はてなキーワード: 築城とは
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これの影響で律令国名調べてたけど
時代 | 西暦 | 地名の変遷 | 備考 |
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飛鳥時代 | 704年? | 律令国として尾張国が誕生。愛知郡(現在の名古屋市の大部分+α)を含む。 | ※愛智郡などの表記も |
平安時代 | 尾張国愛知郡に那古野(なごや) という荘園が存在したっぽい | ||
戦国時代 | 1530~40頃 | 駿府今川氏が建てた平城を織田信秀が奪って那古野城(なごやじょう)と命名。※諸説あり | 清州城へ移るまで信長が拠点にしていた。※30年くらいで廃城 |
江戸時代 | 1600年 | 関ヶ原の戦いで家康の天下統一後、尾張国全域+αを清洲藩として家康の四男が領主に。 | 四男死後は家康の九男が受け継ぐ |
1609年 | 家康の命により、那古野城跡地に名古屋城を築城。 | 清州城は素材にし、清洲城下町はそのまま名古屋城下町へ移転した。 | |
1610年 | 清洲藩→尾張藩に改名し、家康の九男が御三家筆頭である尾張徳川家の初代に。 | ちな名古屋城が中心だったため名古屋藩とも呼ばれてたもよう。 | |
明治時代 | 1871年 | 廃藩置県で、尾張藩(名古屋藩)→名古屋県に。 | |
1872年 | 府県統合で、額田県(≒三河国)を吸収合併。その後 愛知県に改名。 | ||
1889年 | 市制施行で、名古屋市誕生。 | 現在へ至る。 |
つまり尾張の愛知に那古野があってそこに那古野城ができて潰れて後に名古屋城ができて清須→尾張(名古屋)だったのが廃藩置県で名古屋になって統合して愛知となり、名古屋ができた。
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あとあんまり関係なさそうだが、現名古屋市内で那古野(なごや)城跡とはちょっと違う場所に那古野(なごの)という地名があったりする。
日曜日、電車の中で『トリストラム・シャンディ』の上巻を読んでいた
主人公が今まさに生まれようとしている瞬間に、主人公のおじが主人公の父と医者に対して、
築城術の中のさらに稜堡(城壁の角の部分)の種類について説明する場面だった
電車はちょうど、地上から地下へと入っていき、私は何でこの小説、こんなに能弁に戦場における土とか岩の盛り方を語るんだろう、けったいな話だなと思っていた
電車は地下鉄になって一駅目に停まり、短パンのおっさんが乗ってきた
本格的な夏のカッコやなと思い、ちらっと見ると左手に青いバケツを持ち、もう片方の手に土の入った透明な虫かごを持っていた
透明な虫かごの中では、黒く大きなカブトムシが上下逆さになり、細い脚で虫かごの蓋部分につかまっていた
6月に電車の中でこんな夏の象徴みたいなもの見ることあるんだなと思った
向かいに座ったおばちゃんも、カブトムシおるやんと目をぎょろっとさせて、虫かごの方を見ていた
いったん小説の方に戻り、もう一度目を上げると、短パンのおっさんは床にバケツを置き、右手でスマホを触っていた
その間、虫かごはおっさんの平行に保った左手の平に置かれていた
電車の揺れからなるべく離すように左手を高く上げ、蕎麦屋の出前スタイルで虫かごを持ち、おっさんはスマホを見ていた
私はカブトムシを持っているときにスマホを観たいときはそう持てばいいんだという二度と使わなそうな知見を得た
カブトムシは相変わらず、虫かごの中で透明な天井に張り付いていた
このカブトムシはさなぎの状態で土の中にいて、カブトムシになり外へ出て、今度は元々いた地下のもっと深くを電車に乗って走っているらしい
おっさんは次の駅ですぐに降りて、私は読書に戻り、電車にはスーツケースを持った旅行客が乗り込んできた
目的の駅で降りて、改札を通るとき、きっと改札を通るときもカブトムシは天井に向かって恭しく掲げられたんだろうなと思った
そんで地上に出て、本買ってまた地下に潜り、電車で帰った
これを見ると情けもある政務もできる名将だったみたいすね
関ヶ原の戦いで領土を失った大名の内、数少ない大名として返り咲いた武将であった。さらに、それらの中でも最終的に10万石以上を領したのは長重と立花宗茂のみであり、そのことは特筆される。
長重は築城技術の高さを評価されていた。彼が築城した棚倉城、白河小峰城はいずれも城としての質が高い[9]。棚倉城は西側が急峻な崖であり、守りに適した立地条件を持っていた[10]。白河小峰城は総石垣造りの城で、これは東北地方では数少ない造りの城であった[9]。こうした築城技術は幕府側からも評価され、陸奥の入り口である要衝に長重は領地を与えられたと指摘される[9]。
死去に際して子息、家臣に「将軍の恩を第一として、幕僚と円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励め、しかし、機転を利かせすぎたり、媚び諂うのはよくない」と遺言を残している。河合敦はこの遺言にも長重の堅実で実直な人柄が現れていると評している[11]。
浅井畷の戦いののち、講和のために前田氏から人質として前田利常が遣わされた。利常は前田利家の子ではあるが、他の兄弟と違い身分の低い側室の下に産まれた庶子であった。小松城に抑留されていた人質の利常に、長重が自ら梨を剥き与えた事があった[12]。利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話した、という逸話が残っている。
家康が江戸に移ったのは天正18年(1590年)のことだった。家康はすぐに大きな城を築こうとはせず、まずインフラ整備に着手した。海水が入り込む低湿地帯であった江戸を耕作に適した地に変えていく。なかでも大規模な工事となったのが、文禄3年(1594年)に開始した「利根川東遷」である。当時の利根川は江戸を流れていて、しばしば大洪水を起こしていた。そこで利根川の流れを銚子に注ぐように変える治水工事を行ったのである。工事がすべて完了したのは承応3年(1654年)、四代将軍・家綱の時代だった。60年におよぶ大事業である。この工事のおかげで、新田開発も飛躍的に進み、関東平野は日本最大の穀倉地帯となった。
徳川家康が江戸城の拡張に着手するのは、征夷大将軍となった慶長8年(1603年)である。江戸に本拠を構えてから、すでに10年以上の歳月がたっている。家康はこの時機を待っていたのかもしれない。将軍ともなれば、自分の好きなように城を築けるからである。江戸城は全国の大名に協力を要請する天下普請(てんかぶしん)によって建造された。加藤清正、藤堂高虎といった築城の名手をはじめ、すぐれた築城技術をもった前田、細川、池田、毛利、黒田など名だたる大名たちが参加した。この工事は三代将軍の家光の代まで続くことになる。
天下普請による築城は費用も人材も資材もすべて大名たちの持ち出しであり、経済的に大きな負担となった。徳川に刃向かう可能性のある豊臣恩顧の大名たちの力を削ぐうえでも有効な策であり、この築城の方法はのちの名古屋城にも踏襲されるのである。
ここに詳細あったわ
参考になる
下山殿を側室に迎えてからしばらくしてのこと、元忠が屋敷に女を囲っていると徳川家臣の間で話題になります。それがどうも、家康が狙っていた馬場の娘らしい・・・。もしそうなら、元忠は家康の命令を無視しているではないか・・・家康は他の家臣にこっそりと調査させると、やはり噂通り馬場信房の娘を屋敷に住まわせているどころか、既に××まで進んでいることが判明。元忠が信房の娘を見つけても彼女は一歩も引かず毅然としてふるまいました。死線を潜り抜けてきた元忠、やっていることは人さらいなのでさも信濃の人々にとっては恐ろしく見えたことでしょうが、流石そこは馬場美濃守が娘、気丈な彼女に元忠は惚れ込み己が妻にしてしまうのでした。なお連れて帰ってからの2人の動向はしばらく不明。そこは妄想がはかどらないからちゃんと記録に残しておけよ元忠。
元忠にお目当ての娘を奪われた家康。ですが怒り出すようなことはせずむしろワハハと笑いながら「流石、彦右衛門めちゃっかりしておるわ。婚姻を祝う準備しておくから正室を一緒に見せに来いと伝えておけ」と正式に元忠の妻であると公表するのでした。
その後、元忠と彼女の間には3男1女に恵まれます。関ヶ原を前にして夫・元忠が伏見城に留守居していた時、彼女は夫が籠っている伏見城の図面を見て
「松の丸が守りに非常に弱い構造となっている。落ちるとするならばまず松の丸が原因になるでしょう」
と元忠から留守を任された家臣たちに言っています。事実、伏見城の戦いでは松の丸が最初に落とされ、そこから雪崩式に伏見城は落城してしまいました。流石は築城名人馬場美濃守の娘、血は争えぬと人々は大いに驚嘆したとのことです。
吉川 平介(きっかわ へいすけ、生年不詳 - 天正16年12月5日(1589年1月21日))は安土桃山時代の豊臣政権の官僚。豊臣秀長の配下として、紀伊国の統治にあたった。
もとは織田信長の下で伊勢大湊の船奉行を務めていた。羽柴秀吉の紀州攻めの後、羽柴秀長の配下として紀伊湊に入り[1]、七千石を与えられて雑賀に築城した。天正14年(1586年)に北山一揆が勃発すると、秀長に従って出陣し、一揆を鎮圧した。
紀伊湊は紀伊の特産である木材の集散地であり、同地を支配する平介は「山奉行」として材木の管理・調達の任に当たった。当時畿内では方広寺大仏殿の建立などのため、熊野木材の商品価値が高かった。天正16年に秀長の命令で熊野の木材2万余本を伐採して大坂で販売したが、その売買の代金を着服して私腹を肥やしたことが秀吉に報告され、同年12月5日に大和西大寺で処刑され、首は洛中にさらされた。この事件では秀長も部下の監督責任を問われ、「天下の面目を失った」(『多聞院日記』)上に、翌年正月の礼で秀吉への拝謁を許されなかった。
今でいうワイロや着服では切腹、
厳しい世界だったんだなあ
小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。武田二十四将の一人に数えられる。
信茂の勝頼離反から滅亡
天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し(甲州征伐。総大将織田信忠、副将滝川一益)、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日に織田信忠は伊那郡高遠城の仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。
勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日に岩殿城へ武田勝頼が在番衆を派遣している事実も注目されている[17]。
武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。
信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。
甲斐善光寺
一方、織田・徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。
織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。
『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。
武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場ら重臣と共に名を列ねている。
武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。
設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。
鉄道唱歌(作詞:福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。
満寵
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満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将、政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志』魏志「満田牽郭伝」に伝がある。
目次
1 生涯
1.1 酷吏として出世
1.3 呉との攻防
2 三国志演義
3 脚注
生涯
酷吏として出世
身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞(張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。
その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為は曹操に大いに賞賛された。
楊彪が逮捕された際、荀彧や孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操は楊彪を赦免した。
これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人から疎まれることはなかった。
官渡の戦いの時期には、袁紹の郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。
曹操の荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍を兼務し当陽県に駐屯した。
孫権が国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。
後に、曹仁の参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁に降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽が撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。
呉との攻防
曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方面から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年で曹真・夏侯尚・徐晃・張郃・文聘らとともに朱然と交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。
228年、曹休・司馬懿・賈逵が揚州・荊州・豫州・雍州・涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関に三方面から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休が孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿や張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。
同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。
曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史を兼任し、曹休の死後に都督揚州諸軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。
230年には征東将軍となった。冬に再び孫権が合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州と豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権が撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権の撤退は偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権は10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。
231年、呉の孫布という武将が投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降を偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士を要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。
満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言したからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。
232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。
233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気な作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。
同年、孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権は武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権は上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。
234年、孫権は十万の軍勢であると呼称し合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢の諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権に呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢であると呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥の魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城を放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さらに曹操と孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。
235年春、孫権は江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵の恩賞とされた。
曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央に召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別に物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。
子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれて殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋の時代に尚書・司隷校尉となった。
また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃を曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。
自身が当時スーパースターAとマスターC(最上位マッチがマスターC~マスターAだった時代)に感じたこと
実際に最上位マッチの環境で戦う為にやったことを簡単に記しておきます。
◆はじめに
マスターCまではボマーとブロッカーの2ロールを使い続けており、
アタッカーとシューターはほぼ未使用で進めましたのでその前提をご理解ください。
◆大きく感じた環境の違い
・ボマーでベースに到達できない
→今まではなんか走っていったり雰囲気でボム置くだけで通れていたのに急に通れなくなる。
ベース周りも築城がしっかりあったり、フリーで到達できることがなく必ず1on1以上を強いられる。
でもスーパースターに落ちるとボマーでダメージ取ってベース壊せるので何が悪いのかがわからなくなる
・築城の違い
そもそも築城のやり方や上がる速度が違う(これがシューター使うか配信とかを観ないと違うことに気づけない
特にリスポーン埋めについては上手いシューターが指示チャットをくれるのですが、
「え?そこで行って良いの?」 「それ任せて良いの?二人で倒すんじゃなくて今リスポーン行くの?」っという驚きが多い
リスポーン埋まってるけど相手が開けにきてるからリスポーンに行って欲しい。
っていうチャットなんかは本当に指示貰っても最初は何を言ってるかわからなかった。
→自分がマスターCのときはマスターBやAのプレイヤーとマッチすることが多かった。
そこでブロッカーの時に一番感じたのはアタッカーのレベルで事故死が単純に少ない。
無いわけではないものの、ミンボーやショックボールで落ちることが少なかったり、
正直スーパースター帯までは普通にネックにボム置いてるだけで無敵抜けミス→ショックボール
実際にここまで明確な内容を感じたわけではないですが、
はっきりと思ったのは全てにおいてレベルが違うこと。
完全にゲームが違うな~と思いました。
・実況や解説がある上でマスターAの人がいる(プレイヤーはマスターBとかCでもOK)配信を観ること
→よく言う座学と言われるものですが、厳しいことを言うと観るだけで『勉強したつもり』になってる人がすごく多いです。
上記でも少し触れましたがブロッカーで考えた時にベース内で2対1を作る理由、
こういうのを話してる瞬間がほんの一言二言ですがあったりします。
例えばですけど「今のリス埋め良い判断ですね」この一言があった時に理由の説明がなくても、
そのシーンのその行動は正解だと上手い人が言ってるわけです。
何故リス埋めに行ってよかったのかを自分の中で答えが出るまで観なおします。
わからなくてもまた他の試合で同じような一言があればそこを観ます。
次に『良いリス埋めに行くタイミング』を複数シーン見た時に共通点はどこなのかを探していきます。
この共通点にしっかりと気づけた時、初めて自分の中で1つの答えを見つけたと言えると自分は考えます。
もちろん実況や解説が理由をきちんと説明してくれている場合は、
その理由を頭に入れた上でリス埋めに行く度にさっき言ってた理由と一致してるのか?
これは行って良かったのか?っと他人のプレイに対して自分の中で良し悪しをつけます。
疑似体験に近いと思うのですがこうすることで自分が同じような状況になった時にどうするべきかという
判断力を鍛え上手い人と少しでも同じような判断ができるようにします。
・上手い人のプレイで自分ならどうしたか、何故その行動をしたかを考える
そういう時は自分ならここはこうする。と自分がプレイしているように考えて
自分の考えと、実際のプレイヤーがやっている行動で何が違うのかを考えます。
ただ上手い行動をしてるのに対して「上手いな~、そうすればいいのか~」ではなく
自分ならこうしてたけど、上手い人はこうするのか。何故こうしたのか。
どうすればこの状況を作れるのか?
っという展開をさかのぼって考えていけると更に良いと思います。
□自□
この状況で無敵を使ってネック抜けするシーンがあったりしますが、
そもそもこれは展開が早くなり相手シューターのスキル回復時間を与えずネックを抜けるという点だけでなく、
『自分のボムが起爆点なので爆発するタイミングはシングルでも練習可能。つまりシングルで無敵抜けできればネック抜けができる』
この2つの理由があるから上手い人は予備ボムを置いてネック抜けしてるんだな~と理解する。
そしてこの方法を行う場合、エメラが相手であればスレッドを撃った後にしないと全弾残ってる場合は狩られることを知っておく必要もあります。
これをただ「ネック抜け上手いな~」と言いながら観るのか、
「何故この方法でネック抜けをしているんだろうか?」と思いながら観てメリット、デメリットを理解しようとするのか
この差が今の環境で言うマスターBを維持できるかどうかだと思います。
・上手い人に聞きに行く
多少無理してでも上手い人がいるところに行って声をかけて教えてもらいます。
自分のプレイの指摘もそうですが、他人がやってる内容に対してこれはこうだからこういう行動したんだよ
っという解説を聞くとその場で良いプレイの理由がわかるのでプレイするのも大事ですが
他人のプレイを見たり他人のプレイを解説してもらうのもすごく良いです。
最近は配信している店舗も多いので配信してる時であれば配信台周りの人は快く教えてくれると思います。
大雑把ですが自分がループした時にやったことはこのような内容でした。
今でもわからないことが多いですし下手な部分も多いですが、
当時これをやったおかげでスーパースターAとマスターCのループは合計3回(スーパースターAに2回落ちました)
マスターBとマスターCではループ無し(一度も落ちてません)ですのでそこまで多くない回数で維持できたと思っております。
・自分のプレイを録画する前に上手い人のプレイと解説がある配信を観たほうが良い
・上手い人のプレイを観て勉強したつもりにならず、きちんと上手いと思ったところを見直して自分の中で何故その行動だったんだろう?を考えること
この3点に尽きます。
もちろん全員向上心があるプレイヤーというわけではないので押し付けるつもりはありませんが、
ループしてることにストレスを溜めたり味方に文句を言う前にまず自分がどれだけできてるのか
どれだけ知っているのかを理解することが大切なのではないでしょうか。
最近では上手い人が初動等を画像付きでわかりやすく記事にしてくださっているので、
そういう内容も併用して配信を観ていくことで理解が早くなると思います。
余談ですが、あまり表向きにこういう内容を発言してるプレイヤーとして認知されるのが好きではないので
匿名記事にて投稿しております故、プレイヤーの詮索はご遠慮ください。
迷っている誰かの目に留まり、
少しでも参考になれば幸いです。
やっぱそうよなわかってるよ、防衛線が城じゃないなら、ヨーロッパとか中国の長城も現代の意味での城じゃなくなるな
じゃあやっぱり特になにか説明が無い限りは「城」ってのは石垣や天守閣のある城を指すな。
日本語的に考えても「城」や「築城」って言って防御陣地やその形成のことを指すと思う人はほとんどいないんじゃないの?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E#%E6%97%A5%E6%9C%AC
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9F%8E_%28%E3%81%97%E3%82%8D%29/
4日目
慣れてしまえばどうって事ない
目を覚ましてカーテンを開けると、結露のモヤの向こうに広島の晴天が広がっていた。
窓の外には気持ちの良い冷気があるのだろう。
東京から南に移動したとはいえ、同じ日本なので11月の気候にそれほど大きな違いはない。
今日がこの旅では広島で最後の朝、昼には新幹線で博多に向かう。
初日に否定的なレビューをしてしまったホテルだが、古い設備もバストイレ別の狭い部屋も慣れてしまえばどうということはなく、フロントは丁寧だし、サウナも使えるし、立地も便利だしで、これで1泊あたり3,500円ならコスト分の満足は超えていると思う。
実際、2泊通してフロントには出張族と思しきスーツ姿やツナギを着た現場仕事の兄ちゃんが引っ切り無しに訪れており、底堅い需要の存在を感じさせた。
洗い場の排水も改善された大浴場で朝風呂を浴びてホテルをチェックアウト、清涼な空気を吸いながら、遠回りして広島駅へ向かう。
と、スマホで地図を確認していると、広島城が案外近い事を発見した。
平和記念公園と宮島で観光の時間を使い切ったと思ったが、この距離なら新幹線の出発前に回れそうだ。
江戸時代以前の城は火災や戦争などで城そのものは失われてしまっていることが多いのだが、広島城は戦後、天守閣が復元されており、中は歴史博物館になっていた。
海運の要衝として発展した広島の歴史、築城した大名、城内や城下の暮らしなどの展示を見た後、登っていくと、ショウケースの中に幾振もの日本刀がその刃に輝きを湛えて横たわっていた。
チェックアウトの前にニュースサイトをチェックして目に留まった件がある。
全米ライフル協会が医師の発言を揶揄するツィートをした事に、医師たちが猛反発し、抗議のツィートが全米で広がっているというニュースだった。
全米ライフル協会のツィートには「なんでこんな無神経なことが言えるのだろう」と、瞬間 疑問に思った。
アメリカの選挙に影響を与える資金力が良く話題になる全米ライフル協会だが、それを支えるのは「銃を持つ事を肯定する思想と無数の感情」だろう。
アメリカは「政治が暴走した時に民兵が蜂起して正しいアメリカを取り戻す」という思想の元、市民の銃の携行が権利として認められているという。
でも、そういった政治思想より「銃を取り上げるな」という感情が個々人の心になければ、銃の携行はここまで生きた頑強な権利として存在し得ないと思う。
銃社会でない日本にあって、その想像は難しいと思ったが、日本刀を説明する時「侍の魂であり、日本の誇るべき美の結晶」という様な言われ方をするのを考えれば、わかる気がした。
アメリカで銃が民政の象徴として説明される様に、日本刀も忠義や克己の象徴として思想的な説明が試みられる。
しかし、銃も刀もその道具としての核心的機能は「暴力の行使」だ。
「自分を脅かすものや気に入らないものを暴力で排除できる」という自信が携行を望む個人の心の核心にあるのだろう。
侍の帯刀も銃のオープンキャリーも「それを取り上げられたくない」という感情の根は共通である様に思う。
ただ、それを本当に人に向けるとはどういうことなのだろう。
日本刀の分類上、刃渡り60cm以上は太刀や刀に属するという。
展示のそれを見てもはっきり言ってリアリティがなかったが、すぐ側のショウケースの中にある脇差や小刀は普段料理に使っている包丁と大した違いはない。
「これを人に向ける?刺すのか、これで?本気か?」
膝がすくみ上る気がした。
俺には無理だ。
だけどすぐに次の言葉が心に浮かんだ。
「きっと、慣れてしまえばどうということはない」
最終話編
・築城院真鍳ちゃん野放しだけどいいのか国外逃亡したしもうどうでもいいのか
・多元宇宙論がどうこう言ってるが多分誰もちゃんと理解してないけど本当に大丈夫なのか
・メテオラずっと残るらしいけどこれは世界の歪み的にはセーフな範囲なのか
・適当に話でっち上げて終わらせたぜってセリフはスタッフの本音漏れてないか
・真鍳ちゃん>アルタイル>>その他作中の全て みたいになってないか大丈夫なのかマジで
・クリエイターが雁首揃えて考えた攻略法がアルタイルを倒すためにアルタイルの下位互換を用意したましたは流石にショボくね
・セレジアの恋人カロンがハゲにかました皮肉を見事にスルーするハゲは創作者としてどうなんだろうかお前の話ワンパすぎんぞって言われてるぞ
・トレパク疑惑のある絵師が自分の創作キャラとイチャイチャしてるのを真剣に見守る統率の取れた観客
・アルタイルはベースが二次創作だから何でもありだぞというギミックに追加の説明は無かったですね
・承認力で全部説明つくならステマしてバズらせさえすりゃスーパーシンジやU1みたいな感じで他のキャラもチートし放題じゃねえか
・デウスエクスマキナクラスのキャラを都合よく使ってはいはい辻褄合わせましたよは本当よくないよ創作者の怠慢だよ盛り上がれないよ
ソレ以前編
・あじゃらかもくれんきゅうらいすは台詞がダサすぎて何でバズったのか不思議でならない
・というか承認力による設定改変をもっと積極的にやれよそれがこの作品の肝だろ
・どうせ設定の雑さなんて浮き彫りになりすぎてこれ以上どうしようもないんだからもっと派手に動くべきだったんだよ
・チャンバーフェスにネタを取っておこうとしたんだろうがそれならもう1クールでまとめろよ
・22話って中途半端だな本当に
以下駄文
いやーとりあえず最終話終わりましたね。
ラストを見るまでは分からないという事で今まで色んな事言うのは我慢してきましたが流石にもう言います。
ひどかったね今のアニメ。
最終回で大逆転することはなくて、やっぱ駄目だったかとため息がでるような話でした。
とりあえあず個人的に評価を100点満点で言えば40点ぐらいの作品でしょう。
そのうち大部分がネットでわいわい語り草にするのが楽しかった事による点数ですので、人に薦める場合の点数は100点満点で10点ぐらいです。
嫌いな奴に時間を無駄に使わせようって時か、糞アニメ大好きな人にアニメ紹介する時ぐらいしか名前を出すことはないでしょう。
放送前の期待値は70点ぐらいだったのでそこからかなり下がってます。
自分もまだまだ見る目無いなぁ。
1話の段階で「ん~~~~???これって伸びない可能性のほうが高いのでは~~~????」と思うには思ったのですが、それを放送前に感じ取れないと駄目ですね。
伸びないにしてももう少し低空飛行しそうに予想してたのですが、気づけば地中を潜っていたレベルになったのは予想外。
全体的な造りも荒いし細部の枝葉も荒かったですからねー。
たまーに細かい話を掘り下げようと頑張っていたのは見かけたんですが、世界観の造りが荒いせいかいまいちピンと来ない話ばかりになってた印象です。
「落とした?」としか思えない放送スケジュールもちょくちょくありましたけどねー。
そこまで頑張らんでいいのにと思って見てました。
地元が戦場となっただけに背走する軍隊からは大量の脱落者が生じる。
だが、その一方で増田家は致命的な一撃を敵にむけて放っていた。
増田中弐にひきいられた船団は、彼の旧領をめざして一路、西進。
途中で嵐に遭い、三万人のうち一万人しか残らなかったが、
指揮官の不屈の闘志に牽引され、満月の大潮を活かし軍勢を増屋近くに上陸させた。
このことを増田家(士)東征軍はまったく察知していなかった。
老兵ばかりの居残り部隊が送った急使は旧増田家(九)の陸橋部分で片っ端から始末された。
これは、忍びたちの働きによるものだ。また、占領されて日の浅い現地住民も増田家(士)に非協力的であった。
そして、西方での驚くべき活動が、当主たちの耳に入る頃には、みやこ周辺の情勢も、のっぴきならないものに化けていた。
増田軍の手癖の悪さが原因である。常に文明の先進的地域を占領し続けてきた増田軍には略奪癖がついていた。
それがみやこを前にしても発揮されてしまい人々の恨みを買った。
最悪なのは宗教施設にまで手を出してしまったことで、増田軍は強烈な反発を招いた。
前の支配者向けに用意されていた一揆が新しい支配者向けに発動され、占領軍に出血と分散を強いる。
しかも、旧増田(七)領の西方国境城塞群は整備しなおされ、一揆勢を招き入れて強力な迎撃体制を整えていた。
増田軍は進退窮まった。一度も負けていないのに、増田島の覇権をめぐる戦争を失おうとしていた。
逡巡の後、現実を認められない家臣たちを物理的に排除して、増田家の当主はみやこからの撤退を決意する。
だが、すべては遅すぎた。
今度は増田家(八)の南海岸側の船団が三万の上陸部隊を満載して陸橋部に突進、かつての経験を活かして上陸を成功させたのだ。
そこに増田家(九)の旧臣が続々とあつまり、臨時の砦を築き、破却された山城を修繕した。
本領を回復した増田中弐も援軍を送り込んできた。彼の船団から嵐ではぐれた二万から合流する者もあった。
本拠への帰還をいそぐ増田軍は一揆勢の追撃を受けながら、この足止め部隊と衝突した。
彼は八万から五万に減った敵の鋭鋒を受け止めず、陣地を活用して逸らし続けた。
勇猛で後のない敵の攻撃で陣地は次々と陥落したが、そのかわりに敵は貴重な時間を失った。
しかも、陸橋の後方では新しい陣地が建設されつづけていた。さながらアキレスと亀の状態である。
武具が傷つき、腹を減らした増田軍(士)の有様は無惨なもので、ついにやせ我慢の限界を超えた。
陣地ではインフレが発生し、ひとにぎりの食料が非常な高値で取り引きされた。
ちょっとしたことでの諍いから殺し合いが発生するのも日常と化してしまう。
そんな有様も増田同盟軍の忍者は逐一上司に「ウェーイ」「キィヤー」☆報告「……」等と報告した。
「そろそろか……」
増田大学は増田中弐から送ってもらったある部隊に連絡を取った。増田匿兵衛に授けられた計略を実行するときだ。
その夜、前線の陣地からは増田家(士)が多用する戦闘用熊、武熊の雄叫びが繰り返し響いた。
こうして、彼らの本拠地が占領され、帰る場所もないことを敵に知らしめたのだ。
実際はまだ縁辺部を侵しただけだったのだが、心理的な効果は絶大だった。
ちなみに本来武熊を使役する立場の増田軍では武熊は食料に化けてしまっていた。
絶望した増田軍からは自殺者や脱走者が続出し、当主も弟に後をたくして腹を斬った。
一週間後、増田家は完全に降伏した。最弱の将と軍が、最強の将と軍を倒したのだ。
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