はてなキーワード: 等価とは
Minecraftというコンピューターゲームがあります。原始時代のような丸裸の状態で原野に立ち、身一つで徐々に文明を築いていくような壮大なゲームです。
10年ほど前、Minecraftにハマっていた僕は、日常がすべてMinecraftの価値観に支配されていました。部屋を見渡せばベッドを中心にあらゆる家具がボクセルで表現されているように感じたし、扉は必ず90度で開いたし、世の中は四角いグリッドに従って整列しているように見えたし、人々の動作は緩慢で1ティック刻みで同期していると信じていました。そしてあらん限りの時間をMinecraftに注ぎ込んでいました。Minecraftでは睡眠が必須ではありませんからね。
当然留年もしたし、食事も満足にとらないので病弱になりました。
特に食事がひどかったのです。Minecraftでは食品は傷みませんので、Minecraftに支配された僕の脳からは食品が腐るという概念がなくなりました。またMinecraftではすべてのアイテムは交換可能であの卵とこの卵は等価なのです。つまり一度冷蔵庫に入れた食材には新旧の区別がなくなりました。さらにMinecraftには腐った肉というアイテムがありますが、特に問題なく食べられるのです。僕は悪くなった食べ物をスティーブのようにガブガブ食べていました。それで徐々に感覚がおかしくなっていたんですよね。
あるとき冷蔵庫の中身が何もなく、かつ買い物に出る元気もないときに便意を催しました。
その時はたまたまポロポロとした堅めのうんこが出たんですよね。
買いに行くのは億劫で、お腹も空いているし早くMinecraftを再開したいという三大欲求のトライアングルアタックをまともに浴びた僕は、うんこを食べたらどうなるのか?という疑問に取り憑かれました。
だからうんこを食べたらどうなるのか?が純粋に謎に思えたのです。
考えるうちに、うんこを食べるというアイデアが名案のように思えてきました。
食べられる以上、空腹ゲージをいくらか回復できると思えました。
僕はうんこを便器からすくい上げ、フライパンで炒めて食べてしまったのでした。
最近はもう僕はMinecraftはやっていません。今でもMinecraftは大人気のようです。アップデートは続いているし、Youtubeにも毎日プレイ動画があがります(僕の頃はニコニコ動画が中心だったように思います。誰もが夢中になっていました)。
先日たまたまある配信を見てしまい、視聴者コメと生主の無知に驚きあきれました。今やMinecraft民はこのレベルに落ちたのかと少し悲しくなりました。コメントで必死にアドバイスを書き込みましたが、全く読まれませんでした。あるいは面白おかしくするために、わざと無視していたのかもしれません。
>これを反古にするとは、日韓基本条約の破棄に相当する行為と等価とみなされてしかるべきである」以外の解答は出てこないはず
"以外の解答は出てこないはず"そうですか。ならば日本政府は国際司法裁判所に提訴すれば良い。そこで出た判決に従えば良い。実際、そんな声も上がっている。
しかし、提訴するぞ提訴するぞだけ言って何もしないなら、それは負ける可能性があるからだと言わざるを得ない。
イキがってるだけで日本政府は怖がってんじゃないの?
出るとこ出ましょうよ。白黒はっきりつけましょうよ。向こうがアホなのか、こっちが愚劣なのか、はっきりさせましょうよ。
韓国の徴用工の個人賠償請求問題を論理的に考えた場合は、「個人請求権は消滅してないが、その請求先は韓国政府のみであり、日本を対象とした請求は日韓基本条約において最終的に終了している。これを反古にするとは、日韓基本条約の破棄に相当する行為と等価とみなされてしかるべきである」以外の解答は出てこないはず、ではあるんだけど、リベラル方面の論調は「かつて韓国人に負担を強いたことに対する被害者感情の清算が済んでいない証左だ。個人賠償権は消失してないのだから、日本はあえて韓国が納得するまで謝罪すべきである」というようなものが多い。
こうした、意味不明に思えるリベラルの論調を分かりやすく表現すると、被害者に対する共感や同情と怜悧に突き放す日本の対応への反感のみがあって、いかにも情緒的な考え方が大事にされていて、正しさは重要ではない事が分かる。保守、ネトウヨ界隈で、こうした「共感」と「正しさへの反発」は、受け入れられない。保守界隈は現実主義者を自称する人が多いだけに、法的根拠や客観的事実を筆頭にした、曖昧さを認めない冷たさがある。
様々なニュースについてるブコメの平均的な傾向として、共感のリベラル、論理の保守って傾向は強い。もちろん、例外はあるでしょうが。
保守がリベラルをものの道理が分からないバカと罵っても、感情が収まらないリベラルが理屈には共感するはずがない。韓国人可愛そうと、韓国人は間違っている、の間に議論は成立しない。感情的な女性と、理性的な男性との間で齟齬が起きたときの様なもので、理屈もくそもない駄々こねで譲歩を引き出してきた韓国とリベラルだけど、徴用工問題では客観的根拠が明確なだけに決して日本の譲歩は引き出せないだろう。
一個人としては他人に共感できる事は好ましい事だけど、共感を政治問題、社会問題にまで延長してしまう事はどうなんだろうね。社会は論理的であるほうが正常だ。
一時、孔子とか老子とか莊子とかそこら辺を読み漁っていたときに出会った言葉。
社会に出てふと思い出したときにあまりにもその通りで鳥肌が立った。
ただ、その原典を探しているのだけどどうしても見つけられない。
その本の中でも、急にその言葉だけ異質だったのを覚えてる。
内容は、敵国を完全に支配するにはどうしたらいいかというもの。
誰かに尋ねられて答えるみたいな構図だったような気がする。
力で押さえつけるとか、指導者を演じるとか、マインドコントロールするとかそういう類を想像していたけど書いてあることは予想とは全然違っていた。
例を挙げると以下のような感じだ。
・食料などの安定した供給を行う。
・娯楽など生きる喜びを提供する。
ここまでは聖人君子すげぇって感じに読んでたんだけど、その次に続く言葉を読んでぞっとした。
「相手にとってその生活が当然な状況になれば、生きることに対してこちらに完全に依存していると同然だ。後は与えるものをコントロールするだけで相手を好き勝手に操るができる。」
、、、
こわいこわいこわい!
こわいけどめっちゃある!
そういえばいつも定期的にうまいものごちそうしてくれたりゲーム貸してくれる友人Aになんだか振り回されてるけど断れないのもこれだよ!
その後社会にでて見て、本当にそうやって人の人生を好き勝手操っているひとの多いこと。
おかげさまでここまで出世できましたよ!
一見好意にに見せかけて、完全に支配しに来てる場合があるから注意してくださいね。
ダメだよ一方的な施し。受けちゃダメ。得したと思ってると根こそぎ持っていかれるよ。
もし原典をご存知の方がいらっしゃいましたらお教えください。
具体的トラブルの内容について書いてないから等価かどうかは知らんけど、
「菓子折り」なんて自分でも当たり前に買える程度のものが等価になるケースって少ないと思うが。
時給換算二時間くらいでしょ、せいぜい。
で、「飲みに付き合った」が「礼」だと思ってるのは元増田だけと違うか?
「誘って断られなかった呑み」は貸しでも借りでもないと思うと思うぞ。
助けたことと元増田さんのお礼の内容が等価関係に立たないということをいいたいのかもしれないけど、
処女の操は一般的に高い(判例もあります)ので、等価関係というのならそれこそ命を助けてもらったというレベルでなければそれを断ってしかるべきでしょうよ。
「心から」かどうかなんか外形から分からんし、いうだけならタダ。
払ったリスクに見合わない。俺は御免こうむる
実際には、助けてもらって当然みたいな顔してる奴本当に多いし。
これだけは同感。
そういうやつが多すぎる。
元増田もそういう口だろ。俺は助けたいとは思わん
https://anond.hatelabo.jp/20180921225703
正しい答えを探そうとするからそうなる。
効率が異常に悪いよこのやりかた。
こんなやりかたしたら処理追いつかずにつぶれるに決まってるじゃろ。
政治について考えるなら論点なんか無数にあるわけで、それ全部整理できないでしょ。
ある程度まずテーマ決めるのよ。
正しいか正しくないかはおいといて、ベースとなる知識をまとめてる書籍読むの。
この場合にサヨクか右翼かはあんまり気にしなくていい。どうせどっちも後で読むから。
で、たたき台として仮説つくるわけ。
その仮説を基にして情報に接しながら微調整をしていくって感じになるよ。
なんのために入門書があるかって話。
でもこの人まじめだよな。
それすらもめんどくさくなって誰かの発言鵜呑みにするような馬鹿がほとんどだから。
でもまなじまじめなもんだから、自分が情報足りないのはわかるけど
それをどうすればいいのかわからず、
これはデータも何もないただの推測なんですが、ストレートの人らがLGBTについてまず思うことはセックスについてだと思うんです。
件の社会学者が例に出した「殺人」に対する「嫌悪感」も嫌悪感覚えるから等価になるね。
「殺人」に対する嫌悪感はまたひと味違った「嫌悪感」となれば、LGBTに対する「嫌悪感」もラノベ表紙に対する「嫌悪感」も違うものになるね。
別にわたしどっちかと言うなら表現規制反対派マインドの人だし、LGBTとか関係のない話すんなよ、論点それんじゃねーか、としか思ってないので、
何をそんなにLGBTに対して拘ってるのかわからないんだけど。百歩譲ってフェミニストのあり方を論理で殴るなら、わかるんだけど。
を同じ気持ち悪いと言うことは同じ「表現の自由」の話だから等価だ
という主張があるけれども、
それは大変な勘違いです。
ですので、気持ち悪いということは、その生存権を脅かすヘイトスピーチになります。
ですので、それを気持ち悪いということは、そのキャラクターを描く自由、つまり表現の自由を脅かす行為になります。
青識亜論氏が、LGBTとラノベの表紙、つまり「生存権」と「表現の自由」を侵害する気持ち悪いを等価(あそこでは置換可能な概念と言っていましたが)に論じることはおかしいと主張するために、
(ここに「殺人を表現する自由」を加えることによって主張がぼやけたという件の社会学者の落ち度はもちろんありますので、件の社会学者は反省してください)
「殺人する自由」に対する嫌悪という極端な例を「LGBT」と「ラノベの表紙」に対する嫌悪と並べることで
「LGBT」と「ラノベの表紙」は「生存権」と「表現の自由」の話であり、これらも等価ではないということを示す為ですね。
すると青識亜論氏らは、その意図に気づかず、もしくは意図的に、
「LGBT」と「殺人」に対する嫌悪を等価とあるかうなんてどうかしていると
本来、件の社会学者が、皮肉表現で指摘しようとした論点とは真逆、つまり皮肉ではなくそのままの表現として受けとられ、
そもそもこの話は「表現の自由」を侵害するラノベ表紙への「キモい」は正当なものかという話で、
青識亜論氏の「LGBT」を持ち出したエクストリームなラノベ表紙擁護により、話がややこしくなっている状態です。
(ちなみに「LGBT」は生存権ではなく、表現の自由によってその存在が保障されていると読めてしまう《なぜなら等価のように並列しているから》
青識亜論氏のTweet自体がそもそもヘイトスピーチなのではないか、という懸念をわたしは持っています。
しかしわたしには性別という概念がどのような法体系で規定されているのかが、わからんのです。
「LGBT」は表現だと言って差別してきた歴史がある、というソースがあれば、ヘイトスピーチだよと言えますが、
そこまで調べきれていませんので、誰か教えてください。)
ラノベ表紙に関しては、あの表紙のキャラクターがあのようなポーズを取ること。
「彼女は自らが女性として生きること、現在の女性規範の頂点に立つことを誇りにする存在だから」
一言でまとめると「自分が支持し、主張する立場の恣意性(非論理性)に無自覚な人間が多すぎる」。
青識亜論まわりでいま丁度燃えているけど、個人的な印象論の範疇で言えば、フェミニストやLGBT側の立場の人間は、「自分が他者を抑圧している可能性」というものに無自覚すぎるんですよ。
「自分が、自分自身にとって大事だと思う権利を守るために、それを侵害する他者の権利を抑圧する」、これ自体は別に珍しくもなんともない。だけど、それを無自覚にやるのは流石に問題がある。丁度、「ラノベの表紙が気持ち悪い」「LGBTが気持ち悪い」「殺人」を等価に置いた社会学者がいたよねという話題でもそれは結構散見される。
今更こんなことを言わなきゃいけないくらいに人類の知性は発展してこなかったんだという事実を目の当たりにするのは悲しいけれど、「論理的に等価である」というのは別に珍しくもなんともないんですよ。
「LGBTが気持ち悪いと思う権利」も、「ラノベの表紙が気持ち悪いと思う権利」も、誰にだってあるんです。
そこから一歩進んで、「LGBTが気持ち悪いと発言する権利」も、「ラノベの表紙が気持ち悪いと発言する権利」も、誰にだってある。ただし、そこには発言したなりの責任が伴う。「LGBTが気持ち悪い」と発言することによって、LGBTである人々を抑圧することはあるでしょう。それと同じことで、「ラノベの表紙が気持ち悪い」と発言することによって、ラノベの表紙を描くことをライフワークにしているイラストレーターさん・ラノベの表紙によって生きる糧を得ている人々(ざっくり言うと女性から切断された「キモくて金のないおっさん」を例に挙げておきますが、もっと単純にそれを単純に「いいイラストだなー」と思いながら受容する人々[男女問わない])を、抑圧することもあるでしょう。
では、その二つの何が違うかって、「何かを気持ち悪いと発言することで、どれだけの存在を保護しようとしているのか。そうすることで、どれだけの存在を切り捨てることになるのか」という違いでしょう。
LGBTへのヘイト発言を禁止することで救われるLGBT当事者の気持ちの価値は、LGBTへのヘイト発言を禁止された人々の気持ちの価値を上回る。LGBTに対するヘイト発言は、LGBT当事者を下手すると死にすら追いつめてしまう可能性があるし、そういった想像は容易だからだ。
では、それと論理的に等価であるところの、「ラノベを気持ち悪いと発言する」ことの場合はどうなのか。ラノベを気持ち悪いと言われることで抑圧される対象は、発言を受けたことでLGBT当事者と同程度に守るべきなのか。これは個人的な見解だが、同程度の重みを持たせることは、少なくとも想像の範疇では難しいのではないかと考えている(これは、あくまで個人の想像の範囲である)。
だけど、そこから一歩進んで、「気持ち悪いから規制すべき」という話になると、話は別だ。
「LGBTは気持ち悪いからその権利を規制すべき」となったら、まあ、少なくない人間が直感的におかしいと思うだろう。「気持ち悪い」という内心の権利を守るために、他者の人権を制限するというのは、保護法益のバランスが全く取れていない。
では、「ラノベの表紙が気持ち悪いから、ラノベの表紙を制限すべき」という話になると、直感的におかしいと思う人が減る、という印象が、本増田にはある。減る理由はわかる。当事者の属性の違いだ。LGBTである人々の存在は、少なからず想像がつく。フェミニズムが守ろうとしている「女性」という存在も同様である。それに対して、「ラノベを表紙を制限することによって抑圧される人々」の存在がやや想像しづらいというのは、まあ、わからなくもない。
ラノベの表紙は「娯楽」である。娯楽に対して、LGBTというのは在り方そのものである。在り方そのものと、娯楽とであれば、そこの比重が異なるのはわかる。だが、世の中には、少数であっても、「ラノベの表紙を書くのが生業である人々」「ラノベによって救われている人々」が存在する筈なのだ。そこにあるのは、人類の数%(1億人近く)の権利を守るために、数千人の権利を縛るべきかどうか、という利益衡量の問題である。人類の半分である女性の権利を守るために、何千万人と存在するミソジニーな人々を抑圧すべきか。あるいは、女性の権利を守るために、ラノベに関係する人々の権利を抑圧すべきか。
ここで本増田が言いたいのは、「お前の発言で抑圧される人々がいるから、ラノベの表紙を気持ち悪いと言うな」という話ではない。
現実世界において権利と権利がぶつかるのは当然であって、そのような現実において、ある特定の立場の人々を「守らない」という選択をするのは、仕方がないことだとは思う。だけど、その「守らない」という選択をしたことから目を背けるのは、誰がどう取り繕ったとしても、欺瞞でしかありえない。
LGBTを気持ち悪いと思ってしまう人間にとって、それは仕方がないことだ。だが、発言した瞬間に、LGBTの人々を敵に回す覚悟が必要だ。
それと同時に、ラノベの表紙を気持ち悪いと思う人間が、それを口に出し、主張する場合、「他人を抑圧する」という現実から目を背けてはならない。
況んや、「規制すべき」という話になると問題はかなりでかくなる。ここに来ると、「規制すべき」という形で、表現の自由の問題が関わってくるからだ。
「表現の自由」は、誰かが誰かから抑圧されないための権利である(それは主に公権力であることが多かったが、それ以外の私的権力からの抑圧を防ぐためでもあろう)。それは、どんな人間にとっても、本来的に備わっているものである、と法学は人権の定義をそのように構築してきた。それを制限するためには、それなりの整合性、具体的には「保護法益がどの程度大きなものなのか」を精緻に検算しなければならないと、様々な判例の構築によってその線引きを見積もってきた。世の中の人々が考えている以上に、表現の自由はものすごく大きなものなのだ。
それに対して、気軽に「ラノベの表紙が気持ち悪いからそれを制限しよう」と言い出す人たちは、その権利の重さをどの程度理解しているのだろう。「ラノベの表紙が女性を扇情的に描くことで、女性蔑視・女性の「モノ化」・男尊女卑的な観念等を強化する」というのは理解できる。そして、それを守ることがそもそも男尊女卑的な、フェミニズムが批判し続けてきた構造権力を強化するから全く擁護できない、という話もわかる。
だけど、それを主張することで、逆に自分たちが誰かを抑圧する可能性について無自覚か、目を背けているひとが多すぎやしないだろうか。
最悪、抑圧が発生するのはいいよ。民主主義ってものは絶対に少数派の意見を切り捨てる(厳密に言えば、多数派は少数派の意見を最大限聞かなくちゃいけないのだが、本題から逸れるので一旦措く)ので、仕方がない、避けようがない部分もあろう。でも、「そもそも自分たちは誰も抑圧していない」と言いはじめるのは、何か違うんじゃないか?
俺が、青識亜論は少しむかつくけどそれ以上に彼を擁護したくなるのは、それが原因だ。青識亜論は特権性について何度も言及していた。市民社会において、どのプレイヤーも、プレイヤーとしては等価な筈なんですよ。市民が市民を抑圧することはできない。市民は抑圧に対して抑圧に反発する権利がある。その権利が、あたかも存在しないようにふるまう少数派が多すぎる。
せめて、「私は少数派の権利を守るために多数派の権利を抑圧する立場に立ちます」くらいの大上段はふるってほしいものだ。本増田はその権利を守る。
続き
4.それに対する反応
仮にもジェンダー研究で大学教授のポストにある人が、
「私はLGBTは気持ち悪いと思う。しかし、あなたがそのように在る権利は命をかけても守ろう」
「私は殺人は気持ち悪いと思う。しかしあなたがそうする権利は命をかけて守ろう」を等価の命題として捉える程度の人権感覚と論理力ではまずいでしょう。 https://t.co/S5QhRe53Uv— 山口貴士 aka無駄に感じが悪いヤマベン (@otakulawyer) 2018年9月16日
一応解説しておくと
「殺人を気持ち悪いと思う権利」→内心の自由
「殺人を小説に書く権利」→表現の自由
「殺人をする権利」→そんな自由はない。牟田先生しかそんなことを言っていないし、それをラノベやLGTBと置き換え可能にするの大丈夫??— 白饅頭(光属性・バーチャルツイッタラー) (@terrakei07) 2018年9月16日
5.これらを見たわたしの所感
コミュニケーションが失敗していて、また無駄に煽りあっている。
白饅頭(光属性・バーチャルツイッタラー)氏の解説が、青識亜論氏たちの受けとり方としてわかりやすい。
一方、意見を発した側の牟田和恵氏の意図はそうじゃないとわたしには読める。
牟田和恵氏は、
そもそも、ラノベ表紙の「表現の自由」を主張とLGBTに対する生存権を置き換え可能な概念ではないという想定を持っている。
だから殺人を行なう自由をそこに加え、置き換え可能ではない殺人を行なう自由を並べるくらい無意味なことだよ、と皮肉ろうとした。
その原因のひとつは、
牟田和恵氏が「殺人を小説に書く権利」を加えてしまったことだろう。
「殺人を小説に書く権利」は別に普通だし推理小説書くたび捕まってたらたまらない、と皆、思うからである。
一方、ラノベ表紙の「表現の自由」を主張とLGBTに対する生存権を置き換え可能な概念という想定を持っている青識亜論氏らは、そもそもその想定を疑うことができない。
だから牟田和恵氏の「そもそも、ラノベ表紙の「表現の自由」を主張とLGBTに対する生存権を置き換え可能な概念ではない」という主張が伝わらず、
何言ってんだおまえ……的な反応になる。
ここで脱力したり、伝わらないことに腹をたてたりせず、自分が「殺人を小説に書く権利」という不要な例を挙げてしまったことを詫びて、対話を続けるのが最善。
ラノベ表紙の「表現の自由」を主張とLGBTに対する生存権を置き換え可能な概念ではない、は正しい。
それを、白饅頭(光属性・バーチャルツイッタラー)氏の先ほど引用したのと同じTweetが説明の仕方を示してくれている。とてもわかりやすい。
でもそこになぜ、LGBTを入れてくれなかったんだろ。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20180910/1536574144
「地方の豊かな自然に親しむ子育て」って地方で子育てをするメリットとして語られるわけなんだけど、それってなんか有意の統計的な結果として現れてるものなのかなあ。たとえば、地方の方が都心部よりもいじめの発生率が低いとか、不登校が少ないとか、刑事事件が少ないとか。
寡聞にしてそういう統計を見たことはないのだけれど、印象論で言えば「豊かな自然に囲まれた子育て」って、彼らが喧伝するような「精神的な豊かさ」に、全く寄与してないように感じてる。マイナスの影響があるとまでは言わないけれど、いじめなんてどこでも同じように起きてるんじゃないかなあ。
「豊かな自然の中で子供を育てたい」って、それってたとえば「子供にピアノを習わせたい」なんかと似たような、ある種の親のエゴであって、きつい言い方で言えば、「親が他人にアピールしたいライフスタイルの小道具として子供を利用しているだけ」ってのはあるのじゃないか。もちろんそれはアーバンライフでタワーマンションで子育てをしたいってのも、全く同じような意味で、「田舎暮らし」とは別種の「アーバンライフ」っていうスタイルの誇示にすぎないわけだけど、だからこそその両者は、「そんなもの子供にしてみればどの親のもとに生まれるのか選択できないように、結局は生まれた親の趣味で育成される以外にない」という意味で等価でしょう。
なんかこう、最近の少子化につながる息苦しさの一端は、「子供を幸福に導かなければならない」「その意識がない親は害悪である」みたいな強迫観念にあると思うのだよね。いやあ、もちろん、親になったからには子供の幸せを願うし努力もするんだろうけれどさ、一方でその努力ってのはいつもどこか空回りで一方的であり、小児教育ってのは洗脳とほぼ同義であるってのは忘れちゃいけないと思うんだよ。
もちろん虐待はゆるされないわけだけど、じゃあどこまで子供に尽くせば合格なのか? みたいな競争を始めると、際限なく子育てのハードルが上がっていってしまう(そして実際自分でハードルを上げすぎて自滅して病んでしまう親もいる)。今回の件で言えば「子供を育てるために田舎に(あるいは都会に)引っ越すべきなのか?」みたいなのがそれ。正解を定義するってのは同時に正解以外、つまりは不正解を定義するに等しい。そこまでハードルを上げれば、ほとんどすべての親が失格になってしまわないかな。そして今生きてる殆どの日本人が「失敗した教育や環境で製造された人間」になってしまわないかなあ。
ネグレクト推奨という意味ではなくて、子供って(つまり人間という存在って)結局自分でかってに幸せになっていく生き物だよ。周囲の教育環境をキョロキョロ見回して、自分たちを減点主義で採点し、劣等感やら罪悪感をこじらせて結局子供にあたってしまう前に、「まあこんくらいでいいだろう」みたいな落とし所みつけるのが重要だと思う。