はてなキーワード: 益田とは
增田
升田
マスダ anonymous diary アノニマスダイヤリーの略だから、どのマスダでも良かったはずだけど、なぜか増田だよな?
このないだの憎田でなくて、良かった。
例のポスト、「~なのだ」「~のだ」「してみろ!」と60過ぎたガンコじじいみたいな言い回ししかできていなくて、内容に「ああ、それはそうかも」と同意できる部分があったとしても正直に言って「あなたとお友だちになると疲れそう」です。
この益田さんは最初に「婚活疲れ」と書いているように、今にいたる経緯があってこの結論(というか現時点でのポジション)を見つけたわけで。途中を見ずに結論だけで語るブログ主みたいな人は俺は苦手だなあ。彼女を全否定して生きるって、相当いいご身分なんだろうし完璧な人生を歩んでいるんだろうから、弱い人は弾かれそうだよね。
それと、「人は結婚し、子供を儲けて初めて完成する」(原文ママ。もうね、誤字の仕方がさ……w)……思っていてもいいけど、人の発言をあげつらった上での公共の場で書かないでほしいよね。ブログ主は「人との絆を紡ぎ続けることが人生の喜びだ」と強調するわりに、周囲の人たちへの気遣いが感じられないのがイラッときたのかな、俺。言葉を借りるなら、「お前がそういうならそうなんだろう。お前の中ではな」って感じ。
益田さんには特に言うことはないです。もしお友だちだったら「そんなこというなよ、結婚も悪くないよ」と酒でも飲みながらあーだこーだ言い合いたいくらいかな。
http://anond.hatelabo.jp/20170522132625
について
http://q.hatena.ne.jp/1495428314#comment
でコメントを書いたので転記+追記
他論を述べます。
今は、発達障害者は定義がすごくひろがっており、自閉症スペクトラムの「非常に薄い」部分も治療対象になるのではないかと検討にくりいれられています。
極言すれば「リア充」すなわち社交性で生き残る性質が100点満点の人でなければ発達障害の要因があるとされます。
私にとっては、発達障害とは、新しい形質ではなく、昔からの、座業職人、百姓や鉱夫のような、自然から直接資産を汲み出す産業に必要だった性質にみえるのです。それが今となっては機械に職場を追われ、ゲームやコンピュータという資産を汲み出すしかなくなっているわけです。
その意味ではミアキスのような「古い」存在だというのは納得いきますが、犬猫すべての可能性を含むとかいうふうにはちょっと納得がいきません。それは遺伝子プールそのものの性質であるはずでしょう。
人間の適応能力が広いから、育て方によっては発達障害者の範疇にも、範囲外にもなり得るし、社会の変化スピードによっても定義がかわるのだというほうがまだ納得がいきます。
さらに極論すると、字を早く読ませよう、小学校入学までに50音と足し算くらいは、と早期教育が常識になっている(教育は憲法に定められた国民の義務ですからね)と、子が発達障害になりやすいのかもしれません、というほうが、遺伝子プールを引き合いに出されるよりはずっとわかりやすい。
でも元益田がいいたいのは、日本マスコミは美談依存症で「不自然」を悪者にするキメツケがひどい。差別行動などをひき起こしやすい局面だから、とにかく何を引き合いにだしてもいいから、穏やかに共存の道を探ろうという最後の部分だけだとおもうのですけどね。ミアキスを犬ネコが攻撃したかどうかなんてダレにもわからんわ。
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今リア充が非常にもとめられているのは、福祉国家の最大労働者である介護者に必要な資質が「うたれづよいリア充」だから。
(口さがないのがあたりまえだった。差別用語を日常で平気で口にしていたし今でも口にする)ので、
「適応障害」程度なら、介護を経験すればだれでもなるといっていいくらいだ。
そのなかで「どうやら生まれつき介護や対人サービス業に向いていない性格」の人は「発達障害の気がある」とされる。
(自閉症さえも、遺伝子レベルで特定はされてないのに、発達障害=生まれつきと扱うべしというキマリはへんだけど、「疑わしきは生まれつき」とあつかったほうが社会の無理解によるいざこざは少なくなるだろうということだね)
(まあ、仮に早期教育はよくなかった、なんて判明したって後天的生まれつきだ、直せないからそのまま扱うしかないという結論になるんだし)
昭和後期生まれ(団体ジュニア)が食い止めている間に早く逃げろといいたいが、
粉ミルクが最先端のはやりの育児だったし、排ガス大気汚染最悪期で育ったから肺は弱いし。
ちびまるこでいうまるお。へたれ。
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。