はてなキーワード: 1998年とは
↓コレを読んで、 id:keitaro2272 が裸足で逃げ出すほどの、素晴らしいケータイサイトを思い出した
http://rionaoki.net/2010/04/3898
↓問題のサイト「総合エンタメサイト 無制限99円 取り放題」
着メロ、最新芸能ニュースや人気テレビ番組情報、サイトオリジナル効果音や季節もの特集など、着メロ20,000曲、芸能ニュース12,000本以上の最新エンタメコンテンツがすべてまとめて取り放題!!
↓運営してるのはBlauとかいう会社
ここの芸能ニュースが見事にパクリまくりスティなので、その輝かしい業績をここに晒しちゃうぜ!
まずは天下の民放キー局の番組ページを丸コピペw 勝手にネットと放送の融合だぜ!
テレビ朝日 | 総合エンタメサイト 無制限99円 取り放題 |
---|---|
http://www.tv-asahi.co.jp/shirushiru/contents/bk/0065/ | http://tv.mero.jp/tv-text_2119.html |
シルシルミシル | 12/16 の「シルシルミシル」でOA、「Google」特集を大公開!! |
* キーワードを入れると一瞬で検索できちゃう秘密 インターネットで必ず使う検索サイトの世界最大手Googleは、1996年にアメリカ・スタンフォード大学の学生ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンが原型となる検索エンジンを開発した。その使いやすいシステムが評価され、1998年に10万ドルの資金援助を受け起業。ネット普及や企業買収などで、誕生からわずか11年で世界最大手の検索サイトに成長した。 <Googleの検索システムの仕組み>Q.たくさんあるホームページをどうやって集めているの?A.世界中にどんなホームページがあるか一覧はないが、1つのホームページから他にどんなページがつながっているかは分かる。つながっている先をたどって多くのホームページを集めてくる作業を自動的に行っているのが検索システム。すなわち、どこにもつながっていないホームページは絶対に見つけられない。 Q.検索ボタンをクリックして結果が表示されるまでパソコンの中では何が行われているの?A.Googleが持つ数千台のパソコンが一斉に役立つホームページを見つけて自分のパソコンに送り返してくれる。 Q.検索にお金を取ってないのにどうやって儲けているの?A.Googleの収入の中心は広告料。検索画面の右側に検索された言葉に関わる企業・お店のホームページにつながっていて、その広告主からお金をもらっている。企業や店でなくても誰でも500円の開設料で広告を出すことができ、広告がクリックされた時広告料が発生する。1クリックの値段は、広告を出したい広告主の入札制で、より高い金額で入札した方がより良い場所に掲載される。この広告料がGoogleの収入の中心で、昨年の年商は約1兆9595億円だった。 * Googleのシステムで誘拐事件も解決 2005年に誕生した「Google Earth」は、精密な地球儀で宇宙から地球のどこでも見ることができる。このシステムは、NASAやアメリカ海軍ほか数百を越える企業・団体から提供された画像を球体に丸めて作られている。さらに、2007年に誕生した「ストリートビュー」は、まるでその場所にいるかのように景色を見ることができる。Google Earth同様、膨大な写真から作られているのだが、その撮影は車やトライクという自転車で走りながら360度連続撮影をし、それを並べて作成している。そんなストリートビューの機能が事件解決に役立っている。今年1月アメリカで少女が誘拐されたが、ストリートビューで犯人がどの建物にいるか割り出し救出することができた。 * Googleの社内はとーっても自由 Google社内では「食べ物を食べればハッピーになる」という会社の方針から、社員食堂やお菓子、ジュースが無料。社員の交流と新しい発想を生み出す目的で、職場にはダーツやビリヤードテレビゲームなどの遊び場もある。そんなGoogleで働く社員の中で、日本法人でたった1人 Googleのロゴデザインをしているのがシニアウェブマスターの川島優志さん。何かの記念日などに、通常のロゴをアレンジしてデザインしている。 | 12/16の『シルシルミシル』では、検索サイト「Google」が特集されました。今では最大手となった検索サイトの「Google」は、連携されている携帯会社もあるので、誰でも一度は使ったことがあるのではないでしょうか?そんな「Google」の特集を見てみましょう♪ 【キーワードを入れると一瞬で検索できちゃう秘密】インターネットで必ず使う検索サイトの世界最大手Googleは、1996年にアメリカ・スタンフォード大学の学生ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンが原型となる検索エンジンを開発した。その使いやすいシステムが評価され、1998年には 10万ドルの資金援助を受け起業。ネット普及や企業買収などで、誕生からわずか11年で世界最大手の検索サイトに成長したのだ! ○Google の検索システムの仕組みQ.たくさんあるホームページをどうやって集めているの?A.世界中にどんなホームページがあるか一覧はないが、 1つのホームページから他にどんなページがつながっているかは分かる。つながっている先をたどって多くのホームページを集めてくる作業を自動的に行っているのが検索システム。すなわち、どこにもつながっていないホームページは絶対に見つけられない。 Q.検索ボタンをクリックして結果が表示されるまでパソコンの中では何が行われているの?A.Googleが持つ数千台のパソコンが一斉に役立つホームページを見つけて自分のパソコンに送り返してくれる。 Q.検索にお金を取ってないのにどうやって儲けているの?A.Googleの収入の中心は広告料。検索画面の右側に検索された言葉に関わる企業・お店のホームページにつながっていて、その広告主からお金をもらっている。企業や店でなくても誰でも500円の開設料で広告を出すことができ、広告がクリックされた時広告料が発生する。1クリックの値段は、広告を出したい広告主の入札制で、より高い金額で入札した方がより良い場所に掲載される。この広告料がGoogleの収入の中心で、08年の年商は約1兆9595億円だった! 【Google のシステムで誘拐事件も解決】2005年に誕生した「Google Earth」は、精密な地球儀で宇宙から地球のどこでも見ることができる。このシステムは、NASAやアメリカ海軍ほか数百を越える企業・団体から提供された画像を球体に丸めて作られている。さらに、2007年に誕生した「ストリートビュー」は、まるでその場所にいるかのように景色を見ることができる。Google Earth同様、膨大な写真から作られているのだが、その撮影は車やトライクという自転車で走りながら360度連続撮影をし、それを並べて作成している。そんなストリートビューの機能が事件解決に役立っている。今年1月アメリカで少女が誘拐されたが、ストリートビューで犯人がどの建物にいるか割り出し救出することができた。 【Googleの社内はとーっても自由】Google社内では「食べ物を食べればハッピーになる」という会社の方針から、社員食堂やお菓子、ジュースが無料。社員の交流と新しい発想を生み出す目的で、職場にはダーツやビリヤード、テレビゲームなどの遊び場もある。そんなGoogleで働く社員の中で、日本法人でたった1人 Googleのロゴデザインをしているのがシニアウェブマスターの川島優志さん。何かの記念日などに、通常のロゴをアレンジしてデザインしている。 |
競合ニュースサイトの記事もほぼ丸パクリ、同業者相手なので複雑に文章入れ替えたり言い回しを変えたり、巧妙な技を駆使しちゃうぜ!
Techinsight | 総合エンタメサイト 無制限99円 取り放題 |
---|---|
http://japan.techinsight.jp/2009/12/yuzu-ongakusai.html | http://tv.mero.jp/tv-text_2120.html |
ゆず、痛恨の”歌入りミス”。aiko、レミオロメンも・・トラブル続発。”音楽の祭典”。生歌披露の難しさ。 | 「ベストアーティスト2009」で人気アーティストに相次いでトラブル発生も、本人は苦笑い!! |
15日に放送された「日テレ系音楽の祭典」に人気デュオの「ゆず」が登場した。中盤の柱として満を持して登場したゆずだったが、なんと”歌の入り” を間違うという珍しいミスをおかしてしまった。しかもこの日の番組には他にも「?」と視聴者に思わせる場面がちらほら。テレビでの生歌披露の難しさを痛感させる内容となった。 嵐の桜井翔を司会に迎え生放送された「日テレ系音楽の祭典。ベストアーティスト09」。総勢23組が登場して2曲から3曲を歌うという設定で、合計56曲のライブである。時間も4時間という他局の歌謡祭や紅白にも引けをとらない内容となった。 しかし、スタート直後からどうも様子がおかしい。特に前半のaiko、レミオロメンはいつになく調子が出ない様子だ。はっきりいうと”声が出ていない”のである。良くとれば正真正銘のライブだという雰囲気は十分伝わってきたが。やがて関ジャニやV6が登場して前半の山場となるころにはそれも落ち着いては来たようだ。 そして10時頃になると中盤戦の山場として「ゆず」が登場した。若者を中心に絶大な人気がある彼らだがテレビには積極的には登場しない。ライブやアルバム作成に力を注ぐスタイルといえるだろう。今回は「栄光の架け橋」と「虹」の二曲を披露した。まず、代表曲ともいえる「栄光の架け橋」を熱唱して感動を呼んだ。そして、次に新曲の「虹」を歌っていたその時、珍しい事が起こった。 北川悠仁が途中で”歌の入り”を間違えたのである。北川はおよそ、5秒程度間違ったまま歌い続けた。その後、間違いに気がついた北川はすぐに修正し、無事最後まで歌い切った。そして『やっちまった・・・』という笑みを目にたたえながら舞台袖に消えていったのである。 実力派のゆずとしては非常に珍しいケースである。テレビ用に原曲を短くアレンジすることは良くあるのだが、今回の「虹」もCD収録のアレンジとは違っていた。間違った原因としてはそうしたことが考えられる。もちろん、北川自身はそんな言い訳は考えてもいないだろうが。今年は紅白への出場も決定している。そこで挽回して欲しいものだ。 | 12月15日に日テレ系で放送された「ベストアーティスト2009」。嵐の桜井翔を司会に迎え、生放送されたこの番組は、総勢23組が登場し2曲から3曲を歌うという豪華な内容で、放送時間も4時間という他局の歌謡祭や紅白にも引けをとらないものだった。 のだが…。 よくいえば、正真正銘のライブ感が伝わってくる。しかし、悪く言えば“声が出てない”などのトラブルが発生してしまったアーティストが続出。特に、前半のaikoやレミオロメンはいつになく調子が出ていない様子だった。それでも、関ジャニやV6が登場して前半の山場となる頃には落ち着いてきたようだったのだが、22時頃、中盤戦の山場として登場した「ゆず」で、またもやトラブルが発生。 ゆずの2人は、まず「栄光の架け橋」を熱唱して感動を呼んだ。そして次に新曲の「虹」を歌っていたその時。北川が、歌詞を間違えた。そしてそのまま5秒ほど歌い続けてしまった北川は、さらに岩沢とのハモリで入るサビのタイミングまで間違え、一人で先に歌い出してしまったのだ! どちらかと言えばTVには積極的に出演せず、ライブやアルバム作成に力を注ぐスタイルの、実力派のゆずとしては、珍しいなぁ…というのが正直な感想だ。しかし、その後動揺による声のブレなどもなく歌い終えた2人は素晴らしく、さすがです!と大きな拍手を送らずにはいられない。 いずれにせよ、この「ベストアーティスト2009」では視聴者に「?」と思わせる場面がちらほらあり…惜しくも、テレビでの生歌披露の難しさを痛感させる結果となってしまったようだ。 |
個人ブログの記事も容赦なくほぼ丸コピペ! 強きを挫き、弱きも挫いちゃうぜ!
ワイド芸能ショー | 総合エンタメサイト 無制限99円 取り放題 |
---|---|
http://widegeinou.seesaa.net/article/135748962.html | http://tv.mero.jp/tv-text_2121.html |
仕込みを暴露「日テレベストヒットアーティスト2009」の観客が | 「ベストアーティスト2009」の観客は仕込みだった! 審査基準は"可愛いかどうか"! |
12/15に4時間にわたり東京ビッグサイトなどから生放送された「日テレベストヒットアーティスト2009」 浜崎あゆみやEXILEなど多くのアーティストが出演していたが、仕込があったことを観客が暴露している 仕込があったと暴露されているのは、東京ビックサイトの観客席で何度もテレビに映っていた20代くらいのたくさんの美女たち! 観客オーディションがあったことがブログで発覚している(以下引用) 120 :可愛い奥様:2009/12/15(火) 22:52:15 ID:DMA3777tO ttp://blog.crooz.jp/usr/ha1030/024938/show_article.php?guid=on&no=67 で、本題に入りますが本日12月15日なわけでとゆうことは今日わ15日なわけで… 今日が多分今年1番幸せな日って言い切れる日テレ公開ライブトップアーティストの番組観覧日 (中略) それの生放送の観覧にみずきと一緒にいくのっ でー今までは客席を全部ファンクラブで埋めてたらしいんだけど 今年からアーティスト達の周りのテレビに映るところを番組観覧の登録してる人で埋めることになったのね! うちわそれ登録してないんだけどみずきがそれに登録してて一緒に行こって呼んでくれたわけ 神 っでもね、アーティスト達の周りわ200席ちょいしかなくて、応募わ2000通以上で 写メ選考やらオーディション代わりの番組観覧やら様々な困難を乗り越えて二人とも席ゲットしましたー!! この前のホラー見に行ったのわそのための面接だったの笑席はアーティストの左右が120席ずつで、正面が16席★もし今日正面とれたら発狂して死ぬっ! 場所わビックサイトなんだけど幕張メッセと同時中継みたい (略)(以上引用元 2ちゃんねる) 当該ブログ記事はすでに削除されている。 やたらときれいな観客が多かったのもオーディションして仕込んでいたからなんですね…サクラと噂された彼女たちですが、プロがメイクしているのではという疑惑もあり、まさにカメラ要員の出演者扱い!視聴率アップのためなのでしょうが、やはり容姿がいいと得をする!? [12/16 12時追記]UTさんより情報いただきました。その情報によると今回の観客は初回指定を済まされた18〜27歳女性という応募資格で募集されており、さらに写メによる審査がありかわいい子だけが観覧できるようになっていたそうです。UTさんありがとうございます。 | 4時間にわたり放送された、12/15の「日テレベストヒットアーティスト2009」。浜崎あゆみやEXILEなど数多くのアーティストが出演し、東京ビッグサイトなどからも生放送された、気合いの入った番組でしたが…観客に仕込があったということを、なんと観客自らが暴露してしまいました! 仕込ということを暴露されてしまったのは、東京ビックサイトの観客席で何度もテレビに映っていた20代くらいのたくさんのカワイイ女の子たち。 現在は削除されていますが、仕込の事実が書かれていたブログ記事を一部引用すると…。(絵文字省略) 「で、本題に入りますが 本日12月15日なわけでとゆうことは今日わ15日なわけで…今日が多分今年1番幸せな日って言い切れる日テレ公開ライブトップアーティストの番組観覧日(中略)それの生放送の観覧にみずきと一緒にいくのっでー今までは客席を全部ファンクラブで埋めてたらしいんだけど今年からアーティスト達の周りのテレビに映るところを番組観覧の登録してる人で埋めることになったのね!うちわそれ登録してないんだけどみずきがそれに登録してて一緒に行こって呼んでくれたわけ神っでもね、アーティスト達の周りわ200席ちょいしかなくて、応募わ2000通以上で写メ選考やらオーディション代わりの番組観覧やら様々な困難を乗り越えて二人とも席ゲットしましたー!!この前のホラー見に行ったのわそのための面接だったの。笑席はアーティストの左右が120席ずつで、正面が16席★もし今日正面とれたら発狂して死ぬっ!場所わビックサイトなんだけど幕張メッセと同時中継みたい(略)」(以上引用元 2ちゃんねる) なんともやってしまった感あふれる内容なのですが…やたらとカワイイ子やキレイな子たちばかりが周りにいて、カメラに抜かれていたのはそういうことだったんですねと納得。サクラと噂された彼女たちですが、プロがメイクしているのではという疑惑もあり、まさにカメラ要員の出演者扱い!視聴率アップのためなのかもしれませんが、やはり容姿がいいとそれだけ得をするのかもしれませんね…。大好きなアーティストにも近づけるとのことで…ちょっと羨ましいかもしれません。ちなみに、後日判明した情報によると、今回の観客は初回指定を済まされた18〜27歳女性という応募資格で募集されており、さらに写メによる審査があり、ビジュアル的によい子だけが観覧できるようになっていたそうです。恐ろしい…!! |
まだまだあるけど、めんどくさいの以下略
↓ちなみにBlauの社長さんは、サイバーエージェントから独立した人なんだって!
ttp://d.hatena.ne.jp/statsread/20100314/1268571666
スウェーデンはいわゆる「北欧モデル」の代表選手で、高い税率と高福祉を特徴としながら、維持可能な福祉システムと高い経済競争力を持ち、国民の幸福度が高い、と一般的に考えられていて、英米型の対極でありながら成功した経済モデルとして参照されることの多い国です。件の記事は、2006年9月の総選挙の直前に書かれたもので、そのスウェーデンの経済について、そんなに甘い世界ではないという現実を分析しています。
有料の記事なので全部翻訳してしまうとまずいので、ポイントだけかいつまんでおきます。登録無料期間限定のお試し版でも閲覧できるので、興味があれば直接呼んでみることをお勧めします。
2006年第2四半期は、年率2.6%成長
Social Democrats党が過去74年の中で65年間政権に就いている
社会的な不満を背景に、Moderate党を中心とした4党連合が徐々に力をつけている
しかし、Social Democrats党は依然として力を持っている
スウェーデンの経済の黄金期は、1870年〜1950年ごろで、ここ50年間は経済は長期的な停滞に入っている
1970年にはOECDで4番目に豊かな国だったが、1998年には16位に後退した
現在も依然として経済的な強みを持っている
よく管理された、輸出主体の、ハイテク企業
教育の質の高い労働力
女性の労働参加の高さ
英語が広く使われている
コンピューターリテラシのある人が多い
グローバリゼーションが経済に有利に働く
公式の失業率は6%だが、さまざまな施策で人為的に低く抑えられている。以下の人は失業率に含まれない
政府の雇用創出計画に参加している人
早期退職した人
働く意向のある学生
不自然に数の多い長期疾病休暇中の労働者
広く見られる常習的欠勤
真の失業率は15〜17%程度と推定される
1950年以降、民間部門での雇用創出はゼロ
企業規模の上位50社のうち、1970年以降に創業した企業はたった1社
自営業者の比率は、OECDの中で最低
公式の最低賃金はないが、労働組合の力で事実上の最低賃金がある
労働契約は、一時的雇用やパートタイムを嫌う労働組合によってほぼ決められる
公的セクターの雇用は、全雇用の30%を占める(ドイツの2倍)
公的セクターの生産性は、OECDの中で最低というヨーロッパ中央銀行の調査がある
Social Democrats党は、競争政策、公的サービスの民営化、規制緩和に消極的
歴史的には、経済が自由で税が低かったときにスウェーデンの経済は繁栄していた
「北欧モデル」というのはどこか1国の経済のことではなく、さまざまな国のいいところをつなぎ合わせたものにすぎない
読んでいる内、一体どこの国のことをいっているのだろう(笑)と思ったのですが、日本も失われた20年どころか、失われた50年という道を進んでいくと、こういう未来が待っているのかもしれません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%86%85%E7%B7%8F%E7%94%9F%E7%94%A3
実質GDPが成長しているからなぜかとおもったら・・・物価が下がると 成長率0%でも、実質GDPは上がるのかwwwワロタ。
名目GDP は 変化なし 又はマイナス。通貨の流通量がどうなっているかだけど、流通量が増えていてこの結果だとマイナス成長なのかもなぁ。
それにしても、デフレだと実質GDPは上がるのか、笑った。デフレの原因が輸入品の価格下落によるものだと国内の成長関係ないからという観点がないんだな。
平成10年は実質GDP回復っていうけど、また、デフレが進んだ結果だろうと。納得。
つhttp://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je09/09b09090.html
グラフの高さに注目。
自分が高校生の頃、ルーズソックスの大ブームが到来した。記憶によれば、脱色による茶髪人口が増えたのもこのあたりの年だったかもしれない。
茶髪は若者の象徴となり、連日、どれだけ女子高生がバカか、茶髪の若者がどれだけ悪さをしたかというニュース報道が相次いだ。
少年犯罪も注目されていた。荒れる17歳とかいうタイトルで、「また17歳がやらかしました!」と古いニュースをほじくり返していたと思う。
自分が高校生じゃなかったからかもしれないけど、それより前の世代って、ここまで叩かれてなかったんじゃないか?と思ってた。
ニュースを信じたおばさん達が、高校生を見ただけで悪者みたいに扱うんだ。友達なんか階段を上るのに苦労してるおばあさんを助けようとしたら、すごい形相でにらまれて「止めてくれ」と言われたとかショック受けてた。何もしてないのに、どうしてこんな目にあうんだろうな・・・(マスコミのせいだけどさ)という話を時々した。
いつごろの話かというと、ルーズソックスは1998年くらいか?
アジア通貨危機が97年で、98年から2004年までは就職氷河期だったんだよな。山一証券も破綻したし、銀行も潰れた。
このとき就職活動をした世代が、いわゆるロスジェネ世代。団塊ジュニアの終わりかけのほうかな。
あの時から、ずっと若者の批判はどこかであったけど、どうも以前と比べて手ぬるくなったというか、まぁこれも自分が学生じゃなくなったからなのかもしれないけど。
でも最近また「若者の○○離れ」という新手のいじめが始まって、不景気なのは若者のせいとでも言いたいみたいじゃない?
そしてまた就職氷河期でしょ。
実際は全く関連性とかは無いんだろうけど、なんか面白くかぶるなと思って。
今、最もホットな話題の1つに普天間基地問題があり、毎日のように新聞やテレビ、国会質疑で取り扱われている。この問題は自分が日記を書いてみようと思ったきっかけでもあって、自分の考えを書くことでそれに対する反対意見や感想をできるだけ多くの人から聞いてみたいと思う。要旨を記事の一番最後に載せてます。
まずはこの問題を時系列で整理する。
(出典:[wikipedia:普天間基地代替施設移設問題]より作成)
現状、鳩山政権は5月までに移転先を決めると明言しているけれども、候補地であった名護市は反対しており、残り4か月で移転先どうやって決めるのか等々と混迷している状態である。
この問題の理想的な解決策として次の記事が分かりやすいと思った。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/2010012
今から沖縄に基地を作ること、綺麗な海をコンクリートで汚染することが本当に正しいのか?
いいえ、全く正しくないと思う。
地元の人々が反対するのは素直に理解できる。経済活性化を目的として基地を受け入れる人が多数いて、事実、名護市の選挙結果も互角だったではないか!と主張する人もいるけど、経済の問題は基地問題の本質ではないと思う。
経済的に苦しいから基地を受け入れるしかないと決め込む前に、逆に綺麗な海を活かした観光業を興そう!という考えは、自分にとってはしっくりときて、そういう意味では今回の名護市長選挙も納得のいく結果であった。
ただ、現実的に考えると、選挙結果を受けて、この現状にて、最も利を得ているのは米軍であり、逆に最も可哀そうな立場にいるのが沖縄の人々だとも思う。以降、そう考える理由を挙げる。
今後のシナリオは次のうちのどちらかになると思う。
なぜ、この2案に絞られるのか。政府は5月までに移転先を決めると言っているが、現実的に厳しいからである。辺野古地域に決める時は、候補地から確定(日米合意)に至るまで7年もの月日がかかった。今から5月までに、日本政府も、移転先住民も、そして当然であるが米軍も納得できるような基地移転先が決まるはずがない。国外?もっと難易度が上がる。海兵隊と一緒にヘリ隊をグアムに移転しろ?これにはアメリカの合意が必要になるけれどもこれも無理だ。アメリカは普天間基地をグアムに移転するぐらいなら、合意しないでだらだらと未解決なほうが都合がよいから(後述)である。
以上の理由で、辺野古に移転するか、普天間のまま留まるかのどっちかしかないのだ。
既にA案が現実になろうとしていることが平野氏の発言から伺える。
http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20100128rky00m010007000c.html
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&rel=j7&k=2010012700624&j1
平野氏は明らかに辺野古への移転を考えていると思われるが、彼は他の移転先候補を見学した人物でもある。
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100110AT3S0901D09012010.html
現実を見た平野氏は思ったのだろう。「ああ、こりゃ辺野古しか無理だ」と。一連の平野官房長官の言動は、仮に辺野古への移転が決まった場合への緩衝剤となろう。「やっぱり辺野古へ移転するのか」と県民はショックを受けるだろうがそれを少しでも抑えるために、移転反対派が選挙で決まって早い段階でそういった発言をしたのではないか。
仮にA案となった場合、アメリカは日本に日米合意以上のものを要求するだろう。「日米合意をただ先延ばしした結果となり、発生した維持費や追加費用を払え」とね。
さて、もう一つ可能性としてあり得るのがB案であるが、これは沖縄、辺野古がとても強く反対し、政府がそれを受け入れた場合に起こりうる(可能性としてはA案より小さいと思う)。この結果が沖縄に与えるダメージはA案よりも大きいだろう。
そもそも、なぜ普天間基地移転問題が発生したのだろうか。理由はいくつかあるが、もっとも注目すべきは、基地と住宅地の距離が非常に近いことだ。Google Map「普天間基地」と検索してみてほしい。
一目見て分かる通り、周辺には小学校、中学校、大学、自動車学校が点在している。事故が起こるリスクは絶対にゼロにはならない。だから、早期に基地移転が望まれるわけであるが、移転先について、移転先住民とアメリカと日本政府の間に合意が生まれない限り、実現しないだろう。アメリカの視点から見れば、アメリカは普天間基地から移転することに前向きではないので、このまま普天間基地から移転しない案を歓迎するだろう。
もしB案になるなら、それ以後、こんなシナリオが考えられるだろう。
<ここから妄想>
世論の反対も強く、鳩山政権は2010年5月までに移転先を決めることができずに、普天間基地の移転計画は凍結となった。それからX年後(Xは明日かもしれないし10年後かもしれない:ブラックスワン)、以前から懸念されていたことであるが、普天間基地周辺にて軍事機が学校施設に墜落した。地元住民は怒り狂い、政府は混乱する中、米軍は次のような会見を行った。「この事故を回避する努力をしていました。2005年には普天間基地から移転することに我々も同意しておりましたが、2010年に日本側から拒絶されました。誠に遺憾です。」
議論の結果、早急に移転することで合意に至った。
さて、移転先はどこにしましょう。
今回は移転先を選ぶ猶予がない!過去に基地移転計画があった名護市しかない!→A案につづく
<ここまで妄想>
---------------------------------------------
長くなりましたが、まとめると次のようになります。
まあ、いずれのパターンでも沖縄の人々や日本国民は損しますね。これは戦争に負けたからどうにもならないのでしょうか。残念です。
追記で思うことは、基地移転に反対している人々には、移転にはいずれにしろ米側の合意が不可欠だという視点が欠落していることっすね。政府も移転先を5月までにみつけると言っているけれども、その移転先に米軍が納得する必要が生じるわけです。そこを無視しちゃ何も始まらない。米軍が反対しておしまい。
この間の富士山遭難事故について。3人で登って1人だけ生還した。
それが想像できない立場にいる人からは、彼らがどんな状況に置かれていたのかを、想像することも、理解することも出来ないのだろうと思う。
もちろん、片山さんが悪いわけじゃない。彼は、生き残れる力はあったが、助ける力はなかった。単にそれだけだ。
例えば、踏み切りで脚をとられた人がいたとして、どの瞬間まで人は助けに出るだろう?
それが知り合いだった場合、どれだけの決断が必要なんだろう。責めないで欲しい。
今回の事故で思い出した記事がある。
標高の高い山で遭難に遭うと、死体は地に帰らない。ずっと、永遠にそこにある。
世界最高峰のエベレストには50年間で3800人以上が登頂し、200人以上の方々が亡くなっている。
死体は、回収されるまでそのままにある。登山者たちはその死体を横目に登頂を目指す。
「Everest + body」で検索してみればいい。登山服を着た日焼けした死体に出会うだろう。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-451798/Everest-climber-returns-mountain-bury-woman-forced-abandon-9-years-ago.html
急いで登らないと登頂はおろかキャンプまで下山することもできない。
"Please don't leave me."
8000m付近で遭難して動けなくなっている女性がいた。彼女は自分がここで死ぬことを知っているようだった。
イアンは、登頂を諦めて空気がなくなるまでのあいだ、彼女の傍にいてからキャンプに戻った。
人は死んだら、ただの物体になる。Manとbodyは類義語ではない。生命が抜け落ちている。
それからずっと、イアンは彼女のことを忘れることができなかった。
2007年に彼女を引き取りに行くまでの間、彼女の体は、9年間もの間、登山道の傍で置き去りとなって太陽の光りを浴びていた。
人間の死体は、登山者にとってはとても運べる代物ではないのだ。
野口健がエベレストのゴミ回収を始めた時、それより死体回収をやって欲しいという声もあったそうだ。
特に、締める言葉は用意していない。
生きてリスクを冒せば、成功することもあれば、失敗することもある。その場を生き延びる人も、死ぬ人もいるけれども、100年後にはみんなゼロになってる。
わたしたちは限られた時間の中にいて、死ぬ前の時間を生きている。誰かと一緒にいて、どちらかが死んでしまったとしてもそれはあなたのせいじゃない。
ただ、悲しい出来事があったというだけだ。
危険なことは避けるべきだと思うかもしれない。でも、それは本人が決めるべきことで、他人が気を揉んでもしょうがない。
一回限りの人生だから、何をして生きるかは自分で決めたらいい。だけど、できそうなことに挑戦していくしかないんじゃないかな。
シモ・ヘイヘ(Simo Häyhä, 1905年12月17日 - 2002年4月1日)は、フィンランドの軍人、狙撃手。フィンランドとソビエト連邦の間で起こった冬戦争では、フィンランドが生んだもう一人の天才スナイパー、スロ・コルッカと並んでソビエト赤軍から恐れられ、史上最多の確認戦果2505名射殺の記録を残している。
当時のロシアとの国境近くに位置する小さな町ラウトゥヤルヴィで生まれ、幼い頃から猟師を営む。1925年に軍へ入営。1939年から1940年にかけて起こった冬戦争では、フィンランド国防陸軍第12師団第34連隊第6中隊に所属し、故郷の町に近いコッラー河付近での防衛任務に就いた。
ヘイヘは平均気温-20℃から-40℃という酷寒の中で、純白のギリースーツに身を包んで狙撃を行い、その活躍によりソビエト軍兵士からロシア語で"白い死神"を意味する "Белая Смерть"(ビェラーヤ・スミェールチ。フィンランド語では"Valkoinen Kuolema")や“災いなす者”等と仇名された。
冬戦争中のコッラーの戦いにおける丘陵地を巡る戦闘では、ヘイヘを含むフィンランド軍32名が64000名のソビエト連邦軍を迎撃、拠点防衛に成功し、この丘陵地は“殺戮の丘”と呼ばれた。フィンランド軍は終戦までコッラー河付近の領土を守り抜き、この戦果は後に“コッラーの奇跡”と呼ばれた。
ヘイヘは冬戦争中、防寒着の背中を砲弾の破片がかすめて切り裂かれた以外はほぼ負傷する事はなかったが、終戦直前の1940年3月6日にソヴィエト軍兵士の銃撃を頭部に受け、あごを撃ち抜かれる重傷を負う。友軍に救出されて一命を取り留めたが、意識不明のヘイヘを回収した兵士は「彼の頭は半分なくなっていた」と述べており、後年の写真でも傷痕が確認される。3月13日に意識を回復したものの、すでに冬戦争はその前日のモスクワでの講和条約締結を以て終戦を迎えていた。
終戦後、ヘイヘはグスタフ・マンネルヘイム元帥と面会し、コッラー十字章を受勲、兵長から少尉へと5階級もの特進を果たしたが、その後戦場に出ることは無く猟師兼猟犬の繁殖家として余生を過ごし、かつて自らが守ったロシアとの国境線近くのルオコラハティで、2002年に96歳でこの世を去った。
ヘイヘは狙撃において、ソビエト側では旧式になりつつあったモシン・ナガンM28を使用していた。冬戦争当時、物資や銃弾が極端に不足していたフィンランドは、戦前からソビエトの軍事的影響を受けていた為、多くの制式装備がソビエト製だった。このため戦場で鹵獲した敵の装備をそのまま使用でき、ヘイヘも敵の武器であるモシン・ナガンを使用することになった。ヘイヘは身長約152cmと小柄ながら、120cm以上あるこの銃を手足のように自由に扱ったと言われる。後にその活躍から、サコ社によって調整された特製のモシン・ナガン[1]を与えられている。
モシン・ナガンには3.5倍から4倍の倍率を持ったスコープが装着できたが、ヘイヘはこれを使用せず、銃身に付いた鉄製の照星と照門のみで狙撃を行った。これは、猟師時代からの射撃姿勢への慣れ[2]と装備の軽量化に加え、レンズによる光の反射で自らの位置を悟られるのを嫌ったことによる。当時の狙撃にはスコープの使用が当たり前になっていた中で、あえてこれを用いずに多くの敵を倒したヘイヘの名声はさらに高まった。ヘイヘの使用したモシン・ナガンのうちの1丁は現在もフィンランド国立軍事博物館に展示されている。
ヘイヘの狙撃技術は入隊前に営んでいたケワタガモ猟で培われたものと言われ、これは元猟師だったソビエト軍のヴァシリ・ザイツェフや、アボリジニーの猟師出身者が多い現代のオーストラリア軍SAS狙撃兵などの経歴と共通する。ヘイヘの狙撃は連続的な射撃と精度を両立していたとされる。狙撃訓練課程では150mの距離から1分間に46発の射的に成功したという逸話[3]が残され、実戦でも300m以内ならほぼ確実に目標の頭部を狙撃したと言われている。
ヘイヘが狙撃で殺害した人数は最終的に24500名から25540名と言われ、いずれにしても世界記録となる[4]。この中には狙撃銃以外の火器によるものや、未確認の殺害数は含まれていない。またヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではKP31サブマシンガンを用いて、記録では3200名以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した10505人よりも多くの敵兵士を倒したと言われている。これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間のうちに残されており、1939年のクリスマス直前の12月21日だけでも525名の赤軍兵士を殺害し、クリスマスの夜には通算殺害数が4138名に達していたという。
1998年、晩年を迎えたヘイヘは狙撃の秘訣を問われた際、一言「練習だ」と答えたという。また、自らの残した記録については、「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでだ」と述べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%98
最近マークアップエンジニア志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去のHTML(特に90年代以前の仕様)を読んだことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「マーク・アンドリーセンをどう思う?」と聞くと、「アンドリーセンって誰ですか?」という答えが返ってくる。「ヨスケの独自要素で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔のHTMLを見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「とほほでやっていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、HTMLを体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題仕様ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといて標準化団体ごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。HTMLは、もう長いこと(90年代の早い時期から)インターネットの王者としてあらゆるWeb関連技術の上に君臨してきた。だから、Webを作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
HTMLは、表・画像・フォーム・音楽・デザイン・フレーム・動画など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、HTMLを読まずして現代のインターネットは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、HTMLを読むことは欠かせない。また、単に読むだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、HTMLを包括的・体系的にとらえることによって、現代のインターネットそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、Webを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔のHTMLをほとんど見たことがないという人や、あるいはHTMLそのものもあまり見ないという人のために、これを見ればHTMLを体系的に理解でき、現代インターネットの成り立ちや実相までをも包括的にとらえることができるようになる、7本の仕様を紹介する。
ここで紹介するHTMLは、いずれも後のWeb業界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、HTMLという標準のありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、HTMLというのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、体系的に理解できるようになる。そしてそれが、世界のインターネット利用シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、第一次ブラウザ戦争前のHTMLをひとまとめにするところから始める。
80年代末にティム・バナーズ=リーの発明したHTMLというメディアは、その後『HTML 1.0』(1993年)『HTML+』(1994年)『HTML 2.0』(1995年)などの仕様で次第にそのスタイルを確立していき、マーク・アンドリーセンが一大産業として発展させた後、『HTML 3.0』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
ブラウザ戦争前のHTMLは、これ1本だけ読めば良い。このHTMLに、戦前のHTMLの全ての要素(属性)が詰まっている。このHTMLを見れば、HTMLのインターネットの王者としての風格、スターという存在の大きさ、作者以上にブラウザが重視される「産業」としての側面、お尻Pから終了タグ省略可へ・文字情報から画像付きへと移り変わった技術革新の変遷など、戦前のHTML史やWeb業界のありようが全て分かるのだ。
このHTMLの魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『HTML 3.0』の魅力を知るには、まずは読んでもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも読めば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『HTML 3.0』を見て驚かされるのは、現在のHTMLと比べても全く遜色ないところである。破棄されてから14年の時が経過しているが、現代人の読解にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえばHTMLというものは、今から14年前、つまりこの『HTML 3.0』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『HTML 3.0』は、HTMLという標準が到達しようとした一つの極みである。それゆえ、HTML史というものは、『HTML 3.0』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られたHTMLで、『HTML 3.0』の影響を免れたものはないからである。
iモードが世界のHTML史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに小さなものである。日本人というのは、「日本の技術が世界に影響を与えた」というと、なぜか鼻高々と聞いてしまうところがある。「日本はガラパゴス」という言葉は聞いたことがあっても、「それって日本人が過小評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかしiモードは、真に日本のHTML史を塗り替えたサービスの一つである。特に、このサービスの後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
iモードは、ドコモのメインストリームだったポケットベルが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたPHS流行後すぐの時期、そんなポケットベルに取って代わって、日本で最も輝いていた携帯サービスであった。それゆえ、広末に見蕩れた世界のHTMLファンたちは、iモードのWebサイトを見ることによって、失われかけていたWeb制作の魅力を再発見することにもなったのである。
iモードは、没落したHDMLに変わってモバイルWebの命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。海外のモバイル陣営が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を切り捨て、日本の後代へと引き継いだ重要なリレー第一走者としての役割を、HTML史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取った日本の若きWebデザイナーたちが、2000年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、モバイルWebは鮮やかな発展を遂げる。だから、もしiモードが存在しなければ、HTMLの様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんなiモードHTMLのバージョンはいくつもあるのだが、中でも特に多くのHTMLファンを――取り分け日本の若きWebデザイナーたちを魅了したのが、この『Compact HTML』である。この仕様の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたW3C Noteであろう。HTML史において、これほど拡張多く適当なディテールで構成されたNoteは他にない。そのためこのNoteは、これ以降無数に手本とされ、真似され、拡張されることとなるのである。
正字正仮名の影響を受けた日本の若き日記書きたち――言うなれば「CSSコミュニティ」――が頭角を現す直前のW3Cで、HTML史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の仕様が誕生する。
この時期、情報技術の進歩によって、HTMLにもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った国際化、全く違ったアクセシビリティ体験を生み出すことに成功したのが、この仕様『HTML 4.0』を勧告したWorld Wide Web Consortiumである。
『HTML 4.0』は、HTML史において最も革新的な仕様の一つとなった。この仕様に初めて触れた当時のWebデザイナーたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのないマークアップがくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しいHTML体験を、そこで味わうことになったからである。
W3Cの果たした一番の功績は、テクノロジーとHTMLを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えばそこでは、「スタイルシート」という新しい技術のデザインと、それでレイアウトされたページが閲覧者に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しいHTML体験を生み出すことができたのである。
この仕様『HTML 4.0』には、そうしたテクノロジーとHTMLとの融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、HTMLはここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「CSSコミュニティ」がWeb日記業界に論争をもたらすのは、2000年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、1947年生まれの非政府組織で、IECとも協力した生粋の工業標準化団体であった国際標準化機構が、この仕様『ISO/IEC 15445:2000 (ISO-HTML)』によって成功を収めたことである。
このHTMLは、単にJIS的に標準化しただけではなく、文化的な意味においても、フラットでリニアな構造の力を広く世界に知らしめることとなった。この仕様の成功によって、世界の人々は、レベル付けされた見出しの魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて見出しのレベル分けが世界のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように使う状況を育んでいくのである。
またこの仕様は、CSSコミュニティそのものにも大きな影響を与えた。この仕様の成功に刺激を受けた才能ある若きコミュニティ住人たちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名サイトを生み出していくからである。
それらが相まって、やがてCSSコミュニティは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『ISO-HTML』なのだ。
『HTML 4.0』で繁栄の足がかりを築いたW3Cは、この仕様『XHTML 1.0』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたメタ言語も、W3C勧告のの一つであり、また『HTML 4.0』を作ったSGMLの改良でもあった、Extensible Markup Languageであった。
この勧告は、史上最も商業的に成功した仕様となる。そのためこれ以降、この勧告にならって商業的バズワードを盛り込んだ仕様が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きな商業的話題を集めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの意見は、やがて再びW3Cに還元され、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この仕様がきっかけとなってW3Cにもたらされた意見は、HTMLという言語を変革させていくことになるのだが、それに伴って、HTMLそのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬW3Cの手によってなされた。ここで『XHTML 1.0』の成功によって手にしたメンバーをもとに創設した文書マークアップの開発集団「HTML Working Group」が、より魅力的な拡張性を追求していく中で、やがてM12n(モジュール化)という技術の開発に至るのである。するとそれが、これまでのHTMLを一変させたのだ。
M12nは、HTMLに魅力的かつ効果的な特殊語彙を、DTDでしかも複雑怪奇にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に世界から見捨てられていった。そのため今では、M12nの使われているHTMLを探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『XHTML 1.0』がWeb業界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
2000年代以降、繁栄を謳歌したW3Cは、しかしその栄華の大きさゆえ、00年代中盤に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な仕様はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が5年は続いた00年代の後半になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代のHTML WGメンバーたちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代のHTML WGメンバーとは、マイクロソフトやモジラ・ファンデーション、オペラらに代表される「ブラウザベンダ」と、無関係な編集者たちであった。
彼らに共通するのは、文書構造に不必要なものなら全て――とるに足らないガジェット的なものまで含めて――残らず切り離そうとする「オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだったHTMLの些末な要素にスポットを当て、それを別仕様に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った草案を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として00年代の後半に登場したのが、XHTML2 Working Groupだ。
XHTML2 WGは、特に99年に最後の草案が作られたこの仕様『XHTML 2.0』によって、オタク的なHTMLの楽しみ方が、一部のマニアだけにとどまり、それ以外の多くの人たちには受け入れられないことを証明してみせた。この失敗が、デ・ファクト的な新生HTML WGにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けたWeb WorkersやDOM Level 3 Eventsといった、次世代のWeb標準たちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、第二次ブラウザ戦争の集大成ともいえるこの仕様である。
『HTML5』は、HTML史においては『HTML 3.0』と同じような意味を持つ。つまり、それまでのHTMLの要素が全て詰まっているのだ。この仕様を見れば、それ以前のHTMLの歴史というものが全部分かる。
『HTML5』には、HTMLのあらゆる要素が詰まっている。ここには、『HTML 3.0』のような歴史的な仕様としての「総合性」があり、『Compact HTML』のような「実装の実在さ」がある。『HTML 4.0』のような「マルチメディアとアクセシビリティの融合」があり、『ISO-HTML』のように「セクション構造の魅力を全世界に知らしめ」た。また、『XHTML 1.0』のように「バズワード的に成功」したのはもちろん、『XHTML 2.0』が別仕様に押し出した「オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこのHTMLは、『HTML 3.0』と全く同じ意味合いを持っているのだ。HTML史というものは、『HTML5』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られるHTMLで、『HTML5』の影響を免れるものはないであろうからである。
以上、これさえ読めばHTMLを包括的・体系的にとらえることができる7本の仕様を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、歴史的に重要な仕様は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「素数の分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた仕様は、いずれも「読むことによって他の仕様にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『HTML 3.0』を読んだならば、ブラウザ戦争前夜の独自HTML拡張に自然と興味がいくだろうし、『Compact HTML』を読んだなら、iモードのそれ以外のバージョンのHTMLも見たくなるだろう。CSSコミュニティについてもそれは言えるし、『ISO-HTML』を読んだなら、このHTMLを流行らす土壌ともなった「フラットでリニアな構造」というムーブメントにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『XHTML 1.0』はXMLオタクになるきっかけになるだろうし、『XHTML 2.0』はその他の「オタク的なXML EventsやXForms」の仕様も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『HTML5』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこのHTMLは、完成度があまりにも高いために、これを見た後に他のHTMLを読むと、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの仕様を読むことによって、HTMLをさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの仕様を読むことによって、HTMLを包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな助けとなるはずだ。
上に挙げた仕様への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「HTMLを体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
高校時代に読んだこのサイトによって、「リソースとは何か」ということを、ぼくはを知った。
「HTMLはSGMLの応用だ」ということが、このサイトを読むことでよく分かる。何気なく見ていた省略記法でも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
世界がCSSコミュニティの何に驚かされたかといえば、それはやっぱり精緻に書き込まれた正字正仮名にだ。ノジタンの日記には、HTMLの本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くの日記で多くのコミュニティ住人に、言及されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、とほほ氏がHTMLというジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた感想のいくつかは、このサイトに書かれていたばけらさんとの「スタイルシート論争」を参考にしたものなのだ。
これらのサイトを読めば、どんなHTMLが素晴らしく、どんなHTMLがそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あのCSSコミュニティ住人の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】
ICU 620人 350人(56.5%) 270人(43.5%) 1校
上智 2160人 1322人(61.2%) 838人(38.8%) 0校
慶応 6145人 3920人(63.8%) 2225人(36.2%) 5校
早稲田 8880人 5880人(66.2%) 2000人(33.8%) 5校
法政 5850人 3965人(67.2%) 1920人(32.8%) 3校
中央 5410人 3694人(68.3%) 1716人(31.7%) 3校
立教 3685人 2575人(69.5%) 1110人(30.5%) 2校
明治 6205人 4421人(71.2%) 1784人(28.8%) 3校
青学 3132人 2285人(73.0%) 847人(27.0%) 1校
そしてさらに新たな問題が最近になって浮上してきている。それは、AO入試(学力試験の代わりに書類審査、
建前上は、一発勝負の受験の弊害を排したり、多様な学生を集めるためのものだが、有効に機能しているとは思えない。
推薦組、とくにAO入試組の低学力が、各大学で問題になっているのだ。
私の知る限りでも、早慶レベルの学校に、それより偏差値が10以上下の大学の付属校から成績不良で大学に上がれなかった
生徒が推薦やAOで数人入学している。基本的にAO入試というのは、アメリカで行われている試験制度を採り入れたものと
いうことになっているが、アメリカの場合は、SATと呼ばれる統一学力テストの点数も評価したうえでのセレクションが原則だ。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/174705/より抜粋
2009年の大学の実力で読売新聞が収集した一般入試、推薦入試の
http://www.wasedajuku.com/wasemaga/unipro-note/2009/07/post_461.html
たとえば中京大学は、
AO10名、指定校732名、公募623名、付属・系列218名。
一般入試への占める割合が、51.34%
かなり激しい偏差値操作です。
ちなみに名城が59.29%で中京と比べればかなり割合が増える。
推薦入試枠がなければ、名城と中京の偏差値が入れ替わるかもしれません。
ちなみに総合大学で、割合が高いのは、
このへんの大学は、推薦枠を広げれば偏差値を上昇させることができる大学。
(あえてしないのは、在学生の質が落ちるからだと思われる。)
悲しいことに私立大学の偏差値でトップにたつ慶応、早稲田大学は一部しか公表せず。
一般5割、推薦4割、AO帰国1割って感じ。
今は一般入試の枠を減らしてセンター利用枠に替えているので純粋な三教科型の一般枠はもっと減ってるはず。
http://www.waseda.jp/kyomubu/hyouka/2005houkoku/2005_03_01_01.pdf
一般入試 611名 51.6%
内部推薦 250名 21.1%
指定校推薦 213名 18.0%
AO入試 109名 9.2%
帰国入試 1名 0.1%
政経法商なんて一般募集は半分以下にして、一部はセンター利用で東大一橋落ち拾うようにしてるけど残りは全部推薦AOにまわした。
1990年 1060名 1100名 1000名 840名 1000名 540名 480名 420名
1992年 920名 950名 ↓ 900名 970名 650名 ↓ 380名
1994年 ↓ 900名 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
1998年 ↓ ↓ 900名 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
2001年 800名 750名 800名 820名 960名 590名 410名 355名
2004年 500名 350名 500名 640名 700名 500名 450名 330名
2007年 450名 300名 ↓ 440名 700名 500名 500名 330名
2008年 450名 300名 460名 440名 700名 500名 500名 360名
ーーーーーーーーーーーーー------------ ------------
増減 -610名 -800名 -540名 -400名 -300名 -40名 +20名 -60名
90年比 (58%減) (73%減) (54%減) (48%減) (30%減) (7%減) (4%増) (14%減)
早稲田の学生の半分が一般入試を経ないで入ってくる現状だとこれからは
っていう風な区別の方がより重要になってくるんじゃない?w
というか学部間の学生の差が、昔以上にかなり均質になっているのは間違いない
(ttp://www.admissions.keio.ac.jp/exam/ippan.html参照)
試験科目数別の定員
3教科~ 1270名 ←一般私大
1、2教科 2650名 ←Fラン入試www
0科目 2235名 ←推薦馬鹿w内部w裏口www
慶應法 一般460(36.5%) センター100(7.9%) /A030(2.4%)/指定校160(12.7%)付属420(33.3%)
慶應経済 一般750(62.5%) /付属450(37.5%)
慶應文 一般580(72.5%) /公募推薦120(15%)/ 付属100(12.5%)
慶應商 一般700(70.0%) /指定校150(15%) 付属150(15%)
慶應理工 一般650(61.9%) / 指定校195(18.6%) 付属190(17.6%)
慶應SFC 一般550(61.1%) /AO200(22.2%)/ 付属150(16.6%)
慶應医 一般66(60%) / 付属39(39%) /帰国1(1%)
見れば分かる通り、慶応法とか試験通らないで入ってくる奴が半分以上で酷い。
指定校は基本、成績にばらつきがあって、真面目だが、一般では入れるとは思えない印象。
付属は多すぎて、特に一般では難関の学部に限って、付属枠が大きいため、多少
馬鹿でも希望の学部にいけてしまうらしい(法や経済は極めつけ)
ちなみに・・・
ttp://www.admissions.keio.ac.jp/topics/info_20070731.html
世界史Bの出題範囲は1500年以降を中心とし、日本史Bは1600年以降を中心とする
2009年度入試からは、筑波大学(社会・国際学群)および、一橋大学で廃止。
筑波大学と九州大学は、2000年度に、国立大学初のAO入試を導入した大学であるが、
「AO入試組」の学力不足・入学後の学業不振を理由に、見直しを決定。
「2005、2006年度に一般入試とAO入試で入学した学生の成績を比較したところ、
授業が進むに従い、AO入試で入学した学生の成績に低下が見られた」
「AO入試で入学した学生の成績がほかよりも低い傾向にあった」
「センター試験を課す学部では目立った差がなく、基礎学力の不足が原因と判断、廃止を決めた」
「(AO入試では)しっかりした学力を身に付けているかどうか判断できない」
今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.
一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本は経済も社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.
経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店に平積みされていた.お金のことは銀行や専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.
また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年.
また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.
2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.
ゼロ年代を象徴する批評家,東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想,批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.
また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.
2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校の進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.
格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会の空気を表す本としてピックアップすることができる.
不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.
9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリ・ハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディア・コントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.
2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社が新書に力を入れ始める.
『仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者の共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代のサクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.
新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルのハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代のキーワードを体現した.
また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本のナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.
相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.
また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0,玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipediaが大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.
品格ブームを引きずって『女性の品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.
データが重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店に平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBにデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.
その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田らオプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.
また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.
どういう流れからか,『×型 自分の説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分をグーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本が書店に平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.
批評界では東にケンカを売る形で宇野『ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャの生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.
ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.
文字ばっかりでごめんなさい.
1994年----●--+--------+--------+--------+--------+--------+ 3位 村山 1995年----●--+--------+--------+--------+--------+--------+ 3位 村山 1996年----●--+--------+--------+--------+--------+--------+ 3位 橋本 1997年------●+--------+--------+--------+--------+--------+ 4位 橋本 1998年--------+●------+--------+--------+--------+--------+ 6位 橋本 1999年------●+--------+--------+--------+--------+--------+ 4位 小渕 2000年----●--+--------+--------+--------+--------+--------+ 3位 森 (この年から自公連立) 2001年--------●--------+--------+--------+--------+--------+ 5位 小泉 2002年--------+--●----+--------+--------+--------+--------+ 7位 小泉 2003年--------+--------●--------+--------+--------+--------+ 10位 小泉 2004年--------+--------+●------+--------+--------+--------+ 11位 小泉 2005年--------+--------+------●+--------+--------+--------+ 14位 小泉 2006年--------+--------+--------+----●--+--------+--------+ 18位 小泉 2007年--------+--------+--------+----●--+--------+--------+ 18位 安倍 2008年--------+--------+--------+--------+------●+--------+ 24位 福田・麻生 2009年--------+--------+--------+--------+--------+--------● 30位 麻生 (中略) 2020年●------+--------+--------+--------+--------+-------- + 1位 ?
自公政権っていままでなにしてきたんだ…?
今度は与謝野財務・金融・経済財政担当相に、先物業者が従業員の名義を使ってやっていたという話である。
自民党の二階経済産業大臣や、民主党の小沢前党首の件と同様に、ミカジメを払わないと嫌がらせをされるからという理由で業者は払っていたのであろう。
法律では、献金を貰った対価として仕事を取らせるという、いわゆる便宜供与を収賄行為として規定している為に、入札参加者から外す圧力をかけるような嫌がらせ行為をさせない為にお金を支払う行為は、お金を受け取った側にとっては便宜供与にはならないので、収賄行為にならないという、法の抜け穴があったわけである。粗探しをしない、苦情を言わない、嫌がらせをしないということから、怠宜供与とでも言おうか。
官僚の天下りを受け入れるというエントリーフィーの他に、その縄張りを仕切っている議員先生にミカジメを払わないと、競争に参加する事すら出来ないというのが、日本経済の閉鎖性と批判されている部分なのである。
この閉鎖性を、どのように外していくかというのが改革だった筈なのだが、骨太の方針は骨抜きになり、今では"ばら撒きの方針"に戻ってしまっている。自民党も民主党も、献金でずぶずぶという醜態を晒しているのであった。
Too big too fail(壊すには大きすぎる)というのは、日本ではバブル崩壊の時に出てきた言葉である。大きすぎて潰せないから、公的資金を投入するという、話で、公的資金の投入が行われた。宏池会のATMと揶揄されていた日本長期信用銀行(現在は新生銀行)に公的資金が投入されたのは1998年であり、あれから20年が経っている。
大きすぎて潰せない規模の企業を、細かく分割してリスクに対応させるべきなのに、企業は大きなままである。Too big too failというリスクへの対応が、20年経っても行えていない。これでは、怠業ではなく、無業であろう。
大企業は、少数の正社員といつでも切り捨てられる多数の派遣によって、賃金の下方硬直性を取り除いた経営を目指しているが、雇用や賃金を維持しないのであれば、内部留保は必要ない。法人としての利益も、株主への配当を支払う為以上の課税利益を必要としない筈である。つまり、利益の大部分は、従業員への還元となる筈である。法人税法や会社法が、終身雇用を前提として会社に資産を溜め込ませ、その上前を税金としてハネるとなっているのに、雇用関係法は終身雇用を前提としていないとなれば、終身雇用の為の余裕であった企業の内部留保は、企業の所有者である株主に還元しろという話になってしまう。
法や判例や通達を時代の間尺に合わせて変えていくのが政治の本分であり、為すべき事は幾らでもあるのに、ばら撒きとミカジメ集めに汲々としているのでは、国民に見限られるのも当然であろう。
俺の勘違いは始まった。
おれ、イケんじゃね?
Numberに載ったことが影響してか、
翌シーズンのリーガについて、というもので、
必死になって書いた。
手にした大金を見て思った。
おれ、サッカーで飯食っていけんじゃね?
無理だった。新卒で入社したのは、
憧れのサカマガに行けると思っていた。
無理だった。配属されたのは営業部で、
それから四年もの間、全国を飛び回る営業マンをやった。
退社を決意して、部長をすっ飛ばして、
取締役の人にやめたいと言った。
このまま営業をしていてもダメだ、
だからバイトでもいい、まずは
取締役の人は、うちでやってみろよ、
と言ってくれて、編集部に異動させてくれた。
ある程度のスキルも身についたと思い、
転職活動を始めた。
相変わらずちょくちょく更新していた。
運良く内定をもらえた。
配属されたのは、別の部署だった。
また回り道。
それから二年経った。
仕事ってのはわからないもんで、
ひょんなことから、
勝てば休日出勤。面倒だなあと。
だが、勝った。勝ちやがった。
試合が終わってから軽く仕事をして、
ちょっと寝て会社に向かった。
朝からずっと張り付いて、
ようやく昼過ぎに落ち着いたとき思った。
しちゃってるんじゃねえの?!
急に目頭が熱くなってきて、
涙がこぼれ落ちた。
ガランとした社内で、
ジュるジュると鼻水をすすりながら、
一人むせび泣いた。
ちょうど11年前の今日その日だった。
人生を誤った無数の受験生が職歴も無く歳を重ね酷い事になっている。
25 名前: 氏名黙秘 [sage] 投稿日: 2009/05/10(日) 04:34:18 ID:???
今年27になる男なんだけど、結婚を考えている人がいる。
すぐにでも撤退すべきなのか、今年1年頑張ってみて来年の受験後撤退すべきか悩んでいる…
今景気が悪いし、それが本当に不安。
26 名前: 氏名黙秘 [sage] 投稿日: 2009/05/10(日) 07:55:47 ID:???
20代なら転進。生涯賃金は軒弁よりも高くなる。
30代、じたばたするなよ。
30代後半になると、
無い無い無い職がない。
しがみつけー。
29 名前: 氏名黙秘 [sage] 投稿日: 2009/05/10(日) 11:19:55 ID:???
気になるのは皆年齢、世間体たよなあ
親に受け続けるというときは、「受かっても就職難、合格後1年間の
借金背負わされる」ということは宣告しておくべき。そうでもしないと
嘘になっちゃうし。
そして働くべし。気分転換にそうしないと心が折れるよ
70 名前: 氏名黙秘 [sage] 投稿日: 2009/05/10(日) 15:05:19 ID:???
197×年生まれ 3×歳
1998年?4月~2004年3月までの6年間、フリーター(塾講師)しながら不動産鑑定士の受験
・・・ この間、行政書士、宅建、マンション管理士など使えない資格を取得
2007年5月 司法試験不受験(精神疾患や対人恐怖症悪化のため)
2008年5月 司法試験不受験(上位合格し有力事務所に就職しなければ、受かっても意味がないため)
73 名前: 氏名黙秘 [sage] 投稿日: 2009/05/10(日) 15:22:47 ID:???
うあああああああああああああああああ
クズとかまで言われた。世間でこんな年齢で何もやってこなかった
人はいないって。勉強にお前は逃げてるだけだろ、働けよと。
お前は不幸だとかめちゃくちゃ言われた。社会の正規ルートからはずれて
いって自業自得だよとかも。ホント辛い。涙出てきた。
http://d.hatena.ne.jp/mujige/20090525/1243237413
核攻撃を口にしたのは現地司令官のマッカーサー、大統領はマッカーサーをそのことで更迭したので
北朝鮮の一般人が大統領と司令官を一緒に考えるのは、まあ仕方がないかもしれないけど、
映画を見ていないというわりには内容を熟知していたので、私はちょっと驚いた。
映画を見ていなくても内容を熟知していることに驚くなんて、こいつニートか?
いや、今の日本に住んでいるのなら、ニートだってネットから情報を得て
ネット環境がおそらく乏しいだろう北朝鮮であっても噂で内容が広まっていたって少しもおかしくない。
むしろ映画を見ていなくても知ったふうに内容を批判する行為に反発しないのは、
日本の卑怯な連中の感性そのまま。だからこんな駄文を書くのだろうけど。
ひとりの女子学生が、私たちにこんな質問をした。
きちんと公平に返答するのなら、俺なら
「儒教文化の「仲良くしよう」と、近代文化の「仲良くしよう」とでは、込められた意味が全然違うのです」
だな。
続けて朝鮮新報(朝鮮総聯機関紙)の平壌支局を訪問した。そこで初めて支局長から「今日、核実験に成功したそうですよ」と聞かされた。昼のラジオと夕方のテレビで、短いニュースが流れたという。
1998年のミサイル/人工衛星発射騒動のとき、北朝鮮内で日本のマスコミを招待して、拉致事件の説明会を行っていた。会見が休憩しているときに記者たちが日本の本社から騒動の連絡を受け、担当者に
「ミサイルが発射されたようですが、どういうことなんでしょう?」
と詰め寄ったが、あいにく担当者は外交部の人間であり、軍部から発射についての連絡が何も来ていなかったので、全く答えることが出来なかった。
日本の記者団から教えられるまで外交部だって平穏だったことを考えれば、もっと知らされていない平壌の街が平穏だってなんらおかしくない。
「北朝鮮の核実験に反対する」と口で言うのはたやすいが、日本がアメリカの核の傘の下にある現実を省みれば、その声はうつろに響く。彼らは言うだろう。朝鮮人以外の誰が朝鮮の安全を守ってくれるのか、と。
アメリカの核の傘に守られているのは外国からの直接攻撃についてであり、拉致や暴行、領海侵犯のような嫌がらせレベルには全く守られていない。
あと、日本が強硬手段に出られないのはアメリカよりも経済・貿易事情を考えているからであり、
対北朝鮮どころか韓国占領下の竹島に行動が移せなかったり、韓国が日本人漁業者を拿捕暴行働いたときに直接行動出来なかったのも、
「費用対効果を考えると割に合わない、交渉でなんとか解決しろ!」
という世論が幅を効かせているからだ。
日本政府だって実力行使が頭をかすめたことは、当然あるだろう。しかしそうなったら株価がどれだけ暴落するかを考えて実力行使を放棄するのが自然。
「正論だけ言っても誰も動いてくれない。主張しなければ認めたことになる」
という意見にも口を噤まざるを得ない。日本という国は「舌戦であっても揉め事を嫌う」連中に拘束されている。
が、この駄文書きの主張している「朝鮮人以外の誰が朝鮮の安全を~」というメンタリティは、
おそらく本当のことであろう。
人生を誤った無数の受験生が職歴も無く歳を重ね酷い事になっている。
25 名前: 氏名黙秘 [sage] 投稿日: 2009/05/10(日) 04:34:18 ID:???
今年27になる男なんだけど、結婚を考えている人がいる。
すぐにでも撤退すべきなのか、今年1年頑張ってみて来年の受験後撤退すべきか悩んでいる…
今景気が悪いし、それが本当に不安。
26 名前: 氏名黙秘 [sage] 投稿日: 2009/05/10(日) 07:55:47 ID:???
20代なら転進。生涯賃金は軒弁よりも高くなる。
30代、じたばたするなよ。
30代後半になると、
無い無い無い職がない。
しがみつけー。
29 名前: 氏名黙秘 [sage] 投稿日: 2009/05/10(日) 11:19:55 ID:???
気になるのは皆年齢、世間体たよなあ
親に受け続けるというときは、「受かっても就職難、合格後1年間の
借金背負わされる」ということは宣告しておくべき。そうでもしないと
嘘になっちゃうし。
そして働くべし。気分転換にそうしないと心が折れるよ
70 名前: 氏名黙秘 [sage] 投稿日: 2009/05/10(日) 15:05:19 ID:???
197×年生まれ 3×歳
1998年?4月~2004年3月までの6年間、フリーター(塾講師)しながら不動産鑑定士の受験
・・・ この間、行政書士、宅建、マンション管理士など使えない資格を取得
2007年5月 司法試験不受験(精神疾患や対人恐怖症悪化のため)
2008年5月 司法試験不受験(上位合格し有力事務所に就職しなければ、受かっても意味がないため)
73 名前: 氏名黙秘 [sage] 投稿日: 2009/05/10(日) 15:22:47 ID:???
うあああああああああああああああああ
クズとかまで言われた。世間でこんな年齢で何もやってこなかった
人はいないって。勉強にお前は逃げてるだけだろ、働けよと。
お前は不幸だとかめちゃくちゃ言われた。社会の正規ルートからはずれて
いって自業自得だよとかも。ホント辛い。涙出てきた。
毒カレー事件で林真須美に死刑判決が出たけど、そういえばあの時女子中学生が夏休みの宿題で「カレーは腐らないから食中毒じゃないはず。毒物混入では」と推理して世の大注目を浴びたことがあった。
あの子は今ごろどうしてるんだろうと、ネットを検索してみた。まずは本人のサイト。
1983年生なので、今は26歳。HPのプロフィールは2000年に16歳で高校を中退したところで止まっている。
三好万季
四人はなぜ死んだのか―インターネットで追跡する「毒入りカレー事件」 (単行本)
http://www.amazon.co.jp/dp/4163554300
出版社/著者からの内容紹介
日本中を震撼させた和歌山毒入りカレー事件。四人の犠牲者はなぜ死んだのか。医療過誤の可能性を鋭くついた文藝春秋読者賞受賞作
中3の夏休みの宿題で史上最年少受賞!15歳の少女がインターネットを駆使して見つけたあの和歌山毒入りカレー事件の「盲点」とは?選考委員こぞって激賞、皇后美智子さまと同時授賞。第60回文芸春秋読者賞。
書評を読むとこの頃(1998年当時)はインターネットで検索・情報収集ということが世間で新鮮味をもっていたことがわかる。
ひとつ気になった、書評が。
<蛇足>
この筆者の父親が砒素の専門家で、父親の著作と同じような記述が本書でも見られることから、
父親が本書にかなり手を加えていたのではないかということが言及されていた。
事実はどうであれ、このような疑いを持たれるような人物に、大した身辺調査をせず賞を与えてしまった出版社は大いに反省すべきであろう。
父親が手を加えていたのかと興味が湧く。さらに調べるとある雑誌とは噂の真相の記事のことらしい。
たしかに文章が似ている。
三好万季の父・三好義光はいろいろ本を出してるらしい。amazonで検索してみる。
- 成人病を予防するビタミン・ミネラル (TSUTIYA HEALTHY BOOKS) 三好 義光 (単行本 - 2004/5)
- 子には魚を与えるな釣り方を教えよ!―15歳のわが子を司法試験(一次)に合格させた... 三好 義光 (単行本 - 1991/5)
- 成人病を予防する ビタミン・ミネラル 三好 義光 (単行本 - 1986/1)
- 気力こそ自立への根っこ―パラダイム大転換時代の子育て (モーニングママ選書) 三好 義光 (単行本(ソフトカバー) - 1995/3)
- ビタミン・ミネラル健康百科―健康と能力をアップする (1984年) 三好 義光 (- - 1984/6)
http://www.amazon.co.jp/本/s?ie=UTF8&rh=n%3A465610%2Cp_27%3A%E4%B8%89%E5%A5%BD%20%E7%BE%A9%E5%85%89&field-author=%E4%B8%89%E5%A5%BD%20%E7%BE%A9%E5%85%89&page=1
さらに「気力こそ自立への根っこ―パラダイム大転換時代の子育て」「子には魚を与えるな釣り方を教えよ!―15歳のわが子を司法試験(一次)に合格させた三好流教育法」という本を出していて、長男を司法試験1次合格させたり、留学させたりかなりユニークな教育観を持った人物のようだ。(長男は司法試験2次合格したかは不明)
ということで、今現在の三好万季が何をしているかはよくわからず、怪しい?父親の存在が浮かび上がって、なんだかなぁ~という思いがもやもやと残った・・・
http://anond.hatelabo.jp/20090420031928 を補足してみる。
運営資金確保のための措置だろうし、おかげで大概のCDがいけるようになったけど、googleやamazonが買ってたら、また、違った結果になったかもしれない。
情報元:
ここ10年ほどで壮絶な人生を送って話題になった人たちのその後。(ソースはwikipedia)
リスト作るだけで胸焼けがした。政治や教育関係に転身するケースが多い。
最近は一般庶民の生活が苦しくなったからか、壮絶人生の話はあまり見かけない(あれば補足してくれるとありがたいです。追加:ヤンキー先生)
【据え置き】
【携帯】
※発売日はすべて日本国内の発売日
※http://anond.hatelabo.jp/20090406014202を受けて、ネオジオポケットを追加
※http://anond.hatelabo.jp/20090406022111を受けて、スーパーカセットビジョンを追加
相続税の対象にならない国債を作って、老人にお金を使ってもらおうという話である。しかし、現在、市中に滞留している紙幣の大部分は、個(老)人のタンスではなく、企業の金庫に存在している。
企業会計がガラス張りであるならば、そんなお金は存在しない。したがって、唯一ガラス張りになりえない個人のタンス預金にあるという分析になり、それを引っ張り出す為に無利子非課税国債という考え方が出てくるのであろう。だが、大本の、企業会計がガラス張りであるという仮定が間違っている。
そもそも、無利子非課税国債とは、記名紙幣に過ぎない。無記名で済む紙幣の方が、はるかに節税に適している。個人を対象とする国債の売り上げが低迷している事を見れば、個人がお金を持っていないという事に気が付きそうなものなのだが、個人がタンス預金を持っているという事にしておかないと、これまでの大企業優遇政策を改めさせたくない勢力にとっては都合が悪いのであろう。
過去の変動10年債の発行額を並べてみた。(各回の発行条件の告示を一枚ずつ開いて縦書きの官報形式pdfから集計。→http://www.mof.go.jp/jouhou/kokusai/kojinmuke/contents/outline/hendouTop.html)
第1回(2003年3月) 3,835億1176万円
一覧してわかるように、2005年4月にピークを作ってから、現在はそのピークの値の1.35%程度の出来高にまで減少している。国民に知られたくないらしく、このデータを取るには、発行回数毎にpdfファイルを開いて、漢数字表記の該当部分を読み取らなければならなかった。元データには、検索性も一覧性も無い。
サブプライムバブルのピークは2008年の8月であるが、リストラや派遣の増加によって、国債の購買力の減少はとっくに発生していたのである。
ちなみに、消費税収入 http://www1.mof.go.jp/data/index.htm
は、http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/20060301-10.html のデータに加えて、
1990年度 48,700億円
1991年度 49,440億円
1992年度 49,680億円
1993年度 54,580億円
1994年度 57,400億円
1995年度 57,480億円
1996年度 60,480億円
1997年度 93,047億円(税率3%の場合の仮定税収55,828億円)
1998年度 100,744億円(税率3%の場合の仮定税収60,446億円)
1999年度 104,471億円(税率3%の場合の仮定税収62,683億円)
2000年度 98,221億円(税率3%の場合の仮定税収58,934億円)
2001年度 97,671億円(税率3%の場合の仮定税収58,602億円)
2002年度 98,115億円(税率3%の場合の仮定税収58,869億円)
2003年度 97,128億円(税率3%の場合の仮定税収58,277億円)
2004年度 99,743億円(税率3%の場合の仮定税収59,846億円)
2005年度 105,834億円(税率3%の場合の仮定税収63,500億円)
2006年度 104,633億円(税率3%の場合の仮定税収62,780億円)
2007年度 102,719億円(税率3%の場合の仮定税収61,631億円)
2008年度補正後 102,540億円(税率3%の場合の仮定税収61,524億円)
2009年度予算額 101,300億円(税率3%の場合の仮定税収60,780億円)
となる。
2005年度に、過去最高だった1999年度をわずかに越えたが、以後、消費は減少傾向に移っている。この減少傾向は、個人向け変動10年債の売り上げ減少と、軌を一にしていると考えられる。
個人向け国債を買うお金は、個人の経済活動の余力であり、その余力が、個人にはもはや存在しなくなりつつあると考えるべきであろう。特に、失われた10年以降の若年層~中年層は、正社員になっていない層がほとんどであり、経済的余力はもとより、日本の特徴であった加工貿易のための技芸すら受け継いでいない。
四千万世帯のタンスの中には現金がうなっているという妄想で政策をこねくり回している暇など、どこにも無いのだが、信念で突っ走るつもりであろうか。