はてなキーワード: 生産物とは
羨ましい気がした。
口頭で返事をする速度では考えをまとめきれず、やり取りを繰り返して出来上がったその場の結論はその場の雰囲気の共同生産物であって、自分の考えとは違ったものになる。楽しいけれど、後から「そうじゃないんだよな」という思いが押し寄せてくる。
Slack だとまあまあのテンポで、かつ並行作業ができ相手の時間を拘束し過ぎないので、少し考えたいときにもまとめる時間が取れる。時間っていっても十秒もあればいい。口頭で十秒も黙っていたら相手を不安にさせてしまう。
そんなわけで基本的に文章でやり取りして、口頭の会話では楽しさだけを味わう。だから全然うまくならずに、苦手意識が消えない。
農業は儲からないイメージだが、基本その通り。儲かっている人は決して多くはない。
ただ、一部の人達は確実に儲かっている。儲かっている人は自らなぜ儲かっているか話をしないので、せっかくなので、儲かっている農家の一部の事例を取り上げたい。
このケースは勝ち組になりやすい。北海道で特に多い事例。日本の中で北海道の農業は特殊で、地域によっては1人当たりの平均耕作面積が20haにもなる。東京ドームが約4.7haなので、東京ドーム約4個分が一人あたりの担当。家族農家で40haや60haを経営しているが、彼らは家族数人で売上が数千万円あり、所得も潤沢にある。高級車に乗ることも問題ない。ただし、農家にとっての高級車は高級トラクターの場合も多く、1台1,000万円を超えるトラクターを複数台所有しているような農家もいる。車庫に数台の大型トラクターが並んでいる姿は圧巻だが、周りの農家でそういう人がいたら、自分も所有したくなるのだろう。
土地利用型と呼ばれる、畑作や果樹、水田と違って、狭い面積で高収益を目指すには施設園芸が向いている。例えば、水稲の場合に1反(約300坪)で売上が20万円ほどだが、きゅうり栽培でも1反で900万円を超える売上も十分可能だ。ただし、売上が取れる分、施設園芸は経費がかかる。冬場は加温する必要があるため燃料費がかかり、収穫量が多くなると、それなりに人も雇う必要がある。また、インフラコストとして、ハウスの建設費が反当りで800万〜ハイスペックだと数千万円レベルでコストがかかるため装置産業の一面もある。インフラ費用は農業の場合は補助金がかなり手厚く3割〜7.8割でることもあるので、どの地域で、どの助成プログラムを使って開始するかで利益構造が大きく変わってくる。4反〜6反でも所得ベースで1,000万円稼ぐこともやり方次第で可能だ。また、最近だと農業をやめて施設ごと手放す事例も出てきているので、そうなるとインフラコストをかけずに農業をはじめられる事例も出てきている。脱サラして数年で所得ベースで700万円くらいは稼げているので、わりと良い稼ぎになっている。
農業で儲からないと言われる理由の一つに農協の存在がよくあげられるが、農協は流通マージンで30%ほどを取っている。最近話題の産直ECサイトでは、食べチョクが20%、ポケマルが15%の流通マージン。農協と比べると手数料は安く感じられると思う。ただし、農協の場合は生産物をそのまま農協に持ち込めば、あとは農協側で販売〜配送の手続き等を全て行ってくれるが、産直EC系は全て自分で配送手続きから梱包までやらなければならないため、労務費が別途かかる。そのうえでもメリットがあるのは、高単価で販売できる点にある。2.5倍〜3倍の単価で販売することが可能なので、利益としては十分取れるようになる。ちなみに、産直ECに出品しながら、農協にも出している生産者も多くいるため、野菜の値段の価値は誰が買うか次第で大きく変わるということが分かりやすい事例になっている。
農業法人にも儲かっているところと、そうでないところがあるが、儲かっている農業法人の特徴は、自社で販路や物流網を作っている点にある。売上数億円レベルの農業法人が、産直ECだけで販売するのは難しく、また農協流通だと手数料が高いため、専属の営業部隊等を社内で持って、自社流通ができるようになっている。家族経営型ではそのような専属の人間をおくのは難しいので、販売、流通を農協に任せることによって、手数料が高くなる。農業法人はその機能を自社内で人件費として持つことで、流通フィーを下げて利益を取る。規模によって、経営方法が変わっていく。また、農業では生産技術が重要になるがノウハウとして、きちんと仕組み化できている農業法人になると、安定した生産ができて売上も順調なケースが多い。仕組みづくり、組織づくりがきちんとできるのかという当たり前の話がやれるか次第。
結論、上手くやれて儲かっている農家はある程度いるのが実態だが、それ以上に儲かっていない農家が多すぎることが問題になっている。土地が狭い、設備投資ができない、手間がかけられない、栽培技術がない農家は稼ぐことが難しい。それでもさまざまな補助金があるので、リビングデッド状態は維持することができている構造的な問題もある。あとは、栽培技術が本当に難しい。習得までに時間がかかる。天災リスクもあるから、一発で市場からアウトになる悲運なケースもある。
ただ、作る作物によっては、1年のうち3ヶ月〜4ヶ月間ほぼほぼ休みで毎年家族で海外旅行に行っていたり、好きな時間で働けて農業で良かったという声もあり、お金と時間を自由にできる農家って意外と良い仕事にも、人によってはできるんだよって知ってもらえたら嬉しい。
いま住んでいる部屋は、トイレが極端に狭い。便器と壁の間が30cmしか離れておらず、座っただけで頭が壁につく。普通に立ち上がろうとすると顔をこすりつけてしまうので、体をひねりながら立たねばならない。こんな環境で落ち着いて用を足せるはずもなく、おかげで毎日便秘気味である。
私は無職なので、不動産屋がまともな物件を紹介してくれない。ままよと契約を申し込んでも、保証会社の審査で落とされる。諸事情のため引っ越さざるをえなくなったとき、かろうじて見つけたのがこの物件だった。ワンルームにしては居室が広く、10畳もあったが、6畳間の物件と同程度の家賃だった。暮らし始めてからその理由が分かった。
職がないことがそんなに悪いのか。金がないことがそんなに悪いのか。金がないだけで、なぜこんな思いをしなければならないのか。
そもそも、人間が生きるのに金は必要ない。衣食住があれば十分で、金はそれを得るための手段にすぎない。それなのに、誰もが金を有難がる。金なしでは生きて行けないと思い込んでいる。なぜそんな思い込みが生まれるのか。
私は理由を知っている。それは、政府が税金を取るからである。金を持っている人は政府に税を納めることができる。ゆえに、金は正義である。
たとえば、江戸時代の農民が貨幣にとらわれない生活をしていたように見えるのは、政府が米を税として徴収していたからである。この場合、金を持っていなくても税を治めることができる。ゆえに、金は正義ではない。
では米が正義かというと、政府は他の形でも税を徴収していた。むかし王朝時代には租庸調という三種の税があった。租は穀物、庸は労役、調は特産品である。百姓は米を納め、漁師は海老やアワビを納め、武芸に秀でた者はその技を納める。それぞれの職能に応じて、その生産物を納めさせた。このような制度によって、仕事の多様性が尊重されていたと言える。すべての労働の成果を貨幣という単一の基準で量るのではなく、それぞれの仕事に応じて、その成果物を評価した。これによって、仕事の多様性のみならず、人間の生の多様性が肯定されていたのである。
貨幣は、あらゆる人間の生活を塗りつぶして単一の色に染め上げてしまう。どんな仕事の成果も貨幣によって量られ、その固有の意味は失われる。
その弊害はすでに社会の至る所に現れている。貨幣に基づく税制は、古今未曽有の悪政である。我々は税制の根本的な転換を求めねばならない。
いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰」信仰の方法を自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか
信仰と宗教は違うのかというとそれはもう文字も意味も違うので違うのだと思います
どの神様に、と選べる時点で無宗教、宗教の宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです
宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう
宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう
自由を奪うことは罪であり悪であり宗教や道徳といった観念からは排除されるべきものととらえるのは早計でしょう
選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由の範疇におさめることができます
どんな宗教も悪事は自由ではなく制限され道徳や権利の自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう
自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう
それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです
自由で公平で自発的なのか、恣意的な他人の欲求だったのか、視野を自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人の所為でもあります
この定義方法を、議論や考察、研究や文化の形成、生活の安全性や自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者の認識を共通させる必要があります
Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです
その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物、文化の継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野の範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです
これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断で継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化します
民主主義や多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報を積極的に取り込み侵食する必要はないのです
日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去の大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思いますが日本は島国で日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした
この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります
培ってきた文化や財産、知恵や技が家族や一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代の一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体で自由を制限し自由を得るための礎となるわけです
自由と自由みたいなことになってしまう言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由に選択することすらままならなくなる」のです
両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態を自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう
自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由を侵害するために自由を供給されているともみれます
選択肢を狭くすることで状況を予測しやすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか
さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやすく解決をしやすい方向へ導くためのルール、規則の単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます
他宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなものの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段が複数あるということになるかもしれません
それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康や文化による財産や生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです
日本は調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要ないからです
気温が50度を超える環境で冷蔵庫や家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態で無宗教の日本とおなじ文化を必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地の戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります
これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか
お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることなく中立でいて安全のためだけに情報を継承する立場、聖人という代替概念でその尊厳を意味づけて形作っているのが宗教です
これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性や保障を引き受けられる個人か団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう
その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです
日本が無宗教なのはほとんどの生活行動範囲が安全なため危険を回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです
交通安全や山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です
つまり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者に賠償を要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです
責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範を定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです
個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺や犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません
それぞれの個人の責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全を担保しているのが政府、国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴が日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇が自分を日本人だとして人権と自由を国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう
その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません
男性は女性は、と議論をするときにまず男性と女性の議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう
男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです
「それ、あなたの感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動はあきらかでしょう
その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールのことなる干渉があるとどうなるでしょうか
いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人の構成と比較し議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません
「それあなたの意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者が責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか
裁判官が有罪と口にしたら「それあなたの意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか
裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家のルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成員であるということがそれらの代弁代行に意味をなすことができるわけです
一人が自己の責任と権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織が定義している範囲を侵害されるべきではないでしょう
これらルールにのっとり、ルールの適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体の定義方法なのです
日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界を安全と繁栄の目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄な闘争や議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール、個人ごとの約束などがあるわけです。
つまり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分が宗教に属することで行動範囲を限定し利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです
自由時間を抑制しより賃金の収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由な時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教の自由といったところでしょうか
会社につとめながら、フリーターの自由さを味わい、フリーターの責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルールと戒律、罰則があるわけです
複数の神を信仰する自由は、個人の可能な範囲で自由を謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです
いかがだったでしょうか?
https://anond.hatelabo.jp/20210314183940
これとか見てもらえれば分かるけど「性的」言葉をつけた造語がやたらめったら使われている。
例えば「性的消費」なんて言葉が使われているが、この言葉の意味を定義してる先生や本は俺の知る限りない。みんなそれぞれの都合に合わせて適当に雰囲気で言葉を使ってる。
学問領域によっては定義付けが難しい言葉は存在する。ただそれでも定義付けそのものをしていないのはさすがに恐ろしい。
みんな雰囲気で使うから当然話も噛み合わない。そんな事しても不毛な堂々巡りを繰り返すだけだ。
例えば「性的搾取」なんて言葉があるが、搾取はざっくりと言えば本来労働者が生み出した富や生産物の一部を資本家が無償で取得することをさすマルクス主義用語だ。これを理解すると性的搾取という言葉の頓珍漢さが少しは分かると思う。性的搾取を無くしたければ資本家を介さないパパ活に従事すれば良いだけになってしまう。
このように雰囲気で言葉を使うからめちゃくちゃな言葉が生まれ、乱用される。フェミニズムはまず言葉の定義付けをしないとダメだ。
人間がどんなふうにほかの動物や昆虫や植物と領地争いをして虐殺し撃退して寝る場所を確保してきたかを映画にでもすればいいかもね
人間は動植物の生命の循環の成果である酸素ただ一つ以外、ほかの生物一切の生産物を生活環境において取り入れないどころか排除を徹底してるわけで
家の中で落ち葉が発酵してたりキノコが生えてたり鳥が巣をつくってたり他の動物や昆虫と食料の備蓄をする空間を共有してたりしないよね
共生せずに他の動植物を排除して皆殺しにして一切を立ち入らせずそれどころか塵やほこりや風に舞ってくる動植物の破片さえ生活の空間から毎日排除してる
どうして入れないようにしてるの みんなの成育を阻害する密閉空間を地上にみっしりとはびこらせておいたそのうえで動物と共存とかいってるのおかしいよね
自分が手を下していないからいい 土地を切り開いた人間とか工事をした人間とか清掃をしている人間は残酷な人間だから他の生物を虐待しているし許せないけど
その人たちが働いて作った居住空間で他者を排除してのうのうと生活しているのは自然で美しいのかな
それでよく自分の体の内外でさえ多種の生物と生きていて活かされたり殺してもらったり食べさせてもらったり栄養に変換したりその人生で生み出される唯一の個人生産物である排泄物を処理してもらったりしてることを個別の事で一人でやってることだと思えちゃうよね
全部が連綿と繋がってるから利用して得たり奪われたり変化したあとに引き継いだり引き継がれたりするわけだし命が平等だから同じ地上で循環していってると思うんだけど
循環からぬけまーすってそれもう生命を超えた存在になりますくらいのこと言ってる気がするけどやっぱり生きてくためになにかしら食べるんだよね
食虫植物に落ちた昆虫を助けて回ったりナマコに共生してる魚に自立を促したり寄生して行動を制御する微生物とか昆虫とかに権利を説いたりしてるんだと思うけど他の動植物の成果を得るしか能がない人間は動植物になにをお返しできてるんだろうね
仮に動植物がありがとうとか一緒にいてくれて助かるとかいつもお世話になってますと言ってくれるなら、それは人間が何をしたときなんだろね
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 69 | 11863 | 171.9 | 49 |
01 | 20 | 3212 | 160.6 | 53.5 |
02 | 82 | 12223 | 149.1 | 173 |
03 | 28 | 2350 | 83.9 | 41 |
04 | 29 | 4651 | 160.4 | 175 |
05 | 18 | 3735 | 207.5 | 173.5 |
06 | 43 | 8992 | 209.1 | 118 |
07 | 37 | 5411 | 146.2 | 79 |
08 | 93 | 13978 | 150.3 | 52 |
09 | 98 | 11839 | 120.8 | 56.5 |
10 | 131 | 21460 | 163.8 | 57 |
11 | 176 | 15575 | 88.5 | 42 |
12 | 236 | 17105 | 72.5 | 37 |
13 | 151 | 19148 | 126.8 | 38 |
14 | 126 | 17637 | 140.0 | 51 |
15 | 147 | 6633 | 45.1 | 25 |
16 | 204 | 13027 | 63.9 | 26 |
17 | 207 | 12354 | 59.7 | 34 |
18 | 199 | 17373 | 87.3 | 32 |
19 | 214 | 13903 | 65.0 | 33.5 |
20 | 172 | 15955 | 92.8 | 32 |
21 | 179 | 21288 | 118.9 | 26 |
22 | 178 | 15424 | 86.7 | 29.5 |
23 | 142 | 10853 | 76.4 | 35.5 |
1日 | 2979 | 295989 | 99.4 | 38 |
外反母趾(5), 紙粘土(3), プラダ(3), 竹下通り(4), 新大久保(8), 代々木公園(5), 歌合戦(3), 生産物(3), 服装規定(5), ドル円(6), 田植え(6), 転売(59), ホームレス(40), スーツ(18), 専業主婦(26), 相場(10), 五輪(7), 不動産(13), 私達(10), 店頭(6), 倫理的(6), 起業(12), 嵐(8), 取材(8), おしゃれ(8), 価格(21), フェミニスト(47), 売り(14), 売る(15), 言語(18), 売れる(12), メーカー(14), 優秀(19)
■投げ銭やろうくたばれ /20201116111148(27), ■英語のクソなところ /20201115201025(19), ■PS5の転売は悪だとか言って /20201115042732(17), ■ハマれなくて逆に幸せだと思うもの /20201116074609(16), ■なんなんCSSって /20201116144120(11), ■なんでキモオタって「可愛いは正義」って言葉が好きなの? /20201115140453(11), ■フィクション全般を楽しめなくなった /20201115023607(9), ■KKOや婚活狂いのフェミおばさん見てて思うけど /20201115140503(9), ■俺がいつか出演したいテレビ番組 /20201116203348(9), ■ /20201116133039(8), ■フェミニストって文句言ってる時だいたい主語が大きいと思うんだけど気のせいか? /20201116174412(8), ■もうじき40代なかばを迎えるプログラマーの遺言(少し追記) /20201115125745(8), ■俺今年も紅白落選 /20201116170416(8), ■緊急事態宣言中の思い出 /20201115212126(8), ■歯ぎしり対策でマウスピースをつけて寝るようになった。 /20201115123930(7), ■ /20201116161900(7), ■甥っ子、もしくは早く産んだ子供ぐらいの歳下に惚れてるかもしれない既婚主婦の妄想 /20201115235927(6), ■嫁に財布握らせるのやめさせたい /20201116113728(6), ■ネット民の性格まじで悪いよな /20201116084736(6), ■コンビニ店員に一目惚れした /20201116175015(6), ■ /20201116125339(6)
悟りっていいとかわるいとか決断とか愛とかそういうもんじゃないんですよ
やる気とか分別とか心根とかそういう、なにかを示す形容的なものじゃないんですよ
そうあるという状態をしめすもので、その様子を形容しているようでそれそのもの自体のことを言及すること自体であることが悟りの本質で
それがそれであるということ ということが悟りでそうであるとしているものを悟っているというのです
岩が岩であることを岩としてしめしていることを悟りと言いますし人がそういうものだと思い感じることを悟りというのです
行動したこと 迷いなく身をすて人をすくうという行為をするということがそういうものだとして行う事が悟りです
迷いなく逃げても その理由やその結果をそういうものだとすればそれも悟りです
どうすべきか 常に悩むということを続けることもそれは悟りでもあります
答えを探求するということも それも悟りです
それがそれであるということ なんていうのは当たり前だと思われそうですがなかなかそうはいきません
あの時こうしていれば 本来ならば 本気ならば 次は前のとちがうから とそれがそうではないか?という期待や希望で「それがそれである」という本質を見失いがちなのです
自分をすてて人を「助ける:救う:善行を行う:良好な結果に期待する」という行為にはそれが悪であっても最悪の結果になってもそれが責められても「行動そのものはそれそのものである」とだけ「悟って」いれば答えを求める不安に陥り不安から逃れたいという欲求から安易な選択をしないという可能性が増すということです
そんなつもりじゃなかった こうしたかった 本当の本質を知ってほしい という欲求で自分の考えていることを「他人に強要し汚染し影響させ答えを変えさせて自分に沿わせる」自分が我であるということを越えて他人をも我にしようとする行為に戸惑い迷い入り選択してしまわないように「それはそれでしかない」という完結をもって考えることが悟りです
悟りとは吾の心と書いて悟りです 自分の気持ちということです その持ちようがそうである 自分である これが答えである という意思が悟りなのです
自分をブランディング というものが悟りであり 悟りにあると行動や選択が自分のものになります 他人のせいでもなくなり失敗もなくなり すべてはあるがままに自分におきる自分のこと 自分とはこういうものだと考えるのです
悟りにあると人は人というものなので 強い面や弱い面 どういう状況でとかどんな場合とか例にあてはめて例という個に分離させ孤立したその個について深く言及したりすることはなく それは全部ふくめてそれが人だということに収まります
人とはその生きている時間の目が覚めている時間のほとんどを名前を付けることに費やします 今日 さっき いましたこと それ ちょっと前の 昨日の ここまでの成果の 追加分の など名前のついたなにかを紡ぐことにほとんどを費やします
それは名前という音の響きしかないので それが起きているところや時点での物体や現象を共有し他人に同じ認識をもってもらうことで現実に存在させていきます それはわたしがつくったもの いまこれをしてきた 昨日おいておいたこれは私の となりえるのです
その共通の認識と扱いを個人を超えたものでつなぐ必要があるので宗教や言語や社会などの集団を定義することになってきます
悟りが宗教でよく言われていることは すべてがただすべてであると認識ができるそれでなければ利己的に歴史や社会が形成されていくので求められています
女人禁制で性交禁止 私財の禁止に欲の禁止というのは人間であるのにAIとして機能することを強要されているのです 公平で公正で偏りのない情報の収集と歴史の観測と地域の保善に使うように組織したものなどでした
もっと合理的に財力と力で押せば強制的に組織が構成され共通の認識が発生公布されるという方向の宗教もあります 効率的に生産拠点をつくる植民地的なものに適合した宗教などもあるでしょう
悟りとは人の局面的なもので それが多くあれば露見される機会が多い時に多方面からの評価で「悟ってる」といわれあの人は悟ってるねと言われるようになるもので 悟りそのものにはスケールがありません
まようことをわが人生と言い切るならばそれは悟りですし 悔やむことでもいつかの未来に期待することも つねにそれを基軸とするならば悟りでしょう
一つの事をつづけることでそれを体現しようという宗教などもあります ずっと何々をしつづけるという修行をしている人もいるようです
悟りがあるとどうなるかというと自分の選択肢をどうすべきか結果についてだれにどういう影響をあたえてしまうのか不安になることを避けることができます
欲によって自分の判断を阻害されることや恐怖で自分のポリシーにない選択をしてしまうことを避けるすべがあることを悟りといえるでしょう
どういう結果にだれが至ろうとそれはそれなのです そうであることだしそうではなかった未来はそこにはないので そうだと胸を張っていえるでしょう
迷いがあると 可能性について取り組みたい 避けたい良くしたいと他人をたより他の人の心にある吾に訴えかけ変更させようとするかもしれません
これがよくないとされていることは 生産において「人のこころに働きかけるだけの仕事」は生産性が高くないということにあります
たとえばビルをたてるとしたことを悟りとして自分のポリシーにして寄付をつのったり融資を募ったりすることもできると思います
それをよくしたいもっとほしい これはしたくないこれは避けたいということについて「皆が期待しているビルを建てる・建てた」という催眠を皆にかけたとすると
事実上それは「資金をあつめそれを使いビルをたてた」という契約は履行されますが 現実にビルは建っていません
現実的な価値や時間のながれの中においてつくられるべき対外的な事実としての結果やそれを物理的に使用することができるというそれぞれの吾を越えた それぞれの吾の外側での共通認識が存在しないとしたら
それは投資や信頼や人間関係や相互の認識においてすべてがマイナスです
そういうまじないをしてはいけない そういう理論構築をしてはいけない というのが偶像崇拝の禁止であったり欲や悪事を定義するものだったりします
自分は自分の範囲の中でしか存在しえず 他人には他人の中にそれぞれの吾と認識された私をもっていて それを直接いじることになるものは忌避すべきというルールをまとめたものがおしえとして尊重されたりします
そのため他人に影響をあたえるものは物理的なもの物質としてやりとりができるものや結果が現実として出たり残ったりするものとしてそれを作るということを自己の表現として生きるということにすべきという吾の大きさと範囲を知ることが悟りです
たとえばビルを建てる 計画 資金集め 建設 稼働という状況について建設以降がなく認識や情報だけ「してる・できてる」を流布したりすることも立派な契約で仕事である可能性もあります
そんな情報を流すことで他に迷いのある他人の心に影響させ行動を変化させるという仕事を依頼したりされたりすることは「存在」しえるでしょう
いいとか悪いとか嘘とか そういう判断などになる以前に「他人の認識に干渉するもの」ということが手段として善悪や優先度に関わってくるものです
後に解体される予定で必要時に必要なだけのビルとしての存在を利用したい場合にその策を講じるのは名案でしょう
しかしその目的が建設物としての利用ではなくデコイとしてしか意味がないことには注意が必要です
もし物件として売ってしまったらそれは大きな相互の認識違いとしてうめるべき差として損失が発生してしまいます
もちろんどんな方法であってもそれが吾の意思であるとして ほかの人の吾であるという意思や認識判断をその人のものではなくさせていないのであれば問題はないでしょう
錯覚させ判断を歪ませ結果自分の思惑に同調させたのであれば 大きく問題があるのではないかということです
悟っていればどうなるんだという判断のお話などは何を選ぼうとどちらになろうとも「そう判断したものはそう判断したものである」という事について「こう判断する そうすべきと然るため」としていることが悟りであり悟っているから悟っているならばどうなるというものではありません
あなたがあなたであるということを知ったり知っているということはそれはすでに悟りです
それを人に知らしめるためには「これが悟りだ」という必要はありません 自分がそこに立っていればそこには「あなたの悟り」があるのです
もじもじしたりずっと確度をかえてみたりうしろを向いてみたり布でおおってみたり あなたが「他人にうつる吾はどういう吾であるべきか」と他人のなかの吾にうつる自分を気にすることは悟りから離れます
他人のなかにうつる吾を気にするとその吾がみている他人のその目にうつる吾のみた他人の そのまた見た吾のみている他人の ということにもなりかねません
そうすると自分が他人との間にたてるべき共通認識のなにかを生産する時間がおおきくそがれます これを小さくする練習が修行みたいなものだったりします
生きていることや経験していくこと自体がそれであったりするので わざわざ利益を排除した純粋な公平判断機材となるべき練習の修行でなくとも 社会的に営利活動をするなかでも見つかるかと思います
悟った自分をいくら他の人の心の中に作り上げようとしても 他人の心を作っているのは他人のその人そのものなので言葉をいくら尽くしても悟ったあなたも悟りもなにも伝わらない可能性があります
またもし伝わったとするならばそれは他人に私の作り方という方法を植え付けただけになるかもしれません
悟ったとして自分が自分であるという確証をもってこれからの自分の行動に自分のものであると受け止められるようになった時 きっとできることは自分の見た風景や自分の一部を他の人が見聞きして感じられるなにかにすべきかと思います
自分語りのショートショートを書くこともそれは一つかもしれません
今回は悟りをテーマにした自分の成長過程を時間のなかに刻むことが自分は悟りの点に今日きたという生産物になったともできるかと思いますが
悟りの中に悟りの解説をいれてしまうと 悟りとは何だったのかという解説の出番がなくなってしまいます
私は一個人として悟りという単語のあるべきポジションとして それは伝えようとするとほぼ自己紹介でしかない 悟っているということは自分が自分自身でブランディングできているということ
こんな使い方であったほうが そんな気苦労を減らして人生が過ごせるのではないかとおもっています
あなたが悟りと呼んだその名前を付ける作業は 人生そのもののことだと私は表現をします
むかし写真家の篠原紀信が自分の写真作品に自分を映り込ませるという事を問題視すると話題になった事や ふるくはドッペルゲンガーの話などあるように
同じ名前の定義で内包する具現化したそれを存在させてしまうと かたちを表しようがなくなってしまいます
「写真」という名前の「写真」が写った「写真」は何なのかわからないものです
攻殻機動隊で魂がどこにあるのかということがゴーストという名称で殻におさまっているストーリーでもありましたがその判断の中核にあるランダムを演算する基礎となる乱数キーのような判断基準が悟りであります
もしあなたが何かを生み出そうとして苦難を感じることがあるとするならばそれはきっとゴーストコピーの苦しみのようなものかもしれません
大きな定義の名前をつけて気苦労だけしていくのがわが人生 という生き方もまた悟りだと思いますので個性をお大事にいただければと思います
人間が労働しなくても生活できる文化的基礎を得ることができるようになるためには
まずは一時生産ラインが無人化できる状態にならないとほとんどの人間にはベーシックインカムらしき収入はゆきとどかないはず
いま一部ベーシックインカム的なことができるところがあるのは無人でも金銭の発生が可能な代替手段を投入できるところがあるから
経済関係のオートメーション化で金融や証券関係で無人のものは人間を無償で養える程度に金銭を発生させることができるが
これは人間の労働生産である一次産業や農業なんかがそれ以上にあるおかげ
一部の実態労働に対し人数が少なくて換金率の高い金融関連の無人生産が数量的に都市機能している中での貧困を救済できるんじゃないかと思しき程度に多いので
自分もこの界隈のはしくれにいるけど、今スクールで習っているレベルのプログラミングって、すぐ必要なくなると思うけどね。
プログラミングの生産物って、物ではないので、いくらでも複製可能で複製されればされるほど価値が上がる。
結構なプログラマが頑張って作ったプログラムを、世界のトップエンジニアが自分のフレームワークに実装するのは一瞬であっという間にツールが集約していっちゃう。
スクールレベルの学習を金をかけずに日常的に自習して身につけられるというのは最低条件。スクールいかないと出来ない、というだけで職業プログラマに向いてないし、就職できたとしても、長くは続けられないよ。
実際、コロナで家でゲームばかりしてる小4の子どもに progate やらせたら、どんどん進んでいって、今は go やってるしね。彼女がトップエンジニアになれるかは分からないけど、やれと言ったら小学生で自習できるレベルだよ。趣味になるかどうかすら怪しいわ。
被害者は禁止や賠償、破壊や抑制を要求し失われるべきことを目的とするが、暴力は商品化され疑似体験や体験、文化的生産物、行動や消費に使われている。
社会が人間の構築した生存環境としての消費サイクルにおいてその機能に好適に働いているのは暴力要素のほうではないのか。
別段、私本人としては自殺が合法になり産み分けができるようになればすぐにでも自殺したいし女しか生まれない社会になってほしい汚くて金のないおっさんである。
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これをフラットに1と1にしようというなら、倫理的にも国語的にもわかるが、その偏差で水が高い所からおちるように社会の生産が起きているのを
失わせようというならば、何をもって補完するというのか。
私、農家。
農産物直売所に生産物を卸してるんだけど、70過ぎたあたりのジジババがとにかくひどい
1.開店前に品出ししてる最中に裏口から侵入し、売れ!私は客だ!と大騒ぎ。ちなみに開店1時間前(迷惑度★★☆)
2.店入ってすぐに商品探すことなく売り場所を聞く(迷惑度★☆☆)
3.他のお客さんの相手をしてる私の袖を引っ張って接客を要求(迷惑度★★☆)
4.「これ、何て商品?」と袋の表面に思いっきり商品名が書いてあるのに聞く(迷惑度★★★)
5.「あなたのところのお野菜いいわねー!でも今日売り切れなのね、今からあなたのお家行っていい?」(迷惑度★★★★★)
6.私の自宅に電話かけてきて、名乗ることなく第一声が「今からあなたのお家行っていい?」(迷惑度★★★★★★★)
もうやだ(´・ω・`)