はてなキーワード: 鳥山明とは
鳥山明の本の人かな?ケツが上にある人?
今新型コロナウイルスで大変だっていう時に何を言ってるんだという人はいるだろうが、将棋の藤井聡太くんが話題になっているのを見てて思ったが、藤井聡太くんだけでなく今の時代ってほぼ不世出なんじゃないかってレジェンドが多いよなあと思い返した。
野球のイチロー、サッカーのメッシとCロナウド、霊長類最強の雌吉田沙保里、将棋の羽生善治と藤井聡太、漫画の手塚治虫と鳥山明と秋本治と尾田栄一郎、アニメの宮崎駿、フィギュアスケートのプルシェンコと羽生結弦、映画界のキューブリック、アメコミのスタン・リー、NBAのマイケル・ジョーダンとレブロンとシャック・オニール、ミュージックのマイケル・ジャクソンとフレディ・マーキュリーなどなど枚挙に遑がない。
後世の人たちがこれからどんなレジェンドを目撃するかは知らないけど、イチローみたいな選手にまた出会えるか、メッシやCロナウドにまた出会えるかと言われたら、もう生きてる間は無理だろうなぁ。
http://jin115.com/archives/52154714.html
これのことか。
少し余談だけど、よくアクリルはデジタルに近いとか嘘八百が書かれることがあるけど、全くそんなことないからね。
ぼかしの自由さからすると実は水彩のほうがデジタルの塗り感覚に近い。
そしてその水彩もデジタルのSAIとは違うし、そもそもSAIもPainterのリアル水彩とは塗り感覚が違う。
ただ塗ってる感覚の近さは水彩ってだけで。
仕上がりの差異を吸収できない人は厳しいんだろうね。
特に江川さんの場合多分水彩の濃淡だけで仕上げる感覚が強すぎて、一番その感覚に近いエアブラシを使っちゃってる。
問題はそれだけじゃない。
今までペンでやってたところを塗りでカバーしなきゃならないんだけど、
今放送中の『天晴爛漫!』の原案、アントンシク先生なんかはカラーが出てきてもペン画と信じられないくらいうまく融合している。
カラーイラストの中でペン画が浮かないっていうのはベタと線の太さのチョイスが適切だってこと。
ここまで書いたら分かると思うけど、いわゆる白黒+トーンの技術とイラスト技術はある程度別もんだよ。
話が少し飛んだけど、対応力と研究熱心さが失われた結果だろうね。
それも省略の仕方を勉強しないとただ単に味気ない絵になるけど。
そういうわけで、1975年生まれの俺を「構成した」ゲーム10本を時代順に紹介していく。
それはとりもなおさず、俺自身を紹介することとほぼ同義になるはずだから、長たらしい自己紹介とか前口上はなしで……では、参る。
俺にとっては、ヴィデオゲームの魔法は全て本作に詰まっていると言っても過言ではない。
結局のところ、俺の人生におけるヴィデオゲームは『パックランド』に始まり、『パックランド』に終わるだろう。
今作に出会ったのは俺が8歳の時、駅前にできた『カニヤ』というゲーセンだった。
『カニヤ』は薄暗く、当世風に言うところの「ツッパリ」と「オタク」(という言葉が生まれる前のオタク風大学生たち)でひしめきあい、
当時の彼奴らは『忍者くん』や『ソンソン』や脱衣マージャンに興じていた。
忍び込むようにして入ったこのゲーセンで、俺はこのゲームにひと目で惚れた。
『パックランド』には俺がそれまで見てきたゲームとは全く違った吸引力があった。
キャラクター、BGM、色彩……全てにおいて、ゲームにこれほど「魅せられた」ゲームは生まれて初めてだった。
消火栓を押した時の、水しぶきに押された時の、モンスターの頭上に乗っかた時の、妖精にもらったブーツで空を飛べた時の感動。
それは俺がヴィデオゲームと「契りを交した」瞬間だった。その契約は今なお解消されていない。
もし本作をプレイしてなかったら、初代ドラクエを発売日に購入することもなかっただろうし、
「ADV」というジャンルに注意を払うこともなかっただろうし、
中学生になってから推理小説にどっぷり浸かることもたぶんなかった。つまり、俺は俺でなかった。
推理小説よりもゲームブックよりも面白い「推理もの」をゲームで作り上げてみせたことに大きな意味と意義があった。
シナリオ・堀井雄二/制作・チュンソフト。ゲーム史的に考えても偉大すぎるだろ。
本作がなければドラクエも(おそらく)存在しなかったってことだ。
けどまあ、そんなこともどうでもいい。これまでもこれからも、ポートピアは俺の血であり肉である。
子供ながらに、「堀井雄二で、チュンソフトで、エニックスなら絶対面白いに決まってるや!」みたいなノリで近所のおもちゃ屋に予約した。
初プレイ時は……のっけから震えた。こんなに面白いゲームがあって良いのかと。ゲームにはこんなことができるのか、と。
作者と開発元が同じだけあって、テキスト文体とUIがポートピアと一緒だな……などと子供らしくないことも思ったっけ。
そういえば、ここに挙げたゲームは殆ど全て泣いたな。今となってはゲームで感動して泣くことなんてそうはないけど。
それが年齢によるものだったのか、ここに挙げたゲームの凄さによるものだったのかは知らん。
ある種のゲームが「想像力」を膨らませる最良の媒介であるっていうことはウィズが教えてくれた。
「RPG」というジャンル/概念を意識したことも、ドラクエよりウィズの影響が大きい(というか、ウィズがなければドラクエもおそらくないのだが)。
「?ぶき」を鑑定して、「むらまさ」だった時を上回る驚きと喜びって、もう体験できないんじゃないか?
もろ鳥山明なドラクエとは違って、おどろおどろしくリアルな姿/形状のモンスター(末弥純デザイン)たちに慄いた。
寺院に駆け込んでも、死者が蘇生するとは限らない——人も物も永久に失われてしまうというリアリティに泣いた。
ウィズは俺に「隣り合わせの灰と青春」を理屈ではなく、ゲーム体験として叩きこんでくれた。
おおっと、故羽田健太郎氏の作ったBGMの素晴らしさについても触れないわけにはいかない。
あらゆるクラシック音楽から「いいとこどり」の手法で極上の音楽を作り上げるすぎやまこういち氏に対して、
バッハ以前のバロック音楽へのストイックな愛がびしびし伝わってくる荘厳な旋律は羽田氏ならでは。
タイトル画面、カント寺院、キャンプBGMは永遠ものだろう。もし未聴ならyoutubeで聴いてほしい。
当時、プレステ派とサターン派でゲーオタ勢は真っぷたつに割れたが、俺は迷わずサターンを選んだ。本作をプレイするためだ。
当時は震えるほど高価だった(44800円)不格好きわまりない鼠色のハードをファミマでバイトして購入した。
膨らみ過ぎて破裂しそうになっていた、こちらの勝手な期待ははたして外れなかった。ポートピア以降のADV観はこの1本で刷新された。
トラベルの中でトリップし続けているような、唯一無二のゲーム。それが『MYST』。
インターネットなき時代に本作を自力でクリアできた時の感動は筆舌に尽くしがたい(泣いた)。
ゲーム史的に言っても、その後の国内外RPGやウォーキングシミュレーターというジャンルへの如実な影響が……や、ゲーム史云々の話はよそう。
ここに挙げたどのゲームも、俺にとっては「自分を作ったゲーム」であり、それ以上でもそれ以下でもないからな。
つい最近まで「自分はローグライクなゲームが好きなのだ」と思いこみ、それっぽいゲームには積極的に手を出し続けてきた。
当時、俺は浪人生だったが、心は勉強にも恋愛にも向かわず、文字通り、寝ても覚めても今作とともに過ごした。
タクティクスオウガもドラクエⅥもテイルズオブファンタジアも素晴らしいゲームだったけど、
朝晩取り憑かれたようにプレイしていた今作のせいで、この時期に出たゲームは自分の中で必要以上に印象が薄くなってしまっている。
後期SFCらしい完璧なドット絵も、和風すぎやまこういち傑作BGMも、チュンらしい快適操作とUIも、寡黙なシレンも小生意気なコッパも、
ガイバラもペケジも※アスカも、どのモンスターより恐ろしい店主も、全てが愛おしかった。
手持ちのROMカセットは内部電池が切れてしまってたから、数年前、Amazonで新品を再購入。
「フェイの最終問題」をどうにかこうにかクリアし、地球の裏側に再び出でた。
中年になった今でも、俺の腕と勘は(少なくとも初代シレンにおいては)まだ衰えていないようだな……。※訂正 アスカ→お竜
「昨年ついにSwitchで配信されたし、もうすぐパッケ版も出るから、絶対やっとけ!!!」
それで終わらせてしまいたいところだが、どうも気が済まない。
数多の熱狂的ファンや批評家たちによってすっかり語り尽くされている感のある今作。
俺にとっては、世界の見え方をがらりと変えてしまった哲学書のような作品である。
あるいはクラブカルチャー、サブカル、世紀末感……90年代後半、自分にとって全てだった世界をそのまま封じ込めたCD-ROM。
本作はゲームでありながら、「ゲームを超えた何か」という感じがしてならない。
人生をすっかり変えてしまうかもしれない、それまで夢中になってきた「ゲーム」をやめさせてしまいかねない、超危険物。
もはやゲームから素直に感動を得られなくなっていた、すれっからしの俺をもう一度「ゲーム」に住まわせてくれた、まったき「ゲーム自体」。
世代的にゼルダはディスクシステム時代からやってるが、正直、ドラクエと比べるとゼルダにそこまでの思い入れはない。
『神々のトライフォース』も『風のタクト』も確かにめっちゃ良くできてると思ったが、「自分を作った」とは言い難い。
正直、世界中で大絶賛されたBotWもそこまでとは思えなかった。
あれがオープンワールドの傑作なら、俺はこれからもクローズドワールドで結構。
なぜか? 「広がる世界」を生まれて初めて感じたゲームだから。
BotWと比べれば全くオープンワールドではないのだろうが、俺にとっては本作のハイラルこそ、生まれて初めて感じたゲーム内に広がる「世界」だった。
エポナを手に入れ、高原を走り回っている時以上に「世界」を感じたことは、今のところ、まだない。
夕暮れ時、ロンロン牧場でマロンちゃんとオカリナ演奏しながら過ごした時間よりも麗しい青春を感じたことは、今のところ、まだない。
『moon』ディレクターである西健一氏が数少ないスタッフと生み出した傑作。
『moon』が作り出したうずたかい第四の壁をよじ登り、ついに超えてみせた作品は今なお本作のみと感じる。
エンディングではいい歳して号泣した(物心ついてから号泣した最後のゲーム)。
坂本教授がBGMを作ったにもかかわらず、本作はろくすっぽ売れてない。
内容も恐ろしいほど過小評価されているように思う。
(ドリキャスという幸薄いハードで発売したことと、高めの難易度設定に拠るところが大きいだろう)
おまけにリメイクもアーカイブもないから、『moon』と違って「やってくれ」と気軽に言うこともできない。
だけどもし、ここまで読んでくれて、「こいつとはゲームの趣味近そうだな」と感じてくれたなら、どうか本作をプレイしてみてほしい。
とくに『moon』に強く打たれたゲーマー諸氏! 本作は『moon』の唯一の精神的続編と思ってほしい。やれば、わかる。
しつこく。再発売(配信)をせつに、せつに、せつに、望む。
本作発売時、75年生まれの俺はとっくに「中年」と呼ばれる年齢にたっしていた。
本作はそんな「まさか」という頃にやってきた、俺のラスト・オブ・アオハルだった。
それまでスタンドアローンでしかゲームしなかった俺に、本作はオンライン/共闘でしか味わえないゲームの楽しさと厳しさを骨の髄まで叩き込んだ。
その体験は視界を塗り替え、時間感覚を刷新し、現実を異化した。
これほど夢中になってプレイしたオンラインゲームは本作と『ARMS』しか思い当たらない(やっぱ俺は任天堂シンパなのだな……)。
『PUBG』も『Overwatch』も『Fortnite』も面白かったけど、初代スプラから受け取ったJOYには届かない。
汗を流しながらでかいゲームパッドを握りしめていたあの2年間を死ぬまで忘れることはできないはずだ。
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俺を作ったゲーム10本は以上です。暑苦しい長文を最後まで(途中まででも)読んでくれて心から感謝。
何年生まれか知らんが、そちらの「俺を作ったゲーム」もぜひ教えてほしい。何本でもいい。マジ知りたいから頼む。
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【追記】
ブコメ全部読みました。
こういう「○本」みたいな括りって、そこからこぼれ落ちた大事なゲームの思い出とか括りでは語れない気持ちを排除するみたいで、
あんま良くなかったか……って書いた後はちょっと落ちこんだけど、
とあるクリッカーゲームが、デザインセンスがとてもよく、ストーリーも刺さったので、
作者にも興味がわいた
ゲームアプリ内にblogリンクが貼ってあったので押して見たところ、後悔した
デザインとストーリーは刺さったが、クリッカーゲーム自体は嫌いなので、はよ終わらせるためにサクサク課金もしたので、本当にだいぶ後悔した
アーティストから繰り出されるトンデモ発言を ”アクロバティック善意解釈” もしくは ”わたしは何も見なかったし何も聞かなかった” を自動発動出来る状態になっていない限り、
なお、ワイが ”アクロバティック善意解釈” もしくは ”わたしは何も見なかったし何も聞かなかった” を自動発動する状態になっているアーティストは、『江川達也 氏』 と 『鳥山明 氏』
氏らがどんなトンデモ発言しようが、超画力の面影のない作品を公開しようが、ノーダメである
凡人には理解することは出来ない、深い作品哲学から生み出された結果だと認識する予定だし、
あっ、これは流石に擁護無理ですわ・・・というケースに関しては、
これからも、”わたしは何も見なかったし何も聞かなかった” にする予定である
氏らのマンガで楽しんだ事実は無かったことにはならないし、その思い出も傷つくことはない
ワイにとって氏らはチャイコフスキーの枠
イケてるクリッカーゲームの作者のblogの内容さー、あのさー、
子どもに対して八つ当たりしたり、怒鳴ったり、手が出たり っていうのはさー
絶対にしちゃいけないことだと思うんだよなぁ
子育ては綺麗事じゃないとか育てたことないとわからないとかそういう問題じゃねぇんだわ
日本のネットジャンキーな親ってマジで児童福祉に両親を殺されでもしたの?
子どもは産まれたくて産まれたんじゃなくて、お前らが作りたくて作った存在だぞ?
その認識があったら正しくあろうとするのがあるべき姿だと思うんだが、
なんで反省するどころか『親って大変なんですー』って開き直ってそのお気持ちをネット公開してんの?
ネットでは子どもたちの『死にたくは無いけど、生きていたくはない』って言葉で溢れている
logic が歌った自殺防止キャンペーンの『1-800-273-8255』(https://youtu.be/Kb24RrHIbFk)なんか、3.8億回再生されているし、
ボカロの楽曲の『命に嫌われている』も様々なアーティストがカバーして累計で億回再生されてる (オススメは、コバソロhttps://youtu.be/FR91CB5SBWU と UMIくん https://youtu.be/h6o3OQsE_0g)
日本語詞の曲でタイアップでもないフツーのボカロ曲なのに世界中からコメントがついている
アジア圏コメントはいつも通りだけど、あっこれたぶんクリスチャンだろうなってコメントもチラホラ
共通点は、『みんな命は大事だっていうけど、俺の命は?みんな興味ないじゃん』、『死にたいんじゃなくて、生きていたくないだけだよ』って言う、
無関心と逃げ場・居場所がないことからの閉塞感・追い詰められ感なんだよなぁ
でも、児童福祉に両親を殺されたネットジャンキーな日本の親たちは、
『親も人間なんです!身勝手なことをしても責めないでください!子育ては大変なんです!』
もしくは、
望んで作ったはずの子どものあれこれから『どうしたら逃れられるか』について
それ、本当にどうしてもネットに垂れ流して、誰でも見れる状態にしておかないとダメですか?
日本のネット上でよく観察される、自分以外の他者に対しては自身の子どもを含めて無関心をテーマにしたロシア映画があるのでよかったら見てみるといいと思うよ
『ラブレス /Нелюбовь』ね (予告:https://youtu.be/WFypW0PJy-A)
両親はこうあるべき/あろうと努めるべきな姿が描かれている、
『家族を想うとき』(https://longride.jp/kazoku/)が2020年6月17日にDVD&Blu-rayリリースされるよ!
「わたしはダニエル・ブレイク」のケンローチが監督なので、お上品でユーモアがあって、メインテーマと違うところが気になる映画だけど良い映画だった
どうせ、はてなーはミニシアター系の映画は見ないだろうから後でネタバレを書くよ
以前、北欧の選民意識ヤベェな『 ボーダー』のネタバレと感想書いたけど、
観に行く言いつつ、観にいっとらんやろ?
書くやであとで
リメイクで盛り上がってるから、今まで気になりつつもプレイせずスルーしてきたFF7をiphoneにダウンロードしたよ。
1作目はかの名作クロノ・トリガー。バトルの時にカーソル合わせるのがちょっと難しかったけど、長押ししてからスライドすればうまくできることに気づいて、ストレスなくエンディングまで突っ走れたんだ。
クロノをプレイするのは小学生のとき以来だったけど、めちゃくちゃ面白かったよ。
ゲームの余韻もあって、鳥山明の画集がめちゃくちゃ欲しくなったんだけど、クロノ・トリガーの絵がまとまってる画集ってあるのかな?
知ってるひとがいたら教えてください。
それで本題はこちらなんだけど、クロノがめっちゃ操作しやすかったから、おんなじスクエニが作ってるんだしFF7もまあ大丈夫だよねって思ってダウンロードしたんだ。
なんで? なんでなんで?
色々ぐぐってみたんだけど、セーブデータはファイル10のスロット15に保存されるって公式サイトにも書いてあるんだ。でも全然保存されてないんだよ。
アプリをバックグラウンドに入れてSafariとか開くとすぐ落ちるし。
クロノ・トリガーはアプリがおちても「ちゅうだん」扱いになって、ダンジョンの入り口とか、きりがいいところからまた始められるからすごくよかったのに、FF7はなんでこんな仕様なの?
家庭の事情でサターン派だったから、発売当時はFF7になかなか手が出せなくってごめんね。FF6が大好きでした。
セガサターン派はプレステ派にいつも馬鹿にされてたけど、カプコンの格闘ゲームがめっちゃやれたし、グランディアと魔法騎士レイアースとか街みたいな傑作もあったし、エネミーゼロとかリアルサウンド風のリグレットとかへんなゲームもいっぱいあって楽しかったよ。ときめもで詩織ちゃんも落とせたし。後悔してないよ。
確かにあちこちの台詞回しにナウシカっぽさが感じられるし、改心後のリルルの言動は明らかにナウシカをモデルにしていると感じられる。修理中のリルルとしずかちゃんのやり取りは、クシャナと風の谷のじいや達のやり取りを彷彿とさせるようでもある。
竜の騎士はキャラデザインや背景、BGMなどにナウシカっぽさが見えたが、鉄人兵団は心理描写にその影響が強く出ているなと思った。
トラバにもあるけど、私も竜の騎士、鉄人兵団、宇宙小戦争の三作がドラえもん劇場版の中で別格に好きです。
ストーリー展開にはアラやご都合主義もそりゃあるけど(ロボット達が鏡面世界に気づくの遅すぎだろ、とか、タイムマシンはさすがに禁じ手だろ、とか)子どもの心をあんなに惹きつける作品はやっぱりなかなかない。
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アマプラを物色していてふと目に入った「ドラえもん のび太と竜の騎士」、そういやこれ子どもの頃大好きで何度もビデオ見てたなーと思い出して30年ぶりぐらいに見てみたら、ものすごく「風の谷のナウシカ」でびっくりした。
検索してみたら、監督の芝山努氏と宮崎駿氏は東映の同期入社組なんですね。
さらに芝山氏は高畑勲氏と一緒に仕事をしたこともあるようで、それでなんとなく腑に落ちるところはあるのだけども。
にしても似方がすごい。
鎧と兜は土鬼(アニメではトルメキアの下級兵)、胸の紋章はペジテ。
乗用の小型竜はトリウマ。
地下世界の郊外には、ちょうど風の谷の郊外にもあるカッパドキアのような砂漠の光景が繰り返し描かれる。
ドラえもんの地下世界は高度に科学文明が発達した社会で、街並みは近世ヨーロッパに20世紀当時のSFっぽさを付け加えたような雰囲気だ。そこにトルコ的な何かは見えない。
未開の部族が住む秘境も点在しているが、それもアフリカや中南米の原住民文化がベースになって描かれているものだ。
すなわち、わざわざカッパドキア的モチーフをあんなに時間をかけて画面に出す必然性は何もない。にもかかわらず何度も出てくる。
ドラえもん一行が、地上人に脅威を知らせるべく竜の騎士の家からひそかにタケコプターで逃亡するときの情景は、BGMも含めてまるきりオマージュ。ナウシカが風の谷の住民達に脅威を知らせるためペジテのブリックからメーヴェで飛び立ったシーンのオマージュだ。これをオマージュと言わずして何を言うかというぐらい、立派なオマージュだ。
地上人を守りたいドラえもん一行と、地上の覇権を取り戻したい竜人達は最終的に全面戦争を始めることになる。
ここにも一瞬オマージュがある。
風雲ドラえもん城に竜人達が攻城櫓を運ぶシーンが、酸の海でクシャナがあの娘の帰りを待たないで進軍を始めたときと同じだ。これも状況がそっくり。BGMも。
そしてそこにクライマックスとなる天災(風の谷のナウシカのほうは人間が引き起こした天災なので本当は人災なのだけど)が訪れ、両軍ともに戦争どころではなくなる。
キャラデザインや風景、BGMのみならずストーン展開のこの重なりよう。
意図しないとここまでの重なり方はしないと思う。
ただ最後、ドラえもんは人類の科学技術の粋であるところのひみつ道具をバンバン使って本来なら絶滅していたはずの恐竜を安住の地へと導き、竜人達の始祖の神となってしまう。自然を破壊してるわけではないにしても自然の摂理に強く介入する行為であることに間違いはなく、人類が自然の営みを支配しコントロールすることの是非という点ではナウシカではなくクシャナ寄りの価値観と行動だ。ここがナウシカとは決定的に違うとこで、まあそこはドラえもんが『ドラえもん』というアニメ作品の主人公としての役割をきちんと果たしているということで、どちらが正解でどちらが間違いという話ではない。
この相似、たぶんいろんな人が言ってることだと思ったんだけど、ちょっとググった程度では見つけられなかった。
芝山氏は何を思ってこんな作風にしたのだろう。この作品だけでなく当時のアニメはみんなナウシカの二番煎じみたいな作風だったのだろうか(そんなこともなかったと思うのだけど)。
それが知りたいな、と思った。
そういや鳥山明氏も宮崎駿氏に影響を受けたって聞くよね。ドラクエ2の三人にはナウシカのデザインが色濃く反映されているという話は有名だと思う。
https://anond.hatelabo.jp/oytc/20200108の補足その4
電ファミが褒めたたえているように、確かに鳥嶋和彦のジャンプとVジャンプでのゲーム記事とタイアップ戦略は大きな実績を上げている。
しかし、そもそもなぜ漫画雑誌の編集者にそれが可能だったかについての考察が甘い。
ゲーム好きだったから、ジャンプの部数が上り調子の時期だったから(この点は鳥嶋は認めないだろうが)だけでは説明がつかない。
当時の鳥嶋さんの担当は鳥山明先生と桂正和先生で、おふたりともスケジュールがきっちりしたマンガ家さんだったんです。もちろん、鳥嶋さんがそのように指導したのでしょうが。だから、鳥嶋さんはもともとゲーム好きだったうえに、少し余力があったんだと思います。普通なら、マンガ家さんの仕事場で泊まり込みで原稿を待って、出来上がったものを大急ぎてネームの写植を頼んで印刷に入れて、というスケジュールだから余力はないはずなんです。
そういうページを企画することに対しては、編集長は何も言いませんよ。マンガのほうをしっかりやっているのなら、あとは何をやってもいいという感じでした。
(https://mediag.bunka.go.jp/article/article-14970/)
しかし、鳥山と桂がスケジュールを守っていたのは、先ほども述べた過酷エピソードの上に成り立っている。
鳥山桂の犠牲あってこその鳥嶋の時間的余裕でありゲーム記事だったのである。
ちなみに、電ファミはゲームメディアなら絶対に質問するであろう、Vジャンプ創刊時の目玉企画「空想科学世界ガリバーボーイ」と、かなり大々的に取り上げていた広井王子について、今までまったく触れておらず、鳥嶋も今のところ一言も言及がない。
これはどういうことなのか気になるところだ。
触れられたくない失敗企画とでも考えているのだろうか?
https://anond.hatelabo.jp/oytc/20200108の補足その1
この座談会でも語られているが、鳥嶋はとにかく作家の休載に厳しい。
確かに慢性的に休載されると読者としても雑誌が「欠陥商品」に感じられることがある。
しかし、では休載させないために何をしているのかというと、作家へのケアとフォローではなく圧迫だったりする。
鳥山明と桂正和が鳥嶋担当時代を振り返ったインタビューや対談を読むと、このようなエピソードがある。
以後、これほどのことは無かったが似たような状態は何度も経験している。
インタビューで「振り返り「倒れればよかった……(笑)」とまで語っている(『ランドマーク』)。
休みを申し出ると鳥嶋は「ふざけんな。連載漫画家が休むというのは筆を折るというのいっしょなんだからな。お前辞めんのか。辞めたくねぇだろ。点滴でも打ってこい!」と激怒してそのまま仕事をさせ、千葉から東京まで打ち合わせに来させていた。
点滴を打って上京する桂に対しては「大丈夫だ、気合だ気合い!」と対応。
連載表彰式も休ませずに出席させ、そのとき桂は顔色が悪すぎて「蝋人形みたいだぞ」と周囲から指摘される。
千葉に帰った桂は医師からの電話で病院に行き即入院、肺炎と診断される。
入院して2日後、病院に来た鳥嶋に「お前さぁ、自己管理がなってない」と怒られる。
(サンドウィッチマンの週刊ラジオジャンプでの桂正和の発言より)
この件など、人道的な問題もさることながら、初期に体力を回復させておくのに比べ、結果として休載が長くなり、ダメージが大きくなったしまっているのだから、打算的にいっても大ミスである
この辺り、鳥嶋の「そもそも編集の仕事がなにかといえば、カッコいい言い方をすると「愛するが故に厳しく」なんですよ」という発言が言葉だけということがわかる。
あと、論理的なイメージがあるが、純粋に根性論の人であることがわかる。
このようなエピソードからわかるように、鳥嶋のメソッドが成果を上げたのは、鳥山桂が筆の速さに加え、超人的体力の持ち主だったという比重が非常に大きい。
鳥嶋桂はたまたま生き残っただけあって、途中リタイアしていてもおかしくないエピソードがいくつもあるのだ。