はてなキーワード: 高度成長期とは
・川は公害で真緑色、海は赤潮で赤色。背骨がグネグネの魚が取れる
・発がん物質DDTを頭からぶっかけ。今は使えない危険な農薬も使いまくり
・中共の気違いがぼかすか原爆の空間実験をしていたから雨に濡れると頭が禿ると親に叱られた
・人さらいが横行してたから5時過ぎまで外で遊んでると「サーカスに売られてしまうから」という理由で親に殴られた
・どぶ川はメッキ工場の青酸廃液できれいなエメラルド色がデフォ
・ソーセージ工場からは肉の生残滓がものすごい蒸気とともに排出されて即腐敗
・ジュースの素はなぜか陽の光に当てると色が消えた
・川崎球場はガラスでできた1合瓶が後ろから飛んできて普通のサラリーマンが殺し合いのけんかをしていた
・おとなは戦争で人を殺した経験があるやつがうようよいたからけんかはいつも殺し合いのようだった
・下水がないので、バキュームカーというウンコ収集車が定期的に来る
・空き地が多く、危険な薬品や資材などが雨ざらしなってて子供がそこで面白がって遊んでた
・野犬がうろうろしていて襲い掛かってくる
俺が考えたわけじゃなくて
5chに書かれてたのを張り付けただけなんだが
横やけど。
にぎやかな商店街に必ず美味しい総菜屋があったり京都に仕出し料理屋が多いのって、都会というかダウンタウンに見られる風景で、家族全員が家業に携わっていて忙しい家が集まってる「まちなか全体で助け合いサービス」。
逆に、家庭料理=主婦が手作りってのも、昭和の一時期の高度成長期時代のベッドタウン的風景、もしくは多世代世帯が当たり前の農家や田舎町ならではだったり。
漠然とした私見だけど、カーチャンが手作りした惣菜にこだわる人って出自が田舎の人が多い感じがする。そういう風に育ってきてるから家事外注が馴染みがないんかなーとか。町の感じと、食事をどこまで外注化するのかというのは連動する。
そういう意味では昨今の共働きが当たり前、単身者比率が高い日本じゃむしろ惣菜買ってきて並べるのがちょうどいいと言えるかもね。
でもそういう消費豚がオタクを自称することはなかったのよ。その主な理由はオタクが賤民であって自称する魅力も利益もなかったからなんだけどね。
そもそも中世から昭和に続く日本社会において、未成年は家の従属物(ソフトな表現)だったし、成人女性は家事労働提供者(ソフトな表現)だったし、成人男性は会社の奉公人(ソフトな表現)だった。この社会において自由の幅ってのは現代に比べて極めて少なく、特にそれは趣味分野において顕著だった。庶民が嗜んで白眼視されないものなんてのは、男性において飲む打つ買うとその後継だけだったし、パチンコなんてのはその最たるものだった。女性においては男性にもましてきつきつであり、かろうじて数種の習い事が芸として社会認知されてたかどうかくらい。書物を購入してそれを読み漁るなんてのは、金持ちの道楽であり、庶民の間ではむしろ唾棄すべき軟弱さの現れとみなされていたふしがある。まあ、だからこそ与謝野晶子あたりの明星派などによる「既存の価値観への抵抗」としてのそれがあったわけだけど。
高度成長期を経て70年代から急速に文物が発展して、今現在趣味と呼ばれる文化が爆発的に多様化した。多様化した以上に「余暇に個々人が己の興味のあることをして過ごすのは当然の自由であり権利である」という認識が一般化した。テレビ文化がひろまって、ヒッピームーブメントの余波から洋楽ブームが来て、ニューエイジ思想からオカルトブーム、UFO!心霊写真! そしてフジテレビとホイチョイが結婚してユーミンがウィンタースポーツブームを生んで、広瀬香美とチューチュートレインが若者を苗場に連れ出した。
の、だけど、そんなに主体的に生きてる人間ばっかじゃないのよな。増田の言うとおり。結局現在、「ソシャゲと深夜のアニメとネットの炎上案件に対するコメントで時間を潰している、オタクを自称している(下手したら自分自身ですらそう信じ込んでいる)人々」ってのは、昭和中後期で言えば「パチンコやって飲み屋で愚痴言ってる箸にも棒にも引っかからないおっさんたち」だったわけよ。別段彼らはそれが好きでやってるわけではなく、「受け身で流されて適度に脳内麻薬がチョロチョロ出る余暇の消費」としてそこに流れ着いただけで、最初から徹頭徹尾ただの消費者であって、オタクでも何でもなかった。多分当時であったとしたって、パチンコや博打や酒が本当にそこまで好きだったかどうか疑わしい。そういうふわっとした人々が社会の大多数だったってのは、当時も今も変わらない。
どちらかというと「社会人は全員そういうもん(休日はパチンコするくらいしかない消費者)だろ」っていう同調圧力がなくなり「余暇は自由選択」になっちゃった結果、それが可視化されただけにすぎない。そのうえ「社会人は全員そういうもんだろ」っていうのは同調圧力である以上に、大多数にとっては劣等感を刺激しないカバーストーリーでもあったっていうのが問題で、いまのこの日本の現代社会は「余暇の過ごし方」でさえも階級があるってのが、多分きつい。
あまりはっきりとは指摘されないけれど、「何ら主体的な趣味を持たない人間」ってのはやはりいまの社会では軽んじられる。一回級下の存在だと現在みなされるんだよ。それこそ「オタクであるほうがまだマシ」と考えるほどに。
だから「(絵が好きなわけでも今まで描いてきたわけでも強い動機がなんにもないにも関わらず)絵が掛けるようにな(って賞賛を受けるようにな)りたいな」なんてボヤキがWebにあふれる。
べつに「何ら主体的な趣味を持たない」って罪でもなんでもないのにね。前述の戦後から高度成長期にかけて、そんな人々は、社会に出て飲む打つ買うを一巡経験したら、すぐさま「どうやったら異性に興味を持ってもらえるかレース」に回収されて、あまり悩む間もなく半強制的に結婚させられ、身体に異常でもない限り速やかに子供ができて、子育てに忙殺されるというスケジュールに打ち込まれていた。そうすれば「主体的に趣味を持ってない」なんてことは遥か彼方にぶっ飛ばされて、問題意識すら持たないで済んだのにね(その後は、後輩や年少者に対して「結婚は社会人の義務だ」とか「子育てはいいぞ」ってマウンティングして余生をすごせた)。
社会の多くの人にとって、「個人のアイデンティティと紐付けられた強固な趣味に邁進する」人生の強要は苦痛だし、でもそれを拒否するにせよ趣味する余暇なく仕事を詰め込まれるのはもっと苦痛だ。多くの人にとっては自由が毒にしかなってない。そういう価値観の変遷に、オタクは巻き込まれちゃっただけなんだよね。
ケインズ政策、マルクス政策は、その前の自由主義政策の批判として生まれた。
で、自由主義は自由に活動すれば良くなるという政策ではあるが、それが故に格差が拡大し、更に、恐慌が発生した。
そこで、政府が一定経済に介入しないとならないというのがケインズ政策、マルクス政策。
マルクス政策が失敗したのはそうだが、ケインズも実は批判を受けた。理由はオイルショックに対応できなかったから。
なお、今の長期不況はオイルショックなんか屁でもないぐらいひどいね。
故にケインズを乗っ取って新自由主義が生まれたんだが、むしろ新自由主義に移ってから日本は失われた30年をどんどん続けてる。
たまに緊縮バカが現れて致命的に景気を落とす。格差はどんどん拡大する。官の影響が強い医療、教育、介護、大学研究はぼろぼろになる。
また、失われた30年とITの勃興の時期が重なったため、日本ではITはボロボロになってしまった。今は失われた30年以上前に地盤をなした企業が生き延びてるだけ。
マルクス政策に勝ってるから新自由主義は素晴らしいんだというのが新自由主義者はよく言うが、じゃあ、ケインズ政策と比べたら新自由主義はどうなのかな?
日本の世帯年収ってさ30代の中央値は500万円~550万円の間で、20代ではは300万円~350万円くらいなわけ。
(この年代をチョイスしたのはこの年代が子供を作るか作らないか考えてるメインの世代だと考えたから)
すげえざっくりと500万から350万円でそのまんなかくらいを425万だとしてみるよね。んでもって、相対的貧困を更にその半分だとする(本当はもっと違う計算なのだけど、ここでは話を丸める。誤差が数百万なんてことはないので)。
とすると年収425万円付近が「結婚&子作り世代の普通(中央値)」で、425万未満だけど213万以上くらいが「結婚&子作り世代の下流だけど相対的貧困ではない」で、213万未満が「結婚&子作り世代の相対的貧困層」だということになる。
この辺は別に俺の気持ちや考えの話じゃなくて、今のデータだとこうですよねって話ね。もちろん細かくソースに当たれば数値は変更されると思うけれどかと言って数十万動くことはないんじゃないかな。おおよそこんな感じなのが今の日本の姿。
んでもってさ、「結婚&子作り世代の世代の普通(425万くらい)」ひとが、子供を作れないってのは、やっぱり国造りとしておかしいよね。おかしい話なんだけど「だから所得を上げろ」ってのがもっともっとおかしいでしょ。だって現実に俺らの収入はそうなんだからさ。
いやもちろん、国に対して「国民の所得を上げろ」って要求することそのものはおかしくないよ。でも「まともな子作りや子育てできないので上げろ」ってどう考えてもおかしいでしょ。だってその「まとも」っての基準を勝手にでっち上げてるのは国民側なんだからさ。マッチポンプないいがかりもいいところじゃない。
結論から言うと、いまの子作り&子育て収入直結論がおかしいのはここで、子作り&子育てのハードルを一方的に上げて、そのハードルを超えられないとギャーギャー喚くっていう論理の組み立てでさ。
もちろん上を見れば上があるってのは前提の上でだけど、「結婚&子作り世代の世代の普通(425万くらい)」ひとが子育てしようと思ったら、その収入にふさわしい子育てがあるでしょ。「普通の世帯収入の子育て」なんだから、それが「普通の子育て」なんだよ。習い事に複数行かせるのとか、毎年海外旅行に行くとか、お金がかかるスポーツをやらせるとか、予備校に行かせるとかは「普通じゃない」わけ。もうちょっと下を見れば、いまWebで公表すればネグレクトだと叩かれるような育児(もしくは育児放棄)――たとえば購入する衣類の数が少ないとか、昼間の間子供を放置するとか、公教育以外の教育をスキップするとかも、それが年収に基づくものであれば「当たり前」だと認識すべきなわけ。年収250万くらいでも子供を作って子育てして、その金額なりに首元がだるくなったTシャツとかで放任教育するのは「やって良いこと」なんだよ。そういうのを汚れた何かのように社会から滅却しようとすれば、子供なんて減って当然なんだよ。
それが普通ではないなんだか暴走した議論の渦中にあるのは、バブルとか少子化によって子供にかける投資が加熱して、それがマスコミやWebっていう偏った虫眼鏡で歪んで拡散されたせいで、「これくらいは子供にしてあげるのが普通だよね」みたいな風潮が蔓延したせいだよ。すげえ露悪的に言っちゃえば、意識の高いママ&パパが、うちの子自慢(に見せかけた自分自慢)をする道具として「わが家ではこんなふうに贅沢な子育てしてます」ってのをSNSで発信して、それを見てる側が真に受けちゃったみたいな話だ。SNSのグルメ自慢とおなじで、ある人が3000円のランチの写真を投稿してたとしても、その人が毎日3000円のランチを食ってるわけではない。のだけれど、なんか、「その程度の生活水準が普通」という共同幻想だけが肥大して、3000円のランチを食べられない人たちの怨嗟と劣等感だけが膨らむみたいな話だよ。
「この程度のお金はかけてあげないと子供がかわいそう」「子供の将来に禍根を残します」とかはっきり言ってほとんど全部詐欺でしょ。そらまあ、大学出たほうが生涯年収上がるとか、そういうのはあるよ。あるけれども、そうであるからといって「そうであるのが当たり前で、そうでないものは当たり前未満でマウントして良い」とはならない。夏休みなどの長期休暇で子供を旅行(特に自然の中に)連れ出してあげないと情操教育上で「問題がある」みたいな触れ込みで、昨今、キャンプスクールとかが流行ってるわけだけどさ。そういうのに申し込みしてお金かけないと子供が劣った何かになるとか、どこの寝言だろう。みんなが大好きな高度成長期をささえた日本人は別段キャンプスクールも大学も前提とはしてなかったわけでしょ。回顧ってわけじゃなく、今の時間軸に問題を限定したところで他国とそこに差は対してない。
こういうこと書くとWebでは虐待主義者みたいに言われるけれど、子供なんてほっといても育つよ。っていうか、そういう前提で、なおそこから「それでもできること」を積み上げるのが子育てでしょ。そうじゃない限り無限にハードルがあがって、失格両親狩りが繰り返されるだけだよ。まあ、いまそうだから少子化なのだとは思う。
だから少子化を解決するのに多少援助金を入れたところで意味なんて無い。マウンティング合戦が現在状況の本質なんだから、お金いれても収入上がっても、無限にハードルがあがっていくだけだよ。今までの歴史&海外の状況を見れば「海外留学に行かせるくらいがまともな教育で、それ以下の家庭は子供を作るべきではない」とかすぐにそこまで行くよ(発展途上国の富裕層の一般的発想だ)。「年収200万円以下は〜」なんてのはまさにその系譜だ。
問題なのは気の狂ったマウンティング欲求と、子育てを自己表現(で他所の家庭に自慢する道具)だと勘違いしちゃった両親と、そういうのに煽られて拡大報道しているメディアであって、もっかい「今の日本の実情に沿った、身の丈に合う子づくりと子育て」を考えない限り、何の解決もしないよ。
https://anond.hatelabo.jp/20180918224024
https://anond.hatelabo.jp/20180919171907
(ツリーにぶら下がってる流れを振り返って欲しい)
「団塊世代が青年期の1960~1970年代は高度成長期で世はひたすら明るく、当時を生きていた人間は苦労知らずだった」
みたいなことが言われているので、暗い側面もあったし苦労した人々もいた(それが全部とは述べていない)という傍証を述べてるわけ
で、こちらは、水俣病だの、米ソ核戦争の脅威だの、炭鉱の閉鎖だの、石油ショックだの、ノストラダムスの大予言だの、永山則夫だの、狭山事件だの、1960~1970年代の暗い側面の具体例を挙げてきた
だというのに反論を続けている貴方は、本を読めとか勉強しろとか言うばかりで具体例を挙げない
一人か二人から直接聞いた実体験の事例だけなら「そういう人もいた、そうでない人もいた」で終わりですよ
あるいは、1960~1970年代のGDP成長率と失業率のグラフだけで、当時は日本人全員幸福だったと決めつける気はないですよね
統計データの上ではアベノミクスのおかげで平成時代未曾有の後継機のはずの現在だって、ブラック企業にネカフェ難民やら非正規雇用やら貧乏人は山ほどいる
太平洋戦争(1941~1945年)の戦時中に、現在の100歳以上の人達は20~30歳前後だった。男性のみが陸海軍に志願したり徴兵されて戦死したが、女性は志願兵にもなれず、徴兵もされなかった。このことが女性の方が平均寿命が増えたことにつながっている。
2.喫煙の男女比
現在の男性の喫煙率は30%を切っているが、この世代の男性の喫煙率は70~80%だった。肺ガンになりやすいのは圧倒的に男性側であり、100歳以上まで生きる男性の数が極端に少なくなっている。逆に、この世代の女性はタバコを吸う人はほぼいなかった。もし女性がタバコを吸っていたら、それだけで後ろ指を指される。今と比べると、女性の人権は極端に無い時代だった。
この世代の人達は高度経済成長を支えてきており、工業化による公害にも悩まされてきたはず。大気汚染や水質汚染、アスベストなど、働く男性達は、当時は未知の公害被害に晒されてきた。1970~1980年代の低公害化によって次世代にその被害は引き継がれることはなくなったが、この世代ではダメージが現在も蓄積されている。
法治国家を否定するラディカルな思想を持つ人がいても、おかしくはない。
しかし、日本が人治国家になったら法律は無用=法務を専業とする弁護士も不要となり、自らの存在意義を否定する「矛盾」に陥るのではないか?
オウム事件とこの集団対応は、この「前例のない事件に対しては前例のない体制で」でやってきた。それだけの大事件であり、特異な集団であり、特異な思想だったからです。
で、今回の支援要請につき、国が応えられないなんてありえない筈、と確信しています。
・その必要性があり、決して憲法に違反するものではなく、法令に違反するものでさえないのだから。
・日本が、テロと闘うならば、そのテロ行為の背景などにも対応していくことによってこそ、「闘う」といえるのだから。
助けてください。
社会は常に変遷して行く。かつてない状況に出会ったら、新たな対処方法を確立する必要がある。そこまではOKだ。
しかし、最初は手探りの試行錯誤ゆえ不具合が生じた場合、後でちゃんと不具合を修正できるのか?
滝本弁護士の独断で、関係者の利害を調整することなく、物事を強引に進めてしまった場合、その結果重大な人権侵害などが起きても、ちゃんと回復できる仕組みも併設されているのか?
新規の対応で失敗しないためには、ちゃんと保険もかけているのか?そこを注意深く観察する必要がある。
デリケートな問題を扱うにしては、十分な議論を尽くすだけの「慎重さ」が欠けていないか?
万一、間違った前例を作ってしまった場合、後戻りできなくなるのでは困る。
歴史を振り返ると、人類は多くの失敗を繰り返している。(同じ失敗を繰り返すのは、単なるアホでしかない。)
「前例がない」場合こそ、十分に時間をかけて話し合い、慎重に対処すべきという「共通認識」が必要だ。
民事および刑事の係争は、法律というルールに基づいて解決を図るべきだ。
なぜ、滝本弁護士は、他の利害関係者と対話の機会を持たないのか?独断と偏見で話を進めていないか?
司法試験の勉強をしたなら、少なくとも一度は日本国憲法を読んだことがあるはずだ。
1945年(昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。
そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
なぜオウムだけは差別して、議論の輪から外しても良いと言えるのか?(言っていないなら問題ない。)
「好き嫌い」という感情ではなく、「真偽」という論理、すなわち法律(ルール)に基づく説明ができなければ、法曹としては失格だ。
パブリックコメントを発する以上は、他者からの質問に答える義務がある。(質問を受け付けないのなら、それは単なる独り言でしかない。結果、他者も聞く耳を持たず、自身が孤立する結果を自ら招くだけだ。)
滝本弁護士には、公開の場で質疑応答を行なうだけの「誠意」を見せて欲しい。
「テロ」といえば昨今の「テロ等準備罪」を巡る議論を思い出す。
「日本では犯罪を実行したことを罰するのが原則です。それに対して、共謀罪は犯罪の計画に合意したこと自体を罪ととらえ、犯罪を実行する前に処罰しようというものです。深刻な犯罪を未然に防ぐことが狙いです」
「過失」を巡る法理の分類は、歴史的に「旧過失論」「新過失論」「新々過失論」(危惧感説)などが挙げられる。
テロ等準備罪は、危惧感説に基づく新しいタイプの法律と言える。日本では、藤木英雄先生が先駆者として有名だ。
藤木英雄(1932年2月20日 - 1977年7月9日)は、日本の刑事法学者。元東京大学法学部教授。
戦後の数ある刑法学上の論争の中で、実務上最も重要な意義をもったのは過失責任を巡るものである。
藤木は、高度成長期において非伝統的な犯罪が多発するという状況に際して、新たに企業側の過失責任を拡張することで、被害に苦しむ市民を救わんと尽力し、新過失論を一歩進めて「新・新過失論」・「危惧感説」を提唱した。
危惧感説が登場する以前の新過失論は、逆に伝統的犯罪や交通事犯に対する過失責任の限定を意図していただけに、画期的な転換といえる。
危惧感説は、後に板倉宏らの一部の学者や検察官の支持を得て、森永ヒ素ミルク中毒事件で採用されるに至ったが、北大電気メス事件( 札幌高判昭 51.3.18 高刑集 29.1.78) では明確に排斥されており、学会でも一般的な支持は得られなかった。
日本ではまだ、危惧感説に基づく国民の合意形成が十分になされている状況とは言えない。(テロ等準備罪も始まったばかり)
従って、滝本弁護士が、「テロと闘う」という大義名分の下、かつてない法的判断を要求するつもりならば、日本国民に対する説明の義務が伴う。
滝本弁護士が単なる思い付きや感情論で言っているだけなら、後世に悪影響を残す有害な前例を作ってしまうかもしれない。
ハッタリではなく、滝本弁護士が藤木英雄先生の業績を踏襲し、発展させる意気込みがあるなら、一概に有害とは言えない。
従って、公開の場で議論を尽くされなければならない。
どのような方法で公開討論を進めていくべきか?日本国民全員で検討する必要がある。
(滝本弁護士には「オウム問題を風化させたくない」という思いがあり、さらに法治国家を否定しているわけじゃなければ、この結論に至るだろう。)
細かい経緯は省くが、高須院長は「自分たちの世代は若いころすごく頑張り、そのおかげで今の日本がある」、田端氏は「過労死は自己責任」みたいな意見をtweetし炎上した。
いずれの意見もかなり極端に聞こえるが、これらをもし、諫言または励ましとして受け入れるなら、いかなる人も逃れることができない二つの事実を思い出させてくれる。
すなわち、
まず高須院長に対するの反論をみてみよう。主なものは「昔の高度経済成長期と、不景気が長引いている現代を一緒にするな」という一見もっともなものだろう。
しかしそれはあくまで結果の話であって、高度成長期の日本人の誰一人として、その好景気が続き日本が発展することを「知って」いた人はいないのだ。
高度成長期の初期ですら、戦争やらインフレやら、10年後の日本がどうなるかは誰にも予測できなかっただろう。
好景気に沸く周りの人達にならってモーレツに働いたとしても、再び焼け野原の生活に戻ってしまうかもしれないという不安を、杞憂と切り捨てることはできなかっただろう。
だが結果的には、モーレツに働いた人はモーレツに生産し稼いだし、道路も建物も破壊されることなくいまも国土の礎となっている。
これらの礎を作り上げた人々は素直に尊敬されるべきであるし、そもそもそれを我々が称賛できるということは幸運以外の何物でもないのだ。
未来は予想できないのに、今の状況に絶望して、あきらめて何もしないのは賢明とは言えない。
また実利的な見地から言っても、好景気のときに最も利益を得るのは不景気のころからすでに動いていた人々である。これはどこか投資哲学みたいだ。
あえて一言で言い換えてみるするなら上述の「未来へ投資しろ」に対して、「自分が何を投資しているか把握しろ」ということではないだろうか。
若いうちは特にそうだが、自分の体力、気力はいくらでも湧き出てくると勘違いしがちだ。大間違いである。
今頑張れば将来は楽しいことが待っていると考える。大間違いである。
たとえホワイト企業に勤めていてリア充で素晴らしい日々を送っていても、職場に何日も泊まり込みで働きづめでも…
病気にかかるかもしれない。Gウイルスに感染するかもしれない。歩いてたら後ろから猛スピードのプリウs…(話がそれそうなので省略)
自分の人生のリソースがどのぐらい残っているかはなんとなく把握できても、最初に言ったとおり未来は予測不能なのだ。
何に対して自分の人生をつぎ込むかは自由なのである。今の日本なら、自由にできる選択肢は控えめに言ってもかなり広い。
個人的な事情で自由が制限されている人はもちろん大勢いる。ただその中で何を優先するかは、自分で決めていいはずだ。自分で決めるべきだ。
逆に言えば周囲がいくら心配して助けようとしても、勝手にやめさせることはできない。
嫌なことでも、逆に好きでしょうがないことでも我々は人生のリソースを確実に消費しているのだ。
でもそれを誰かに言われたとおり、まるで家畜のように消費し、いざ請求書がきたところで「こんなはずじゃなかった」と後悔しても誰も何もしてあげられない。過去は変えられないからだ。
タイトルにしたがってまとめると、両氏の意見は「未来に投資しろ」と「自分が何に投資しているか把握しろ」という、向いている方向は反対でも、同じことを言っているのではないか。
「サッカー日本代表」の〈幼年期≒高度成長期〉が終わった後の世界
https://anond.hatelabo.jp/20180531113401
日本人プレイヤーで「世界」に出ている、勝負している人間は多数?いるのに、
日本人クリティックで「世界」に出ている、勝負している人間は皆無?なのは何故なのか。
文学でも映画でもスポーツでも。「日本人プレイヤー」のレベルが低い?のに、それを批判する
「日本人クリティック」のレベルだけが高い、国際レベル、という事がありうるのか、という
疑問を昔から持っている。
「日本人クリティック」>>>越えられない壁>>>「日本人プレイヤー」という図式は
疑わしい。
世界最高峰ヨーロッパのトップリーグで優勝するチームの主要メンバーである、という
大昔の奥寺ぐらいしかいない偉業を成し遂げても、今では誰も大騒ぎしない。
「日本サッカー」に対するファンの意識が変わり、「サッカー日本代表」への要求の高さも変わった。
勝てば監督の功績、負ければ個人能力の足りない(くせに勘違いしている傲慢な)選手の責任、
監督の崇高な戦術を理解出来ない「日本人脳」の責任だとでも言いたげな、出羽守チックな
「サッカー日本代表」への逆風は、ワールドカップ(WC)に初出場して以来、初めてではないだろうか。
WCを外国人監督の下で戦ったのはトルシエ、ジーコ、ザッケローニの3回だが、前述のような
『勝てば(外国人)監督の功績、負ければ(愚かで傲慢な)日本人選手と協会の責任』というような
風潮は、3人の外国人監督の時でも無かったし、当然ながら岡田監督の時にも無かった。
ニワカではあるけれどJリーグ創設の頃から「サッカー日本代表」をゆる~く眺めてきた自分には、
南アWCの時の岡田の場合は逆で、『負ければ監督と協会の責任、勝てば選手の功績』だった。
グループリーグを突破した事で、『選手が大スター扱い』され始めたのは、皆さん、ご存知の通りだ。
サッカーというスポーツが日本において草の根に定着し、「サッカー日本代表」より、自分が贔屓にしている
クラブチームの成績を重視し一喜一憂する、というサッカー先進国では普通?の状態に日本がなったのだ。
中年がノスタルジーで「昔の日本代表は良かった」と、アジアでも弱小国だった頃を美化しても生産性に欠ける。
『数年後(未来)の代表の方が現在の日本代表より強くなるし魅力的なサッカーをしてくれる』という
楽観的な気分が共有されていた?「右肩上がりの幸福な時期」は終わり、「頭打ち」の状態が続いている。
ハリルホジッチには何の期待もしていなかったが、彼の考える「日本代表」の戦いを見たかった。
自分はアギーレに期待していたが。個人的には4年前のブラジルWCの惨敗で希望は失せたままだ。
特定選手の反逆とかスポンサーの圧力とかは、海外の代表でも見かける事だし、誰が勝とうが大きな
しこりが残るのは間違いない。ただ、『勝てば監督の功績、負ければ選手の責任』というスパルタ、