はてなキーワード: 神木隆之介とは
入りきらなかった題名
『昔好きだった男の子が見事に「アベガー」になっていて百年の恋も冷めた話』
題名の通り。昔好きだった男の子が、「アベガー」になっていた。それを知ったのは2、3年前の話だけど、今日安倍総理が辞任されるという話を聞いて色々と思い出したので書こうと思う。
政治の話がしたい人には申し訳ないが、ここからしばらくは私の恋話に付き合っていただきたい。ウヨもサヨも、野党も与党も安倍総理も、全く関係がない。
長い前置きで悪いね。でも言っておきたい。私は彼のことを責めているのではない。私は結構自分勝手な人間だったってことを自覚したと同時に、世の中の残酷さを味わったという、ただそれだけの話。
昔、というのは私が中学生の頃のこと。現在の私は社会人1年目。社会の荒波に揉まれながら毎日頑張っている。
これは、私が中学2年生だった頃から23歳を目前に控えた今日までずっと消化しきれなかった、小さな恋の話である。
中学2年生のとき、好きな人ができた。彼の名前は"リュウ"としよう。クラスメイトが時々彼は神木隆之介さんに似ていると言っていたからだ。リュウは賢く、明るく、優しく、運動も得意で、先生にも好かれている、常にカーストのてっぺんに立っているような人だった。対する私は、良く言えば大人しく、悪く言えば地味な眼鏡っ子。勉強はそこそこ、運動は苦手、国語の先生には好かれて体育の先生には嫌われるようなタイプだった。
リュウは私のような人にも優しかった。人見知りの私は初対面の人間の大半が苦手だが、不思議と彼を苦手だと思ったことはなかった。初めて隣の席になったときなんて、もう毎日が夢のようだった。教科書見せて、これどうやって解くの、今日朝練やってたね…少しずつ、少しずつ、私たちは"ただのクラスメイト"から"友達"になっていった。
友達になった私たちは、あっという間に仲良くなった。(私は人見知りだが彼のことが大好きだったから、どうしてもこのチャンスを逃したくなくて必死だったのだ。)ノートの切れ端で手紙を交換して、授業中に目が合えば小さく手を振られて、休み時間はよく2人で頭を突き合わせて数学の問題を解いていた。
私は彼のことがずっと好きだった。今でも覚えている。中学3年生のある日、彼はこう言った。
もちろん答えはイエス。隣の席になったときよりも、もっと夢みたいだった。
で、まぁよくある話だけど、幸せな時間は長くは続かないんだよね。夢みたいに幸せな私が、彼と恋人でいられたのはたったの半年だった。公立中学校の3年生には、受験というものがあるからだ。ありがちな展開で申し訳ないが、私たちは進学を機に別れてしまった。より正確に言えば、私は彼に振られたのだ。
大半の大人から見れば、中学生の恋愛なんて所詮はオママゴト。中学校より高校、高校より大学、大学より社会人になってからの恋愛の方がより真剣で、大事なものだと思っている人も多いんじゃないかな。でも、私にとってあの時の恋は本当に真剣で大切で、今でも忘れられない出来事だった。
話は変わるが、私が初めてスマートフォンを手にしたのは高校に入学したときのことだ。スマートフォンを手に入れた女子高生がすることといえば?
…そう、SNSだ。私はTwitterアカウントを手に入れた。(Instagramを始めたのはもっと後の話だ。)
始めたばかりのTwitterアカウント、それもリア垢でフォローするのは誰?
…そう、リアルの友達だ。私は友人たちを探してフォローしたし、彼女らも私をフォローした。そうやっていつの間にか広まって、私のフォロワー欄には同じ中学校や高校の人たちが並んだ。
その中にリュウがいた。恋人になる前の私とリュウは気の合う友達だったし、趣味も話もよく合った。SNSでも、滅多にリプライなんてしないしされないが、それでも私たちは時々、本当に時々、ネットの世界で顔を合わせるようになった。
まだ私は彼のことが好きだった。あの時だって、「面倒な女」「聞き分けの悪い女」になりたくなくて、別れ話にも納得したフリをしただけだった。必死で忘れようとして、本当に忘れた時もあったけど、やっぱり好きだった。多分ずっと好きなんだと思う。
ストーカーだと思われたくないから、今までの話は誰にも言ったことがないし、行動を起こしたこともない。私は彼にLINEの一件すら送ったことがない。
私の激情もだいぶ落ち着いて、大学生になったある日。リュウのTwitterをたまたま見てしまった。いや、わざわざ彼のアカウントを見に行ってしまったのだ。友達に彼氏ができたって聞いて、私はやっぱり彼のことを思い出してしまったから。
高校生の頃は確かにあったはずの、彼の好きなスポーツや音楽、部活にゲームに本や漫画の話題は全て消えていた。真っ白なタイムライン。タップしてリプライ欄。メディア欄。空っぽ。
どうしたのだろうかと考えながら、またタップ。いいね欄。私はここで2度目の失恋をした。
「安倍晋三は総理大臣としての責任を果たしてさっさと辞職するべき。」「アベはこの問題について一体どう考えているのか。逃げていないで説明しろ!」「アベは国民をバカにしている!」「アベが」「アベが」…。
どうしたというのだろう。何故彼のいいね欄は政治の話…それも所謂「アベガー」ばかり。
リュウは優しい人だった。自分も努力家で、同じく頑張る人を見捨てられない、優しい人だった。
間違っても、誰かを口汚く罵倒するような人ではなかった。
なのに、どうして?
私の恋心ゆえに、記憶の中のリュウがかなり美化されていることは分かっている。(クラスメイトよ、リュウが神木隆之介似というのは流石に言い過ぎだと思う。)
でも、優しくて賢くて、誰かに手を差し伸べることはあっても、誰かを攻撃するような人ではなかったことは紛れもない事実だ。
何がどうしてこうなったんだろう。リュウが私の理想通りにならなかったことに怒ってるんじゃない。絶対に言い返さない、言い返せない人に向かって、安全圏からこそこそ口汚い言葉を使うような人に共感しているなんて、ショックだった。
直して欲しいとは思わない。誰が何を考えていようと自由だからだ。彼は自分が共感した意見にいいねを押して、私は勝手にショックを受けた。ただそれだけの話。
私は懲りずに彼のアカウントを見に行った。凍結されていた。
恋って一体何なんだろう。
どこに出すのが適切なのかもわからず、オタクポエムを書いても許されるだろうと増田を選びました。
未だに何が起きているのかよくわからず、とりあえず自分が落ち着く為に書いてます。
なので彼の事がとても好きだった方、好きな方、何の配慮もしていないので気分を害されたらすみません。
以降自分語りと共にその俳優さんの名前とかバンバン出していくのでやべーなと思ったら相応の所に相談するとかしてくださいね。今はメールとかでも相談できるそうで、知らないところで行政も頑張ってるんだなぁって思いました。
0570-064-556
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000188968.html
それまで各の話題で溢れていた土曜昼過ぎのtwitterTLが、ある一瞬を境に「三浦くん?」などと言った彼の名だけのツイート一色になりました。
最初は「お、結婚した?」とも思ったのですが、どうもそのような感じのツイートではない。いくつかまじる「嘘でしょ」という呟きに何かが起きたというのはわかりました。
「コロナになったとかかなぁ…重篤化しないといいなぁ」なんて暢気にニュースを検索し、件の速報を知りました。
一番に目に入ったのはそんな感じのニュース速報を携帯で撮影した画像でした。
いやいやいや、ドラマ上の演出か何かにしても趣味が悪いしご時世的にも冗談きついってか自殺って何。一瞬にして脳内をいろんな物がかけめぐり、最初に口をついたのが「へぇ」という感嘆でした。そして、近くに居た友人に「三浦春馬が死んだって」と言うのが精一杯でした。
タイトルでは「推し」としていますが、他の方と比べると私はそんなに彼を推していない側の人間だと思います。
常に一番熱量を持って応援してきた訳ではないし、彼が出るテレビ番組を全てみていた訳でも無い。現場も数度しか行った事はなく、ただ何かを選択する時に彼がいる事がファクターになる、という程度の推しでした。
出演している映画は可能な限り劇場に足を運んで鑑賞し、ドラマも出演している物は見る。その程度のどこにでもいる彼のファンです。
順位をつけるのだとしたら、安定して私の中で五番目くらいの位置にいる。それが私の彼への熱量でした。
実際のところ、私が彼を意識し始めたのは10年ほど前で、正確に推し始めたのは8年ほど前からでしょうか。
彼が所属していた事務所の若手プロジェクトに降れ、そこで改めて彼のお芝居や個としてのポテンシャルに触れ自然と目で追うようになり、そして推していくようになりました。
地方のド田舎在住だったのと、職業上のタイミングが掴めなかったという事もあり彼の現場に行けたのは片手で充分な程です。2018年のAAA、そして2月にあった2020年のハンサムライブ。
正直後者については棚からぼた餅とでもいうような、本当に予期していない出会いだったのであの演出と共に三浦春馬の文字を見た時現場で「なんで!?」と絶叫したのは昨日の事のように覚えています。
キンキーは行きたいなぁと思ったまま、気付けばチケットが買えずかつ仕事で行く事ができず見れないままでした。言い訳でしかないんですが。海盗セブンも、五右衛門ロックも。
私は2012年のハンサムライブに魂を未だに囚われていて、当時地元の映画館で見たライブビューイングでの彼が未だに忘れられないでいます。ラブファントム~truth~ホワセレが嫌いなオタクなんているのか????
2013のミュージカル、銀髪の神木君は国宝なのでなんで円盤にならなかったのかと管を巻いたり2014はまさかの壮ちゃんがインフルになって壇上で唐突にイチゴを食べる賀来先輩をアリーナで見たりとか2016はまっしまの壁でゲラゲラ笑ってたら神木君とお亮のキスシーンを見せられて混乱したりとか。
(フィルフェスは仕事の都合で行けなかったし宗教上の理由で未だにパッケージ開けられてない)
でもそこに春馬はいなくて、でも春馬がみんなと作り出した物はあって、毎回春馬達を思いながら楽しんでました。
2018年のAAAでゲスト参加したハンサム達と一緒に楽しそうに踊る春馬を見て感情がぐちゃぐちゃになって友達と2013年が来た!って連呼したり2020ハンサムで手を伸ばせば触れられる距離で春馬を見て言語野崩壊してうめく事しかできなかったりとか、ほんと昨日みたいに思い出せる。
しかも一昨日は2012年ハンサムの劇場+配信公開があって、それ見に行ってて当時のみんなで模索して今は一つの文化になった根っこの公演を見て、あんなに魂を奪われ続けているラブファントムをまた見る事ができて、そんな中で今回の報道で。
なんだかなぁ…。2012のエンドロールが春の華で2020の記憶と2012のカットが入り交じって、それまで積み上げていたハンサム(アミューズ)への情緒がぐちゃぐちゃにされてて、それでこれなので、本当に「なんなんだろうなぁ」という感じです。
ハンサムメンバーとか、彼との共演をした事がある人達のツイートや、ストーリーとかを見て、報道されている「三浦春馬」は私の知っている「三浦春馬」なのかなぁとじわじわ考えたりとかしてます。
まぁ事務所から公式な告知が出たので、その「三浦春馬」なのだというのは紛れもない事実なんですが。
正直な話「なんで」とか「どうして」とかは一切なく、最初に口から出た「そっか」という言葉以上の感情が私にはありません。
それは現実を受け入れていないのかもしれないし、未だに認められていないのかもしれないんですけれど、でも彼の死を、そのタイミングを受け入れています。受け入れているつもりです。
元々彼は昔から、いつかふっと消えてしまうような危うさを感じていて、友人とは「桜に攫われるのは三浦春馬、桜を惑わすのは神木隆之介、桜ごと受け入れるのは佐藤健」みたいな話をしていた事もあります。
どこかの番組で、ある日ふと1日だけ彼女の事を考えない日ができて、その日に彼女と別れた(=結局自分に自信がなかった)というようなエピソードを語っていた事もあり、切っ掛けがあれば、タイミングさえ合ってしまえば、どんな状況であれ今回のような選択をする可能性がある事のではないかなと思っていたのも理由にあるのかもしれません。
結局私はオタクで、推しが選んだ道については全てを肯定する事しかできず(よほどの犯罪だとかだとまた話は別ですが…)今回の件についても彼が選んだ結果がこれなんだとしたら「そっか」としか言う事ができませんしこれ以上の感想がありません。
そりゃ個人的にはこれから同じように年を重ねて、どんどんお芝居に深みが出てくるのを見たかったですし、いつか彼が結婚する事があれば所帯を持ったという事を喜び、彼が愛した人を共に愛したいと思っていたし、子供ができたら彼が望んだ子の未来を愛したかったです。
そんな、そんなあり得たかもしれない未来とも、今後見れる筈だった彼のあの繊細で、でも頑固なお芝居が新しい作品で見る事ができないのはとても悔しいですけども、だからといって「なんで死んだのだ」とか「どうして死んだのか」なんて事は考えてなくて。
彼が私にくれた「楽しい」とかはずっと忘れないでいたいし忘れることはないんだと思います。
実際それに砂をかけられた訳ではないし、これからも私は彼を好きでこれまでの彼を見て「楽しそうだなぁ」と思い続けるんだと思います。
とりあえず今日は酒を飲みながら、ひたすら彼について、彼が私にくれた作品を見ながら彼がくれた「楽しい」とか「好き」を追いたいと思ってます。
まだご冥福を~とか、ゆっくり休んで…なんて事は言えないんですが、言えるようになったらまたアルコール片手に増田で管を巻かせてください。
30年とちょっと、私が彼を知ってから10年ほど、お疲れ様でした。
好きをくれて、応援させてくれて、ありがとうございます。
と言っても今までの人生で歳上の彼氏はいたし、歳上の俺とも結婚した訳だが(俺の精神的な部分にショタ要素を見出したらしい)
だけど今でも妖怪大戦争を観て12歳の頃の神木隆之介くんに性的にハァハァしてるし、たまに保育園や幼稚園の側を通りがかるとタマラン萌えると言ってる。
性的に誑かしたいとも発言してるし、その他ここで書けない事諸々。
他にもサディストなので男の人を拷問したり苦しめる描写に興奮もしてる。
でも、本人は犯罪おかさずに世の中で一般人やれるよう頑張ってるし、俺も妻に罪は一切無いと思うのよ。
表に出して人に迷惑をかけない限りね。
【追記】
これってツリーにぶら下げても本人だと解らないんだね。ごめんなさい。
下記にコピペ貼るけど、
なんか勝手に「夫は妻の事を全部理解できてるか論争」が始まってるけど、そういう論争にはあんま興味ない。
俺が妻の事を誰よりも理解してるなんて思っちゃいないんだけど、「性癖がガチなのかファッションなのか」くらいは俺にも判るよ。
俺が妻の性癖について「こうだ」と語ってるのは思い込みではなくて、ここに書いてないエビデンスが沢山あって(憚られるので書かないが)、
今まで我々夫婦がお互いの性的嗜好について明文化して散々話し合ってきたからなんだけどね。
特殊性癖の人間同士で結婚すると、自分の性的嗜好を相手に正確に理解してもらわないと地雷を踏み抜いて大喧嘩に発展するから、話し合わざるを得ないんだよね。
(逆に、ひた隠しにして我慢して夫婦続けるパターンもあると思うし、いろんな夫婦がいるんだと思うけど。)
男と女は分かり合えるとか合えないとか、そんな話してないんだよなぁ。
妻の口から実際に聞いた事しかここには書いてないし、「一緒に暮らしてる俺が一番良く知ってる」って書いたのは、今までセックスの仕方で細かな所まで、あれは嫌だこれが良いなど、夫婦間で離婚寸前のガチ喧嘩を何度もしながら方向性の擦り合わせをしてきた経緯があるから。
「夫と妻は解り合えるかどうか」については、家によって物凄く差があるんでないの。
俺だって妻のことは生理的には理解できないけれど、こと性嗜好に関してはお互い擦り合わせをしないとそもそも夫婦の営みが成り立たないでしょ。
それから「奥さんが苦しんでるように見えない」のは、当人が自分の欲求と向き合って現実と折り合いつけながら前向きに生きてるからって事にしといてくれ。
小児性愛=男性 、という図式ばかりフィーチャーされがちだが、実は小児性愛の問題は男性に限ったものではない。
むしろ、隠れた小児性愛の問題は「女性」の側にこそ潜んでいる。
男性が若いアイドルばかり追いかけまわしていると思っているようだが、実は女性もまた、若い男性アイドルを追いかけまわしている。
例を挙げると、ジャニーズJr、神木隆之介、羽生結弦・・・etc (実際にはキリがない、というのもこの世には「男児」の水着イメージDVDなるものもあるからだ。)
彼らがまだうぶな少年だったあの頃、あのあどけない笑顔を性欲丸出しでおっかけていたおばさん達の表情を自分を決して忘れない。自分の息子を見つめる母親のような顔で彼らを応援するが、常識的に考えて"赤の他人"であるはずの男児にあんなに大挙して群がるはずがない。あの頃の自分は詰めが甘かった。
なぜ将棋の藤井聡太に若き日の羽生結弦ほど女性ファンが集まらないのだろう。単に将棋に興味がないだけだと思っていたが、しかし奴らはフィギュアスケートのルールすらほとんど知らないのだ。(もちろんマナーも)
はなはだ疑問である。
彼女たちは自分の汚らわしい性欲に過ぎないものを、まるで母性であるかのように"正当化"するのだ。
そういえばこの間も、ある成人女性が小学生男子との淫行で逮捕された事件があったが、普通に考えてあれは立派な"虐待"だ。
アホなネット民たちは「うらやまけしからん」などと笑い話で済ませていたが、本来ものの分別のない小学生に性行為を強要した場合、精神医学的に考えてどんな傷害(トラウマ)を残すかわかったもんじゃない。
世の中には一定数の"ショタコン"女がいるわけだが、もし自分に小さい息子がいたとして、そんな奴らが大勢いる保育園に子供を預けるわけにはいかない。ここは安全な男性に預けたいところだが、どういうわけかどの保育園も潜在的ショタコン欲求を持つ女性の保育士ばかりが大勢を占め、未だ男性は排除される流れになっている。(われわれは一体どこに愛する息子を預けたらいいんだ!)
自分は昔、母親と風呂に入っていた時に、母親にペニスを触られたことがある。あの時の母親はただ笑っていたが、今考えると鳥肌が立つような不快な体験だった。あれ以来母親を憎悪するようになり、自分は母親を徹底して忌避するようになった。自分はその時のことを誰にも何も言わなかったが、言えば性的虐待の件数としてカウントされたのだろうか?また、同じような経験をした男性は、潜在的にどれほどいるのだろう。性的なものであれ、お受験教育的なものであれ、それは等しく"虐待"ではないのか。
(考えてみれば、母親と恋人関係のような息子がたびたびテレビで報道されるが、あれも考えてみれば母親の"支配下"におかれ、もはや抵抗する気力を失った(無気力な)憐れな息子に違いない)
現実と妄想のつかないのはむしろ女性の方で、彼女たちはむしろ現実の男児に加害をなす恐れがあるのではないか、という問題をここに提起しておく。
「成人男性→幼女」の構図ばかりを心配していたら、気が付いたら女がショタを苦しめていたではないか。
願わくば彼女たちが、主にショタドールなどの現実の人間ではない架空の"物体"や、または腐女子のような高度な妄想技術を磨いてその危険かつ屈折した性欲を日常的に解消してくれればいいのだが……。
(追記)
どうせ興味ないだろうけど自分の子供時代の話をもう少しだけするが、自分は母親のせいで異性との付き合い方が分からなくなったと言っても過言ではない。小学校4年生のとき、女子からバレンタインチョコをもらい、その日母親に隠していたが、いつの間にか鞄を漁ったのかすぐに食卓の上に置かれていた。
中学の卒業式の夜、学ランの第二ボタンがないことを上目遣いのいやらしい目で家の暗い廊下で問い詰められた。
高校生になっても通学の自転車を漕いでいると母親が車で自分を見つけ、「誰と話してたの?」と頓珍漢な詰問にあう。
学校で女子に話しかけられてもどうせ深い付き合いになれないし、女友達になるにしてもそんなものが成立するとも思えない。
しかしこの頃から自分の母親と、学校の女子というものが、同じ「女」であることを強く感じ始める。
同級生の女子もまた、男子という人間に対して同じ女同士の友達とは違う対応を明確にとり始めるわけだが、その下心のようなものがどうも見え透いて自分でもなぜか分からないが拒絶反応が起こり始めた。
どうにも自分の母親と、目の前で気さくに声をかけてくれる女子の猫なで声が頭の中で共鳴し、嫌な思い出を引き出すのだ。
これは一体誰の責任なのだろうか?俺の心の問題なのか?俺の心が女性の侵入を許せばただちに問題は解決して、今頃、子供を作り幸せにやっていたのだろうか?分からない。しかしそんなあっさり心の問題を解決してしまえるような奴が子供を幸せにできるとも思えない。俺の精神の成長を止めたのは誰だ?俺か?俺だけなのか?あいつ(母親)は関係ないのか?猫なで声で接してきた同級生の女子は関係ないのか?じゃあ人間が一人で成長できるなら他人なんか要らないな。相変わらず都会のワンルームアパートで孤独にこんな匿名記事で愚痴を吐き出すしかできない。
ミソジニーなんて言葉があるが、どうせモテない奴の僻みだろなどと世間ではいうが、女性嫌いになるのはいろんなパターンがある。自分の場合はそれだった。一般的なこととして当てはまらない、統計的にマイノリティだ、だからこれとこれは別の話だというのかもしれない。
じゃあフェミニズムって一体何のためにあるんだ?
フェミニズムとは一人一人が固有の体験において様々な問題について打ち明けることのできる思想だったんじゃないのか。
では俺の場合は何に当てはまるのだろうか。俺は男性だ。男性のためのフェミニズムってあるのか?少なくとも自分は知らない。少なくとも多くのフェミニストはそんなものは無いと言うだろう。
自分がもし、女に産まれてきたとしよう。そうすると多分、今度は自分の父親に性的虐待をされていたんじゃないかと思えてくる。多分99%そうだろう。パソコンの履歴に「ロリコン 動画」などと検索するような奴だ。おまけに頭もものすごく悪い。まったく自分は男に産まれてきてよかった。じゃなきゃ今頃、風呂場で体中をまさぐられていたことを、今でも時折思い出しては発狂していただろう。いや、しかしこれも仮定の話に過ぎない。というのもそれを想像している自分はあくまで男だからだ。あんな父親に性的虐待されてる自分なんてゾッとする。多分訴訟沙汰になっていたかもしれない。でもどうだろう、それでも女の子だった場合の自分は、それでも無理やりにでもその時自分は愛情を感じていたのだと心を誤魔化し続けていたのかもしれない。
もしそんな自分がいたとしたら、男がいうところの論理的思考なんてできないまま大人になり、ひょっとするとメンヘラになるか過激なフェミニスト気取るか高いところから飛び降りていたかもしれん。男にモテてもモテなくても多分まともな人間関係が保てなかっただろうな。(この場合父親によって男性嫌いになっていることになっているが、もちろん母親との母娘関係においてまた別の問題が生じ、異性関係に支障をきたしたことだろう。あの母親はそういうやつだ。みんなは俺の両親については何も知らないかもしれないが、俺は"よく知っている"。奴らはそういう人間だ。どうせ互いの見た目(ルッキズム)だけで何も考えず結婚したのだあの馬鹿どもは。)
しかし今現在男である自分にとっての問題は、結局未だ母親によって受けたトラウマが癒せず、女性というものを理解できず、成熟した精神というものの内在しない二次元のアニメキャラにしか興奮できないということだ。
特に幼女のような見た目のキャラか、どっかで献血のポスターになってそうなありえないくらい異常に発達した巨乳の童顔キャラかだ。自分もまた父親とまったく同じ種類の性的快楽を感じているのだろうが、それが自分に向けられた性欲ではなく、男同士で連れションしている感覚で、そこには男同士の明確な暗黙ルールに基づいているためにこいつは全く自分とは別の人間だと安心できるのだ。五感も精神もすべてが何一つこいつに同調しない。
自分がもし、古代ギリシャのスパルタのような男だけの社会で厳しく育てられていたらすべては解決したのだろうか。
昭和の価値観でマッチョでホモソーシャルな奴らと共につるみ、「女なんて適当にあしらって子供だけ産ませときゃいいんだよ」とアドバイスされ、それに付き従い悪く言えば適当だが、良く言えば寛容な心で 結婚→出産 までのコースをサクッと潜り抜け、子供も5人ぐらいサクッと産ませて国家安泰って感じでよかったのだろうか。しかし今は何もかもがセンシティブだ。(コロナでわかったことは、一人の人間の命が昔に比べて遥かに重すぎるということか。)
自分は現実の女に興味がない。本当に電車での痴漢冤罪が怖い。そんなに男が嫌いなら、男の前に姿を現さないでほしい。
願ったりだ。そんな人間も当然のようにいる。しかしそれでももし、男だとか女だとかレッテル貼らずに一人の人間として対等に向き合う覚悟があるのなら、話ぐらいは聞いてやる。そしてそういう奴の言うことは、大抵「もっともだ」と自分は頷くだろう。
全ての問題は、男も女も、異性にしろ同性にしろ互いをモノとしてしか見てないところに原因があるような気がしている。
つまり自分が様々な問題を混同しているように見えるのだろう。確かにそのことについて自分も常に考えている。
しかし被害者とはそういうものだ。論理性などない。自分の感情をまとめることなど自分一人で到底できない。
あらゆる問題を混同したまま巻き込み、感情だけで片付く問題ではもちろんないが、論理だけで片付くとも到底思えない。
また、論理と感情を上手く整理できる人間がいるとも思えない。すべての問題は置き去りにされたまま勝手に次のステージに進む。いつだって冷静なふりをしている人間は次のゲームに乗り遅れる。ここからが心臓でここからが肺だとか、冷静にメスを入れることのできる奴だけが偉ぶって問題を"上"から片付けようとするが、現役のスポーツ選手にとっての実感はどれも等しく見分けがつかないほど連動しているってことだ。皆様は自分こそが上手に魚や牛を捌けるとマウントを取り合っているようだが、今自分のポジションはそのまな板の上の魚や牛で、あなた達が捌こうとしているものは実は"人間"で、そしてそのまな板の上の"人間"は自分なのだ。あなた方は私の身体の中身を知っているようでいて知らない。もちろん私にもわからない。私にわかるものは私が知っているものすべてであり、それを経験しているのは私だけなのだから。当然私はカウンセリングにも行ったし、いろんな人の話も聞いた。しかし結局誰にも共感できない心の構造を持っているのだ。なぜなら「この私」の経験は「この私」だけのものであり、経験していないものとそもそも共感などできないのだから。
だからこそ私は二次元の女の子を性的に愛する。あるいは精神が未熟な「ショタ」や「ロリ」や「犬」や「猫」に同情するし、共感する。
なので自分が男だからという理由だけで「ショタ」の立場だけに立つなどと勝手なミスリーディングはしないでほしい。
「ロリ」の苦しみは「この私」の苦しみだし、「犬」「猫」の苦しみも「この私」の苦しみだ。
ぶっちゃけると、男だろうが女だろうが、ショタだろうがロリだろうが犬だろうが豚だろうが誰が何に性欲を感じるかなんてもはやどうでもいい。等しく等価だ。性欲はただの性欲であって基本的に汚らわしいものだ。
そして現実の生き物に迷惑かけたくないから、自分は二次元に逃げた。
そしていつか大量の幼女ドールと巨乳ドールを専用の部屋に集めて飾ってやる。
白人と黒人の問題にせよ、どこからが白でどこまでが黒か奴らに分かっているとも思えない。
各々が各々の定義を持ち出して、勝手に"冷静に"まとめようとするが、どうせまた数十年後に奴らは同じような原因でデモをするだろう。
そもそも論理性だとか合理性だとか、そんなものが現実にどこまで通用するか、またそのようなものの合意もあるようでいて実は無い。なぜならそんなものは感情的な動物と化してしまったものには理解できないからだ。
ちょっとした軽い気持ちでこの文章を書き始めた自分だったが、結構数稼げたんじゃないかと思う。
君たちはこの文章をちゃんと読んでいるのか?それとも部分的に自分が反応するところにだけ反応しているだけなんじゃないのか?しかし実際のところ、多分そういう読み方しかできないような構造が出来上がっているのだろうなとも思う。
どうやら君たちのいうところ、自分は何らかの「被害者」のようだ。なので言わせてもらうが、自分のような「被害者」は実はどこにでも潜んでおり、たまたま自分が上手く言葉で説明できたに過ぎない。目に見えない自分のことを、どこまで真実を言っているのかわからないかもしれない。しかし今回の黒人のデモにおいて思うのは、発端となった殺害された黒人も、案外"不注意"だったのかもしれん。というのも奴が問題を起こさなければ(例え正しかろうが間違っていようが)このような全米を巻き込んだことにはならず、平穏に暮らし、コロナに対する犠牲者の数をいたずらに増やさなくても済んだのかもしれない。
自分がもし黙って何も投稿せずにいたら、ひょっとすると「ショタ」の問題などそもそもどこにも存在していなかったのかもしれない。
「被害者」は1人もどこにも存在せず、「ロリ」だけが被害を受けていることになっていたかもしれない。などと考えるのはただの自惚れかもしれん。しかし実際会ったことのないやつらに同情されても、結局同情という言葉だけが一人歩きするだけで、自分の情動に何のリアクションも起こさないのだ。この記事はただの自分のメモ帳みたいなものだ。ひょっとすると、本当は何の虐待も受けていなかったのかもしれない。すべては俺の誇大妄想で、あの時の自分の母親は彼女なりに自分に尽くそうと不器用に振る舞っただけだったのかもしれない。戦争体験者の証言もそうだが、いつも当事者の体験が一体どんなものだったか分からない。お前は「被害を受けたのだ」とレッテル貼られても、それでどうしろというのだ。金は動くが心は何も変わらない。
しかし冒頭を読み返すと女を煽ってるような気がする。奴らにも辛い経験が当然あったわけで申し訳ないと思うが、しかしいずれにせよ人間はそれを「乗り越え」ねばならんのだ。(これでまとめた感を作ってみました)
このような追記に追記を重ね、よくわからんただの歪なだけの文章を取り出して、それこそお前の精神構造を表しており、お前という人間の真理(心理)の一側面を表しているだなどとなんと精神科医とかはほざきそうなもんだが、ここまで書いてみて、君たちを鏡のように使ってみても、全然自分という人間がわからない。自分の母親だけが、自分に影響を与えていて、それだけで自分を構成しているとも到底思えない。とはいえ自分は結構いろいろなことも経験してきたからだ。
もともとシャーロックもののドラマが大好きで英ドラマのシャーロックもミス・シャーロックもディーンフジオカのシャーロックも好きだ。推理が楽しい。
大好きな中村倫也が「屍人荘の殺人」でシャーロックとして出るという触れ込みだったので映画が発表されてからとても楽しみだった。
そして観に行った。
びっくりした。
ゾンビ映画だった。
原作は「このミステリーがすごい!」とかいう賞を獲ったらしいのだが、ゾンビ映画なのだ。
死んだ人は生き返るし、残虐なころし方はするし、今まで思い入れがあった人もゾンビになったからといってころす。
ミステリーじゃないじゃん。
ゾンビ映画じゃん。
公式は「ネタばれ禁止!」って売り方をしているが、これはネタばれではないとおもう。だって、そもそもミステリーじゃなくゾンビ映画なんだもん。
ゾンビファンにはいいけど、ミステリーファンを騙さないでくれ。
そもそも私はゾンビものはあまり好きではない。嫌いではないし、面白さは感じるけどゾンビが出てる時点でファンタジーなわけじゃん。
あり得ない世界。
ミステリーを見るときは現実でありそうなことの謎解きを楽しむのであってゾンビが出た時点でもうそれは謎解きとかじゃないじゃん。なんでもありじゃん。
私とおなじようにミステリーだと思って騙されたようなご年配の老夫婦が結構いた。
映画の配給元としては誤解されようがなにされようが映画館に行かせたもん勝ちなんだとは思うけど、
私はその策略にまんまとハマってしまって騙されたんだと思うけど
ゾンビ映画としてみれば結構面白かったんですよ。ノリもいいし。浜辺美波ちゃんはひたすらかわいいし。神木隆之介くんもかわいいし。
だけどね、中村倫也はシャーロックではなかったんですよ。中村倫也さんと神木隆之介くんとの推理姿がほとんど皆無だったんですよ。
金返せ、って思いますね。
しかも、この作品、ゾンビになった人をころすわりにはそこらへんに罪悪感とか法律の観点とかまるでないし、もともとなぜゾンビになったのかゾンビにした組織がなんなのかも分からず仕舞いで終わるの。
謎が謎のまま終わる。
金返せ、って思いますね。
追記----
思いのほかブクマついててびっくりした。
「ミステリーファン」と書いてしまったからコアなミステリーファンがモヤっとしているようだったんだけど、
ご推察の通りシャーロックものが好きでコナンが好きなああいう感じが好きなミステリーファンなので、そういうミステリーのことだと思ってくれ。
小説は読まない。アニメかドラマ、映画だけ。殺人事件が起こる刑事もの、探偵ものが好きなんだ。
「屍人荘の殺人」自体は嫌いではない作りだし、面白かったと思う。
でも、ゾンビだとわかってたら観に行かなかったんだ。「小説があるからそれを読めば分かる」とも思うかもしれないが、これから推理ものを見るのにわざわざ小説でネタばれしてから行く気にはならない。
宣伝は「二人のシャーロックが事件を解決」というような触れ込みだった。
シャーロックとワトソンという関係性を強調していたように思う。
ということは原作を知らなければシャーロックの中村倫也とワトソンの神木隆之介目当てで観に行く人がほとんどだよね?
原作知らなくてあのCMを見て浜辺美波と神木隆之介が二人だけで推理をするゾンビ映画だとは思わないと思う。
原作のことをミリしらでそこまで推理できたらすごいし、そいつはシャーロックだ。彼なら推理できるだろう。
原作の小説はきっと面白いのだと思う。賞も獲ってるし。ミステリーとしてもよくできているのかもしれない。いや、良くできているから賞を獲った。
だが、映画「屍人荘の殺人」はパニックホラームービーであり、コミカルなゾンビ映画だ。
ミステリー好きでゾンビが苦手な中村倫也ファンとしてはやはり「金返せ」ってなる。しょうがない。
ここにぶら下げて書く
新卒採用:
雇用問題がひとつのテーマだというのはあながち外れてもいなそう。
陽菜が詐称していた年齢18歳、そして実際の年齢16歳は、それぞれ高校卒業と中学卒業の年齢だ。
不景気による就職難のときに、大卒以上に求人倍率が悪化したのは高卒や中卒だ。
また、夏美さんは「御社が第一志望です!」と叫んでいたが、これは大卒の就職難の象徴だろう。
副業:
本作は副業の話でもある。
須賀が帆高に月給3000円しか出していないということに対して、夏美が「そりゃバイトもするわ」と批難するシーンもあった。
時勢としても副業解禁というターニングポイントが反映されたのかもしれない。
コト消費:
ミレニアル世代の特徴とされるのが、デジタル機器やSNSの活用、そしてモノの所有よりも体験やつながりを重視するという点だ。
服は古着やファストファッションで、他のことにお金を使いたいという傾向があるとされるが、作中で最初の依頼はフリーマーケットだった。
シェアリングエコノミーをイメージさせる面もある。
また、作中の他の依頼も、運動会、コスプレ、花火、お盆の送り火、といったイベント事で、コト消費なのだといえる。
神津島:
この島が選ばれた理由としては、神木隆之介の神と新津誠の津を合わせた島名だったから説、都道府県的に東京都だったから説、キリシタン女性が島流しにされた逸話が残っているから説、などがある。
ここでもうひとつ付け加えたいのが、日本労働組合総連合会、略称:連合の会長、神津里季生からという説だ。
傘:
作中にてるてるぼうずをぶらさげた傘を振るシーンがある。この傘が黄色いのは2014年香港デモ「雨傘運動」を意識したためだろう。
このデモで傘を用意していたのは、警察が投げ入れてくる催涙ガスに備えるためとのこと。
代々木会館:
作品に登場する廃墟のモデルになった建物だが、「東京の九龍城」と形容されていたらしい。
香港のうち、香港島・九龍以外の部分の地域だ。香港返還は1997年だが、新海誠が自主制作活動を開始したのが1998年頃なので、ペンネームを決めるときに意識した可能性はおおいにありそうな気がしている。
銃:
香港映画といえばガン=カタ...という冗談は置いておいて、私が推すのは武力の象徴という説だ。
島:
主人公帆高が出てきた島は神津島がモデルと言われている。この島が選定された理由としては、都道府県では東京都になること、名前に神木隆之介の神と新津誠の津が入ってることなどが考えられる。
ただ、構想段階では香港島から出てきたという設定も一案としてあったのではないかと想像している。
さて、私が想像する構想段階のプロットはこうだ。2021年、規制が強まり言論が統制されてしまった香港。主人公の森帆高(セン=ファンガオ)は、体制派の父親と折り合いが悪くなり、香港島を飛び出し日本へ渡る。ふとしたきっかけで拳銃を手に入れた帆高。武力があれば故郷の状況を変えられるのではないかと思いつく。表向きは「お守りがわりに」と言いつつ、拳銃を隠し持つが、最終的には愛する人を守るために武力を捨てる決意をする。
ところで、中国政府が香港に対して強気に出られない背景には、てんあんもん事件のときのような世論の悪化を懸念しているからだと言われている。つまり皆が目を向けること、関心をもつこと、それが言論を統制しようとする圧力に対してきっと抑止力となってくれるだろう。
疲れた、、
あとは寝てまた朝満員電車に押しつぶされる
その繰り返し
なぜこうなったのだろう?
なぜこれを選んだのだろう?
わざわざ東京に来てプライベートな時間を捨てて働いているのか?
俺の幸せって?
コンビニ飯に毒される体と
また歳だけ食う
問うても問いきれない後悔と自責に追われながら眠りにつく
ヨレヨレのスーツを着て
彼女もおらず
なんのために生まれて
なにをして喜ぶかもなく
日々に追い詰められる
これを読んだブクマカ達は
趣味を持て
彼女作れ
外にでろ
本を読め
とか書くんだろ?
わかってるさ
、、っていうしがないサラリーマンのドラマを神木隆之介主演で観たい
、
まー、ベタに体を入れ替えて「101回目の東京ラブストーリー 〜君の名は〜」というタイトルでね。
ラスボスはシュワルツェネッガーで未来から来た設定。
永野芽郁がやられてスーパー地球人に覚醒した神木くんなんだけど最終的にシュワちゃん連れて火星に瞬間移動して一緒に爆発するのね。
星になった神木くんを小松菜奈が見上げて泣くと、会社の社長のリリー・フランキーが「僕は死にましぇん!!」ってプロポーズするんだけど、ギフハフが突然来てリリー・フランキーをさらっちゃうんだよね。
小松菜奈ポカーンなんだけど、そこに彗星が落ちてきて〜fin say yes we can〜
でいんじゃね?
幼児と言うには大きいが成人男性と言うには小さい、ちょっとショタらしさを残した
数年前の神木隆之介くんや羽入くん、アニメキャラで言うと碇シンジくんのような男の子を思い浮かべる人が多いかもしれない
150cm、160cm、170cmとぐんぐん身長が伸びて、腋毛やすね毛や髭が生え
スマホを持っていない奴は
偶然見てしまった同級生のパンチラや友達に見せてもらったグラビアを必死に思い出しながら
国語の時間にはニタニタしながら辞書を開き「オイ、見ろよこれw」と【乳首】のページを指差す
本人は隣の席の友達にしか聞こえないヒソヒソ声のつもりだが教室中に丸聞こえ
今時は口頭で厳しく叱ったり物を取り上げたりするのもすべて体罰になるので教師は止めることができない
クラスメイトも「そんなこと言うのやめろよ」などと言おうものならエロワードに反応したとしてからかわれるので注意できない
親は学校での様子を知らないし知っても注意しない
子どもに嫌われたくないし躾は学校がするものだと思っているから
そんな男子中学生の顔面はちびまる子ちゃんのはまじ、山田、小杉レベル
小学生でもこれは大して変わらないし女の子もこの手のが一定数いる
稲村亜美の件もそうだけど
「何か事件があったみたいだけどやったのはまだ○歳なんでしょう、純粋無垢なかわいい子どものしたことなんだからいいじゃない」って言う奴に
はあちゅうが燃え続ける一番の理由は、童貞いじりがなぜ批判されるのか説明されても「どうして自分だけが責められるのか」という被害者意識が先に立っているからだろう。
バラエティ番組でもドラマでも童貞を扱った笑いは数多くあるにも関わらず、いち童貞として、彼女の童貞いじりの内容にとりわけ反発を覚えることは確かだ。
なぜなのか自問自答してみて、燃える童貞ネタと燃えない童貞ネタには3つの違いがあると感じた。
一般的に自分の特徴を自分でネタにするのは良くても、他人から言われると腹立たしい。自分と遠い属性の相手から言われた時には特にだ。
はあちゅうはまず女性だし、そのなかでも元電通の著名人で恋愛指南なんかもしているキラキラ女子だ。本人がいくら昔は暗くて…などと言おうとも、外からはそう見える。はあちゅうは童貞を好きだといっているが、それはクラスの陰キャラをいじる時の好きと同じだ。違うというなら、無二の親友やつきあっている男に、あなたがネタにしているような真性童貞はいるのかと尋ねたい。
自身のブログに載せたツイッターの引用にフィクションの童貞キャラクターもダメなのかというような反論がある。芸人の童貞ネタはどうなのかという意見もあるだろう。
まずフィクションの童貞はフィクションの中のキャラクターだ。こちらに矢は向けられていない。とはいえ、童貞が童貞ゆえにバカにされて終わるような物語ならばやはり燃えると思う。
また、芸人は自分でその仕事を選び、自ら童貞をネタにして笑いをとってお金をもらっている。(たぶんビジネス童貞もいる)ただ生きているだけで童貞とグルーピングされ、笑いのネタにされる一般童貞と同じ枠組みでは語るべきじゃない。
一方ではあちゅうの童貞ネタは、童貞一般をひとくくりにしてネタにしている。
嫌なら見るなという人には、批判されるのが嫌ならブログもツイッターも非公開にすべきだと返したい。
逃げ恥などの童貞ネタに腹が立たない理由は、キャラクターとして大切にされハッピーエンドに導かれいるからだ。逃げ恥の星野源はガッキーと結ばれたし、刑事ゆがみの神木隆之介は刑事として成長し相棒にも認められた。
また「童貞を殺す服」などは、童貞自らがこういうの好きなんだよねと語っている側面が大きい。
一方ではあちゅうの童貞ネタはどうか。「童貞は救いようのない病」「無理目の女に惚れるから童貞のまま」と切り捨てて終わっている。救いがない。
心の中に小さなチェリーボーイがいるとか、童貞のうちにしたかった10のこととか、昔の友人を懐かしむように童貞を語る連中には、このやるせなさが分からないだろう。童貞はお前らのノスタルジーじゃない。俺の現実なんだ。
あと童貞はその気になれば変えられる特徴なんだから差別用語じゃないと言う人は、在日韓国人にも帰化して日本人になればいいと言うんだろうか。生まれつき髪の茶色い学生にも頑張って黒く染め続けろと言うんだろうか。
はあちゅうが燃え続ける一番の理由は、童貞いじりがなぜ批判されるのか説明されても「どうして自分だけが責められるのか」という被害者意識が先に立っているからだろう。
いち童貞として、はあちゅう周辺の下品な文化や、セクハラの告発で知名度を上げたとことをのぞいても、彼女の童貞いじりにとりわけ反発を覚えることは確かだ。
バラエティ番組でもドラマでも童貞を扱った笑いは数多くあるにも関わらず。
なぜなのか自問自答してみて、燃える童貞ネタと燃えない童貞ネタには3つの違いがあると感じた。
一般的に自分の特徴を自分でネタにするのは良くても、他人から言われると腹立たしい。自分と遠い属性の相手から言われた時には特にだ。
はあちゅうはまず女性だし、そのなかでも元電通の著名人で恋愛指南なんかもしているキラキラ女子だ。本人がいくら昔は暗くて…などと言おうとも、外からはそう見える。はあちゅうは童貞を好きだといっているが、それはクラスの陰キャラをいじる時の好きと同じだ。違うというなら、無二の親友やつきあっている男に、あなたがネタにしているような童貞はいるのかと尋ねたい。
自身のブログに載せたツイッターの引用にフィクションの童貞キャラクターもダメなのかというような反論がある。芸人の童貞ネタはどうなのかという意見もあるだろう。
まずフィクションの童貞はフィクションの中のキャラクターだ。こちらに矢は向けられていない。とはいえ、童貞が童貞ゆえにバカにされて終わるような物語ならばやはり燃えると思う。
また、芸人は自分でその仕事を選び、自ら童貞をネタにして笑いをとってお金をもらっている。(たぶんビジネス童貞もいる)ただ生きているだけで童貞とグルーピングされ、笑いのネタにされる一般童貞と同じ枠組みでは語るべきじゃない。
一方ではあちゅうの童貞ネタは、童貞一般をひとくくりにしてネタにしている。
嫌なら見るなという人には、批判されるのが嫌ならブログもツイッターも非公開にすべきだと返したい。
逃げ恥などの童貞ネタに腹が立たない理由は、キャラクターとして大切にされハッピーエンドに導かれいるからだ。逃げ恥の星野源はガッキーと結ばれたし、刑事ゆがみの神木隆之介は刑事として成長し相棒にも認められた。
また「童貞を殺す服」などは、童貞自らがこういうの好きなんだよねと語っている側面が大きい。
一方ではあちゅうの童貞ネタはどうか。「童貞は救いようのない病」「無理目の女に惚れるから童貞まま」と切り捨てて終わっている。救いがない。
心の中に小さなチェリーボーイがいるとか、童貞のうちにしたかった10のこととか、昔の友人を懐かしむように童貞を語る連中には、このやるせなさが分からないだろう。童貞はお前らのノスタルジーじゃない。俺の現実なんだ。
あと童貞はその気になれば変えられる特徴なんだから差別用語じゃないと言う人は、在日韓国人にも帰化して日本人になればいいと言うんだろうか。生まれつき髪の茶色い学生にも頑張って黒く染め続けろと言うんだろうか。
俺は『秒速5センチメートル』を新海誠の最高傑作だと信じて疑わずにいる人間だということを、予め言っておく。
『君の名は。』、去年の夏に公開されるまで、久々の新海誠の新作映画ということで心底楽しみにしていた。
公開前に発売した『小説版 君の名は。』は発売日に買ってその日のうちに読んでいたし、神木隆之介も好きだったから、これはもう間違いない、
『秒速5センチメートル』以来の大物が来る、と期待を胸に公開を待っていた。
でも、その時から、心の片隅で、ほんの少しだけど嫌な予感はしていて、それは公開後に的中した。
俺は新海誠の、あの陰鬱で薄暗くて救いようのない世界観が好きなんだ。
ドロっとした恋愛観で語られる男主人公の背中が好きで、やっぱり俺は『秒速5センチメートル』が大好きなんだと思う。
そうして、公開直後に胸をときめかせて見に行った『君の名は。』にはかなりのショックを受けた。
これまでのような人を選ぶ作風ではなく、エンタメに富んだ、大衆的で王道の展開に、ベタベタなラブコメディをぶち込んできた。
開始30分ぐらいでそれがはっきりとわかると、目を背けたくて、我慢できなくて外に出たくてどうしようもなかった。
でも、これはしっかりと目に焼き付けて、この事実を自分に刻み込まなければならないと、拷問に近いような感覚で最後まで見届けたのを覚えてる。
これまでと一貫しているのは、背景美術の美しさだけであった。
背景美術は確かに、素晴らしかった。前作の『言の葉の庭』以上だったと思うし、とどまることを知らないようだった。
この酷い映画を見終わった、劇場からの帰り道、俺は少しずつ「新海誠は死んだ」ということを理解し始めた。
過去作を全否定した『君の名は。』、しかし俺とは反対に世間の評価は大絶賛だった。
世間はこの酷い映画を"新海誠の代表作"と称し、過去作には目もくれずにエンタメの監督としてもてはやした。
違う、そうじゃないだろ。
『君の名は。』を見て、それを新海誠だと思っている彼らのほとんどは、馬鹿である。阿呆である。
『君の名は。』を気に入ったミーハーな彼らは、同監督の『秒速5センチメートル』を見て、失望するのである。
鬱だ、暗い、つまらないと吐き捨てる。全くもって、ありえない。
『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』を経て、『秒速5センチメートル』は完成した。