はてなキーワード: 警鐘とは
女性はこのにおいに敏感で「腐敗臭」「生ごみ臭」と感じることもある。
特定年齢の男性。25歳くらいから少しずつあらわれ始め、35~45歳でピークを迎えたのち薄れていく。
枕が臭くなったり枕が黄色くなる人は、特に不快な臭いを放っている。
臭いの発生場所が本人の鼻から遠いため、本人だけが気付いていない場合も多い。
肥満、運動不足、不規則な生活もにおいを悪化させる要因になる。
アルツハイマー病は、ベータアミロイド蛋白質が過度に生成され脳に凝固付着し脳細胞に影響を及ぼし発病する。
ジアセチルはベータアミロイドの活動を助け、脳神経細胞に適用するベータアミロイドの毒性を強化させる。
臭いせいで、毎晩共に寝る妻をアルツハイマー病にしてしまう可能性も…。
オッサンの頭だけでなく、ポップコーン、マーガリン、スナック菓子、ビールなどにも含まれている。
ジアセチルは皮脂が落ち切っていないために発生する。後頭部の清潔が保たれていればジアセチルの発生は防げる。
タイムマシンの民間利用が開始されてから30年。開発当初の予測とは異なり、
最大3時間前への跳躍が限界で歴史改変は不可能と証明されたこの技術は、
結果的に短期的な事故を回避する手段として急速に普及しました。
人間に重篤な障害をもたらすと警鐘を鳴らしてきました。なぜなら人類は
やり直しのきかない一度きりの人生に対峙することこそが自然な姿であり、
人間が本来持ちうる健全な肉体は宿命たるカルマを受け入れる精神によって
培われるからです。現在の世界的経済停滞も、安易な時間跳躍の跋扈による
真摯さの喪失及び生命力の脆弱化によって引き起こされていると言っても
過言ではありません。
この問題は子ども達の精神、肉体に於いても深刻な影響が懸念されます。
ねじまがった時間の中で生きる子ども達に、真の幸福、真の成長は
訪れるべくもありません。
我々の提唱する、自然な時間をありのまま受け入れるLOMESスタイルは
先日発生した多重跳躍事故の悲劇がこの技術の持つ歪みを浮き彫りにし、
はてなブックマーク - 内定辞退、修羅場でむき出しになる人事の本性 :日本経済新聞
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nikkei.com/article/DGXNASFK2802Y_Y4A420C1000000/
https://esf.nikkei.co.jp/form_tantei20140430/
もぐらさん、60歳代男性
最近の企業は、就活生にやたらに余分なことばかり押し付ける。リクルート企業の金儲けに同調しているだけで、大学生の教育や勉強などを考えていない。人事にふざけるなと言いたい。企業経営者のレベルの低下だろう。
どちらかと言えば、恫喝する企業サイドこそ品がないと言わざるを得ません。就職は相互の合意に基づくものであって、職場を選ぶ権利も学生を選ぶ権利も双方に平等にあるはず。誓約書に法的拘束力が無い以上、常に辞退者がでることを想定していないとするとリスク管理がなっていない証拠です。学生諸君には、まず真摯にお詫びをしていただき、もしそれでぶち切れるような会社があれば、そんな会社には行かなくて良かった、将来転職するような機会にも陰湿な引き留めや嫌がらせに遭遇するような会社だったな、とポジティブに考えて欲しいです。
現状の就活では「御社が第一志望です。」と言うのが「お約束」になっている。正直に「第二志望です。」と言っては先に進めない。この「お約束」が誠実さとは無縁であることは採用側も知っている筈ではないか。
60歳代男性
採用人事課に見る目がないだけ
複数の内定をもらっている学生がいる以上、内定辞退が出てくるのはいたしかたないでしょう。要は、内定辞退が出てくる前に、学生との良好な関係が築いておくのが大切なことでは?
怒るような度量の小さい会社は辞退して当然。寧ろ辞退を撤回させ無理やり入社させた揚句に早期に退社するほうが双方にとって損失。そんな企業は、将来その人が自社の取引先、顧客になる可能性を全く考えていない。
辞退されるということは、自分の会社の魅力を学生に伝えられなかっただけのこと。採用担当者は自社という製品を扱いそれを学生に売り込む営業マンであるという意識を持つべきだと思います。
企業側の担当者がそんな発言をしているとは信じ難い。普通にきちんと謝っている学生にはしないはず。本当にそんな採用担当がいるなら、内定辞退したことが正解だし、苦情電話を入れてもいいレベルですね。今の時代、インターネット等でそういう企業名がブラックリスト化されてもおかしくない。学生相手にそのような対応しかできない企業は底が知れている。
「企業が怒るのも無理はない。就活生は誠意を持った対応を」などという結論は、傲慢というより他ない。面接の段階でふるいにかけておいて、いざ自分たちがふるい落とされると腹を立てるのは論外である。就活生はむしろ「ざまあみろ」と馬鹿にする気概を持つべし。
就活生としては、選考で学生を落としまくる企業が、内定を辞退されたところで文句をいう筋合いはない。それこそ、貴社のご発展をお祈りしますと嫌味を込めて言ってやりたい。
50歳代男性(その他)
雇用契約を結ぶ前であり、そもそも“内定”という曖昧な表現を使っている企業サイドに狡さがある。フラれた恋人に仕返しをする情けない人間と同じ。
辛辣な言葉を吐くのは、人事担当者が相手を学生と思い舐めているから。より良い条件を提示し、学生を説得するのが筋。その価値が無いなら、去ってもらえばいい。通常仕事で相手に罵声を浴びせる事なんてありますか?
怒る企業は、辞退した学生が将来「Customer」になることをわかっていない。。「辞退した理由」を調査して今後に生かすべき。
50歳代男性
人事が無能すぎるのがここにきて露になっているだけ!。どれだけ理不尽な内定取り消しや、採用停止をしてきたことか!!「人事」(「ひとのこと」と書く)もそろそろ本当のプロになれ!
誠意のない辞退には、社会人の先輩として喝を入れるべきだが、恐喝紛いの対応をする人事やリクルーターは、その人の仕事の程度や為人が知れる。ブチ切れている人は、当然内定を蹴ったことがないんですよね?
企業担当者は不採用だった学生に対して「礼」を尽くしていますか?彼らに「非礼の数々」の対応を行なっていれば、内定辞退者に怒る権利は無い筈です。自ら襟を正すことが先決です。
採用側の理由で恫喝紛いの事を行うのはもっての他。まっとうな社会人のやることか?そのような恫喝紛いの事が横行しているならば、断りを入れる際に、全て録音しておいた方が良い。
辞退の連絡があった際、内定をとるまでの言動との乖離が大きいほど担当者の怒りは大きくなると思う。例えば、「御社が第一志望です」と明言しているケース。学生とはいえ、自らの発言には責任を持ってもらいたい。
50歳代男性
10年後20年後も考えて募集人員を決めている企業も多いのです。他社の動向を見据えつつ、欲しい人材を確保する人事も大変な思いをしている。記事の例のように3社を一ヶ月以上ホールドするなんて言語道断です。
60歳代男性(その他)
内定を受諾した後に辞退するという倫理の退廃が若者に蔓延したことを看過すべきではない。日本のリーディングペーパーとして、貴紙がキャンペーンを張って大いに警鐘を鳴らしてほしい。
推薦書や誓約書を提出したのであれば,怒るのは当然だと思う。
日本では何事にも弱者救済の概念が公平性を越えてしまう。また、精神論が経済原理を越えてしまう。ここも典型的な例。学生と企業が対等になっていないし、経済原理を無視した採用ルールになっている。学生の内定辞退は自由、でも企業側の内定切りは自由ではない。片方だけに制限を課せば、片方だけに経済的ダメージが発生し、問題になるのは必然。企業側も学生と同様、自由に内定切りをしていい、ということになれば、内定辞退者を見越して、多めの内定も出せる。内定辞退を言われてもお互い様だから、罵声にもならない。何事にも経済原理を踏まえた公平性が肝要だと思う。
50歳代男性(その他)
●その他
就活は企業と学生の戦い、お互いに腹の読みあいでしょう。学生にとっては一生の問題。人事は人を見る目を試されるまさにプロかどうか問われるところ。まあ、腹がたっても、内定辞退されたら負けを認めなはれ。
どのような事情があるにせよ学生側が「約束を破る」ことには変わらない。絶対に認めない会社もおかしい。でも一番おかしいのは内定を出す時期が早すぎること。例えば「就職日の半年前から」などにするべき。
70歳代以上男性
70歳代以上男性
気持ちは分かるが内定の辞退は許されているはず。ただちゃんとしたけじめは大切だよ!とアドバイスをしたい。真っ当な人生を送るためにも……。
これはビジネス。企業はもっとえげつない事をやってます。学生は何も気にすることは無く、誠意をもって事実を伝えれば良いと思う。企業は学生から選んでもらえなかった事に対し真摯に対応し次に繋げるべき。
一般論として、求人側・求職側何れも未成熟であり、無責任ではないでしょうか。記事内にもあるように「文句を言う」のは自己の評価の保全であり、要は自己中心的な発想が伺えます。「辞退」というと聞こえはいいが、ある意味労働契約の不履行であり、何らかの法的制裁等も覚悟して臨むべきだと思います。ただ、辞退を簡単に考えている学生を採用しても、恐らく、自己アピールほどの能力は有していないでしょうし、企業側から見れば、金銭的損失はあるものの、最小限ですんだと考えるべきではないでしょうか。
学生が一生懸命記入したESを出しても音沙汰なし、また面接の結果も音沙汰なしの企業があり。こういう企業がある以上学生側が内定を無断で蹴ってもお互い様の状況になっていると思います。
内定の時まだ就活を続けたい、認められないなら内定取消で構わないと正直に言ったら内定状態で就活を続けさせてくれた。最終的に辞退時に謝りに行ったら就職祝い食事会までしていただいた。必ず将来恩返しをしたい。
http://anond.hatelabo.jp/20130510010751
長年、ネット・ポルノに依存してきたイギリス人のケイラムくん。
取材に対し、「女性とセックスするよりも、断然ポルノの方がいい」と言います。
「生身の女性ではもの足りない。ポルノ動画の女性は大胆で、いろんなことをするからね。」
「最初は限度が分かりませんでした。友達にどれくらいポルノを見ているかを聞いて、初めて自分がとんでもないほどポルノに夢中になっていることを知りました。」
「さっぱり分かりません。ただ、頭からポルノが離れないんです。どうしてもスマートフォンを手放せない。自分でも嫌になります。」
「それから、どうするの?」
「またポルノを見るんだ。」
http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2013/11/1115.html
一応アメリカなどではそういう施設やプログラムもあるのですが、実際に完治というのは、なかなかに難しいようです。
ネットポルノには、人間の脳の回路に変化を生じさせてしまう危険性もあるとの説もあり、一般に考えられているよりもはるかに有害なようだ。公的に認められた医学的症状ではないものの、当初から、ポルノによって過剰な性的興奮状態を経験しすぎることにより「PIED(ポルノ誘発性勃起不全)」に陥るとの研究結果も示されているという。ビジネス・インサイダーは、ネットポルノの危険性を具体的に数字で示す啓発ページを紹介し、ネットポルノ依存の危険に警鐘を鳴らしている。
いやだって、月末に一回だけだよ?
それが仕事を奪うことになんか繋がらないでしょ。
実は間違った読み方の日本語
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1043432
これは教えてgooで「間違った読み方の例教えて」って質問の回答をまとめたものなんだけど、常識的にとらえるとこの記事の書き手が「釣り」を半ば意図していることは疑うべくもない。
それには、なぜこんなよくある量産型の中身のないまとめを作成したのかを想像してみるとよい。
そうすると、「興味があったから」「なんらかの経由で報酬を得ているから」「ただの暇つぶし」などでは致命的矛盾に逢着してしまうことが分かるであろう。
そう、「興味があったから」「なんらかの経由で報酬を得ているから」「ただの暇つぶし」などではなく、この書き手は明らかに「釣り」を意図している。
「釣り」というと悪意で他者を陥れるイメージを持っている人もいるかもしれないが、釣りもまた「暇つぶし」であったり「構ってほしいだけ」であったりする。
プロの釣り鑑定人の俺からすれば、この書き手に悪意はみじんも認められない。
悪意があるならもっと二重三重に入り組んだ仕掛けを凝らすはずで、この書き手にはそれを実行できるだけの最低限の文章構成力もあると考えられるからだ。
また、「釣り」は本人もあまり意識していないこともある。この記事もそのパターンかもしれない。というのも、釣りにしてはあまりに中途半端であるからだ。
まあ、ツイッター民に大反響なところをみるかぎりは「釣り」に大成功しているといえるわけだが、それは「ふいんき」ネタのくだりにほとんど集約されてしまっている。
たしかに「ふいんき」ネタへのマジレス部分は実に熱い釣りと言えるのだが、そこから急速にトーンダウンしてしまっている。
これには釣ろうとしたけど熱意が冷めてしまったという線もないではないが、その後の文章量がわりとあることからこの線はまずないと思う。
それよりは、半ば「釣り」を意図して気まぐれに書き始めてみたけど、疲労などの要因でトーンダウンして普通の調子に戻ってしまいそのまま書き進めた。
本記事の場合、そう考えるほうが、明確に「釣り」を意図して書いたとするよりも妥当であろう。
たとえば、人に興味を持ってもらおうと「誇張」して書く行為は「釣り」と紙一重であるし、あるいはまた、ウケを狙って書いた「ネタ」が「釣り」と誤認されるケースもありうる。
反対に、「釣り」として意図したものがただの「誇張」とかなにかの「ネタ」として柔らかく受け止められてしまう場合もよくみられる。
こうしたコミュニケーションギャップはネットのようなジェネレーションギャップが多発し真意をつかみづらい場では散見される。
「ふいんきと間違って読んでいる人も多いようです」という記事の記述に対して、「ふいんきはネタっしょ」「ネタにマジレスかこわるい」と言っている人が複数名いた。
まず再確認しておくが、この記事の書き手は「ネタにマジレス」という体で「釣り」をやっているわけで、決して「マジレス」しているのとは違う。(そのことを主張するためにわざわざ論証まで繰り広げた。)
それを「マジレス」扱いしたうえで自身もそれに「マジレス」しているわけだよねこの人たちは。つまり、釣りをマジレスと思ってマジレスしている。
これが「釣り」を不快に思ったり逆に面白いと思ったりした人が便乗して「マジレスのフリ」をするという「釣り」や「ネタ」を繰り広げたのなら俺は高く評価する。
だが残念ながらこの人たちはそのような高等戦術を用いているわけではない。(その論証は割愛する)
結局のところ、「ネタにマジレス」と非難している当の本人が「釣りにマジレス」しているのだから世話はない。
ここで安易な「マジレス」扱いにも警鐘を鳴らしておくべきだろう。
先ほど、釣りをネタや誇張と混同してしまう罠を紹介したが、場合によってはそうした罠にハマった人間はおろかに見えるだろう。
それと同様に、「マジレス」ではないものを「マジレス」と誤認したり、「マジレス」を「マジレス」ではないものと誤認したりするのも、いささか滑稽なピエロである。
ツイッター民の「ネタにマジレス」発言も、マジレスではないものをマジレス扱いする罠に見事にはまっている。
他の例をあげると、「ボケ」に対する「ツッコミ」を「ネタにマジレス」と誤認するケースも非常に多くみられる。
現実社会においても浅慮な人々によって両者は混同されることが多いのに、いわんやネットにおいてをや。
いやはや恐ろしい罠である。貴方の身の回りを見渡してご覧なさい。人間ちょっとしたことで喧嘩をしてしまうものだ。
ネット社会に生きる現代人は、本当にそれはマジレスなのか、本当にそれはマジレスではないものなのかをよく吟味しなければならない。
性格も明るく、優秀なのに嫌味もなく、どこをどう取っても申し分ない。
少々恋愛に不器用なところがあり、恋人はなかなかできないようではあったが…。
「前の会社では専門職の為女性が少なく、ロールモデル不在だった。
結婚して退職するか、(相手はエリートの人じゃないとごちゃごちゃ陰で言われるとか)
バリバリキャリアを積んでいくのか2択を強要されている気がした。
今思えば、違う道を私が作ればよかったんだけど、
その時は追い込まれてそうしか思えなくて。
どうも上に立つのが好きになれない。
どんどん上を目指していかないと働く姿勢として間違っている
やめて解放されて、本当に気が楽になった。
今の会社は穏やかで、定時に終わるし、健康になってとてもいいよ」
ぼんやりと思っているだけじゃ、結婚も子供も達成されないことは、
どんどん年だけ取っていく。仕事では中堅の仲間入りをしていく。怖い。
腰が重く情に流されやすい私はまだ動けないでいる。
あんなに華やかだった道を降りた彼女が、
何にもその道に未練を残していないし、
今の生活を謳歌していてかっこよかった。
宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎2011の続きを野木の行き帰りに読み続ける。「リトル・ピープル」とは「ビッグ・ブラザー」と対で使われ、その意味は大きな物語に対する小さな物語とかなり近い。その意味ではビッグ・ブラザーはモダニズムの真理を体現し、リトル・ピープルはモダニズム解体後の小さな物語を紡ぐ個々人ということになる。
と聞けばお決まりのポストモダニズム論かと思うがそうではない。著者は村上春樹を80%称賛しながら、この対概念が村上の中でどのように扱われているかを分析する。それによれば、村上はお決まりのポストモダニズム論に読者を引きずり込むのではなく、ビッグ・ブラザーが壊死した後にリトル・ピープルの紡ぐ小さな神話に引き込まれることこそが最も危険なことであると警鐘を鳴らしていると解説する。
そしてその小さな神話の実例としてあがるのがオオムなのである。そして大きな物語からの安易なデタッチメントではなくコミットメントというメッセージを発するのだが、ではそのコミットメントとは何か?
これが最も難しい。小さな神話が厭世的なカルト物語であるのならコミットメントとは社会的公共的な何かへの取り組みということになるのかもしれない。そして恐らく現代はそう言う方向へ流れている。3.11はそれに拍車をかけていると言えるだろう。しかし、ここで、はたとショックドクトリンの議論を思い出す。社会的なコミットメントであればそれは全てが正しいことなのかと言えばそれはそう簡単に肯定できることでもない。ここにも様々なリトル・ピープルが潜在し目に見えない邪悪なものが潜んでいると僕には思えるのである。リトル・ピープルの時代とはそうした小さな邪悪との闘いの社会であり、それ故にビッグ・ブラザーの時代よりはるかにリテラシーが求められるのだと思う。
朝会のあと、給食のあとお昼寝の前、お昼寝のあと、その三回だけ。
全園児数十人が廊下まで一列に並べられ、トイレの中で男の子は小便器に、女の子は個室へ別れていきました。
それ以外の時間に尿意を催したとして、先生にそれを告げて集団を離れることは、僕にとって、とても考えられない課題でした。
幸い、その周期に馴染むことができていたためか、おもらしをした記憶はありません。
それを見ながら、あれは恥ずかしいことなのだと覚えました。
幸い、僕におねしょ癖はなかったため、それについては多数派の目をしていました。
皆と違うということが、どれほど目立ち、恥ずかしいことなのかということを知りました。
ただ、僕にも皆と違うある特徴があって、自分が普通ではないということは自覚していました。
小学校に入って、休み時間には自由にトイレに行って良いことを知りました。
しかし、授業時間中に、先生にそれを告げて行くということは、もちろんできないことでした。
今まではトイレの時間を決められていたせいか、自分の尿意の間隔、その時間感覚が僕にはよくわかっていませんでした。
帰りの会で、全員で「さようなら」と挨拶をした瞬間、ついに限界が来て漏らしてしまったことがあります。
学校でお漏らしをしたのは、小学一年生の時、その一度限りです。
普通の子ではなかったため元々目をつけられていた僕ですから、床の掃除をさせられた後、長いあいだ、教務机をはさんで居残らされました。
理由を訊かれていたのか、反省を促したかったのか、内容はよく覚えていません。
ただ、自分の感覚がわからず、授業中に行くこともできない子供だったため、僕にとっては仕方のないことだったのです。
何を話すわけにもいかず、ただ先生の気持ちが収まるのを待つほかありませんでした。
事件が起きたのは二年生のときです。
昼休み。僕が堂々とせずに排尿しようとしたのを面白く思ったのでしょうか。
いつも僕に何かしらちょっかいをかけていた二人が、ジャージのズボンを下ろそうとする、
出て行ったと見せかけて素早く戻ってきては陰部を見ようとする、などの行動を繰り返し始めました。
その騒ぎは遊びのように他の男子にも伝染し、数の暴力となって僕の排尿時間を奪いました。
それは昼休み中続き、五時間目をなんとか乗り切り事なきを得たと記憶しています。
一人、止めようとしてくれた男子がいたように思いますが、いつだって少ない声は何も変えられないのです。
おそらく、それはいじめなどではないのでしょう。
彼らからすれば、全ては「ノリ」なのです。「空気」なのです。「遊び」なのです。
こちらから見れば、どんな罪が適用されるのかはわかりませんが、限りなく犯罪に近い迷惑行為です。
逮捕が可能になる14歳という年齢の直前の時期ですから、その線引きを恨むしかありませんでした。
当時の担任はそういったことに敏感な先生で、すぐに対応をとってくれました。
余程恵まれた人生を送ってきた人でなければ、このことにほぼなんの意味もないことは、わかるでしょう。
彼らが謝罪の心を持っていようとなかろうと、僕が彼らを心から許そうと許すまいと、何も変わらないのです。
もちろん、今となっては彼ら個人に対して強い怒りなどの執着はありません。
その影響がもたらしたものなのか、確証はありませんが、
それからの僕は、公共の場で排尿することがひどく苦手になってしまいました。
小便器に対面しチャックを下ろしても、同じトイレの中に人がいると、なかなか尿が尿道を伝わってこようとしないのです。
後ろになど並ばれては、とてもではないですがそのプレッシャーは尋常でなく辛いです。
時間の長さが不審に思われることが嫌で、排尿を終えたふりをして、出直したことも度々あります。
そのストレスを避けるため、個室に入ることもありましたが、やはり学校などのお互いを知られている可能性のある場所では使えない手段です。
自動車学校などはとても嫌でした。
普通の学校と違い教官も同じトイレを使うので、集団で、おじさん特有のあのノリで後ろに並ばれると、とても厄介です。
お蔭様で、学生ではなくなった今ではそういったストレスを感じることもなくなり、その感覚を忘れつつあります。
同時に、いじめ(便宜上、日本特有のこの表現を使う)という感覚を忘れかけていた自分に警鐘を鳴らしました。
喉元過ぎれば熱さ忘れる。
結局、当事者にしかわからない、根本的には解決できない問題ですが、
国民というものは知らず知らずのうちに、道路のように均されています。
秀でたものは利用し、しかし真に優れたものは頭を打たれ、平らにされ、
ひどく劣り凹んだ部分があると埋め立てられようとします。地盤のことなど微塵も考えずに。
年齢と住所だけで区別され、管理され、数十もの個体を密閉空間に放り込むことは、果たして効率以外に何の利点があるのでしょうか。
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033579/
「黒子のバスケ」脅迫事件犯人の「自分語り」全文公開されたが、自重しない腐女子は黒バス脅迫犯を生んだ罪について真剣に考えた方が良い。
問題は彼がBLに入れ込みすぎた結果、脅迫を犯したという事実である。彼はこのように書いている。
31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。また、新宿につきましては、16年前に自殺をしようとしてJR新宿駅周辺を彷徨し、11年前にJR新大久保駅周辺を歩き回ったことがきっかけです。
喪服の死神は自らを同性愛者と語っているけども、これだって本当か疑わしい。おそらく自己愛性人格障害であって、同性愛というのはあくまで詐称か、BLに入れ込んだ自称腐男子程度のものではないだろうか。本当の同性愛者ならBLに入れ込むようなことはしないと思われる。
彼の自分語りから漏れ出る意識は肥大化して歪んだ自己愛であり、その結果として表れたのがBL愛好と詐称同性愛といったところか。
「22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯」を記している。
いったい何の同人誌を知ったのか私には知る由もないが、ボーイズラブ系の二次創作同人誌の問題は、純粋に作品を楽しんでいる愛好者が、本来ならあり得ない視線(男性登場人物を性的に絡ませる)という嗜好にある。
一昔前までは腐女子の活動はアンダーグラウンドなものだった。検索避けや隠語を用いた隠れたやりとりをして、あくまで自分たちが特殊嗜好者であることを自覚した振る舞いをしていた、と記憶している。
ただ現在の腐女子はオープンにBL談義をすることも珍しくなくなったらしい。
この辺は「ゴキ腐リ」という言葉があるようで、pixiv百科事典なんかにも載っているようだ。
ゴキ腐リ (ごきぶり)とは【ピクシブ百科事典】 http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%B4%E3%82%AD%E8%85%90%E3%83%AA
この解説でとくに興味深いのは、この項だ。
実際にはファンタジーであるBLは、『男性(もしくは元となる人物)の形状を模した異質なクリーチャー』を恋愛や性行に結びつけて楽しむ嗜好であり、現実の同性愛とは全く関係が無い。
まとめサイトでは、「同性愛者の為の作品」や「同性愛をテーマにした作品」は問題が無く、同性愛嫌悪の無い人や、実際の同性愛者の中にもBLを嫌う人がおり、BLを問題に感じる人もいることから、「BL=同性愛」ではない、『男性の形状を模した“何か”を当人達以外の人間が妄想の中で恋愛・性行に結び付けて楽しみ喜び興奮する嗜好』と解説されている。
BLは実際の同性愛とは違うし、同性愛者や、同性愛嫌悪のない人物にも気持ち悪がられている・・・とのことらしいが、この解説は直感的に正しいと理解できる。
喪服の死神が入れ込んでいたのはあくまでBLであって、本当の同性愛では無かった。一方で彼は自ら童貞やキモブサメンとオタク用語を使って自己解説している。
ここには非常に強い性愛のゆがみが見て取れる。
例えば純粋にバスケ漫画を好きで黒子のバスケを読んでいる人が、腐女子人気の増大により黒バスを読む際に同性愛者と思われるようになったら、通常なら強い憤りを感じる。
現在の腐女子がおおっぴらにBL談義をする風潮(ゴキ腐リと呼ぶらしいが・・・)が、喪服の死神のねじれを生み出したと。
彼が黒子のバスケをターゲットにしたのは、ボーイズラブ系二次創作が盛んだったからであり、実際の同性愛とは全く違う女の妄想を少年誌に持ち込む異常性が、喪服の死神の内面を作り上げた現実に対する文化的な自省について、腐女子たちは真剣に考えるべきだろう。
ブコメでも言ってる人が複数居ますが、鯨肉・イルカ肉食とそのための捕鯨・イルカ漁を偏った観点から「非人道」的と言われることはちょっとどうなんでしょうね。先のケネディ大使のツイートは,真に「国際的」観点というより一部の欧米文化における価値観からの批判のように思えます。ということでちょっと学術チック(?)なバックグラウンドの補強を…需要ないかもしれませんが。
わたしは今20代後半なのですが、少なくとも個人の経験の中で鯨肉を食べたことはありません。父や母からは鯨肉が給食に出ていたと聞いた覚えがあるという程度です。そもそも鯨肉食、お今の日本ではどれくらい一般的なものでしょうか?経験的に言っても牛肉や豚肉より食べられていないことは確かで、たとえばクックパッドで「鯨肉」と検索すると、37件しかヒットしません。
http://cookpad.com/search/%E9%AF%A8%E8%82%89
やはりそれほど一般的な現代の食文化とは言えない様子。そもそもわたしが鯨肉を食べたことがない理由の一つに、70年代の米国での商業捕鯨禁止を受け、80年代後半(つまりわたしが生まれた頃)にIWCが国際的にそれを禁止にしたことがあると思います。鯨肉は入手がしづらくなり、日本人にとって一般的な食料ではなくなりました。わたしは鯨肉を食べる文化に抵抗はありませんが(父や母の話を聞いていたからか?)、自分では進んで食べることはこの先ないと思います。元増田を書いた人も恐らくこういう感覚の持ち主ではないでしょうか。
続いて英語圏のレシピサイト(たとえばfood.com)で「whale meat」を検索してみると3件。そのうち2件がアラスカの鯨肉シチュー、1件はトンガの料理本からコピーされたものです。
http://www.food.com/recipe-finder/all?layout=desktop&inclingre=17714
クックパッドのほうがレシピの母数が3倍くらいあるのですが、それでもやっぱり英語圏の人間(米国人に限らない)にとって鯨肉食は身近な文化でないことがわかります。米国の歴史家ナンシー・シューメイカーによれば、ほとんどの米国人が鯨肉を普通の食材(normal diet)として見なしたことがないそうです。
以下は彼女の論文からの受け売りです。実はニューイングランドの先住民は鯨肉を普通に食材として見なしていました(シューメイカーはもともと米国、主にニューイングランドの先住民史を研究している人です)。ただ欧州等から入植してきた人々はそうではなく − 19世紀、ニューイングランドへ入植してきた人々は鯨の油やひげが高く売れるため鯨漁を行いましたが、鯨肉は先住民に分けるか捨てるなどしていたのです。鯨漁師(というよりは捕鯨業者)は海の上では食料に困り、鯨肉を食べることもありました。しかし彼らやその家族の日記に、本物の肉が食べたい…という趣旨の記録があるとのこと。つまり鯨肉は彼らにとって「肉」ではなかったのです。入植者であった捕鯨業者は鯨肉を食べる人々を牛肉を買うには貧し過ぎる(too poor to buy beef)と考えていました。端的に言えば所謂皆さんが思い描く現代の「米国人」の鯨肉食に対する嫌悪感はこういう由来もあるのです。我々とは違う先住民(primitive other)が食べるものなんて食べられるものか。米国は70年代に、鯨肉の食物としての不法性(illegitimacy as food)を理由にほとんどの商業捕鯨(「伝統的な(traditional)」捕鯨を除く)を禁止にしました。
要は、こういう風に批判されることは「日本の捕鯨やイルカ漁は文化ではなく商業だから非人道的」という含みが少なからずあるのでしょう。でも、食べるためにではなく油とひげを売って儲けるために「商業」捕鯨をしていたのはもともと米国の入植者なのです…日本をはじめ、古くから食料にするための捕鯨の歴史がある民族(たとえばノルウェー、フェロー諸島、西インド諸島、トンガなどの人々)にとっては捕鯨そのものが文化であると同時に、捕鯨に関する文化(たとえば絵巻物など)もたくさんあります。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kujira/
日本の捕鯨やイルカ漁は、伝統や文化でないというのでしょうか?シューメイカーは米国の視点で世界中の捕鯨を取り締まる…そういう単文化的な視点に警鐘を鳴らしています。欧米の一部の国から商業捕鯨に対する風当たりが強くなった結果、80年代後半生まれのわたしは(そして恐らく同世代の日本人は)少なくとも鯨肉をもう「普通の食材(normal diet)」とは見なさなくなっています。まあ伝統なんてそんなもんと言われればそれまでなのですが、よく言われるように、欧米だけが「世界」ではないでしょうし、このような批判に安易に迎合するようではどんどん伝統とか失っていくんじゃないですかね、ということです。グローバル(笑)な時代に伝統とか笑える、と思う人も居るんでしょうが。
ちなみにシューメイカーの論文はこれですが、
http://envhis.oxfordjournals.org/content/10/2/269.full.pdf+html
サブスクリプションがないと読めませんのでこちらのpdfで読めるほうを貼っておきます。
http://www.hcs.harvard.edu/eac/wp-content/uploads/2012/04/3986115-1.pdf
「ねぇ、あそこってどういう意味?」頭は並/性格も並→友達にしたい
「なにこのクソ映画(激おこ)」頭はいい/性格は悪い→一生関わりたくない
☆追記
同様に「○○してる奴wwww」や「結局モテようとしている!」のような
思慮の足りない人間を叩いて、そうではない自分に優越感を抱いているかしこい方々は、
画面を介さない限り一生お付き合いしたくありませんので、そのまま画面に閉じこもっていることを推奨します。
画面越しに見るあなたたちの滑稽な姿は、その日あったイヤなことが和らぐ程度には役に立っていますので、
むしろ結婚しないこと、友達ができないことに腹を括って道化であり続けることを選んではいかがでしょう。
それでも頭がいいあなたたちが結婚したり、友達を作ったりしようと思ったら、
結局あなたたちが馬鹿にしている彼らの姿を真似して、受け入れるしかありません。
滑稽でも、自分でも滑稽だと思っていてもオシャレしたり、積極的に話しかけたり、モテようとするんだよ!
性格が悪く面も悪い人が、なにもせず面もよく性格もいい人とお近づきになれるという思い上がりが、
あいつらは馬鹿で、俺らはかしこい、だから見下す権利があるという思い上がりが、
河野先生とid:font-daさんとの間で論争になっていますが、フェミニズム的な観点を無視した私感をかいてみます。
*あくまで私感なため私個人の偏見的な内容が含まれており、追記にて訂正があります。
まず、所謂ゲスパーな邪推で申し訳ないのですが、発端となったそもそものエントリー以前にfont-daさんは河野先生の著作に対して言いたい事があったのではないでしょうか。
おそらく、著作の中で体験談を引き合いにして警鐘を鳴らしているのが、被害女性から読めば、追体験によるセカンドレイプだったり、非難されているように感じられてとても傷つくという事例を目の当たりにされていたんだと思います。
そのため、以前からの憤りが件のエントリーの趣旨を読み違えた、あるいはスタンスを誤解したまま反論記事を書いてしまったのではないでしょうか。
今回、河野先生からの反論にたいしてのさらに返信記事を読んで残念に思ったのですが、反論に対しての揚げ足取りが中心となり、論点がずれてしまったように感じます。
本当に言いたかったのは、女性の体験を世間に公表するデメリットではないかと私は思ったのですが読み違いでしょうか。
ブクマカーに理解や賛同されなくてもよいと考えているのかもしれませんし、余計なことだとは思うのですが
以前のエントリには一部誤解や曲解も含まれていたように感じます。
しかし、そこはあげつらうのではなく一度冷静になって、謝罪する点があるならそこだけきっちり謝罪した後で核心を投げかけることで本当の勝負ができるのではないかなと思ってしまいます。
あと、一つだけ。
自分の体験を誰にも絶対に知られず墓にまで持っていきたいという事は沢山あると思います。
どっちも正しいし間違いではないと思います。
追記とお詫び
font-daさんの河野先生への返信エントリーには、その記事をあげつらうような意図はないそうです。
また、フェミニストからの批判に対しての部分にスポットがあたっていることにも、ご本人のブログエントリーにて理由がきちんと述べられております。
私は原作の漫画は読んでいませんが、アニメは毎週兄と一緒に楽しく見ていたのでその感想を書いてみます。ネットでこころない大人たちによって叩かれすぎだと思うのです。すくなくとも私の周りでは大人気ですし、時代についていけないセンスのない大人たちが若者文化を叩くのを見ると私はとても悲しい気持ちになります(いつの時代もそうだったのでしょうか)。
私はこの作品に触れて、作品内容が類似しているかどうかはともかくとして、アルベール・カミュ『ペスト』、ジーン・ウルフ『新しい太陽の書』、スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、安部公房『飢餓同盟』、大江健三郎『万延元年のフットボール』などを思い出しました。『進撃の巨人』はこれらの小説のどれにも劣らない深みと非常に高いクオリティを持った稀有な少年漫画なのだと思います。その作風はアニメを見る限りたしかに単純で素朴で荒削りですが、作者の諫山創先生は、世間にあふれる自意識と自尊心だけは一人前の凡庸な作家たちが血も滲むような努力をしたところで一生得ることのできない文学的センスというものを無自覚のうちに獲得していらっしゃるようにわたしには思えます。
壁の向こうには海があって、海には宝とも言える塩がたくさんあるとエレンとアルミンが目を輝かせて会話するシーンがあったと思います(アルミンかわいい!)。壁の外に真の楽園を夢見ながらも、壁の外の脅威=巨人によって偽りの楽園である壁の内側にとどまるしかない人類。そして偽りの楽園は日々縮小傾向にあり、もはや人類は楽園という夢想を捨て現実に立ち向かう必要に迫られています。もし外からの脅威によって人類の生活圏が縮小しないのなら、人類はこのまま壁の内に閉じこもったまま、一種の自己欺瞞によって自らを制御し動かしながら、秩序を維持することに一生を捧げていたでしょう。そうした変化のない永遠の倦怠ともいえる世界では、いずれ歴史が失われ、始まりも終わりもない空白の永続状態だけが文字通り無意味に残る、いや、それは記録されないので残るというよりは虚空に漂うことになるでしょう。しかし『進撃の巨人』の世界では人類は変化を迫られました。そしてその変化を迫ってきたのは、脅威=巨人なのですが、その巨人とは人類自身だったというわけです。
現状を打破せよ変化せよという声なき声、暗号を発しているのが巨人ですから、巨人とは人類の無意識の飢餓感、欲望のメタファーだと思います。そして人類は自らの欲望の代理人である巨人と戦わなくてはなりません。これは自己矛盾をはらみます。人類はみずから欲望をいだき(巨人を生産)、みずから欲望を抑圧し(巨人を駆逐)、みずから破滅します。いつしか人類の欲望は敵となっています。それは生への意志を否定するものです。みずからの欲望が真の楽園への道を閉ざし、日々縮小する偽りの楽園において鬱屈とした毎日をゾンビのように送るしかなくなっているのです。原始においては槍で戦うしかなかった人類が、科学技術が進歩したことによって、核兵器や生物兵器などのとんでもない力を生み出すようになってしまいました。長い歴史にわたる真理の探求と知識への欲望が私たち人類の生活を豊かにし明るい未来へと導いてくれるはずでしたが、洗練された人類は新たなそれまでとは比較にならない圧倒的に暗愚で野蛮な状態に陥ってしまったのです。巨人に性器がないのは必然で、それは人類の欲望なき欲望だからです。欠如によってしか私たちは未来を示すことができなくなってしまったのです。
そんな行き詰まった世界で人類はどうやって生きていったらいいのでしょうか。巨人を完全に駆逐したとき人類は絶滅するでしょう。これは勝利なき戦いです。かならず負ける戦いです。私たちに突きつけられたこの運命に私たちはどう立ち向かうべきでしょうか。友情によって? 愛によって? 暴力によって? 狂気によって?
現代社会ではみなそれぞれが不安をかかえて生きています。それは生存の不安です。自分の不安に無自覚でいることはもはや許されません。人類の足場はもろくも崩れ去ってしまい、そうしたなかで人類は原始への回帰、裸で樹上生活をしていたころに戻ろうと、立体機動装置で最後のあがきをこころみるのです。これだけの技術力がありながらどうして他の兵器を作らなかったんだという批判がありますが、腰部から射出されるアンカーが射精のメタファーだということを考えればそれが無意味な批判であるということがわかります(そもそも巨人の完全駆逐は目的ではありません。巨人を完全に駆逐したとき人類は絶滅するからです)。人類はアンカーを射出しなければならなかったのです。それが人類の見た最後の夢だからです。かつて液状で運動性に優れていた精液はこの時代においては外的要因によって働きかけられないと動かない冷たい鉄になってしまいました。それでも人類は去勢不安を打ち破るために重い腰を上げてさびついたアンカーを射出しつづけなければなりません。それはまさしく不条理な悪夢ですが、しかしこれこそ現代の私たちがおかれている状況というわけです。
現代は論理的な未来予測というものをつねに逸脱し飛躍し暴走して、私たちの手の届かないところに行ってしまいます。私たちは世界から疎外され置き去りにされ、存在理由をはぎとられてしまっています。人類は人類自身と向き合い戦わなくてはなりません。しかしその戦いには勝利というものがありません。滅亡へのゆるやかな推移があるだけです。
私は『進撃の巨人』は現代社会へ警鐘を鳴らしているのだと思います。私たちは自分の巨人とどう向き合うべきでしょうか。私たちは当然のように幸福を追求しますが、その幸福とはいったいなんなのでしょう。希望なき時代の希望とは? 光なき時代の光とは? 私たちは絶対者、神を殺し、あるひとはそれを人類の勝利だと誇りさえしますが、依然として私たちには難問が残っているのです。
こんなニュースがありました。「進撃の巨人 : 最新巻が初の初版200万部突破 1巻の50倍超、「ワンピ」に続く快挙」(http://mantan-web.jp/2013/12/07/20131206dog00m200072000c.html) やはり時代に求められているので売れているのだと思います。批判している大人のひとたちは自分の愚かさをよく考えてみてください。
インターネット掲示板などに書き込まれた中傷記事を「2ちゃんねる」に転載した匿名の投稿について、東京高裁が、転載でも名誉毀損(きそん)に当たると判断し、海外在住の日本人男性の訴えを認めて、投稿者の氏名などの情報開示を契約プロバイダー(接続業者)に命じる判決を言い渡していたことが分かった。
http://www.yomiuri.co.jp/net/news0/national/20131203-OYT1T00538.htm
@nnnn330
まとめブログの記事URLツイートなんて、見たくもないのに毎日TLに流れるんだけれど、昨日あれだけ話題になった、中傷目的で2chのスレを転載したまとめブログが東京高裁で名誉毀損に認定されたニュース、どのまとめブログも記事にしてないんだね~
こういうツイートを見かけたので
クリックをくれてやるのもうっとおしいが、この記事に関して、いつものアフィブログ群がどう報じているかを見た
…と、言うわけだ
当ブログといたしましては、決して誤報を広める意図はないものの
万一それが発覚し、ご迷惑をかけてしまった際には速やかに撤回した後
誠心誠意謝罪いたしております
ですので今後とも「オレ的ゲーム速報」をよろしくお願いします!
へぇ。
ジャンル違いだし扱わないとは思った
あとはそこそこ有名どころで
奴には痛くも痒くもなかったのかどうか
内容はご想像の通りマスコミガーの大合唱だったりするが、冷めた見方も
結論:まとめてるところもある
ただし、「報道しない自由」同様に「まとめない自由」も奴らにはある
まあ、だいたいそんなところ
タイトル間違えを修正
大変だったね。
ただ、「警鐘を鳴らしたい」のなら、おおまかにでかまわないのでどこらへんか書いてほしいな、と。「海外」ではガセかどうかもわからないよ。フィリピンとフィンランドとアルメニアとアメリカでは事情違うだろうし。
警察に逮捕されて病院に連行されることがあるから気をつけてね、と誰得な警鐘を鳴らしてみる。
しばらく人生相談してたんだけど、「見たいテレビ番組があるからそろそろ帰る」と言ったら、突然カウンセラーの形相が変わった。
少し強引に帰って、部屋でテレビ見てたら突然誰かにドアこじ開けられて、
銃を持った図体のでかい警官に大声で怒鳴られて、手錠かけられて、野次馬(外国人)に変な目で見られて。
何か言い間違えて上手く意思疎通できてなかったのかな。キチガイだと思われたのかな。
精神病棟のようなところにつれられて、何もないボロくて寒い部屋の中に数時間、朝まで拘束されてた。
おかしな奇声を上げる人が私の部屋を覗きこんだりして、殺されるのかと思った。
医師との会話で想像するに、麻薬やってたと勘違いされたようで。
検査が終わったら解放されたけど、何故か検査の料金を請求された。むっちゃ高かった。
一般人でも怖いことに巻き込まれちゃうんだなあって身を持って体験した。
ただ、初めて本物の手錠をかけられたことにはちょっぴり興奮しました。
取り敢えず、現状、野球界でOB等から指摘され議論されていることと、
一部マスコミやはてなを含む全くスポーツのスの字にも関わりを持ってこなかった様な人達が叫んでることは全く別だと理解してください。
それから、夏に炎天下で無理矢理感動のため行ってるかの様な話もありますが、何も知らない人は黙っていてください。
まず、野球界で言われてることは、投手の肩を酷使することです。
プロの世界で肩は消耗品だということは常識で、メジャー等だと練習するにも肩は"球団のもの"として捉えられるので物凄く厳しい制限がかけられます。
また、過去に実際、甲子園で活躍して、プロでも最初の数年活躍したが、肩を壊し、結果的に高校時代に酷使したのが一番いけなかったんだ、と言われてる人は沢山居て、
勿論、すべての人がプロに行くわけではないし、高校最後に肩を全て使い切っても良い、と言う人も居るでしょうが、
そもそも高校スポーツでその後に支障をきたすような様なことをさせるべきではないし、その様な犠牲心は必要のないものです。
自主的に制限をかけるのはその様に、後先考えない人も居る限り不可能で、一部がそうすることで、結果的に全員がやらざるを得なくなります。
従って、ある日数以内での球数制限など"ルール"が必要になります。
これにより、選手層の厚いチームと薄いチームで差が出る可能性もありますが、そもそも、野球は最低9人のチームスポーツで、その時点で層の暑さの差は出ますし、
その様なルールができれば、最初から少なくとももう一人まともな投手を育てる努力をするので状況は変わります。
完全なワンマンチームが甲子園で活躍することが減るかもしれませんが、それもルールとして取れば、新たなチームの活躍の期待も出来、
炎天下での試合、という点については、まず、夏の大会、と言うのは、何も炎天下で試合を行わせてその過酷さを楽しむものではなく、
日程上、一番良い時期だからです。
高校野球の1年は、まず、3月末から春の選抜選手権の甲子園がありますが、その後、新入生も入った段階で5月から"春の大会"というのがあります。これは全国大会はなく、
関東大会等、地域大会までです。これの県予選の結果により、夏の大会のシードが決まります。
そして、夏の大会の県予選がが7月頃から始まります。夏の甲子園はその後、夏休みに行われます。
その後、7月、8月から敗れたチームは新チーム体制になり(一部国体に出るチームを除き)、9月頃から次は"秋の大会"が始まります。
これは、"春の選抜選手権"の選考の参考にする大会です。この大会は県予選の後、春の大会同様地域大会まであります。
主な大会はこのくらいですが、これ以外にも新人戦や地域ごとの小さな大会もあったりするので、"夏だけ"大会をやってるわけではありません。
また、野球は、冬には絶対にできません。寒い中で肩が充分温められない状態で投げれば、直ぐに肩を壊します。
実際、冬場は寒い地域ではグラウンド練習はまずしませんし、只管体力づくりと、室内練習場があればバッティング練習と、軽い守備練習をする程度です。
従って、思ってる以上に高校野球は日程が詰まってるわけです。
また、高校スポーツ全般に言えることですが、3年最後の大会以降、勉強に打ち込んで進学を考えなくてはいけない生徒も多々居ます。
この点に置いて、冬場に大会のあるサッカーやバレー、ラクビー等に比べれば悪いとは言えないでしょう。
それらのスポーツでは、受験を無碍にするか、夏の大会や2年次の学年末の冬か春の大会で終わりにするかを自己判断せねばならず、それにより学校差もモロに出るので。
また、高校スポーツ全般に言えることですが、大会をそれ程長くは出来ません。
長くすればするだけ、学校側、選手側、さらには応援に駆けつける側の負担が増えるからです。
他のスポーツを見ればわかりますが、ものすごい過密スケジュールで行われています。甲子園の準決勝、決勝当たりをもう少し伸ばす事は出来るかもしれませんが、
それ程簡単では無いことを理解してください。
1つの案としては、甲子園だけを使わず、他の球場も使えば1回戦2回戦を短縮でき、上の日程を緩やかに出来るかもしれませんが、
現状、"甲子園で戦う"と言う目的で頑張ってる球児たちが殆どですので、これもまた難しいと想います。
いずれにしろ、決して、"過酷な環境の元"で試合をさせるために夏の大会を行ってるのではありません。
結果的に夏の過酷な環境で行うことに感動を感じる事はあるかもしれませんが、実際熱中症で倒れたり肩を壊してその後野球ができなくなる様な球児を見て
夏場という過酷な環境であっても、"安全である"事が前提であるから楽しめるわけです。
肩に関しては、野球をやったことが無い人がその事実を理解できないので、まるで炎天下での危険性と同じ様に考えているだけです。
そちらは実際に危険で、理解出来てる人は、見ててただただ辛いと感じる人が多いのです。
夏に行うのは高校生の年間の生活などを考えると、この時期しか無いわけです。他のスポーツも同じです。他のスポーツは冬にもできるので冬にもさらに大会があるだけです。
夏にもやっています。ただ、冬のほうが、"最後の大会"になるので盛り上がるのです。
甲子園も、春より夏が盛り上がるのは、暑いからではなく、"最後の大会"だからです。勘違いしないでください。
過酷な環境の元、怪我するリスクを負いながらやるのを楽しみにしてるファンが居るといいますが、選手らはそういうファンのために野球をしてるわけではないので、
ですので、投手の球数制限をして、故障する可能性の低い中で行われる甲子園になっても面白さどうこうに関しては何も問題はありません。"野球"が好きな人は見るでしょうし、
そもそもファンをどうこう考えて行っている興行ではありません。
一方で、炎天下で行うな、ということに関しては、確かに、避けられるのであれば避けた方が良いことですが、上記の様に、"炎天下の時だけ"大会を行っているわけではなく、
野球の特性上、夏に大会をやらないと、ずらせるわけではなく、そっくりそのまま1つ大会を潰すしか無いのです。
もし、野球を行うことが、熱中症を避ける事が不可能なことであれば優先度を上げて考えるべきことですが、野球に関して言えば、
攻撃時に水分を充分取ることは可能であり、常に炎天下にさらされてるわけではなく、甲子園ではベンチにクーラーもついています。
現状、少なくとも甲子園大会は非常に安全管理が徹底されています。
地方大会だと、そこまでの管理が出来ていない上、指導者も未熟な事も多いので熱中症になる球児も居ますので、その点については優先度を高くして対策を行わなくてはいけないことです。
有名なところだと「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」とか
>「警鐘」は、当時の新左翼としては珍しく「婦人解放」を掲げていた。しかしその内容は「婦人解放のためには革命が必要なので、女性は革命運動に従事しなければならない」程度のもので、実態としては女性メンバーに対し組織(≒男性メンバー)への奉仕を求めるものだった。共同生活は多くの場合男女で行うこととされたが、これを嫌がる女性メンバーに対しては、組織が婦人解放を掲げていることを理由に「男性メンバーに対して失礼」という批判が加えられた。組織内での男女交際(結婚と同義だった)は幹部がお見合いを斡旋し、交際(=結婚)も幹部の承認の下に行われた。子供は活動の邪魔であるとして妊娠した場合は当然中絶するものとされ、且つ中絶は秘密裏に行い中絶直後も平常どおりの活動をすることが求められた。川島豪をはじめとした幹部の中には女性蔑視発言を公然とする者もおり、中には女性メンバーに対して性的暴行を加える者もいた。
Wikipediaの記載だから云々っていうお得意の逃げの論法すんなよ。
一時期の学生運動の反省をする書籍には大体載ってた話題なので、それ知らないで赤軍の名前出すのって相当「イメージだけで語ってる」感じだな。