はてなキーワード: 脱構築とは
会話してるとき意味不明な質問してくる人がいるけどあれはなんなんだろうね。会話の内容(修飾関係がどうなってるか、代名詞は何か、文全体の論理的構造)が理解できてないってことなんだろうけど、それって日本語の文法自体が危うそうじゃん。
でも日本語を話すことは普通にできるわけよね。彼らの言ってる受け答えは脱構築されたものとしては文法上等に異常はなく、ただ問題とする文脈に置かれたものとしては不適合ということなんだから。
これは英語学習などの常識で考えれば奇妙なことだ。文法も理解できずにネイティブに違和感を持たれない発信ができるとな。
ああいった人種ってまじでなんなんだろう。ディスレクシアでは少なくともない。会話が理解できてないんだから。かといって知的障害かといえば知的障害ならまともに言葉を話せないはずなのでそれもないと思われる。謎だ。
それでこれ思い出したわ。
でも,あれは本当のところ一種の哲学の貧民窟だね.ラッセル・ウィトゲンシュタイン・フレーゲの時代にあんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.彼らは文学理論みたいな他分野の人たちに向けて話してることが多いよね.それに,哲学にはいつもこんなふうに考える一派がいるんだ,「いや,ぼくらは自分たちの専門だけを狭くやるばかりじゃいけない.こういう他のアイディアにも開かれてなきゃね」って.新しいアイディアに開かれている方がいいってのは全面的に賛成だけど,まともで高度な哲学の著作と,知的に許容できない著作との区別はしないとね.
このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼 の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法を実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったい そりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな 書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あた まがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言を引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ. フーコーはしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコー に対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.
https://blueeyedson.hatenablog.com/entry/20111201/1322730931
以下が背景ね。
ジャック・デリダによるサールへの最初の攻撃は1971年行われた。サールはタイプ原稿9枚の感想を書いた。その後サールは発話行為の自然な発展的研究主題として志向性の研究に専念し、1983年『志向性』を公刊する。この書評はその直後である。デリダは、アメリカ・ディコンストラクション派の無名の雑誌「ジラフ」に、サールの感想文を引用して解体したかのような長大な文章を掲載し、1993年サールに無視され続けたデリダは「討議倫理」に関するさらなる文章をつけて『有限責任会社』を1990年公刊する。日本ではこの版のみが知られ「サール=デリダ論争」というものがあったという神話が法政大学出版局によって広められた(邦訳2003年刊、『ジョン・サールとの会話』にて詳述)。同年サールはNew York Review of Booksに”The Storm Over the University
” 1990を掲載(未邦訳 http://www.ditext.com/searle/searle1.html )。ここで『社会的現実の構成』に一部含まれるポストモダニスト批判を展開した。1990年代、社会生物学論争と「マーガレット・ミードとサモア」による文化相対主義批判の勝利、さらに1994年アラン・ソーカルによる疑似論文投稿に始まるソーカル事件が起こり、以降フランス哲学者らの理論がアメリカでフレンチ・セオリーと別称されるようになる。
Hunter X Hunterの原稿が進捗ているらしい謎のTwitter情報が現れているけれども、暗黒大陸へ向かう船の中の、主人公たちとは微妙に関係のない王族の話がまとまったとして、どうやってお話全体が終わるのか、または、物語全体の終わりに向けて、王族の蠱毒が何の意味を持つかということを考えると、「得ることと失うこと」に何らかの意味がありそうと妄想している。
あの作者は連載が長くなると、それまで構築してきた少年漫画的な構造に飽きて、脱構築を始める感じがあるけれども、今回もきっとそうで、主人公のゴンが真っ当に力を得て成長する物語を既に手放している。成長して、父親を乗り越えるという流れを放棄すると、主人公が手に入れるのは何か。それはもしかすると「失うことで何かを得た」「全ての力を放棄することで別の何かを見出した」ことになるんじゃないか。念という超能力を失い、別の何かを得る。戦い続ける道を捨て、別の冒険に出る。そういった何か。
そこに行き着く前振りとして、念獣、他人に突然与えられた力を使った争いを描いているとすると。結末は「全てを放棄した人物が、戦いを終わらせる」みたいなオチ。真っ当に戦った人間が勝利を得る直前に、全てを捨てた人間が答えにたどり着く。そんな妄想。
ホソモーシャルで脱構築っていう奴だな!俺知ってんだ。
女性学(じょせいがく、英: women's studies; 仏: études féminines)とは、第二波フェミニズムから生まれた新しい学問領域であり、従来の男性中心主義的な学問の客観性・中立性を問い直し、これまで度外視または過小評価されてきた女性の存在、経験、問題・関心を顕在化、言語化、理論化し、これによって従来の知の体系の脱構築を目指す幅広い学際的研究である[1]。
領域としては社会学、人類学、法学、経済学、地理学、倫理学、文学、歴史学、哲学など従来の人文・社会科学の各領域に個別にまたは分野横断的に関わる学問であり、女性史研究、音楽・アート・映画・メディア等に関するフェミニズム批評、さらにはケアの倫理、エコフェミニズムなど新たな概念が提唱されている。
いやたしかに日本の仏教がふにゃふにゃなのは同意なんだが、大乗仏教の歴史をざっと見ると、龍樹とか世親とかのビッグネームがいるじゃん
こいつらが説いた理屈はかなり強度がありそうに思えるから、潜在能力としてはなかなかしっかりした教理がありそうに思える
ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。
仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。
ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。
でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。
大乗仏教はプレモダンのように思えて、実はポストモダンを超克し得る可能性があるらしいんだわ
(色即是空空即是色つってるからここで言及されてる「仏教」は大乗仏教のことだわな)
こんな感じで、上座部を現代思想として捉えたとき、どういう視点を提供できるのかについてわりと気になってるんで、詳しい人いたら教えて欲しい
横だけど。
「男をやめた」「男を降りた」←この手の表現の気持ち悪さってツイフェミちんぽ騎士団の気持ち悪さと同質のものなんだよな。
どうせおまえら以前は如何にもなホモソ世界観で弱い男子を嘲笑って蔑んで生きてきたくせに、何を今更という気分がすごい。(被害妄想)
男は感情をぐっとこらえてしかめ面をしていなければならないなんていう男らしさとかって子供の頃からまったく意識してない。男らしく、みたいなのには90年代の高校時代からすでに脱構築する発言を身近なところで行なっていた。いまさら脱男らしさなんて言ってる連中のいまさらぶりに腹が立つ。— 千葉雅也『デッドライン』発売 (@masayachiba) March 7, 2019
元増田の言いたいこととブコメの内容や流れとがかけ離れてしまっているのでちょっと書きたくなった。
要点は以下の通り
まず「傷付いた」という考え方は、多くのブコメが書くように、ある。存在している。
ただし、他の感覚全てがそうだけれども、「傷付いた」という言葉・言語によって諸人が感覚を構築してきたという背景・歴史がある。
構築にはある程度共通の経験(少女漫画でもなんでも)があり、日本語としての「傷付いた」がこれを結びつけている。
元増田はこの「傷付いた」を一度構築し直しませんか? と言いたいのだ。
ただ、言い方が結構雑で「嘘の概念」とまで突き放してしまっているので、
ブコメでは「傷付いたことがある」「元増田の感情が欠落している」などの反応が多く、建設的な議論に発展しにくい要因になってしまっている。
では、元増田はどうするべきだったのか。
もっと、感情を「傷付いた」カテゴライズに放り込むデメリットや、そうしないことに関してのメリットを示すべきだったと私は感じている。
元増田はブコメなどへの返信でようやくその片鱗をみせているが、確かに「傷付いた」を一度考え直してみるのは良いことなのかもしれない。
ただし「ムカついた」「ビビった」もまた「傷付いた」と等しく、感覚が言語で取りまとめられているに過ぎない。絶対的な指標は、ない。
元増田もまた人生の中で、他の人が「傷付いた」ような経験をして、色々「ムカついた」り「ビビった」りしているのだろう。
その感情の処理がどう効用があるのか、「傷付いた」を常用している人に訴える射程がないと、話が噛み合わないのだ。
元増田がなぜ「傷付いた」概念に疑問を抱き、それを脱構築しようと考えたのかはわからない。
以下は私個人の感じていることだ。
誰しもが情報を色々なところで発信できるようになり「私はこんなに傷付いています!(だから配慮してね)」「私は傷つく恐れがあります!(だから配慮してね)」が必要以上に溢れている世の中になったことは確かだ。
誤解のないよう述べておくと、当然社会的に十分以上の(例えば違法な仕打ちなど)をされた人が必死の訴えでそう述べるのは重要なことだ。そして人生の中で「傷付いた」経験は各員日々生じているだろう。
もしかしたら元増田は「傷付いた」で周囲を困惑させるある少数の人々の振る舞いが気になっているのかもしれない。
じゃーこの増田&ブコメから何を考えればいいのだろうか。せっかくの秋の近く火曜日。何かちょっとでも考えたほうがいいような気が、私はしている。
元増田が雑だけど訴えている通り、確かに「傷付いた」カテゴリになんでも放りこまず、もう少し考えるってのは大事かも、と思う。
ブコメでも、自分が「傷付いた」と感じるときはどういう時だろうか、と考察している方がいる。
「傷付いた」を一度解きほぐすことは、確かに自分の生活の心理面を考える上で役立つかもしれない。
同時に「ムカつく」「ビビった」も解体してみるといいだろうし、「怒り」「安楽」など当たり前にあるような言語で示される感情の、それぞれの内実を省みることは、きっと生活上重要と思う。
「いつかの休日、野山を散策していたら大きな栗を抱えた一匹のリスを目撃した。」という事実があったとして、果たしてその話題は日の目を見ることがあるだろうか、という事を思案する。
「栗の実をほおばる栗鼠の姿を描いた絵画」は果たして公開されることが許されうるのか。「栗と栗鼠」という題を避けたとしても、コンテクストの批評性からは果たして逃れうるものなのだろうか。
リスは「栗鼠」の音読みである。栗とリスはかように関連性の高い語句であって、栗とリスの語句は決して忌避されうるものである筈がないのである。しかしながら、この「陰核」なるものを想起される
事を回避する手段が完全に奪われて久しい令和の世に於いては、この栗とリスはもはや暴力であるかのように我々日本語話者の脳細胞に直接作用せしめ、思想とは無関係に女陰のある一点
のイメージを否応なく上書き破壊し脱構築してゆく。嗚呼このおぞましき精神的DVたるや、何故に大きな栗の木の下で遊んでいるのは二匹の可愛らしい栗鼠であってはならないのか。何故に
バカにしてるとかじゃなくてマジで闘って欲しい まずは女性解放とかLGBTQでいいし俺が生きてる間じゃなくていいけど、とにかく労働と闘ってくれ
だっておかしいだろ 「気付いたら生まれてた」としか言えない状態なのに時間経過とともに勝手に「成熟した」ことにされて、お前はもういい大人だ、お前を育ててくれた社会に報いるためにも自己責任において金を稼げ!って社会が言ってくるんだぞ
「やりたいことだけやって生きようなんて甘え」みたいなのが普通に受け入れられてんのダメだろ いやこれまではそうだったのかもしれないけど、そういう規範みたいなのを壊していく 脱構築?っていうのがフェミニズムの根幹にあるらしいじゃないっすか
出番っすよ
「スカイウォーカーの夜明け」については、ほぼこの記事に同意。
【ネタバレレビュー・批評】『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』は何を終わらせたのか
では、続3部作は、何をしようとしていたのか。
今回、「スカイウォーカーの物語が完結」と、さかんに宣伝しているけど。
それはフェイク。
そもそもスターウォーズは、1983年にエピソード6の「ジェダイの帰還」で完結している。
だから、新三部作(プリクエル・トリロジー)は、前日譚を描いているわけで。
今回の続三部作は、「ジェダイの帰還」で終わっていなかったことにして始まっている。
ちょっと意匠を変えて悪の帝国を復活させて、レジスタンスは、まだレジスタンスのまま。
旧三部作と新三部作は、よくも悪くもスカイウォーカー家の物語でありすぎたからね。
スターウォーズ・ユニバースを拡張・発展させるためには、それを脱構築(?)する必要があった。
続三部作が作品として成功しようが失敗しようが、メッセージは明確だよね。
三部作ずつ描くというスタイルからも抜け出して、もともとの構想にあった連続活劇 - Wikipediaになったんだ。
続三部作の行き当たりばったり具合は、結局そこを目指していたんだ!
今回、スカイウォーカーの物語は区切りがついたので、「ハンソロ」みたいな中途半端なキャラの復活は必要ない。
いっそ、フォースも忘れ去られた、さらに数百年後とか描いて欲しい。
あれだけの科学技術があるんだから、もともとの素質と厳しい修行の必要なフォースは、機械仕掛けで置き換えて。
科学に裏打ちされた風の、超大作スペースオペラ連続活劇になるのだ。
ファンは、必ず観に行くよ!