はてなキーワード: 1918年とは
で、一度目が1918年、大阪朝日新聞社が神戸に本店があった鈴木商店を政府批判の一環として米を買い占めているという誤報で8月に焼き打ちされて、治安上の問題から中止。まだ第4回とかでそこまで大規模ではなかったのかもしれないが主催者の大阪朝日新聞社自身の誤報が原因だが、当時はどういう風に言われたんだろ?https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC4%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E4%B8%AD%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%84%AA%E5%8B%9D%E9%87%8E%E7%90%83%E5%A4%A7%E4%BC%9A
災害 | 年 | 犠牲者数 |
---|---|---|
スペインかぜ | 1918年-1919年 | 1700万-5000万人 |
アジアかぜ | 1956年-1957年 | 200万人 |
香港かぜ | 1968年-1969年 | 100万人 |
唐山地震 | 1974年 | 24万-80万人 |
サイクロン・ボーラ | 1970年 | 30万-50万人 |
ハイチ地震 | 2010年 | 22万-31万人 |
新型コロナウイルス | 2020年- | 30万人+ |
タイフーン・ニーナ | 1975年 | 22.9万人 |
海原地震 | 1920年 | 20万-24万人 |
スマトラ島沖地震 | 2004年 | 22万人 |
関東大震災 | 1923年 | 14.2万人 |
サイクロン・ナルギス | 2008年 | 13.8万人 |
バングラデシュ・サイクロン | 1991年 | 13.7万人 |
東日本大震災 | 2011年 | 1.8万人 |
伊勢湾台風 | 1959年 | 0.5万人 |
第1回目のピーク(1918年8月~1919年7月)には患者数が2100万人以上、死亡者は26万人に達したとされる。
2回目のピーク(1919年8月~1920年7月)は患者数が約241万人と大幅に減り、死亡者数も12万8000人と半減した。さらに3回目のピーク(1920年8月~1921年7月)になると、患者数は22万4000人、死亡者数は3700人となり、その後、感染は終息した。諸外国もほぼ同じで、1918年の秋に大流行となり、1919年に再度、拡大したのち終息を迎えている。
最低でも1年は見ておかないとダメですね。
第1波は1918年3月にアメリカのデトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり[31]、アメリカ軍のヨーロッパ進軍と共に大西洋を渡り、5月から6月にヨーロッパで流行した。
第2波は1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり重篤な合併症を起こし死者が急増した。第3波は1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。さらに、最初に医師・看護師の感染者が多く医療体制が崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。
この経緯を教訓とし、2009年新型インフルエンザの世界的流行の際にはインフルエンザワクチンを医療従事者に優先接種することとなった。
たしかこの増田はスペイン風邪の致死率を当初は2%と書いてたけど、あとで直したのか、記述がちぐはぐになってるね。
参考までに、1918年に世界史で初めてインフルエンザが流行したスペイン風邪は(略)2年間で推定感染者最大5億人超、死者数も5000万〜1億人(致死率10〜20%)レベルだったから、(略)致死率2%以上のスペイン風邪(インフルry)がカテゴリー5として君臨しているんだ。
で、結局スペイン風邪の致死率ってどれが正しいの?
ググると「感染者数5億人、死者5000万人~1億人、致死率2%」という記述になってるけど、5億人の2%は1000万人なんだが??
covid-19の致死率が2%
スペイン風邪の致死率も2%
じゃあ、covid-19ってスペイン風邪と同等の危険度じゃん!!
ってなるけど、スペイン風邪の致死率が20%だとすると、印象はかなり変わるよな。
病名 | 流行期間 | 感染者数 | 死者数 | 致死率 |
---|---|---|---|---|
スペインかぜ | 1918年〜1919年 | 5億人? | 5000万人 | 2%? |
アジアかぜ | 1956年〜1957年 | 不明 | 200万人 | 0.5%? |
香港かぜ | 1968年〜1969年 | 不明 | 100万人 | 不明 |
SARS | 2002年〜2003年 | 8096人 | 774人 | 9.6% |
新型インフルエンザ | 2009年〜2010年 | 不明 | 1万8000人 | 0.01%? |
MERS | 2012年〜 | 2500人 | 858人 | 34% |
エボラ出血熱 | 2014年〜2015年 | 2万8000人 | 1万1000人 | 40% |
新型コロナ | 2020年〜 | 9万人+ | 3000人+ |
上の方で重症化率の話をしたけど、今回のウイルスは暫定で3.4%の致死率があるよ。「何だ、SARSの3分の1じゃない」と思うかも知れないけど、今日時点の累計感染者数が全世界に9万人、つまり終息の見込みが見えないのにSARSの累計感染者よりも10倍多くて、死者数もSARSの774人よりも4倍に増えた状態だよ。
あと、「死者数はインフルエンザの毎年の死者数より全然少ないじゃん」と言う人が居るけど、2月11日時点の世界平均致死率2.3%と比べて、今日の世界平均致死率は感染者数が倍以上増えてるのに3.4%と1.5倍近くに上がってるから、このペースで副作用のキツくないワクチンが完成する前に全世界の数億人に感染すると凄まじい数の死者が出るよ。
季節性インフルエンザは日本で毎年1000万人以上罹ってるから0.1%以下の人が亡くなってるだけなんだ。今年アメリカでインフルエンザの死者がとても多いと報道されたけど、あれも推定感染者と比べて致死率は0.05%程度しか無いんだ。
さらに、WHOと中国の共同調査でこれまで死亡した人が発病してからの闘病期間は2〜8週間と公開されているから、高齢者は早く死ねるだけで40代以下の若年層の致死率はこれから跳ね上がる可能性も十分あるよ。よく言われる医療崩壊で適切に治療されなかったからポックリ死んじゃったケースが多い訳じゃないよ。
参考までに、1918年に世界史で初めてインフルエンザが流行したスペイン風邪(英語だとちゃんとSpanish Fluでインフルエンザ扱いだよ)は自然抗体もワクチンも無かったから2年間で推定感染者最大5億人超(当時の世界人口の約3分の1)、死者数も5000万〜1億人(致死率10〜20%)レベルだったから、今回の新型コロナウイルスがノーガード戦法で済むものじゃない事は分かると思う。アメリカのCDC(疾病予防管理センター)はPSI(パンデミック重度指数)というパンデミックの怖さの基準をカテゴリー1〜5で定義してるけど、日本人が知ってる季節性インフルエンザや2009年の新型インフルエンザは致死率0.1%以下のカテゴリー1で最弱扱いだよ。
カテゴリー2は昭和の戦後に起きたアジア風邪や香港風邪(どちらも和名は風邪だけどインフルエンザだよ。ややこしいね)で、カテゴリー3、4は存在しなくて致死率2%以上のスペイン風邪(インフルry)がカテゴリー5として君臨しているんだ。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/column35.html
※指摘のおかげでスペイン風邪の致死率をtypoしていたことに気付いたから修正と合わせてスペイン風邪についてのリンクを追加したよ。
スペイン風邪だけがカテゴリー5になれた理由はやはり初めてのインフルエンザで抗体も予防接種も無かった事だよ。それを考えると今回の新型コロナウイルスは怖すぎるよね。
全然低くないよ。誤解されてるけど、風邪よりうつりやすい季節性インフルエンザでも現代人はみんな過去の抗体や予防接種があるから再生産数は1.5未満(1人から平均1人ちょっとに二次感染)だけど、今回の新型コロナウイルスは中国はもちろん「日本でも」基本再生産数は2はあると言われてるよ。(3月2日の専門家会見より)
インフルエンザの再生産率が2より高くなっているデータは抗体が無い新型や予防接種が無い地域を含めたデータだったりするよ。基本再生産数(R0)の範囲が最大3もあるインフルエンザはほぼスペイン風邪のワーストケースの推定だよ。今回の新型コロナウイルスの場合はR0がインフルエンザの倍近くの2以上、さらに二次感染者が感染してから発症するまでの期間を表す発症間隔(Serial Interval)も2〜3日で発症するインフルエンザと違って最大2週間の潜伏期間のせいで推定2〜3倍あるんだ。二次感染した人は1週間以上初期症状すら出ないから、タクシー運転手の1月屋形船のように一次感染者すら新型コロナ感染に気付いてない時期に倍々ゲームで広がってしまう恐れがあるんだよ。
https://www.mhlw.go.jp/kinkyu/kenkou/influenza/dl/infu090828-01.pdf
あと上で今の累計感染者は9万人って書いたけど、これは感染を確認できた人数、つまり検査できた人数だから、今日の時点で全世界に数十万人の新型コロナウイルス感染者が居る可能性があるよ。
日本の専門家は、「計算上2月25日の時点で北海道には940人の感染者が居るはずなのに、3月2日の時点でまだ77人しか見つかってない。おかしいな」と3月2日の会見で言ってるよ。日本のイベント自粛や全国休校は大体これが遠因で、今の日本は誰が感染者か全然分かってないのに、インフルエンザよりも辛い症状の病気が街中に蔓延している状態だよ。
どうにもできないよ。気付かずに周りの人にばら撒くのが一番最悪だから、風邪っぽい症状が出たら家に篭って保健所に電話して案内を受けてね。患者数がピークアウトしてキャパシティに余裕が出来るまでは重症肺炎スレスレの状態になるまで検査はできないよ。家で耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に休め。
ナショジオが新型コロナウイルスに罹った場合の重症例を記事にしてくれているけど、流石にこうなるまで我慢するのはやめようね!
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200221-00010000-nknatiogeo-sctch
普段チャラさで売っていないオッサンがピンクのシャツを着て出社したらそれはそれでやっぱりからかわれそう。
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ググって読んでみた
ピンクが女の子の色になったのはいつ?: ELLE
ピンクが女性の色になったのは1953年以降。ファーストレディーのマミー・アイゼンハワー。ジャクリーン・ケネディ。国際女性デー。それまではむしろ青。
punk, pretty, and powerful: a history of fashion through the color pink : i-D vice
1918年ごろは赤から派生した強くて情熱的な色として少年向け衣料に使われていた。
女性にビンクが普及したのは戦後。クリスチャン・ディオール40年代末から使うが女性的柔らかさのイメージでは無かった。もう1人はエルザ・スキャパレッリがパイオニア。大戦間。ショッキングな色として。(以下略)
♩ Think Pink!(Funny Face, 1957)
1957年の歌
朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代の朝鮮における貴族で実業家。日本名は山崎 永春。
目次 [非表示]
1 生涯
2 家族
3 その他
4 登場するテレビドラマ
5 脚注
6 出典
7 関連文献
生涯[編集]
判書大監朴元陽の子として京畿道水原に生まれる。金玉均らと共に開化党(独立党)を結党した。光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉の支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[1])として日本に向かう船上で、現在の大韓民国国旗である太極旗のデザインを考案したとされる。朴泳孝が日本に派遣された4ヶ月間のことを記した日記『使和記略』によると、8月9日に仁川から日本船籍の明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、船内でイギリス領事アストンとイギリス人船長ジェームスにそれまで国旗として提案されていた八卦と太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長が八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日、神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日、太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したという。
帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派(事大党)の反対に遭って挫折。さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデターで閔妃派からの政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本へ亡命。慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。
光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本に亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣の宮内府大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島に流刑処分とされた。
隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵(朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会会長(1911年)、朝鮮銀行理事(1918年)、朝鮮経済会会長(1919年)、朝鮮維民会会長(1919年)、東亜日報社初代社長(1920年)、朝鮮人産業大会会長(1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮総督府中枢院顧問(1921年)[2]、東光会朝鮮支部初代会長(1922年)、貴族院議員(1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職を歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府が編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。
1918年、スイス・シュヴィーツ生まれ。シェーネック神学大学卒業。
20才頃から神学を通して日本の宗教、歴史、文学に興味を持ち、30才頃から本格的に研究を始め、ロンドン大学に留学、
日本文法コースを履修した。'51年来日。岩手大学、東北大学、東大講師を経て、’58年より上智大学文学部で教え、
その間チューリッヒ大学に留学’61年に宗教哲学研究で博士号を取得した。専門は神道、日本古典劇で、大学で講義するほか、
ジャーナリストとしてスイス、ドイツなどの新聞、雑誌に日本文化に関する記事を書いている。
主な著書に、「Japanese Theater」(’75年)、「Schattentheater Asiens」(’79年)などがあり、能や宗教学などの論文も多くある。
将来が暗いニュースや、若者が辛い時代になると言う世論も多いけど、良く考えたら悪い時代では無いんじゃないかと考えた。日本のバブル時代や、バブル中の国と比較すれば、もちろん見劣るし夢も萎む。
日本はすでに人口オーナス(人口も減り、老人が増え働き手が減る)であり、成熟国に入っている。
人口ボーナスがあり、発展が途上の国と幸せのあり方を、一緒に考えてはいけないのでは。
ガンガン物を手に入れて幸せになる時代ではなく、持っている物を楽しむ時代であると感じる。
もちろんバンバン働いて、金や物も手に入れて幸せになることも正しい。
ただそれを、バブル期や発展途上国のように、絶対的な物差しとしてはいけないと考えた。
約2010年の日本人が普通(8割ぐらいの人は)に持っている物は、
・贅沢はできないが、安心で好きな食べ物やおいしい食べ物を入手できる環境
・ガードマンはいないけど、安心して外出でき夜中でも襲われることのない日常
・100%保証ではないけど、安心して通院できる医療制度や腕利きの病院
・費用負担はあるけど、十分使えるパソコンに、自由なインターネット環境
・住んでいる地区にもよるけど、お金をかけなくても楽しめる観光や旅行や遊ぶところ
・他にも、漫画、アニメ、映画、SNS、2ch、はてな、Amazon を嗜む環境etcetc
は大体の人が持っていて、無駄遣いしなければ月10万あれば、この暮らしができる
(例:家賃5万、デリカ250円×3=750×30=22500、ネット3000円、その他10000円、貯金10000円。かつかつで)
月10万なら、資格や能力が何も無くても、特殊な問題を抱えていなければ、ある程度
年齢が越えていても、コンビニ等の働き先は、いくらでもあるんじゃないかと。
さらに8割以上の人は、18万以上稼いでいますよね。
何も無い人が、簡単に月10万稼げる国は、世界でも少ないはずで、
いやいや、今の時代はつらいよ。原発、老人介護、医療、年金etcと、これから大変だよ。
患者150万人のうち15万人が死亡。
世界恐慌に加え、冷害・凶作、昭和三陸地震や津波が続き、身売り、欠食児童、行き倒れ、自殺などが激増して悲惨な状態
生活はどんどん制限
生活はどんどん制限
3500人死亡
約30万人が死亡
日本は300万人が死亡
今は戦争も日本ではないし、食べ物はあるし、病院もあるし、すごい良い時代だ。
人口ボーナスがあり、発展が途上の国の幸せのあり方だったと思う。
これは悪くない時代だったはず。
で僕らは、獲得する幸せは感じないけど、1950年代の人が、全力で手に入れた物を
僕達が今後いきる世界は、今あるものを十分に楽しんで生きれば良い。
つか、ネットがあると、それだけ十分楽しめるよねって話でした。
http://www.youtube.com/watch?v=Xxh-sS8Qoco&feature=player_embedded
1911年12月14日 ロアール・アムンセン、南極点に到着。
1914年6月28日 サラエボ暗殺事件から第一次世界大戦勃発
1915年4月22日~1915年5月25日 初めて毒ガス使用
1916年2月16日~1916年12月20日 ベルダンの戦い
1919年1月5日~10日 スペイン風邪の流行が頂点
1921年11月9日 アルベルト・アインシュタイン ノーベル物理学賞受賞
1922年10月27日~31日 ベニート・ムッソリーニのローマ進軍
1927年3月20~21日 チャールズ・リンドバーグがパリへ向け飛行
1928年11月18日 蒸気船ウィリー初演(ミッキーマウス初登場)
1929年10月29日 1929年のウォール街大暴落「暗黒の木曜日」
1930年6月30日 第一回サッカーワールドカップ(ウルグアイにて)
1932年 ワイマール共和国崩壊
1934年10月27日 毛沢東の長征
1939年9月1日 第二次世界大戦勃発
1942年9月13日~1943年2月2日 スターリングラード(現ボルゴグラード)の戦い
1944年6月6日 ノルマンディー上陸作戦(オペレーション・オーバーロード)決行
1945年11月20日~1946年10月1日 ニュルンベルク裁判
1951年 朝鮮の人口?
1954年6月4日 西ドイツがワールドカップで西ドイツが優勝「ベルンの奇跡」
1956年10月29日~1957年3月 スエズ危機(第二次中東戦争)
1959年1月1日 キューバ革命の勝利
1961年10月27日 チェックポイント・チャーリーでの対峙(ベルリン危機)
1964年8月2~4日 ベトナムでアメリカ爆撃される(トンキン湾事件)
1967年6月5日~10日 六日戦争(第三次中東戦争)
1970年4月 カンボジア侵攻
1972年9月5日 ミュンヘンオリンピック事件
1973年10月6日~26日 ヨム・キプル戦争(第四次中東戦争)
1977年3月27日 テネリフェの惨事(テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故)
1981年3月30日 ロナルド・レーガン大統領暗殺未遂事件勃発
1985年3月11日 ミハエル・ゴルバチョフ氏、ソビエト共産党書記長に就任
1988年12月21日 ロッカビー事件(パンナム機爆破事件)
1990年8月2日~1991年5月5日 「砂漠の嵐」作戦(第1次湾岸戦争)
1992年4月1日~1995年12月14日 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1997年7月4日 マーズ・ローバー(火星探査車) 火星に着陸
2000年1月1日 ミレニアム
2001年9月11日 911攻撃(アメリカ同時多発テロ事件)
2005年8月29日 ハリケーン・カトリーナ ニューオリンズを破壊
2008年10月 金融危機
2010年4月20日 メキシコ湾原油流出事故 ディープウォーター・ホライズン炎上沈没事故
2012 ?
10分どころか、6時間くらいかかったorz
それに、作ったの多分アメリカ人だから、日本にとっての重大事件(オウムとか)は入ってないんだよね。ハイチ地震があるのに、阪神・淡路大震災がないのも明らかに片手落ちでしょう。
(調べてみたら、どちらもM7クラス)
途中で腹の立った人、題名で既に私の言いたいことがわかった勘のいい方、時間のない方は「本文」を飛ばして「おわりに」を読んで頂きたい。
あなたは、
あなたの旦那さんは、
あなたの息子さんは、
戦争に負けて、巨額の賠償を強いられて、ハイパーインフレの国に生まれたら、家族を養えますか?
父親が貴族やユンカーでもないかぎり自活は無理でしょ。本人の資質や努力、やる気なんて関係ありません。どんなに能力、やる気があっても、恐慌と重税下で家族を養える20代の男性なんてほぼ皆無です。外国を侵略したとか言われてるけど、外国を侵略せずに必死で働いてたら、食べていけたと思います?
多くの若者を死なせた国が終戦したら、自動的に“誰かが支援する必要”があるってことでしょ。
支援するのは誰?
・旧敵国(賠償免除、借款)
・米国
でしょうか。現実的には、戦火を交えた旧敵国(旧敵国も戦争で荒廃してるでしょうし)が自分の生活物資に加え“7000万の敗戦国民の生活物資”を維持し続けるのも、このご時世では苦しいでしょう。
(2)旧敵国に相当の稼ぎがあり、敗戦国民7000万名の生活物資を何年にもわたって供給し続けられる
(3)中立国が助ける
で、ないかぎりは、
(4)東方拡大により生存圏を確保する
しか、敗戦国に生きる道はありません。
・父親が貴族やユンカーではなく、
・政府が支払うと約束した額と現実的な支払い見通しが不十分で、
・旧敵国に、生活物資を支援する財力と予定があると確認できなければ、
「では、このままオーストリアとズデーテンラントに行って、手続きしていってくださいね」と、講和条約を調印する係の人が、講和条約と引き替えに合邦協定草案を渡しながら言う必要があるんじゃないの?
違うのかな・・
「育てられないのに降伏するなんて無責任」という人は、1910年代で帝国主義をしちゃダメだと言ってるの?
“敗戦する可能性”は誰にでもあるでしょ。“敗戦しても自活できる経済力を付けてから戦争しろ”ってこと?それが責任ある態度だというの?それいったい何世紀くらいのこと?22世紀くらい??何世紀まで働いたら“賠償しても国民7000万人養える経済力”なんてつくの?
民族自決ってのは、同じ民族は一つの国家に住みましょうね、っていう政策なんじゃないの?そのために国際連盟まで設立したりしてんじゃないの?
★★★
記録のための事件概要
・1914年7月、兄弟国は戦争を決意。当事国に最後通牒(後に期限切れで宣戦布告)。
・1914年8月、国家防衛のため総動員を開始、自動的に戦争に突入
・1918年11月 革命と共に終戦。隣国は皇帝を引き取り、共和国としての歴史が始まる。
・1921年の3月 ロンドン会議が開催され、賠償額が決定。総額1320億マルク。
・7月頃から国内争乱開始か。大統領緊急令を連発するなどし法によらない解決を繰り返す。
・国内に賠償踏み倒しの声が聞こえ、隣国による保障占領が相次ぐ。イギリスが調停を試みるが、国会が運営できず。
・1930年にヒンデンブルク(当時大統領)が議会に依存しない内閣の結成を命じる。
・1933年1月、軍部による反大統領クーデターの噂(未確認)
・ポーランド西部のアウシュヴィッツでは、虐殺されたユダヤ人無数が遺体で発見される。
・1945年4月30日 ベルリンが陥落したところを、ヒトラーは自殺。
★★★
“ホロコースト”の意味は、虐殺とか、抹殺という意味だと思うのだけど、
この事件では、誰が何をホロコーストしたの?
★★★
この総統が苦学生だった20世紀初頭、ヴィーンでの親友だった音楽家の証言より再構成
彼が総統となってヴィーンに来たときですか?私を接見してくれましたよ。
監視?もちろんなしです。本当ですよ。
それではどうしてあなたはあのいまわしいヒトラーを殺さなかったのですか、ですって?
どうしてって…。彼は私の親友だったからです。
民族自決もいいけど、既に分裂している国家も、もうちょっと合併したらどうかな、旧敵国。
600万人のユダヤ人のご冥福をお祈りします。
言うまでもないが、改変元→http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100801
冗談抜きで、ふざけるなと言いたい。「盗人にも三分の理」というが、同情する余地のない人間などどこにもいないのだ。しかしだからといって、追いつめられれば何をやってもいいかのごとく触れ歩くのは単なるデマゴーグに留まらない、犯罪的な言説だ。そもそもこの手の言説は、子供を虐待することなく立派に育て上げている圧倒的大多数のシングルマザーに対する侮辱であることに気がつかないのか。恥を知れ恥を。
まして、「なんでも環境のせいにするな、全ては自己責任」という俗流過激ネオリベ思想を推進しているこのデマゴーグブロガーが、こういうときだけ全て環境のせいにするなど、ふざけるにも程がある。
そして、「ジェンダー」という錦の御旗を振りかざされれば目が眩んでことの本質が見えなくなる馬鹿なはてな民よ、恥を知れ。
人を殺すぐらいなら、もっとまともな手はいくらでもあったはずなのだ。いくら追い込まれての行動とはいえ、同情の余地にも限度があるに決まっていよう。同情の余地があれば全てが免責されるわけでもなければ、悲惨な境遇に追い込まれれば誰もが罪を犯すわけでもない。
勿論、仮にヒトラーが生まれた時期があと50年遅ければ、誰一人を殺めることもなく平穏に生を終えることができたのかもしれない。逆に、私が当時のドイツに生まれていたらヒトラーと同じことをやったかはともかく、その下手人にぐらいはなっていた可能性だってあることは重々承知している。それぐらいの「想像力」は当然ある。しかしそんなことがヒトラーを免罪することになどならないのは言うまでもない。もしそれを赦すことができる者がいるとすれば、神仏のような超越的な存在でしかあり得ないだろう。いずれにせよ、現実社会ではヒトラーは赦されることは未来永劫あり得ない。それが世の道理というものだ。
この事件、いったいそれと何が違うのだ。「ネグレクトしない自信はない」そんなことはあたりまえだ。母子家庭であろうとなかろうと、ネグレクトをしてしまう可能性はある。人間とはそういうものだ。しかし、その責任を自ら引き受けることなく子育てなんてそもそもできるわけがない。育児に限らず、一寸先は闇の現実世界というのはすべてそういうものだ。誰も、他人が過ちを犯す可能性を零にしてやることはできないのだ。なんとか自分を律するように最善を尽くすしかない、それが本当の意味の「自己責任」ではないのか。
http://anond.hatelabo.jp/20100119124726
上のエントリーについて、こちらのブログ(http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20100118/1263799034)でコメントを頂戴したので、もう少し書いてみたい。
植民地の立場を脱してからはじめて、旧植民地は近代国家経営のお手本としての大日本帝国モデルを自国の発展に生かせたのです。植民地支配体験が韓国民にとって有益になり得たのは、植民地から脱して後のことです。
最初にいただいた反論は、日本の植民地政策は朝鮮人からの収奪のためであって、朝鮮人の生活水準の向上にはまるで寄与しなかったと言う点。こちらのブログでは、その論証として以下の3点をあげている。
まず、第2点目に付いては、むしろ韓国人による起業は植民地時代に始まったものであると言うKohli教授の指摘と矛盾する(上のエントリーを参照のこと)。また、目に見える工場などの資本以外に、経験や知識が蓄積されていたという彼の指摘は無視されるべきではないだろう。
また、第1の点については、当時の朝鮮人の大半は小作農であろうから、朝鮮人地主の土地保有が若干減少したとしても、それで朝鮮人一般が搾取された、収奪されたという結論に結びつけるのは難しい。
重要なのは3点目。朝鮮人の米消費が植民地時代に減少していたと言うこと。これは朝鮮人の生活ぶりに直結しうる大切な指摘だ。しかし、我々は米だけ食って生きているわけではない。代わりにパンかうどんでも食えるのならば、少なくとも私は文句はない。もっと言えば、Quality of Lifeというのは食い物だけで決まるわけではない。教育、娯楽、医療水準、すべて食欲と同程度に重要だ。
で、そんなさまざまな要素を私が知りうるはずもない。ここはやはり専門家の出番だ。で、例によってGoogle scholarにお伺いを立てると、”calories Japan Korea colonization”でど真ん中の論文が見つかった。「植民地時代の朝鮮の生活水準:大衆の生活は日本統治下で改善されたのか、それとも悪化したのか?」という論文がそれで、著者は帝塚山大学の木村教授。ちなみにこの論文はJournal of Economic Historyという、経済史学のトップジャーナルに掲載されており、信頼性は高い。面倒なので最初の要約部分だけ和訳すると、
この論文では日本統治下での朝鮮大衆の生活水準の変化について研究した。世帯辺りの農業収入、農業部門の実質賃金、必需食料品からの一人当たりカロリー摂取量は減少した。一方で、初等教育の履修者数、識字率、生存率は上昇し、また平均身長は少なくとも減少はしていない。この論文では、識字率や生存率、それに平均身長は、他の条件よりも生活環境により直接的に関係している数字であるということを主張した上で、朝鮮大衆の生活水準は植民地化から1940年までの間に向上したと結論付けた。ただし、この問題についてのいかなる概括も、さまざまな要素のどれを重視するかと言う点に決定的に依存する。
言うまでもなく、識字率とはハングルの識字率のことである。もちろん、生活水準などと言うあいまいな言葉は如何様にでも定義できてしまうので、このような研究を胡散臭く思う人も多いだろう。しかし、木村教授はここでノーベル賞経済学者のアマルティア・センの生活水準基準を適用することで、一定の客観性を確保している。これは、資産や効用といった経済学でおなじみの基準を使わず、平均余命や生存率、識字率、栄養摂取などに着目しようというものだ。
ちなみに、木村教授の推計では、米および穀物からのカロリー摂取は1918年までの5年間で急速に向上した後、以降1936年まで年率-0.4%で低下し、それ以降はまた急速に増加している(前者の増加は穀物消費によるもの、後者は米消費の急増によるもの)。これはもちろん好ましいことではないが、この時期の生存率はむしろ改善しており、日韓併合前と比べても朝鮮人の身長はほとんど変化していない。少なくとも、朝鮮人の健康を損ねるレベルでカロリー摂取が減ったわけではなかったようだ。
一方で、男子の就学率は日韓併合直後の20%から1940年には60%へ、女子の就学率もゼロから20%へと、大幅に上昇している。識字率や生存率も統計上有意な上昇を示している。
これらの要素から、木村教授はアマルティア・センの基準に基づいて、
M Kimura (2005), "Standards of Living in Colonial Korea: Did the Masses Become Worse Off or Better Off Under Japanese Rule?", Journal of Economic History.
http://www.jstor.org/stable/2122408
日本は英国なんかよりもずっとましな植民地経営をしたというのが、歴史修正主義や排外主義の立場の人の言い分ですね。
しかし香港やシンガポールは英国の植民地でしたが、素晴らしく発展していますよね。
この点については、Reynolds (1983)の論文が参考になるだろう(著者はイェール大学教授、収録されたジャーナルJournal of Economic Literatureは一流誌)。彼はまず世界中の植民地政策は国によって大きく異なることを指摘した上で、まず日本に言及し、『日本は、自国にあっても植民地においても、いつも経済成長重視の政策を貫いていた。そして日本の統治が朝鮮と台湾の急速な経済成長のきっかけとなったことは明らかである。フィリピンも、アメリカの統治開始以降高度成長を達成している。またイギリスも概して経済成長志向であったが、イギリスは当地の殖民政府へと権限を大きく委譲する傾向があったため、各地の為政者次第でまるで政策が異なる。』イギリスの植民地経営が悪い見本だったと言う主張は、少なくとも私は見たことがない(ミャンマーについては、かなり悪い例に入ると思うが)。一方で、Reynolds教授が「失敗国家メーカー」の烙印を押したのは、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、そしてポルトガル。アフリカとかでにっちもさっちも行かなくなっている国は大体この辺の国々が荒らし回っている。ちなみに今大変なことになっているハイチの宗主国はフランスである。
http://www.jstor.org/stable/2724912
あの国は自業自得だというなら、逆に韓国の発展は韓国人の努力の賜物だとも言えますよね。
まあ経済発展の要因はいろいろありますから、単純には言えませんね。
教育の普及やインフラ整備はたいていの植民地に施されていますから、日本が特に特別な恩恵を残したとまでは言えないと思いますよ。
後段については上で説明したので繰り返さない。1点のみ付け加えると、前のエントリーで引用したCumings教授は、日本の統治下で朝鮮の鉄道網はアジア最高(日本を除く)のレベルにまで整備されたことを指摘している。
前段については、「北朝鮮が経済成長に失敗したのだから、日本の統治はたいした影響がなかった」という議論はやはり無理がある。韓国の経済成長が韓国人自身の努力の賜物であることは自明だが、努力だけでは補えない経験や技術、各種インフラ、教育制度、官僚機構などを日本の植民地経営がもたらした、というのが前回のエントリーで紹介した「学界のコンセンサス」なのだ。もしそれを「経済成長の必要条件であった(十分条件ではないのは北朝鮮の例から明らか)」と言い換えることが出来るなら、やはり日本の植民地政策は韓国にとって有益であったと言うことは出来ると思う。
別段在日外国人、在留外国人を差別する意図も意志もない、ということを宣言した上で、下記を記載したい。-1
”在日韓国・朝鮮人が日本に移入してきたのは、「戦時下の日本政府による強制連行によるものと語られることが比較的多かったが、現在では、これは戦時下の朝鮮を含め、原則としてすべての日本人に適用された国家総動員法に基づいた合法的な徴用であるという認識が広まっている。朝鮮半島から日本本土に渡航してきた大半が自由意志によるものであり、徴用で日本本土に来た朝鮮人も、戦後そのほとんどが帰国していることが判明している。従って、現在、在日韓国・朝鮮人のうち、その来歴が徴用とする者は極めて少数と考えられている。これは朝鮮人移住者の各種データを検証をした『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(昭和30年7月 法務研究報告書第43集第3号)に詳しい。在日韓国・朝鮮人団体である在日本大韓民国民団の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、在日1世世代に対する聞き取り調査の結果をまとめ1988年に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを -- 我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』にも、渡日理由のアンケート結果として、「徴兵・徴用13.3%」と明記されており、「その他20.2%」、「不明0.2%」を除いたとしても「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」と65%以上が自らの意思で渡航してきたことがわかる。尚、このアンケートは渡航時12歳未満だったものは含まれておらず、これを含めるとさらに徴兵・徴用による渡航者の割合は減ることになる。なお、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で在日韓国人からは39人に留まっている。”
日本人を責めたい気持ちもわかるし、現状差別を行っている多くの人が厳然と存在することは事実で、それを否定するつもりはない。
ただし、当時の日韓併合について責めるのは当時の国際情勢からして国際的にも支持を得辛いだろうという点も指摘しておく。
”英ケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授(国際法)は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年-1918年)以降のもので当時としては問題になるものではない」としている(2001年11月27日 産経新聞)”
従って、現状の差別については、広範な民族問題としてのアイヌの方や琉球の方、またブラジルからの来日在留者同様、「差別しない」という点において、韓国・朝鮮系の方も等しく、「差別されざるべき存在」として付き合う必要がある、ということ。
アプリオリかアポテステリオリなんていう概念の提示はこれらの他の民族との線引きを行うもので、容認し兼ねる(個人的には)
また、終戦時において韓国が朝鮮戦争その他を含めた経済要因による理由もあり国籍選択を拒否したことについて、日本人に責任を問うのは無理というものだ、と言う点も指摘しておく。(これを韓国政府の棄民政策だ、と言う点についてはそういう捉え方もあるだろうし、自分としてはその立場を取る)
一方で、戦前から戦後についての多くの日本人移民についても、同様に日本政府による「日本人の棄民政策」であり、戦後の北朝鮮への帰還事業は総連も積極的推進を図っていた点をもって、日本政府・日本人だけの責務とするのは問題があると考える。
創氏改名については、戦中も朝鮮名をもって将校になった(まぁそうはいっても部隊指揮官クラスですが)点などをもって、「全ての人間に強制した」ということはない点も明記しておく。
また、朝鮮戦争が日本の植民地支配が原因だ、という点に関しては、結果としてそういった「要因」があったことは「歴史の連続性」として有り得るだろうが、そんなことを言い始めたら中東戦争は全てイギリスが責務を負うべきだし、印パ紛争もそうだろう。
そんな話は「現状の解決になんら寄与しない」ことに加えて、「どこまで歴史の責任を負うべきか」という点もあり、プロパガンダとしての効力は無いわけではないだろうが、少なくとも現状の差別解消に有効に機能するとは思えない。
swine flu(豚インフル)について。
調べれば調べるほど、おかしいことが出てきた。一番おかしいのは、メキシコには、インフルエンザで死んだ豚が居ないという事である。
鳥による伝播の可能性が無い時期である為に、豚が原因であろうという事で、豚インフルと呼んでいるが、肝心の豚が死んでいないのである。
豚は、人間用の薬品の試験や、製造する為の道具として使われるほど人に近いので、人を死なせるほどに強毒化したインフルエンザウィルスは、豚も死なせている筈である。強毒化したウィルスによって豚がばたばたと倒れるような状態であってこそ、人に感染するようになるのである。
従って、このインフルエンザは、人から人へと感染する性質に変化している状態で、メキシコに持ち込まれたと考えられる。
すると、発生源はどこかという問題が浮かんでくる。
豚が大量に死んでいるという報道をあさると、裏が取れない情報であるが、中国福建省で大量の死豚が不法廃棄されているという報道があった。
http://jp.epochtimes.com/jp/2009/04/html/d64016.html
豚コレラによる大量死であるという主張を匂わせているが、豚コレラである証拠は存在しない。中国の政府発表は、誰も信用しない。
中国からメキシコへの人の移動といえば、2月の上旬に中国国家副主席が訪問している。国家副主席とその随行団が行っているわけで、その時に、弱毒性で人から人へと感染するタイプのH1N1型インフルエンザをばら撒き、それが、抗体を持っていないメキシコ人の間で感染を広げていくうちに、強毒化してしまったという可能性がありえる。
H1N1型インフルエンザは、1918年にスペイン風邪として発生している最初のインフルエンザである。最近の発生は、ソ連風邪として、1977年に中国北西部から始まり、シベリア、西部ロシア、日本、米国、ヨーロッパ、 オセアニア、南米まで流行が拡大している。今は2009年だから、32歳未満の人は抗体を持っていないので、ウィルスが体内で繁殖しやすく、交雑変異型を発生させるだけの余裕がある。