はてなキーワード: 都市とは
ウクライナ軍のクルスク反撃作戦は、東部戦線におけるロシア軍のポクロウシクへの進軍を食い止めるには至らなかった。
この重要都市が陥落することになれば、東部全域のウクライナ軍にとって大きな打撃となる恐れがある。
まず、ポクロウシクについて解説する前に、今年2月に陥落したアウディウカに話を戻そう。
この地域はドネツク州における主要な兵站ルートを確保するための重要な拠点として機能していた。
アウディウカの陥落は単に一つの都市を失うだけでなく、ロシア軍に対してその後方の作戦エリアへのアクセスを許し、多様な選択肢と機動力を与えることになった。
ポクロウシクはアウディウカの西に位置し、複数の鉄道線路が交わる結節点となっている。
この都市は、南部のヴフレダルからドネツク北部に至る広範囲の戦線を跨ぐ鉄道輸送の中心地だ。
現在、この役割を果たしているのはポクロウシクとクラマトルスクの2都市のみである。
注意すべき点は、ロシア軍が鉄道を支配するためには、必ずしも都市を占領する必要はないということだ。
前線が都市に接近すれば、鉄道施設や車両が砲撃やドローンの射程内に入る。
こうした脅威により、ポクロウシクでの鉄道運行はすでに停止している可能性がある。
ポクロウシクとコスチャンチニフカの間の道路は長期間にわたり攻撃を受けてきた。
このルートが遮断されれば、バフムト-ホルリフカ戦線への補給が困難になる。
そして、もしポクロウシクが陥落すれば、ヴフレダルからホルリフカに至る戦線の補給線が崩壊し、クラホヴェやトレツクの失陥に繋がる恐れがある。
ポクロウシクは隣接するドニプロペトロウシク州の境界まで20kmしか離れていない。
めずらしく我らが箕面市(”みのお”って読むよ)がはてブに挙がってきていたので書いてみよう。完全にn=1の視点なので、他に箕面市在住増田がいたら補足よろしくね。
なお、先に増田の投票行動を明らかにすると、国政では国民民主、府政では大阪維新、市政ではその時々という感じです。前回の市長選では維新候補(=現職)、今回の市長選は非現職に投票しました。
以下、これぐらいの適当感覚で投票している奴もいるよということで政治家の皆様はご参考ください。
各社報道ではそのように書かれていることが多い印象ですが、明確に維新候補を嫌がった結果かと言うと分かりません。
というのは、市議選挙では維新候補が全員当選していて、トップ当選の候補も含めて、比較的皆さん上位でもあるからです。
なので、シンプルに維新以外の候補を欲した結果である、とは言いすぎなんじゃなかろうかとの感覚があります。
もとい、そもそも現職の上島さんが当選した前回選挙を振り返ると、当時から維新を信任した結果だとも言い難いのではと個人的には思います。
前回選挙では、候補者が維新・共産・諸派(この方は兵庫県知事にも立候補されていますね)の三つ巴でした。
お察しのとおり、無党派層からすると、ほぼ選択肢が無い選挙です。箕面は従来転勤族が多く、子育て層の人口も多いと言われているところ(恥ずかしながら詳しく調べたことはないですが)、特段共産党優位の地盤というわけでもありません。
かといって自民支持の保守層中心というわけでもなく、国政の話になりますが民主党の政権交代時には民主党候補が当選していたので、それぐらいに無党派層が中心の郊外都市なんじゃないかと思います。
そして上島さんは箕面市議の出身で、市民に名前と顔も知られているので、この中から1人を選ぶんだったらまあということでみんな投票したんじゃないかなあ(よく行事で来賓として方方に顔を出されていたのでその意味で上島さんを知っている人も多かったと思う)。
結果として8割近くの得票で当選されました。
言い換えると、仮に上島さんが維新候補でなかったとしても(無所属その他で出ていたとしても)、多分同じぐらいの得票率で当選していたと思います。
現職の対抗馬となる候補が出馬しました。多分この一言で終わりそうな気がします。
今回市長選を制した原田さんもまた箕面市議出身で、途中で府議に行かれて……と、経歴としては上島さんと同じです。要は、一定の知名度があるんですね。また、現職より若くて、かつ若すぎない。
そして元自民なので、(議論はあると思いますが)名も知らぬ諸派候補よりは投票もしやすい。このような形で、現職候補以外の受け皿が登場しました。
近時の箕面市をとりまく一大トピックとして、「北大阪急行(北急)の延伸」がありました。大阪の大動脈である地下鉄御堂筋線、と直結している北急が、箕面まで延びてきたんですね。
延びる延びると言われ続けて何十年も延びぬまま、昨年ようやく開通したという運びでした。延伸によって箕面市内に2つの新駅が生まれ、関西ローカルの報道では結構取り上げられたりしました。
この延伸によって箕面はさらに便利になる……という触れ込みだったのですが、いざ開通してみると、逆に不便になっていないか? と感じる状況が生まれました。
その主因がバス路線の再編(ダイヤ変更を含む)です。北急延伸前は、当時に終点兼始発駅であった千里中央と箕面市の各地をつなぐような格好で阪急バスが運行されていたのですが、延伸によってこのあたりの路線再編が行われました。
これによって実質的にバスが減便になった地域があります。北急延伸自体に否定的な方はあまり見ない印象ですが、逆にバスについては不満を漏らす方は多く見られるかなあというところです。(実際、市議会でも取り上げられる程度感です。)
にもかかわらず「このバス路線は利用者が少ないのでこのままだと廃止されます!」みたいなことが書かれたチラシが投函されたり、市の広報誌でも特集されたりで、日常的にバスを利用している身からすると「そんなこと急に言われてもどうしたらええかわからんのやけど」という感覚にはなります。
そもそもバスを運行しているのは民間企業なので、どこまで行政からの投げかけができるのかという話もあります(これは他の地域と同じ問題ですね)。ただ、上島さんも選挙期間中に「阪急へ申し入れをした」「今後改善を図るな」ど訴えておられていたところ、それやったら最初からやっといてほしかったなあとの感想は否めないのではないかというふうに思います。
箕面は面積の半分ぐらいが山で占められていて(畑や田んぼもあるよ)、市としても自然の豊かさをアピールしているのですが、開発等でだんだん減っています。
身近なところでは、一部道路において、車道を狭めて歩道を拡張する工事が行われているのですが、それによってもともと歩道にあった街路樹と植え込みが基本的には撤去されて、アスファルトが広がるみたいな状況になっています。
たしか工事の目的は、自転車通行レーンを確保して、歩行者・自転車利用者の安全を確保するみたいな話だったはずで、実際に歩道が広がった事自体は悪くないと思うのですが、この季節の日中歩くと日陰もないので暑くて仕方なく、殺風景な様子に感傷的にもなります。
端的には、ここまでする必要があったのかなあという感情でしょうか。という感じで、緑をアピールポイントにしているのに、自己矛盾な行動してない? との感覚があります。
といった、実生活上の不満とか不安が積み重なった結果として、それが市長の権限でどうにかなるものなのかそうでないのかはさておき、別の選択肢が求められたんじゃないかなあと思いました(ちなみに上記の点は、原田さんが主張していた箕面の課題に含まれるので、感覚的に同意した市民が多かったのではないか)。ほんならちょうどよく対抗馬候補がいたので投票したと。子育て層や高齢者層ではまた違った感想を抱いているかもしれませんね。
キャラクターが多いと覚えられないので、少なければ少ないほどありがたい。
今は頑張って「ふつうの軽音部」読んでるけど、人が多すぎて力尽きそうです
(追記)みなさんありがとうございます!
参考にさせていただきます。
・ラーメン赤猫
・深層のラプタ
・半人前の恋人
・恋人以上友人未満
・サチ録
・バンオウ-盤王-
・馬刺しが食べたい
・タテの国
・ベイビーブルーパー
・全部ぶっ壊す
・鬱ごはん
・北北西に曇と征け
・ぼくらの
・異常な軽音部
・ルックバッグ
・バーナード嬢
・しまいずむ
・ケムリクサ
・ラーメン大好き小泉さん
・地雷なんですか? 地原さん
・殻都市の夢
・惡の華
・ご飯は私を裏切らない
・ドカ食いダイスキ! もちづきさん
・血の轍
・よふかしのうた
・ふたりべや
・ちいかわ
・ドラゴンヘッド(途中まで)
・こち亀
・違国日記
・ふたりエッチ
・よつばと
・ひらやすみ
・鍋に弾丸を受けながら
・ニュー土木
・ Thisコミュニケーション
・吾輩の部屋である
・ひまじん
・流れ星銀
・BEASTERS
・オッドタクシー
・高木さん
・プラネテス3巻まで
・オンノジ
ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 『ローマの休日』
・03 可愛い子には)旅(をさせよ
・07 [漢字を読みましょう][食べ物]そうめん とうもろこし てんぷら ジンギスカン
・08 千葉(県
・09 東京スカパラダイスオーケストラ
・10 もらい水
・13 二条 城
・15 [2択]交 流
・16 森川葵 もりかわあおい
・18 よそ(のくに
・19 豊臣 秀長
・21 『キャッツ』
・24 [3択]G
・25 モンマルトル(の丘
・26 山上憶良 やまのうえのおくら
・28e 17
誤答は青じゃなく白らしい?
ゼロ年代のインターネットには、Alex Kさんという日本語が堪能なウクライナ人がいた。彼は日本語版ウィキペディアで、ウクライナに関する有益な記事をたくさん執筆していた。ウクライナ語のиをすべて「ウィ」と表記した結果、「フメリヌィツィクィイ」みたいな記事名ばっかりになっていたが、これも彼の正確さを重んじる姿勢のゆえだと好意的に見ることはできる。
しかし、Alex Kさんはウクライナ民族主義者であった。もちろん、民族主義者であっても良質な記事を書いてくれるなら問題はない。だから彼は、ウクライナの歴史上の人物や、都市や、教会についての記事を執筆し、加筆し、あるいは修正のために議論した。そしてある日、ひとりの日本人編集者が、彼の書いたウクライナにある教会に関する記事を修正しようとした。それが問題のはじまりだった。
話を150年ほど遡る。鎖国が終わり、自由にキリスト教を布教してよいことになったので、欧米人はこぞって宣教師を日本に向かわせた。宣教のためには、現地の言葉で書かれた聖書が必要不可欠である。だから宣教師たちは、それぞれが独自の日本語版聖書を作った。正教会の宣教師だったロシア人の聖ニコライは、漢文の素養のある日本人に助けられながら、教会スラヴ語(教会で用いられる古風なスラヴ語)に基づいていかめしい文体の日本語訳聖書を作った。カトリックやプロテスタントは、時代に合わせて聖書をよりやさしい日本語に置き換えてきたが、正教会の聖書は、明治時代からその言い回しなどがほとんど変わっていない。結果として、正教会の聖書は読みにくく、使われる語彙もカトリックとは異なっている。たとえば、こんなふうに。
正教会 | カトリック |
---|---|
主教 | 司教 |
顕栄 | 変容 |
生神女 | 聖母 |
至聖三者 | 三位一体 |
イイスス・ハリストス | イエス・キリスト |
これがいいか悪いかは、その人の価値観によるだろう。他の教会と共通する用語を使うべきと考える人もいれば、独自の伝統を守るべきだと考える人もいてよい。だがそれを決める権利は日本人の正教徒にしかなく、外部の者はそれを尊重すべきであるはずだ。
このようにキリスト教各派が使っている用語がバラバラなので、日本語版ウィキペディアでは、「各派の独自用語を尊重する」というデファクトスタンダードが確立された。たとえば日本政府は少し前までローマ教皇のことを「法王」と呼んでいたが、ウィキペディアではカトリック独自の呼称である「教皇」が採用された。カトリックの教会が「主教座」と表記されていたときは、カトリック用語の「司教座」に直された。だからその日本人編集者は、2009年に、Alex Kさんの書いた記事にある「三位一体」「変容」を、「至聖三者」「顕栄」に直した。
ところが、Alex Kさんにはそれが気に入らなかった。ウクライナ語や英語では、当然ながらこのような区別は存在しない。Alex Kさんは、「三位一体」は日本語の定訳なのに、なぜ「至聖三者」という日本正教会独自の用語を使わなければいけないのか? と反論した。さらに、大部の国語辞典を参照して、「顕栄」とは立身出世するという意味であり、「変容」の方が教義的に正しい、とも主張した。これに対し、日本人編集者たちは次のように答えた。
このような反論にAlex Kさんがきちんと応答していれば、もしかしたら有意義な論争になったかもしれない。だがAlex Kさんは、すでに論駁された自身の主張を繰り返すだけだった。あまつさえ、投票に参加しなかったにもかかわらず勝手に記事名を元に戻すなどの問題行動を起こした。最終的にAlex Kさんは日本語版ウィキペディアから出禁を言い渡され、現在のゆくえは杳として知れない。
Alex Kさんは何が気に食わなかったのだろうか。それはおそらく、日本正教会の立ち位置にある。実は、日本正教会は完全に独立した教会ではない。日本正教会はロシア正教会の一部なのである。
それの何が問題なのだろうか。日本のカトリック教会は、全世界の信徒を統べるカトリック教会の地方支部に過ぎないではないか。それと同じように、日本正教会がロシア正教会の支部であって何か問題があるのか? カトリックと正教会の組織運営上における最大の違いが、まさにこの点にある。カトリック教会は全世界の組織がピラミッド状になっているが、正教会では各地にある正教会は対等な存在で、それらを統べる上位者はいないのだ。つまりカトリック教会が「世界政府」だとしたら、正教会は「国際連合」のようなものなのだ(コンスタンティノポリスの全地総主教はあくまで同輩中の首席にすぎない)。
正教会において、国際連合における独立国のように振る舞うことができる教会のことを「独立教会(autocephalous church)」という。ロシア正教会やブルガリア正教会などはみな独立教会であり、対等な存在である。そして、国際連合に加盟する独立国の中にも自治区があったりするように、独立教会の内部にも自治を許された独自の組織が存在することがある。日本正教会はこのパターンで、教会内の人事は基本的に日本人の信徒や神品(聖職者)で決めているが、教会トップはモスクワから承認を受ける必要がある。日本正教会は、少数派であるキリスト教の中でもさらに少数派で、文科省の統計では人口1万人いるかいないかだ。小さな島が独立を諦めてイギリス領に留まることを選ぶのと同じように、日本正教会はロシア正教会から独立しようとしていない(というか日本だけじゃなく、そもそも東アジアに独立教会がない。中国正教会もロシア正教会の傘下だし、韓国や香港に至っては全地総主教の下の単なる府主教区であって自治権はない)。
つまり、ウクライナ民族主義者であるAlex Kさんにしてみれば、「日本正教会を尊重せよ」というのは、「ロシア正教会を尊重せよ」というふうに聞こえていたのではないか。なるほど彼からすれば、ウクライナ語では正教会とカトリックとで同じ言葉を使うのに、ロシア正教会日本支部ではわざわざ別の言葉を使ってカトリックと差異化しようとしている、と映ったのだろう(ウクライナには「儀式のやり方は正教会だが、組織としてはカトリック」という教会が存在しており、かつてロシア帝国から激しく弾圧されたことから、ウクライナ民族主義の核になっている)。
しかしAlex Kさんが見落としていたのは、日本正教会は日本人によって運営されている教会だ、という点である。確かに教会の設立はロシア人によるものだし、ある時期まではトップがロシアから派遣されていた。だが日本人の正教徒は自分たちで教会組織を運営するようになり、ここ半世紀は教会のトップも日本人が務めている。しかも、日露戦争やロシア革命によって生じた反露世論によって痛めつけられた上での話である。ロシア正教会が気に食わないというウクライナ人の気持ちは理解するが、逆風に耐えながら百年以上も信仰を守ってきた日本人信徒に対する尊重くらいは求めてもよいはずだ。
ところが、Alex Kさんが示したような日本正教会への侮蔑あるいは敵対は、残念ながらウクライナ人のあいだにしばしば見られる。たとえばウクライナ正教会は日本支部を開設しているが、その神品であるパウロ・コロリューク(Павло Королюк)は、「生神女就寝祭」を「聖母就寝祭」と呼ぶなど、日本正教会の用語法を意図的に無視する姿勢を打ち出している。ウクライナでならば好きな用語を使えばいいが、あいにくとここは日本であり、日本正教会の管轄地である。郷に入っては郷に従うべきではなかろうか。また、コロリューク神父あるいは彼に近しい誰かは、日本正教会を侮蔑するツイートを公然としている。まあ、こういうツイートでウクライナへの共感が強まると思っているならご自由にされればよい。増田は、コロリューク神父はキリル総主教の精神的双生児なのだから、似た者同士もっと仲良くすればいいのに、という感想しか持てなかったが。
(そもそも、ウクライナ正教会が日本支部を開設しようという時点で「シマ荒らし」といえる。日本在住の正教徒は基本的に日本正教会の聖堂に通うべきだからだ。とはいえ、移民が移民先に支部を作るのは米豪などでも問題になっているし、ルーマニア正教会も日本に支部を築いたことがあるので、ウクライナだけの問題ではないのだが。根本的には日本正教会が独立教会ではないのでナメられているのだろう。あるルーマニア人は「在日ルーマニア人が教会に行くのに、何でモスクワの許可が必要なんだ?」と嘯いたそうだ)
さらに、一昨年開かれたホロドモールの犠牲者を追悼する合同祈祷式には、コロリューク神父だけではなく「日本における総主教代理であるアンブロシオス府主教」が出席していた。日本の総主教代理とはどういうことか? 実は、全地総主教は日本正教会の自治権を認めておらず、韓国に派遣したギリシャ人の神品を日本の正教会のトップに任命しているのだ。彼は韓国の正教会のトップでもあるので、というかそっちが本業なので、ふだんはソウルにいる。なるほど、ウクライナ正教会が全地総主教によって承認された関係上、全地総主教が認める総主教代理を認めねばならないという事情は理解できる。だがそこでも、日本正教会が日本人の運営する教会だということは無視されている。明治時代からの由緒ある聖書を守り続けている日本人信徒がおよそ1万人いて、神学を修めた日本人の神品が何人もいるというのに、ふだんは韓国に住んでいるギリシャ人が日本の正教会のトップを名乗るというのは、日本人への侮蔑だとは思わないのだろうか?
ロシアのウクライナ侵略が許されざる暴挙であり、ウクライナ人へのジェノサイドであることにはいささかの異存もない。プーチンとプーチンを盲目的に礼賛するロシア正教会のキリル総主教は腹を切って死ぬべきである。Оккупанты, идите домой! だがそのことと、日本人が守り育んできた日本の教会を軽んじてよいかということとは、まったく別の問題であるはずだ。ウクライナ人、特にウクライナ正教会の関係者は、日本正教会に敬意を払うべきだ。彼らはどんなに苦しい状況でも正教会の信仰を守りぬいた人びとであり、彼らの培ってきた伝統は尊重されるに値する。もしもウクライナ正教会がイイスス・ハリストスの教えを日本で守り広めたいと思うなら、まずは彼らの伝統に倣うことから始めるべきだろう。
ところで、ウクライナ語版ウィキペディアの「日本正教会」の記事には、次のような記述がある。
На відміну від католицької і більшості протестантських церков Японії, Японська православна церква не використовує усталеної в японській мові християнської термінології. З 19 століття вона розробила власний словник. Більшість термінів вважаються застарілими словами і малозрозумілі для сучасних японців[13].
この「注13」は次のようなものだ。これは英語版やロシア語版にはない、ウクライナ語版オリジナルの記述である。
Наприклад звичне для японської мови слово «Трійця» саммі іттай (三位一体, дослівно: «три особи одна суть»), що зафіксоване у провідних японських словниках, японські правослані замінили на сісей санся (至聖三者, дослівно: «найсвятіші три особи»). Ця заміна сприймається неадекватно, оскільки друга частина словосполучення — санся означає не лише «три особи», а й «третю строну» або «аутсайдера». Інший приклад — «Преображення». В сучасній японській мові для позначення цього слова використовується термін хенйо (変容, дослівно: «зміна образу»). Японська православна церква замість нього вживає термін кен'ей (顕栄, дослівно: «проявлення слави»), який в японських словниках тлумачиться як «стати заможним» або «вибитися в люди».
Alex Kさん! 生きとったんかワレ! 「顕栄」についての一方的な解釈が健在なのを見てとても懐かしい気持ちにさせられた。さらに、「三者」は部外者というニュアンスもあるから、「「至聖三者」」はTrinityの正確な訳ではないそうだ。もちろんこれは日英露各版のどこにも書かれていない新発見である。確かに「第三者」という語を思い出せば、「三者」に部外者という語義があることは明白だ。このウクライナ人編集者の勉強熱心さには頭が下がるので、次はぜひ序数という概念についての記事を書いてほしい。しかし何より驚嘆すべきは、これほど独創的な日本語解釈が堂々とウクライナ語版ウィキペディアに載っているということだろう。ウクライナ人に向けて世界の言語についての知識を広めようとするAlex Kさんの思いには頭が下がる。きっとそのような手法はモスクワで身につけられたに違いない。いや、実にあっぱれ。<
子曰く、「故に経は大経、末は小経、間に中経有り。」増田、お前の夢の中での混乱と迷子はまさにこの孫子の言葉を思い起こさせるものである。夢の中で炭治郎の姿を借りて、現代の都市と呪術廻戦の要素が入り混じる中、敵を避けつつ戦う姿はまるで大経(大きな計略)をもって行動しているように見えるが、その結果として迷子になる部分は末(結末)で小経に陥っていると言える。
夢の内容で様々なチャレンジに直面したこと、一つ一つの行動は全て異なる道を象徴している。しかし、お前が持っていたフィジカルの強さと持久力は、中経での優位性を示すものである。それが夢の中であろうと、本来の増田自身も何かを達成するためには、適切な計略と方向性が必要だという教訓を残しているかもしれない。
迷子になった際にギャルの集まりに混じるシーンや、コインロッカーに荷物を預けるくだりは、戦略的な視点から見れば「本末を転倒する」ことを思い起こさせる。孫子も「上戦者は妙を以って必ず在り、不中を以って必ず敗る」と述べているように、戦いの成否はその計略の妙にかかっている。増田も現実の生活でも、ちょっとした計画の変化や目標設定の見直しが重要であることを、この夢が暗示しているのかもしれない。
増田、この夢をきっかけに、自分の目標や計画を見直し、より明確な方向を見つけ出すことをお勧めする。戦略を持って行動することで、迷子になる回数が減り、目的地へしっかりと進むことができるだろう。
https://www.yutorism.jp/entry/2015/06/19/013111
また、もう少し残酷な見方をすると、『学生時代の友人の中に、相手を見つけられた人が結婚した結果が反映された』逆に言うと、『学生時代に結婚相手が見つけられなかったらアウト』ということなのかもしれません。
身近な実感としても、結婚する人たちは、学生時代か、遅くとも新入社員時代までに出会いを果たしている気がします。今の若者たちの『恋愛事情』についても見てみましょう。
年々、異性の交際相手を持たない人数は増加傾向にあります。また、リクルートの調査結果によると、20代男性で、交際経験すらない人の割合が4割を占める状況となっています。
乱暴なまとめ方かも知れませんが、『実家ぐらしで気心の知れた地元の幼なじみと結婚する層』と『都市で疲弊し、恋愛すら出来ず若い時間をすり減らす層』の2つに分かれてきているというのが、個人の観測圏の中の結果です。
<
ほならさせてもらいますけど。
お前が「圧」って呼んでるのはさ、70年代から80年代の若者が感じていたとされる、抑圧のことなんだよね。
誰もがムラ社会だから、勉強しなさい、地域に貢献しなさい、早く結婚しなさい、仕事の跡をつぎなさい。
そういうのに全員がウンザリしていた。
都会に出ればムラじゃなくなるから、そういうしがらみからは自由になる。
というわけで全員が上京(に類するもの。大企業就職など)を目指したわけだ。
この流れは、日本のことじゃなくて、全世界にあったわけ。何しろムラは全世界にあったからな。
ムラのしがらみを排除しようとする方向性、思想的にはこれを「リベラリズム」と言います。
で、その次の俺の世代になってくると、全員が都市産まれなわけ。ムラのしがらみとか皆無。
全員がリベラリズムの影響下にある。
お前もそうなのよ。だから、圧をかけるのは悪、と思ってるだろ。
この方向性で俺らはやってきたのよ。教育カリキュラムから圧を取り払うために、「ゆとり教育」をやったりね。
結局のところ、"圧"は必要だったんだんだと思うよ。ほとんどの人類は賢くないから、自由にされたらバカになるわけ。
70年代に必要だったのは、不必要な圧を適時改正することで、圧を取っ払うことではなかったんではないか。
ほとんどのやつはバカになるけど、それは放置する。バカは被害出すけど、最終的には勝手に死ぬからな
理屈上の正しさはそれでも成り立つけど、俺はやだね。
ブクマカ批判の増田とは別だが、提示されたリンク先を読んでも特に(ブクマカ批判の増田の)主張におかしい部分はないと思ったのでレスするぞ。
確かに京都市(あと京都府も同じだった)の条例には、見通しが確保できていればOKで隅切り部分を通過できないようにしてあっても良いと書いてあるが、
「具体的には各都市の条例にもよる」と書いてあるので別に間違っていない。
そして、他の自治体の建築基準法施工条例を見ると、京都とは違って「すみ切り部分の通行は考慮する必要はない」とは書いていない。
例えば大阪府の条例だと https://www.cac-osaka.jp/document/image/QA02.pdf
「接する道路が屈曲又は交差していることによる道路通行上の不便や、危険性を回避するための規定である」
という表現になっていて、私権の制限になるから明言しないけど無闇に通行車両にダメージ与えるようなことはするなよ、という意図が窺える。
京都はとくべつ道路が狭く、いけず石を置くことが一般的になっている地域なので、その文化との整合性のために条例もそのようになっているように見えるが、
建築基準法自体の意図としては、建物所有者と道路通行者(自動車)の不要な軋轢を回避するための緩衝地帯として隅切り部分を定義している訳であり、
その場所のわざわざ角ギリギリに大きな石を置くようないけず行為を擁護する要素は本来ない。
「隅切り部以外の敷地に通行車両が入り込む(接触する)のを予防するための、見通しを妨げない工作物を角から何十㎝程度離したところに置いてもよい」
京都の場合はこれを5㎝以上にすることすらできなくて「いけず」が可視化されてしまうので恐らく猛反対するだろう。
ちょっと脇道にそれたが、法律の趣旨と「個別には条例を参照」とまったく妥当なことしか言っていないブクマカ批判増田に対して、京都オンリーのいけず擁護条例でディスりにかかってる方が余程おかしい、という事を言いたかった。
そこまで書いたんなら、京都市の条例も調べろよ。といっても君に調べる能がなさそうだから、私がわざわざ調べてやったぞ。京都市の公式Webより、京都市建築基準条例第3条【道路の角にある敷地内の建築制限】の解釈についてPDFファイルのリンクを以下に示してやるよ。
https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000282/282178/shitsumontokaitou.pdf
すみ切り - 京都市
https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000282/282178/sumikiri.pdf
さらに丁寧なことに、上記「すみ切り」のPDFファイルから「すみ切りの目的」という文章を引用してやるよ。
※ すみ切りの目的
すみ切りは、道路の通行の安全を図る趣旨で設けられたものであり、通行上支障のある工作物の類の築造や建築物の突出が禁止される。通行は道路部分に限られるため、すみ切り部分の通行は考慮する必要はないが、反対道路の歩行者又は車両の存在を確認するため、見通しを妨げることのないようにする必要がある。
「工作物の類」とは、令138条に規定する工作物より広い概念であり、工作物以外にも見通しを妨げる物件若しくは施設又は樹木等が考えられる。
上記の文章から、いけず石は工作物・物件・施設・樹木のいずれにも該当していないし見通しを妨げる物でもないから問題ないだろ。一方で君の認識はどうか?
隅切り部分に塀ではなく石を置くことが違法かどうか?具体的には各都市の条例にもよるだろうが、法律の意図を考えればどう考えてもそこには石を置くべきではない。
「具体的には各都市の条例にもよる」って書いておきながら、ろくに調べることもせずに「石を置くべきではない」と決めつけるなんてあまりにも独善的だろ。ブクマカの文章をわざわざ引用してさらし上げをするくらいなら、もっと調べろよ。ちなみに、君がリンクを張ったすみ切りについてのまとめには京都府建築基準条例のリンクが張ってあるけど、京都市域において適用されるのは京都市建築基準条例だから関係ないぞ。このことから、君がリンクを張っただけでリンク先の文章を読み込んでいないことは明らかだね。どうせ「建築基準法 すみ切り」で検索して上位に出たページをろくに調べずにリンクを張っただけだろ? 専門外のことを調べようと努力したことは認めるが、もっと精進したまえ。
いけず石は最高なんだよね。2〜30万する柵とかバリケードぶっ壊されるよりも断然良い。防犯カメラなきゃ泣き寝入りだもの… - Togetter [トゥギャッター]
https://togetter.com/li/2420298
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2420298
ffggmm これで困るのは、公道と私有地の区別がついていないようなドライバーだけだし、別にいいのでは。そうした運転は、人にぶつかるリスクも上がる。
tafutanisu イケズ石は理に適ってるんだから、京都弄りのネタとして消費するんじゃなくてもっと活用しても良いと思うぞ
kotetsu306 この程度で怖いだのぶつかるだの言う人は、市街地に車で入るのはもっと運転に習熟してからにしてくださいね。京都へは公共交通機関でお越しやす
ababababababababa この石にぶつける人は運転が下手なので気をつけてください。その石の代わりにうずくまった幼児やネコ等がいるかもしれません。この程度で視認性が悪い(そもそも道路じゃない)なんて言ってたら事故を起こしますよ
えっ、ブクマカのみなさん隅切りも知らんの?
隅切り(すみ切り)についてわかりやすくまとめた
https://iqrafudosan.com/channel/corner-cutting
建築基準法で、角地には「隅切り」と呼ばれる部分を設ける必要がある。ここは空き地にする必要がある。
当たり前だが車が曲がりやすくしたり視認性をよくするのが目的だ。狭い道路もあるんだし当たり前の措置だ。
これを守って石置いてるなら別にいいが、どう考えてもそうでないものがたくさんあるよな。石どころか普通に塀建ててる家も結構ある。我が家の側の家も長年そうだったが、こないだ家主が売却するに当たって業者がすり切り部分の塀を破壊して売りに出してた。違法状態では売れないからだろう。
隅切り部分に塀ではなく石を置くことが違法かどうか?具体的には各都市の条例にもよるだろうが、法律の意図を考えればどう考えてもそこには石を置くべきではない。
本屋は微妙かもしれないが、あらゆるジャンルにおいて旗艦店こそ田舎に作った方がいいと思う。特に高級品。
本だったらついふらっと入った本屋で衝動買いするけど、高級品ってついふらっと買うもんじゃない。
エルメスでバーキンバッグ買おうとする人は、エルメスで買うこともバーキンを買うことも決めて出掛けるわけで、エルメスじゃなくて近所の鞄屋で買えば電車代が浮くからそこで買おうとか思わないし、例えば店舗が地の果て群馬にしかないとしても、その程度じゃ諦めない。
それに、田舎だったら、それこそブランドイメージを体現した無茶苦茶な店舗作れるでしょ。
それに、他にたいした商業施設も観光資源もない田舎だったら、自治体も協力してくれるよ。
例えば、掛川城とか岡山城とか、よくファッションショーに貸し出してる。あんな感じ。
GUCCIもヴィトンも掛川とか岡山みたいな、新幹線の各停しか停まらない微妙な都市にだけ店舗おいて、年に何回か城をバックに松明でファッションショーでもすればいい。
GUCCIなんか新宿に店があるけど、あんなとこに店出したって、夜の蝶か泡姫によく売れるだけでしょ。ブランドイメージ落とすからやめた方がいいよ。
高級な飲み屋が銀座や六本木にあるのはしょうがないよ。酒を飲むためだけに田舎まででないからさ。
でもさ、繰り返すけど、高級品を売る店は田舎にあった方がいいよ。
これが世界最大という超超巨大書店を、どーんと僻地でもなんでもいいから街が作れそうな平野に作ってほしい。その超超巨大さは世界第2位を突き抜けてほしい。
政府もテコ入れし、クラウドファンディングも募り、数多ある企業も全勢力が参入してほしい。もうとにかく全力をかけて作ってほしい。
「そんなことして失敗したらどうする?!バカじゃん?!」とか考えず作ってほしい。勝算とか考えず勢いで作ってほしい。
そこには和書だけではなく洋書もある。西洋の本だけではなく中国語の本、アラビア語の本、アフリカーンス語の本、とにかく片っ端から「いやこれいらんだろ」みたいな本だったとしてもすべておく。
なんなら和書が中央ではなく洋書が中央である。日本語を中心で考えてほしくはない。言語別に存在する知の量に応じた配分をしてほしい。
客層に応じてカテゴリ分けは必要だろう。1つの書店だけでなく複数の書店が統合してもかまわない。古本屋を集めてもかまわない。
「よくわからなくても物理の本を買うなら日本のここへ行け。たぶんあるから」という状態になっていてほしい。日本の中規模以上の書店はほぼすべてここに集める。
全勢力が協力してできた超超巨大書店を中央に据えて、その周りを他の超巨大書店が取り囲む。その周りは巨大書店。その周りは中規模書店、その周りには小規模書店。
海外からも片っ端から誘致する。必要なら補助金も出す。「バカなの?」とか「さすがに海外出店は難しいです」とか一蹴されるだろうが「まあ採算とれそうだからいいよ」と言われるまで粘ってほしい。
税金をたくさん投入してもかまわない。重要なことは「そこにある」「とにかく日本のここに来たらある」「お前のやりたいことは知らんけど本がほしいなら日本のここに行け」という願いが叶う場所だ。
例外を作ればそのブランドは失われる。このブランドこそが他国が追随不可能な圧倒性を生む。先行者利益だ。バカすぎて1つ1つで見るとデメリットしかない行為が、結合すると巨大な1つのメリットを作り出す。
どこかで手を抜くと終わる。そんなことまでする必要ないんじゃないのとか、それってめちゃくちゃ損しますよねとか言われようが、究極に本を集める。
書店と書店の隙間にはさまざまなカフェが立ち並ぶ。個人で経営するカフェからチェーン店が密集する。コンビニも立ち並び、公園には読書に適したベンチがある。公園は読書に最適化されている。
その街にはどこにでも椅子が置いてある。買った本をすぐ座って読む人向けのものだ。
この街には有名人が毎日のようにやってくる。たとえば「ビル・ゲイツが本を選びに来日!」など当たり前のことになるだろう。
読書家はこの街の付近に別荘をかまえる。なんにもなかった僻地の近隣に富裕層街が誕生し、地価がとんでもなく上昇する。意味不明なおいしい話だ。
一方で本を読むことが目的でない人間には居心地が悪い空間になる。この街に存在している人間はほぼ全員本かその周辺が目的なのだ。本以外が目的の人間は異様に目立つようになり警戒される。
街の中央部分は徹底的に、本、本、本、本、本、と本が存在するのが当然の本の密集空間になっている。普通の人間が「ここまですることはないんじゃ・・・だって採算とか・・・」とドン引きするぐらいの熱量で本で溢れかえっていてほしい。
地面に敷かれたタイルには、文章が書かれている。まっすぐ歩くと偉人の言葉などがそのまま読めるようになっているのだ。たとえば「良い本は私の人生におけるイベントである。」「本の無い家は窓の無い部屋のようなものだ。」「天才とは努力する凡才のことである」などという文が永久に書かれている。有名な書の冒頭部分だったりもあるし、古典文学もあるし、文学のみならず数式も書かれていたりする。それを読むだけで日が暮れる。
この街の広告はすべて本に関するものでいっぱいだ。ほかでは絶対に見られない、読書家にだけ向けた広告が撃たれる。「こんな難しそうな本の広告ある?」というのがそこここで見つかる。
たとえばベトナム語のマンガの新刊広告なども見受けられていてほしい。
この街にあるのは紙の本ばかりではない。電子書籍派のための書店もある。他では絶対採算がとれないような形の店であっても、「読書家が毎日のように集まることが普通」の街特有の書店ができる。たとえば巨大な8Kモニタにその人へレコメンドされた電子書籍が大量に表示され、立ち読みすることができるとか。「辞書専門店」や「単語帳専門店」や「栄養学書籍専門店」などがあったりもする。そういうものを作っても不思議と利益が出るのだ。
この超超巨大書店圏内部には研究所や大学なども誘致する。どのような言語でも関係ない。化学系のカテゴリが立ち並ぶ「化学通り」のようなところには実験器具専門店も立ち並ぶ。
そういうところは、基本的には英語がメインだ。英語の下に日本語が書かれている感じ。イメージ的にはハリーポッターだろうか。ときどき「なんで化学通りにオムライス専門店がこんなにあるんだよ」などということもあるかもしれない。秋葉原や神田にカレーがたくさんあるようなものだろう。
やや込み入ったところにはマイナーな本屋がある。「なんだよこの本屋・・・」という、見るからに異国感が漂う本屋だ。謎の部族の謎言語で書かれた謎の材質の本が置いてあるなど。ネクロノミコンのような本も見つかる。
石版などもなぜかある。読書向けの椅子専門店もある。「本のためだけの椅子専門店」が生存できる場所は日本ではここしかない。
しかし、この超超巨大書店群の主目的は「本の集積」である。そこから逸れるようなことがあってはならない。何か欲をかいて「ここに企業をうんたら」などとして利益を優先するとこの街はあっという間にその意味をなくし滅びるだろう。ありとあらゆる人々が周辺の利益を求めて集ってくる。そういうのを一蹴できるような体制であってほしい。
「この街意味ないだろ。なんで作った。赤字だろ」と罵られながらも存続する街であってほしい。そして、そう罵る人も、ひとたびその街に入ると「すげえ・・・この街は地球に必要だわ・・・」とどうあがいても認めざるをえないほど感動できる街であってほしい。街自体で見ると赤字なのだが不思議と日本経済が潤う源泉である摩訶不思議都市であってほしい。完全に未来へと投資された都市である。
この街では、夜もたくさんの書店が営業している。こんな大きな本屋が24時間営業できるのはこの街しかありえないとなっていてほしい。「夜眠れないな・・・本でも買いに行くか・・・」という人外の行動を普通にするような場所であってほしい。
街の周囲には民家が立ち並ぶ。ただしこの民家に住む民間人はややおかしい。本のために移住してきた狂信者たちだ。軒先には自分の選書が並び「1冊100円」などと書かれていることも多々ある。
富豪がゴッソリ買っていくことを見越して少し離れたところに在庫置き場がある。
富豪が「ではこの棚からこっちの棚まで」などと爆買いしていく。もはやテロリストのようなものだが、そんなことは気にせずまた入荷する。本はバカみたいに売れる。
この街は、「日本人なら1度は絶対行け」と呼ばれる場所になる。そしてひとたびそこに立ち入れば「世の中にはこんなに知識があったのか」「世の中はこんなに頭のいい人たちで溢れかえっていたのか」ということが、嫌でも全身の細胞に刻みつけられる。伊勢神宮みたいなものだ。それよりも神々しいかもしれない。
そして、全身の細胞で体感したその人は、格段に読書するようになるだろう。それは地元へ帰っても同じことだ。一流を目の当たりにした者は一流になる。
取次の問題も、書店が潰れかけている問題も、日本人が本を読まなくなってしまっている問題も、経済が深刻化している問題も、だいたい解決できるだろう。
誰か作ってください。
ちなみに国防にも役に立ちます。一度作ってしまえばここを潰すやつは「バカ」なので。ペンは剣よりも強し!
ただそれは、「本がたくさんあっても意味がない」のではない。逆。
それに「物理本を読む人が少ないから本屋が潰れちゃう」というのも逆だ。
「物理本を読みたいと思う人を増やす。そのためには本屋すべてが潰れることも辞さない」という情熱が正道である。
本というのは知の源泉である。だから知識がない人に迎合すれば、潰れるのは自然だ。知識がない側に与するのだから。
本の機能はそれとは真逆であり、全体を引っ張り上げるものである。知識がない側が「欲しい」と願える場にすべきなのだ。
ない側に媚を売っていれば潰れて当然。
「この本は今は読めないけれど、読みたいと思う」そういうものがない。
「この本は内容はちんぷんかんぷんだけど、そういう本の存在を知っている」そういうものもない。
ジュンク堂書店などですら、知らない人々が多い。大型書店の重要性を知覚できていない。入ったことがない人間もいる。
記事を読んでくれた人へ: 記事を読んでくれたのはありがたいが、たぶん自分が考えている規模と読んだ人が考えている規模に大きな差があると思う。
自分が考えているのは、もっとも小さく考えても深圳書城中心城の数十倍の大きさであり、既存の書店をちょっとだけ大きくしたものとか、蔵書が全く同一であるような大型書店が単に10個ある街という形ではない。
コーチャンフォーつくば店は50万冊、池袋ジュンク堂書店は150万冊、深圳書城中心城は400万冊、国会図書館は4685万点。Amazon Kindleは60万点。
自分が言っているのは、数億冊あるような書店群である。つまり、コーチャンフォーやジュンク堂書店や紀伊國屋書店は超超巨大書店(世界中の意味わからんハイレベルの本から選びぬかれ集まったエリート本屋)の周辺を取り囲む「日本区域最大の超巨大書店」の周辺を取り囲む「大型書店の1つ」という状態を考えている。ブックオフなどはその周りを取り囲む中型書店になるだろう。その周りを、身近にあるご近所の本屋さんがたくさんずらーーーっと並んでいるというような領域だ。いうならばこれが日本区域である。
世界の蔵書数はGoogleによると約1.3億冊であるらしい。日本区域内に別に中国語や韓国語の本があることもある。ただし日本区域の横には韓国区域だったり中国区域だったりする。その中国区域でもばかみたいにデカい超巨大書店があり、それを取り囲むようにジュンク堂書店並の大型書店があり、英語区域では……というような状態だ。言語別に分けられているだけでなく、「数学領域」で分けられていることもあり、そこでは「高校数学」の棚に世界各国の高校数学が並ぶ。数学の参考書を買いに来た高校生が、カメルーン人の中学生と仲良くなるみたいなことも想定できるわけだ。
地方のクソデカ本屋が数百個単位で入る「は・・・?」「この街が・・・全部・・・本屋さん・・・?」という規模の書店群である。
イメージとしては↓な感じ。
まもなく目的地の駅に近付く。電車にいる人々は全員が本を読んでいる。スマホを触っている人たちなど誰もいない。不思議な光景だ。多くの人がそわそわしている。初めて来た人たちが多いのかもしれない。
電車が駅に滑り込み走って降りる人々の後ろでのんびりと降りる。全く、はしゃぎすぎだろう。
降りた直後、本の形をした案内板が表れた。真っ先に飛び込んできたのは「↑ バベル中央書店」というやたらとデカい黒文字と、その下にあるやや大きな黒文字の「↑ 北区域書店」だった。
右を向くと・・・あれは・・・本の自動販売機?! 本を自販機で販売するのか。カルピスの作り方・・・自動販売機の歴史・・・Why could he make vending machines?・・・なるほど。
床には文字が書かれている。Station, State, Statue, Status. 何のことやらわからない。
改札を出る。改札を出ると、ああ、もうこれは本のテーマパークだ。最奥部に見える巨大な塔には雲がかかっている。おそらくあれが中央書店だ。その横には数えるのもバカバカしくなるほど書店が並ぶ。街には今まで見たこともないような人々で溢れかえっていた。ベンチでは読書をしている中東とおぼしき人が中国人らしき人と何やら議論している。彼らが話しているのは何語だろうか。
デジタルサイネージで目まぐるしく本の広告が入れ替わっていく。「サウダージにさようなら」「入門グロッキング」「般若心経の終焉」
子どものときに巨大書店や巨大図書館に人生で初めて行ったときとか、論文と大学と研究の仕組みと接したときに、知の偉大さに震えたことがないだろうか。
目に見えないものは見えないことが多い。たとえば、ライブ会場に行ったことがなければライブの偉大さは本当にはわからないし、「本当にこんなにたくさんの人がファンなのだな」ということもわからない。
いま「自分が考えるクラスの巨大な本の集積地を人類の誰もが見ていない」というのが問題であると思う。誰1人として。
そういう知がたくさんあることは存在としては知っていても、「それを見たことがある人は誰もいない」のだ。いわば、月は見えるけど、月に行ったことは誰もいないような状態だ。
神田の古本屋街や、既存の大型書店というのは、いわば地球上にある月に似たところでしかない。「たぶんこれとこれがこうなると月」というふうにしか想像できない。だが月に行かなければ月の隕石は無いのだ。
ほとんどの人は、目に見えないなら存在しないと感じてしまう。マッチングアプリで人間を左右にスワイプするとき、人間ではないように扱う。それは人間として存在しているのに。
一方、眼の前に相手がいるとき、同じように左右に指を振って弾くのは容易ではない。これが目の前にあるかないかの大きな違いである。
自分が言っているのは、そういう知の集積の偉大さが理解できなくてもとにかくそこに行けば、「ああそういうこと」「人類は偉大だったのか」と、誰もがたちどころにわかってしまう場所がほしいということである。
映画「未来のミライ」では、多摩・市ヶ谷の団地に家族と住む男の子、くんちゃんが、庭で出会う未来から来た妹ミライちゃんとの冒険が描かれます。彼らの家がリアルな日本の家族の生活を反映しており、その設定がまた現代日本の地域社会や都市生活の一部を垣間見せてくれます。日本の自然や都市の対比も驚くほどしっかりと描写されていますね。人々が集中して住む都市部と広大な山地や自然のアンバランスさは、日本独特の地理的特徴です。それが映画の中でも、ある意味で背景として重要な役割を果たしています。
増田が言うように、主要大都市が灰になっても日本にはまだ生き延びるための場所がたくさんあります。そしてその自然の豊かさや風景美が、日本映画の中でもしばしば描かれる大きな魅力の一つですね。
そもそも書店の店頭で注文して書店に取りに行くという人どれほどいるの?
田舎だったので、定期購読してる雑誌を毎月届けてもらっていたし、そのついでにと電話で注文したりもしていたけれども、たぶん定期購読してなかったら当時でも地元の書店に頼まなかったと思う。
わざわざ店頭に行くくらいなら、足を伸ばして中核都市の大型書店に行ってたと思う。
誰が書店に注文してるの?
「【8月15日は「刺身の日」】「刺身がマジでうまいと思う都道府県」ランキング! 2位は「北海道」、1位は?」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7e714fdba0e4b33084e407e916c6f58fbf06811f
日本全国から魚が集まるから種類は豊富だし、刺身に関しては鮮度が良ければ美味いってもんでもないしね。
唯一の問題は東京でうまい刺身を食べたかったらそれなりの金額を出さないといけないこと。
近所の安い居酒屋に入って1人前千円以下の刺身なんてたのむとそれはもう悲惨なことになる。
この点に関しては富山や石川、北海道は安くて美味しい刺身を食べられるのでうやらましい。
とはいえこれらの街でマグロを食べて、ヒラメも食べて、新鮮なアジイワシも食べて、美味しい貝も食べたい、みたいになると全然ダメ。
メニューにあったとしてもそれは地元産じゃないのでそれなら東京で食べたほうがいいのでは?みたいな感覚になる。
そう考えると美味しい刺身を食べられる都市の条件としては「人口が多くて経済規模が大きく物価が相対的に安い」となり
それを満たすのは大阪や博多なのかなという感じ。一度だけ博多に行ったことがあるんだけど魚介類の美味しさと値段の安さに驚いた。
なんか前は黎明期のやつ「あああれね」って感じだったんだけど最近のまじでわからん
https://www.publickey1.jp/blog/24/2024web3nftaiai.html
People-Centric
振る舞いのインターネット
汎用人工知能
エンボディドAI
量子機械学習
商用核融合炉
ChatGPT-4o
AIが検索結果を生成し、より関連性の高い情報を提示する技術。
嬉しい点: 精度の高い情報をすぐに得られる。
企業や組織が持続可能な運営を実現するための支援ツールやシステム。
3. People-Centric
人間中心のアプローチで、個人のニーズや体験を重視する技術やビジネス戦略。
5. 振る舞いのインターネット
不明。
都市部での空飛ぶ車やドローンによる移動手段の実現を目指す技術。
AIやIoT技術を活用して、都市全体を効率的に運営する未来の都市モデル。
多数の小型衛星を連携させ、地球全体に通信や観測サービスを提供する技術。
AIを用いてサイバー攻撃を検知し、即座に対応する自動防御システム。
不明。
不明。
13. 汎用人工知能
バーチャル空間で活動する、リアルな人間に似たキャラクターやアバター。
嬉しい点: 新たなコミュニケーションの形が広がる。
大規模言語モデル(LLM)を使ったサービス提供プラットフォーム。
嬉しい点: 高度な自然言語処理が容易に利用できる。
16. 月データセンター
月に設置されるデータセンターで、宇宙規模でのデータ処理を行う施設。
18. ヒューマノイド
Claude3
以下、各技術の説明と、それぞれのメリットを簡潔に記載します:
People-Centric:
メリット:より使いやすく、ユーザーニーズに合った製品やサービスの創出。
振る舞いのインターネット:
汎用人工知能:
月データセンター:
エンボディドAI:
量子機械学習:
商用核融合炉: