はてなキーワード: 白人男性とは
前段は、有能になる基盤や成果を上げるチャンスの不平等が存在する(なので成果や、その時点での能力で選抜すると特定のグループばかりが有利になる)。
だから強制的にチャンスを再配分するという話なのに、後段は突然無能な白人男性が出世しやすいと言う話にすり変わってしまっている
あなたの言うアメリカ社会の問題は有能なのにマイノリティーだと出世できないではなく、マイノリティーだと有能になれないって話では無いのか?
またまたid:watapocoだが、id:aquatofana氏の映画「ジョーカー」の解釈は論理的にあり得ないんだ。
その場合、妄想の可能性があるのは虐待を受けていたこともだし、母を養っていることもだし、いけてるぽい白人男性を射殺したこともだし、悪のカリスマになったこともだし。
アーサーの物語として語られるすべてが妄想かもしれない訳です。
ああいう半分幻想みたいな構成の物語において「ここは真実です」という示唆やアナウンスがない限り、すべてが等分に確かではない訳です。
が、id:aquatofana氏はアーサーを「特権にあぐらをかいてた白人男性の一人」としつつ
(背中に残る大火傷の跡やそれが虐待の記録として残っていることや加害者たる母を養っていることや通りすがりの若者にぼこぼこにされる程度の存在であることやらはネグりつつ)、
妄想物語の後半については「他人をないがしろにすることで力を経た結果、孤高・孤独に行き着いたのでは」と、
アーサーの妄想かどうかわからん物語を一部は信じて一部はネグることをしている。
これが論理的にあり得ないってんです。
あの物語を見て特権階級と言っていい男性が被害者意識にうっとりしたりテロを賛美していたらそれに対する批判が起こるのはとてもわかる。
(京王線の犯人も生い立ちとか環境まるでわからないけど、そういううっとりタイプの可能性は0ではない。)
ただ、アーサーの妄想物語をどこかは信じてどこかは信じないというのはおかしい訳。
横です。
厳格なポリティカル・コレクトネスでは、個人が持つ多種多様な弱者性を加算し、最終的に一人一人の弱者性を比較します。
また、女性である時点で、黒人である時点で、克服が困難なレベルの大きな弱者性があると考えます。
幼少期の被虐待経験とトゥレット障害も弱者性として計上できますが、ジョーカーの場合は白人男性という圧倒的な強者性が邪魔をしてしまいます。
被虐待経験を加算してもなお、女性や黒人の弱者性を持つ人物と比較するなら、ジョーカーは社会的に有利な立場と見なされてしまうのです。
冒頭のaquatofanaさんのコメントは、このようなポリティカル・コレクトネスの考え方に立脚すれば自然と導き出されるものなのです。
被虐待経験も深刻な問題ですが、厳格なポリティカル・コレクトネスでは、他の弱者性との比較を行わざるをえません。
弱者性を計算して厳格に比較するポリティカル・コレクトネスには、「血も涙もない」「人の心が通っていない」との批判が向けられることも少なくありません。
しかし、このような手続きを踏まない限り、社会的公正を具体的な政策に落とし込むことは不可能です。
ご理解いただけるでしょうか。
この間友達とフランスの教会へ行ってきた。当たり前だけど、色んな国の観光客がたくさんいた。
んで、写真撮ったりしてると、まわりにたくさん人がいるから、まぁ腕とかぶつかるの。
そんな事が続いてイライラしてるんだろうねみんな。謝っても嫌な顔すんの。
私達はそれ見てたから、ぶつからないよう気をつけて人混みすりぬけてたんだけど、
あまりにもキレイなステンドグラスに見とれて歩いて、前の白人男性(何人かわからない)の背中に顔からぶつかった。「ブッ」って声も出た。不機嫌な顔しながら振り向く男性。
半ばパニックになって「ソーリー、パルドン、スクーズィ、あと何語で言えば、あああのすいません!すいません!」って腰90度に曲げてペコペコ謝り倒したの。
そしたら手で肩をたたかれた。ポンポンって。
んで一方的に英語でペラペラ話されてニッコリしながら去って行った。
許してもらえたのかなと思っていると、どっかの団体のツアーガイドさん?が寄ってきて、「彼らはこう言っていたよ。君のような小さな女の子までも礼儀がなっている。日本人は素晴らしい。君に出会えて気分が良くなったよ、良い旅を!ってね。僕達も彼らと同じ意見さ!」
で、まわり見渡すとさっきまでイライラしてた人達が笑顔でこっち見てんの。恥ずかしくなって、まわりにお辞儀してすぐ教会出た。後ろでナイスガールとか聞こえた。
すいません、私達はもうすぐアラサーなんです。
優しくて金もある理解ある彼くんに養ってもらってる専業主婦が弱者か?って言われるとやっぱなんか違和感あるし、
底辺で友達も恋人も家族もいないジョーカーみたいな白人男性と普通に仕事があって友達も恋人も家族もいる黒人だったら今の社会じゃまともな人生送ってる黒人の方が弱者なんでしょ?
いや人生の苦しい度合いとかってそんな人種とか性別だけで決まるもんじゃないでしょ
同じ人種の中で有能も無能も健康体の人も病気の人も金持ちも貧困も顔が良い奴悪い奴いろんな属性があって、それぞれの属性にいろんな苦しみだったり制約があったりするわけじゃん。
『来世でそいつになりたくない度』だったら正確じゃん、男でも女でもハゲやブスや吃音だったりで将来パートナーや子供を持ったりっていう人生の選択肢に著しい制限が発生する、っていうのも立派な弱者性になるし、
現在進行系で苦しい思いをしてる後進国の貧しい人たちは弱者性を持ったままだし、重い病気の人はいくら金があったって弱者。
貧しい家の生まれで学歴も収入もしょぼいけど高身長イケメンだから楽しい青春送れて今は器量の良い嫁さん捕まえられて共働きで貧しくない生活送れてますよ、ってな人は弱者から外れる感じになる。
今って弱者ランキングと苦しさランキングがあんまり比例してないでしょ多分。
これでよくないか?
いや「インスタっぽい」の何が悪いんだよ。
リンクは貼らないが白人男性とのキスツーショットや、高級リゾートでのパーティーの写真をアップしているフェミニストも多くいる。
それがなんか嫌なのはわかる。
例えばさぁ、インスタにオシャレな朝食を毎日アップしてるオシャレなアカウントだって、会社に行けばパワハラ上司に詰められて血便出してるかもしれん。
「幸せそう」だって裏ではそれぞれ苦労してるだろうし、そうしてみんな幸せをつかみ取ろうと頑張ってるんだろ。
そういう姿勢を嘲笑ったり、努力を無視して嫉妬を拗らせたりするのはそりゃ醜いだろ。
ま、「そういう話じゃない」レベルのセレブフェミがたくさんいるのも知ってるがね。
そもそも今回の事件自体がセレブフェミ云々関係ねーわな。セレブ臭い嫌なツイートがどれだけの割合でいるのかしらんが、叩くにしても今回の事件に絡めて叩く必要はねーわな。
今回の通り魔事件を受けて
#幸せそうという理由で私たちを殺さないで、というハッシュタグで
幸せそうな写真を投稿しようというトレンドがフェミニストを主導に起こっており、
続々とインスタっぽいリア充感あふれる女性の写真が投稿されている。
https://twitter.com/fuemiad/status/1423839849925148674
弱者男性とフェミニストの見えてる世界のあまりの断絶に言葉を失っている。
恵まれた人を憎んだ犯行に対する抗議として幸せそうな写真を次々アップすることで
ただ、犯人は社会の底辺に追いやられて、クソみたいな人生を送ってきたと自供している。
おそらく彼のような弱者男性は多くいるのだろう。そして、その多くは犯行に及ばず自殺するか、ホームレスになるかしているのだと思う。
彼らのような存在も社会としてはうまく包摂していくべきだと思う。
そんな中で#幸せそうという理由で私たちを殺さないで、と幸せそうな写真を続々とアップするムーブメントに何の理があるのだろうか。本当に言葉を失ってしまった。
リンクは貼らないが白人男性とのキスツーショットや、高級リゾートでのパーティーの写真をアップしているフェミニストも多くいる。
彼女たちの主義主張は分かるが、僕は彼女たちを説得する言葉を持たない。
もはや社会の断絶はすでに相当なところまで来ていると感じぜざるを得なかった。