はてなキーワード: 習合とは
http://anond.hatelabo.jp/20150610101635
速度超過=時速1km超えからでも犯罪です。 場合によっては危険運転致死傷罪等で懲役15年以下の刑事罰も。
煽り運転=安全車間距離不保持・車間距離保持義務違反で犯罪 場合によっては危険運転致死傷罪等で懲役15年以下の刑事罰も。
幅寄せ=道交法としてではなく刑事事件として扱われるほどの凶悪犯罪。懲役二年以下等。 場合によっては危険運転致死傷罪等で懲役15年以下の刑事罰も。
クラクション=警音器使用制限違反という交通犯罪に該当 クラクションで歩行者や自転車を驚き転倒させた場合も処罰される。 これは横断歩道への猛スピードで進入ののち急停止で歩行者自転車を驚かせて転倒させた場合も同様(また、横断歩道上で自動車が弱者と接触すれば、高い確率で交通刑務所行き)。
危険運転致死傷罪 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B1%E9%99%BA%E9%81%8B%E8%BB%A2%E8%87%B4%E6%AD%BB%E5%82%B7%E7%BD%AA
自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E3%81%AE%E9%81%8B%E8%BB%A2%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%AD%BB%E5%82%B7%E3%81%95%E3%81%9B%E3%82%8B%E8%A1%8C%E7%82%BA%E7%AD%89%E3%81%AE%E5%87%A6%E7%BD%B0%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B
当然ながら、自動車による加害行為は、時に殺人罪として扱われます。自動車という凶器を用いた凶悪犯罪として。実名も公表されます。
日本の自動車運転手らのマナーとか、教習合格して免許持ってるはずなのに、
この法令軽視・無視の反社会的な犯罪運転をするのがマナーやモラルだの言ってますからね。
先生(警察)に見つからないとこで危ないことしちゃう俺かっけー、みたいなヤンキー思想とまったく一緒。
青山繁晴さんは自分はレーサーなのに、自分の息子二人には「車の免許なんか取るんじゃない」と教えたという。青山さんは言う
「車なんか危ない、乗らないほうがいい。乗らないことにこしたことはない。車はステアリングをちょっと間違っただけで人様の人生を壊してしまう」
交通事故状態別死者数では、歩行者が第一で、その次が自動車運転手本人。
そして歩行者はどの乗り物で殺傷されているかというと、圧倒的多数で自動車により加害、殺傷されている。
通学路や歩道でさえも自動車は法令違反の危険運転で安全を破壊しており、大勢の子供ら市民らが死傷している。
自動車を減らすことが交通安全の根本策 とはよく言ったものですね。
道に1トン以上もの重量を備えた動くものがあるだけで、その道は危険になりますからね。
てきとうと言うまとめブログで吉水神社の宮司が極右レイシストだった件の記事(http://blog.livedoor.jp/googleyoutube/archives/51864154.html)を読んでいたら、嫌儲民が「他の宗教には弱者救済のシステムがあるのに神道にはない」と言う話をしていた。本当だろうか。
本当なら不思議な話だ。弱者のための、民衆のための宗教でないのならば、なぜこんなに長いこと存続したのだろうか。今はそうではなくともかつては、神道もちゃんと民衆のための宗教だったのではないか。もしそうなら原因は想像つくよね。国家神道だ。
もともと神道は原始宗教だった。権力者と民衆という構図が成立する以前の宗教だったわけでしょう。それが人々の生活の変化に適応するために、自らの不足を仏教から補ったのではないか。仏と習合することで原始宗教の域を脱し、民衆のための宗教になったのではないか。そして近代の始め、明治の神仏分離令および廃仏毀釈によって仏教が無理矢理引き剥がされてしまう。神道は切り刻まれ、権力者のための宗教、国家元首を現人神として崇める事実上の一神教として再編成される。神道が民衆のための神々を失ったのはきっとこの時だ。
仏教をはじめとする他宗教が弾圧、破壊され、神道すらも必要なものを根こそぎ削ぎ落とされてしまった。日本人が総カルト化するのも無理ないよね。あれだけ派手に敗戦し、現人神の幻想が消し飛ばされたにもかかわらず、神道は元に戻る気配がない。戻る場所がないんだ。元の姿は明治に破壊されてしまった。明治以前に何を祀っていたか、もはやわからなくなってしまった神社もあると聞く。
もしこれらの推測が正しいのなら、神道には宗教改革が必要だろう。神道を権力者の手から奪還し、民衆の手に返さなくてはならない。できないなら国教カルトに戻るだけ。
歩道のない道で車を運転していて、自転車を追い抜くとき、自転車の人がこちらを振り向いたりして確認してくれることはほとんどない。
気配は察しているのかいないのか、なんとなーく減速してなんとなーく左に寄るようなふるまいを見せる人はいる。ただし後ろの自動車になんらかの「私はあなたを認識している」サインを送る人は本当に少ない。
ドライバーと目が合うのが恐いのか。
物騒な事件が多い昨今、そんな気持ちになるのはわからなくもない。
だからといって、後ろの自動車に気づいているかどうかを隠蔽されると、追い抜く車のドライバーは本当に不安になる。
「自動車がぶつかってきても、こっちは自転車だから責はない、勝手によけてくれ」という考えなのか。
しかしもし責任を負わないとしても、車に当てられてケガをするのは自転車に乗っているあなたであって、たいていの人はケガをするよりしないほうを好むだろう。
当たられどころが悪ければ死んじゃうかもしれないのに。後ろを確認しなかったことが一因となって、自分を死なせてしまうかもしれないのに。
たとえば背後に迫る車が怪しく蛇行運転をしていても、後方確認をしなければ気づけない。それで死ぬなんてばかばかしいと思わないのだろうか。
高校卒業するまで自転車に乗れなかった(自転車教習合宿で乗れるようになったという)知人は、「自転車の運転が下手だから、後ろを向くとバランスを崩して倒れるかもしれない」などと言う。
そういう人は自転車にミラーをつけるか、またはそもそも自転車に乗らないでほしいと思う。
お互いの安全のために。