はてなキーワード: 等価とは
キャリア=金は無いと生きて行けないけど、出産しなくても生きて行けるので等価じゃないよ。
そこで出産を優先しろという時点で、女性の人生などどうでもいい後で失業して食い詰めようがどうでもいいからとにかく産めよ増やせよと言いたい層だけ。
悪者にしたらそりゃあダメだけど、ならそれは、高齢出産を非推奨するコメントを出す、とかとは区別しないとだめだわ。
キャリアの話も出産年齢の話も現実の話であるという意味で等価だ。
まぁアレ、塩素濃度が0.1ppmを超えない様に塩素ガスを噴霧する装置と大体等価なわけだから、呼吸器被害を心配する声はもっともなんだけれども、基準の0.1ppmが守られている限りは、それ程深刻な健康被害は無いだろうと思われる。 今慌てて導入している所は脱臭・防臭などの効果はどうでも良くて「コロナ対策してます」というエクスキューズのために入れてるだろうから、臭いが消えなくても文句はないだろうしね。
そもそもメーカーでは「健康被害のない濃度でも除菌効果を確認してます」と、実験データー付きで主張してるので、あまり「健康被害を生じない濃度なら、除菌に対して全然意味がない!」との決めつけに対抗してメーカが訴訟に出たとしても、それを濫訴とは言えないんじゃないかなとも思うんだよな。
YES,New generation Optimizer STL/C++ Level Code Optimizer.I think too. you can!
X86以前のコードレベルで自動的にコード最適化をかけた後にX86最適化を行う。このさいに文法的な最適化ではなくX86が最速になるようにCのコードを並び替える。
これはたしかに新時代のオプティマイザーなんだろう。だれが発案したの?
みんなx86で最適化を考えるがCのレベルで等価なコードであれば並び替えたほうが、さらにX86が最適化されるケースはあり得る。
たとえば、ライナーサーチだと判定できたら、さらに最速なアルゴリズムにCを置き換えることは不可能ではない。
コンパイラがアルゴリズムの最適化まで許可された場合 Pythonなどで培われた技術を使ってアルゴリズムコード最適化をしてCのコードをアルゴリズムごと改変してもよく、その後X86最適化を行うことは、次の時代にはふさわしいと私は思う。
例:ライナーサーチをもっとはやいサーチアルゴリズムに、このC言語のコードはライナーサーチだと判別して、コンパイラが自分で関数化した後に、もっとはやいサーチに関数ごと置換する。
その考え方はすごい。
例えば2種類の防具がある。一方は物理防御力重視の鎧A、もう一方は魔法防御力重視の鎧B。
どちらにも長所と短所があり、この時点ではどちらがいいかの判断が難しいとしよう。
ここで鎧Aに軽い追加効果を加える。例えば敵のドロップするお金+3%とか。
するとあら不思議。鎧Aが強くなったはずなのに鎧Bの方が強く見えてくるのである。
これは2つの鎧の総合的な性能が同じであるというプレイヤーからゲームバランスへの信頼があり、
追加効果がプラスされて同じなら、追加効果抜きではBの方が強いはず!という心理が働くためである。
これならばまだいいのだが、この心理は全く理に合わない形で働く場合もある。
あるキャラクターの育成で、A、Bの2つのルートの中からプレイヤーがどちらかひとつを選べるとする。
そのキャラクターには終盤に専用の装備品が用意されていて、これはどちらのルートでも装備できるがAの方が相性が良いとする。
プレイヤーがA、Bのどちらがいいか考える時、専用装備との相性を根拠にAを選んでしまいがちになる。
つまりA、Bが等価であり、そこに専用装備という条件を加えた時にAが上回るからAが良い、という心理である。
しかしA、Bが等価であるというのは、そもそも二つの優劣を考えていたことと矛盾している。
専用装備との相性は実際は根拠のひとつにはなるだろうが、開発は専用装備との相性が悪い分Bを強めに調整するかもしれないのだ。
意識的な政治参加と、無意識的な政治参加がある、という分析はとても良いと思った。
しかし、「無意識的な政治参加があまりに多くなりすぎると政治が悪くなるかもしれない(大意)」という分析を軸にするのは、それ自体は間違いではないが恣意的であると言わざるをえないと考える。
意識的な政治参加の結果として政治が間違うこともあり得る。その二つは分析の上では等価だ。
お前自身も、どんなに勉強しても知り切ったことにはならない、と発言しているし、ならば意識的であることもまた間違いに繋がるであろう。
それに、政府ではなく、僕たちに"意識的な政治参加"をアジテートしてくる側が、だましているかもしれない。
そこのところどう思うのか?
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tl;dr
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前提
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「ある男がパートナーの女の(誤った)発言に対して毎回優しく肯定的に応じたのち、間違いを説明する」というカップルの在り方について、「優しく肯定が入る方が女性側の立場として自信が得られる」という考えについて。
基本的にこの構図がお互いの認識になること自体が mansplaining さがあって嫌なのだけど、それは表題の文脈の下では脇に置いておいて、そこでの選択肢として、{肯定的/否定的}に応じ間違いの説明を{しない/する} という4通りにおいて、{肯定的, する} というのは確かに望ましい。まず、批判と非難の違いが一般に理解されにくいのは、批判の否定的な口上は例えばその場が学問的であるといった「場」があることで信頼が支えられていて初めて機能するので、それ以外の場で批判(正/偽)と非難(善/悪)が混同されることがあるのは、必ずしも混同する側が悪いわけではない(cf. 元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言)。その意味で、プライベートなコミュニケーションにおいて、{肯定的/否定的}というのはニュートラルではなく、肯定的の方が心理的効果として望ましいといえる。また、毎回間違いの説明をすることは、毎回間違っているということに気づかされることになり自信を喪失しうるが、指摘しないままにパターナリスティックに傷つきやすさにのみ配慮して放置することは相手が反論したり、追加情報を提示したりといったことを通して「相手の方が正しかった」という可能性に賭けないということであり、他者としての尊重に欠けるばかりか、相手の成長の機会をも奪うことになる。ただ、陰謀論的だったりオカルト的だったりといった特定のバイアスを含む情報ばかり拾ってくることは、一朝一夕で改善するものではない。そうならないためには相応の努力と知識が必要なのであって、場合によっては、ずっと同じ構図を繰り返しその構図がお互いの認識になるということが生じてしまうかもしれない。そのどうしようもないギャップを、他の側面で補うことで相互の尊敬を維持できるならば、これは問題として前景化しないかも。でも、その切り分けをせずに、繰り返し続けている誤りについて、口上のオブラートでごまかしたとしても、少なくともそれは知的自信の向上までにはつながらない。自信を支える相応の能力や実践、もしくは基礎的な肯定感が必要である。
ここで、「もしくは」になるのは、「自信」の性質に拠る。(上のような話をしておいてリテラシー低めの引用をするのは気が引けるが、読みやすさを重視して、参考: https://diamond.jp/articles/-/78423?page=4 )自信を得るのに能力や実績が有効ではあるが、能力や実績がなくても自信が得られないわけではない。生来の自己肯定感などによってそれは変わる。逆に言えば、そこが低いと、小手先で何をしたところで、自信は低いままにもなる。病的であれば、薬によって脳内神経伝達物質のバランスの改善を図るということも視野に入れるべきである。しかし、そこまででないならば、「他の側面で補うことで相互の尊敬を維持」という意味で「愛されている」という実感による基本的な肯定感の向上などが有効でありうる。逆に言うと、自分を愛さない人間と一緒にいることは、自己肯定感の側面からかなり危ない行為であることに留意したほうがいい。ここで、愛も、条件付きの愛とそうでないものがあるが、条件を、性的なものや、ある1つの能力的なもののように一側面の条件に頼っていると、それは脆弱になる(というかそれは愛ではないと思うが)。条件付きであっても、それは、条件と等価以上に為されるものであることで(cf. 信頼と信用の関係、『信頼の構造』を想定しているけど、アドラーでもなんでも同じようなこと言ってる) 肯定感を支える愛になりうる。
少し話をもどして、プライベートなコミュニケーションにおいてそもそも正しいことが必要かどうかというのも一考の余地はある。例えば、「今日は空が赤いねぇ、不吉な感じすらするねぇ」という言葉に対して、「空は予言能力はない」なんて返したら、その返しすらギャグである場合を除いて、「科学的に正しいこと」に重きを置きすぎていると言われてもしょうがないだろう。いつもいつも科学的な正しさを持ち込むべきではない。一方で、「〇〇という薬が効くそうだよ!」という言葉に対して、「それは××という危険性が指摘されていて安易に飲むべきではない」と応じることは、プライベートの場面であるとはいえ、いやむしろ、服薬するという最も実践的な場であるからこそ、科学的正しさが適切に活かされなければならない場面である。政治的な発言については、例えば「#検察庁法改正案に抗議します」とだけ呟いた芸能人に対して「なんも分かってないだろ」といったクソリプが相次いだけれども(それ自体は具体的ではない発言に具体的ではない形で具体的発言のなさをなじっていて全くクソリプでしかないと思う)、そこで立法の背景の正当性についてどう思うかと問うこと自体は(数の暴力を伴わなければ)議論を深めるために民主主義的には望ましいコミュニケーションである。それがTwitterのようなパブリックな場ではなく、プライベートなコミュニケーションにおいても同じく妥当する。ただ、政治的な話をすることというのは、それ自体が嫌がられるし、議論となるともっとそうだ。特段の配慮が必要でもある。学問的な話なら、それが宇宙人の存在についてであってすら、正しさはむしろ娯楽のために重要である。それが(学問ではなく通俗的な意味での)文学的な話ではないと相互了解があった上ではあるが。つまり、「タコ型の宇宙人って歩きにくくない?」から始まる会話は科学的正しさによって楽しもうという意思は見られないので、それはまるで漫才の相方のように応じればよいのである。{正/偽}をコードとしない意外と多くの場面でも正しさというのは実用的にも楽しさの面でも重要なのであり、それが、「知的レベルが合っていないと楽しくない」というのがよく言われる原因でもある。もちろん、賢いなら相手に合わせることもできるのだが、それは冒頭の話に戻る。そのパターナリスティックな対応は、相手を尊重しているのですか、と。
いや、女に、つまり人類の半分に参政権を与えないのはもう無理だと思うんだよな。だって銃に筋力関係ない。工場労働にもパソコン仕事にも関係ない。家電と巨大物流があるから家事に専念させる意義も薄い。そういう意味で民主主義と男女同権ってのは、情報化と同じように、技術発展がもたらした必然だと思うわけ。
生ませた社会が勝つっていうのは、当面その通りだと思う。でもそれをひっくり返すのがA Iなので、そこまで凌ごうって話。
ていうかこれは今思いついたけど、無理やり生ませるような社会を継続させていく、っていう非西欧的な作戦を採用するのも、移民と同様に、一時凌ぎの一種なんだろう。その点で、移民を入れることと女に無理やり生ませることは等価だ。
https://twitter.com/itoi_shigesato/status/1248078798798483457
https://twitter.com/itoi_shigesato/status/1248079489684267008
ttps://www.ongakunojouhou.com/entry/2020/04/11/185446
mi_ki_ri 糸井さんのツイに反応したものとしてこのエントリは受け止める必要があると思うが、彼は続きに「責めるな。じぶんのことをしろ」と書いておりこれを批判をするなと言う意味に取るのは仕方ないのでは / 2階も
aa_R_waiwai id:mi_ki_ri そうやって「僕たち悪くないもん」「紛らわしいコクミンが悪いんだもん」「自民党支持者が悪いんだもん」を続けてきた結果が「リベラルの敗北」なんだろうな。 政治
2F
mi_ki_ri id:aa_R_waiwai リベラルが勝とうが負けようがあまり興味ないな。そして批判しながら協力することも可能だろう。ゼロイチじゃない。で「責めるな」と「批判するな」はどう違うの?
2Fは現時点で返答なし
厳密に言えば時間という有限のリソースを批判に分けるか、自粛に分けるかという選択になる場合もあるかもしれない。
でも、だいたいの人は批判しながら自粛もすることができる程度のリソースの持ち主じゃないか?
批判するより自粛その他に神経を注げというのは、分からないでも無いが、
両立も可能な内容なんだから、対立するかのように挙げることに違和感を感じる。
政治的な意図があると確定していないのに、政治的な意図でツイートしたと邪推されているという主張が展開されている。
でも糸井さんのツイートを見てほしい。糸井さんが辛いのは一般的に誰かが誰かを責め立てていることであり、
政治批判も(糸井さんの意図がどの程度であれ)そこには含まれる。
「主語がない」言論は「主語がでかい」言論と同様、射程範囲が広すぎる。
意図せずかもしれないが、糸井さんのツイートには十分に政治批判を制限する「機能」があったと思われる。
引用は1番目だけで、2番めに含まれている「批判を制限する」部分を認識していないように見える。
俺がブコメでそこを書いたのも、1番目だけを見て判断されては公平ではないと思ったからである。
「僕たち悪くないもん」「紛らわしいコクミンが悪いんだもん」「自民党支持者が悪いんだもん」といった文章と俺のブコメが等価に扱われているが、
ちょっとショックなんですけど。
まず俺は「このエントリは受け止める必要があると思うが」と限定付きながら責任を負う意思を示している。
会話になっていない。
ブログ主の人が引用していたような誹謗中傷になる書き込みは俺も悪いと思う。
誰かが炎上して意地悪な誰かがひどいことを書くという、まあ見慣れた流れだ。
それをもって誹謗中傷勢の責任までリベラルが負うのはおかしくないか?
はてなブックマークで見るいわゆる「はてサ」の人たちはむしろ嫌いだし
たぶんリベラル側で俺を受け入れてはくれないと思う…
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2020/03/21/072217
はじめにいっておくが、私もワニの拙速な売らんかな主義は気に入らない。それはおそらく「お人形だと思っていた異性に性器が生えていた」ショックと似たようなもので、私の気質以上の理由はないのだと思う。
そういう意味では
そこで「金」と答えられるのは、私の価値観では嫌だ
には同意する。
だがそこ以外はすべて同意できない。
私は物語の力を信じている。フィクションが人を支え、鼓舞し、規範となり、揺さぶり、人生に決定的な何かをもたらす効力があると本気で考えている。
この言葉に嘘はないのだろう。
そして嘘がないゆえに過っている。
キャラクター(の死)を現実の人間(の死)と等価に扱うのは内心の自由であり、それはいい。
ならばなぜ、「キャラクターを現実の人間のように思いやること」をやれているのに「現実の人間そのものを思いやること」はできないのだろう。
作者はワニが死のうがなんだろうが何ら痛みを感じておらず、飯の種、名声へのステップくらいにしか思っていないでしょう、そこがもうヘドが出るくらい嫌だ。
恐れながらきくち先生がそのような趣旨の発言をどこかでなさったのでしょうか。きくち先生にしろ「広告代理店の連中」にしろ「要はフィクションを信じていない、フィクションによって支えられていない人間」だとする根拠は?
むしろ、フィクションを信じていないとああいう物語を100篇描いて毎日投稿するなどできないのでは? 人の人生は物語ではないし、それをやさしく見守る読者のような天使も実在しない。読者の反応を受けとめつつ、テーマにそった物語を書く。それも命に関係にする話を。それはまさに「フィクションを信じる」以外のなにものであるだろうか。
「広告代理店の連中」に関しての不信感は正直共感する。だが、世間に流布しているイメージそのままに彼らを悪魔化することはすなわち「現実の人間をフィクションのキャラクターのように扱っている」ことにならないだろうか。
フィクションのキャラクターは世間でのイメージと実際に接したときのイメージが一致する(というか、それらの差がない)。しかし実際の人間はそのシンプルな原理がなかなか通用しない。
特に「職業的なイメージ」で語られるときほど実際とズレることはない。
なぜ現実の人間には内心や人格がないと思いこんでいるのだろうか? フィクションと現実の区別がついていないから?
作者が、自らがクリエイションしたキャラクターに思い入れ、その死と向き合い、自然と湧き上がってくる弔意とのバランスを取りながら物語を紡いでいるのが伝わってくるのなら私はすごく共感
繰り返しになるが、作者が「自らがクリエイションしたキャラクターに思い入れ、その死と向き合い、自然と湧き上がってくる弔意とのバランスを取りながら物語を紡いで」いないとなぜ断言できるのか。
100日目の「死者への敬意のない」扱いを見ればわかる?
それはあくまで外形的に現れる事象を見てあなたが”そう”感じたにすぎない。
描かき方が下手、売出し方が下手、それらはすべて技術の問題だ。
なぜ他人のせいにするんだろう。
単に「起こっている現象が気に食わない」なら、それが気に入らない自分と向き合えばいいだけだ。なのに、いや作者が公式が人格的に最悪だからという問題に持っていってしまう。
クレーマー気質のオタクにありがちなのだが、起こっている出来事から勝手に作者(芸能人とかでもいいよ)のお気持ちを推測して、その自分が作り出した仮想のお気持ちをあたかも現実のように捉えて勝手に涙したり怒ったりする。
なんなんだ。
怖いよ。
言語化にこだわるあまり、人間として捉えるべきはずの対象を悪魔に変えてしまう。
なんでも殺せるようになるから。
蛇足。
トーチとか毎日開いているリイド社の熱心なフォロワー諸君なら、きくち先生がその才気に比していかに不遇をかこってきたかはおわかりのことと思う。
私は『スーパーどうぶつ―ズ』がミリもおもしろいと思ったことはないけれど、ああいう誰もベットしないようなポジションから有馬記念の一番人気にハネあがったのは、なんだかいいなあと思います。
それもまた物語ではないですか。