はてなキーワード: 鳥山明とは
「『ドラゴンボール』と『ナルト』の元担当編集が語る「ジャンプ」の裏側 ― 絶対に敵わない『ワンピース』に勝つために『ナルト』が取った戦略とは【鳥嶋和彦×矢作康介×鵜之澤伸×松山洋】」
での鳥嶋の発言に、元ジャンプ漫画家木多康昭がtwitterで反論していた。
https://news.denfaminicogamer.jp/interview/191227f
https://twitter.com/KitaYasuaki/status/1211312539792891905
https://togetter.com/li/1448906
鳥嶋の
「さっき矢作が言った、新人の新連載で表紙にするっていうのは、じつは僕が戻ってからなの。」
実際、ジャンプの表紙を調べれば鳥嶋編集長時代(1996年から5年間)以前にすでに新人の新連載が表紙になっている。
これはジャンプを離れて現在はヤンマガで連載していて、なおかつ加藤浩次なんて比じゃないほどの「狂犬」である木多康昭だからこそできた証言だ。他の編集者や漫画家にはできない。
鳥嶋の過去の証言が間違っていると指摘できるのは、同時代のジャンプを経験していて、なおかつ集英社(グループ)を離れている利害関係のない元編集者や漫画家ぐらいなものだろう。
ちなみに矢作も
『ジャンプ』としては、新連載は新しい漫画家でやりたいと。まったく世の中に出ていない作家、この漫画で初めて世に出る作家を、新連載号の表紙にするんですよ。そんな雑誌なんて『ジャンプ』しかないですよ、たぶん世界中で。
と発言している。
他の(少年)誌はそもそもアイドルの写真が表紙なので比較しにくいのだが(アイドルの横に新人新連載の大きめのイラストがある表紙ならいくらでもある)、調べてみると世界どころか最近の日本ですぐに見つかったw
たとえば、週刊少年サンデー2016年47号は新人の新連載「RYOKO」が漫画単独で表紙になっている。
とはいえ、めったにないことではあるので恒例化しているジャンプが珍しいのは確かである。
Vジャンプ時代(~1996)の鳥嶋は、復帰するまでジャンプを読んでいなかった節があるし。
それはね、オレはもう卒業生だから言っちゃうけど、『ドラゴンボール』は止めたかったのに止めさせてもらえなかったんだよ。はっきり言うと、僕の前の編集長とその前の編集長の判断だよね。
あの時、僕が『Vジャンプ』にいて、鳥山君を助けてあげられなかったのは、今もって悔いている。魔人ブウ編はやるべきじゃなかったよね。
鳥山明が本当にドラゴンボールの連載がつらくなったのはフリーザ編終了後のセル編とブウ編、1991~1995年のこと。
この4年間のため、鳥山明は「燃え尽き」てしまい、以後長期連載はしないようになったと自ら語っている。
(鳥嶋は「真っ白」と喩えている)
この鳥山明が本当に苦しんでいる時期、鳥嶋はなにをしていたかというと、立ち上げ期のVジャンプで週刊連載をしている鳥山に、
もこの時期だし、継続で
の仕事も行っている。
この週刊連載と平行して行った大量の仕事に関しては、鳥山自身は後に「ムチャクチャ」だったと振り返っている(『超事典』でのインタビューより)。
これほどに作家を酷使しておいて、よく「助けてあげられなかった」なんて言えたものだ。
責任を前々編集長(後藤広喜)と前編集長(堀江信彦)に押し付けているが、鳥山明の燃え尽きの責任の一端は確実に鳥嶋氏にもあるだろがよ!
(言い訳としては、鳥山明の苦難は連載の際限なき長期化であって、Vジャンプでの仕事は気分転換になっていた、仕事量の問題ではない、というのが考えられる)
鳥山明を育てたのも鳥嶋なら、漫画家として燃え尽きさせたのもまた鳥嶋なのである。
(鳥山が完全に消耗し終わることから救ったのは、連載終了を判断して、そのための各種交渉を行ったブウ編の担当編集者武田冬門である)
本文はここまで。
以下は補足点となる。
・少年漫画における性描写・性表現については、大きく4種類に分類できると思う。
・「その方が売れるから」「その方が人気が出るから」という割と身もふたもない理由によって行われる性描写・性表現。名物編集者・マシリトこと鳥嶋和彦氏が担当した鳥山明や桂正和作品に見られるものが特に有名。現在では、いわゆる「ラブコメ枠(ToLOVEる枠)」作品に数多く見られる。正直に告白すると、当時の少年読者としては大変ありがたかったという実感がある。「女性のモノ化」として批判されがちなのはたぶんコレ。
・少年漫画の枠内で、成熟した大人向け要素を表すための性描写・性表現。源流はおそらくニューシネマ、ロマンポルノ。漫画作品においては、特にルパン三世の影響が大きいと思われる。しばしば暴力表現を伴うことがあるため、レーティングの観点で批判されがち(少年漫画ではないが、エヴァにおける加持さんのアレなど)。表現の自由として強く擁護されているのはたぶんコレ。
アナーキーさ、漫画表現の自由さの象徴としての性描写・性表現。しばしばモザイクをどこまで薄くできるか?」的なチキンレースの様相を呈する。(乳頭をタピオカで表現する」「開いた瞳孔を女性器にみたてる」)現代の狂歌。②と同じくレーティングの観点で批判され、表現の自由の観点で擁護される。
・未成熟な少年を表すキャラクター類型としての性描写・性表現。「ダイの大冒険」におけるポップに代表される未成熟であるがゆえに、長期連載に置いて爆発的に成長するキャラクターに与えられる記号としての性描写・性表現。精神的・肉体的に未成熟しばしば覗きなどの犯罪行為を行うため、現代において成立させるのがきわめて難しく、強い批判を受けている。しかしそのキャラクターとしてな爆発的成長はビルドゥングスロマンとしての少年漫画との相性が極めて良いため、しばしば作品内に採用され、また読者からも擁護される。
・④ポップ的性描写・性表現は、現代において時代おくれになっており、仮に成立させようとしても針の穴を通すような作業になる。「未成熟なキャラクターを表す記号としては避けたほうが無難だ」と言わざるを得ない状況になっている。これは「不倫」というテーマが、(親同士・イエ同士が決めた結婚が多くみられた頃は)「自由意志」「純愛」の象徴として成立していたが、現代において『「不倫」は単なる「不義」である』という見方が主流となってきたことで、時代おくれになったことと似ている。(もちろん、これは「不倫をテーマもして採用すべきではない」ということではない。現代においても意欲なある製作者によって「昼顔」のような成功例が作られている)
・①〜③については「少年漫画におけるレーティング」が特に問題となる。しかし、漫画というメディアの特性上、映画のレーティングのように細かな規制をし辛いため、どうしても批判側は「製作者側の自主規制」を求めがち。今後、電子書籍が主流となれば流れは変わるのかもしれない。というか、ジャンプ+アプリなどの動きを見る限り、出版社側はすでにそれ(レーティング)を見据えて行動しているように思われる。
・現在、少年ジャンプに連載中の漫画に上記の類型を当てはめてみる。「僕のヒーローアカデミア」における峰田、「鬼滅の刃」における善逸は、典型的な④ポップ的性描写・性表現。ゆらぎ荘は基本的には①マシリト的性描写・性表現で、たまに③永井豪的性描写・性表現。おれは①については別になくなっても困らない(大人なので)が、③については「ガンガンやってほしい」と思っています(永井豪・筒井康隆ファン)
・ワンピースにおける性表現は、かなり複雑。表面的には少年漫画的サービスとしての①マシリト的性描写・性表現。だがワンピースという漫画はニューシネマに強く影響を受けており②モンキーパンチ的性描写・性表現の要素も強く見られる。それ故、覗き行為を行うのはウソップではなうサンジであり、チャイルディッシュなキャラクターとしての記号は「ロボットや昆虫に対する好奇心」という形で描かれる。また、ワンピースの複雑さは「尾田栄一郎は徳弘正也の弟子」であることにも由来する。徳弘正也は鬼子であり、稀有なエロスとタナトスの作家である。尾田栄一郎はその弟子であり強く影響を受けているが、作品内ではエロスとタナトスを抑制しているため、非常に奇妙な形で表出している。
・PCに意識的な作家の作品は、作品の寿命を延ばす。時代性を感じさせる記述を極限まで廃した星新一の作品は100年先でも読まれるだけの強度を持つが、筒井康隆の作品のいくつかは鋭い批評性を帯びるが故に陳腐化する。PCを意識していない作品の寿命は短くなる。現在、少年漫画作品の寿命・リーチできる距離は飛躍的に伸びている。PCを意識しないことで作品の寿命が短くなるのは単純に「もったいない」。ノウハウを蓄積して対応すべき。そしてそれは(それこそが)しばしば挑戦的な表現になり得る。
悪に戻れていい気分だというベジータに険しい顔で「本当にそうか?」と訊く悟空ですが原作ではこの時 笑みを湛えた表情でした。
ささいなとこですが意味は大きく違ってきます pic.twitter.com/e5F34tdmaB— 口伝 鳥山明 (@hozonkaiin) August 14, 2014
そのドアを開けるとマスオさんがいた。
「あ、ども」
「あ」
僕はマスオさんの斜め向かいにある角が少し破けたパイプ椅子に腰掛けた。
ヤニで変色したボロボロの三段ラックには古雑誌やコンビニ漫画が積まれていた。
「朝日…」
「ん?」
「いや…やっぱりマスオさんは朝日新聞出版の漫画じゃないのかなぁと思いまして…」
「アハハ、意外かい?」
「い、いいえ!別にそういう訳ではないですけど」
「好きなんだよね、彼岸島」
「い…意外ですね」
マスオさんは吸っていたタバコをグイと灰皿に押しつけるとすぐにまた新しい一本に火をつけた。
「たがわ?」
「のらくろって知ってるだろ」
「のらくろを世に送り出しのが田河水泡さ。最後にアニメ化されたのは昭和62年だから君は知らなくて当たり前だよ」
「僕とは直接関係ないけど長谷川町子は田河水泡の弟子だったのさ」
「田河水泡がのらくろを描いた時代は戦前だった。歴史の教科書なんかで見たことあるだろ?のらくろ二等兵とかさ」
「田河も時代に翻弄された漫画家の一人だった。戦時統制の中で漫画なんかけしからんという理由で連載を中止させられたりね。それなのに現代では戦意高揚を目的とした漫画だったと非難する声まで上がったりさ」
「勝手ですね」
「口だけ出して自分の手を汚さない連中が面倒なのはいつの時代も同じさ」
読んでいたヤンマガを丸めて肩を叩きながら蛍光灯の方へフーと煙を吐くマスオさん。
「戦後、田河は全国の小学校を表敬訪問して回った。それは戦争で焼け跡となった町でたくましく暮らす子供たちにとって夢のような出来事だった」
「憧れの人ですものね」
「鳥山明や尾田栄一郎がやってきたようなもんさ。田河は小学校に向かうと全校生徒の前で用意された大きな布や紙に筆でスラスラとのらくろを描き上げるんだ。それを見ている子供達の顔が本当にいい笑顔でね」
「目に浮かぶようです」
「僕はたまに思うんだ。漫画の人は漫画に生かされているのではなく漫画そのものが生きているんだとね。それを紙とペンで世に書き写すのが漫画家の役目なのかもしれない。田河もきっとそうだったんじゃないかな」
「マスオさんはどうするのですか?」
「カツオ…くん?」
「ああ、僕の甥さ。学校の勉強は苦手なようだけどなかなか賢い子でね。きっと大物になると思うよ」
マスオさんはヤンマガをポイッとラックに返すとすっと立ち上がり首を回しながら腰を叩いて笑った。
「僕たちの物語は続くだろうね、これからもずっと。まだあの黒電話とブラウン管がある平屋でさ。誰かが見てくれてるからとか描いてくれるからとかそういうのもあるけど、それだけじゃないそこで生きる僕たちそのものの証としてね」
「証…」
大人になってから読むとものすごく現実の戦争を思わせるんだなー、とびっくり
やっぱり第二次大戦の記憶が今より濃いし、当時も世界で色々あったから?
サイヤ人~フリーザ編はまるっきりそうだけど、フリーザの部下で雑魚って感じの人たちも、見た目いろいろだし、
フリーザに植民された星でまあまあ強いんだったから拾われてきて戦わされてるのかなー、って初めて思った
◇
フリーザ編終わって、トランクスがタイムマシンで来て帰って、みんなで喋ってるところ(28巻の後ろのほう)
ブルマが、人造人間つくる前にドクター・ゲロをやっつけようって言うんだけど、
ベジータ怒るし、悟空は、まだ何も悪いことしてないのにやっつけちゃうのはちょっとって感じで、
タイムマシンがあったらヒトラー少年を殺すか?ってやつみたいだ
クリリンが言う、共通の敵がなかったらベジータなんて…っていうのも…
◇
みんな「おおーっ」
ぜったいにまちがってる …… 変態よ…
っていうのも、ブルマは銃後代表、女性代表、科学者代表?なんだなーって読めて面白かった
この「どこかのヤバイ独裁者」はたぶん現実世界の誰かだろうけど誰だ?
小学4年生くらいの時にやってたけど
二次元の初恋はビアンカなんじゃないかってくらいハマった覚えがある
幼馴染、姉さん女房、ツンデレ、少女時代に大人時代、ボッチ属性
今から思えば王道萌え属性をこれでもかと詰め込んだよなキャラだ
快活なヒロイン良いよね
何周もプレイしたけど、結局フローラでエンディングを迎えることはなかった
これはしょうがない
これもしょうがない
この前スマホでやり直した時
メタルキングの剣は普通にカジノで即入手したけど、スラリンLv99のバグはもちろん消えていて
じゃあビアンカ入れるかって思って育てたんだけどやっぱり戦線離脱するからレベル差が出てしまうね
そもそもスラリンLv99だと1匹でミルドラース倒せるんだよなあ
子供の頃やってると、10年奴隷ですっ飛ぶみたいな展開は結構来るよね
そのあと8年石だしね
ビアンカは10年だっけ?結局20歳前後で同い年になったのかな?
若干残念なのは後半
父子 → ギャルゲー → 子供 → 母子 という話の流れだけど
パパスの印象が強すぎたのかもしれない
あと、二大ヒロイン制のためか、後半あまりビアンカが絡んでこないのが惜しい
そういやリメイクだとなんか変わってんのか?
デボラ?誰?
仮面ライダーのやつは、今回は見に行くつもりはなかったんだけど、友人から「見とけ、笑えるから」と言われたので見に行ってみることにした。
twitterなどで若干否定的な意見も目にしていたけど、つまりそれが「笑えるから」ってことなんだろうなと、ギャグ映画を見るつもりで見に行くことにした。
ドラクエの方は、シリーズ中5が一番思い入れが深くて、SFC版からPS2、DS、アプリと、ハードが変わるごとにやっていて、半ば原理主義者化している自覚があり、また小説版も大好きなので、その辺のゴタゴタからも見に行くつもりはなかったのだけど、twitterで「5点満点中マイナス100点」等、あまりに酷評されているから逆に気になった。
そんで、今日たまたま時間が空いて、ライダー映画の後にちょうど良い時間の上映があったこともあって、はしごで見てきた。
と、ライダーの名前を出しておいて何だが、今回の話にライダーは余り関係無くて、バーターで付いてくる戦隊の映画の方の話をしたい。
(ライダー映画は、突っ込みどころの多さも含めていつも通りの、安定した面白さだったので、特に語ることはない)
で、その、ライダー&戦隊映画を見た後でドラクエの映画を見たのだ、という話をしたいのだ。
まず、ドラクエの話をしたい。
散々な酷評が聞こえてきていたのと、後記する理由でハードルがガン下がりしていたのとで、期待値はマイナスだった。二時間の苦行になるだろうと思っていた。
事実、始まって10分ほどの間は、心が10回くらい折れそうだった。
リメイク時に後付された設定がさもSFC時代からあったかのような改ざん!!
っていうかそこまでゲーム画面でやるのかよ!!そのまま最後までゲーム画面流せばいいじゃねーかもう!!
あれもこれもすっ飛ばすのかよ!!
ゲレゲレかよーーーーーーー!!!(ゲレゲレ派の皆様すまん、プックル派なんだ)
ドラゴンオーブはそこにはねーーーーーーーーーーーーえ!!!!
ヘンリーそんな奴じゃねーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!
ラインハットほったらかしかよ!!!!!!!妖精の国すっ飛ばしたからサンタローズに春が来てねえじゃねえか!!!!!!等々。
いや分かってるよ2時間で話まとめるためには仕方ねぇよ、でもさーでもさーーーと心の中の原理主義者が泣いていた。
しかし、綺麗なグラフィック、迫力の戦闘、懐かしい音楽、佐藤健の流石の演技(直前にライダー映画を見ていたとおり、特撮畑の人間でもあるので、特撮出身俳優のアフレコに対する判定は甘々な自覚はあるが、「あ~電王だ~」と思う瞬間は一切なかったので、さすが佐藤健だと思う)に押し流されるように時間は過ぎていく。少なくとも(心の中で原理主義者が泣く以外の)時間経過に対する苦痛はない。
原作と違う点に突っ込みは入れたいと思うが、時間内に話をまとめるためには仕方が無い。
例えば、ヘンリーのキャラが違うとは言っても、SFC時点で我々に許された解釈の範疇ではあるように思う。
リメイク版には仲間会話があるが、SFC版でNPCとして交わした会話はわずかだ。ああいう解釈をしていた人が、まあ、いなかった訳ではないかもしれない。ギリギリ。
リュカのキャラクターは全く小説版の「リュカ」ではないが、「どこかの誰かが操る主人公」としては、誰かの頭の中にはああいう主人公もいただろう。
ビアンカフローラの選択。そんなに簡単に「自分の本当の心」なんて分かるか???とも思ったが、一応、フローラがいいならまあよしとしよう。
個人的に、特に回収もされず、一番残念だと思ったのは「娘ーーーーーーーーーーーーーー!!!」だった。
・・・まあ、これも仕方が無いだろう。大人の世界には予算とかの問題がある。
普通に考えて5のストーリーを「正しく」映画化しようとすれば、5章仕立てくらいにしないと終わらないだろうから、「どう二時間にまとめるか」も見所だ。文句を言うより楽しんだ方が得だ。
後半のプサンの「今回はそういうことになっている」的なメタ発言も、嫌いな人は嫌いだろうが・・・と思いつつもクスリとした。
ここまで超好意的に受け止めていたが、流石に「えええええーーー」と思った。
ついでに、「あ~~~~~~~~~~~~~これオタクが発狂するやつ~~~~~~~~~~~」と酷評の理由も理解した。
確かにちょっとグサッときた。いい年してこんなところで仮面ライダーの映画からドラクエの映画はしごして見てる自分の胸にグサッときた。大人にはなれてねぇわぷー。
しかし、その後の真実の暴露により、前半で心の中の原理主義者を殺した、気になるポイントの数々が全て伏線として回収された。
幼年時代をゲーム画面でスキップしたことも、リメイク版の設定のはずなのにSFC版に存在していたかのような扱いだったことも、ヘンリーのキャラクター解釈も、なんであんなに解釈が違うのに「リュカ」なのかも、ビアンカとフローラの選択の顛末があんなんだった理由も、プサンのメタ発言の訳も。
もう、なんか、ここでぞわーっとした。
気に入らないと思ってたことの全てに理由があった(娘の存在のことは置いておく。少なくとも見ているときはそう思ったんだ)。
今まで「どこかの誰かの頭の中にあるドラクエ5の世界を見てるんだな」と思って我慢していた事が、ある意味それで正解であり、また、一気に「どこかの誰かの物語」が、「主人公の物語」あるいは「自分の物語」になった気がした。
その辺は上手く言語化できないが、体感としては「うおおおおスッキリーーーーーーーーーーーーーー!!!」だった。
最近は予定調和的なハッピーエンドが約束されているライダー映画ばかり見ていたので、ついぞこのところ体験していないカタルシス。
その後に登場したキーアイテムがロトの剣だというのももう、細かいことは抜きにしてたまんねぇわという感じ。
確かにあの瞬間、主人公は自分だった。子供の頃からドラクエと共に育った自分自身だった。あの一瞬、まさしく「YOUR STORY」だった。
(後で冷静に思うと「自分の」物語だと思うには物語の解釈が違いすぎるが、あの一瞬はそんな細かいことはどうでも良かったのだ)
そして、「経験した冒険は、確かに本物だ」というメッセージこそが、本当に我々に向けられたものだったのだろう。
大人になれ、現実に帰れ、そんな風に言われることが多い社会だけれど、我々が「ドラクエ」から貰ったものはそんなありきたりで薄っぺらな言葉で踏みにじれるようなものではないはずだ。
と、言われているはずなのに、一度発される「現実に戻れ」というメッセージの前に「そんなこと言われたかったんじゃない!!!!!!」って発狂するオタクが多いのはちょっとこう・・・オタクのメンタル弱すぎじゃねえの・・・という気がするが、まあそれは現代社会では仕方の無いことでもあるし、今回の本題ではないんだ。
言いたいのは、一本の映画として見たときに、よく出来ていたじゃないか、ということなんだ。
確かに、もう5の物語は身体に染みついてしまっているから、全く5の物語に触れたことがない人にとって、提示されている情報が十分だったかについては冷静な判断ができない。
ストロスの杖のあたりとかは説明不足だったようにも思うが、まあ、「息子が頑張って探した石化が解けるアイテムである」くらいは伝わっただろう。
(ちょっと使い方それェ~~~?!!と思ったりしたが)
(ルーラの辺りは怪しいかも知れないが、「ルーラ」といえばワープの魔法である、というのは有名だと思いたい)
二時間でまとめる為にはどうしても大幅なカットが必要である、そのためにカットされたり設定が変更された部分について「そこをカットするのかよ・・・!そこをそう変えるのかよ・・・!」という視点で気に入らない箇所を除くと、「え~~~~」と思った部分は大概、ラストで伏線として回収された。
その、ラストの展開それ自体が気に入るかどうかはともかくとして、5のストーリーを知っていればいるほど「あれっ?」と思う箇所には、大体理由付けがされている。
長い話をカットした時にありがちな「えっその話いつしてた??」みたいなのも、多分、なかった、と、思う。(なにせ冷静な判断ができないのだ)
一人の男の一代記になってしまうので、ストーリー全体が駆け足感あったのはまあ、仕方が無いと思うが、それも設定を知った後なら逆にリアルだ。
もちろん、二時間に納める為にカットされた部分、変更された設定について、文句を言おうと思えばいくらでも言える。娘はどこへ消えた。
ラストの演出については、これは好き嫌いがはっきり分かれるだろうなとは思った。
「ドラクエを見に来たつもりだったがSAOだったか」と思ったりもした。
「これをドラクエで、しかも5でやる意味はあるのか」みたいな批判もあるだろうと思う(これは、はっきり意味があると思うが)。
「5のファンとして、納得できるかどうか」の話であって、「映画自体のクオリティが極端に低い」ということではない。
それなのに、あたかも「映画自体のクオリティがめちゃめちゃ低いから見に行かない方がいい」みたいな言説ばかり飛び交っているのは非常に残念だと思う。
CGは徹頭徹尾圧倒的に綺麗である。(ドラクエ5らしいか、は置いといて。。。)鳥山明の絵とは遠いが、動いて居る彼らを見ていれば全く気にならなかった。
物語や設定が破綻しているということもない。もちろん重箱の隅を突けば色々出てくるだろうが、世間一般の映画と比較して特段トンデモ展開という訳でもないと思う。虚無でもない(後述)。
(ただ、主な比較対象がライダー映画であり、あれはトンデモ展開をやってナンボみたいなところがあるので、若干ふつうの人より「トンデモ展開」判定は緩いかも知れない・・・その辺りの自信はちょっとない)
とはいえ「好き嫌いは分かれるな・・・」「文句の言いどころがいっぱいあるのは分かるな・・・」とも思ったので、薦める相手は慎重に選ぶ必要があるのはわかる。
たぶん、元からこの作品はオタクの方を向いて作られた映画ではないんだろう。
(まず、オタクの方を向いているならちゃんと声優を使うはずであるし、そもそも3DCGにしないだろう)
友人にこのクソ長ったらしい感想をもう少し縮めて伝えたところ、「子供の頃ドラクエやってたパパが、懐かしいっつって子連れで見に行って、そんで夏休みの間にソフト買って親子でやってね、ってことだろ」と言われたが正にターゲット層はそこなんだろう。30~40代の子持ち父親(あるいは母親)。ちょうど小中学生の頃ドラクエ5をスーファミでやっていた世代だ。(だからこそ、今「5」が選ばれたのだろうと睨んでいる。3以前だとリアルタイム世代がもう少し上になってしまうし、4は5章構成で話が長すぎる。6以降だとまだちょっと若い)
「現実と向き合え」って言われるのが何よりも嫌いなオタク(と、あとフローラガチ派)は見るべきではないと思うが、まさしく「子供の頃ドラクエが大好きだったが、今はまあ子供もいて、そこそこ大人やってます」って人には是非薦めたい・・・・・・いや、そう言うタイプの人は最後のどんでん返しでカタルシスを感じてくれなそうである・・・ある程度「ゆうしゃとしての自分」に思い入れがないと・・・だがそう言う人は得てして現実と向き合うのが嫌であり、あるいは原作からの改変が些細なことでも許せないタイプ・・・実にジレンマである。
(・・・と、そのようなジレンマを抱える構造になってしまったことが「失敗」といえば「失敗」かもしれない)
また、この流れをもって主人公を「リュカ」としたなら、確かに久美沙織に対して何かしらの仁義は通すべきだと感じた。その一点においてマイナス100点である。
5の主人公=リュカの図式を作ったのは間違いなく小説版であろう。(もし万一、「リュカ」あるいは「リュケイロム・エル・ケル・グランバニア」の名がエニックス(当時)サイドから提供されていたのだとしたらそれを明確にして欲しいし、作者があのような(慎重な)声明を出す以上、命名は久美沙織側だったのだろうと思っている)
製作委員会におかれてはその辺は本当に仁義を通して貰いたい。この素晴らしい作品に、そんな事務的なことで味噌が付いて欲しくないと思う。
で!!!!!!だ!!!!!!!!!!実はここまでの長ったらしい話は全部前段であるっていったら怒る???
何でここまでドラクエ映画を大絶賛するかっていうと、作品自体が(人は選ぶものの)素晴らしかった(のに世間の評価がだいぶ偏ってるから、いっちょこっちは絶賛しとこう)っていうのは大いにあるんだけど、その直前に見た、見てしまった戦隊映画があまりに、あまりにも虚無だったからというのも大きい。
虚無映画のダメージがまだ残っているうちに見た為、通常時の1.5倍くらい面白く感じた...と言う可能性が否定しきれない。正直なところ。
(ブースト効果がなくても十二分に面白かったと思っただろうが、ここまで熱狂的に、最高に面白かった!!!!と思ったかどうか、怪しい)
というわけで「虚無映画の後にドラクエ見たら予想以上に面白かった」って話がしたくてドラクエの話始めたら思ったより熱が入ってたらしくてすっげー長くなったごめん。
でもこの後また長々虚無映画の話をさせてくれ。誰かに聞いて欲しいんだ。
「5点満点中マイナス100点」の栄光はまさに今年の戦隊映画みたいなもののためにあるのではないか? ドラクエではなく。
いや、戦隊映画については多くの人々が「ライダー映画のバーター」程度にしか見ていないのだろうと思う。
だって毎年バーターで、ライダーは一時間、戦隊は30分と相場が決まっている。ライダー単体の映画は大人1800円キッチリ取るが、戦隊単体の映画は大人1200円だった時代もある。
最近は戦隊単体の映画は期間限定上映になってしまったほどだ。悲しい。
だから、毎年大した期待は掛かっていないし、つまらなくてもその後のライダー映画が面白ければ何の問題も無いのだろう。
現に、今年のライダー映画に関する評判は、良い物も悪いものも合わせて耳に入る。つまり、それだけの人数、戦隊の映画も見ているはずなのだ。
しかし、誰も話題にしない。あんなに虚無だったのに!!あんなに虚無だったということを誰も口にしていない!!!その程度の興味すら抱かれていないのだろうか・・・それとも虚無すぎて何も言えないのか・・・
あるいは、「名作」とまではいかずとも、通常のテレビ放送の二話分くらいの時間を使えるのだから、ちょっとしたスペシャル回くらいの話はできる。
テレビ放送を見ている時よりはちょっとわくわくした気分で楽しんで見られて、特撮映画のことだから突っ込みどころも多いが、概ね「楽しかった楽しかった」と思える作品がほとんどだ。
(折角の「劇場版」がそれでいいのか・・・という話は一旦横に置いておく。今は、多くは求めまい)
少なくとも「早く終われ・・・」と祈ったことは、(毎年見ている訳ではないが、6~7本くらいは見ているはずだ)一度も無い。
それがだ。今回は半分より手前くらいのところから「早く・・・終わらないかな・・・」と魂が吸われていたのだ。
確かに、今年の戦隊はあまりちゃんと見ていない。が、それは過去の戦隊においても同じ事が言える。
(おおよそキャラクターや敵が何者かくらいは知っているが、毎週毎週熱心に見ている訳ではない。これはライダーも同じだ。友人たちと話のネタにするために流し見しているくらい。そこまでガチ勢ではない)
だから、「例年より話が分からない」「例年よりキャラクターに思い入れがない」という点で「面白くない」訳ではない。
「特撮映画」というジャンルには独自の文明があるので、割合トンデモ展開が許される。
(実際のところファンが「許して」いるかは知らないが、平成だけでも20作品にわたってトンデモ展開をやり続けながら絶対的コンテンツとして君臨しているのだから、許されていると思っていいだろう)
突然東京がひっくり返って江戸時代になろうが、突然信長が蘇ろうが、突然歌って踊ろうが、サーカスを始めようが、見た目は大人頭脳は子供だろうが、侍もいるし天使もいるし忍者もいる。タイムスリップも日常茶飯事、作中における原理原則の多少の無視もよくあることだ。今更騒ぐようなことでもない。
「展開がトンデモすぎる」「作中の設定が無視されすぎて変」という話でも、ない。
六千五百万年前からいきなりタイムスリップしてきた人類(的な生き物)が居たら、まずは文明の違いに腰を抜かすところからじゃないのか???とか
六千五百万年前の文明発達しすぎだな?いやそれは作中設定があるからいいとしても、こっちの部屋はロストテクノロジー仕様なのにあっちの部屋は旧
藤子・F・不二雄のアシスタントだった方倉陽二が独自に作った設定。
代表的な物に「元は黄色いボディだったが、耳を失った自分の姿を見て青ざめた結果青色になった」「ドラえもんの耳はネズミにかじられて無くなった」「ドラえもんとドラミは同じオイルを分けた兄妹で、ドラえもんはうわずみの薄いオイルを使ったためにデキが悪いロボットとなった」「ドラえもんは常に浮いている」など。
『ドラえもん』の原作者である藤子・F・不二雄は「後から知って驚いた設定も随分とあります」と述べ、こういった設定を整理するために『2112年 ドラえもん誕生』を製作したと語っている。
映画「2112年 ドラえもん誕生」やアニメで公式に片倉設定を取り入れられたり、逆に否定されたり、一度否定された物が後に再度取り入れられたりと結構曖昧。
ガンダムブームの頃に発行されたムック本。コアなファンによる設定遊びをまとめたもので、ミノフスキー粒子の設定や「ブリティッシュ作戦」「流体内パルスシステム」「AMBACシステムとMSが人型である意味」「ゲルググとギャンは次期主力機をめぐる競作」「ザクⅡ」「ジオニック社」「ガンダムは8機作られた。アムロのガンダムは2号機」等の考証はこの本が初出となっている。
これらの設定はMSVで取り入れられた後に0083やMS IGLOO、ガンダムORIGINといった映像作品に登場したことで公式設定となった。準公式まで含めれば漫画、ゲーム、プラモデル等にも影響を与え続けている。
他にも戦略戦術大図鑑やゲーム・漫画・小説作者のオリジナル設定、ガンプラのインスト出典情報など「ガンダムファンにとって常識化しているが作品には出てこない設定」は数多く存在し映像作品の知識だけで語るとにわか扱いされてしまう。めんどくさいね!
「赤城は大食い」「夕立は語尾にぽいを付けまくる」「大井はサイコレズ」「足柄は行き遅れで男に飢えたおばさん」等
原作ゲームの赤城は別に大食いキャラじゃないし、夕立は「ぽい」を付けずに喋る台詞だってあるし、大井もあんなに病的じゃない(アニメ化以前までは)
じゃあなんであんなキャラ付けになったかというと、ファンが作り上げたキャラクター像に引っ張られたんじゃね?と言われていた
その後アニメでのキャラ付けが原作ゲームに逆輸入され、現在では公式設定として扱われている。
AFをものすごく簡潔に説明すると「ファンが想像したドラゴンボールGTの続編(という設定のお遊び)」なのだが、AFで作られたキャラのいくつかは後年公式のゲームやアニメで登場している
この程度のifは素人でも思いつくような発想だし、「公式がAFをパクった」とは思わないが、それでもここまで濫造されると「超サイヤ人のバーゲンセール」だなと思ってしまう
(そもそも鳥山明の関与度合いが少ないGTや劇場版のオリジナルキャラも準公式か…?原作しか読んでなかったら、ブロリーとかビルスって誰?ってなるよなぁ)
(あとアルティメット悟飯はくそださいので公式化してほしくなかった)
参考
『BLEACH』ソシャゲに“ネギ織姫”が実装 「初音ミク=ネギの元凶」「懐かしい」 12年越しロイツマ・ガールにネット民歓喜
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1810/05/news127.html
ブコメで思い出した。
「千早はやよいを溺愛している」「星井美希のおにぎり好き」「四条貴音はラーメン好きで大食い」「我那覇響が付けてる腕時計」は声優の趣味や好きなものを公式に取り入れたものだった。
声優は公式側の人間なんだろうが、その人となりまでキャラに反映するのは有りなのか?公式の悪乗りなのか?わからんわ…👽
微妙な所だけど、原作を公式とするならスマブラの独自要素は非公式のオリジナル設定といえるか?
マジンカイザーとかガンダム試作2号機の手持ち武器とか真ゲッターとか
メタスの修理装置とかバーニィのザクオタクみたいなしょうもないオリジナル設定もあるけど、現在はむしろ公式側がスパロボ人気にあやかろうとしている節もある
https://srw.wiki.cre.jp/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB%E8%A8%AD%E5%AE%9A
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