はてなキーワード: 首をかしげとは
客先で、そうさらっと言われて、一瞬首をかしげた。
彼、最近聞かないね」
忘れてた。
この客からは数ヶ月前、クレームを受けたんだった。
よくある事だ。
電話の基本ができていない。
内容が正確に伝えられない。
電話の向こうに、頭を下げたんだった。
「まだまだ勉強中なので、ご迷惑をおかけします。
私がきちんと対応しますので、伝言代わりだと思って、お願いします。」
声のトーンがやっと静かになってこう言われた。
「お互いに若い人には苦労するね。
君が引き続き対応してくれるなら、安心した。
本当は彼には電話に出てほしくないんだが、仕方がない。
よく、勉強するように伝えておいてくれ」
配属を変えられた人間だから、けして若くはない。
(そういう人だったし、配属を変えられた人間はそうなってしまうのだと思う)
それなのに、ほかの職場の都合を、しかも客という立場なのに、そう言ってもらえて、
何度も頭を下げた事を、情けないことにようやく思い出した。
クレームになるまでの数カ月。
クレームを受けてからの数カ月。
客に我慢をしてもらっていたのだ。
そう、彼はもういない。
結局、仕事を覚えることもなく、まともに電話を受ける事もできないまま
また他の部に異動になった。
仕事はできないままだったが、古い体質の会社だからか、上司と懇親にしているだけで転々としているらしい。
顔が赤くなるより青くなった。
俺がこの客先に来たのは、もう何年も前になる。
前任者と比較され、話にならない、帰れ!と言われて、それでも必死に勉強して、食い下がった。
責任感が薄い前任者が投げ出すように任されたプロジェクトのサポートを、何の資料もないまま調べていくうちに、
俺に今更業務フローから(不機嫌にだが)教えてくれたのが、今の客だ。
半年くらいかかっただろうか。
ようやく話ができるようになった俺に、
「君が来てくれるなら安心だ」
そう、言ってくれた客だった。
社内では、仕事をしない彼が他部署に異動になって、正直ホっとした空気が流れていた。
俺も、そう思っていた。
恥ずかしかった。
無性に恥ずかしくて、情けなかった。
「また来てくれな」
客先の正門まで見送ってくれた客に、何度も頭を下げた。
だが、また異動はあるかもしれない。
彼が、移動先での仕事ができないと言い出し、またこちらの部署に戻す、という噂も聞いた。
どうなるか、何ができるかは分からないけれど、
「育てる」「続ける」ことに情熱を持てる事が、今ではどれだけ貴重なのか
忘れちゃいけないと思った。
また世話好きの知り合いの社長に心配され、とりあえずウチへ来いと誘われた。
とはいっても、働く気が無いわけではない。自分はとても仕事がしたい。
ブランクはあるし、年齢の割に洗練はしてないけど、ある問題さえなければ、出来ると思えることは山のように思いつく。
別に選り好みしているわけではない。できるんだったら、アルバイトだっていい。
なぜか年上に好かれるのと、学生時代に色んな仕事をしてたおかげで、人脈もあり、今回のように、ウチへ来ないか的なはなしがたまにある。
しかし、私は断る。
知り合いだからこそ、迷惑を掛けたくないからだ。
履歴書だけ見ると、上場企業を数回転職してきた、向上心あふれる人に見えなくもない。
それはある面で正しい。次こそは、あの悪夢が来なければ、と、思いながら、20代は転職をしていた。
仕事をやめる理由は毎回同じだった。
昼間から、突然ぶっ倒れるように寝てしまうためだ。
職場ならまだいい。会社のビルを前に、顔面蒼白で倒れることもあった。
最初は同情されるが、すぐに荷物になる。まあ当たり前だ。
原因は正直よく分からない。医者には大抵、自律神経失調症と言われるが、10年近く薬を飲んでも治らないので、2年くらい前にやめた。
慢性の鬱ではない。怠惰でもない。ただ、体が言うことをきかないもどかしさが、とても悔しい。
さらに5年前くらいから、みぞおちが刺すように痛み、毛穴という毛穴から脂汗やら老廃物やらがドクドクと流れ出るようになった。
これもまた医者で内視鏡やらなにやらで調べてもらったが、目立った異常が無く、結局また自律神経失調症だ。
こっちは初めての発作の時、本当にこのままだと死ぬと思い、救急車を呼んだりしてたレベルなのに、何もないんだそうだ。
そして運び込まれた病院で触診を受け、確かに胃が痙攣しているといわれ、首をかしげられる。
だから言ったでしょう。手を当てると、胃の中でカエルが暴れてる感じって、そう伝えたでしょう。
本当に、全く意味が分からない。
しかも最近、外に出るとまた失敗するんではないかという恐怖感から、ひきこもりがちになりつつある。
それでも私が努力しているのは、この体を何とかしなければ、もう生きるすべが無いと思うからだ。
今はほぼ、ドクターショッピングな日々を送っている。
それしか、自分が前に進む方法は無いからだ。
でもたまに、夜に苦しんだ分の脂汗を流すため、シャワー浴びながら朝から泣いてたりする。
どうしてこうなった、何をどう努力すればいいんだ、そういう感じで顔を歪めて。
医者通いも時々嫌になるし、全て放り出したくなることもある。
でもやらなきゃ始まらないとおもって、医学書や論文をあさり、目星をつけ、病院を回っている。
癌の人とかが代替医療を求めて転々とするのって、こういう気分なのかなー、とか思いつつ。
私にはやりたいことが山のようにある。
友達にわざわざ近所まで来てもらったりしたくない。
そんな願望を心に、私はもうすぐ35歳無職となる。
http://www.tohoku.ac.jp/japanese/2009/08/news20090803-02.html
なにこの中途半端な情報。ここまで中途半端なら「弘前高校」って名前を出さずに、「『報告された感染者が、OCへ行ったと言っている』と、青森県から連絡があった」ぐたいに留めておけばいいのに。
逆に、ここまで半特定できる形で注意を呼びかけるぐらいなら、もっとキッチリお知らせしようよ。たとえば、何日目にどこキャンパスに訪問していた、ぐらいを全体公開して、学内には「何時ごろにどこどこ棟に行っていたらしい」という情報を流すとかしてくれれば、「あぁ、オレ気をつけないとな」とか思うけどさ。ここまで中途半端な情報だと、大学では平素から(正体不明な)来訪者がたくさん来てるから「いつものことでしょ?」って受け流してしまう。
というか、いまさら扱いが大層すぎるよ。新型インフルエンザの流行を抑えた方がいいだろうことは確かだけど、新型インフルエンザだけにフューチャーしすぎるのも危険だと思う。結核は?赤痢は?他のインフルエンザは?って言い出すと、ここまで高校名を挙げてネットに掲載するほど重大なことかなぁと首をかしげる。
目の前に4リットル入る大きな壺があります。
彼は箱からコブシ大の石を十数個取り出して壺に入れました。これ以上入らなくなったところで、聞きました。「この壺はいっぱいでしょうか」
全員が「いっぱいです」と答えました。
次に彼は小石をたくさん入れたバッグを取り出しました。
小石を何個か取り出して壺に入れて、揺すりました。するとすきまが詰まって小石が壺の中におさまりました。
彼はもう一度尋ねました。「この壺はいっぱいでしょうか」
今度はみんな答えることができず、次に何かあるのかなと首をかしげました。
すると彼は次に砂の入ったバケツを取り出して、壺の中に砂を注ぎいれました。
みんなを見渡してもう一度尋ねました。「この壺はいっぱいでしょうか」
何人かは「そうかもしれない」と言いましたが、みんな黙っています。
次に彼は水差しを取り出して、壺がいっぱいになるまで水を注ぎ始めました。
一同を眺めわたし、尋ねました。「この実験の意味は何だと思いますか」
頭のいい若者が答えました。「どんなにスケジュールがいっぱいでもよく考えればもっと仕事を入れることができる」と。
彼は「違います」と笑顔で答えました。「そう答える人が多いのですが、そういう意味ではありません」
「この実験から学べることは、最初に大きな石を入れないと、それは後からは永遠に入れられなくなるということです」
さて、あなたの人生の「大きな石」は何でしょう。家族との時間、将来の夢、健康、それとも志でしょうか。
最初にそれを入れないと、それは永遠に入れられなくなるのです。
http://www.business-i.jp/news/ind-page/news/200904200014a.nwc
創造力にあふれ、発想も大変ユニーク。民主党の安全保障論議を取材していると、しばしばこんな皮肉を言いたい衝動に駆られる。
北朝鮮によるミサイル発射を受けて開かれた民主党の外務防衛部門会議。防衛省から、発射の誤探知の経緯や秋田、岩手両県に配備された地対空誘導弾パトリオット(PAC3)の説明を受けると、リベラル系のある議員はこんな意見を真顔で言ったのだという。
「種子島から発射するロケットも、日本の島の上を通るのだろうから、これにもPAC3を配備すべきだ」
出席者の一人は、「あきれるというか…。『世界観』が違い過ぎてとても議論にはならない。でも、これが民主党の実態だ」とため息をついていた。
保守系から旧社会党左派までを抱え、「寄り合い所帯」「混ぜご飯」と揶揄(やゆ)されることが多い民主党にとって、安全保障問題はアキレス腱(けん)だ。
そういえばソマリア沖の海賊対策をめぐって飛び出した意見にも首をかしげたことがあった。2月初旬の部門会議では、自衛隊の派遣に極めて後ろ向きの議員が「イラクで日本人3人が人質になったとき盛んに『自己責任』といわれたように、ソマリアを航行するのは海運会社の自己責任ではないのか」と主張したのだった。それを伝え聞いた官邸関係者が「自衛隊を派遣させないための議論で、国民の生命、財産をどう守るのかの視点が欠落しているのではないか」と訝(いぶか)ったのも無理はない。
しかし、ソマリア沖では3月22日、商船三井の船が高速艇2隻から銃撃を受けた。海上自衛隊の護衛艦が、外国船から救援要請を受け、不審船に対処した事案も3月30日以降、すでに2件あった。求められているのは実態に即した現実的な対応だ。
政府の海賊対処法案に対し、民主党は15日、自衛隊派遣に国会の事前承認を義務付けた修正案の骨子を「次の内閣」で了承した。今後、法案作成と与党との修正協議を同時並行に進めていく考えだ。
最終的には政権政党たりうる海賊対策をまとめてくれると、民主党には期待したいが、もしいまだに党内で「海賊というのは漫画で見たことはあるが、イメージがわかない」(平田健二参院幹事長、1月20日の記者会見)といった認識があるのならば、望み薄だ。
お前にこの二つのコピペを送る
ロットマスターとして店内の秩序を守ることたびたび、店主もそろそろ俺を認めてくれているはず。
シャッターオープンとともに入店、店主にあいさつするが忙しそうで返事は無し。
この媚びない態度にプロ意識を感じるね。
大豚Wに全増しコール。 麺を茹で上げる釜から漂う小麦粉の香りが食欲をそそる。
第一ロッター、第二ロッターの前にどんぶりが置かれ・・・やってまいりました、俺の二郎!
シャキシャキ山盛り野菜にざっとタレをかけ回し、テュルンテュルンの脂とにんにくをからめ、戦闘開始!
・・・というところでちょっと異変に気づいた。
おや?チャーシューの姿が見えない・・・。
野菜山の向こうにいるのかな?どんぶりを半回転させる・・・いない。
そうか、野菜に埋もれているのか!野菜を軽くほじくる・・・いない。
チャーシューの仕込みに失敗したのか・・・?と思い両隣のロッター見ると、そこにはしっかりチャーシューの乗った二郎が。
まあいい。このくらいはブレの範囲と言えるだろう。プルプル脂身さえあれば俺は幸福だ。
さて、野菜をワシワシ攻略、そろそろ愛しの極太麺ちゃんにご対面・・・w
のはずが、一向に麺が見えてこない。ていうか、麺が入ってない。野菜のみがどんぶりに盛られている状態。
なんだこれは・・・俺は何かを試されているのか?店主も助手も向こうを向いたまま、次のロットワークに取り掛かっている。
・・・まあ、これも、ブレの範囲と言えなくもない、か。
「ごちそうさま!」と大きな声で挨拶したが、返事は無かった。
家に着いた俺はそっと布団にもぐりこみ、そして声をたてずに泣いた。
ここしばらく仕事が忙しく、カネシと脂でドロドロだった血液もスッカリサラサラ。
これはいかんと会社帰りに少々遠回りし、かねてからの宿題店をこなす為松戸駅にて下車。
少々道にお迷ったものの、町の喧騒の遥か彼方におなじみのジローイエロ-を発見!
赤いマントを見た荒牛の如く、猪突猛進!最早周りの景色など見えません(爆)
ようやくたどり着いたお店にはなんと先客ゼロ!まさにアイアムロットレジェンド状態!
さっそく券売機にお金を投入。おや、本店とメニューの呼び名が微妙に違うのね?
とりあえず大盛りゆで卵入りの券を購入。パッと見インド人風の女性に渡します。この方が噂の松子さんかな?
さっそく「ヤサイマシマシニンチョモカラメアブラブラ」をコール!松子さん、ちょっと首をかしげていたけど大丈夫かね?
程なくして注文のブツが到着!
盛りはちょっと少なめだけど、香りは中々スパイシーで、思わずヨダレがじゅるり…。
さっそく金属製のれんげでスープをすくってパクリ。かなり粘性が強くまるでカレーのよう!
ちょっとカネシが弱めだがまぁブレの範囲か。これはこれで全然あり!
さらにビックリなのが麺。おなじみのゴワ麺だと思うが、外国米みたいな長さと大きさにコマ切りにされ
サフランで色付けされているみたいな色合い…
つーか見た目、食感、味的にはまさに「米」そっくりだったが、まぁブレの範囲内だろう。
さらに驚いたのがヤサイ。本日限定なのか、ニンジンとジャガイモが煮込まれて入っている。
またここの店ではテーブルにニンニクがサーブされていて、自分で好きなようにいれられる様になっている。
赤い甘酢?につけられたそれには、ニンニク以外にも大根や蕪なども一緒に漬け込まれており
全体的に多少のブレは感じたが、それ以上に二郎の基本を守りながら、それにとらわれず
様々な変化を見せてくれた店主の研究熱心な人柄がに感心。
大満足で店を出ると松戸駅南口に向かった。
自分のブログに書いても誰もたどり着かないので、ここにも書く。
その日のことは今も鮮明に覚えている。
その日は朝から「ちょっとおかしなこと」が立て続けに起こった。まず、3月上旬とはとても思えない暖かさだった。湿気があったので、生ぬるかったと言うほうが正確かもしれない。その生ぬるい気候を伝えようと、サンデージャポンが「靖国神社で桜が開花したこと」をトップでとりあげた。サンデージャポンのような(良い意味で)ふざけた番組が真面目なノリで桜の開花を伝えるなんて、それもなかなか奇妙に思えた。
それから、ジョギングおじさんがジョギングをしなかった。毎週日曜日の11時に僕のマンションの前をジョギングするおじさんがいて、そのおじさんがジョギングを休んだのを僕はそれまで見たことがなかった。僕はそのおじさんを「ジョギングおじさん」と呼んでいた。そのジョギングおじさんを見ると、僕はとてもほのぼのとした気持ちになれた。日曜の朝は、当時の僕にとって1週間で最ものんびりした時間だった。ジョギングおじさんは、その日曜日の朝の象徴だった。
しかし、その日はジョギングおじさんは来なかった。表へ出て、ジョギングおじさんを見ながらタバコに火をつけるのが当時の習慣になっていたんだけれど、その日は待てど暮らせどおじさんがこなかった。これは本当に驚きだった。このことを何人かの友人に話しても、僕の驚きの1%も驚いてもらえなくて、そのうち友人に話すのはやめてしまった。でもとにかく僕は驚いた。おじさん無しで火をつけたタバコを吸いながら、なんか調子が狂うな、と考えていた。
その後も、遅い朝食を食べようといつもの定食屋に行ったのに臨時休業だったり、花粉の季節なのに間違えて洗濯物を外に干してしまったり、なんだかいつまでたっても落ち着かない変な日だった。
そして、その日の夜、僕は彼女と19年ぶりの再会をした。
彼女はいちおう幼なじみで、僕の実家から200メートルくらい離れたところに住んでいた。なぜ「いちおう」かと言うと、それまで僕と彼女はほとんど口を聞いたことがなかったのだ。なにかの具合で僕と彼女の家のあいだに学区の境目があって、違う小学校に通っていた。親同士の仲が良いということも特になかった。そんなわけで、通りでたまたますれ違っても、ろくに挨拶もしなかった。大人になれば、「軽い会釈」という便利なものを覚えるが、当時の僕らはそんな便利なものは知らなくて、何も言わず、視線も交わさずにすれ違った。
そして、気づいたら彼女の家の表札は違う名字になっていて、僕は彼女が引っ越したんだと知った。
今さっき書いたばかりで申し訳ないが、その日、つまりはジョギングおじさんが来なかった日に19年ぶりの再会をしたというのは、ちょっと正確ではない。実は、その日からさかのぼること2週間前、僕は彼女が「サンマルク・カフェ」で働いているのをたまたま目にし、思わず声をかけたのだ。レジでお客さんの対応をしているときには全く気づかなかったのだが、ホールに出て、テーブルを黙々とふく顔を見てすぐに彼女だとわかった。
驚くべきことに彼女も僕を覚えていてくれた。僕が、「すいません」「あのー」「○○さんですよね」「以前、近所に住んでいた・・・」などと喋っているときには不思議そうに首をかしげていたのだが、僕が名刺を取り出そうとして黙った瞬間、「あ!」と素っ頓狂な声を上げて、名刺を出すまでもなく僕の名前を呼んでくれた。そしてお互いが笑顔で通り一遍の挨拶をし、改めて僕は会社のメールアドレスが書かれた名刺を渡した。
正確にはそれが19年ぶりの再会だったというわけだ。まあ、特に意味もないことを数分間話しただけだけど。
サンマルク・カフェの帰り道、当時と違って通り一遍の挨拶ができるようになったということと、当時から1ミリも変わっていない彼女の姿形を交互に考えたり思い浮かべたりして、「なんだかなあ」という気持ちになった。そう。彼女は1ミリも変わっていなかったのだ。信じてもらえないと思うが、僕にはそう感じられたのだ。
3日後に彼女からメールがきた。とても礼儀正しい、感じの良いメールだった。何度かメールをやりとりしたあと自由が丘でイタリア料理を食べる約束をした。
僕は10分早く自由が丘駅に着いて、交番の前にある喫煙所でタバコを吸いながら彼女を待った。もう6時過ぎで、徐々に薄暗くなってきていた。まわりの人たちは過ぎ行く日曜日を慈しむようにとても穏やかに会話していた。でも、彼らはよその星の住人のように、どこかよそよそしく見えた。小学校のときに通っていた教会で牧師さんに見せてもらった天国の絵(それはそれは平和な絵だった)と、メトロポリタン美術館で見たダリの絵を足して2で割ったような不思議な光景だった。
彼女は5分後にやってきた。着いたらメールか電話をしてくるだろうなと思って携帯を握りしめていたが、彼女はスタスタと歩いて僕のところまでやってきて、「お待たせしました」と軽く会釈をした。僕も「いえいえ」と言って、会釈を返した。
お店に直行するには少し早い時間だったので、僕と彼女は少し遠回りをして店に向かった。最初少しぎこちなかった会話も、ABCマートを右に曲がるころにはそのぎこちない感じはどこかに行ってしまっていた。予約していたお店に入り、通された席に座ることにはむしろとてもくつろいでいた。彼女とはとても話しが合ったのだ。僕と彼女は性格も、それまでの人生も全然共通点が無かったが、彼女の話すことはとても面白くかんじたし、僕の話すことも彼女はとても面白がってくれた。
でも、朝からの奇妙な感覚は依然として続いていた。そして、彼女との会話がはずめばはずむほど、奇妙な感覚はより強くなった。なぜだ?僕は彼女と話しながら一瞬考えてみた。でも、よくわからなかったし、彼女と話すことはとても楽しいことだったので、難しいことを考えるのはやめた。
(2)に続く
【作者より】
すいません、力尽きました。続きを書いたら、この記事にリンクを貼ります。。。このくらいだと長さもちょうどよいかなと。。。(言い訳)
分割して投稿するの、良くないですかね?あんまり長いのを投稿するより、分割したほうがいいかなと。
まずいときは叱ってください。もうしません。
暴力により生命の危険が感じられると訴える方がよいと思う。明らかにDVなので病識がないと…という保健所の対応には首をかしげる。市役所とかにDV相談所はないかな。おそらくあると思うのだが。あと警察に行く場合も同じようにDVやストーカー対策を担当している部署に、命の危険を感じる、殺されそうな気がするので助けてほしいなどと(多少誇張であったとしても)訴えた方がことは迅速に進むと思う。
あとは人格障害か統合失調症の可能性があるかもしれないので措置入院に応じてくれる病院があるかもしれない。ひどい暴力があるようなら、救急車を呼ぶなどしてもよいのではないだろか。
http://anond.hatelabo.jp/20090206203231
http://anond.hatelabo.jp/20090205083848
「変な人に好かれる」
そしてその続編という増田が大人気なのはその歪さによる所が大きいと思う。
非モテには嫌悪感がないが、非モテとは関わりあいになりたくない、という歪さを持っている。
この根底にあるのはいじめはいじめられっこの責任という図式だろう。
「私はあなたをいじめたい訳じゃない。
でも、あなたと居たら私もいじめられる。
だから関わらないで。
だって、私もあなたがいじめられて当然だと思ってるから。
でも、嫌ってるわけじゃないよ。
そういう人もいるって知ってるから。
でも、あなたと仲が良いなんて眼では、二度と見られたくないの。」
「いじめられる事の理不尽さ」を分かっている人間は、間違ってもこんな事は口にしない。
努力しても空回りする不器用さを、「いじめられるのは自分のせい」と言われる事は一度ではないはずだし、
面と向って自分を排除する人間よりも、より悪質な言葉だと身にしみているからだ。
元増田のエントリには大別して二種類のトラバやブクマがついている。
ひとつは非モテを優しくするとすぐ勘違いしてつけあがり、ストーカーに陥る危険人物とみなして
もうひとつは、元増田の偽善に首をかしげ、あるいは元増田を含む環境にこびり付いた差別意識を指摘する声。
非モテというのも、虐められっこというのも、あくまで結果論だ。
そうなってしまった、そしてそれが続く要因は本人にあるだろう。
だが、だからといって元増田のような「嫌いじゃないが関わっている事を見られたくない」などという事や
果ては好意を向けただけで犯罪予備軍のように言われる理由も必要もない。
非モテや虐められっ子を本当の意味で普通に受け入れるのは、過度な自己犠牲などではない。
ごく当たり前に一人の人間を、一人の人間として捉え、付き合うだけの事だ。
だが、それができない人間と、社会が横たわっている歪さ、不気味さは、あまりにも大きい。
自分が傷つく事、あるいは傷ついた人間と本当に向き合う事なく大人になってきた社会では
かつて当たり前だった事に、自分が関わる事すらできなくなっている。
けれど、既にそれを「悪ではない」と思ってしまった人間が大半になってしまったら
元増田に好意を示した人間に同情し、元増田の言動に異を唱える人間を「非モテ」と決めつけるエントリは
まさしく元増田と元増田の会社と同じ、歪んだ社会の象徴だろう。
非モテや虐められっ子という存在に同意、あるいは同情する事事態をそれらと同じ物だと差別し、
「自分はそうではない(非モテ、虐められる側にない)」という保身に違いないのだから。
こうした救いようのない中にも、まだ純粋な問いかけがない訳ではない
http://anond.hatelabo.jp/20090207074432
けれど、「いじめられる事の理不尽さ」を分かっている人間は、それが正論だと思っても、こんな事も口にできない。
トラバの中で誰かが言ったように、元増田の、そしてその会社のような存在は
元エントリのような露骨さがないにしろ、既に蔓延してしまっている事を痛感しているからだ。
誰もが「非モテ、虐められっ子」の側に立たない、関わらないのが最良と考えている中では
正論など、夢想以外の何の意味も持たないと分かっているからだ。
元増田に「ごめんなさい」と残した自称非モテのトラバやブクマの大半は、大きな意味など持たないだろう。
面白おかしく深く考えない事で、一番助かるのは一度底辺に落ちたら最後、助かる道もない自分自身だからだ。
ロリコンねー…二次媒体で収まっててくれるならそれでいいとは思うんだけど。もともとそういう嗜好の人もいるだろうし。新たに二次を見ることによって目覚めちゃう人も三次に手を出さなきゃそれでいいんだけどさ。
ただ,現実としてたまに混合する人がいるというか,性欲をちゃんと別の形で吐きだせない人がいて,直接子供に手を出す人がいるのはとても問題だと思う。二次だけもしくは何らかの形で欲望を三次元の何もわかってない子供に向けないようにする何かがないんだろうか。一切のロリものを抹殺したらロリコンは消えるかといわれると,はっきり言ってそうだと断定できない。むしろ違うだろうと思ってしまう。
初めて痴漢に遭ったのは幼稚園に上がる前だったので三歳だったか四歳だったか。一つ下の妹が呼び止められてひょこひょこついてったあとを追いかけて行ったら男が下半身を見せていた。妹と首をかしげてそれを見てから,外でお尻を出してる人に普通の人はいないだろうと何となく思って,即座に妹の手を引いて家に帰った。よくわからなかったので母親には言わなかった。
それから何度かたぶん同じ男だろう,いつもロングトレンチかなにかを羽織って必ず一番年下の子を呼び止める。団地住まいだったので,同じくらいの年の子と遊ぶことも多かったから,その妹たちがだいたいターゲットだった。まだ疑うことを知らず,男が何をしようとしているのかも全く分からず呼ばれたらついていってしまう。なんかへんだということだけは理解してそそくさと場所を変えたり,家に帰ったりしたけれども断続的に数か月続いたような,数週間で終わったような,そのあたりの記憶は確かではない。
男は確実によくわかってない子供を狙っていたし,何か違和感を察知して逃げる子はターゲットにしなかった。あの男に別のはけ口はなかったのだろうか。年端のいかない,何をされてるか理解できない子供をターゲットにすることでしかあの男の性欲は満たせなかったのだろうか。もし,代替となるはけ口が存在せず三次元の子供に向かうことでしか発散できないのであれば,脅威であるし即刻隔離してほしい。痴漢も強姦もも性的虐待も幼い子供にはわからない。わからないけれども記憶には残るから,あとで自分がされたことを知り問題が起きることも多々ある。親としても自分の子供がそういう暴力にさらされるのを看過できないし,もしあってしまったのなら本人が理解できていなくても守れなかったことをひどく後悔するだろう。
同意のない性行為でしか満たせない性欲をもった人間の暴力にさらされる女性が少しでも減ればよいのにと思う。一方でもし,二次元なり人形なりで性欲が発散でき,三次元の罪のない子供にその暴力が向かないのならどうぞご自由に,である。多くのロリはきちんと代替手段で性欲を発散し,表に出てくることはないのだろうだから,そうではないロリとはきちんと分けて議論すべきだと思う。
やっぱり「話せば分かる」「問答無用」的なやりとりはあったのかなーと例の事件を報じる記事を眺めていたら元次官の人が思い思いの表現で呼ばれていることに気付いた。
最後の2つは英語にするとカッコいいだろう!的発想を感じないでもない
もしくはプロと呼ぶに値するのはこの人くらいしかいなかったという遠回しな官僚disだろうか
「神殺し」って言ってみたら脳の中二病野がすごく活性化しました
本当に仏になっちゃったー!ってマギー審司がやってるところを連想させられてイラッ
次にどんなのがくるか考えてみる
各社の記事に一覧性を与えて面白い二つ名の存在に気づかせてくれたぐぐるニュース先生こそ黒幕
11/20 木 11:28 加筆修正
ポール・マッカートニーがまた日本に来る(一九九〇年)そうだが、よく来る気になったものだと思う。
ポールはご存知のように大麻所持で前回の来日時、何日間か拘置所入りになったすえ英国へ帰された。
拘置所にはいったことのある友人の話では、日本の拘置所では、大小便をするたびに
看守に報告して便器に水を流してもらわねばならない。小便のときは、「便水!」と叫び、大便のときは、「ロング!」
と叫ぶのだという。そういう話を聞いていたので、拘置所のポールはどうしているのだろうと案じていたら、
新聞に、「ポール、”ベンスイ”と叫ぶ」という記事がのっていた。これには笑った。
ところで、当時の世論というのははなはだあいまいだったように思う。
これが日本人のタレントの大麻事件であればマスコミは飛びついて、「芸能人の甘え」だの
「芸能人の思い上がり」だのとクソミソに叩く。が、相手はそこいらのタレントではなくて、元ビートルズの
ポールマッカートニーなのである。日本人の論理としては、ポール・ファンの女の子の、
「ポール、かわいそう」というものから、せいぜい「日本に来る以上、日本の法律は守るべきだ」くらいの、
はなはだ歯切れの悪いものだった。
しかしはっきり言ってあの事件は、日本という国が世界中に対して露呈した「国の恥」なのである。
あの事件のときにマスコミは世界の趨勢と学術的な根拠に立って、大麻云々を語るべきだった。
事実間題として大麻取締法というのは、高校の校則に「股火鉢を禁ず」
という条文が残っているのと同じくらいのアナクロ法なのである。
我々は小さな頃からマンガや読み物で、
といったような表現を見聞きして育っている。
また日頃の情報の中でも「人間やめますか」といった政府広報に行く先々で接するし、街を歩けば大麻の絵のポスターがあって、
「見つけたらすぐ届けましょう」みたいなことが書いてある。そうした情報が頭の中でゴチャゴチャになって、
こうした情緒的な固定観念を論理でつき崩すのはむずかしい。事実僕も何冊かの資料を読むまでは、そうした観念でもって
大麻を見ていた。ただ僕の場合は「それが悪だから興味がある」といった反応である。
たいていの人の場合は、自分が悪に加担していない、そのおかげで安心する、という自己安全弁のために悪というものを必要とするのだ。ところが、悪の放つ匂いにひかれて大麻のことを調べてみると、これは非常にガッカリする。
大麻というものには、害毒もなければ取り締まるべき理由も何もないのだ。以下にそれらの要点を述べてみる。
資料としては主に第三書館の『マリファナ・ハイ』『マリファナ・ナウ』『ドラッグ内面への旅』
『チョコレートからへロインまで』などのシリーズ及び『麻薬ロードを走る』『FIX』などの反麻薬犯罪の書を並行して読んだ。
まず第一に、大麻というものには一切害毒がない。アメリカの諮問機関が数年にわたる調査の結果、
マリファナに関する大部の報告書を大統領あてに提出している。その他、公的学際的なレポートも多数存在するが、
内臓系統への弊害、精神的なものへの弊害、肉体的精神的依存性など、すべて実験とリサーチによって否定された。
大麻有言説には以上のものも含めて8つの論点があるが、その中で否定派の一番大きな支えになっていたのは
「踏み石理論」と呼ばれる物である。これはつまり大麻に害がないとしても、
この大麻を始めてしまったものはより強い刺激を求めヘロインやコカイン、LSDなどに移行していく、というものだ。
この踏み石理論すらも大統領へのレポートでは完全に否定されてしまったのだ。この「踏み石理論」はたしかに一見説得力がある。
しかし現実の数字はそれを否定している。
それは当然のことなのだ。人間というものは常に強烈な刺激を求めてエスカレートしていくわけではない。
たとえば酒を例に取ってみる。踏み石理論でいくと、一度ビールを飲んだ人間は、
さらに日本酒、ウイスキーー、ウォッカヘとエスカレートしていくはずだ。が、現実にはそんなことは起こらない。
僕などは大酒で肝臓をこわしたほどの酒飲みだが、飲むのはいつも日本酒だった。
ウオッカなら日本酒の三倍のアルコール度があるが、だからウオッカをとはならない。
踏み石理論が通用するのは大多数の中のごく一部の人であって、それすらも原因は「物」ではなくてその人個人の「精神的欠落」にあるのだ。こうして学術的に有言論が否定されてしまうと、アメリカという国は対応が早い。
今、アメリカの州法ではほとんどの州が大麻所持を解禁している。罰則のある州でも、販売目的で大量に所持していた場合で、
それに対する罰も日本でいえば「立ち小便」に相応する扱いのうなものだ。
ヨーロッパでも動向は似たようなものだし、デンマーク、スペインなどは全面的に解禁している。
インドでは数千年にわたる大麻吸飲の習慣があるから、州立のガンジャ・ショップで大麻を売っている。
そんな情勢のもとでポールは逮捕されたのだ。世界中の人が首をかしげて日本を見ているにちがいない
「しかし、法律は法律だ」と言う人がここでたくさん出てくるだろう。ところが、もともと日本には大麻取締法というものはなかったのだ。大麻を吸うということ自体がほとんどなかったわけで、一部の木こりなどの間で「麻酔い」という言葉があった程度だ。
大麻取締法敗戦後GHQの押しつけによって成立したものである。このときもほとんど検計らしきものは何もなされずに立法されている。つまり本家本もとではとっくの昔に悪法となっているものが日本ではいまだに生きている、というこなのだ。
こんなもので検挙されて一生を棒にふる大学生や若者がたくさんいるわけで、その理不尽さの度合いにおいて大麻取締法は
現代の「お犬さま」条令である。歴史の流れを見てくると、理不尽な法令というのは山ほどある。
かつてのヨーロッパではコーヒーが禁止されていた。煙草もそうだった。違反した者は死刑にされた時代もあった。
近いところではアメリカの禁酒法がある。そうしたアナクロを我々は笑うことはできない。大麻を持っていたせいで刑務所に入れられるのも、コーヒーを飲んでギロチンの露と消えるのも本質的には同じこなのだ。
個人を侵犯する悪法は変えていかねばならない。悪法であっても法は法だ、というので守る姿勢というのはわかる。
現に僕自身、をこわすほど酒は飲むが、非合法のドラッグはいっさいやらない。悪法にひっかかるのがくやしいからである。
ただ悪法を変えたいという意志はある。変えるためには「時代の空気」というものが絶対に必要だ。
我々がコーヒーを飲み煙草を吸っているのも、この「時代の空気」が根拠のない法を駆逐してきたからだ。
この空気を作るためにこうしてひとつひとつ誤解を解いていかねばらない。
コーヒーにしろタバコにしろ大麻にしろ、悪法にはひとつの共通した点がある.
それは「国家が法でもって個人の領域にまで踏み込くる」ということである。
これに対しては意外なことに、ジミー・カーターが大統領時代に名言を吐いている。
つまり、ドラッグに対すはの健康の悪化をもって最大のものとする。国がそれ以上の罰を課してはならない、というものだ。
つまり、大酒を飲もうがヘロインを打とうが、国はいっさい手出しをしない。そのかわり、それで体が悪くなったり死んだりしても、
それはあなた個人の罰ですよ、ということだ。これは非常に明快で、卓越した意見である。個人の快楽にも苦痛にも国は介入しない。
ただ、その結果、他人や社会に害をなした場合は、これは法でもって取り締まる。国と個人の関係というのはこうあるのが理想だろう。
ただし、一方では、アメリカという国はいまの状態では「こうとしか言えない」のかもしれない。
この明快な論理はアメリカという病める国が、苦しまぎれに吐いた「きれいごと」なのはないか。
新聞を見ていたら、コロンビアのマフィアがブッシュ大統領の暗殺計画を練っている、という記事が出ていた。
アメリカ側は、威嚇のために軍艦を二隻コロンビアに横づけした。コロンビアという国はアメリカヘのコカインの輸出で成り立っている。このボスを制してコカインのアメリカヘの流出を断とうとしたものだから、国家規模の殺し合いが始まった。
一方では南アメリカ全体は、コカインが生む金で日本の車や電化製品を買っている。この衝突が鎮静しないと、
日本の商社もまた困るのである。ここに先のカーター発言を持ってくれば問題は何とか解決する。
要するに麻薬そのものに関する取締法を一切なくしてしまうのだ。そして正常のルートでコロンビアのコカインをつける。
これをやられると、麻薬を資金源にしている世界中のギャングは、ちょうど禁酒法がなくなったときのような大打撃を受ける。
大半は正常な企業の形態をとって、利潤は減るが普通の「商売」をせざるを得なくなる。
暴力団の力は弱まり、一見すべてはうまくいくかのように見える。だが、子供たちはどうなるのか。
現にいまアメリカやイギリスでは小学生がへロインを打っているのだ。問題はとても複雑でむずかしい。
「いまここに突然すげー敵が現れたとする」
元彼も同じことを言ったなぁ、何でだろう、男の人ってこういうことを言うものなのか、ということを思いながらその言葉を聞いた。
元彼も同じことを言った。はじめて付き合った男性で、男の人との接点もあまりなかった私はやぶから棒に何を言い出すのだこの人は、と首をかしげた。彼は笑いながら言った。
「俺先に逃げるから。逃げ足が速いのだけが自慢でさぁ」
ふーん、と思った。そうか、そういうものなのか。自分の身は自分で守らないといけないんだなぁ、そう思っただけだった。一人なら絶対に避けて通るくらい道も、いかがわしい通りも、その人は回り道をするのが面倒だからという理由で通ることを考えると護身術でも習うべきなのだろうか、と当時は本気で考えていた。ネットで護身術の情報をあさったりなどした。一人なら必要ない、二人になったからたぶん必要になるんだろう、ひとりのように自由気ままにはいられないから、二人になった分だけ心配事は増えるのだ。そう単純に理解した。それでもどこかさびしい気持ちは残った。守ってほしいというわけじゃないけれど、捨てて逃げられるのはそういうものだとしても、寂しい。
だから同じことを言い始めた彼にきっと同じようなことを続けるのだろうという思いと、なぜか湧き上がる一抹の寂しさをもって私は黙り込んだ。彼は気づかずに続けた。
「あなたをおいて逃げれないとか言ったら切れるからな」
「は?」
「いやさ、ここは俺に任せて逃げろ!ってやりたいんだよ一回でいいからさ」
「ちょwwwwwwwねーよwwwwwwww」
「ないかなぁ。まぁあれだ、さっさと逃げろよ」
暗い道は避けてとおるくせに怪しげな道だと落ち着かない顔をして足早になるくせに、危険に遭う前から危険に遭いそうな場所は避けて通るくせに、面白いことをいう人だと思った。同じ言葉から始まったのに全く違うことを言う。嘘でもいいから、危険なことなんてそもそも遭わないほうがいいけど、守られたいわけでもないけれども、でも。もし、という話をしているときくらいこういう扱いをしてくれるのは、悪くない。悪くない。
「……ていうか」
「まーやられちゃったらそれはそれで困るよなぁ」
「うん。ってか私がやっつけちゃえばいいんじゃね?」
「お、いいな。それ最強」
さっき、ちょっとお金を下ろしに行ったんですよ。
財布の中に二千円しかなくて、三十路を超えたサラリーマンがこれじゃあ、ちょっとやばいんじゃないかと。おちおち親父狩りにも遭えないじゃないかと。
まあ、ATMでお金を下ろすなんて、ほとんど手間もかからない、すぐにもう四十秒でリッチマンですよ。
それでですね、ATMのところに行ったら、俺の前におばさんがいたんです。おばさんですよおばさん、ちゃんとリスペクトして「さん」付けしてる、どこの誰とも知らない赤の他人のおばさんです。ところが、このおばさんが魔法使いだったんです、きっと。
そのおばさんがですね、ATMの機械の前に立ちます。そしたら何か複雑な手順で召喚の儀式を始めたじゃないですか。買い物袋をちょいと脇に置きます。中身が崩れないように丁寧に。そして手提げかばんを開けて中をごそごそと探しだします。あらかじめカードを出しておいてすぐ突っ込んだりしちゃあいけないんです。ATMはお金の出てくる魔法の箱ですよ。魔界につながってるに違いありません。前に立つと「カードヲイレテクダサイ」と声がするけど、あれは魔界からの声で、複雑な儀式の手順なしにカードを入れたら大変なことになるんです、きっと。
そして、おもむろにカードを入れたとこで、ぴたっと固まります。瞑想です。精神集中です。無我の境地です。もはや周囲の雑音などに邪魔されません。時間が止まっているかのようです。魔法を使うためには極度に気力を高めなければならないのです、きっと。
そして、手を静かにタッチパネルにかざします。高度に発展した科学はなんとやらと言いますが、あれはもはやマジックアイテムです。気とか念とかオーラとか、その類のものに反応しているに違いありません。手に力を集中させなければなりません。ハンドパワーです。不用意に触ると魔界に引き込まれるんです、きっと。
そして、厳かなリズムで入力していきます。決して、ちゃかちゃか慌しく入力をしてはいけません。瞑想をはさみつつ気合を入れて重厚に入力しなければ、魔界のものに舐められてしまうんです、きっと。
あにはからんや、これほどまでに儀式を行ったのに、魔法とは厳しいものです。「モウイチドハジメカラヤリナオシテクダサイ」おばさんは、またはじめからやり直します。不屈の精神がなければ魔法は使えないのです、きっと。
ところが今度は、比較的早く儀式が終了します。おばさんは、首をかしげながらその場を立ち去りました。深遠な魔法の世界は立ち去りました。やれやれ、ようやく自分の番だ。ささっと下ろして飯でも食うべえと機械の前に……
「本日の営業は終了しました」
ダイオキシンっていえば2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシンだろ。
これはもう=でいいとおもう。
で、ダイオキシンの有害性だが、個人的にも化学の教授も首をかしげる程度のもの。
この化学式をみてもらえばわかるとおもうが、酸素結合なんて、あっというまに酸化して切れちゃうし、オルト位のClなんて追い出しやすい。
つまりさして安定な物質でもなければ、Clとベンゼンを含むものを燃やしたぐらいで簡単につくられるものではない。
もっと有害なものはいくらでもある。
ダイオキシンはその構造から有害なのは2,3,7,8の位置にClがある場合だけで、それ以外の毒性はほぼない。
だが毒性は確実にあるので対策はする必要があった。
といってもちょっと加熱するだけで2,3,7,8の塩素は残らない。
だから焼却場のダイオキシン対策っていったって煤煙を再加熱するだけだ。
なぜあそこまで騒がれたのか?
ここらへんは例の如く例によるのだと思う。政治的なものとマスコミ的ななにかだろう。
こっちはしゃれにならない。
「入るよ」
「どうぞ」
いつもとは違うくぐもった声。
彼女は部屋の奥、ベッドの隅でまるで凍えた旅人のようにタオルケットをかぶっていた。
人体のかたちの丘に、夏の日差しがコントラストの高い印影を作る。
「晩飯の買い出しに行くんだけど、何か食べたいものある?」
「食べたくない」
語尾がかすれて消える。
「体調悪いの?」
額に触れようとして手首をはたかれた。
「違う」
「てって…」
僕はそのままベッドに腰を下ろし、窓ガラス越しの海辺を眺める。
「違う」
タオルケットを引っ張ってみる。無反応。
「ドラマ」
「ああ、さっき見てたやつ。コテコテのメロドラマだったねえ。あんまりコテコテだったからリサ先読みあてて大笑いしてたねえ。君は真剣だったけど」
「笑えない」
「ん?」
「とてもじゃないけど、笑えなかった!」
枕が顔に飛んできた。
安定の悪いベッドの上に、彼女が立ち上がる気配がする。
「気づいちゃったもの!私、私、ずっと、あんなこと、」
僕は首をかしげる。顔に張り付いた枕が床に落ちる。
「やーまー僕らもたいがいベタな生活をしてきたけどもね端から見て冷やかされる理由をやっと自覚しま」
「違う!」
僕はあごに手を当ててじっと見上げる。
「あの…不倫した部長の恋人役の人。包丁もって、『奥さんと別れてくれなきゃ死んでやる』って。笑えない」
「まああまりそこ笑うとこじゃないけどね。リサは笑ってたけど」
「私…、ずっとあなたにあれやってたことになる」
「違うよ」
「違わないよ!私のこと嫌いになったら泡になって死んでやるってずっと脅迫してるのと同」
僕は彼女がそれ以上喋れないようにした。迅速に。
「落ち着いた?」
「10年」
「ん?」
「もうすぐ10年」
「ああ、そうだね。再来週。」
彼女が手のひらを日に透かす。
よくあるとまではいかなくとも、決して珍しい話ではないみたい。
自分も関西のある都市で福祉職をしてるけど、月に一回くらいは役所から
「緊急!この○○区在住の認知症のお年寄りが夜中に一人で家を抜け出し、今も行方不明です。氏名と特徴は・・・」みたいなメールが来る。
そして続報がすぐに届く場合もあるし、忘れた頃に残念な形で届くことも多い。
(なぜか電車に乗って故郷でも名残りの地でもない方向にあてのない旅を行なった末で改札を抜けられずに保護される人、
キノコ取りに行った人が山奥で変わり果てた姿を見つけて、通報されて発見される人、色んなケースがあるみたい。
「何故こんな場所に行ったんだろう」って家族が首をかしげる事も多い。とにかく読めないものみたい。)
でも、これを実際にじゃあどうすればいいかと言うと自分も判らない。
今日、帰り道に老女とすれ違っても(相当な心当たりがあるわけでもない限り)多分、自分は何もしない。
皮下にGPSを埋め込むとか家でほぼ軟禁状態にするとかも言うのは簡単だけど、アンタそれを肉親に出来るか?って話になる。
だから本当に大変だよなあって思う。無責任だけどそういう事態が自分のところには来ませんようにって祈ってる。
このうちどの本だってまだ書かれていなかった時代にも人間は生きて死んできたし
ゼンブ読んだ10代とは絶対お友達になりたくない。
もしかしたらホーキングは10代のとき出てたっけなと
首をかしげさせる手の込んだ高年齢者ほいほいですかなあ
コンプレックスがない! という人は少ないことと思います。だれもが、多かれ少なかれ自分のどこかにコンプレックスをもっているものです。女の子の場合、コンプレックスは容姿の問題と深く結びついていることが多い。もっとやせていたら……。色が白かったら……。マツ毛が長かったら……。つくべきところに肉がついていたら……。髪がサラサラじゃない……。背が高かったら……。
際限なくでてくるのでこの辺りにしておきますが、とにかく、頭脳のよさも性格のよさも家柄のよさもイロんなことすべてが、「それで、美人なの?」のひと言で否定される、と錯覚をしそうになるくらい、造形的に恵まれて生まれるかどうかは重要な問題です。
顔がキレイで若くてスタイルのいい女の子に対して、男性が見ていて恥ずかしくなるくらいあからさまに鼻の下をのばしていたりするたびに、(やっぱり、外見なのね)
と、たいていの女の子は苦い思いをしてきたわけです。
しかし、現代では、エステや美容整形の技術も格段に進歩しております。容姿の問題で、コンプレックスを抱きつづけず、少しそこをいじってよくして、悩みを克服し、明るく生きていくほうを選ぶこともできるわけです。
さて、男性の場合ですが、これまで容姿はあまりコンプレックスの要因とされていないかのように考えられていました。というか、男の人が容姿のことで悩むのはみっともない、男らしくないという世間の雰囲気があったわけです。もちろん、それでも、男性ですと頭髪がこころもとないだとか、身長が低い、不摂生にとても太っているということは、大きなコンプレックスを生んだりしています。
この3点に関しては、大半の女性が顔をしかめるかもしれません。
(個人的には私は、髪がなかろうが背が低かろうが、ものすごく太っていようが、優秀な頭脳をもっていればすべては払拭されると考えておりますが)
けれども、最近は男性も女性と同じように、さまざまな問題で容姿に悩みを抱いたりするようになりました。毛深い気がする、メンズエステで脱毛したほうがいいんじゃなかろうか……。筋肉がつかないプヨプヨ体型だ……。マユ毛が太すぎるのだろうか……。髪型が時代に追いついていないような……。どこでスーツを買えば、カッコよくなれるのだろう……。自分には、今流行りの中性的というかフェミ男っぽさがない。だから、女の子が気軽に話しかけてくれないんだ……。とにかく顔が悪い気がする。かといって、どこがどう悪いのかはよくわからない……。
時代遅れになりつつある、男っぽい容姿の方は、こういう悩みを持ってしまいがちかもしれません。が、スネ毛やヒゲが濃いのはイヤとか、顔が悪くてイヤということを問題にするのは、恋に恋する中・高校生であって、大人の女はかえって、男っぽさに魅力を感じていたりするものなのです。また、男性は「これがいい」と思っている外見的なよさでも、女性の側から見ると、
「あれはどういうつもりなのだろうか」
と首をかしげたくなることもあるものです。
たとえば、顔がいい男性。女性から見ると、カッコいいから、がむしゃらになって何かをやりとげたりしたくない、熱いところを見せたくない、カッコ悪いことはしたくないんだろうなあ……というふうに見えます。
よく見ていると、実際に面倒をさけたり、イヤなことからは逃げて人に押し付けたりしていたりして。要するに、顔がよすぎて、キレイな仕事しかしたがらなかったりする→仕事ができない→色男、金と力はなかりけり。という図式ができあがったりするわけです。同じことは、背が高いだけが取り得の男性にもいえるかもしれません。
つまり、賢い女性は男性が持っている容姿のコンプレックスなんか、あまり気にしていないのです。かえって、そういったコンプレックスのある男性が、献身的でやさしかったり、忍耐強かったり、おとなしく誠実だったりすると、
「やさしくて、いい人じゃない」
と女性から再評価してもらえたりします。
この、性格や人柄で「再評価をしてみる」という行為、女性はけっこうできるけど、男性にはなかなかできないような気がします。男性のみなさんにも、女の子を見かけだけで決め付けないで、人柄で再評価することを学んでほしいと願う私です。