はてなキーワード: 18世紀とは
ここまでゴリゴリの家族主義支持者・身分制支持者が今どきいるとは正直驚いた。18世紀あたりの人間がタイムスリップでもしてきたんだろうか。
「努力しないやつが悪い」ですらなく、「次世代に託すしかないのだから生まれで格差があって当然」だって!
その「次世代に託すしかない」環境を作っている要因について、何も思うところがないのか?
「生まれで格差があって、どうあがいても一代では取り戻せないような世の中だから次世代に託すしかない」というのがあんたの主張だ。「どうあがいても一代では取り戻せないような世の中」であることには問題がない、あるいは改善しなくてもいいというんだな?
ここまでゴリゴリの家族主義支持者・身分制支持者が今どきいるとは正直驚いた。18世紀あたりの人間がタイムスリップでもしてきたんだろうか。
「努力しないやつが悪い」ですらなく、「次世代に託すしかないのだから生まれで格差があって当然」だって!
その「次世代に託すしかない」環境を作っている要因について、何も思うところがないのか?
「生まれで格差があって、どうあがいても一代では取り戻せないような世の中だから次世代に託すしかない」というのがあんたの主張だ。「どうあがいても一代では取り戻せないような世の中」であることには問題がない、あるいは改善しなくてもいいというんだな?
個人主義が発達して、一人一人の人権や自由な発想って大事だよねという考え方が生まれた時代や
そういう雰囲気の中で作家個人の創意や独自性という考え方も発達してきたんや
それ以前は作家ってのはお絵かきAIみたいな物で注文するとその通りの物を上げてくる機械みたいな扱いやったんやね
これからは国民一人一人の自由を考え方を大事にしながら国を運営する時代
そのためには国民が自由に、しかししっかり考えることが大切なんや
国も啓蒙してくれるけど、芸術とか文化やってる奴らも一緒に国民を啓蒙して正しいメッセージを伝えていこな
そういう話になったのが18世紀の後半から19世紀ごろの時代やで
・日本人は1860年代まで蝋燭を持っていなかったそうですが信じられますか
→日本は鎖国をしていて新技術は輸入されませんでしたからそうでしょう(等々
→それは米国です。1854年に外交関係を構築し、1856年にポーハタン号が初めて入港しました
→オランダ東インドです。1639年に出島に商館を立てて1953年まで営業していました
→そうです。ポーハタン号は軍艦で日本との外交関係を築くために1956年に米国から派遣されました。オランダ東インドのは商船で入港は許可されていました
→それは無さそうなことですね。入港を許可できるよう、軍艦で来て欲しいと日本政府から予め要請されていた可能性があります
その視点はなかった…w
まず、妻の学力の低さが子供に遺伝することは無いと言って良いと思う。
子供の学力は遺伝ではなく、生活環境による影響が大きいのを理解してほしい。
そして、その生活環境を整えられるかが難しいのだが、
18世紀にフランスの社会学者ブルデューが提唱した「文化資本」を意識してほしい。
例えば小学生の子供が夕方学校から帰ってきて、宿題を終わらせたとしよう。
晩御飯を食べ、お風呂へ入り、寝るまで1〜2時間の時間が空いた時、何をするだろうか。
クソみたいなテレビ番組を見るのか、クソみたいなYoutuberの動画を見るのか。
そうではなく、本を読んだり、楽器を演奏することを子供が選択できる家庭環境を作ってほしい。
「テレビなんか見てないで本を読め」、「Switchやってないでピアノの練習しろ」
なんて言っても、もちろんなんの意味もない。
母親がアパレルに興味があるんだったら、図書館で借りてきた世界のファッションのビジュアルブックなんかを一緒にパラパラ見るだけで子供は本好きになる。
あのさー
私も見習わなくちゃーって思ったことがあって、
昨日先日コンビニに朝行った際、
レジ列並んでて前のお姉さんが
氷結500ミリリットル缶に揚げ物のハッツスナック一緒に買ってたの。
朝一によ、
まあこの際ストロングとかどっちでもどうでもいいんだけど。
ちなみに、
私はストロングを飲んだらもの凄く頭が痛くなるのであれなんでなのだから飲まないのー!
その朝一から
氷結500ミリリットル缶に揚げ物のハッツスナックをキメているそのロックさたるや!
私も見習わなくちゃー!って
でも私もお休みの時のお昼は事務所に居つつもお昼ランチでいつもと違って日頃行けない町中華へ
台湾のどちらかと言うと
そこでルービーにビャンビャン麺定食など炭水化物アンド炭水化物、
それを昼一番からご機嫌さんにキメるんだけど、
さすがに朝一は見習わなくちゃって。
でも朝一から仕上がっちゃったら、
それで1日終わっちゃうまだ半日以上あるのにもうそこで寝てしまっては試合終了というか、
1日がもったいないというか。
全うに清く正しく生きているの。
早くからルービーキメちゃうと1日半分眠たくなっちゃって寝ちゃうのよ!ってだけの話し。
そんでね、
その昨年の流行語大賞で言うところの
いつものビャンビャン麺定食や調子良かったらから揚げ定食をもキメるんだけど
他の人たちはランチと一緒に普通にルービーとかキメてないサラリーマンとかも多いので、
逆に私もロックに見られて見習わなければならない対象とされているのかもしれない!
そう思うと案外それロックなのかも知れないわ。
アラビアンナイトか千夜一夜か的なお話に出てくる伝説の鳥!羽ばたいたら戻らないと言ってー!のロック鳥のロックでもないし、
18世紀のブルボン朝後期におけるフランスの文化芸術の表現形式のロック調のことでもないし、
アメリカ西海岸を中心に流行したヒッピームーブメントを背景に登場し開放的な雰囲気を特徴とするウェストコーストロックのことでもないの。
かと言って
布の端がほつれないようするかがり縫いや伸縮性のあるニット素材の縫い合わせが得意な普通のミシンと種類が違うロックミシンのことでもないし、
まあその朝あったレジ前のお姉さんは
想像だけど夜の夜勤明けとか朝方までやってるお仕事の人かも知れないし、
さすがに出勤前に氷結500ミリリットル缶をキメているのではないだろうけど、
ほんとロックだわー!
でもさ
スタッズみや鋲みのある斜めに切った断面がトゲトゲに見えるロックそのものな「ちくわぶ」ぐらいかしら?
そうなると私の地域性の特性でおでんの具にはロック的なちくわぶに馴染みがなく
いやもとい
断面がトゲトゲになっているちくわぶはその調理法すら分からない
それでいいってことなのかしら?
ちくわぶをうどんとして扱うほどロックなことは無いかも知れないわ。
私のこの今絶賛育て中のおでんの鍋のベーナーのルーシーの美味しい出汁の出た中にはちくわぶは一度も入ったことがなかったし、
それが正直なところよ。
そのまま囓るのがロックなのかも知れないし、
街で歩きながら片手で持ち食べ歩くニューヨークスタイルのロックでもあるわね。
かと言って
今さら得意ではない、
得意ではないと言うより馴染みが無いから食べ方が分からないちくわぶ。
あれを食べてこそがロックなのかも知れないわ。
きっと氷結500ミリリットル缶をキメながらアテにちくわぶをダイレクトに囓るのが一番ロックかも知れない!
ロックって何だろう?って
氷結500ミリリットル缶に揚げ物のハッツスナックを買ったお姉さんは自転車に乗ってその自転車でウィリー走行をキメながら颯爽に走り去って行ったわ。
人に足りないのはきっと実はウィリーなのよ。
お姉さんの姿が遠く見えなくなるまでそう思ったわ。
足りないのはウィリー!
きっとそうよ!
うふふ。
ヒーコーのみにしました。
今日の朝の今朝の一杯よ。
起きて寒く今朝なんか超絶寒くない?
もーキッチンとか寒くて
お湯が少ないと固い葛湯になるので、
適量より多めの若干しゃばしゃば目の調整具合よ。
その方がさらりと飲めるのよね。
まあ温まるわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
憲法の最高規範のやっかいさを端的に表現していて興味深い。ブクマの反応も含めて。
憲法が憲法自身を自ら最高!と自己規定する、というのは、そもそもマジックなんだよね。
これに答えられなければいくら教科書の言説を取り出しても意味がないよ。
法律というのは、根拠をすべて憲法に求めることができるんだけど
憲法だけは違う。なにせ最高規範なんだから、その上に憲法を基礎づけるものはない。
なんで最高なの?というと問いに、オレ(憲法自身)がサイコ―だっていってんだからサイコーなんだよ!というだけである。
しいていえば、今の憲法の思想が好きだ、重要だと思う、という社会のコンセンサス(通説という言い方をすることが多い)でしかない。
なので、社会のムードにとても左右されやすいのが憲法の脆弱性といえるんだよ。
だから、常に普遍的な原理だ!とかって言い続けてなければならなくて、わかってない奴や反論する奴がいたら、速攻でモグラたたきをしたがるわけ。
憲法の持つ本来的な脆弱性については、例えば、18世紀のアメリカの制憲の始祖たちも随分、起草前は随分悩んだらしく、
有名なフェデラリスト論文は、匿名で書かれ、憲法制定に至る思考実験を垣間見ることができる。
米国では、司法の世界をがっちりと国民参加も含めて重層的に構造化したから、その思考実験の結果が社会全体に引き継がれている。
陪審制をみたフランス人のトクヴィルが感動したのは有名な話だね。
連邦最高裁の重要判決ではほぼ必ず、制憲時の思いにさかのぼって答えを出す。
日本は、戦後、ある意味、そういう産みの苦しみを思想家たちが共有せず、戦禍というキーワードでなんとなく丸め込んでしまった(前文)。
そうすると、必然的に、戦争の記憶が薄れれば、憲法も意味がぼやけてくる。
立憲主義の意味だって、教科書開いて調べるようなもんじゃないんだよ。社会の仕組みとしてそれをいいと思うかどうかの話なんだから。
いいと思わない奴がいても全然構わないし。
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
有機農業って要は農薬を使わない農業だろうけど、農薬ってめっちゃ有機物じゃん。
と思って少し調べました。
化学界隈における有機化合物(organic compound)、無機化合物(inorganic compound)の定義は以下になる(wikipediaより)。
高校受験の理科で、様々な物質を有機物、無機物に分類する問題があったことは覚えているだろうか。
有機化合物はたとえば、人々が目にするもので言えば、医薬品、農薬、アミノ酸・タンパク質・糖・ビタミンなどなどから成る食品、香料、石油、プラスチック、ゴム、繊維など。塗料、化粧品、洗剤なども有機化合物からなる。
無機化合物の例は、身近なものだと、金属製品、宝石、ガラス、セメント、セラミックス、半導体、電池などでしょうか。
「有機農業の推進に関する法律」による有機農業の定義は以下のとおりです。
goo辞書より
ふむ。どうやら「有機」という言葉を有機化合物と同義で使うことは化学者の傲慢だったらしい。
wikipediaの有機化合物の欄に詳しい解説が書いてありましたね。
有機化合物、無機化合物という用語が生まれた18世紀末より前にも、有機体 (organisms) という言葉は存在し生物と同義で使われていた。今でいう有機物は、当時は生物の付属品と考えられていた。
18世紀末、イェンス・ベルセリウスは物質を生物から得られるものと鉱物から得られるものとに分け、それぞれ「有機化合物」「無機化合物」と定義した。
後に、当時有機化合物に分類されたものも人工的に合成できることが発覚し、定義を「炭素を含むものを有機化合物(一部例外あり)、それ以外を無機化合物とする」と修正された。が、本来「有機(organic)」には「生物の、生物由来の」といった意味があるのだ。
だから「有機農業」を生物由来の肥料だけを使った農業の意味で使うことは本来何も間違っていないのだ。
エセ科学っぽいからという偏見で間違った意見を持っていた。化学者の側が言葉の意味を曲げて使ってしまったのだ。
なるほど、以上の意味を考えても、本来の意味は、有機とは生物っぽいことで、無機とは生物っぽくないことなのだ。化学者の側が言葉の意味を曲げて使ってしまったのだ。
こういう、ある言葉の一般的な用法と、科学的な用語としての用法にずれが生じてしまうことって結構あるよね。新しい概念を定義する際に既存の言葉で運用してしまうからでしょうかね。科学用語は定義が厳密だが、一般用語は定義よりもイメージが大切だからね。
法律用語もこういったことが多いイメージ。例えば法律でいう「少年」は一般で言う少年少女を指すらしいじゃん。
という訳で、「有機」とは本来は「生物由来の」を指す意味であり、それゆえ生物由来の農業、というニュアンスで合成肥料を使わない農業を有機農業と呼ぶことは間違っておらず、化学界が定義した「有機化合物」の方が後釜であり、本来のことばの意味からはずれているのだ、という結論を知ったところで終わりにします。
私は今日もまた一つ賢くなれました。
引用の書式を修正しました。はてな記法を知らず、blockquoteタグでいけるかなと思ったらいけませんでした。ご指摘ありがとうございます。
パンの原料である小麦を始めとして、農作物を育てるには、窒素・リン・カリウムの肥料の三要素が不可欠だが、ハーバー・ボッシュ法は、窒素を供給する化学肥料の大量生産を可能とし、結果として農作物の収穫量は飛躍的に増加した。このためハーバー・ボッシュ法は、水と石炭と空気からパンを作る方法とも称された[5]。
化学肥料の誕生以前は、単位面積あたりの農作物の量に限界があるため、農作物の量が人口増加に追いつかず、人類は常に貧困と飢餓に悩まされていた(マルサスの人口論)[13]。
しかし、ハーバー・ボッシュ法による窒素の化学肥料の誕生や、過リン酸石灰によるリンの化学肥料の誕生により、ヨーロッパやアメリカ大陸では、人口爆発にも耐えうる生産量を確保することが可能となった[13]。これは1940年代から1960年代にかけて起きた、18世紀の農業革命に続く「緑の革命」の先駆けとなった[14]。また日本などでは従来肥料として用いられてきた屎尿による寄生虫の感染も避けられるようになった。
ハーバー・ボッシュ法は同時に爆薬の原料となる硝酸の大量生産を可能にしたことから、平時には肥料を、戦時には火薬を空気から作るとも形容された。硝石の鉱床が無い国でも国内で火薬の生産が可能となり、その後の戦争が長引く要因を作った。例として第一次世界大戦において、ドイツ帝国は海上封鎖により、チリ硝石の輸入が不可能となったが、戦争で使用した火薬の原料の窒素化合物の全てを国内で調達できた(火薬・爆薬を参照)。
本法によるアンモニア合成法の開発以降、生物体としてのヒトのバイオマスを、従来よりもはるかに多い量で保障するだけの窒素化合物が、世界中の農地生態系に供給され、世界の人口は急速に増加した。現在では地球の生態系において最大の窒素固定源となっている。さらに、農地生態系から直接間接双方の様々な形で、他の生態系に窒素化合物が大量に流出しており、地球全体の生態系への窒素化合物の過剰供給をも引き起こしている。この現象は、地球規模の環境破壊の一端を成しているのではないかとする懸念も生じている[15]。
ハーバーは本法の業績により、1918年にノーベル化学賞を受賞したが、第一次世界大戦中にドイツ帝国の毒ガス開発を主導していたために物議を醸した[16][17]。またボッシュは実用化の業績により、1931年にノーベル化学賞を受賞している。
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トフラーは本書の中で、人類はこれまで大変革の波を二度経験してきており、第一の波は農業革命(18世紀の農業における変革でなく、人類が初めて農耕を開始した新石器革命に該当)、第二の波は産業革命と呼ばれるものであり、これから第三の波として情報革命による脱産業社会(情報化社会)が押し寄せると唱えている[1]。 第三の波の一例として、奈良県生駒市で展開された双方向映像配信実験プロジェクト・Hi-OVISを紹介している[2]。
本書の中でトフラーは、電子情報機器を装備したエレクトロニック・コテージにより在宅勤務が可能になることを予言した。また、これまでの消費者から、生産(produce)と消費(consume)が同時に行われる「プロシューマー」(prosumer)が農業革命時のように復活し、経済構造を変化させることを唱えた[3]。
トフラーは本書の中で、人類はこれまで大変革の波を二度経験してきており、第一の波は農業革命(18世紀の農業における変革でなく、人類が初めて農耕を開始した新石器革命に該当)、第二の波は産業革命と呼ばれるものであり、これから第三の波として情報革命による脱産業社会(情報化社会)が押し寄せると唱えている[1]。 第三の波の一例として、奈良県生駒市で展開された双方向映像配信実験プロジェクト・Hi-OVISを紹介している[2]。
本書の中でトフラーは、電子情報機器を装備したエレクトロニック・コテージにより在宅勤務が可能になることを予言した。また、これまでの消費者から、生産(produce)と消費(consume)が同時に行われる「プロシューマー」(prosumer)が農業革命時のように復活し、経済構造を変化させることを唱えた[3]。
TBSが燃えている。4日前の2月24日、駐日エストニア大使館がTBS NEWSのツイートに「TBSさん,またですか..いいかげんエストニア,ラトビア,リトアニアを“旧ソビエトの国“と呼ぶのはやめてもらえます?歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国はソビエトの継承国家ではないです。2月24日エストニア104回目の独立記念日の本日から、もうこの呼び方はやめていただきたいです」とリプライしたからだ。
https://twitter.com/estembassyjp/status/1496798387856834561
エストニアと言えば把瑠都と仮想通貨しか知らない俺も、うっかりエストニアを「旧ソ連」と呼んで国際問題を召喚しかねない。保身のために「エストニアは旧ソ連じゃない問題」について検索してみた。
「まとも検索」で「エストニア 旧ソ連」を検索すると、政府や国立機関のページが見つかる。バルト三国は「旧ソ連」と呼ばれているのか?
・外務省 わかる!国際情勢(2011年) 「現在のエストニアは,バルト三国中もっとも経済状況が良好で, 2011年1月に旧ソ連の国として初めてユーロを導入しました。」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol80/index.html
・国立国会図書館 リサーチナビ(2022年2月更新)「旧ソビエト連邦構成国(ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、以下略)の鉄道地図が掲載されています」
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-371.php
日本政府公認旧ソ連である。専門家が書いた本なら如何と志摩園子氏の「物語バルト三国の歴史」(2004年)を手に取れば、「旧ソ連邦に属していた三国は、新たな国家建設に当たって(以下略)」と開幕即旧ソ連判定である。
では逆に何故、「旧ソ連」と呼ぶのが「不正確」なのか?この本に沿って俺なりにまとめると、今のエストニアにあたる地域は、18世紀くらいからロシア帝国に支配されていたのだが、ロシア革命後の1918年に独立を宣言した(※国際的な承認は1920~21年)。しかし1939年、ナチスとソ連の秘密協定で勝手にソ連の勢力圏と決められてしまい、1940年6月にはソ連軍に占領された。そして逆らう奴らは逮捕、追放され、占領下で選挙を実施して人民議会を開き、この議会がソ連編入を決めた、ということらしい。要はエストニアはソ連軍に占領されながら「ソ連に加盟します」と言わされたわけで、ぐうの音も出ない茶番である。リトアニアとラトビアも同様の茶番でソ連に「編入」している。
エストニアに言わせれば、こんなふざけた経緯の「ソ連編入」が無効で違法なのは明々白々、俺たちバルト三国は半世紀間「占領」されていただけなので旧ソ連呼びは「歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国はソビエトの継承国家ではないです。」ってツイートにつながるんだろう。
けど実際1991年までは政治も行政も経済もソ連の一部として回ってたんで、日本の外務省や専門家が「旧ソ連」と呼ぶのも当然と言えば当然。無茶苦茶なやり口で併合されたとはいえ、実際ソ連だったんだもん。
なぜ駐日エストニア大使館は「行き過ぎ」とまで思えるほどブチギレたのか?「アジア経済研究所」というJETROの付属研究所が出している雑誌「アジア経済」に、ロシア政治研究者・バルト諸国政治研究者・中央アジア政治研究者の座談会(2021年7月30日収録)が載っている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajiakeizai/62/4/62_79/_html/-char/ja
バルト諸国政治研究者の中井遼氏が「旧ソ連」問題を語っている:
中井「それと,最近やりにくいなと思うことがあって,「旧ソ連」というとすごく怒る方がいるんです。日本だと目立たちませんが,英語圏だと議員や外務省とメディアが一緒にキャンペーンをはって,former Soviet Union とか ex-Soviet states といった呼称を使った記事や表現に対してものすごい勢いで抗議運動をやるんです。まだアカデミックなところではそこまで来ていませんけど,私ですら多少の圧力は感じますし,現地の研究者と話していると大変そうだなと思います。」
岡(※中央アジア政治研究者)「なるほど,これは地域名称の難しさですね。」
中井「バルト 3 国のなかで,とくにエストニアとラトビアは,そもそも国家理念としてソ連だったことはないという建前なんですよ。」
要はエストニア大使館の怒りのツイートは、エストニア外務省の「キャンペーン」の日本編なのである。これはまさに政治的に正しいか否かという問題——いわゆる「ポリコレ」なのでは?と雑に納得すると専門家に叱られるだろうか。「歴史戦」チックな問題なのかもしれない。
どっちにしても、駐日エストニア大使館の言い分はあまりにも強気だ。「エストニアがソ連だったことはない」という歴史認識は別に世界のアカデミックの常識って訳でもなさそうなのに、「旧ソ連」呼びを「不快だからヤメテ」ではなく「歴史的にも法律的にも不正確」とまで断じているんだから。グルジアがジョージアになったのとは根本的に質が違う要求だし、「呼ばれたくない呼び方はやめようね!」程度の問題だと考えてるなら、エストニアの歴史認識を実のところ解っていないままってことになる。
俺としては、日本外務省や日本のバルト三国専門家もバルト三国を「旧ソ連」と呼んでいるわけで、TBSがここまで炎上したのは可哀想な気がする。エストニア政府の歴史認識を尊重すれば「旧ソ連」と呼ばないのが親切かつポリティカリーにコレクトだけど、無茶苦茶な併合とはいえバルト三国が旧ソ連の一部だったことは確かだし、オウムの件のように明らかにTBSが悪い事件まで持ち出してぶっ叩くほどのことかというと疑問。けど炎上のおかげで俺のような無関心人(むかんしんちゅ)までバルト三国の歴史にちょっぴり詳しくなったんだし、エストニア外務省の「旧ソ連と呼ぶな」キャンペーンは今のところ成功していそうだ。
それにエストニアのキャンペーンを抜きにしても、「旧ソ連」という枕詞はそろそろお役御免かも。TBSは「バルト三国」の知名度が低いと感じて「旧ソ連」を加えたんだろうが、専門家をもってして今や「普通の民主主義の経済的に安定した国」(座談会の中井氏)と言わしめる国々をいつまでも「旧ソ連」と呼び続けるのは、間違いじゃなくとも何か変な感じだ。
...ここまで書いてから気付いたんだが、「エストニアの政治と歴史認識」(著者小森宏美氏)というどうやらそのものズバリの専門書が発売されているらしい。