にどのくらい深く傷つけられたのかなんて絶対に知らないのだ。
一人ひとりがつくればいい、という無責任さ、それが男の人が女に思う気持ちみたいなものだろう。仕事?いいけど家事もおろそかにしないでね、みたいなそれに近い。
女がパイを投げられる時代を終わらせるには、男が必要なのだ。白人と黒人が手を取り合って黒人差別に立ち上がるように、男と女が共に協力する世界が必要だ。