「綿矢りさ」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 綿矢りさとは

2012-06-29

http://anond.hatelabo.jp/20120628104558

昨日たまたま図書館で「ひらいて」読んだからここのうざいけどあるある的なフレーズ覚えてるわ。

勝手にふるえてろ」で勝手がっかりしてたけど、綿矢りさってやっぱすげーわ。

こんなに増田にすんなり収まってるのもある意味すげーわ。小町でもなく増田だな。

つーか、絶対映像化されるよね、あれ。

2009-12-13

http://anond.hatelabo.jp/20091213014150

どうでもいいけど、綿矢りさの『インストール』読んで、なりすましエロチャットしてて『濡れた』って表現してるの読んで、作者は男かなと思った覚えがある。

ああいう場合は、むしろ勃起するよね!!

2008-11-15

ケータイ小説(笑)が許し難い理由-水村実苗氏の『本格小説』より-

水村実苗氏の小説本格小説』の副産物で、図らずも「ケータイ小説(笑)が許し難い理由」を得たので紹介したい。

小説を読まない私が水村氏の著作を読んで見ようと思い至ったのは、梅田氏のトピhttp://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1に因る)

p173-174『本格小説水村美苗,2002,新潮社

もちろん小説家が自分の人生を書いた小説、あるいは、書いたように見える小説は、どの言葉にも存在する。そしてそのような小説は、どの言葉で書かれていようと、もっともたやすく「真実の力」をもつであろう。なにしろそこには一人の人間の一人の人生そのものがある。だからこそ、小説家はどの言葉で書こうと、自分の文章を売るよりも自分の人生を売りたいという誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならないのである。しかも私たち人間は例外なく他人の幸福よりも他人の不幸に興味を持つ。小説家が、自分の不幸を売りたいという何よりも大きな誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならない所以である。ゆえに、小説家にとって真の不幸とは、自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書くということにある。「私小説」的なものが日本語で栄えるということは、日本語で書くことが、小説家が自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書く不幸を意味することにほかならないのであろう。


以前より私は、ケータイ小説(笑)に対して朧気ながら嫌悪感をもよおしていた。

未成年の著者による自己中な世界観が我慢できない

・そもそもビッチの生態が気にくわない

・ページをめくる作業もめんどくさい

だが、理由のどれもこれも個人的の嗜好で、ケータイ小説根本的に駄目な理由としては弱い。

が、水村実苗氏の『本格小説』の上記引用部分に触発され、ケータイ小説(笑)に決定的に欠けている点が良く分かった(と私は感じた)。

自分の文章を売るよりも自分の人生を売りたいという誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならない

まさしく、これだ。ケータイ小説(笑)の著者(笑)は、たやすく誘惑に屈する。

自分の人生を切り売りして描くことは、水村氏が言うように、「真実の力」を得やすい。故に、並の小説家が「真実の力」を小説に込めたいがために己の人生を己の視点のまま書いてみようという安易な姿勢に堕するのは想像に難くない。

こうした誘惑に踏みとどまり<何故この小説でなくてはならないのか?>と自問し続けることができるかどうかが、小説家の値打ちを決める。

蹴りたい背中綿矢りさ等々(例が古くてゴメン)、若年の著者による小説が隔年間隔で大々的にプロモーション展開がなされている。

が、彼らは少なくとも<己の部分>をそのまま表出していては、選者の評価を得られなかったであろう。

小説家が自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書く不幸

まさしく、そう。

感情の垂れ流しを嬉々として受け入れる読者層も不幸ならば、己の姿勢を問い続けることのできないケータイ小説(笑)の著者も不幸。

2007-12-17

小娘相手にヨイショする大人たちに絶望した!

真央ちゃんを手放しで褒めちぎったり応援する大人どもが嫌いだ。

十代の小娘相手に大の大人が何ヨイショしてんの?って思う。マジで気持ち悪い。

うちの母親とか、いちいち美姫ティと比較して、美姫ティをけなしてまで真央ちゃんを褒めたりする。

確かに真央ちゃんは実力も才能もあると思うし、彼女演技に自分だって感動したことがある。

でも周囲の大人たちの気持ち悪さの所為で、だんだん真央ちゃん自身も嫌いになりつつある。

宇多田ヒカル綿矢りさにむらがった大人たちにも同じような嫌悪感を覚えたのを思い出した。

日本人若さに対する過剰な崇拝ってなんなんだろう。

ってゆうか、真央ちゃん宇多田や綿矢がもし男だったら、こんなに持ち上げられることもなかったんだろうなーとも思う。

日本の大人って、男も女もロリコンなのか?

2007-02-10

文藝春秋』三月号「我らが青春芥川賞を語ろう」より

石原慎太郎村上龍綿矢りさによる鼎談。

村上 僕たち三人には、いくつか共通点があって、十九歳から二十四歳というとても若いときに受賞していること、それから最初の候補で受賞して、落ちた経験がないこと、受賞作が世間で評判になったこと、まあ、僕らの責任じゃありませんけど。……それに加えて、どうでもいいことだけど、三人とも見栄えもさほど悪くない(笑)

石原 自分で言うかい(笑)。若くして世に出ることはとてもいいことだよ。感性にシミがついていない、汚れていないから。「大器は早成する」だよ。

村上 そうですか?

綿矢 自分で言うんだ(笑)

そんな綿矢りさだったらいいのに。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん