はてなキーワード: 選民思想とは
できる人ぶったりまともぶったりしてるけど、その実だいぶ拗らせているしコミュニケーション能力が低いから、自分のゴミ袋を開いて、何がくせーのか改めて考えてみたくなった。
と思いたい気持ちが強い。なんでもかんでも「かわいそうな自分」になるための理由をこじつけて、かわいそうな被害者でありたいと行動しているきらいがある。
喧嘩になったら、自分をさりげなく被害者側に置いて話しがちだし。他責傾向が強いといってもいいかも。
ミソジニーか?と言われるとこの辺の判別が難しくて、多分妬みとかの方が近いんだと思う。実際ブスな女とかは全然なんとも思わないので、500%妬みだろうなと書いていて確信した。
ネタマシー。でもめっちゃ努力したいわけじゃないから、生まれつき造形いいひととか口では「素敵だね」なんてニコニコしながら「ずるい」って思うこと多い。
卑屈っぽい言動するけど、それって相手を責めるためであって(へこむ私の演出で罪悪感を刺激しようとする)本当に自分のことだめとは思っていないはず。
だってダメなら改善しようとするし、そんなの受け入れてわざわざ人様に披露することもない。
たぶんちょっとある。わりと他人見下しがち。人様のおかげで今があることを認めきれてない。
それなりに努力したという自負がある分、みんな自分ほど努力してないとかちょっと考えがち。
なんか書き出してみると、本当に自尊心低いんだなと思った。低いから威嚇するみたいな。
「無関心」「みんな違ってどうでもいい精神」的なのは心から思うが、関心の強い人全くない人いろいろで難しいね。育った文化の違いなんだろうか。多様性教育で変わるんかね。まさに、変人のAさんをそれを躍起になって正そうとするBさんという2人が今の悩みの種。
「互いに萎縮せずギスギスしない人間関係」が個人的な目標の一つで、欲を言えば「互いに尊重し合える」をつけられたらこの上ない至福かなと思う。仕事しやすいし、気苦労がなくて楽しいしね。
まあ寛容でありたいおおらかでありたい和やかでありたいと思うあまり、コミュニティに害をなす奴に不寛容になり始めてしまうパラドクスはある。難しい。
リベラリストの多い?はてなで「均一な人間を集める」「家柄と学歴」と沢山出てきて結構ショックだった。文化ごった煮のコミュニティとか論外なん……?ってか教育格差肯定するのって結構勇気いらない?「DQNのガキは公立小にぶち込んでおけ。檻に入れときゃいいんだ。」的なこと言うじゃん……。いろんな人と関わる能力を身につけるの大事じゃない?
1つ言わせて頂きますと階級意識選民思想を子供に絶対植え付けないほうがいいですよ……。将来的には子供がその価値観に縛られて苦しむことになりますよ……。都内の公立小の現状は存じ上げないので何ともいえませんけど、子供のオープンマインドを大人が歪めるのは支配的すぎると思います……。
(追記終わり)
小学校なんかだとさ、「みんな仲良く」とか「やさしくなろう」とかでテキトーぬかすけどさ、あれ効果全くないじゃん
ませた馬鹿なガキとか「どうして仲良くしなくちゃいけないんですか〜w」とかいうだけじゃん
でもさ、馬鹿なガキにも底辺いじめられっ子にも居心地の良い学級はメンタルに良い影響を及ぼすわけじゃん
いじめっ子なんかは、居心地の悪いクラスでお山の大将して子供特有の全能感を振りかざす方が平和で居心地の良い諍いの少ない学級より楽しいかもしれないけどさ
「いじめる側になっていた」っていう事実がその先の人生に及ぼす悪影響ってでかいと思うよ
まあいじめっ子にそんなこと生涯理解できないかもしれないけどさ
ともあれ、いじめリーダー格になるような極々一部の逸脱者を除いてさ、普通の人々は居心地の良い学級の方がいいわけじゃん
「なんとなく平和でそこそこ居心地の良いコミュニティを作るために、各人が労力を払う」払える能力ってその先の人生でもめちゃくちゃ役に立つと思うんだよな
だから学生のうちに身につけられたらいいと思うし、大人になってからも強化していきたいじゃん
よく(まれに)あるのが、気配り上手なムードメーカーが引っ張ってくれていい感じになるケースだよな
ああいう気の利く善良な人がゴロゴロいりゃあいいんだけど、あれは完全に才能だよな
子どもの頃、担任で学級運営がうまいなと思ったのは、落ちこぼれにみんなの前でこまめに声かけて愛されキャラに仕立て上げる先生。「〇〇はまた寝てるのかあ」「△△は仕方ないなあ」といった調子で。無論これも下手なやつがやったら最悪の結果が目に見えてるやり方だが上手いなと思った
影の薄い人間にリーダー格がこまめに声をかける、ってのはハマれば強いのな。でもやはり「あっオタクくんも笑ってるよ」になりそうで怖い
地味ながら尊敬するのは、「〇〇ちゃん癒し〜」とちょっと浮いてるやつを可愛がる女子だよな
仕事先で参考にしてるのは、Aさん、Bさんといちいち名前を呼びながら話を振る奴。コミュニケーションの場で満遍なく話を振ってくれるやつがいると、全員がコミュニティに参加できる。円滑なコミュニケーションって業務効率にめちゃくちゃ影響する。ヤバイ。うちの部署にもいて欲しい。
きちんとしたビジネスの関係だとその程度の気配りでも上手くいくけど、底辺の集いだとなかなか難しい。昔いたバイト先はセクハラオヤジの店長と大学生をいじめる中卒フリーターDQNと手癖の悪いパートのおばさんみたいな地獄で、ああいう集団はどうやれば上手くいくのか不明すぎる。
そこは奇跡的にも可愛い女子大生の登場で、DQNが惚れ込んで公正、おばさんが世話を焼き出し店長のセクハラから女子大生を守り、と上手く回り出しだが、俺の手ではどうにもできなかった。
俺は雰囲気のいいコミュニティが好きだから、結構研究しつつ尽力してるわけだけど、腹が立つのはそういう人の努力を水の泡にするためかのように自分の自分の好き嫌いを露骨に表に出すやつだよな。雰囲気ぶち壊し。あと悪口の多いやつ。
愚痴らないとやってられないわ〜じゃなくて、愚痴愚痴言うのはいいから他所でやれよとイラッとしてしまう。いい歳してそれってどうなんだよ。もう少し環境を整える努力をしてくれたっていいじゃないか……
俺はただ仲良く平和にやりたいだけなのにさ、なかなか上手くいかないよなあ。「仲良くしましょう」じゃなくて仲良くする方法を教えてほしいわ。B君を迫害し始めてるA君をどうやって諌めたらいいの?とか、マウンティングがヤバくて浮き始めてるCちゃんをどうやって繋ぎ止めたらいいの?とか、性格が最悪のD君がリーダーになり始めてて暴走しそうな学級をどうやって止めたらいいの?とか、仕事の失敗をEさんのせいにして恨むFさんを宥めて2人の中を良好にする方法とかさあ
まあなんだ、みんな仲良くやろうぜ……
疲れたよ
「日本人として誇りに思います。米国警察は黒人の命を軽視するのをやめてほしい。」
これを何も考えずに称賛してしまう人は自らに高いレベルでの差別意識があることを忘れないでください。
大坂なおみが何人だろうと誇りに思えばいいし、ここで国籍を限定することは選民思想を宣言していることと同じです。
「日本人として」などと範囲を限定することは、暗に「日本人が素晴らしいこと」の宣伝に彼女を利用しようとしているだけにほかなりません。
こういう人に限って、彼女に対して「あなたは育ちこそ特殊ながらも完璧な日本人です!誇りをもって日本人と名乗ってください!」とか言ってしまうのでしょうか。
・「米国警察は黒人の命を軽視するのをやめてほしい。」という言葉について。
BLM問題について、白人許すまじ!って言っている人と同じで、そこで「白人」ってくくってしまうことがそもそもの人種差別意識だということに気がついていない。
違いますよ。米国警察に所属する人間によって黒人差別が行われていますが、米国警察すべてが黒人差別を行うわけじゃないです。
「米国警察が黒人の命を軽視する」と決めつけるのは、差別の根底にある考え方と同じです。
ただ単純に彼女の行動を称賛すればよかったのに、よけいな下心を出すからこういうことになります。
「あなたの行動に心を打たれました。これ以上の犠牲者が増えないことを祈ります。」
これで十分ですなはずです。
彼女が犠牲者の名前だけをマスクに書いたのは、誰かを悪者にするのではなく、ただ、被害者に寄り添ってほしい。そんな思いがあったのではないでしょうか。
彼女が戦おうとしている人種差別問題に対して、差別意識丸出しで乗っかっていく浅ましい姿は、差別問題にそびえ立つ壁の高さを思わせ、悲しみすら感じてしまいます。
最近、時間ができたらいつもこれ見てるんだ、と嬉々として動画のリストを見せられた。
毎日遅くまで働いて、休みの日には家事も育児も十分すぎるほどにやってくれてるし、余暇をどう使おうが彼の自由なのだけど、もう見るからにザ商材!て感じでドン引きしてしまった。
「これって情報商材的なやつやん」
と言ってみたが、情報商材という言葉を知らなかったらしく反応が鈍かった。スマホ大好きっ子な割にネット上のリスクにそんなに無知なのにも引いたが、簡単に説明してみたところ
と笑っていた。違わんよ。法外な料金取って中身のあるようなないようなそれっぽいことを勿体つけて話してるだけやん。
今のところ無課金らしいが、わたしの反応いかんでは課金しだしそうな勢いだった。そのときはきちんと止めるけど、なんか今日はあんまり上機嫌に話してくるものだから強く言えなかった。選民思想とか変な優越感を刺激されてるんだろうなー。
ドン引きしているわたしを見てしょんぼりしている旦那はすごく気の毒だったけど、でもさすがにあんな典型的なオンラインサロンをお世辞にも「へーすごいね!おもしろそう!」みたいには嘘でも言えんわ。
kerokeropippi 2020/07/05
誰もが無意識に差別をしてしまうからこそ「差別許さない」という建前や理想やお題目が必要なんだよ。みんなが当たり前に差別的言動をするという地獄社会への歯止めとして。
kerokeropippi 2020/07/26
童貞で欲しいのは支配とエッチができるお母さんでしょ?そう簡単に代用できるのかな🤔
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kerokeropippi 2020/07/10
特に驚いていない。この人には元々選民思想持ってそうだなあという匂いがあったし。
kerokeropippi 2020/07/26
自分の考え方、価値観、感性がすごく好き。「自分以外みんな凡庸」っていうとなんか傲慢だけど、「私は少し特別なのだ。へっへー」くらいは許されるでしょう。
kerokeropippi 2020/07/27
もとよりアイネクライネをはじめとしてLOSER、ピースサインなど若者を中心に認知はされていたけれども、Lemonがこんなにも幅広い年代に聴かれる曲になるとは思っていなかった。音楽といえば昭和歌謡で止まっている私の母でさえもCDで何度も聴きライブDVDを繰り返し観た。その母よりもさらに流行りに疎い父でも、とりあえずは「米津玄師」の名を知っているというほど、Lemonは彼の存在を世に知らしめた。
そして8月5日、米津玄師の3年ぶりとなるアルバム『Stray Sheep』がリリースされた。Lemon、flamingo、馬と鹿など数多の人気曲を引っさげた「最高傑作」と評価されたアルバムだ。
当然私も買った。そして全曲聴き終わった後、脱力してしまった。「みんなのものになってしまった」と、ほんの少しの絶望と寂しさを感じたのだ。
私は彼の大古参ファンという訳ではないが、それでもハチ時代の曲はそれなりに聴いてきたし、米津玄師の名でメジャーデビューしてからはずっと彼を追いかけていた。ボカロPとしては伝説級の人物で、ボカロ全盛期と言われたあの時代を生きた人間にしかこの感覚は分からないと思う。多分この感情を持っている時点で、これからの米津玄師についていける人間のふるい落としにかけられていた。
「ハチ(ボカロ)の曲をバカにしていた友人が米津玄師の曲を褒めているのを見るとムカつく」というのはLemon以前、もっと言えば一回目の転機になったであろうアイネクライネ以前から応援しているファンの中でのテンプレ感情である。「応援してたインディーズバンドがメジャーデビューしてちょっと寂しい現象」と似たものなんだと思う。かくいう私もLemonが大ヒットを飛ばしている最中、自分の事のように誇らしい気持ちの裏にどこかそれと同じ感情を抱いていた。それを拗らせに拗らせた結果がこのブログだ。(そのようなテンプレ感情を患わせた古参米津オタクのみんなにはなるべく新規ファンに優しくしてくれることを祈る)
ただ、それはある種仕方の無いことだ。ハチから米津玄師初期、アルバムでいうとdioramaやYANKEEあたりの曲と、BOOTLEGやStray Sheepの曲の雰囲気はまったく異なるから。新海誠で例えると『秒速5センチメートル』と『君の名は。』くらい違う。
それでも私はあからさまに変わった彼の音楽に対して感じる寂しさを拭えきれなかった。
音楽の専門的なことはよく分からないので「この曲のこの音が〜」などと詳しい話はできないが、単純に昔の彼の音楽が大好きだった。好みの別れそうなおどろおどろしいサウンドや、少し毒々しい歌詞、名前も付けられないような感情を代弁してくれたような優しい歌詞も。米津玄師は私にとって、教室の片隅にちょこんといる人間を、誰も知らないアミューズメントパークにこっそりと連れ出してくれる魔法使いみたいな存在だった。そこで集まったみんなは似たもの同士だった。一種の選民思想的なものさえ感じていた。
だけど今では「好きなアーティストは米津玄師です」と言うのがはばかられる程の人気者になった。好きであろうと嫌いであろうと、とにかく新曲の情報が入ってくる。そんなポップアーティストとなった。
「米津玄師」の名のついたものはなんでも売れる。それくらい、彼は彼自身のブランドを築き上げた。もう小学生が適当に作った曲でも、米津玄師が製作と銘を打てば売れるんじゃないかって、そんな意地悪なことも考えたりするほど。
そして彼を好きであることはアイデンティティでもなんでもなくなった。
みんなが彼の曲を聴くから。彼の音楽が大衆文化として消費されるようになったから。純粋に彼の心地よい魔法にかかっていたのが一変、彼の噂を聞きつけた野蛮な人間に土足で村を踏み入られたように感じられて、なんだか居心地が悪くなった。
米津玄師は度々インタビューで「普遍的なものを作りたかった」と語っていた。そしてそれがLemonであった、と。
その言葉を聞いたときに、「みんなの歌」じゃなくて「私たちの歌」を作ってよ、と叫びたくなった。しかしそれと同時に勘違いしていたことに気づいた。私は勝手に自分のエゴを押し付けていたのだ。彼を自分の代弁者だ、「こっち側」だ、と祭り上げていた。彼が見ている世界は、そんな小さなものではなかったのに。だけど、どうしてもそれが、置いていかれたみたいで嫌だった。
よくよく落ち着いてみると、こうして純粋に彼の曲を楽しめなくなってしまったのは、私が本当に好きだったのが「あの頃の米津玄師」ではなく「あの頃の米津玄師を好きな私」だったからかもしれない。それはそれでかまわない。
どれだけ私が寂しがったところで、彼はこれからも素敵な曲を書きもっともっと愛されるアーティストになっていくだろう。コンサートで「誰一人この船から落としたくない」と語ったように、これからも米津玄師という船は正しく真っ直ぐ平等に、より多くの人を救うような、より多くの人が楽しめる方へと舵を切っていくのだ。
彼の素晴らしい旅路に祝福を。無惨にもその船から零れ落ちて溺れ死んだ人間から、ささやかな反逆心を持って言葉を送らせてもらう。
「下級国民なんぞ1匹死のうが100兆匹死のうが知ったことか、負け組なんぞ血税で助けてやらずに放置して餓死させとけ、その代わり神に選ばれし我々勝ち組上級国民である我々高級官僚や政治家は、国の舵取りをするんだから税金を好きに収奪して使っていい」みたいな旧日本軍の大本営とかナチス党の幹部から飛び出てきたような、頭のおかしい攻撃的なエリート狂人みたいな人たちなんてものは、全然いなくて
ただ単に、行政や業務の処理能力がパンクしていて、助けられる人たちに限りがあったり、縦割り行政による弊害で、情報共有がなされないままに各々が最善と思ってやったことが、市井の人間や個人には国による白色テロとしかいいようがないような仕打ちに結果的になってしまうってだけなんだろうなと思う
そういう意味ではユリウス・カエサルが 「All bad precedents begin as justifiable measures.(どれほど悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は善意であった)」っていうのは、いつまでもなくならない難しい命題なんだろうな
まぁ、貰えるもん貰って仕事も決まったからこそ落ち着いてこう考えられるんだけど、ほんとに俺が一番最初に書いたような、絵にかいたような選民思想のエリートなんてホントに日本にいるんだろうかね?と不思議に思う
正直、プログラミングなんかよりもストーリーやシステム、アイデアを考えるほうがずっと難しい。
というかぶっちゃけていえばプログラミングが想像以上に楽で驚いているほどだ。
今なら既存のツールが充実しているから誰でも平易にゲームは作れるということがわかったし、タグなんかも例を見て実際に試せばすぐに理解できる。
これまではまったく畑違いの業種で働いてきただけに(プログラミングって難しそう…)と思っていたけれど、案外大したことない。
要は慣れだし、トライアンドエラー繰り返せば要領はなんとなくでもすぐ掴める。
だから、プログラミングって敷居高そう…なんて思っている人はゲーム作りから入るのがお勧め。
増田にいるプログラマーって謎の選民思想感を出しているというか、露骨にエリート感漂わせてるから「プログラマーって崇高なのか…」と思ってたけど、まあこんなもんかといった印象に感じるようにもなる。だから皆もコロナで暇ができたら、プログラミングやるのもいいと思うよ。
「人間は平等である」という話と、「世の中には善悪がある」という話、どちらかが嘘だ。
人間が平等であるのならば、すべての価値観は相対化されることになり、どんなものの見方、考え方も同じく尊重されるべきものであってそこに善悪はない。
世の中に善悪があるのならば、すべての価値観は善悪の定規により優劣がつけられ、優れたものの考え方をしている人間と劣ったものの考え方をしている人間がいることになり人間は平等ではなくなる。
結局のところ、今大きなムーブメントとなっている価値観の対立は、人間の平等性を信じるか、世の中の善悪を信じるかの対立に帰着されるもののように思う。
ただ、話はそこまですっきりしていなくて、世の中には善悪があり人間は平等ではないのだ派閥と、世の中には善悪があるが人間は平等なのだ派閥の争いになっているように見える。
前者はプリミティブな考えであり、後者は前者よりも考えが込み入っているが故に混乱している。
人間の平等性にこそ重きを置くのならば、価値観の多様化を認めざるを得なくなり、人々のコミュニティは断絶せざるを得ないだろう。人は異なる価値観を持った人を隣人にはできない。多様性を標榜する人々も、多様性を認めない人を多様性の一部として受け入れることはしていないことがその証左だ。
世の中の善悪にこそ重きを置くのならば、人間の平等性を認められなくなり、選民思想は消えることはないだろう。つまり、差別は今とは形を変えるとしても残り続ける人間の原罪となる。差別は必ず「劣った人々」に対して行われてきた。
最近、天瀬ひみかという人物をツイッターで見かけてから、なんとなく追いかけてみたりしてる。
彼女は予言者で、日ごとに割り当てたコードナンバーから、その日に起こる事象を予言しているらしい。
コードナンバーには、抽象的なものから具体的なものまでいろんな意味づけがされている。
それを天瀬ひみかという人物はツイッターで、事後にコードナンバーと一致したニュースを貼り付け、答え合わせをしている。もちろん当たったものだけ。
1日に複数のコードナンバーが割り当てられてるし、そもそも1つのコードナンバー自体に、たくさんの意味づけがされてる。そりゃあなにかしらかするだろうし、キーワードをニュース検索すればなんでも出てくるだろうと思う。
不思議なことに、天瀬ひみかには信者がすでにたくさんいて、信者たちは、ひみか様と呼び、まるで神のように崇めている様子。
占いをエンターテイメント感覚で楽しむような感じではまったくない。まるで宗教のそれ。
フォロワーも増えていっている。もちろん私みたいに面白半分でみている人もいるだろうし、
初めは、信者たちのアイコンが皆似通ってるし、ひみか様すごいみたいな同じようなことしか言ってないからみんな自作自演かと思っていたが、ちゃんと個別に呟きがされているようなので、ちゃんと存在しているようだ。
シャボン玉せっけんを使うことや、化粧をしない生活をすすめている。
信者たちは、そういう生活様式をとりいれることで、選民思想が芽生えているのかもしれない。
信者ではない、面白半分でひみか様や信者に絡む人たちももちろんいるが、すぐブロックされている。
会ったこともないのに、ツイッターやブログの発信をみてるだけで、そこまで盲信できるのが不思議でならない。
このままものすごく信者が増えていって大きくなっていったら、教祖に会わなくても、ツイッターやブログだけの発信で信者を増やしていく、新しい時代の宗教になるのかな。
ある程度集まったら信者たちを囲って、お布施を集めて、宗教団体として動き出すのかな。
今後の動きに注目したい。