はてなキーワード: 高度成長期とは
低スペ人間として言わせてもらいたいのは、いいかげん男女を問わず、低スペ人間が存在するという現実に目を向けて欲しいってこと。
親や親類や旧友が「いいかげん結婚したら?」みたいなことを言ってくるけど、正直、自分の日常は結婚をイメージできるような環境にはない。
そうしたことを言うと、必ず「努力しないから」とか「逃げてる」「自己卑下」みたいありがたいアドバイスをくれるんだけど、
俺は自信を持って日常生活の中で「逃げ」や「怠惰」な部分はないと断言できる。
ただ、物心ついた頃から「人並みのことが人並みにできない」という自覚はあった。
今で言えば発達障害なり何なりと診断されるんだろうけど、そんな診断をされたところで役に立たないから、
それでも人並み以下の結果しかでない。そんな毎日を生き続けている。
ついでに経済的に恵まれていない家庭に育ったから、人並みの消費文化を楽しんだこともない。
海外への家族旅行どころか、修学旅行以外に旅行に行ったこともないし、
ファストフード店以外の外食もほとんど経験ない。そういうことも多少のコンプレックスではある。
金がない生活が骨身に染みると、趣味や遊びに金をかけるってことが感覚として理解できないんだ。
(ネットは無料で楽しめるものがあるから、ネット使えるようになってからはたいぶ生活のクオリティは上がったけど)
今だってちょっと気を抜けば落伍者になりかねないという不安と戦っている。
生まれついての低スペ人間というのは、アクセル全開でも法定速度以下しかでない自動車みたいなもんなんだ。
かといって、ハードな知的障害者と違って国や周囲のサポートもない。
とにかく必死で食らいついていく。そういう生き方しか残されていないんだ。
それにも関わらず、周囲は呑気に「結婚したら?」「結婚しないと人並み以下」とプレッシャーをかけてくる。
特に一番言われて辛いセリフは、「もしかしてゲイ?」とか「その歳で童貞とか死にたくならない?」みたいなからかいだ。
ただでさえ、他人とコミュニケーションしたり、着実に段取りを踏んだり、凡ミスを防ぐのが難しい脳みそで、
一般人ならすぐに慣れるような仕事でも、毎日怒られながらこなしていくしかできないのに、
これ以上のものまで求められなければならないのか。そうしないと人生の落伍者のように扱われるのか。
そもそも、人間関係そのものから喜びを得られない体質なんだぞ。自閉ってのはそういう意味だ。
確かに高度成長期の時代は、俺くらいのアホでも周囲がお膳立てをして見合い結婚できたかもしれない。
だけど、人並みのコミュ力を前提とした恋愛を経なければ結婚できない現代において、
俺みたいなポンコツが結婚(して更にその生活を維持)することは、ほとんど夢物語に近い感覚だ。
たぶんDV人間とか、ストーカーみたいのは、俺みたいなポンコツが分不相応に人を好きになった結果なんだろう。
(俺は特に小中学生のころ、怒りをコントロールできず軽い傷害事件を繰り返してきた経歴もある。今は落ち着いたが)
別に世の中に恨み事を言ってるわけじゃない。「軽度障害者の俺も結婚する権利がある!」とか思ってるわけじゃない。
全くその逆だ。俺にはできないし、すべきじゃないことがわかってる。わかってるからこそ、「ほうっておいて」ほしい。
確かに表面上、俺は特別逸脱した人間には見えないかもしれない。
けど、それは全力で生きてきた結果として、ようやく人並みっぽく見えているというだけで、
一般人とは違ってそれ以上の余力がない。
(人並みといっても、東京住みのエリートでもないので、地方で実家暮らしの年収300万未満だし)
「努力してきてそんな低スペなの?」って煽られるかもしれないけど、その通りだ。それが低スペの低スペたる証拠だ。
こんな内容が散らかった下らない文章を書くにも、何時間もかけてないと形にならない。
一般人なら、こんな愚痴みたいな文章なら30分くらい書けるんだろうな。
努力もせずに愚痴っているならダメ出ししてやるのも一つの優しさだろう。
でも、一生懸命に生きている人間を更に追い詰めて何が楽しいのか。
世の中には低スペの人間が存在するんだ。助けれくれとは言わないから、せめてほうっておいてくれ。
少子化を加速させるという意味では迷惑をかけているかもしれないけど、それ以外では全く世の中に迷惑かけていない。
子育て政策のために独身税を取られるというなら、喜んで金は払う。
だから、俺たち低スペ人間にけしかけたり、からかったりするのはやめて、ほうっておいてほしい。
普通の人なら気にかけてもらえることが嬉しいのかもしれないけど、低スペ人間はむしろスルーされる方が清々しいんだ。
いろいろ矛盾してるかもしれないけど、これ以上うまく伝えられない。終わり。
30社以上は見てきてるなぁ。
ほぼ9割がイラスト、設計、オフィス等の業務ソフトの違法コピーを利用している。
最近では、ソフトウェアの会社もライセンス対策に機能を追加してしにくくなってきているとは
いえ、減少しているのは氷山の一角。今の手口は、最小ライセンスを購入し足らずは、ヤフオクやネットで
そういう企業に限って、中小企業で、セキュリティで訪問するだけでも、名前を欠かされたり、情報漏えい云々で
しかしこれをBSA http://bsa.or.jp/about-bsa/ http://www2.accsjp.or.jp/piracy/
などのソフトウェアメーカーと弁護士団体が上記のような団体をつくって活動しているが、
通報しても、報酬なんて全くない。(通報者報奨金平均25万円もらっています。インターネット追跡広告等など)
https://bsa.or.jp/news-and-events/news/bsa20150216/
これで、もう15社は通報したが、1円ももらっていない。しかも通報報奨金は遡ってサービス??を終わらせている。
弁護士と通報をうけた企業との話し合いもどうなっているか通報者に報告義務はない。(一方的)
結局、弁護士の懐に入っているだけで通報者には何のメリットもない。
僕のつれが、今の日本はもうだめだと言っていた意味が漸くわかった。(遅いかな。)
日本は内側にかなり甘くて(肩書がある人が優先で仕事をつくっているだけ)
本当に仕事ができる人にどんどん仕事を回す、チャンスを与えるという仕組みはできない国。
いえば、表面は資本主義だが、内面は陰険な共産主義で仕事のできないやつらが裏でつながってる。
企業や大きい団体の意見を重要視している風潮は昔から変わっていない。
日本に向けてFacebookやTwitterやInstagram,Lineを使って配信してても全然おもろくない。
しかしソフトウェアの業界はうざい、弁護士もうざいし、裁判所もうざい。
日本ブランドっていいのある?? 最近はやっすい家具、服・・・他の外国人(中華は無視して)に評判
めちゃ悪い。今の日本の経営者がバカすぎる。高度成長期の苦労した経営者の面汚しばっか。
政治もね。
退職から一年が経過し、新しい職場(WEBベンチャー企業)での仕事に慣れたこと、
また、富士通の同期入社の友人から頻繁に転職の相談を受けるようになったこともあり、本エントリを執筆する。
はじめに、筆者の退職理由を簡単に述べると、富士通という会社に未来を感じなかったことと、やりたい仕事はできないだろうと判断したためである。
参考までに、筆者は公共機関向けのシステム開発部門に所属していた。
担当していた業務は様々で、小規模なシステム開発や、子会社・下請企業の管理であった。
富士通には、人材キャリアフレームワークという社員評価制度があり、現場には、入社何年目はこのレベルの仕事、といった暗黙の了解がある。
本人の能力や意欲とは全く無関係に、入社後の経過年数で、仕事の裁量の幅が大きく制限される。
このことはいわば、学習指導要領ならぬ、業務指導要領があるようなものだ。
このような枠組みや暗黙の了解が存在すること自体が問題なのではなく、その枠組から逸脱した人材を想定しない・評価しないことが問題なのである。
筆者がお世話になった優秀な先輩方は、この業務指導要領の要件を満たして手に余った人、
いわば天井にぶつかった人から先に、より大きな仕事がしたいという理由で辞めていった。
筆者もその一人である。
既存産業の大きな成長が望めなく、社員個々の多様性が重要視される昨今の経済情勢において、
高度成長期における横並び思想をもとの作られたやり方が未だに社内を謳歌しているのは時代錯誤というほかない。
富士通への提言として、これからの時代は、年齢も在籍年数も関係ない人材評価制度を作っていくべきである。
そして重要なのは、会社の既存事業でいかに利益を上げたかについての評価ウェイトを下げ、
いかに新しい発想で新しい事業を提案したか・実現したかという評価項目を設立するべきである。
なお、富士通には社内ベンチャー制度があるが、これはうまくいかない可能性が高い。
なぜなら、社内ベンチャーを承認するのは旧式の人材の典型例である高齢な経営層であるからだ。
いままで数十の社内ベンチャーの審査結果を見てきたが、彼ら経営層に事業の将来性を判断する能力はないと痛感した。
また、他の理由としては、富士通の既存事業と衝突すると社内ベンチャーが潰されるということがある。
将来性のない既存事業を残して、将来を託すべき社内ベンチャーを潰すという企業風土なのだ。
富士通という会社には多数の既得権益集団がいる。そして、社内のルールは彼らが決して不利にならないように作られている。
なぜなら、ルールを作る権限は、先頭を走る集団、1980年代に大成功を収めた既得権益層がガッチリ握っているからだ。
いわば、前を走る人を抜かしてはいけないレースのようなものだ。
このような出来レースで若手社員のモチベーションが続くはずはないことは明らかだ。
筆者は、決して年功序列主義を批判したいのではない。
既得権益層が年功序列を悪用して、部下の手柄を自分の手柄にし、部下の失敗を部下に押し付けている実態に対する批判である。
ノブレスオブリージュ、権利を有するものには義務がある、という思想がある。
富士通の既得権益集団には会社の技術力や社員を率先することで、企業としての地位を向上させていく義務がある。
実態は、社内の後進に抜かされることを恐れるあまり、後進の他社に抜かされている。
ちなみに、この既得権益集団に有利なルールが生み出した現状については、
同じく富士通OBである城繁幸氏の著書「若者はなぜ3年で辞めるのか?」(光文社新書)が詳しい。
経営学において「ヴィジョナリーカンパニー」という名著がある。
この本によると、会社が永続的に成長・発展していくためには企業理念(ビジョン)を社員ひとりひとりが持つことが必要不可欠であると指摘している。
富士通の企業理念は、変革に挑戦し続ける姿勢や、よりよいICT社会づくりに貢献することを掲げている。
しかし、富士通という会社の現状として、このヴィジョンを失っている社員、とくに管理職がとても多い。
30代を過ぎて会社に定住することを決めた社員に変革に挑戦しようという熱意ある人物はひとりもいなかった、
そういう人々にとってICTで社会づくりなどどうでもいいのだ。
ただ顧客の要求を聞いて、それを子会社や下請けに作らせて予算や利益を達成することにしか興味がない管理職が大半であった。
元GEのCEOであるジャック・ウェルチ氏は、たとえ成果を出していようと企業ビジョンを共有しないものはクビにしろと自著で語っている。
このポリシーを導入したら、富士通の管理職の80%はクビになるであろう。そのくらいに富士通の管理職は夢や熱意のない人物ばかりであった。
そのような人材が将来的に会社を破壊する、というウェルチ氏の指摘の正当性を、富士通という会社の惨状が示しているのは皮肉という他ない。
富士通への提言として、ウェルチ氏のやり方を実行すればよいのだ。
成果によって管理職のクビを決めるのではなく、ヴィジョンを共有できているかでクビを決めるのだ。
このやり方を実行すると既得権益を握って離さない経営層や管理職が一掃される。
既得権益にしがみつくだけの人物こそ、ヴィジョンを持たない人物である割合がとても多かったことを付け加えておく。
経営コンサルタントの大前研一氏は、日本の生産性がアメリカの半分しかなく、もはや発展途上国にすら負けていると指摘している。
その原因について、日本では業務標準化が全く進んでいないためであると述べている。
自分の住む自治体と異なる自治体のマイナンバーのITシステムを比較してみてほしい。
ここで、自治体が異なればITシステムも異なることに気づくはずである。
はたして自治体ごとに個別のマイナンバーシステムを作る必要があるのだろうか?
答えはもちろんノーである。全国どこでも一律の業務であるべきであり、同じITシステムを導入するべきである。
自治体ごとに業務フローが異なるために、別のITシステムを使用した時に業務がこなせないという事態が発生する。
そのため各自治体が個別にITシステムをITベンダーに発注することになる。
そこでITベンダーは各自治体ごとに個別のITシステムを作ることになる。
ITベンダー側からすると一度作ったことがあるものをカスタマイズして、業務の順番を入れ替えたり、扱うデータを多少変更するだけで済む。
それなのに膨大な金額を請求するわけだ、ITベンダーとしてはボロ儲けである。
(なお、主要ITベンダー決算書を見ていただくとわかるが、ITベンダーの利益率が高いわけではない)
特に自治体のITシステムは国民の税金で作られているわけである。
各自治体は、このような現状を放置していて、国民に申し訳ないと思わないのであろうか?
このことは、決してITベンダーにのみ責任があるわけではない。
総務省が陣頭指揮をとって各自治体の業務標準化・統一化を進めなくてはいけないのに、それが全くなされていないのは監督官庁としての責任放棄である。
このように業務標準化が全く進んでいない現状は自治体に限らず、民間企業においても同様である。
会計パッケージにおいて、世界のデファクトスタンダードになりつつあるSAP導入に失敗する事例を数多く見てきた。
失敗する理由は、個々の企業の業務に合わせてSAPをカスタマイズしており、そのカスタマイズでは対応できない業務フローが存在するからである。
問題なのは、そのような業務フローは、決して必然的な業務ではなく、過去の慣習から存在しているだけであることがとても多い。
ここにおいて、ITシステムが業務に合わせるのではなく、ITシステムに合わせて業務の方を変えていかなくてはいけないのだ。
このことは、サービス・流通業の顧客からSAPのカスタマイズで無理難題があがってくることが特に多いことと無関係ではないであろう。
富士通は、既存顧客の業務標準化およびデファクト・スタンダードとなるITシステムの開発の陣頭指揮をとる役割を果たすべきだが、その望みは期待できない。
なぜなら関係が深い企業において、業務が効率化すると大量の社内失業者を出すことになるからだ。
そのような"顧客との良い関係"を崩すようなことはやらない会社である。
日本という国のあるべき姿を長期的に考えた際に必然的なことであるにもかかわらずである。
富士通の企業理念である、よりよい社会づくりに貢献するとは、まさにこの業務標準化を推し進めることなのではないのか。
富士通には外国籍の社員が相当数在籍している。しかし、彼らに求められる日本人への"帰化圧力"がとても強い。
同期入社の中国籍の友人は、対外発表会のために完璧な日本語の発音の練習をさせられていた。
完璧な日本語の発音は日本人に任せるべきで、中国に精通しているというメリットを活かせる部署に配置転換するべきである。
なお、残った外国籍社員をみると、小学生から日本にいるなど、生まれたのが海外というだけのほぼ日本人だったりする。
外国籍社員の離職率が高いことに対して、本部長が提示した対策が、
長く働きたい会社とはどのような会社か、というテーマで外国籍社員を集めランチタイムにディスカッションさせるというものだった。
この席で「無能な人が本部長にならない会社で長く働きたい」という大喜利でもすればいいのだろうか。
富士通はグローバル企業を表明しているが、このような組織で海外進出などできるはずもない。
なぜならば富士通の利益構造では、海外において利益を上げられないからだ。
このカラクリの解説は大前研一氏が詳解されているので、参考にしていただきたい。※1
6.富士通の良いところ
ここまで富士通に対する批判と改善の提言を述べてきたが、富士通の良いところについても触れておきたい。
まず、個々の社員の仕事力や組織力といった点では、他の大企業と比較して遜色ない。ただし、富士通の主要グループ企業に限るが。
数十を超える大企業および中小企業と仕事をしたが、やはり大企業は個々の社員のレベルが高く、組織力も高い傾向にある。
顧客として他社と仕事を進めていくうえで、大企業の方が優秀な担当者に遭遇することが多く、仕事がとても進みやすかった。
この理由について、大企業の社員育成能力が高いことはもちろん、社内チェック体制が整っているからではないかと思う。
社内で質の悪いものは弾いており、社外に出さないようにしているのだろう。
また、富士通は顧客主義がきちんと徹底されている会社であると感じた。
筆者と富士通の顧客主義が異なっていた点はあるものの、顧客起点に立つという考え方は大事なことである。
柔らかい人が多く、職場の雰囲気はとても良かった。お世話になった直属の上司や先輩方は、優しく丁寧なご指導をいただいたことに感謝している。
7.おわりに
最後に、立花隆氏の著書「東大生はバカになったか」(文春文庫)から名文を引用したい。※2
「いま、この辞めたい気持ちを逃したら、この会社に骨を埋めて、あそこにいる連中と同じになってしまうと思った。」
結局、筆者の退職理由は、偉そうな顔をしているがロクなビジョンも打ち出せない富士通の上層部のような人間になりたくなかったからである。
富士通という会社に必要なのは、優秀な若手の育成などではなく、無用な老害の排除である。
筆者には、富士通という会社は、沈みゆく泥船にしか思えなかった。
※1「産業突然死」の時代の人生論、第44回 談合をなくす二つの妙案-"便利なゼネコン"はいじめの温床
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/46/
(この記事のゼネコンをITゼネコン(ITベンダー)に置き換えていただきたい。)
※2 引用にあたり、語尾を改めた。
補足1.城繁幸氏の著書「内側から見た富士通」(光文社)についてのコメント
この本は富士通が先んじて導入した成果主義が、名ばかりで社員のやる気を奪う結果に終わったという実態を告発した本である。
この本について、いくつか述べたい。
まず、本題である、成果主義が経営層のご都合で導入されて、社員のモチベーションを奪うという最悪の結果に終わったという指摘はまさにその通りである。
また、この本が出版されてから10年以上経つが、実態は改善されていないし、する気もないのだろう。
(そもそも経営者のご都合成果主義の導入を失敗だと気づく能力が欠如しているのかも知れない)
管理職の仕事は、部下の成果を評価することではなく、予算内におさまるように部下の評価を調整することであった。
なお、成果主義の導入を評価している現場社員は誰もいなかった。
(成果主義を批判する幹部社員はいなかった。おそらく批判すると何らかのペナルティがあるのではないかと邪推している。)
補足2.転職について
筆者の転職について、考慮したことをいくつか述べる。
まず、次の会社・仕事の選び方および交渉の進め方については、山崎元氏の著書「会社は二年で辞めていい」(幻冬舎新書)を大いに参考にした。
転職は考えていなくとも、今の時代を働く考え方、人材価値のセルフマネジメントなどは一読の価値がある。
富士通という大手を辞めたはいいが、次の会社で苦労している人が多いという意見についてコメントしたい。
筆者に言わせれば、それは転職のツメが甘いのだ。
現職のどこに不満を持っていて、そのうち、どこが改善の余地があり、妥協するべきであり、次の職で改善を期待するのか、についての思慮が浅い。
社会のルールをわかっていないで転職したとしか思えないケースもある。
そもそも富士通という会社に勤めているにもかかわらずITゼネコンの生態系を理解していない社員がとても多い。
下請け企業にいけばもっとやりがいのある仕事ができる、などという浅い考えで転職する人はいる。
ITゼネコンの下請けを生業とする会社の社長は、中間管理職と何一つ違いはない。
上の指示(元請けの発注)を受けて下に伝達するだけであって、自身で新しい事業を生み出す能力のない企業である。
新しい会社は、自社で新しい事業を生み出す能力があり、きちんと利益を上げている。
転職において改善したかったこと、専門的な業務ができること、自分のアイディアを事業に活かすことができること、それらがすべて達成できた。
痛い腹を探られた残念な杉並区議のニュースを読んで、へえそうか、おもしれえ、と思って出てきました。
ご存じの方も多いでしょうが、2000年代初頭に規制緩和されるまで、民間で保育園を新しく作れるのは社会福祉法人だけでした。
ちなみに特養は今でも国・行政・社会福祉法人しか作れませんね。その代わり別の枠を作って株式会社が大いに参入した結果、絶賛規制緩和&老人虐待問題などが起こっていますね。
社会福祉法人は、社会福祉法という法律によって定義されてるんですが、この法律、WWⅡ直後に出来たものです。法律の成立背景はぐぐるといくらでも出てきますが、
ごく簡単に言えば、本来であれば政府がやらなきゃいけない社会福祉が、WWⅡで国が極端に貧しくなってしまったために手が回らなかったので
民間の相互扶助でなんとか乗り切りましょう、というための法人です。補助金を入れやすくするし税金も減免してあげるよ、その代わり営利目的はダメよ、となっている。
ちょっと前に「昭和の高度成長期は、保育園の役割は子育て支援よりも生活支援だった」というtogetterなども上がっておりましたが、
保育園や特養は、言葉は悪いけど「貧者向けの救済施設」という位置づけだったんでしょう。美しい国日本()は、ずっと昔から、自助が前提の低福祉国家なんですね。
話は戻ります。
それで、誰がその社会福祉法人を作ったかといえば、地元の名士、と言われる人たちです。戦災孤児院、病院、福祉施設などには広い場所と金が要ります。
必然的に代々続く地主や名主の家系の人たちが手を挙げたんですね。江戸時代から続く名主・庄屋制度の名残は明治大正昭和にかけても当然残っていましたから、
彼らからすると「民百姓のための施しをして当然」という感覚もあったんだと思います。
ノブリス・オブリーシュですね、と言えばそれでほっこりした気持ちになれる、というわけではなく、同時進行で日本では農地解放や財閥解体などが行われています。
名主・地主や地域で成功した名士などは、これらの打撃を受けて、没落する者は没落し普通の人になり、「うまいことやった」人たちは、平成の今でも名士として生き残っているわけです。
その「うまいこと」が、ひとつには社会福祉法人を脱税に使うというテクニックです(真っ当に事業をなして生き残った方も当然いらっしゃいます)。
詳しいことは省きます。というか、昔のことなのでよく知らないんですが、社会福祉法人の他に、事業法人や持ち株会社などを設立して
あれやこれやで収益を還流させて一族が飯を食い、保育園や孤児院や病院を運営してきたわけです。
一つ大切なのは、少なくない社会福祉法人が、本当にノブリス・オブリーシュを旨としているということです。福祉施設は、基本的にはろくに儲かりません。
(話は変わりますが、福祉分野で規制緩和に乗って大きくなった株式会社が不祥事を起こしているのは、「本来、儲からないもの」だからです)
ただまぁ、残念ですが、社会貢献よりもお金が大事な人もいて、そういう人が、やってはいけない・決してバレてはならねえ資金還流をやっている場合があるようです。
私が上司から聞いた話では、昔はよくやってたことで、実はそれほど珍しいスキームでもなかったんだそうで。
名士の家に生まれても、ごく真っ当な思考回路のお子さんだってたくさんいます。
潤沢に教育を受けさせてもらい親のコネで良い会社に入ったりして、金周りの良い一般人と化している人も多い。
地元の区議会議員になるとか、自分の親がやってる保育園の理事になる、なんて手合いは、残りカスか、山っ気と名声欲にまみれた輩かのどちらかでしょう。
言い切っていいのかという感じもしますね。素晴らしい方もいらっしゃるとは思いますが、私が出会った「そういう方」は全員、名誉欲にまみれた残りカスでした。
田中杉並区議のことは存じ上げませんが、まぁ、ご自身が既得権者側であり、権利を付与する側(社会福祉法人の設立認可は市区町村です)でもあるという
グレーゾーンにいることをすっかり忘れて「民百姓の便所の落書きなんて下らないことを、生意気な」と平気で言ってしまう程度の、
残念な能力とメンタリティであったとしても、まぁ、想定の範囲というか「あるある」だなぁという感想になりそうです。
彼らがこういうこすっからいことをする大義名分というか常套句が「GHQの農地解放で身ぐるみはがされて」というやつだったりします。祖父母世代から刷りこまれてきた呪詛でしょうね。
実際にはそれでも元手は残ったはずなので、何を甘えたことを言ってんだコノ、としか思えませんが。
元が地主だったりすれば、思考が保守的になるのも当然でしょうし、その天与を当然と思って差別的な言動をしてはばからないするのは、残りカスだからだったりもします。
一つ弁護してあげられることがあるとすれば、やはり福祉施設って苦労が多いわりに儲からないから、何をこのナマイキな!と思っちゃったのかもしれない。
だとしたら馬鹿ではあるけど、倫理の罪は少しは軽いかねぇ…程度の弁護ではあるけれども。
このような、社会福祉法人運営=地元議員=地主って、本当に日本中にあります。そして、同じようなことやってる人たくさん居るんですよね。
田中杉並区議がどういう素姓の方はは、当人のサイトを見ただけでは分かりませんが、杉並区には「田中家」という名家があるんですよ。
http://www.city.suginami.tokyo.jp/kyouiku/bunkazai/hyouji/1007945.html
なにか繋がりがあるのかなーと、真っ先に思い出したので。
だからええと、みんな、地方選挙なんてわからん面倒くさいって思っても、投票しに行った方がいいと思いますよ。
投票率が低いのと立候補者が少ないから、バカでも選挙に通っちゃうんですよ。
一度目に当選するのが結構大変だという人もいるんですが、地元の名士だと地元組織票が入るから。
社会福祉法人は、会計基準や運営基準に違反があると免許の取り消しや停止処分があります。
でも、いったん関係者が議員になっちゃうとさ、「悪い社会福祉法人」だったとしても、何だかんだで許可取り消しとかに持っていくのは大変難しくなりますよ。
なんか高度成長期に製造工場で青春時代を送ったおっさんみたいな意見だなw
あのな、今かつて「世界一の職人技術」を売りにしていた中小工場がガンガン潰れてるわけ。
で、そんな中小工場で働いてたのが「イイモノを作れば絶対にお客は選んでくれる」という理想論に燃えて寝食忘れて技術磨きに走ったおっさんたち。
そこで尋ねたいがイイモノとは何だ?
「完全無農薬で作った安全度100%のすぐに腐る有機野菜」か?
「添加物バリバリだけど見た目もキレイで賞味期限も長くおいしくて自分で作るより断然安く買えるコンビニ弁当」か?
どっちもイイモノじゃないのか?
選ばれなかった方がワルイモノになり淘汰される。
それだけだ。
フェミニストと言っても、色んなタイプのフェミがいて、それぞれ言っていることが違ったりします。そんなタイプがあるんでしょうか?
1) 極フェミ
強烈に偏ったフェミニスト(女尊男卑)であり、何に関しても女性が優遇されていないと気がすまないタイプです。
男性に対して嫌悪感にも似た感情を持っていて、その一方で自立する気の無い女性に対しても批判的です。
学歴エリートの社会学者、マスコミ関係の独身女性、バツイチ女性がほとんどで、戦後の男女平等教育を受け、男女雇用機会均等法、高度経済成長の波に乗っかってきた人たちです。
時代がイケイケであり、女性解放先駆者だというプライドにあふれています。
一方、バブル以降に就職をしている女性は就業機会に苦しんできているので、このタイプはほとんどいません。
早慶文系出身でも専業主婦、一般職に就くのが珍しくなく、同年代の男性がもがき苦しんで仕事をしている様子を見ているので、自分もそれをしたいと思わないからでしょう。
極フェミにとって、バブル世代以下の女性の考え方にイラついて仕方ないように見受けられます。
今の若者には信じられないでしょうが、団塊、ポスト団塊世代にとって左翼こそがファッションだったんです。
マルクスだ、レーニンだ、と小難しい子と言うのが格好良く、女の子にもてるし、闘争のリーダーともなればセックスしまくれたのですw
今で言うところのバンド活動みたいなものであり、ちょっとした有名人になれば、ファンの女の子を食いまくれたみたいです。
そのため、「インテリたるもの多かれ少なかれ左翼思想を持っているべきだ!」っとバブル以前の世代は刷り込まれており、その延長で、「フェミニストは進歩的でかっこいい!」っという根拠も無い思い込みをしている人もいます。
これは女性に限らず、男性でもこの手のタイプはいて、1)の極フェミに媚びるような思想を持って、「進歩的な俺ってかっこいい!」っという自己陶酔に浸っている人も珍しくないです。
この手の人は在日朝鮮人問題、部落問題などの人権問題とセットにして取り組んでいたりします。
3) ダブスタ
時と場合によって基準を変えて、自分の都合のいいように解釈することを指しています。
例を挙げると、クソスペックしかもたない女性がそこそこのスペックを持つ男性をバカにするってのはダブルスタンダードです。
バブル期以降の女性はキャリア志向はあまりなく、夫に生活基盤を整えてもらい、自分は華やかで、やりがいのある仕事をして、嫌になれば辞めてもいいっていう気楽な立場を望みます。
この手の女性にとって、仕事は生活のためにするのでなく、自分の遣り甲斐のためにするので、苦しいことはしたくないのです。
マスコミ、アナリスト、マーケティング、専門職w、というように名前がかっこいいものを望んで、
あれも違う、これも違う、と畑違いの業種、職種を点々とするカススペック女性の言うことは日本は女性差別をするっと吼える一方で、
男たるもの家庭を支えるのは当然!っと平気で言えるのです。
こういった人たちはフェミですらなく、単なる超自分勝手な最低人間であり、
女性の嫌らしい部分が前面に出てしまっているゴミクズどもです。
他人に要求するなら、まずは自分がやるのが当然って言う、男女問わず当たり前のことが守れないのです。
■ まとめ
1)は時代錯誤なんだと思います。高度成長期、男女雇用機会均等法の産物であり、無駄に気負って生きてきたけど、後ろには誰も付いてこなかったっていうのが現実です。学園闘争の闘士たちも同じことで、本当は間違いがわかっていけど、今までの自分の人生を否定したくないから、目を背けている哀れな老人と言っていいでしょう。
2)はほとんど存在しません。最大の原動力であるセックスが出来なくなったので、若い男性が左翼思想に傾かないからです。
フェミがどうだって言っている男より、バンドで自分でも意味わからない英語でも叫んでいるバンドマンとセックスしたい時代なんです。
3)は人間のくずだと思います。この手の女性は親になると、自分を棚に上げて、異常に高い要求したり、自分の人生のリベンジを強要します。
また、夫に感謝することも無く、歪んだ女尊男卑思考で子供に夫の悪口を吹き込んで家庭崩壊させることもあります。
ダブスタ型が女の中では最低ではなかろうかと思います。従来のフェミ(団塊とそのポスト餓鬼)にもダブスタは勿論います。
フェミの下っ端は兎も角、洗脳する側の上層部はどうしても女尊男卑をしたいので、確信犯です。
確信犯であれば、理論的に反論して相手の矛盾を論破するのも可能です。
一方、バブル以降のダブスタは、なんだかよくわかんないけど、自分が楽できるからフェミとかよくわかんないけど、
なんか都合のいい風潮があるから、とりあえず賛成かな、みたいなノリです。
この連中はフェミではありませんが、単なる馬鹿なので余計に厄介なことは間違いないです。
洗脳している人間は確信犯なので、論破可能ですが、一般的に自覚のないバカほどたちの悪い人たちはいません。
自分の言っていることがダブルスタンダードだという自覚がまったくなく、あたかも当たり前のように女尊男卑を世に求めるのです。
なんの根拠もなく思い込んでいる人間を論破は出来ません。都合が悪くなれば泣き喚いて手がつけられなくなるだけですから。
1歳の娘をバギーに乗せ、3歳の娘の手をとりながら、私は横断歩道の前で待っていた。
住宅地にあるバス通り、それなりに交通量は多いが、信号機はない。
朝の通学時間帯には、地域の父母が旗を持って立ち、子どもたちの通学の安全を守っている。
結局、スピードを落とすことなく走り去る自家用車やタクシーを十数台ほど見送った後、やってきたバスが横断歩道の手前に停車してくれた。
3歳の娘は危なっかしく傘を肩に預けながらも笑顔でバスの運転手に手を振り、私は軽く会釈をしながら横断歩道をようやく渡り終えた。
自宅への道を急ぎながら、娘は「みんな、なかなか止まってくれないよね」と、ぽつりと呟いた。
つくづく、この国で子どもを産み育てていくのは大変なことだと思う。
出産費用にはじまり、医療費に教育費はもちろん重くのしかかる。
家族が増えれば住居の広さも必要になり、自炊するにも食材が増えた分だけ、食費の増加は避けられない。
年に一度くらいは遠方の祖父母に子どもと会う機会をつくろうと思えば、交通費もかなりのものだ。
子どもを育てるコストを負担しつつ、自分たちの老後に備える必要もある。
問題は、その原資となる収入だが、今や雇用の安定など私たち20代や30代には望むべくもない。
成熟し、縮小していく社会において、高度成長期のような右肩あがりの成長に伴う給与上昇は考えられない。
となれば、椅子取りゲームで競争に勝ち、立場と給与を力づくで手に入れるしかない。
勝利しなければ、生き残らなければ給与の上昇を見込めないどころか、今の仕事すら失うかもしれない。
そしてその競争に参加するには、子どもの存在は重たい足かせになる。
家に帰って子どもの世話をするために、そして週末には子どもに時間を使うために、働く親たちは必死の思いで自らの仕事を効率化する。
だがそれでも、突発的なトラブルがあり、夜遅い時間に設定される会議があり、そして就業時間後のコミュニケーションが命運を握る社内政治がある。
子どもを持つ親は、子どものいない同僚たちと対等に競争に参加することは難しい。
この国のビジネス社会は、仕事にすべてを捧げ、集中する覚悟と実践を要求する。
この競争は、ブラック企業だろうと、優良企業だろうと、実はさほどの違いはない。
では、夫婦の内の片方が仕事に全力を注ぎ、もう片方が子育てを一手に引き受ける分担をすればいいのだろうか。
私たちの親世代で一般的だったように、企業戦士と専業主婦という分業により、家庭を経営していけばいいだろうか。
答えはノーだ。
なぜなら、私たちの親世代と私たちでは直面しているリスクの大きさが違いすぎるからだ。
かつて、日本企業は滅私奉公を要求するかわりに、少なくとも正社員として働く男性たちの雇用を守ってきた。
そのしわ寄せは、結婚によって退職する若い女性社員や、パートタイム労働者が負っていたが、彼らは主たる生計者ではなかったから、それでも「雇用の安定」というお題目は守られていた。
今は違う。
主たる生計者が期間限定の雇用に甘んじている状況は珍しくない。
正社員ですら、いつ競争に敗れ、仕事を失うかわからない危機感に常にさらされている。
どちらかが仕事を失っても、次の仕事を見つけるまで、家計を支えるためだ。
競争に勝たなければ所得の上昇が望めない社会で、成長し、お金を必要とする子どもたちに応えるためだ。
そのためには、母親である私は急いで仕事復帰しなければならなかった。
数が足りない認可園に入れないリスクに対処するために、先着順の無認可園を徹底的にあたって予約金も支払った。
秋生まれになるように調整したのは、産休明けにシッターを利用して急いで仕事復帰し、認可保育所選考のポイントを加算するためだ。
11月生まれで1月後半からシッター利用で復職、生後半年を待たず0歳で認可保育所に入園できれば、私たち夫婦の収入でも対処できる。
本当は4月や5月頃生まれの方が、0歳入園でもほぼ1歳に近く、子どもとの時間を持つことができるが、それでは約一年も仕事を離れることになり、復職のハードルが高すぎる。夏から翌4月までをシッターで乗り切るのはあまりに経済的負担が大きかったので、断念せざるを得なかった。
結局私は2人の娘を産んだが、仕事を離れていた期間は通算で一年に満たない。
そこまでして復職しても、いわゆるマミートラックからは逃れられないが、それも甘受するしかない。
「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが話題になったが、ネットで何を叫ぼうと誰も助けてはくれない。
同情の言葉くらいはもらえるかもしれない。数年先には状況が変わるかもしれない。
それでは目の前の子ども、不運にもレールに乗れなかった家庭には手遅れだ。
誰もが自分の生きる場所を守り、しがみつくことに精一杯の世の中で、他者に手を差し伸べる余裕がある者などほとんどいない。
保育園に入れないのも自己責任だと切って捨てられる、それが現実だ。
ちなみに、そこまでして入った保育園も、子どもが体調を崩せば利用できない。
行政が提供する病児保育のサービスはあまりに貧弱で、フルタイムで働く私たちには使いこなせる余地がなかったから、いざという時には高額な病児ベビーシッターサービスも活用している。
そこまでしてでも、母親が正社員という立場を守って働き続けなければ、子どものいる家庭を守ることはできない。
少なくとも私はそう考えている。
母親は一度仕事をやめ、子どもが手を離れる年にまで育ったら、再び仕事を探して働けばいいという識者がいる。
そういう人は、十分な学歴と意欲があり、健康な体を持ち、自分自身以外に面倒を見るべき存在がいない若者ですら、安定した仕事を得ることが難しい社会の現状を知っていて、そんなことを言っているのだろうか。
誰もがいつ仕事を失うかわからない、そして失業した際のセーフティネットがあまりに貧弱なこの国の仕組みを理解していて、言っているのだろうか。
ひとり、あるいは複数の人間を新生児から社会人まで育て上げる責任の重さを、親になったからには背負わなければならない。
それも親になるという選択をしたのは自分たちなのだから、自己責任の範疇である。
費用も、機会も、制度をいかに利用して乗り切るかも、すべて親の才覚にかかっている。
それでも、私は自分たち家族が驚くほど細い綱渡りをしていることを自覚している。
もし娘たちや私たち夫婦の誰か1人にでも何か不慮の事故や病気があれば、この綱渡りを続けられる保証はない。
ここまでは、物質的な話だ。
子どもを育てるには、物理的金銭的に大変な努力が必要なのはもはや否定できない。
次に、親になる者が直面するのは、精神的な困難だ。
公共交通機関に子どもを乗せるなという論争が、日々至る所で巻き起こっている。
冒頭、娘が呟いたように、横断歩道をゆっくりとしか渡れない幼い子どもを連れた親は、道を渡ることすら容易ではない。
必要なしつけはしているつもりだし、公共の場でのふるまい方を教育するのは当然親の務めだと考えている。
それでも、子ども連れでいることで向けられる世間のまなざしに、どうしようもなく辛い思いをすることはある。
一人だったらとくに気にすることもなく車の間をぬって渡ってしまえる道も、子どもが一緒だから、安全を確認するまで辛抱強く待つ。
走り去る車をじっと見つめる娘の澄んだ瞳と、だんだん冷たくなっていく小さな手のひらに、どうしようもない心の痛みを感じながら、私は待つ。
もちろん、指定席を子どもも含めて人数分取っているが、たまたま私たちの近くに乗り合わせたビジネスマン風の男性は、あからさまなため息をつき、はしゃぐ娘たちを見て舌打ちする。
大きな声はださせない、椅子にはきちんと座らせる、そして食べ散らかすような菓子類は与えない。
飲み物はこぼさないようにストローやマグを準備し、それでも万が一に備えてタオルや着替えは常備する。
万全の準備をしているつもりでも、子どもの機嫌が悪くなることがある。
だが、帰省シーズンともなれば、指定席車両のデッキも自由席券の乗客で溢れ返り、苛立つ彼らは泣きじゃくる子どもを抱えて現れた親を睨み付け、ため息をつく。
一体、子を持つ親はどうふるまえばいいのか。
子が公共の場所で泣かず、疲れたとわがままを言わないようになるまでは、外になど出るべきではないのか。
容赦なく投げつけられる批判のまなざしを、せめて子どもが直接こうむることがないよう、親は細心の注意を持って配慮し、矢面に立つ。
自分で選んだ生き方なのだから仕方がない、これも自己責任だと言い聞かせ、今日もぐっと奥歯をかみしめる。
仕事を持ち、愛するひとと結ばれ、子どもをもうけて家庭を築き、社会に参加する。
本当に幸せなことだ。
川の字に並んで眠る夫と娘たちの寝顔を見る時、私は自分の歩んできた道が間違ってはいなかったことを自覚し、そしてたとえようもないほどの幸福感に満たされるのを感じる。
だが同時に、ひどく不安にもなる。
私はこの先も、この幸せを守り続けていけるのだろうか?
家族の健康を守り、仕事を守り、娘たちの未来を保障し、自己責任をまっとうできるだろうか?
身の丈に合わない幸せを追い求め、手にしてしまったのではないかと悩むことがある。
本当は、私のようなごくありふれた個人がまっとうできる責任など、自分ひとりが生き抜くくらいのことなのかもしれない。
仕事に集中し、結婚も出産もしなければ、私がとるべき自己責任の対象は私1人分でよかったはずだ。
ただ、保育園に子どもをいれられなかった親が怒り、子どもの障害とともに生きる親が絶望してしまうこの世の中で、ありふれているはずの家庭を持つ親が何を考えているのかを伝えたかった。
今、この国で子どもを持つということは「自己責任」の範囲を子ども全員にまで広げるということだ。
それでも子どもが欲しいなら、産み育てる責任をまっとうしてほしい。
…ありふれた幸せに憧れているだけなら、残念ながらお勧めできない。
だが、各論では真逆であり、子どもを持つことはリスクであり、ペナルティでしかない。
私たちは誰もが自分の幸せを自由に追求する権利があるが、子どものいる幸せは非常に高価だ。
子どもを持っても、誰も褒めてはくれないし、助けてもくれない。まして見返りなどないし、批判にさらされることが増えると覚悟してほしい。
それでも子どもを持つのは、子どものいる幸せがそのリスクやペナルティを度外視させ、高価さに見合う以上の精神的な充足をもたらしてくれるからだ。
私は正直、覚悟が甘かったから、今でも時々こんな風に心を痛めたり、迷ってしまう。
まだまだだな、と思うばかりである。
保育案件で燃えてるけれども、みんな「お上(かみ)」の能力をいまだに過大評価しすぎなんだよね。
時代が進むにつれていろんなことが変わってきているけれども、日本の絶対的な家父長的存在だった「お上」ももうヨボヨボのおじいちゃん状態なんですよ。
高度成長期時代の脂ぎった力強さなんてもう影も形もなく、むしろこちらが支えてあげないとダメなくらい。
もう正直さあ、「お上」には異なる意見を持つ人たちの間の合意形成をまとめあげる腕力も信用も能力もないんですよ。
ほんと、ないの。
時代はもう、変わったの。
全員の意見を公平に汲み取って合意形成するなんて、もう「お上」には、無理なの。
だから、もう同じ意見の人を集めて民間で回すしかないんですよ。
お上(かみ)は死んだ。俺たちが殺した。
まずそこを認識しないとどうしようもないと思う。
寂しい話だけどもさ。
SMAPというのは、日本のいわゆる「失われた20年」を駆け抜けたアイドルなのだろうと思う。
今、あらためてWikipediaを見てみたら、前身である「スケートボーイズ」の結成が1988年、
バラエティーも全力でこなす新しいタイプのアイドルとしての存在のスタートとなったテレビ番組
『夢がMORIMORI』のレギュラーとなったのが1991年
そして、『SMAP×SMAP』が始まったのが1996年だそうだ。
以降、森くんの脱退という事件をはさみながらも、日本の芸能界のトップを、彼らが懸命に走ってきたことは、誰もが知っている。
ちなみに、日経平均株価が、38,957円という今では信じられない高値を付けたのが1989年の年末。
その後、バブルが崩壊して、山一證券が自主廃業を決定して、社長が記者会見で号泣して世間に衝撃を与えたのは1997年のことである。
まさに、SMAPのメンバーが光GENJIのバックダンサーなどの下積みを経て、人気を獲得しだすまでの時期に重なる。
まだまだ「一生懸命勉強して、いい大学に入って、いい会社に就職すれば、一生安定した生活が送れる」という、
高度成長期の神話(当時は、あながち神話でもなかった)を信じ込まされて大学まで進んだものの、
やっと就職した会社では、自分の目上に掃いて捨てるほどいるバブル世代の下で、
後輩もろくにできず、ブラックな働き方を長年続けさせられたり、
就職活動がうまくいかずに非正規社員になったり、ニートになったりという人が、相当数いるはずである。
そして、そんな彼らの中に、SMAPに憧れたり、勇気づけられたり、
やけっぱちになってSMAPの歌をカラオケボックスでがなったりしていた人も多くいるはずだ。
SMAP自身も、アイドルをめぐる環境変化の中で、当初はなかなか売れる見通しが立たず、苦労を強いられたという。
それが「バブル崩壊」と関係あるのかどうかはよくわからないが、ともかく、彼らは有能な女性マネージャーの下で、
歌唱力も演技力もダンスも、彼らより優れた人たちはいるのだろうが、
どんなに「スカしている」「いきっている」といわれようとも、かつてのキムタクは「カッコいい」の代名詞として人気は別格だったし、
「音痴」という、本来歌手としてあるまじきレッテルを張られながらも、その人柄と気配りで中居くんは日本屈指のMCタレントになっていったし、
闇を抱えながらも明るさを振りまく慎吾ちゃんの姿とか、
あくまで飄々と、ときにユースケサンタマリアと、女性の胸が見える見えないではしゃいでたりする草薙くんとか、
決して仲良しではないのだろうけれど、互いを尊重しながら「プロのアイドル」として彼らは日本の芸能界に君臨してきた。
そんな彼らが、「同族企業の経営一族」と「自分たちを育ててくれたたたき上げの取締役」の対立が原因で、
分裂させられそうなのだという。
これは、とてつもなく哀しい。
あんなに「スーパースター」な彼らも、所詮は権力を持っている年寄りたちの都合で動かされる「労働者」にすぎないなんて。
昨年からSMAPが「のど自慢」に出場して、東京から5~6時間かかる被災地の街を訪問したり、
年末には、中居くんが『笑ってはいけない』に出てきて、お笑いタレントとキスシーンを披露するなど、体をはった仕事をしたり、
年明けには『すべらない話』で、中居くんが事務所社長の誕生日のエピソード
(それも、事務所内での近藤真彦の優遇ぶりと、中居くんの立ち位置を彷彿とさせる話)を披露したり、
なんか、SMAPが仕事の幅を広げてきているなあ、とは思っていた。
それが、事務所独立を見据えた必死の行動だったと思うとまた、なんとも切ない。
現在の事務所に頼らず生きていくためには、そりゃNHKや吉本興業との関係は深くしておくに越したことはない。
とくに、中居くんの「肝の座りっぷり」と「体の張りっぷり」は、「SMAPの居場所を俺がつくる」という覚悟の上ではないだろうか。
一部報道によれば、キムタクが現在の事務所に残留を決めた理由の一端に
奥さんの懇願もあったともいう。
メンバーで唯一、家族を抱える彼にとっては、「安定した現在の会社に残ってほしい」という奥さんの願いは無視はできないだろう。
これも「労働者」っぽくって、哀しい。
バブル後に社会に出た人の多くは、バブル以前の社会が残した諸々の「負の遺産」を清算するために、
苦労を強いられてきたうえに、あまり感謝されることもなく、年寄りたちの「わがまま」に振り回されているのではないかと個人的に思っている。
少子化はあんたらが結婚して子供創らないせいだとかいわれても知るかよ。
SMAPもそうだ、とは言うつもりはないんだけれど、でも、なんか、やはりどこか重なっているように見えて仕方がないのだ。
さらに突飛なことをいえば、ちょっとだけ、例の「新国立競技場」をめぐる騒動を思い出す。
偉くて権力を持った人たちが決めてしまったことが、たとえ非合理だったとしても、もう覆すことなんかできないのが、
この国の常識だった。
幸いにして、あの膨大な予算を食いつぶす「ザハ案」とやらは変更が決まって、
多少なりとも「世論」が、「権力者が決めたこと」を覆せたのはよかったけれど、
あの、「権力を都合のいいように使う年寄り」の象徴たるオリンピック組織委員会のトップ(記すのも忌々しいので、ここのは名前は出さない)は
いまだトップであり続けている。
それが、多分、今のこの国の限界だ。
はたしてSMAP、どうなるんでしょうね?
なんとか存続してほしいなあ。
自分は、そこそこテレビ好きでお笑い好きだけど、SMAPに今まで特別な思い入れがあったわけではない。
カラオケで代表曲のほとんどは歌えるけれど、CDを買ったこともない。
でも、SMAP存続の役に立つんなら、『世界に一つだけの花』のCD一枚くらいなら買ってもいいかなと、今回、思ってしまった。
まあ、役に立たないと思うから、買わないけれど。
「事務所内部の問題に口に出す立場にはないが、フジテレビとしては、『SMAP×SMAP』は長年、視聴者に愛されてきた番組であり、
今後も放映が続けられるよう関係各所には努力してほしいとは思っている」くらいのことを会見で発言したらどうだろ?
現在ネット上では四面楚歌にあるフジテレビの好感度も、多少は上がるんじゃないかと思うし、
結局は業界にいる人たちが動かないと、事態は良い方向には動かないのだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20151029080618
改善のプロセスが宝なのであって、日本民族固有の性格だとかのたまう連中は気持ち悪いを通り越しているよね。
戦後の工業製品、こと半導体だって、日本製は「粗悪品」の代名詞だったのが、改善に改善を重ねて「高性能で安い」代名詞に変わっっていったわけで。そして、今や「自己満・無駄機能が多くて高い」。自己満の押し売りをしているから、新幹線は今後も海外で売れないだろうな。核廃棄物を日本国内に引き取る条件で売っている原発くらいだろ。
他国の人たちを笑っているうちに、どんどん追い抜かれていくよ。
そんな自分の考えは感覚的で厳密じゃないので、何を感じたのか分析してみたのだが、厳密に言えばほしいものがないわけじゃない。どうやら以下のようなことらしかった。
1)日常的な欲求はあるがそれは強い欲求ではない
例えば普段食べてるランチが700円で、1000円のランチが食べたくないか? 食べた時嬉しくないのか? と問われればNoだ。たまには食べたい(そして実際食べる)。
が、それって欲求としてさほど強くもない。「今月はランチずっと700円です!」と言われれば「そうですか」で済んむでしまうようだ。あるいは「自炊して300円で抑えてね」も同様、「そうか」と思う。面倒くささは感じるが、1000円のランチが食べたい! という欲求ではない。
もちろん僕がランチの資金が毎日200円でコンビニおにぎり一個と公園の水であれば、700円のランチに強い執着心を感じるかもしれないが、それは欲求かっていうと空腹であるような気がする。コンビニのおにぎりがどうしてもいやかというとそんなに嫌いでもないし実際普段そこそこ食べているのだ。
自分には、1000円、あるいはホテルの3000円のランチを目指すような強い衝動が存在しない。
同様に、毎週ライブにいきたいとか、毎日違う服を着たいとか、月に10枚は円盤を買いたいとか、そういう日常的な欲求も特にない。
2)遠い地点に望むものはあるのだが理性的に制御できてしまっている
うすらぼんやりと、どこか気候のよい地域のホテルで暮らしたい欲求がある。というか、人生ずっとホテル(とか旅館?)で暮らしたい。これは僕の憧れの生活だ。でもそれって毎日3万円x365日x50年って考えると5億以上必要になるので、現実的ではない。
現実的ではないんだが(絶対に)不可能かというとそれも違う。5億稼ぐ人は日本人に一人もいないかと言えば、それは居るだろう。この年齢からチャレンジする人も皆無だとは言えない。つまり「僕がチャレンジしない理由」にはならない。「そういう生活したいなら努力してみればいいじゃない」は正論だ。そもそも目標額(5億)稼げなかったとしても、より稼ぐ何らかのアクションを起こせば収入が上がる可能性そのものは高い。年収をたとえば+10万するとか、不可能だとは思わない。つまり、努力は無駄にはならないはずだ。
しかし、食指が動かないというのが正直な気分だ。5億ゲットできるならかなり頑張れるのだが、+10万くらいなら別にいいや……という気分なのである。+10万というのは700円のランチが974円になる程度であって、項目1に連結する。つまり1000円のランチをそんなに頑張って食べなくてもいいや、と思う。
厳密にいうのならば「5億の欲求はあるのだが、その実現可能性と労力を天秤にかけて、そこまでして頑張らなくてもいいと思っている」のだろう。それはつまり「そこまで欲求が強いわけではない」と言える。
1,2と考えてつまり欠けているのは中間的な目標なのではないか? というところにたどり着いた。もう少し厳密に言うと「日々のお小遣いで買うことはできず、可処分所得でも購入できず、貯金という行為が必要になるのだが、その貯金そのものは数年~二〇年間程度の中期計画で見通しが立つ程度の買い物」だ。
該当する金額としては500万円~1億弱程度だろうか。
そしてそういう射程に目標物がないのが自分の問題なのだと思う。住処については持ち家を相続したし両親は他界して介護の必要はなく、車には乗らないし。もしこれらに何らかの問題があった場合、金が必要だと思うことになると思うのだが、それは欲求ではなくて困窮だ。
結局、自分は今の自分のライフスタイルでそこそこ満足しているのだ。決して金持ちではないのだが、飢えてるわけでもないし、職がないわけでもなく、日常的なひもじさや寒さは感じていないし、たまに豪華ランチくらいは食べられる。タバコは吸わないし、お酒は飲めるがわざわざ一人で飲もうというほどではない。趣味もあるが莫大な金を必要とするものではなく、むしろ微妙に黒字になる程度だ。
そういう風に自己分析をしたのだが、これって珍しくない日本人なんじゃなかろうか?
僕には「お金を使うロールモデル」がないが、日本全体にもいまそれが欠けているように思える。
テレビと冷蔵庫と洗濯機を買うために頑張ってた僕らの祖父祖母にあった「家電という豊かな生活をする私たち」というロールモデルがない。
車やマイホームをもとめ郊外に一軒家を建てて妻子と共に暮らすという僕らの父母にあった「高度成長期の若夫婦」というロールモデルもない。
それらはそこまで強く望むまでもなく手元にあるし(数万円で安いテレビは買えるし)、あるいは結婚やマイホームというものが「手に入ればそれで幸福になれる保証チケット」ではないということも、周知されてしまった。
若者のナンチャラ離れとか、消費が冷え込んでって、案外こういうことなんじゃないのか?
もちろん僕らがこういう豊かな社会に住めているのは、祖父母や両親の世代のおかげなので深く感謝するし、スマホの無い時代のほうがよかったなんて口が裂けて言うつもりはない。生活のために仕事もしてるし、将来何かあったら困るから貯金もする。
でも、1や2のような思考を経て「パーッとお金を使って幸せになってる自分」が想像できないのも確かなことなのだ。自分にはおそらく「お金を使って幸福になるロールモデル」が欠けている。そしてそれは、日本の若者から中年にかけて、全員とは言わないが、心当たりがある欠如なんじゃないかと思う。
考えてみれば、祖父母の(つまり昭和戦後復興の)「豊かな暮らしのイメージモデル」は欧米からの借り物だった。高度成長期のマイホーム幻想や家族で団らんのイメージもそうだった。
追いかける背中があった。そしてそれは参考書があるというのと同義だった。いま日本は世界有数の先進国となって(少子化という意味では最先端国家だ)、道に迷っている感じがする。日本だけではなく先進国全てがすべて「追いかける背中」を喪失している。「憧れの生活」が見えづらい。
貧しくないし不幸じゃないんだが、ふわふわしたやるせなさはある。
そんなことを考えた月曜日だった。