はてなキーワード: 警鐘とは
一部に「今回電車止めた人は統合失調症だった」って情報が出回ってるね。
他に「酒に酔っていた」という情報もあるし、ちょっと錯綜気味。
ところで、
過去事例では必ず裁判で「責任能力の有無」について争われるよね。
それなのに、なぜそんな裁判が成立するかといえば
これは「猛獣が放たれている」と同じくらい恐ろしいことだよね。
なぜそうなるんだろう?
2.医師の診断が誤ってる?
1.について。
欧米諸国が「精神病院を縮小しましょう」運動を推進しているみたいだけど
日本は縮小していないみたいだね。
仮に患者数が増えていたら病床不足なのかもしれない。
きちんと調べれば分かるかもだけど。
2.について。
いるようだし「問題なし」と誤診することはあり得るってことだよね。
だけどもうすぐ半年になるけど未だに解決された兆しが見られない。
2年近く前に僕が提案した自分の増田にブックマーク数が見えるようにして欲しいという要望も
今月ようやく実装されたのを見ると、
荒らしスパム投稿に対して何度か通報しててもそれに対して議論が交わされ、
だけど、このスパム投稿が原因で素晴らしい、面白い、魅力的な増田の数々が淘汰されてるのだとすると
増田の意義が損なわれると思うので、残念でならない。
保育園落ちた日本死ねや先日のカワンゴ事件などの話題もホッテントリ入りして初めてその存在を知ったのは
そもそも糖質制限ダイエットが理由で糖尿病になる人間が身の回りに増え始めてきたので警鐘を鳴らしておきますね。
あの頭脳明晰なかわんごさんさえ糖質制限とか言いはじめてて目眩がしたのだけど、生半可な糖質制限ダイエットはむしろ糖尿病リスクが高いので絶対におすすめしません。
実体験として過去にこの2つのダイエットを試してみたけど、圧倒的に楽だったのは低GIダイエット。
何が楽かというと、空腹感に対する我慢の必要が圧倒的に楽という点。
どちらにも共通して言えるのは血糖値を低く保ちましょうと言うものなのだけど、明らかな違いは血糖値の上昇にあります。
ここで質問。
糖質制限ダイエットをしている人の中で、始めてから一度も不要な糖質の摂取をしたことがないという人はどれくらいいますか。
例えばチョコレート、生クリーム、あんこ、白米、パン、ケーキ、クッキー、アイスクリーム、などなど。
更に付け加えれば、にんじん、じゃがいも、さつまいも、クリ、かぼちゃ、果物の缶詰、、、
空腹感に耐えかねて思わず飛びついてしまったことはありませんか。
辛いダイエットのご褒美だと、ついつい食べすぎてしまったりしていませんか。
それ、本当にとても危険ですよ。
血糖値の低い状態からGI値の高い食品を摂取するとどうなるかというと、突然高くなった血糖値を一気に下げようとインシュリンが大量に分泌されます。
その結果、血糖値は食事前よりも低い状態に落ちかねません。糖質を摂取したつもりなのに、むしろ低血糖の状態になりかねない危険性があるのです。
しかも普段は糖質を制限しているために休止状態にあるすい臓に突然のインシュリン大量分泌の命令は大きな負担となります。
勘違いしている人がとても多いのですが、糖尿病の原因は何も恒常的なインシュリン分泌によるすい臓の疲弊だけでありません。
むしろ、こうした血糖値の乱高下による疲弊の場合が多く見られます。
そもそもインシュリンの分泌が苦手である糖尿病患者であれば生死をかけた覚悟で糖質制限ができますが、普通にインシュリンを分泌できる人間にとって見れば、無理にその機能を衰退させかねない危険な行為といえるわけです。
血糖値が上昇しなければ当然インシュリンの分泌もありませんし、脂肪吸収が促進されることもありません。
そして、何より血糖値が下がりすぎることがなくなることで、過度な空腹を感じることもなくなります。
これがダイエットにとってどれだけ大きな要素であるかは、辛いダイエットを経験した人なら理解できるはずです。
ただGI値が高いか低いかの判断と言われてもなかなかピンと来ないかもしれません。
そこで、低GIダイエットにとくに重要な野菜に関して、とてもわかりやすく、比較的間違いの少ない見分け方をお教えします。
それは、根と実は高く、葉、茎、種、豆は少ないというものです。
生物学に考えてみれば単純です。命を育む根と実には蓄えるエネルギーが多く詰まっているというだけのことですね。
逆に命の根源となる種や豆は、蓄えが必要なエネルギーよりも命の基礎となる栄養素が沢山詰まっているということになります。
多少の例外はありますが、迷ったらこの指標に従えばほぼ問題ありません。
肉や魚に関しては、GI値を気にする必要はほとんどありません。
その分、脂肪分そのものが多く含まれる食品ですので、牛豚の脂身や鶏の皮などを食べないようにするだけで十分です。
さて、どんなダイエットにも共通して言えることは、最大の敵は食べ過ぎということです。
糖質制限だろうと低GIダイエットだろうと、どちらも食べ過ぎればカロリーが代謝をオーバーするのは当然のことです。
これらのダイエット情報は、十分な運動と適度な食事量を保っているにも関わらず痩せない人におすすめする内容です。
まずはその点を十分に自分自身で見直した上でななければ、いつまでたってもダイエット商材の常連から抜け出すことはできません。
それどころかむしろ病気のリスクさえあるということを十分に理解した上で、そもそもなぜ痩せたいのか、健康とは何か、美とは何かということを第一に考えてダイエットに臨みましょう。
若者の自殺のニュースがあるたびに湧いて出てくる、「もう二度とこんな悲しいことが起こらないようにという大義名分をかかげて自分の主張を押し付けようとしてくるひとたち」
人の自死を利用してる卑しい行為だって気づいていないから、あんなにも堂々としていられる。
本来なら、「人が自死を選んだ。悲しい。ただただ悲しい」でいいはずなのに、そこからさらに踏み込んで「社会はこうあるべき、世の中はこうあるべき、じゃないと人が死ぬ。俺の主張は人が死ぬのを防いでやってる崇高な行為。という大義名分がある自分の主張の押し付け合い」が始まるのをみていつも悲しくなる。
そう言うと決まって「いやいや、尊い人の死をもってしてシステムの警鐘があったのだから、そこは改善しないと。彼らの死を無駄にしないためにも」みたいな反論がある。それこそが大きな間違いだ。
間違ったこれによって得られる未来は、「自殺しようか迷っている人に対して、自殺によって社会をいい方向に変えられるという後押し」でしかない。
「人の自殺にかこつけて自分の主張を押し付けようとするひとたち」は、「人の自殺にかこつけて自分の主張を押し付けようとする害悪」のみならず、自殺しようか迷っているけどぎりぎり踏みとどまっている人の背中まで押してしまっている。この汚さに気づいていないから、あんなにも堂々としているのだろう。
君が自殺したら、悲しい。ただただ悲しい。君が死んでも、世の中なんてよくならないし、だからこそ、ただただ悲しいんだ。
人の自殺にかこつけて自分の主張を押し付けてよっているだけの声の大きい汚い人間のいうことに、どうか惑わされず、君の悲しみはみんなにとってのただただ悲しみの中にあるということを忘れないで。
むしろ貫通させたパイプをうっかり落としてしまったのは新米の若者で、自分のミスで人を殺してしまったという重い十字架を背負いながらこれから生きていかなければならないとしたら本当に不運でかわいそうだなと思った。
・事故や事件を自由に起こせる架空の新聞記事を作成できるノートで、世界を変えようとする女性の話
デ○ノートのパクりとか言っちゃいけない。
橋本 崇載
@shogibar84
実は少し前からこの話は知っていた。将棋界の情報には疎い俺でもです。
さて、何書くか…。
橋本 崇載
@shogibar84
数週間か1か月ほど前に、奴と対戦した人が不正行為をやられたと憤慨していると聞いた。
恐らく、その後に決定的にクロ断定できるものを掴んで、踏み切ったのだろう。
将棋連盟はタイトル戦開催まで数日というギリギリのタイミングで
よく英断したと思う。始まってからでは、より取り返しがつかない。
橋本 崇載 @shogibar84
ファンには酷な知らせと思うが、個人的にも1億%クロだと思っている。
奴が除名になるかどうかは知らないけど、俺は二度と戦う気しない。
以前からソフト指し、モラル、カンニング、再三警鐘を鳴らしてきたつもりだが、最悪の形になりただただ残念だ。これでも潔白を信じるという人はどうぞご自由に。
周りのブラック上司がどうかは知らないけど、自分の場合は100%正義感が原因でブラック上司になってしまっていた。
特定を避けるためにかなりぼやかして書く。
自分が入社した頃の会社は業界としては発展途上、企業としては過去の悪しき習慣を引きずったままの成長頭打ち企業だった。
目の前に集客のチャンスがごろごろとしているのに、新しいことに挑戦して評価を落としたくないくせに残業代をカットされたくないからと無駄なルーチンばかりが業務を圧迫していた。
当然ぺーぺーの自分には山のような無意味なルーチンが回ってくる。ルーチンをこなさなければ古参社員達に批判をスキを与えてしまう。
だから新しいことや自分のやりたいことにチャレンジするには、全てのルーチンを終わらせた後か、休みの日にするしかなかった。
別に会社に特別な恩があるとかよりも、自分の能力に対する好奇心であったり、単純に業績が上がっていくことに対して楽しいと感じていた。
だから、目の前にやるべきことがあるのに、努力しようともせず無駄に時間と給料を食いつぶそうとするその時の社員達がむしろブラック社員に見えていた。
文字通り休みを返上して、毎日の勤務時間は平均15時間はくだらなかった。
30日x15時間-平均定時勤務時間150h(実働7時間。月8休)=残業300hの世界だ。
でもそれは誰かに言われたからではない。
誰にも文句を言わせないために全てのルーチンをこなした上で、やらなくてはならないことややったほうが絶対に成長につながることをやりつづけたらこうなっていたのだ。
そんな目先の賃金より、自分が成し遂げた仕事に対する評価が欲しかった。
古参の社員達を見返したいという気持ちがなかったと言えば嘘になる。でも、それ以上にやりがいを感じていたのも事実だ。
当然会社内での評価はうなぎのぼりで、最短最年少昇格記録を毎年のように塗り替えた。
そんな姿を見てか、古参役職者は次々に理由を付けては会社を後にし、それも手伝ってか更に加速度的に役職を駆け上がることになった。
視点が変わってもやるべきことややりかたが変わっただけで、相変わらず使えるだけの時間をすべて使って仕事をし続けていた。
いつしか誰よりも早く出社しないと気がすまなかったし、社員達が全員帰るのを見送らないと気がすまなくなってしまっていたのだ。
ただ、自分がやりたい仕事や新しいことへの挑戦は、日常業務以外の時間帯にするのが当然だと思っていたし、自らがそうした見本であり続けようと思っていたのは事実だ。
無言のままに、僕の下で出世したければ僕と同じ働き方をするのが当然だと考えていたのだ。
だから自然と社員たちの間で早出残業は当然(自分ほどではないにせよ)だったし、規定の残業代以上を請求してくる人間もいなかった。
しかし、そんな生活は当然長くは持たず、入社から8年ほどで大きく心身のバランスを崩してしまうことになった。
ある日、ストレスの大きな案件を幾つか同時にこなしている最中に、突然呼吸が乱れたかと思うと、涙が溢れ出し止まらなくなってしまった。
その日に限ってたまたま社に顔を出していた本部の上司に別室に連れていて行かれたが、呼吸の乱れや嗚咽が止まらず、全く喋ることができなかった。
その後はひとまず早退することになったが、翌朝から仕事のことを考えるだけで精神と肉体が働くことを断固拒否するようになってしまった。
何と伝えればいいのかわからない状態で受話器を持ったまま時間ばかりが過ぎ、結局上司からの着信を何の準備もできないままに受けることになってしまった。
昨日同様、まともに会話のできない自分に、上司から一週間の自宅療養(勤務禁止)を命じられた。
その間は、常に自らの評価ばかりが気になっていた。
部下から陰口を叩かれているのではないか。仕事に穴を開けたことで会社から大きなマイナス評価をうけてしまうのではないか。取引先との信用問題になってしまっているのではないか。
今すぐに会社に行きたい気持ちに反して、身体はまったくもって動こうとはしなかった。
いっそのこと死んでしまいたい。その時は本当にそんなことばかり考えていた。
自宅療養の間はほとんど外出はせず、所有している漫画やDVDばかりを見ていた。
そのままでは何も進まないと、予定通り1週間後に出社を決意した。
そうして出社してみて驚いたことは、誰もが心配してくれていて、誰もが笑顔で迎え入れてくれたことだった。
誰一人というのは大げさだが、無関心な人間はもとより無関心であったり、不満げな人間はもとより不満げな態度ばかり見せる人間だということもわかった。
しかし、何よりも驚いたことは、自分が一週間休み続けたことで、何一つ営業に支障が出ていないということだった。
あとで聞けばそれなりの苦労はあったそうだが、むしろ使命感があって仕事が楽しかったという意見がほとんどだった。
さらに、今まで無能だと思っていた数名の部下が率先して活躍していたと言う話を聞いて耳を疑ってしまった。
じつにこの一週間で、今までさんざんに手を焼いてきた組織が、今まで見たこともないような成長を遂げていたのだ。
そうした状況に嬉しさと安堵が入り交じる一方、一つの大きな疑問が湧き上がっていた。
自分は一体何と戦っていたのだろうという疑問だ。
腐っていた頃の社員はほとんど追い出して、残っている人間は自分に対する理解者だ。
それでも尚自らが第一線に立ち、誰よりも長い時間働き続けることにどんな意味があったのだろうか。
他者を認めずに自らのやり方で第一線に立ち、自らと同じ美学の人間だけを認めることを誰が喜んでいたのだろうか。
その時、他でもない自分自身がこの会社を世に言われるブラック企業へと推し進めていた事実に気がついてしまった。
それからと言うもの、早目の出勤は変わらないものの、帰りはできるだけ早く帰るように心がけた。
そのことについて誰かから反対や侮蔑がないか気になったが、そんなものは全くもって杞憂だった。
振り返ってみると、自分が帰った後に社員たちが真面目に働いているのかが気になっていたのかもしれない。
部下がしっかりと働くことを監視すること。それも一つ、自らの大きな使命だと勘違いしていたのだ。
果たして社内の生産性は、下がるどころか今まで一番の成長を見せることとなった。
それまで無能と思っていた人間が意外なタレント性を発揮し、自分しか務まらないと思っていた業務も、やらせてみれば自分以上の創意工夫を見せる社員が多く現れた。
ある意味では、自らの評価を失うことを恐れるあまり、働き方を変えるきっかけを見失っていたのかもしれない。
しかし、その生活になって評価を失ったかと言えばそれはノーだ。
現実に、自らが取り仕切る組織は業績を上げ、その評価はダイレクトに自分へと返ってきている。
誓って言いたいことは、自らが進んで会社をブラック化させたかったわけではないということだ。
むしろ自らの面倒を見る組織に属する人間たちの評価を落としたくない、自分と携わった以上成長させたいと望んでいたのだ。
しかし、そのために自らが犠牲になるという手本になろうとすることこそが、組織そのものをブラック化させる原因になっていた。
しかも、その場にいる大半が、それが不健全であるということに気がついていなかったのだ。
考えてみれば、新規に採用する人間の中で仕事が耐えられないと言ってやめていく人間の数は年々増加傾向にあった。
それを見て「最近の若いものは」と考えずにいられない自分がいたことも事実だ。
しかし、それこそが自らの過ちを知るための警鐘だったのかもしれない。
時代は動いているものなのだから、変わっていくべきは組織なのだ。
今でこそそうした働き方を強要していればすぐにブラック企業のレッテルを貼られ、社会から糾弾されてしまうことだろう。
未だに発作のように心身のバランスを崩すことがあるが、あの時、無理にでも立ち止まれたことは人生の中で一番の幸運だったと思っている。
ブラック企業問題は、その時の業界や企業の成長具合によって原因が異なるものだ。
見込めない生産性を埋めるために強いれば問題は露呈し易いが、働けば働くほど稼げる状況であれば、それが悪だとはなかなか気づけるものではないのだ。
もしあの時、信用できる上司に「働きすぎだ」と言われたら自らは止まることができただろうか。
友人にどうしてもと誘われて「君の名は。」を見に行ったが激しく嫌悪感に襲われた。
言いたいことは山ほどあるがそれぞれ大体言及されているから改めて言わないとして、とにかくもういい加減にしてほしいのはロリコン教育アニメはもうやめろということだ。
宮﨑駿が散々に使い潰した、思春期女子による性の目覚めを繊細な心理描写と褒めそやす文化にはもううんざりだ。
それでいて皆が美しいと褒めるのは性に目覚める前の純粋さである。
大人の女性を引き合いに出して、まるで汚物のように描くのはほんとうにどうかしている。
これだから日本人は女性が性に目覚めることを汚らわしいことだと信じて、いつまでたっても処女性が重宝されてしまうのだ。
江川達也が宮﨑駿に対して鳴らした警鐘の意味を理解していないとは言わせない。
宮﨑駿が去った後、庵野があれほどまでに処女神話を打ち砕いてくれたと言うのに新海誠なんぞという空気読めない男がまたしてもやらかしやがった。
まさか新海作品に巧妙かつ山ほど詰め込まれていたエロとバイオレンスを見逃したはずはないだろうな。
異性への興味、性器への接触、三角関係と略奪愛、BL、百合、大人への憧れ、大人同士のワンナイトラブ、口噛み酒の白濁とした変態性、よつはへのペド性、数え上げればキリがないが、断言して言えることは純愛は一つとしてなかったということだ。
(主人公同士の恋愛は吊り橋効果だと断言して良い。少しネタバレだが、彼らの恋愛が目覚めたのは会えなくなったことが直接の要因になっているからだ。)
でなければ途中からみつはがブラを付け始める書き分けはいらなかったはずだ。
あれは女性の心理的変化や成長を描くための演出ではない。お前らを落胆させるためだよ。このド腐れロリコン野郎どもが。
夢を目指して始めた就職活動。
とは言っても呑気なもので、4月の半ばにスーツを買いに行ったら店員のお姉さんに笑われた。
好きな会社の情報しか見ていなかったから、就活が3月から始まることなんて知らなかった。
それから行きたい会社の説明会を回ったりエントリーシートを書いて送ったりした。
結局受けた企業は10社もなく、ある1つの会社を除いてエントリーシートは全て落ちた。
エントリーシートの書き方も知らず、バカ正直に自分の書きたいことばかり書いていた。
就職活動の場において「やる気と熱意」というのはあまりにも無力だった。
たった1つだけ最終面接に漕ぎ着けた会社があった。大本命だった。
夜行バスの中で眠り興奮して眠れずにシュミレートした、たくさんの喋りたいこと。
何一つ喋ることはできなかった。
そもそも面接官が聞きたいことはそんなことではなかったのだろう。
あまりにもトンチンカンなことばかり言うからきっと面接官も困っていたはずだ。
なにより、
ゼミのための予習と
結果は言うまでもなく「お祈り」だった。
持ち駒がなくなったが、なんとか志望の業界に近い仕事を探しだし、
説明会でエントリーシートを提出するためだけに再び東京へ向かった。
藁にもすがる思いだった。
やっぱり落ちた。
この辺りで心が折れた。
7月だった。
自分にはやりたいことををやる資格がないことがとても悔しかった。
そうして夏休みを迎えた。
就職活動と卒論があるからと週1に減らしてもらったバイトへ身体を引きずる以外、
時々起きて求人サイトを見るが、やりたい仕事は見つからず、さらに泣いた。
手付かずの卒論に心は焦る。でも焦るだけで、なにもできなかった。
前期の授業料を払った口座の残高を見て肝が冷えた。
12万。これから半年間毎月奨学金が振り込まれるにしても、あまりに心もとない金額だった。
そうして本当に何もしないまま2ヶ月が経とうとしていた。
内定も絶対に無理なことではないのだろう。秋をすぎて内定先を得た先輩たちをよく知っていた。
卒業もできないことはないだろう。うんこみたいな卒論を書くことになるが。
でも自分にはそれに立ち向かっていく勇気はなく、これ以上に心が潰れていくことが怖かった。
せっかくやりたいと思うテーマを見つけた卒業論文をてきとうに済ませてしまうのも、
嫌だった。
あとは自分の心を立て直すこと、メンタルをしっかりとコントロールすることに費やした。
そう安心した矢先、家庭やバイト先、人間関係などプライベート面で信じられないほどのトラブルにも見まわれたが、
残った単位をしっかり取り、卒業論文も進め、心も立て直し、新たな気持ちで3月を迎えることができた。
就職活動の流れようなものも理解して、しっかりその波に乗っかることができた。
去年の反省から違った業界を覗くようにもなった。他にもやってみたい仕事を見つけることができた。
エントリーシートや面接の乗り越え方もなんとなく理解し、選考を進んでいくことができた。
面接に落ちることはあっても割り切り上手にもなった。
なんども行き慣れた東京でも時間の使い方なんかも上手くなってきた。
それでもやはり就職活動の大変さに驚く。
完全に学校に縛られることはなくなったはずだが、暇ができたような感じは全くしない。
やっぱり工夫はしていてもお金はどんどん減っていく。
去年失敗したのはしょうがないことだなと思えた。
ところがどっこい、6月の頭にまた持ち駒を失った。
面接ではどこでもそれなりにしゃべれていた。
落ちていくのは「合わないな」と思った会社だったので気にしなかった。
片方ではヘマをしていまった。片方はサラッと落ちた。
ヘマをしてしまったのは惜しいことをしたが、
受けていたところはどこも狭き門だったのでそれこそ「ご縁」がなかったのだろう。
持ち駒を失った時、自分が体力的に疲れ始めているのを感じたし、
資金の消耗も激しく、交通費などでクレジットカードの支払いがかさんでいた。
少し休んでまた始めればいいや、そう思って就職活動を2ヶ月ほど一度休むことにした。
説明会にいっても心は沸き立たず、
面接にいってもどこか身が入らない。
そのうちに求人を見ていても興味が湧かなくなった。
このままでは拉致があかないと思い、いわゆる求人紹介会社を利用してみる。
あまり話も聞いてもらえないままにとにかくIT企業を紹介される。
いつまでも駄々をコネてられない、何も見ずに判断するのも良くないだろう、
そう思ってとりあえず紹介された会社の選考でスケジュールを埋めてみる。
やはりちっとも興味を持てなかった。
イヤイヤ選考に足を運ぶ日々が続いた。
ただただ怒っていた。そして、至極もっともなアドバイスをくれた。
「しっかり目的意識をもって行動できるはずの人なのに、全然うちに入りたいという意識が感じられなかった。
本当に入りたいの?違うんじゃない」
「本当はやりたいことがあります。」
「そう思います。
多分自分は取り繕いきれません。」
「ちゃんとやりたいと思える仕事探した方がいいよ」
「はい……」
この1年で何も成長しなかった。
この期に及んで自分のやりたいことしかやりたいと言えない、わがままで不器用なクズだ。
どこかでちゃんと覚悟を決めなきゃと思いながら、ずっと心はイヤイヤ言っている。
でも、どうしても自分の心にふたをすることができないのだ。
半端な気持ちで面接に言っても「ははっ、やりたいっすね~w」みたいな舐めた態度に見える。
じゃあこんなクズは素直に卒業してアルバイト扱いからでも行きたい業界に潜り込むか。
でも、今から全てを投げ打ってでもそういう努力ができない自分は結局クズなんだよな。
時々ある行きたい業界の二次募集や小さい零細会社の求人に手を出す勇気がない。
いつのまにか「やりたいです!」と言う気力さえ失ってしまった。
あれも嫌、これも嫌。
結局自分はなにをやりたいんだろう。
ああ、そうなんだろうな。
毎年多くの人が入社し、それと同じくらい多くの人たちが辞めていく、そんな会社だった。
そんな中で自分のような同期や後輩たちがくたびれて辞めていくのを目にしていたのだろう。
やりたいと思える仕事を見つけたい。
でも、少し疲れてすぎてしまったし、
なんだか見つけられる気がしないんだ。
高齢化社会において超高齢者が現役で頑張る姿というのは美しく見えるかもしれない。
ただ、果たしてそれを実現するためにどれだけの犠牲が必要になっているかは想像に難くないはずだ。
自分が働く会社は中小零細企業であるが、初代が頑なに社長の席を離そうとしなかった。
文字通り実印をしっかり握りしめ、どんな契約だろうと必ず社長が目を通して許可をもらうことが不可欠だったのだ。
自分が入社した頃ですでに70を過ぎていたのだが、当然価値観も古く、新しいものの導入にはとにかく首を縦に振らなかった。
そのために競合からかなりの遅れを取る羽目になったのだが、自社に関してはまさに運だけで、本当にたまたま生き延びることができていた。
しかし、とうとう認知症の兆候が現れ始め、二代目である息子たちが世代交代を申し出ようとすれば、人目をはばからずに大声を張り上げて拒否をするようになった。
その頃自分は本社の事務にいたのだが、それこそ毎日のように「泥棒!」「俺をそんなに殺したいのか!」などという怒号が響き、誰もが会社の未来に対してただただ不安を抱え続けていた。
世代交代にはそこから数年を要することになったのだが、最終的には本人の記憶も曖昧になり、現場の社員レベルではうかがい知れない間に専務である長男と世代交代の書類が交わされることとなった。
それからも先代の社長がふらりと会社にやってきては、社長室の椅子に腰掛ける新社長に対して「なぜお前がおれの椅子に座っているんだ!」などと叫ぶ姿がみられた。
そのためしばらくの間、社長室は決裁や業務に関わる機能を全てなくした状態で先代のために開けつづつけることになってしまうほどだった。
先代が老衰でこの世を去るまでその習慣は続けられたが、入院してから亡くなるまでの期間があまりにも短かったことや、先代の功績に対し葬儀があまりにも質素で、さらに葬儀会社と思われる外国人がちらほら出入りしている姿が見られたことは、社員たちの間で口に出してはいけない雰囲気に包まれていた。
それから程なくすると、2代目社長は突然の世代交代を発表した。社長になってからたったの5年。年齢で言えば60になったばかりの頃だ。
確かにその5年間は激動の5年だった。それまでの遅れを取り戻すように様々な設備を導入し、新事業部もできて(自分はそこに異動することになった)会社の規模は1.5~2倍近くになった。
先代が実権を握っていた期間が長すぎたことで、2代目はいわゆる道楽社長だったのは確かだ。この5年の急成長も、実を言えばその息子である3代目による功績が大きい。
だからその功績を讃えようという意思、さらに先代の轍を踏みたくないという意思による世代交代であると聞かされたが、正直、社長という肩書も持ったし、さっさとリタイアして遊んで暮らしたいというのが本音だろうというのがもっぱらの評判だ。
そんなわけで今の社長は35歳という若さでその立場に就くこととなった。
しかし、先述の通り初代に抑え続けられた鬱憤と2代目に対する不信感が功を奏してか、会社の業績は今も伸び続けている。
一度カバン持ちで経営者同士の会合に参加した事があったが、高齢の経営者に囲まれながらも謙虚ながら対等に話をする社長の姿はなかなかに見応えがあるものだった。
初代が実権を離さなかった反動で、一気に3代目が就任できたことは会社にとってメリットでしかなかった。
もしこれで道楽者の2代目が未だに実権を握っていたら、本当に会社はどうにかなってしまったかもしれない。
この会社で起きたことを振り返るとこうだ。
・初代が一代で築き上げた会社であり、常に実権を持ち続けていたために2代目が育たなかった。
・古い価値観、商売人独特の頑固さによって、新しい技術の導入に対し致命的な遅れを取ることになった。
・しかしそれを危機と考えていた3代目が陰で人一倍の努力をしていた。
・それを感じたのか、それとも単なる道楽好きが幸いしただけか、2代目の就任期間が短かったことで、若手社長の誕生により会社は持ち直すどころか成長することができた
たまたま立地に守らてていたことで初代の行動が許されたということもあるかもしれないが、一歩間違えればいつ潰れていてもおかしくなかった状況だったといえるだろう。
ここまで長々と書いてしまったが、高齢者が現役であることの一番の問題は、後継者が圧倒的な経験不足に陥ることだ。
そのことは親族経営の会社で働く人間は痛いほど痛感しているのではないだろうか。
しかし、戦後の高度経済成長を経た今、その頃に成長を遂げた企業のほとんどは親族経営であるのも事実だろう。
自分にとって、天皇陛下による生前退位の意向は、そうした社会のあり方に対する警鐘であり、まさに自信の退位を手本として日本の象徴としての務めを全うしようとしているように見えて仕方がなかった。
昭和という激動の時代を動かし続けてきた先代の背中を見てきた上で、子供の著しい成長を感じるからこその、まさに平成天皇しか成し得ない判断ではなかろうか。
高齢者が働かざるをえないような社会保障が不安定な状況の中で、実権だけを手放せというのは都合のいいことに聞こえるかもしれない。
しかし、我が社において何をおいても悲しいことは、認知症が始まってしまったことで2代目との関係は悪化の一途を辿り、先代はせっかくの功績が讃えられることもなくこの世を去ることになってしまったことだろう。
自分が作り上げた会社だから自分が自由にしたいと思う初代の想いがわからないわけではない。しかし、個人のわがままで数百人の従業員が露頭に迷うことが許される世の中であってほしいわけでもない。
願わくば高齢でありながら自社の実権をしっかりと握ったままの経営者は、自分の思考や価値観が明晰であると自覚ができているうちに、後継者へと席を譲ってほしい。
シン・ゴジラの作戦名どっかできいたことあるけどなんだっけとおもって、でもしらべるのめんどうで放置していたら、ちょうど今読んでいる本で、その由来を確認して、もーそっから色々妄想がとまらなくなり、深読みをしたくなりまくってしまったので書きます。途中までは、あんのさんのゴジラの作戦名とかに仕込んだ神話ネタの説明。途中からはちまたにあふれるエヴァの超解読本ぐらい怪しい俺の推測。でもまあこういうの含めて盛り上がるのがあんのさくひんだよなとおもうので様式美としてひさしぶりに長文かきます。結論だけかくと、一見くそつまらない勧善懲悪にみえるのだけど、今回もちゃんとあんのさんてきひねくれた映画だったのだろうということです
まずシン・ゴジラ、構造として、わりと愚直なまでにスサノオのヤマタノオロチ退治の神話をなぞっています。誰でも気づくのが、ヤシオリ作戦はヤマタノオロチに眠らせるために飲ませる酒の名前、はしご車の名前であるアマノハバキリはスサノオが使った剣の名前ってとこです。この2つで明確にヤマタノオロチ神話をなぞっていることを示しています。
ということはゴジラはヤマタノオロチということになるわけですかね。ゴジラは原作では恐竜のミュータント、つまり龍です。龍と蛇は限りなく近く、概ね同じ存在と見なしていいと思うのでヤマタノオロチ=龍=ゴジラってことでもいいのだけど、やはり微妙に異なる。今作では幼体の姿で4つんばいの状態を見せているところからも蛇としてのゴジラというのも意識させている気がします。尻尾が長いのもその象徴かなと。後常に状況に応じて進化するのは蛇の脱皮をイメージさせる。だから今作のゴジラはより蛇であり、ヤマタノオロチに近い存在であるとは思います。
そうなると、矢口はスサノオなのか。スサノオの神話は基本構造は貴種流離譚、つまりアマテラスの弟という高貴な血筋をもつものが、本人のか何らかの欠損を理由に追放され試練を乗り越える。矢口は親が力を持った政治家であることが示唆されている。しかし本人の性格は、権威に頼らず上との衝突を辞さず、どちらかというとうとまれる存在。結果、メインストリームから外された専門家集団の責任者になるなどする。まあありがちな設定だが、違和感があるのは親が政治家である設定だ。この流れならはじめからたたき上げの能力戦いがコミュニケーション力低いオタク的性格の主人公でもよかったはずだが(実際アニメだと死ぬほどよくある)、そうしなかったのはスサノオを重ね合わせるための設定かなと思いました。
牧教授の奥さんが、放射能が原因でなくなっているというのは、ヤマタノオロチがこれまですでに八人の乙女を食らってきたという部分に重なる。放射能の象徴がゴジラでもあるからだ。そしてまたヤマタノオロチが暴れ狂うのだと、旅先で出会ったアシナズチという老人はスサノオに告げるのだ。アシナズチは牧教授なのでしょう。もう少し妄想を広げるならクシナダ姫は、日本(出雲に近い広島)の血を引き、過去親族が放射能というヤマタノオロチの被害をうけ、同時に高貴な一族の出(パターソンという名前は、貴族の血筋)であるカヨコかなと。クシナダ姫なら、今回のゴジラに殺されそうになだてるのかというと、そうでもないのがこの説の弱いとこですが、アメリカから核爆弾が落ちるときに、ぎりぎりまで日本にいる選択をしたところで、ゴジラではないが同じ放射能的存在の核爆弾の被害をうけ兼ねないという意味ではまあそういってもいいかなと。
後半になればなるほど、若干強引な結びつけにはなってますが、作戦名ひとつで、まあヤマタノオロチ退治の物語にかけているというのはある程度明らかなのだろうと思います。それはあんのさんがよくやるゲンガクテキになんとなく、物語に深みがあるようにみせかけるためにやっているのかというと、もしかしたらそうじゃないのかなとか思います。ここからは、さらにさらにこじつけになっていく部分が大きくなりますがご容赦ください。妄想です。
まず、事前説明として日本における蛇信仰について説明。蛇は、最も古い信仰だと1 外形が男根相似 2 脱皮による生命の更新 3 一撃にして敵を倒す毒の強さという特徴から世界各地で祖神として崇められていました。時代が移ると、蛇は稲にとって害獣である鼠を食べる特徴から農耕の神という属性が強まったこと、また蛇を邪とし龍を崇める信仰が流れてきたことから祖先神の側面はうすくなり農耕の神の側面がつよくなったのです。
オロチとは、そのまま蛇という意味もありますが、峰の神、山の神という意味もあり、かなり古い蛇信仰の対象といえる名前です。それがまず害をなす存在として描かれる。助けを求め最後に勝つの側のアシナズチという老人はテナズチという配偶者がいます。その足がない、手がない神という名前から彼ら自身も蛇の化身と考えられる。その娘がクシナダ姫。奇稲田の姫と書き、農耕の神を意味し蛇の神の子供であるから、彼女も蛇の神。善とみなされるのは農耕の蛇の神なのです。農耕は中央集権的定住型の社会の象徴、それより古い祖先神は、集権化される前の氏族的共同体の象徴ともいえます。この国は、かつて様々な小さい国が、自分たちの祖先神をもち、乱立し互いに牽制し互酬しあう仕組みでした。稲の神である天皇による大和の支配が確立し日本という形がつくられるようになりました。
つまり、ヤマタノオロチ退治の話は、農耕の神としての現体制の蛇神が高貴な新しい王族の血を引くものといっしょに、出雲を中心とした旧支配者としての蛇を倒す話ともよめます。
今回のゴジラを投影しているのがヤマタノオロチだとすると、それは眠っていた古い戦いの神、すなわち現体制にとっては無秩序をもたらすものなどのイメージを仮託してるのではないでしょうか。一方、総理を中心とした秩序を維持し続けようとする政府側、そこからうとまれながらも、大きな役割を果たす矢口は、当然そうした、ありとあらゆる秩序を破壊しようとする悪を許さない中央集権的社会の体制をイメージされているのでしょう。そして日本の力を政府に結集して、無秩序な純粋な力に打ち勝つ。
ただ、ヤマタノオロチ神話のように、実際に打ち勝つことはできず酒で眠らせたとここておわっているところ、本来ヤマタノオロチのしっぽからは草薙剣がでてくるはずなのに、何かまがまがしい生き物が出てきそうになっている描写、おそらくゴジラの次の進化を、におわせていて、勝負はついていないところを見ると、あんのさんの目線はどちらかというと、ゴジラ側の反体制的、封印された本能の塊のような存在に共感をし続けているようにしか思えます。
実際日本においては、かつて天皇による中央集権化画家たちの上ではなされたとはいえ、現代に至るまで強力にそれが機能したことはなく、困ったときは旧来のお互いの話し合いで解決するというやり方がずっと続いています。氏族的共同体のありかたは死せず、この国に眠り続けています。今回の映画でも、体制側の否定されつつ、賛美もされた特徴として徹底した非合理な合議制があります。そしてトップが死んでもすぐに首のすげ替えがなされる。まさに蛇的なありかた。これがゴジラを倒した最大の理由であるとすれば、あんのさんが、最終的に勝たせて賞賛したのも中央集権的な正義ではなく、日本の体制側のなかにもある蛇的、ゴジラ的な部分だったのではないでしょうか。
今回、怪獣は一匹しかでてないようにみえましたが、じつは今作も怪獣同士の戦いであったのです。ゴジラ vs 日本人。
そう考えると、最初いつものエヴァとかのひねくれた作品とちがって、今回は単なる勧善懲悪映画なのかな、つまんねーなとおもってたりしたのですが、やっぱりそうじゃないひねくれ映画だったのだろうな、いつものあんのさんだっとほっとします。
蛇足ですが(蛇だけに)人間も使徒ほひとりで、進化の形が少し違っただけの怪物であるというのはエヴァとまんまおなじな訳ですよ。そう考えるとゴジラは、アダムであり、尻尾から生み出されるのは使徒なのかも。イメージ的には貼り付けにされたリリスの下半身からにんげんがぽこぽこくっていていたのとおなじなのかも。
ゴジラって、いままでSF定番の行き過ぎた現代科学に対する警鐘としてえがかれてきたかとおもうのですが、そして今回も福島原発のイメージはわかりやすいほどかぶせているとは思うのですが(こちらでも言及されてますね http://anond.hatelabo.jp/20160805000418 )、ヤマタノオロチを持ち出してきたことによって、いままでのような科学の力への警鐘ではなく、また311の反省映画でもなくしているのではないかと。単発の事象に対する象徴的な映画なのではないとおもうのです。この国が根本的に抱え、なおかつ封印している体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望の力強さとその恐ろしさへの警鐘、それと同時にその力は今でも脈々と体制側の中にもすでにとりこまれていてそれを有効に使うこともできるよね、というような話をみせたかったんじゃないかなとかおもいます。ゴジラは死なないよどこまでも、ってかんじで。
あーーーー、妄想がとまらない。とりあえずここまで読んでくれた人ありがとう。ヤマタノオロチの解釈に関しては、たぶん世の中的には主流ではない解釈だと思います。一般的には、川の氾濫の象徴とか、そんな感じでしょう。でもまあこういう解釈の方向性は、いろんな人が出していて(この本とか https://www.amazon.co.jp/dp/B00PS2FK8C/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1)そこ自分で味付けして解釈してみましたというかんじです。
まあ、最初にも書いたけど、こう言うのを考えるのが楽しいのがあんのさくひんだなとおもいました。
http://anond.hatelabo.jp/20160807101757
読み方は(増田も言っている通り)やや(かなり?)牽強付会くさい点もあるけど、面白い読みだとは思った。
ただ、増田の言うことが正しいとして、何で今の時代に「氏族的共同体と中央集権の争い」を描いたの?ってのが気になった。「体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望」が発現した事件とかって最近あったっけ?ISとか?
前提として、巷で言われるように右翼礼賛、共同体万歳的な側面がこの映画にはある。ただ、共同体主義には2種類あると思っていて (1) 国家型(中央集権的) (2) 地域型(地方分権的) がある。
今回は地域型共同体主義に共感している映画だとおもっていて、結果的に国家型を否定するなぞりがあるんじゃないかと。
地域型共同体主義の人にとっては、リベラルのいうような何か理想とする社会を人工的に作るというのはぴんとこない。もっと自然な感情で、近しい人で社会をつくりあげたいとおもっている。しかし、国家というのは大きすぎてぴんとこない。そしてそこにひも付きやすい全体主義的な思考には拒否反応をしめす。そういう思想です。
これって全く特別なイデオロギーではなく、割と普通のネトウヨとかじゃないけど、左翼むかつくとおもっているネットによく人たちの自然な思想だとおもっていて、おとなしめのリベラルちっくなオタクと親和性がたかい。そしてあんのさんもそういう思想を意識的か無意識的かもっているんだろうなと思うのです。だからこういう対立を描いたと。
無秩序への回帰というのはちょっと「現体制にとって」の無秩序であり、ほおっておいても自然に生まれる家族的情愛による秩序への回帰に共感したいというメッセージかもしれないなと思います。
貧困が他人事では無くなった時、自分と弱者のどちらの命を選ぶかかが問われているのだ。
そしてそれは、もう誰にとっても他人事ではないのだ。
生産力なき弱者を守るということは、それだけの生産力を誰かが補う必要があるという単純なロジックを見落としている人が多すぎる。
日本は今、潤沢な生産力があると言えるだろうか。少子化問題、第三国の台頭、相対的な技術力の低下、原因を数え上げればきりがない。
そうした中で弱者を守ることで虐げられる社会的弱者が生まれた時、その怒りの矛先は社会的強者ではない。生産力を持たぬ弱者だ。
だからこそ犯人は正義と思想のもとにこの事件を起こしたと信じているのだ。
今までもその徴候はあったが、それがとうとう顕在化してしまった。ただそれだけのことなのだ。
被害状況が戦後最悪になったのも偶然ではない。犯人がたまたま残虐性が強かったわけでもない。
擁護される弱者の数と、それによって虐げられる社会的弱者のストレスとが最大になったというだけのことだ。
そしてこれは始まりにすぎない。なぜならその2つは今後も拡大し続けるからだ。
そうして弱者を守ることのできないほどの貧困が自分にとって現実的な問題になった時、果たして彼に対するつっこみと同じことを言っていられるだろうか。
第三者に生殺与奪権があろうがなかろうが、弱者を守ることによって自らの命が危険に晒される時がくるのだ。
やまもといちろうという人間に対して何かしらの評価をもったことはないが、彼が言葉を濁さなくてはいけないのは当然のことだ。
なぜなら、こんな命題を言葉として発信できるわけがないからだ。
しかしながら、近い未来誰もが向き合うことはもうさけられない運命でもある。
「生産力なき弱者の延命が自らの命を脅かす原因になっている時、あなたはが選ぶのはどちらの命か」
来るべき貧困時代において福祉などというものは機能しなくなる。そうなればこれはもう倫理や家庭レベルで取り組む問題ではない。
もう淘汰は動き始めているのだ。
会社名を明かせないが、業界大手のベンチャーキャピタルに所属している。
主な出資先は所謂ミドル、レイターと呼ばれる「成長、拡大期」のベンチャーである。
さて、そんな私も最近は起業前、もしくは新規事業を立ち上げようとしている方にアドバイスをすることが多い。
そしてその中でもここ1ヶ月は会う人の3割がチャットボット系のサービスのアイデアを語るのである。
「やめたほうが良い」と毎回アドバイスするのだが、毎回伝える3つの点についてここに記したい。
願わくばこの記事が広まり、浅はかな「対話型サービスの未来」を考えているベンチャーが断念し、より可能性の高いビジネスに切り替えて欲しい。
そしてこの記事を受けても尚、私の予測を上回り成功するチャットボットサービスが出てきてほしいとも思う。
前置きが長くなったが、以下3点がチャットボットが失敗する理由である。
一番の理由がこれだ。
ここで注意したいのが、 クライアント ではなく ユーザーである点だ。
よくある「チャットボットを簡単にECサイトに導入できます」サービスを事例に出してみよう。
「今まで大変だった顧客対応がチャットボットで代替できます。」
「チャットボットが商品のアピールをすることで売上が上がります。」
確かに正論に聞こえるし、無料キャンペーンや優先登録などに興味を示すクライアントは多いだろう。
プレスリリースを出せばクライアントの問い合わせは殺到するだろう。
ユーザーは商品についてわからないことがあった際に、いきなり得体の知れない自動応答システムに話しかけるだろうか?
そもそも埋込み型の顧客問い合わせサービス(zopimやolarkなど)について、ユーザーの利用率が5%未満に過ぎない事例が多いことを知っているだろうか?
私もこれらの問い合わせサービスに関わったことがあるが、日本人の性質としてチャットボットにいきなり話しかける(しかも想定された問答を想定通りの言い回しで)例は少ない。
また、少ない額であれば導入する事例も増えるだろう。
しかし、ユーザーがチャットボットを使うシーンは少ないだろうし、結果として売上にもコストダウンにも繋がらないケースがほとんどだろう。
厳しい言い方をすると、話を聞くチャットボット関連サービスは現状、 「ユーザーのことを考えず提供者側の視点しかない マスターベーショナリサービス」
なのである。
自然言語処理を簡単に説明すると、「コンピュータが会話を理解し適切な回答を返す処理」である。
この技術は現状、正直言ってそこまで高いレベルに達していない。
言い換えるならば「ユーザーの期待値」と「提供できる技術レベル」の均衡が取れていない。それどころかユーザーの求める「自然な対話」レベルにはほど遠く失望させるものなのである。
よく非技術者の創業者や流行りものが大好きなコンサルが「Deep Learningの登場で自然言語処理の精度が高まり自然な対話を実現できる」とドヤ顔で語るのだが、これは大きな勘違いだ。
画像認識については、「文脈」などその対象以外の外部要因が発生することは少ない。
その為、その特徴量を見出しやすくDeep Learningを使用することで精度をかなり高めることが可能である。
しかし、「対象そのもの」以外にも文脈や発する人間のパーソナリティなど様々な外部要因が発生する対話において、特徴量は見出しづらい。
特に日本語は主語が省略される、漢字の読み方で大きく意味が異なる、「空気」を重視する等のハイコンテクスト文化であり、自然言語処理は難しい。
その為にDeep Learningが自然言語処理を圧倒的に成長させ、「機械であることを感じさせない自然な応答」を可能にさせることはほぼ不可能なのである。
そんな精度をユーザーが求めていないのでは?と思うのは提供者側のエゴだ。
不自然な対話、自分の想定していない回答が続くようであればユーザーはサービスから離れてしまうだろう。
「飲食店などの予約がチャットボットでできる」系サービスも良く聞く。
彼らには必ず「それってチャットボットである必要性ってあるんでしたっけ?」と質問するのだが、納得のいく回答を得られたことは無い。
対話のほうがかっこ良い、対話でできたら未来っぽい、アメリカで流行っているから、実際にそんな浅はかな考えで通用するほどビジネスは甘くない。
「対話によりニーズを深掘りできる」等もよく聞くが、2で挙げた通りそんなに自然言語処理の精度は高くなく、深掘りする以前に離脱してしまうだろう。
「なぜ対話なのか」
これらの質問に自信を持って答えられるだろうか。
それができない限りはビジネスは成立しない。
今すぐチャットボット事業を畳み、↑の質問に答えられる別の何かの可能性を考えたほうが良い。
以上である。
チャットボットブームは、クライアントが導入した後に「ユーザーに全く使われない」と気づきその悪評が広まる、あと半年の寿命といったところだろう。
そんなチャットボットだが、現状で可能性があるとしたら「チャネルの1つ」として使う程度だろう。
LineやFacebookメッセンジャーに組み込み、「既に展開しているサービスの広報的役割として活用する」、「メディアの記事を配信させる」役割であれば優秀なツールとなるだろう。
繰り返しとなるが最後にもう一度。
願わくばこの記事が広まり、浅はかな「対話型サービスの未来」を断念し、より可能性の高いビジネスに切り替えて欲しい。
そしてこの記事を受けても尚、私の予測を上回り成功するチャットボットサービスが出てきてほしいとも思う。
>BtoBでの事例
導入事例のステマ記事(メディアとクライアントと内容は詰めている)はこの半年で沢山出てくると思いますが、実際の導入でコストが下がった、売上に繋がったという話は決して多く出ないだろう(むしろネガティブな話ばかりだろう)と私は予測します。
>「二次元アイドルとの会話」みたいな路線なら弾けるとこあると思うよ
これは私もそう思います。ただそのサービスだけでのマネタイズは難しく、記載した通り「チャネルの1つ」としての活用だと思います。
>いま成功している企業に対して、過去の時点で成長すると断言できたのかな?
私の担当案件は同僚と比べてROIが高いほうだと自負していますが、それでも100%ではありません。
当然予期できていないものもありますが、ここで挙げた3つの課題がクリアできない、もしくは突破できる切口が見つからない限り難しいだろうと考えています。
また同時にそのようなサービスが生まれて欲しいという期待もしています。
>本名で書けばいいのに、VCなら。
君なら知っていると思いますが、VCといってもサラリーマンです。
君みたいなネットタレントでも私は承認欲求が強いわけでもないので、実名で注目されることでのメリットが無いのです。
>概ね合っているとは思うがこの人自然言語処理は理解してなさそうだ
私のもともとのバックグラウンドはエンジニアで、セキュリティソフトの迷惑メールフィルタリングシステムを開発していました。
自然言語処理は業務で取り扱ってきましたが、どういった点が自然言語処理の理解が足りなそうか教えていただけますか?
あまり冗長にならないように書いたのですが、不足している箇所があれば修正したいのでご教示いただければ幸いです。
>1.多くのユーザーは凸る前にカタログやQ&A等を見るでしょ普通。ボットはその中間でしょ。2.検索性の悪いQ&Aよりはマシな可能性は? 3.何故に二者択一よ。
「カタログやQ&A等を見るでしょ」
これがなぜ対話になるのですか?なぜチャットである必要があるのですか?いきなり不明点を話しかけると思いますか?
検索性の悪いQ&Aよりはマシレベルのものがビジネスとして成立すると思いますか?
チャットボットはゆらぎも含めた大量のインプットデータが必要です。
そのメンテナンス費用を考慮すると検索性の悪いQ&Aを直せと言いたいですね。
「3.何故に二者択一よ」
対話システムとしてビジネスをするのであらば、対話である必要があるのか、なぜ対話なのかといった観点は必要になると思いますがいかがでしょうか?
なかなかご理解していただけないようなので、この質問をさせていただきます。
「あなたはユーザーとしてチャットボットで質問をしますか?まだ使ったこと無い場合、質問ができそうでしょうか?」
>まずもって中身のサービスが素晴らしく、それをチャットUI(また、それが載っているプラットフォーム)をもってレバレッジかけるような感じ
私もこれは完全に同意です。
既存製品の新たなチャネルとして、そのUIがフィットするのであれば良いかなと思っています。
ただ、チャットボットですという売り方では難しいと考えています。
(実際チャットボットでこれから生きていくみたいなビジネス相談が多いのです。)
ご理解いただきありがとうございます。立場上、実名発言が難しいのですが、この「チャットボットで俺は生きていく」層が多くそれに警鐘を鳴らしたい、鳴らさなければいけないと感じ増田に書きました。
ネットメディアの導入事例系はマーケティング的な要素が強く、またあの記事の人件費削減の根拠も曖昧です。
>ユーザー側が求めてるサービスの質次第なんじゃないかな。未成熟な技術分野だからこそ、提供者側が工夫すれば良いだけ。
工夫というのは同意です。
ただ現状、完全自由対話のインタフェースを用意すると、ユーザーの期待値をサービスが超えることは無いと考えています。
ある程度選択肢を絞らせる、スタンプを使うなど「工夫」がなければ難しいでしょう。
またその工夫でもこのインタフェースだけでビジネスとして成り立つかというと...我々は慎重に考えています。
>複数人が入っている部屋での稼動があると思うんだ。
趣味でSlack上で司会進行的に喋るBotを仲間内で開発しましたが、これは非常に面白かったです。
ただ、やはりビジネスとなり例えば1,000社が有料で導入するレベルのものかというと...
>成功しそうなの教えて
そうですね、ポジティブな話もしないとですね。
昔からあるものですが、どうもインタフェースが特殊で事例が中小企業規模まで降りてこない。
Google Analyticsの焼き直しや、他の埋込み型トラッキングサービスも伸びています。
コンシューマ向けだと、所謂CtoCにはまだ可能性があると思っています。
炎上はしましたが、個人の写真売買など「今までプロが提供してたけど素人でも提供できる、かつ流通量が多いもの」に可能性はあると思います。
更に追記
もうご覧になる方はほとんどいないと思いますが、最後の追記です。
活用方法や実際の導入の声など、参考になるコメントもたくさんいただけて私自身も勉強になりました。
※はてなの方から他のシリーズもやってくれとコメントを頂いたので、IoTやVRなど他のトレンドについての課題も今後「増田で」挙げていこうと思います。
これらの意見をいただいても尚、ビジネス化をしていくには難しいだろうと私は考えています。
それほど、私が挙げた3つの課題をクリアしかつビジネスとして回していくことは難しいからです。
そして、同時に「未来はどうなるかわからんぞ」といった意見には賛同します。
Webもアプリも「こんなもの流行るわけがない」という世論があった中で、ここまでの発展を遂げています。
「若くチャレンジしようとする芽を潰すな」という意見もありましたが、そもそもこの意見を聞いて諦めるような起業家ではその先にある苦難に立ち向かえないでしょう。
もともと「チャットボットが新たなインタフェースになるんだ」と確信し強い気持ちを持っている起業家は、こんな意見を聞いても全く諦めようとはしません。
私も実際、起業前の方に「止めておいたほうが良い」と伝えたことは何回もありましたが、それでも彼らは起業しサービスをローンチしています。
私自身もそうでした。みんなに反対される中、当時全く広まっていなかった人工知能系のベンチャーを立ち上げました。
勝手ながら彼らの信念がいつの日か実り、少しでも世の中に良い影響を与えられる存在になってほしいと思っています。
VC的にはIPOか売却というゴールを期待してしまいますが(笑)
私が本当に警鐘を鳴らしたかったのは、どちらかというと「チャットボットが万能だ」、「チャットボットで何でもできるようになる」と伝えるメディアやコンサルの方です。
口々にチャットボットだと言って誰にも使われないサービスやスタートアップを量産しようとしている話を聞くと心が痛みます。
過度な期待をしたくなるのはわかりますが、私が挙げた3つの課題はどうしても避けては通れません。
起業家の方々が「周囲の過度な期待」に流されず、これらの課題から目を逸らさず、新しいインタフェースを開拓してくださることを期待しています。
※上から目線のようですみません。ただ立場抜きにして1ユーザー、サービスを享受する1人の人間としても期待しています。
最後に
多くの方にご覧いただきたいということもあり、こういった表現を使用してしまいました。
特にけんすう氏にも良くない表現を使ってしまいました。申し訳ありませんでした。
ここにお詫びいたします。
同じ市民ならもっと警戒して警鐘を鳴らし続けるべきなのになぜ放置してしまうのか?
49%の市民たちはなぜもっと危機感を募らせてアンチ反知性主義活動をしなかったのか?
どこか他人事だった
そしてその負債の泥を反知性主義者たちと仲良くおっ被り咀嚼させられて
やっとこさ自体の重大さに気付き慌てて行動した
遅すぎるんだよ
格差を例え上流階級に生きる人間とて放置してはいけなかったということだ
下流世界の人間を放置し奴隷化し続けているとこういう全体攻撃魔法のようなメテオ行為を平然と行ってくる
それは巡り巡って自分たちの損害にもなる
なので下流世界にも叡智という雫をキチンと垂らしていくべきなのだ
反知性主義者には知性を与えることがエリートたちの宿命であったはずだ
離脱に喜ぶイギリス人女性の頭悪そうな低所得な笑顔の画像を見ながら憂鬱な思いだ
本来は貴族がこういう人間たちを導くモーセの役割があったはずなんだ
そうじゃなければ村長が考えをまとめて導いてきたはずなんだ
いつからだろうな
金さえ有れば良い教育が受けられて、良い人生が過ごせると思っている皆さん、間違いです。
金持ちの子は良い教育を受けて、良い学校に入り、良い仕事につくというのは一面の事実では有る。
本当の所は「まともな親は、比較的金持ちに多い」のだ。まともな親に育てられるからまともに育つのであって、金持ちだからまともに育つのでは無い。
子供が家に帰ると親が寝転がってポテチ食いながらワイドショーやお笑い番組を見ている。
喫煙者、安酒飲み。
趣味はパチンコorスマホゲーor改造車、宝くじを常習的に購入。
仕事は単純作業or非正規、数年かけてスキルやキャリアを積む仕事についた事が無い。
例えば、上記のような暮らしをする人間に、いくら金をやってもまともな子供は育たない。
貧乏人の子供は貧乏になる確率が高いのだが、それは最も長い時間を過ごす家庭がそのように運営されているからだ。
多くの金持ちの家庭はそうでは無い。
家に帰ると宿題を見てくれて、親は休日に美術館に行ったり読書をしている。子供は自然に学び、本を読み、豊かな文化的素養を養う。
整理整頓は自分の人生を効率的に生きる手段である事を身をもって教えられる。
海外に友人が居る。子供の頃から多様な文化に触れ、その中でアイデンティティを確立する機会が有る。
積み重ねた努力で、ある程度の地位や仕事についている人に囲まれた生活をしている。努力すれば、具体的にどうなれるかを日常的に見ている。
両親共に大学を出ている。子供の頃から大学に行くのが「当たり前」になっている。海外へのホームステイや留学も視野に入り、経験者の話をいつでも聞ける。
高い能力を持つ人に囲まれ、日々の生活の様々な場面で礼儀を学び、見聞を広げられる。
このような日々の暮らしこそが「文化資本」なのである。カネを持っている事など、瑣末な事でしかないのだ。(もちろん文化資本の無い金持ちも居る)
例えば貧乏人にカネだけ与えても、こんな暮らしは出来ない。せいぜい半額惣菜が外食になり、しまむらの服がブランド物に変わるくらいだ。(文化資本を持った貧乏人という存在は極めて少ない。)
東大に入る学生の親は約半分が年収1000万以上だと言う。日本の年収比率から考えれば明らかに偏っている。
もちろん、小学校からSAPIXをはじめとする有名塾に通える環境も一助にはなっている。まぁ塾代だけで、本気で通わせると小学1年から高校3年までで1000万以上かかるし。
しかし、家庭環境が壊れている子供をSAPIXに通わせたとして、有名私立に入れるか?と言われれば無理なんだよね。最も重要な家庭での学習が出来ないから。
良い教育とは、まず最初に家庭で行われる。家庭で教育を受けられない子供は、最初から大きなビハインドを食らって社会に出る。そこにいくらカネをつぎ込んでも無駄。
稀にトンビが鷹を産むが、そんな子供は現在の制度でも返済不要の奨学金がいくらでも有る。
格差とは経済力では無い。本当の格差とは、誰もが選べない幼少期の環境の事なのだ。
教育に過剰な期待をしているブコメが多いけど、家庭でするべき教育を学校が肩代わりしろと言っても無理ですよ。
何事も本人のやる気が無ければ始まらないのだが、その「やる気」をステロタイプな貧乏親は削りとる。
まともな親の子供は親&周囲のまともな大人からやる気をもらい続ける(ついでに良質な知識、コミュ力、広い見聞も)
要するに、日々の生活が追い風になるか逆風になるかの差がデカイのだ。これに比べれば、スタートラインの差など無いに等しい。
教育費を無料にした所で、大学に遊びに行くバカと、目標持った優秀な学生に二分されるだけ。
優秀な学生は大体親が金持ちだし、そうでなければ奨学金を取れる。
教育費無料なんて教育関係者のポジショントークでしか無いよ。乗せられている貧困層は利用されているだけ。
解決策は無いのか?という話だが、これ以上のバカの底上げは無意味なのでしない方が良いという立場だ。
そもそも日本は、ホームレスですら字が読める国だから、初等教育は行き渡っていると言って良い。
教育費でよく話に出てくるOECD各国だが、字を読めない人が普通に居る国だらけだからな。
日本の識字率は99%以上だから、初等教育(バカの底上げ)に成功している国とも言えるのだ。
巷で叫ばれている大学無償化、奨学金返済不要については、費用対効果が悪すぎるのでやめた方が良い。
20年ほどクズ親に育てられれ、何の文化資本も持っていないFラン大学生なぞ、支援しても無駄だから。
一定数、世間知に長けたワンチャンを掴める層は居るが、そいつらは放置してても勝手に伸びる。学校教育の範疇ではないからな。
やるなら一定以上の偏差値を持つ世帯年収が低い家庭の小中高生に集中して支援するくらいか。
しかし、いずれの場合もバカの感染を防ぐために寄宿舎で預かる必要が有るが、日本でやる事は不可能だろう。
日本国が行う学校教育に幻想を持っている人が多すぎだが、そもそも東大すら世界的には有象無象の一大学でしか無い訳で、本物のエリートは欧米やアジアのエリート養成大学に行ってる。
ただし、日本でエリート養成をする事は無駄に平等を重んじる文化から無理だろうなと思う。
みんな平等に格差をなくそうという思想はご立派だけど、現実的に考えると家庭に介入出来ない限りは不可能だという事。
国(あるいは他人)に出来るのは自力で一定ラインを超えてきた人を支援するくらいだ。
やる気のない(あるいはやる気を奪われた)人は、自助努力が出来ないので救いようがない。
共産党の機関誌である「前衛」を読んでいるコミュニストが、この記事をネタに書いているので見てみた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20160605/1465138757
まぁ一言で言えば「そう出来たらいいですね、ところでどこから金が出てくるの?」である。
松本は、さらにそこから夫が主な稼ぎ手で、妻が専業もしくは補助的な労働でそれを支えて、子どものケア労働を担当する「標準家族モデル」がいかに危機やトラブルに脆弱かを述べる。
そして、もし子どもに関わる費用をすべて社会が負担するようになれば、親は自分の食い扶持さえ稼げばよくなり、シングルでもダブルでも不利や不公平は解消すると述べる。これこそが「強い家族」なのだと。
さらにこう続ける。
もし小学校や中学校のように、高校や大学に誰でも行けることはおろか、医療も住宅もそして食事や文化に触れる機会も、子どもが無料でアクセスできるようになれば、その時初めて子どもの貧困は親の責任から切り離される。そこまで社会を進めることの覚悟とセットでなければ、容易に元増田のような非難に遭遇するハメになる、と松本は警鐘を鳴らしているのである。
ユートピアを追求するコミュニストらしい意見だ。で、そんな国どこにあるの?日本人は1億人以上居るので、中東の産油国でもこんな暮らし出来んぞ。
ちなみにその理想を実現しようとした国知ってる、ソ連とかいう強制収容所国家だ。
まぁ共産主義者に財源を追求しても仕方ない。彼らは責任をもって行動した事が無いのだから。
仕方がないので、テキトーだが俺が考える。
日本の0~14歳までの年少人口は1613万人。彼らに衣食住+文化的な生活+学習を無償化したとする。
かなり安めに見積もって1人1ヶ月10万円の経費がかかるとして、1年で120万×1613万=19兆3560億円
更に高校生、大学生まで含めると900万人ほど増える、1人月10万で年間10兆円ほどかかる(年齢が高くなるほど消費が増えるが、面倒を見る職員の数は減らせるので同じ経費とする)
合計して約30兆円、数字を見ただけで非現実的だとわかるだろう。
まぁ所得税を3倍にすれば実現可能だ。もしかしたら、共産主義者として望む所なのかもしれない。
現在の日本において、財源を示さずに甘い夢だけを語るのは誠実な態度だろうか?
耳障りの良い話、目の前の人を気分良く救える話は正しいのだろうか?
共産主義者は家族の解体を是とする。旧ソ連では集団主義教育が行われていた事は周知の通りだ。
全ての子供を「学習はおろか、医療も住宅もそして食事や文化に触れる機会も」親の責任から切り離す覚悟が問われるそうだ。
まさしくコミュニストに相応しい思想ですねとしか言いようが無い。
ちなみに私が提唱する解決策?はこんな感じ。ブコメにも有ったが、教育は数世代で解決するしか無いので、まず1代目はお金を稼ごう。
1代だと所詮成金なのだけど、2代続けばその子供は教育が行き届くようになるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160225194038
@tomonobu0802 というTwitterアカウントがある。
女性声優は全て生活保護を受ける存在になるから、自分の手であらかじめ潰さなければならない、と言う頭のおかしなロジックを
かなり本気で振りかざし、呼吸するように女性声優アカウントを罵倒する人間だ。無論、彼は誰からも相手にはされていない。せいぜい2chのヲチスレが10年近く機能している程度だ。
ついでに、安いネトウヨで、アジア方面を呼吸するように罵倒しないとおのれの非才さを直視して死んでしまうタイプの人間だ。
どうも15年くらい前はごく普通に同人活動をやっていたようだが、人間関係をまともに構築できないタイプのようで
今やさわるモノ全てにウンコを投げつけるマシーンになりはてている。
また、「俺は過去に3度会社をクビになっている」と、己の信念が社会と折り合いをつけるのを拒んでいるかの如く胸を張っているが、
単に仕事が出来ないのに正社員待遇を迫り、いちゃもんをつけまくった挙げ句に訴訟を行い、示談をもぎ取ったと言うが完全に「手切れ金」を渡されて捨てられただけのことになっている。
この手の頭のおかしい人を遠巻きに見ていると、「批判・反論されることでより自分の狂ったロジックが正しいと確信を持つ」という性向が確認できる。
これはまぁ、陰謀論者も「放射脳」と揶揄される先鋭的反原発主義者も、最近話題の「広義の「しばき隊」」あたりもなんだが
自分の正しさって奴に懐疑を持つ能力そのものを失っている、あるいは自分の正しさを否定するとアイデンティティそのものが消失する人間だ。
彼の抱えている「信念」ってのは、そういう自らの狂気・妄想の類を「正しい」と思い込まないと自分自身も堪えられない「妄執」でしかない。
だから、他人を罵倒しておのれを省みたら必要性を一切感じ取ることさえ出来なくなっている。省みるというのは、おのれの心臓をえぐり出すことに等しいからだ。
こういう人間が、「反レイシズム」だの「環境保護」だの一件社会的に反論しにくいテーマを持ち出して、そこに居る「悪党」に見えるモノを罵倒すると
奇妙なカリスマを持ち始め誰も止めることが出来なくなる。
現在の @kdxn が完全にそれなのだが、かつてのmixiでの彼の傍若無人な態度を知っている人間は、
しばき隊やCRACをバックアップしはじめた頃から「あいつに関わるとろくな事が無い」「奴は人語を繰り出す獣でしかない」と初期から警鐘を鳴らしていた。
その結果が、今のありさまである。
社会運動を、こういう頭の可笑しい、反省する能力の無い人間に仕切らせてはならない。女性声優を罵倒し続ける程度の頭の可笑しい人間程度に納めておかないと
ネット上での熊本の地震に関しての様々な書き込みを見て、世の中は、なんでこんなにクズばかりなのだろうと感じます。
逆に言えば、クズばかりがネット上で我先にと書き込みをするのだろうか?
togetterで震災系のまとめを見てるとこんな記事があった
このまとめの内容は、吐き気がするくらい、
「何かしてる奴は悪で、何もしないことが正義」ということを、延々と語っている。
このまとめ主のTL上での共通認識であるようだが、クズはクズを呼び、クズばかりのコミュニティを形成してしまうのか?
2)震災直後の現地に個人で行くのは、あくまで自給自足で物資用意できる人だけ。
3)震災直後から復興段階に入るまでの間で必要なのは「組織力」と「他の組織と連携できるコネクション」と「資金の集束力」
4)千羽鶴は被災地に送るなら、千円札や万札で折って送りましょう。A4用紙とか折り紙?ゴミでしかないです。
6)被災直後は道路の破損や輸送車両集中などで現地の輸送力が必要車両だけでも混乱・停滞します。
無駄に素人が行くことはその輸送能力の阻害となるので結果的に被害拡大させてます。小さな善意大きな迷惑。
8)被災支援のつもりで被災地に物資や能力無しが行っても、震災が続けば行った者がただの二次被災者になるだけです。
9)「無能な個人」が集団でボランティアに行って役立つのは、震災直後の混乱期ではなく、その混乱が収まり、輸送手段が回復した後の「廃棄物処理段階」の人足としてだけです。
その場合も現地に事前に連絡して受け入れ側の許可受けてからいきましょう。そうでなければ火事場泥棒の不審者と同じように現地に不安与えますよ。
10)ボランティア団体を支援する、参加する場合はその団体の過去の行動、活動内容を調べましょう。
12)「腐敗物品優先廃棄期」までに必要なのは素人ではなく「プロの組織集団」です。
18)善意を持つことは悪いことではありません。ですが、先や相手側のことを考えないで行う「善意」とは「独り善がり」であることも認識しましょう。
要は、空気を読めと同町圧をかけているのですよ。
しかも、そんなことを書きつつも、
14)可哀そう、悲しい、言ってるくらいなら明るい絵を描く、可愛い絵を描く、明るい曲を用意する。そういったものを紹介する。その方が気が滅入りがちな被災地支援にはいいのでは?
「実際に素人が動くなんて迷惑」という考えの裏には、どうも「何もしない私を認めろ」的なルサンチマンが見え隠れします。
まあ、このルサンチマンと言う言葉をだすと、この手の物言いをするネットの人間たちは皆「藁人形論法」といって、そんな事はないと否定するのです。
震災すら、こういった承認欲求や自己肯定のネタに使う彼ら彼女らには、ちょっとうんざりするし、
そこで、延々と論破合戦に時間を使っている輩を見るたびに、なんでこんなにクズばかりなのだろうと思うのです。
こういうまとめを作って、震災の貢献をしたような気になってること自体、
支援をしようとする気持ちのある人間のモチベーションを削ぎ、あたかも何もしない私が正しいと言いたげなまとめ。
これは、本当に震災を思っての書き込みやまとめなんでしょうか?
クズのコミュニティが自己肯定に躍起になってるようにしかみえないのですよ。
「藁人形」?本当にこれが詭弁であるならば、そんなに必死に反論もせずに、勝手に言ってろと意に返さないのでは?
やらない言い訳や、やってる人を批判する方が、遥かに簡単な行為であり、
そんな簡単な行為を、ドヤ顔でやられても…不快なだけで、何も共感できないんですよ。
友人が震災要因のドル円の流れを読み、稼がせてもらった恩返しだと熊本に資材をもってボランティアに出かけました。
勿論、知り合いがいるからと言う理由もあり、避難所に詰めている友人の手伝いをするためでもありました。
その友人が被災地でみた光景は、よく働くおじさんとおばさん…空気を読んで働かない若者だったそうです。
この現状をネットに書いてやろうと思ったそうですが、搬入の労働の疲れでそれどころでないそうです。
資材が来たとアナウンスがあっても、スマフォをポチポチして手伝おうともしない、炊き出しの手伝いもしない、
友人は、「どうしたの?一緒にやらないの?みんな大変みたいだよ?」と問うてみたそうなんですが。
「僕が動くと迷惑だから」「私は役に立たないから」と動こうともしないそうです。
多分、こういう事実がまとまると、今度は、こうやって動かなかった若者を切り分けて、
最低だのなんだのネット上ではまた始まる訳ですが、その原因をつくってるのもネットであり、
そういう情報を発信した人間が全く責任を負わなくていい、現状はいかがなものかとうんざりしていました。
私は、手伝いに行っていない人間なんで、結構ショックでしたね。
そういう事実を知ると、togetterのこのまとめが如何に害悪かと感じるわけですよ。
twitterで、こんなクズなやり取りを「共通認識」としてる時点で、だいぶ終わってるわけで、
事実ともかけ離れてるし、結局、ネット上に転がってるネガティブな情報をつかって、
自己正当化したいだけの集団でしかないことが、わかるわけですよ。
これは、最近の若者の問題というより、こういう若者を教育してこなかった親世代の問題でもあると思います。
そういう社会の闇的なものがこういう所に可視化される恐怖感って、みなさんにはわかりますかね?
「千羽鶴をおくるなボケ」と主張する人間がどんな職業でどんな境遇にあるか?とか考えた事ありますか?
世に出していい人間じゃない人も、死ぬほど論理武装して、こうやって発言するわけで、
黒澤や小津、今村など世界的に評価されてる映画人が活躍していた時代、映画業界は大卒しか入れなかった。しかもその当時は今のようにボンクラでも大学生になるような時代でなく、大学に行けるのは本当のエリートだった。
「社会に警鐘を鳴らし、見た後も議論が湧き、この社会に生きる者としてカタルシスを感じさせる体験こそが映画の醍醐味」と多くの人はいう。そういった、観る側も「考える行為」を必要とし、議論を交わす行為自体が一種の娯楽として捉えられる文化レベルの人間を満足させるものがより価値の高い映画ということになる。
観る側に一定の素養を必要とさせるような社会的意義を持った作品作りができるのは、「マズローの欲求5段階説」の精神的欲求を満たそうとする生活レベルに達したエリート層。「貧すれば鈍する」のことわざ通り貧乏人は即物的な欲求に走り、ジェットコースターのような低レベルな表現で満足し、議論を湧き起こすような表現を理解できない。
「スター・ウォーズ」も「第9地区」も「ダークナイト」もSF世界を描きたいだけの即物的な映画ならヒットはしなかった。SFの姿を借りつつ根底には「田舎の若者の葛藤と希望」、「格差社会」、「悪とは、人間とは何か」というテーマがあり、だからこそ観客はカタルシスを感じ、感動する。
社会的意義のカケラもない商業主義に染まりきった意識の低い連中が、カネ儲けのために過去のヒット作のカッコよさ、スピード感、キャラの表面的なエッセンスのみをかすめ取ってストーリーを後付けするような本末転倒な映画制作をして感動する作品が出来上がる訳がない。