はてなキーワード: 1981年とは
でもさ、幸福度調査の結果を見るとを見ると1981年の調査から一貫して「幸せを感じる」「非常に幸せを感じる」を足した回答の割合は常に女性のほうが男性よりも高いんだよね。
調査で具体的な数字が出るようになってから常に、女性のほうが男性よりも幸せを感じている比率が高い。
言い換えれば常に男性のほうが女性よりも不幸せに感じているということ。
実際自殺リスクは圧倒的に男性のほうが高いわけだし、なんとなく実感として理解できる数字だなと思う。
じゃあ女のほうが幸せなのに差別されてるって言うのはおかしい!みたいな簡単な話かっていうとそういうわけでもなくて。「女は些細なことも幸せに思えよ」という社会的価値観がなかったかっていうとそういうわけでもないじゃん。
女は家で家事やって旦那の陰で内助の功を立てるのが幸せであるべき、みたいなさ。
それに対して男のほうが求められる役割が高い。
増田見ててもわかるように年収500万あっても底辺だって言われたりとかさ。でも女性だと500万稼いでたらまぁまぁやってんねぇ!って感じの評価になったりするじゃん?知らんけど。
なんかさぁ、女のほうが総合的に幸せを感じているにもかかわらず自分は虐げられていると感じていて、男性のほうが総合的に不幸を感じているにもかかわらず女性からは虐げている悪者のように扱われるっていう。日本の幸福ってどこにあるんだよって感じだよね。
女性だって男性並みの幸福を追求する権利がある!そんなことで幸福を感じてちゃダメ!って煽ってる奴がいるのも事実だけど、ぶっちゃけ男みたいにガツガツ仕事して稼いで役職取らないと負け組みたいな扱いされるような幸福を目指したいかって言われると、えぇーって気持ちでもあるんだよねぇ。
https://anond.hatelabo.jp/20230316083855
https://anond.hatelabo.jp/20230316084129
https://anond.hatelabo.jp/20230316084258
ちなみに冒頭で触れた福岡地裁の名誉棄損判決に至った盗撮事件であるが、風呂、トイレ、パンチラなどの各種盗撮作品を扱うマーケットおよび撮り師が一体的に摘発されたもので、10億円の被害があったとされる。この判決では映像そのものではなく映像を紹介する文面が名誉棄損に相当するとされたが、そのためか映像自体は何事もなかったかのように転載サイトに流出して今も止まっていないようである。それどころか、おそらくインディーズ版と思われるDVDが存在している。そうしたDVDは、無修正作品のようにアングラに出回っているならば理解できるが、本稿を執筆した時点でもJADMA加盟の大手の中古コンテンツ系ECサイトで普通に出品されていることを確認した。削除稿に書いた歴史的な経緯や、こうした目の前の事実を飛ばし、会議室の中で盗撮罪の議論が進んでいく現状に、むなしみを感じる。
アクション系と言われた成人向け雑誌の創刊は1981年9月であり、盗撮の商業化からおよそ40年の時が流れた。現在オークションでその創刊号の相場価格を調べるとおよそ1万5千円の高値を付けている。この価格はおそらく当時のカメラ小僧が社会的地位を手に入れ、趣味にそれだけの金額を支払っても惜しくないと思える程度の生活基盤を築いていることを示唆している。盗撮は一部のめりこむ人もいるようだが、特に日常生活を破綻させるほどの魔力を発するわけでもないし、前述の「盗撮をやめられない男たち」では相応の社会的地位を有する人の愛好家が多いことが紹介されている。そうした人たちはおそらく慎重に盗撮の性的志向を隠し、今後もひそかに楽しむと思われる。また、女性側も自衛の意識はありながらもスカートとパンティを履き続けるだろう。この業界で多くの人がチェックしている「スカートの下の劇場―ひとはどうしてパンティにこだわるのか」の中で、著者の上野千鶴子氏はパンティというものに対してどういう好みでどう買ってどう選んで履いているのか正直よく分からんという旨を仰っていたように感じる。おそらく上野氏にしてモヤっとした書けないレベルのパンティという宇宙をその他多くの女性が制御し切れるとは思えない。
さて新規ファンはどうか?もし盗撮罪が発効して想定の通り機能すれば、撮影と流通は大幅に減ると思われる。そうしたときに前述のリーチサイト等に既に存在し、今後も削除困難な過去の盗撮コンテンツへのアクセス数はどうなるだろうか?私は徐々に減少する一方と想定する。なぜならば、削除稿にも記した通り、盗撮コンテンツは撮れていればよいというものではなく、女性の笑顔や仕草やコスチュームなどが重視され、鬱屈し発酵・熟成した思いが投射される性格が強いからである。そうすると自分の青春時代等がいつまでも残り続けるという点で、現状のファンは今後もファンであり続けて旧作を楽しめるが、いつかは精力を失って退出していく。そして新規は、ドラマ「舞い上がれ」でも時代を象徴する小道具として使われてしまったようなパカパカするガラケーなどを使っている被写体には、まったく接点がないため、パンチラの魅力を感じないのである。そのことは一般AVで看護師のコスプレが激減していることからも補強される。看護師は10年以上前からパンツルックに移行しており、今の若者はスカートの看護師になじみがない。あの「白衣の天使」への思い入れが薄いのである。ましてや看護帽などAVでしか見たことが無いだろう。
新規ファンは盗撮影像に影響を受けずとも、日常生活の中で目撃したパンチラに「良いな」と思うことで自然発生し続けるだろう。その中からごく一部どうしても抑制しきれずに盗撮に手を出し、確率的に逮捕される事象は続くが、マーケットが閉じられれば職業撮り師による大量撮影および流通が完全に止まるため、被害規模は減少するはずだ。それを横目に眺めながら旧作はおっさん達の寿命とともに誰からもダウンロードされなくなり、アルゴリズムによってネットの深海に沈んで鯨の骨よろしく消えていく。一般AVは裸になってしまえば昔も今もない。しかしパンチラという世界ではことに文脈が重要なのである。削除稿から本稿にかけて引用部を除いた地の文でどうしても一度だけパンツと言わざるを得なかったことが残念だ。
∩_∩ (・(ェ)・ )パンティ _____ (\ ∞ ノ \ヽ / ヽ)⌒ノ  ̄
1980年に『さらば宇宙戦艦ヤマト』で涙して、
1981年に『さよなら銀河鉄道999』のゴダイゴのテーマソングにノリノリになって、
1982年に『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』で感動してた。
そういうもんだ。
あるサイトによれば、中央大学の原理研究会が募集を始めたは1961年4月。年度は書かれていないが白門祭にも参加し統一原理を紹介する企画を行っている。
別のサイトによれば、1964年の早稲田祭で原理研による「原理展示説明会」が行われている。
【山上徹也容疑者に関連して】思い出したこと 日本史野島博之 のグラサン日記
年度と大学名は書かれていないが、本人のツイートによれば1978年駒場祭。
記事では、青山祭実行委員会の「構成メンバーはサー連とほとんど同じ」(サークル連合については「原理系サークルの聖書研・青山学院学生新聞会・弁護部を中心とするサークル連合(以下、サー連)」と説明されている)で「事実上〝青山祭〟は〝原理祭〟と化しています」と述べている。
『噂の眞相』1981年2月号「学園祭資金にまつわる不穏なウワサあれこれ」
伝聞や噂としてであるが、青山学院大学の学園祭について次のようなことが書かれている。
「大学から出る補助金の一部を原理研の連中が流用しているってウワサが前々から出ていたんだ。で、前期の終わりごろ、体育会の学生の一部と原理研の人間(実行委員)とが学内で、補助金問題をめぐって言い争うという事件がボッ発。傷害事件にまで発展したそうだ」
「模擬店などが学園祭期間中に得た収益の一部を例年ウワマエとしてハネ、それをほとんどフトコロに入れていたってウワサもある」
ついでに言えば、この記事でも取り上げているが左翼系の学園祭も金銭面の疑惑は多い。
筑波大学では学生の政治・宗教活動を厳しく規制していたにもかかわらず、学園祭で原理研の企画は許可されるという問題があった。『筑波學生新聞』などがこの問題を取り上げている。
筑波大学の学則と学生の自治に関する質問主意書(社会党の竹内猛議員提出)
原理研究会、NF期間中に講演会開催 抗議の学生らと衝突も 京都大学新聞社/Kyoto University Press
2011年、京都大学11月祭(NF)から追放されている原理研が学園祭期間中に学内で講演会開催。学生が借りることはできない百周年記念館のホールを名誉教授名義で使用。
最近、統一教会が話題になっているが、大学自治を経験したものからすれば、統一教会のイメージは最悪だ。それは、カルトというよりも、自治破壊の実力部隊だからだ。 - Togetter
東北大学新聞(258号) 「私が見た麻原彰晃」
副委員長(寄稿者)は「実力行使しても企画を中止させましょう」という意見だったが断念。「我々はできるだけ統制をしたくなかった(略)しかし秩序と信義を守るためには毅然たる態度こそ必要だったのではないだろうか」と書いている。
1992年、確認書違反を理由に駒場祭委員会がブレーカーを落として麻原彰晃講演会を強制終了。テレビ取材が入っていたのかはわからないが、映像が残っておりテレビでも放映された。
この時実行委員につかみかかった井上嘉浩は、その後地下鉄サリン事件などに関わり2018年死刑。
『東京大学新聞』第1776号によれば、駒場祭委員会は事前の企画書にない行為の一つとして「個人情報(氏名・住所・電話番号)の収集」を指摘している。
『「オウム真理教」追跡2200日』 江川紹子 1995年 文藝春秋
オウム真理教の学園祭企画で「住所や電話番号を書かされて」その後オウム真理教の会員となったケースが紹介されている。
すでにオウム真理教という名前はなくなっている2001年、信者が名古屋大学学園祭のフリーマーケットに教団名を隠して参加し来場者に住所氏名などを書かせた。詳細は不明だが『年表でわかる現代の社会と宗教』にも記載あり。
リスク許容度は人それぞれなので、投資すべきとかは各人で勝手に決めればいいと思っている
増田としては、長期・積立・分散が投資の王道であることは確かなので、インデックスで投資をしている。
しかし、長期投資なら確実に儲かるんだと脳死してリスクについて考えないという風潮は好ましくないと思っている。
SP500は過去ずっと右肩上がり、世界の人口はずっと右肩上がり、世界のGDPもずっと右肩上がり。
個々でみればいずれも事実だが、それが長期投資、最近話題になっている株式のリターンを約束すると考えるのは早計だ。
最近はインフレで各国で利上げ等の金融引き締めが行われているが、過去の金利を眺めると、ここ40年の間、金融緩和下にあったと言えるからだ。
アメリカ国債の10年金利は、1981年に15%でピークをうった後、そこからずーーーーーーーーーーーっと下がり続け、2020年には0になった。
これは、株式のバリュエーションに大きく影響を与え、結果として株価の上昇に大きく寄与した。
(面倒なのでバリュエーションと株価の関係について説明は省く。)
今のインフレの原因は需要面が7割供給面が3割とか言われていたりもする。
需要面については金利引き上げにより冷ますことができるが、供給面についてみると、資金調達コストが上がる以上、逆に制約になる可能性が高い。
また、グローバル化の進展により、ここ数十年間先進国からのオフショアリングが進み、結果として低インフレが可能となったが、
コロナによるサプライチェーンの混乱や、経済安全保障の面から、アメリカをはじめリショアリングの動きが進んでおり、これもまたインフレ要因になると考えらえる。
長期の金利下落トレンドが終了しつつあることから、特に将来の成長を前提としたハイテク株の株価については、今までのような値上がりが期待しづらい可能性がある。
あとSP500で言えば、過去150年で見た場合ずっと上がってきたわけだが、15年ぐらいの停滞は普通にあるので、そういう認識は必要だと思うが大丈夫だろうか。
例えばここから暴落したときに、元の資産まで戻るまで15年かかりますって言われて耐えられるか?って話。
もちろん。横横の場合でも毎月積み上げていけばリターンはちゃんと上がるので、停滞しようが下落しようが投資をし続けることが大事なのは言うまでもないが。
というか、触れられるのをあまり見ないが、そもそもの前提として、「分散」について株式の分散(全世界)しか語られないのが片手落ち。
投資を行う場合の分散は資産配分(アセットロケーション)がリターンの大部分を決めると言われている。
株式・債券・コモディティ・不動産現金・といった各種資産に分散させてこその分散投資である以上、株式だけを取り上げて確実に儲かるとかいうのは諸手を挙げては賛同しかねる。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220828/k10013791031000.html
ゲームアプリで緑内障早期発見なんていう、何ら目新しくも画期的でもないおもちゃみたいなニュースがバズるのも
こういうふうに日本の科学力が後退している事の証明なんじゃないかね
日本がもっと研究開発の方に予算を投じていれば、そんなバカバカしいニュースではなくて緑内障の完治のニュースが当たり前のように流れていたのかもしれない
「論文の引用回数は「質」の高さの指標とされ、各研究分野で上位10%に入った論文の数は、おととしまでの3年間の平均で日本は3780本と前回からわずかに増えたものの、韓国などに抜かれ10位から12位に後退。
https://anond.hatelabo.jp/20220701203714
↑を見て日本のマンガ史の重厚さと幅広さを実感し、媒体レベルでまとめるのは無理だと悟った
せめて出版社、掲載誌レベルじゃないと議論がとっ散らかりすぎるから一旦みんな好きそうなWJで作ってみた(ジャンプ専業とそうでない人の比較においてアンフェアな気がしたので作者単位ではなく作品単位にした)
選考基準は独断と偏見でしかなく、強いて言えば後世の作家への影響、言語化できないジャンプっぽさを重視している。ランキングではなく、連載開始順に並べただけです
黎明期レジェンド枠。現代の観点で言えばいろいろと問題ありそうだけど、サービスエロがジャンプマンガの大きな側面を担っていた事実は否定できないし、そもそもこの作品の売上が無かったらジャンプが存続してたかも怪しいので入れざるを得ない。
黎明期レジェンド枠2。ジャンプ黎明期の売り上げを支えつつ、不良系マンガを一大ジャンルとして確立させた意味で実は物凄く偉大な作品なのでは?という印象。これが無かったら東リべも存在しないよ多分。
ギネス記録である40年にわたる長期連載、そしてサブカルチャー全般を積極的に題材として取り入れたことで現代日本の風俗、文化を凝縮したような史料的価値を持つ作品になった点を評価したい。
黎明期レジェンド枠3。売り上げもさることながら、見開きを用いたド派手な演出の数々や、「荒唐無稽な能力バトル」というジャンルを確立させた点を評価したい。(このジャンルのパイオニアはアストロ球団なのだが、後進への影響はこちらが上かなと思う)
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品という認識。初めてのジャンプ黄金期を作った作品で、キン消しとか一般社会への影響力もすごい。
あと個性豊かなキャラクターの関係性が面白い。「友情・努力・勝利」の「友情」はほとんどキン肉マンで作り上げられたイメージなんじゃないかな。
勝利や友情といったそれまでのスポーツマンガの王道を抑えるのみならず、サッカーという競技本来のリアルな楽しさにフォーカスすることで、現実社会でもサッカーブームを巻き起こした。マンガ史全体としてはドカベンがそういうジャンルのパイオニアだけど、ジャンプで言えばキャプ翼がそれ。海外で人気が爆発したほぼ初めてのジャンプ作品という点も評価したい。
80年代のジャンプの象徴といえる作品。創刊以来、ジャンプの主たる系統であった劇画タッチやハードボイルドな男向けの作風の最高到達点だと思う。
90年代中盤のジャンプ黄金期を牽引した作品であり、連載が終了してなおもジャンプ、日本のマンガ文化の頂点に君臨する作品。急激な路線変更、無理やり感ある後付け設定と引き延ばしなど、負のジャンプらしさをも象徴している。
国民的作品として定着してきたのはここ数年って感じはするけど、現代の異能バトルマンガはほぼ全てジョジョ3部の影響下にあると思うので入れざるを得ない。
スポーツマンガの金字塔としてやはり外せない。勝利と成長の喜び、敗北と挫折の苦さがこれ以上なく詰まっている。マンガの域を超えて心に響く名言が多いのも特徴だと思う。
特筆して後世への影響や売り上げがずば抜けている印象はないけど、DB幽白スラダン終了後ワンピナルトブリーチが現れるまでの柱としてジャンプ暗黒期を支えた世代の代表として入れておきたい。
ここに入れるのはだいぶ攻めてるような気もするが、集英社における映像媒体以外のメディアミックスとして最大の成功例ではあるのでね。お金は正義。
ラブコメ枠から選ぶならこれかな。ジャンプの主たる読者層である10代の甘酸っぱい青春がこれ以上なく伝わってくる作品。肉感的なエロさを持った絵は典型的な少年マンガっぽくありつつ、キャラクターの内面を繊細に描き出す表現力が見事。
大河ドラマ的な作風であったり、連載中であったり、作画コストが高すぎたりで他作品へ与えた影響がまるで感じられない(マネしたくてもできない)点が評価を迷うポイント。でもなんだかんだ国民的マンガ、ジャンプの看板の地位は譲ってないのがすごい。
残酷で先の読めない展開、異常に複雑で難解な設定、それでいて少年マンガ的なシンプルな熱さを持ち合わせた稀有な作品。「続きが気になるマンガ」を描かせたらなんだかんだ冨樫の右に出るものはいない。
純粋なギャグ枠から一作入れたかった。読者をただ笑わせるパワーにおいて、この作品を超えるものはジャンプ史上ないと思う。
サスペンスを主体としたマンガとしてこれ以上ない完成度。ジャンプ作品って大別するとバトルものスポーツもの恋愛ものギャグもののどれかになると思うんだけど、それ以外のジャンルで最も成功を収めた作品な気がする。
趣味の多様化、出版不況といった逆風を跳ね返せる力がマンガにはまだあると示してくれた功績がデカい。それは単行本の売り上げや映画の興行収入より何倍も価値がある。
今のジャンプ、ジャンプ+がどんどんジャンルレス化している主たる要因はやはり藤本タツキだなーと思う。コンセプチュアルでありながら大衆性、少年ウケを奥底に秘めた感じというか。まだそこまで顕在化してないけど、今後10年でタツキフォロワーが無限に産まれそうな予感がするので入れておく。
知名度、後世への影響、漫画史的意義などを独断と偏見で考慮した上でサブカルくそ野郎フィルターで濾した二番煎じを俺も作ってみたぞ増田ァ
https://mainichi.jp/articles/20220603/k00/00m/010/378000c
仕方がないんや。このころのおっちゃんの感性はもう修正できへんのや。
この人が20歳のころは、町の美女を盗撮するのはブームだったんや。
アクション・カメラ術―盗み撮りのエロチシズム (ワニの本) 単行本 – 1981/1/1
https://www.amazon.co.jp/dp/458400420X
https://3443-0505.at.webry.info/201811/article_1.html
1981年に 馬場健司(元・石川さゆりのマネージャーであり 元・夫)の「アクション・カメラ術 盗み撮りのエロチシズム」なるカメラ入門書がベストセラーになり…
当時 街のあちこちに 女性をターゲットにしたにわかカメラマンが出没していました
幼かった頃の記憶をたどるために購入。立ち読みをしていた近所の本屋の匂いまで思い出しました。盗撮の本じゃないかと、目くじらを立てずに壮大な冗談と思って呼んでいただきたい。現代のコンプライアンスから考えると絶対に出版できない内容です。この時代の男たちの元気の良さが気持ちよかったです。そしてみんながカメラを好きだったこともよくわかります。今読んでも素晴らしい。1981年1月初版で僕のところには1981年2月の64刷が届きました。販売も凄い部数だったのでしょうね。
こんな本が170万部のベストセラーになり、テレビでも特集が組まれてたような時代だったんや。
このころの性の感覚は終わってて、ガチで女は「性的なモノ」といって差し支えない状態だったんや。
だから、このころフェミニズムが頑張るのはめちゃくちゃよくわかるんや。
今も、西村はんみたいなことをいってるキモいおじさんがいたら思い切りぶっ叩いたらええ。
このころの自分が嫌な思いをしたという感性を引きずって50代のおばちゃんが
こういうおっちゃんを想定してるかのようなフェミニズムを振りかざしているの見ると
少なくとも1981年に「センチメンタルジャーニー」をうたってた頃は、歌番組で10位以内に入るからね。
テニスのアンスコといえばフリフリ白パンツか、紺ブルマーのイメージだ。純白のスカートから躍動する脚、チラチラのぞきブルマー。実物は見たことないのに、なぜかドキドキしてしまう。この偽装された記憶はどこから来たのだろう。
ウィキペディアによれば、第1回大会はセンターコートに置いてあった芝生の手入れ用のローラーを新しくする資金集めを目的に、1877年7月9日から始まったそうだ。種目は男子シングルスのみのアマチュアの大会だった。
1884年に女子シングルスと、それまでオックスフォードで開催されていた全英男子ダブルスがウィンブルドンで開催されるようになった。1913年には女子ダブルスとミックスダブルスが加えられ、1968年にはプロ選手の参加が認められた。
世界中から強豪選手が参加するようになったため、地元イギリスの出身者は長らく優勝できなかった。男子シングルスでは1936年のFrederick John Perryから2013年のSir Andrew Barron "Andy" Murrayまでの77年間、優勝がなかった。また、女子シングルスでは1977年のVirginia Wadeの優勝を最後に40年以上イギリス人の優勝者は出ていない。
ちなみに、このように海外勢いに門戸を開いた結果、地元勢が淘汰され消沈することを「ウィンブルドン効果」という。
開催時期は原則として6月最終月曜日から2週間で、ちょうど英国の社交の季節だ。競馬のロイヤル・アスコット(「マイ・フェア・レディ」に出てくるあれ)、競艇のロイヤル・ヘンリー・レガッタもこの時期だ。
ドレスコードが厳しいのでも有名で、原則身に着けるのは白一色である汗じみが見苦しくないようにともいわれる。ブリタニカのページなので確かだろう。
https://www.britannica.com/story/why-do-tennis-players-wear-white-at-wimbledon
元々、ウィンブルドンでは女性はロングスカートや分厚いシャツ、それから帽子をかぶることが要請されていた。こちらではコルセット付きだったとも(ただし白い衣装について異説を紹介していることに注意)。20世紀初頭のテニスプレイヤーは道行く女性の姿と大して変わらなかったのである。だから本気で優勝を目指すことはおろか、ちょっと大きな球を返すのさえ大変だった。当時の男性がずっと軽装だったのと対照的である。
流れを変えたのはDorothea Douglass Lambert Chambersという選手で、1900年により簡素なシャツにネクタイ姿で登場した。7度シングルで優勝し、1908年には夏のオリンピックで金メダルを取っている。彼女は1910年にドレスコードやエチケットについての本を著している。
その後フランスのSuzanne Lenglenがテニス界のフラッパー(新しい女)として知られるようになった。飲み物をブランデーと入れ替えたり、強めのメイクをしたりといたずらも好きだった。負けると感情的になったことでも知られる。彼女は白のみのファッションを許容していたウィンブルドンに立ったが、エキセントリックなファッションセンスでも知られていた。ミンクやオコジョのコートをまとい、当時としては短いスカートでプレイしたのである。彼女が次の世代の女性たちに道を切り開いた。
そして戦後の1949年、Gertrude Moran(Gorgeous Gussie)がスキャンダルを引き起こした。というのも、ウィンブルドンの意匠は白一色だと規定されていたのだが、そのあまりにも「明らさまな」白い衣装に観客はショックを受けた。どういうことか。試合の前にMoranは公式開催主のTed Tinlingに衣装をデザインしてくれと依頼していた。一見すると規定に従った衣装に見えるのだが、実際にプレイするとフリル付きの下着が丸見えになったのだ。
これに関し、All England Club’sの委員会は「ウィンブルドンに野卑と罪を持ち込んだ」と猛烈に批判し、国会でさえ適切な衣装についての議論が起こった。Tinlingは33年のキャリアにもかかわらずウィンブルドンのホストを追放された。にもかかわらず、Moranは魅力的な姿から彼女は人気だった。彼女は後に「自分はただの女の子だったが、メディアが大げさに書き立てたのだ」という趣旨の発言を残している。彼女は60年代まで活躍した。
https://www.thecut.com/2018/08/womens-tennis-outfits-convtroversy-history.html
衣装に関する議論は定期的に起きている。全ての内容を翻訳していてはページが長くなるので、見せパンに関係するいくつかのみをピックアップする。
1958年にアメリカのKarol Fagerousは金のラメ入りの見せパンを全仏オープンで披露したが、すぐさまウィンブルドン大会への参加を禁止された。「対戦相手を不快にさせる」のがその理由だ。しかし、金のラメを白いレースで覆うことで参加を許可されている。
あるいは2016年のナイキがデザインしたベビードール風のテニスウエアがある。しかし、選手が身体を隠すのに苦労したし、ひらひらして浮いてくる。実際写真で検索するとしょっちゅう短パンというか見せパンが丸見えになる。なので、ナイキはすぐにその衣装を改善したそうだ。
https://www.slideshare.net/guimera/wimbledon-2014-fashion-through-history
見せパンについてはこちらも参照。たとえば6番目の写真のChris Evert、1976年のピンクの見せパンや、41番のTracy Austin、1981年の黄色の見せパンを確認できる。50番はTatiana Golovinは赤の見せパン(短パン)で、このときウィンブルドンは衣装がすべて白という規定に抵触するかどうかでもめたらしい。一応、下着の色は自由だということでおとがめなしだったそうだ。56によるとMaria SharapovaやSerena Williamsの赤の短パンが、そして色付きのネイルが問題になったらしい。
https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/bbc-bosses-blasted-focus-female-17086364
なお、大衆紙によると2016年にBBCの偉い人がテニス選手の見せパンやお尻ばかり撮影したと批判されたようだ。以前にビーチバレーの記事でも書いたが、カメラが性的にならないようにする工夫というのは必要である。
https://www.news-postseven.com/archives/20190904_1444086.html?DETAIL
エラリー・クイーンを読んでいた時に、確か「Zの悲劇」だったと思うが(いや、「レーン最後の事件」だったかな?)、ペインシェンスという娘が恋人とスキャンティ(パンティー、ショーツの別名)を買いに行く場面があった。同時代の小説での証言として興味深いのでメモしておく。
https://www.elle.com/jp/fashion/fashion-column/a35747586/history-of-pantslooks2021/
また、パンツでヒットしたのでここに記す。死文化していたが、フランスでは女性がスカートでないパンツスタイルをはくことが法で禁じられていたとのこと。女性の権利に関して非常に進歩的である地域に見えても、案外不平等なシステムの残滓が残っていたりするのもので、ときおり愕然とさせられる。たとえばスイスで女性参政権が得られたのは驚くなかれ1991年である。女性への制限、男性への制限、どっちでもない人への制限、みんなで少しずつなくしていきたい。
よくドレスコードなんかでもめる話で、ハイヒールを必ずはくよう要請される場所というのがある。なんかの映画祭でも話題になっていたことを記憶している。伝統に敬意を払うのは大事だが、はいていないと入場できないのはやりすぎのように思う。ドレスコードってのはみんなが居心地悪くならないようにするためのもので、人を縛るものとはちょっと違う。
例えば、足を怪我していたらどうするのか。もっと極端な話、脚が生まれつきない人はどうするのだ。茶化しているのではない。様々な疾患や障害があろうが困らないようにするほうが、誰にとっても生きやすい社会になるはずだ。
「Tennis Girl」というスカートからお尻丸出しの歴史的に有名な写真がなんと英語版ウィキペディアには掲載されている。ウィキメディアコモンズにはときおりとんでもない画像があるから驚かされる。
自分の投稿をブルマ増田としてまとめてくださる方がいる。あるいは、いつも応援のコメントをつけてくださる方がいる。ありがたいことだ。けれども、どうやって拾い上げているのだろう。一日に何千件も投稿されるはてな匿名ダイアリーの中から見つけるというのは大変な作業だ。すべてが注目エントリに入るわけではない。いったいどうやっているのかちょっとうかがってみたい。ブルマーというキーワードで定期的に検索をかけているのだろうか? それともそういうスクリプトが組めるのだろうか?
例えば女性のショーツ(そして見せパン)の形の変遷、チアの見せパンの歴史。また、古代エジプトでクレオパトラはカエサルと会ったときにどういう服装をしていたのか(絵画のようにトップレスになることがあったのか)、それからトップレスが許容されていていた地域の時代的変遷だ。これは身分にもよるだろうし、少し複雑になるだろう。あるいは、どうしてギリシア・ローマの流れを引き継いだ西洋絵画では、長らく女性器と陰毛があまり表現されていなかったのか。多くの古代文明では時に具象的に、時に抽象的に表現されているのに。謎は多い。
1946 年の内閣告示により 1948 年に制定された「当用漢字」は、
1973 年に改訂され、1981年に「常用漢字」の制定にともない廃止されました。
1973 年の改訂では、添付文書で改訂の趣旨について以下のように述べています:
・改定に当たっては,昭和23年内閣告示の当用漢字音訓表の持つ制限的色彩を改め,当用漢字改定音訓表をもって,漢字の音訓を使用する上での目安とすることを根本方針とした。
これは、1946年~1948 年に制定された「当用漢字」には制限的な意味合いがあった
ということを公式に認めたものだ、と読むこともできます(表現規制だぁーww)。
では何故、「制限的色彩」があったかというとあったかというと、
わが國において用いられる漢字は、その数がはなはだ多く、その用いかたも複雑であるために、教育上また社会生活上、多くの不便があつた。
大本営発表をはじめとする政府(特に軍部)から出てくる公式文書や、
戦中の御用メディア(当時の新聞)の文章が大袈裟で難解な漢語表現ばかりで
「なんかスゴそうだけど、よく考えたら意味不明だった」「あの表現に騙された」という感覚だったんだろう。
つまり、大きな流れとしては、1946 年に戦中の反省から「当用漢字」ができて、
1973 年に「そろそろ戦争の反省より実用性かな」というノリになり、
中曽根康弘が総理大臣になる(1982年)ような時代になって廃止されたということですね。
というようなことを週末に家族と話してたんだけど、
月曜の朝にミリタリークラスタが「鹵獲」なる言葉を使ってるのを見てモヤった次第です。
英語だと「キャプチャー」という日常の言葉と地続きのフツーの言葉なのに、
日本語の「鹵獲」はどの辞書を引いても戦争や軍隊という文脈限定の
自分は(他人もだけど)専門用語を多用したくなったら要注意だと思ってる。
専門用語を多用したがる「気持ち」はどこからやって来るんだろう?