はてなキーワード: 現物とは
国語辞典やブリタニカのような写真ではなく字が主体の百科事典の動植物あるいは衣服等の説明は分かりづらいものです。
あれはそもそも現物を見たことがあることを前提にしているような解説になっているようにみえます。
辞書の主な使い方の一つとして、文章に出てくる具象名詞がどういうものか分からないから引いてみることがありますが、この場合現物を見たことがないことも多いはずです。
ですから解説に写真を用いないならば実物と相違ない像がありありと浮かんでくるような文章で説明されていなければある意味本末転倒なのです。
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試みにあなたが知らない植物を何か一つ引いて、その説明を読んで図に描いてみてください。そしてネットの画像検索で比較してみてください。
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今はAIがありますからより科学的に辞書事典の記述の妥当性を検証できると思います。
写実的な絵を描くことに定評がある人達から同じ植物の絵を集めて、模範的な絵として学習させたら、同じような人たちからその植物をまだ知らない人たちを選出し、辞書の説明だけを頼りにその植物の絵を描かせます。
次のパターンとして、絵は全くの素人という人たちに実物を見せてその絵を描いてもらったら、既に学習させた模範的な絵との比較で、両パターンの近似度の平均をそれぞれ算出します。おそらく全くの素人が実物を見て描いたものの方がまだ高い近似度を持っていることでしょう。
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広く捉えればこれは国語教育の問題かもしれません。つまり国民全体において辞書等から正しいイメージが得られないというのが平均的な水準として示されるならば、それは個人によつ勉学の怠慢という自己責任ではなく、教育制度側の過失といえることになります。
PISAではごく単純な論理パズルのような説明文を読ませて正答を導かせるようなことを行ってきていますが、一度、文章からそれが示す物体やその配置に関する図を選択させる問題も出してみるべきだと思います。
数学には取って付きのマグカップとドーナッツを「同型」とみなすようなトポロジーという学問がありますが、そのような緩い制約の下ですら構造的に異なるような一群を選択肢としても、なお正解を選べない人がごまんと出てくる結果となるかもしれません。
そうだとすれば小説の情景描写もまたまともに機能していないかもしれません。自覚のないあきめくらが読者かもしれませんから。
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本をたくさん読めば読解力が身に付くという考えが横行しています。この根性論のような考えも問題です。
PISA等で国民の文章からイメージを自分の頭に形成する力の低下が判明したら、文章とそれが一般的に指し示す図の対応ということに焦点を当てた学習法をぜひ初等教育に取り入れるべきでしょう。
やみくもに本を読んでれば読解力が上がるというのは、読書に慣れるとか、知らない単語を発見することで知識を埋め合わせる機会が得られるということが考えられるのである意味で正しいですが、しかし言葉をイメージに還元する力の育むに際しては根本的に、原理的に無力だと思います。
我々の脳よりもはるかに高い処理能力を持つAIでさえも、一部の学習に際してはフィードバックという一定の手順を必要するのです。
我々が文章から正しいイメージを得るようになる過程についても同じことが言えると思います。
「そのイメージで合ってるよ」「そのイメージは間違ってるよ」と教えられることによるフィードバックがなければ、自分の読みが修正される機会がなく、何かを読んでもトポロジー的にすら間違ったイメージを展開していくようになるでしょう。
あるいはそれは教育されなかった「ヒト」としての自然な姿なのでしょうけども、それはそれとして。
話を戻せば、するべきことは、文と図との基礎的な対応表を作って、九九のように叩き込ませることです。
これは一見根性論めいているかもしれませんが、無計画な多読よりも遥かに効率的でしょう。
基礎的な表がクリアできたら、もう少し複雑な文や文章でも作成しておいた対応表へと移行していけばよく、方式としても構造化されていて明快です。
結局これは数学において基礎をおろそかにすれば応用問題で容易につまづくようなこと、たとえば掛け算ができなければ割り算はできないとか、微積分の原理が分かってないのでは微分方程式は解けないということと同じです。数学に取り組むのとある意味で同じ態度で国語の学習にも臨まれるべきだと思います。
具体名挙げてしまって著者には申し訳ないのだが「未来からのホットライン」の核融合炉の施設内部の描写がてんで理解できない。説明が緻密なのがむしろネックになってる感じで、キャットウォークとかトンネルとか配線とかの位置関係が三次元的に脳内に構成されていかないんだよ。本当に上下左右という程度の確度でしか把握できない。
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小説は漫画とかと違ってイメージが押し付けられないのがいいという意見を聞くことがある。個人的にはこれはイメージという単語の前に「自分が気に食わない(特に人物の容姿)」という文言が省略されているように思える。
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想像することって、はっきりいえば単に手間でしょ。小説は想像することを楽しむものって手段と目的が逆転してる感じで、本来は「筋書きを楽しむもの」だと思う。筋書きさえ面白ければ、そして挿絵とかが適切なら、想像しなくて済むのならそれに越したことはない。
くだんの小説も建物の「構造」について図があるからといってイメージを押し付けられたと感じる人は例外的だと思うから、文章で全て言い尽くそうとしないで見取り図ぐらい添付してもよかったと思うんだよね。
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私と同じ考え方っぽい人を二つ挙げとく
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https://modernclothes24music.hatenablog.com/entry/2014/02/21/090746exit
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1514063554/exit
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そしてどうしてもこれだけは抜粋しときたい(5chのレスから)
文章だけで考えてると「この馬はどこから走って来てどこに行ったの?
なんでそんなとこから馬が走ってくるの?」
みたいな変な部分が必ず出てくる
読む側からしてもまさしくそういう感じで、結論としては始点と終点が一致したループだと言っていても、今までも風景の説明から本当にそのことが導けるのだろうかという感覚になることがある。
各部分の描写から全体を統合できない感じで、整合性を認められないことがある。
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前記の小説の施設を見学するシーンでも各区画を主人公たちの足取りに沿って説明していってるのだが、いつのまにか前いたところが主人公達の頭上にあることになっている。
確かにエレベーターで地下に降りる描写はあったけど、上下の関係で足取りが立体交差できるような文章だったか。
区画という各部分の風景だけは十二分に頭に浮かび上がってくるんだけれど、ジグゾーパズルでいうならそれはピースの凹部や凸部があやふやになっている状態にたとえられる。
なのでそのパズルを組み合わせる=建物全体の構造を把握することもできないとなる。これが読後感にもやもやを生む。
そもそも自然言語というものはねじれの位置とか含めた抽象的な位相関係を表現するのに不向きなのかもしれない。
そうでないにしてもせめてPISAとかは単純な論理パズルで読解力を測るんじゃなくて風景の説明文に対して、少なくともこれは与えられている文に矛盾しないという図を選択させる問題も導入してほしい。
ネックが読者側にあるかもしれないかもしれないのにその問題が十分には剔出すらされていないように思われるから。
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「船べりに足をぶらぶらさせていた」文学事典に載ってるような作家の手になる表現だ。しかし「船べりに」とは一体どういう状況なのか。
「船べりで~」であれば人がデッキの手すりでも背にして寄りかかって片足をぶらつかせる風景が想定される。
この話は作家自身の航海記であって大西洋を横断できるような鉄の船の話だから「船べりに」何かをするにはへりは高すぎると思われる。和船の小舟のように足をへりに置けるような状況じゃない。
たとえれば無理に腰よりも高い塀の上に片方の足を足の裏を外側に向けて乗せるイメージでただでさえ不安定な姿勢だから、せいぜいへりをかかとで擦るようなことはできても、重力に逆らってぶらつかせるとは描写として不自然と言わざるをえない。
思い込みで文章を書くとそういうことになると聞いたことがあるから、ちゃんと正確に書いてほしい。
正確に書けば書くほど想像の余地が少なくなるから小説としてつまらなくなる、というものではない。
想像する楽しみと小説の楽しみ方としては二次的なものだとは前にも書いた。限定的で端的な例だが、泥のように眠るという慣用句を小石のように眠るとアレンジすることで生まれるような詩的な妙味を味わうことも小説の楽しみ方の一つだ。
酒などを希釈しないで飲むことを生一本といっても、水で薄めずにといっても、神の創りたもうたままにといっても、どれも全く「希釈しない」という全く同一の事態を指しているうえでにその同一性こそがその描写が正確であることを示す必要条件でもあるわけだが、こうした同義のフレーズが畳みかけられている箇所にも、同じ事態の概念への落とし込み方の多様さに面白みが認められるだろう。
俳句は小説じゃないけれど、あれなどは兼題写真があるのが普通だ。写真というこれ以上なく正確な像を前提としているからといって、そこから派生される俳句の数々に「想像の余地がないからつまらない」と批判する人間がいるだろうか。
むしろ想像の喚起を重視する人のブログとか見ると「容姿の描写ほとんどされてないのを逆手にとってわざと金髪美少女のイメージで読んだ」とか言ってるような人もいて、想像するのを楽しむというやり方は小説をカップ麺の重しにするのと同じぐらいひねくれた本の使用法なのではないかとさえ思えてくるわけだ。筋書きを楽しむ、表現そのものを味わうというのが文句なく一義的な意義であるとすればなおさらだ。
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必要だと思ったとこだけ読み込んで不必要だと思ったところは読み飛ばせばいい、授業だって教師の言うこと全部覚えてない、それと同じだというような人もある。
しかし授業内容と違って小説は内容を問い合わせることができない点で致命的に異なる。
不十分だと思って読み込もうとした箇所も独力では一生かかっても理解できないかもしれない。
作者は思い描いた風景を必死に文に落とし込もうとしたかもしれない。作者は情景を読者と共有したがってる。なのに十分に伝わらない。こんな悲惨なことがあっていいのだろうか。
小説には攻略本もITの専門書にありがちなサポートダイヤルもないんだ。
二重回しとか大島紬みたいな名詞の指すものが単に想像できないとかだったら画像検索すれば済むことだけど、実際に読んでてつまづくことが多いのは文や文章という総体がどういう具象や抽象を指し示しているかとことで、でもこうなったときには打つ手がない。
人工知能は与えられた文章をイメージに接地させずに意味を理解できるが、人間としてはイメージに還元できないことには文章を味わうことはできない。
もちろん読者側の能力の問題かもしれないからそこは見極めなければならない。
先述のようなPISAなどの結果によりそういう能力が不十分と分かれば、出版業界に小説には抽象的な構造に関して図解を挿入するよう働きかけるか、さもなくば教育を刷新するか、そういう判断の指針が得られる。
教育を刷新するというのは単に文章を多読すれば読解力を身に着けさせられるはずだという今の態度が不十分という意味で、一つ文を読ませたらその文が一般的に指し示すことになる図を提示するといった訓練を導入するべきだと思うということ。
単文が示す風景(あえて情景とはいわないでおく)すらもまともにイメージできないようでは複文や文章の指し示す風景もまたイメージできるはずがない。
基礎(単文)を固めることでしか応用(文章)を扱えるようにはならないということではむしろ数学と同じだ。そういう心持で読解の養成には取り組むべきだ。
たとえば百聞は一見に如かずといっても社会生活のうえでいつも文章が指し示す現物を持ってこさせられるとは限らないから、文章をイメージに還元する力は実務的な能力でもあるわけさ。
何者にもなれないって悩んでる奴が何者にもなれないのは既に特別な人間だから
自分が何者になれると勘違いできるような恵まれた環境にあるからじゃないのか
例えば
実家が太いから楽器を始めようと思ったらすぐに楽器を購入して手元に現物を置いて始められる
東京に住んでるから徒歩で気軽にライブハウスに足を運んで目の前で芝居が見られる
見た目がまあまあ小奇麗で普通だから警戒されることなく作家のコミュニティに客として入れてもらえる
それで自分が発信する側になれるとぼんやりと勘違いする&ある程度満たされてしまって飢えがないから作り手側になれないどころか必死に消費するオタクにすらなれないんだよ
前略
―実は人間は、この世界に自分が存在しているという事に関して、責任がない。自分の存在を自分で選んではいないからです、だから当然、自分が生まれたがゆえに、自分がこの世界に存在しているがゆえにやってしまった事、やらざるを得なかった事に関して責任がないわけです。一番もともとのところの責任がないわけですから、それに因果的に規定された残りの部分に対しても責任がなくなります。子供はもともと自分が好きで生まれてきたわけではないので、この世界に耐えられなくて嫌になって文句を言っても、その事に関して子供を叱る事はできない。人間はこの世界の中に生まれてくる。しかも、多くの点に関して、何者かとして生まれてくる。つまり多くの性質を与えられて生まれてくる。例えば男か女かどちらかの性であるものとして生まれてくる。人種的な特徴を持ったものとして生まれてくる。あるいはある特定の共同体の中に、例えば日本人の共同体の中に生まれてくる。そのほかいろいろな性質を持って生まれてくる。そういう事すべてに人は責任がない。そうであるとすれば、人間はそもそも責任がない。それがイノセントであるという事です。
子供から大人への移行
┗ここで問題になるのはこういう事です。責任がないという事は自分が選んでないという事です。逆に人間が自由な主体になるという事は、自分が選択していると言える事ですから、今度はイノセントではありえない、つまり責任があるわけです。自由と責任は表裏一体です。これは学校の先生なんかは好きな言葉ですね。イノセントであるという事は、自由な主体にまだなっていない段階です。自分のやった事に関して自分に責任があるとは言えないという事です。そうすると、人間が成長するという事は、イノセントな状態を何らかのやり方で克服・消去する事です。これが『イノセンスの壊れる時』という芹沢さんの言葉の意味です。つまり、本来はイノセンスなんです。これを書き換えなければいけない。責任がありませんよ、というところを消して、自分に責任があるんだと書き換える。そういう事をするのが大人になる事なんだというのが芹沢さんの言っている事です。イノセンスのこの書き換えをどうやって人間はやるのか、この書き換えのメカニズムを考えてみよう――それが芹沢さんの短い文章の基本的な趣旨です。
ここですごく重要な事を言っています。常識的に考えると、次のようになる。子供は自分がイノセントだという事を主張します。「ぽく、悪くないもん」という事を行動や態度によって表明するわけです。そういう事を言ったときに、凡庸な親だと「いや、お前が悪い」という事を一生懸命教えようとする。しつけをするというのはそういう事だと思われているわけです。そういう事をすると、はじめは自分は悪くないよと言っていた子供が、やっぱり自分が悪いんだと思うようになる――というのが普通の親の考えている事ですが、芹沢さんが言っている事は全く逆です。子供が何らかの意味で「俺は悪くないよ」という表現をしてきたとき、そういう意思表示と解しうる行為をとった時に、逆に「そうだ、おまえには責任がないんだ」という事を認めてやれというわけです。子供がイノセントだという事を自己表出したときに、まさにイノセントだという事を承認してやりなさい、と。そうすると、不思議な事に、まさに承認した内容とは逆の結果が出る。つまり、子供のイノセンスを認めてやると、逆にこれが否定されて、子供は自分自身に責任がある、自分の存在に対して自身に責任があるという自覚に到達するというわけです。責任を自覚するという事は、自分の存在や自分に与えられた性質・運命を自ら引き受けてやろうと考えるようになる、という事です。例えば子供が「生んでくれと頼んだ覚えはない」という意味の主張をしたときに、その事を全部肯定し、認めてやる事で、かえって人は責任ある主体に変わっていく。そういう事を芹沢さんは言っているわけです。
人間が自由な主体になるという事
┗客観的に見れば、子供がイノセントであるというのは正しい主張です。だから、自由な主体になるという事は、先ほど言ったように、あえて、正しくない虚偽を(真として)認識しているかのように振る舞うという事なんです。本来人間はイノセントです。でも、このままだったら人間は自由な主体ではない。自由な主体になるというのは、本来こちらが正しいにも関わらず、本来イノセントであるにも関わらず、まるで自分がイノセントでないかのように振る舞うという事です。だから、大人になるという事は、真理に目覚めるという事ではない。逆です。真理は、むしろイノセンスの方にある。その本来の真理を隠蔽する事が、ここでいう書き換えです。この真理の隠蔽、この欺瞞は、有効で意味のある隠蔽であり、欺轍です。具体的に言えば、皆さんは今こうやって生きていて、いろんな性質を持っている。その99.9%に関してあなた方は責任がないんです、本当は。例えば自分は足が遅い。考えてみると、これは親のDNAのせいなんだ。俺の足が遅いのは自分のせいではない。けれども、人間が自由な主体になるという事は、客観的に見れば自分のせいじゃないけれど、まるでその事に関して自分が責任があるかのように自覚して、生きるという事です。簡単に言えば、足が遅い俺も、それもよし、足が遅い俺の運命を自分で引き受けよう、そういう人生を自分のものとして生さていこうという気分になる。まるで足が遅い人生を自分で選んで、自分で引き受けてやってるような、そういう自覚に達したときに、人間は自由な主体になるわけです。
だから、本当の事を教わる事で本当の事を悟って人間は自由な主体になるのではなくて、むしろ、本当でない事を生きるようになるのが自由な主体になるという事なんだ、という事がまず頭になければいけません。
芹沢さんが圭張しているのは全くパラドキシカルな方法で、子供がイノセンスを表出してきたときに、そのイノセンスを全面的に肯定してやる。すると不思議な事に逆に子供のイノセンスが解体し、子供が自分自身の運命を自分で引き受けようという気分になっていって、それがあって自由な責任を担う主体になっていくんだという事です。なぜ。こういう逆転が生じるのか。なぜイノセンスを認めてやれば、その事によって子供はかえって自由な主体になる事ができるんだろうか。その事が、そもそも自由っていかにして可能になるかという問題につながってくるのです。
親はどのように子供のイノセンスを認めたらいいのか
┗もう少し芹沢さんの言っている事に耳を傾けましょう。いくつか面白い事例を出しています。イノセンスを認めてやるのは普通は大人、特に親です。ですから、親がどうやってイノセンスを認めてやって、その事で子供が自由な主体で責任のある主体に変わっていったのかという事を見るのがいいのですが、そのときに芹沢さんはわざとこういう例を使います。普通の親子関係だとかえっで見えにくいので、養子縁組の場面で考えてみようというわけです。なぜ見えにくいかというと、普通の親子関係というのは血縁関係がありますから、はじめから親も子供も自分たちが親子関係であるという事を当たり前の事であると考えてしまいます。お互いに自分の運命を自然の事だと考える事で、親が子供のイノセントな存在を肯定してやるという劇的な場面は半分終わってしまう。だけど、血縁関係のない親子関係では、親子関係をこれから作らなければいけない。だから、親が子供の存在を自分のものとして認める、あるいは子供が親を親として認める、そういう事を実際に意識的にやらなければならない。そこでわざと養子縁組の例で考えてみようというのが彼が提起する例です。
養子縁組というのは、何らかの理由によって両親がいない孤児がいて、そしてその孤児を自ら引き受けて育てていきたいという親がいるときに成立します。養父母は、孤児を集めている施設のようなところからひとり連れてきて、自分の子として育てるわけです。そのときにポイントになるのは「真実告知」という場面です。つまり、実はあなたは孤児だったんだ、それを養子として迎えて子供になった、そういう事実を告げ知らせなければいけない瞬間がやがて来るわけです。この「真実告知」の瞬間というものに、芹沢さんは注目しています。子供を養子として引き受けようとする人たちのために、どうやったら「真実告知」は成功するかというパンフレットがあるそうです。僕は現物を見た事はありませんが、芹沢さんの本に引用されていて、家庭擁護促進協会大阪事務所というところから出ている「真実告知例解集」という本です。それによると「真実告知」には三つのステップがあるという事が書いてあるそうです。一番目は『私たちは、血のつながりはないけれども、親子なのだ』という事をまず事実として言わなければいけない。ここで重要なのは、いかにも否定的な言い方をしてはいけないという事です。「実は私たちは本当の親ではないんだよ……」という否定的な言い方ではなくて、むしろ「親子なんだ」ということを言うところにポイントがある。二番目として「私たちは、あなたを選んだんだ」「あなたが気に入ったから選んだ」という事を言うわけですが、このときに気に入った理由を言ってはいけない。一番かわいかったから選んだとか、一番利発そうだったから選んだとか、ー番元気だったから選んだとか、そういう条件・選択において気に入った理由を言ってはいけない。そして三番目は「いま私たちは完全に満足している」という事を言う。この3つのステップを追う事によって「真実告知」のセレモニーが完結し、うまくいんだと。
子供の存在を100%肯定する
┗このパンフレットの解説が教えている事は、真実告知は、親が子供の存在を、子供がここにいるという事を100%トータルに肯定する、100%承認している、その事を示す事がポイントだという事です。子供にとっては、自分の存在は与えられたものです。自分がこういうものとして存在する、自分はこういう髪の毛を持って、こういう顔をしている、こういう性格を持っている、こういう性的な趣味を持っている、そういう事も含めてすべてが与えられたものです。ひとつも自分のせいではない。その事がこの真実告知の三つのステップの中で目指されている事です。
否定的な言い方をしてはいけないというのは「本当の親子ではないんだけど…」みたいな事を言うと、まるで血縁の親子のほうが本当はよくて、今の関係はそこから見ると少し格下だという事を言った事になってしまう。そういう事を言うと、子供がいま置かれている存在を肯定された事にはならなくなってしまう。
特に興味深いのは、第二段階です。選んだ理由を言ってはいけないというところがすごく面白いと思います。親が選択したのだけれども、その選択は理由がないという事は、それが、空虚な選択、実質のない選択だという事になります。例えば皆さんが洋服を選ぶときに、いろいろ理由があって選びます。一番安かったとか、一番デザインがよかったとか、そういうときには選択に実質があるように見えます。選択するという事は、他でもありえたという留保が付いているという事です。理由がついているという事は、どういう場合に、他でありえたか、という事が明示的になるので、選択に実質があるように見えるわけです。それに対して、何の理由もなしに選んだと。「なぜその服を着てる?」「いや理由はない、とにかく選んだ」というのは、選択はしているかもしれないけれども、実質のない空虚なものに見えてくるわけです。しかし、ここでは、単に選んだから選んだ、気に入ったから選んだとしか言いようがない空虚な選択であった、という事を子供に言わなくてはならない、と述べているわけです。もし逆に条件づきで選んだとしたらどういう事になるか、と考えてみましょう。例えば「あなたが一番賢そうに見えたから選んだのよ」と言うと、これはもちろんポジティブな言い方です。ポジティブな言い方だけれども、実は子供の存在を全面的にポジティブに承認した事にはならないんです。賢かったから選ばれたという事は、もし十分に賢くなければ選ばれなかったかもしれないという事を意味している。だから、条件づきで選ぶという事は、子供の存在を100%肯定した事にはならなくて、部分的にしか肯定した事にならない。あなたが一番よい子だから選んだという事は、よい子でなかったら自分は選ばれなかったかもしれないという事を意味するわけです。賢かったり、よい子であるその限りでの自分が親に肯定されているだけだからです。今度は子供の視点から物を考えてみたらどうなるか。親に言わせれば、選んだから選んだという言い方しかないわけです。子供の立場からすると、この選ばれ方とは、その親の選択に自分が全然関係していないという事を意味しています。もしある養子が賢いから選ばれたとします。そうすると、親が最終的には選んだかもしれないけれども、自分が賢かったという性質が親の選択を方向づけた事になります。自分が賢くなるように努力したとか、あるいはそんなふうに頑張っていたわけではないにしても、自分がそういう性質を持っていたという事が原因になって、親が選択した。親が理由ありの選択をするという事は、子供の側から見れば、その選択に自分が少しは参加している、関係している、という事です。よい子だから選んだという事は、自分がよい子であろうとしてきた、あるいは現によい子であった、その理由によって選んでいるわけだから、子供のほうもその選択に少しは参加しているという事になります。逆に、理由なしの選択の場合はそうはいきません。ここでは子供のほうには何の原因もない。親のほうが全面的に選んでいる。だからこの場合は、子供は彼が選ばれる行為に、全然参加していないという事になるわけです。そうすると、一見したところでは、理由なしの選択であった場合よりも、理由ありで選択した場合の方が、良いような印象をもってしまいます。つまり、子供を自由な主体にする、選択の主体、責任ある主体にしていくという事が目標であれば、親が理由ありの選択をしたほうが有利なような印象を与えます。なぜかといえば、例えば「あなたが賢いから選んだんだよ」と言えば、それは、賢くあろうとする子供の能動的な努力を誘発する事になるからです。でも、そもそも理由なしに選ばれたら、子供としては親に気こ入られるために頑張りようがない。つまり、このときに、子供の能動性を引き出せないようにみえる。ですから、ちょっとあさはかに考えると、理由ありの選択をしたほうが、子供というのは自分自身で頑張り、自分で何かをやろうとし、責任のある主体になりやすい――そう考えたくなる。しかし、実際には逆であって、理由なしの選択のほうが成功すると、パンフレットは言っているし、また芹沢氏も言っている。
このあたり
んで自由からのリバタリアニズムに繋がって、(話題としては)でマイケル・サンデルとかに繋がってくんだけど、そこは各々、自分がしっくりくる主義をみつけて、違う主義をもつひとと折り合いをつけながらやっていきましょーねが資本主義だと思ってるけど。
とりあえず自分の主義を探ってみるところからはじめては?自分の考えを言語化できるようになると、仲間もみつけやすいし、仲間と話せば、あなたなりの答えがみつかるかもしれん。
最初、ソシャゲとしても読み物としてもひどいなって点多すぎた。
でもそれでも、中盤って言っていいのかだけど、
中盤以降の「宙の乙女」「天神花見」「4章近畿編」は滅茶苦茶面白い。
俺が今まで触ってきたソシャゲやコンシューマーでは及ばないぐらい、
認めざるをえない良い体験だった。
1つも序盤にないのが辛いけど。
という感じで使われているように見える。
あんたが違う意味で使ってたなら、あんたにこの先書いてることは関係ない。
もし少しでもそういう意味で「完全に理解した」風に言ってたんなら、あんた向けに書く。
FGOベースのゲームデザインは苦行でやめてくれっていうのは超わかるんだが、
「何もない」は、いくらなんでも違う。
序章、1章、2章、初回イベント、3章は
そこまで遊んでやめた人は「何もない」って言っていいかもしれないけど、
その後のイベント2つとサ終決定後に発表された4章は滅茶苦茶面白かったんだよ。
しかもまだ最終章があるらしいんだよ。それが期待できるんだよ。
つまりオリジナルキャラたちで、ちゃんと気持ちのいい物語ができてる。
楽しい、いい、すごいゲームだな、そう思える瞬間がマジであってしまう。
ライスやチケゾーのメインシナリオとサクラ革命の4章シナリオで対決させたら、
ウマを落としたいんじゃないし格付けをしたいのでもない、
あのウマ娘を超えると言わせるほど特段に優れてたよと言いたいだけ。
だから「何もない」だけは、言ってる方が恥ずかしいって。
「いいオリジナルキャラたちがいて、ちゃんとハマれる話をしてる」までうまくやったんだよ。
プレイしてないっぽい人気IPの追っかけ二次創作ばかりしてる絵師が
「FGOのfate抜きは、無理だわな」とか言ってるの見て、キレそうになったわ。
というかキレたから寝付けないでこれ書いてるわ。
それ、俺的には機動武闘伝Gガンダムに対して観もしないで
とか言ってるのと同じに見えるから。
Gガンダムに対して「アムロとシャアを出さないから終わるんだよなぁ」だよ。
わざわざ機動戦士じゃなくて機動武闘伝って書いてんのに、アムロとシャアが出るかよ。
平仮名だったら7文字中4文字も違う、もうサクラ大戦IPじゃなくてサクラIPなんだよ。
機動戦士ガンダムIPじゃなくてガンダムIPって思うのはダメか?
で、機動武闘伝Gガンダムは知っての通り
ドモンとか東方不敗とかシュバルツとかアレンビーとか超いいキャラいっぱいいて、
見た人は「た、楽しい……こ、こんなのガンダムじゃない……いやでも、これはこれで……」
ってその強さを認めて、
新しい世界が脳にキマっちまった同志達で
「流派、東方不敗は!」「王者の風よ!」とかやりだしてんのに、
「ジオニックもアナハイムも出てこないんでしょ?カスじゃん」とか
言ってる方も残念、耳にした方も残念、悲しいだろ。
「いやそれがさ、最初はクソに思ったけど東方不敗ってやつがやばくて……」
と言ってきても
とか言ってるやつ。
どれだけ(うわ……こいつ、オタクとして痛え……)って状態かわかるだろ。
って。
中身がどんだけクスィーとペーネロペーの戦闘シーンが超絶でも、
ラストの展開がああでああでああ~~~ああああああああ~でも、
それを一切知覚できないまま
「ま、FGOのfate抜きって感じかな。見てないけど」ってドヤれよ。
そんぐらい、超偏った人や放火したいだけの人が発したネットの言説にのっかって、
的外れなことを言ってることにすら気づけてないあんたはかっこ悪い。
この文見たことは秘密にしていいから、こっそりツイート削除しとけ。
で、ちょっとだけ
「失敗したのは間違いないけど、何もなくはないんじゃねえの?興味ねえし触らねえけど」
って魂のステージを1歩進めてくれ。
俺を夢中にさせてくれて、
見事に金まで吸っていったそうか、ひめか、他乙女たちを無かったことにするから、
俺も寝られん。
ガンダムやウマでわかんない人向けに今度はアイマスで例えるわ。
しつこいのは知ってるわ。
例えばシャニマスに対して、
「アイマスなのに春香も千早も、卯月もしぶりんも出ないとか、FGOからfate抜いたようなもの。何もないって。サ終妥当すぎる」
「なんでアイマスなのにみんな髪の色が黒とか茶なわけ?モブなの?モブマス?」
って、
「何から何まで完全に的外れ」なこと言ってたらイタすぎるだろ?
自分を相当賢いと思ってるのに、たぶんそうじゃないってことが言動から滲み出てるやつ。
そんなのになるなよ。
革命がサ終発表のタイミングを測っていたであろう空白期にウマ娘を始めて、俺はずぼっとハマッた。
全体的な手触りとか、ゲームシステムはもちろん、攻略サイトかわしを内包してる点まで、ゲームへの造詣が違いすぎると思った。
でも、革命がサ終決定の発表と同時にリリースした4章近畿編はやったし、
やってみたら「ああ、やっぱり超面白いわこれ」ってなった。
とくに4章近畿編はメインシナリオでは初めての真剣味のある回だったから、
コメディからの感動系で楽しませてくれた宙の乙女や天神花見とはまた違った良さで大満足させてくれた。
序章、1章、最初のイベントはこれどうしてOKしたんだよって感じで辛すぎて、
俺が感じられた面白さまで生き残った人が少なすぎるってのはあるけどさ。
お願いする。
ぜんぜん興味ねえし触らねえけど(笑)」
のがかっこいいって。
それで、、、どうよ。
イケメンイケジョだったら
「いや…ビジネスとしては失敗でも、
泣けよ…今夜は俺の金で飲みな」
って言ってくれる。
抱いてくれ。
おやすみなさい。
3年前の4月26日に自分が暗号資産について書いてから3年経過した現状を書いておく。
■ビットコイン(BTC)
今現在2BTCを保有しているので約1,160万円分ということになる。
昨年の3月には40万円台まで下げて、その頃が一番精神的にはきつかったが、それでもまだ利益は出ていたのでひたすらHODLしていた。
それから昨年の年末にかけて2017年の高値を超えてからはもう安心しきっている。
4月14日には700万円を超え、そこから下落しあわや500万円を下回るかというところまで下げたが、現在はそこから少し戻したところだ。
3年前の当時Zaifで始めたコイン積立はハッキング事件でストップし、BTC以外ではMONA、XEM、ETH、XLMで現在価値が60万円分程度となっている。
ビットコインキャッシュは分裂話が出てすぐにビットコインに変えたのでもう持っていないが、結果的には正解だったようだ。
チャートを眺めていると2,500万円程度までは上げそうなので、とりあえず2,000万円を超えるまではこのまま持ち続けようと思っている。
またそのうち思い出したら経過を報告しようと思う。
そう呟いたのは多分六年前だか五年前だったかと思う。その時俺達は喫茶店で、世の中の悪が何かについて話していた。
その場には男の先輩が一人と女の子の後輩が二人いて、先輩は「知ってる」とぽつり。女の子二人は「しらなーい」とぽつり。
勿論、俺と先輩はその話を掘り下げたりせずに、穏当に元の話題の路線へと戻り、「やっぱ世の中気を付けて生きなきゃだめよ」みたいなことを言っていた。女の子二人はケラケラと笑っていた。
◇
何で今更になってこんなことを思い出したかというと、当時テーブルを囲んでいた後輩の女の子が先輩と付き合って、破綻して、今朝がたtwitterで僕を含めた当時の関係者に対しての呪詛を書き連ねていたからである。
多分こういうのは、よくある話なのだろう。勿論僕はその後輩に横恋慕していて、そして二人の関係とか、あるいは時折後輩の見せる刺すような発言と態度に傷を負ったりしながら生きてきたのだけれど、そんなことは些事である。一々考えるようなことじゃない。
ともかく、今僕がこの文章を書いているのは、後輩の女の子が僕と先輩を含む当時の関係者にSNSで呪詛を連ねているところを見たからである。
その呪詛がどんなものだったかというと、彼女曰く、「悪を糾弾できない存在も悪だ」、とのことであった。
つまり、彼女はこう言っているわけである。当時、破壊的性向を持っていた先輩のことを僕を含む関係者は止めることができなかったし、そして、物事が落ち着くべき位置に落ち着いてなお、僕を含めた関係者は先輩のことを表立って糾弾したりするでもなく、あるいは罰したりするでもなく、淡々と日々を送っているのだと。つまり、先輩が悪であると同時に、先輩を裁くことなく静観していた、僕を含めた関係者もまた悪なのだと。
全く以てその通りだと思う。僕は悪の片棒を担いでいるのだ。物事を正しく裁こうとなど決してしなかったのである。
一応、僕は見知っている後輩らが先輩に対して好奇心なり何なりを持っているのを見咎めると、「先輩は悪人だから近付かない方がいいよ」と度々言及していた。(「悪」の具体的な内容についてはここでは伏せるが)
とは言え、一見インテリジェントで気が利いて、かつある分野において顕著な業績を収めた人物である先輩に対して、後輩たちは僕の忠告をあまり深刻には受け止めなかった。あまり僕の忠告は功を奏さなかった。後輩たちの中には、今でも先輩に連絡を取り続けている子もいるようである。まあ、それはそれで良いのだと思う。僕は別に彼女たちを悪し様に思っていないどころか、先輩にだって悪感情を持っていない。彼女たちはそれなりに幸せそうであるし、今でさえ僕は先輩と時々食事をしたり、ボードゲームに現を抜かしたりしている。
◇
スナッフフィルムについてご存知だろうか?
それは、快楽を目的とした殺人行為を撮影した映像作品のことを指している。特に、商業的意図を以て撮影されたものを指す。スナッフという言葉は、「ロウソクを吹き消す」という意味を持つ動詞であり、同時に「殺人」のスラングでもある。
勿論僕も現物を見たことはない。そもそも、「スナッフフィルムは単なる都市伝説で、実在しない」という論も根強い。
ただ僕は、二十年近く前にアングラサイトで「衝撃! 少女が公園で殺害される映像! 購入は以下のアドレスで!」的な宣伝がされていたのを見たことはある。そのサイトによれば、外国人の少女は公園で刺殺され内臓を引きずり出された後に、ガソリンによって燃やされるとのことであった。そういう宣伝を実際に目撃した人間からすると、スナッフフィルムは実在するという立場から主張するほかない。
(また、中東やロシアでの拷問や処刑の映像も広義のスナッフフィルムとみなすことができると思う)
スナッフフィルムにおいて撮影されるのは、主に少年少女である。
主なスナッフフィルムの内容は、少年少女に麻薬を与え、性的に高揚させた後で凌辱し、その後に殺害する、といったものであるそうだ。僕もよく知らない。正直この知識は既存の創作物から得たものなので、信憑性においては幾分問題があるかもしれない。
いずれにせよ、仮にスナッフフィルムが伝聞の通りに存在するのであれば、それはこの世の悪を煮詰めた存在であると思う。
それは、恐らくそれを求める人間が存在し、また、それを供給し得る人間が存在しているからだと思う。仮に、ある人物が何かを要求し、その対価としての金銭を十分に示せるとして、何者かがその要求された何かを提供できるとすれば、多くの場合そこには商業的取引が実現してしまう。可能な物事が、不可能であり続けることは難しいのである。マーフィーの法則を引くまでもない。
つまり、そのような商業的なやり取りは、人の意志を超えてしまうのだ。それが可能である限りで実現してしまう事柄に、人の意志は関係ない。そこにはある種のシステムが構築されてしまうのである。
そのようなシステムに根差しているのは、明らかに人間の欲望と暴力である。人間にとってのある種の欲望と暴力が可能である時、そこにはシステムが出来上がる。システムは、金銭と欲望達成を媒介に、暴力的に成立する。そして、人の意志とは関係なくそのシステムは自己増殖し、その体系をより確固たる存在へと変えていく。
「人々が欲望し、かつ金銭的対価を支払える事柄は、それが不可能でない限り実現する」これが、欲望と暴力のシステムにおける定言命法である。そこでは人の意志に関わらず淡々と物事が実現する。一度実現したシステムは、当事者の意志で止めることはできない。金銭を媒介に、システムは機能し続ける。
というわけで、世の中にはいわゆる悪が蔓延ることになるわけである。勿論、繰り返すようにスナッフフィルムの存在は都市伝説に過ぎない。「スナッフ」と銘打たれて販売された商品の多くが、作り物であるとも言われる。しかし、僕は「スナッフフィルムは都市伝説に過ぎない」という発言に対して、どうしても疑義を覚えてしまうのである。そう、人の意志とは関係なく機能するシステムが世の中には既に構築されており、そのシステムの内部においては、可能である事柄はすなわち実現するのである。そういった原則を振り返った時に、快楽としての殺人が不可能であると断じることが僕にはできなくなってしまうのだ。
まあいい。とにかく、世界においては、可能である限りで、そしてそこに人の欲望が存在し、金銭的な対価を示せる限りで、ある種の悪や暴力が必然的に実現してしまうという、悍ましいシステムができている。我々は、そのようなシステムに向き合わなければならない。そのようなシステムを糾弾し、ハックしなければならない。その在り方を上手く変更せねばならない、はずだ。
とは言えそのような決意が実現されることは稀である。何故だろう? 我々は多くの場合悪を放置し、看過するしかないのである。それが不可能であるからだろうか? 我々に内在する欲望を媒介に機能するシステムを、我々自身が変更し、打破しようとする行為は、そもそも自己矛盾的だからだろうか? よく分からない。
いずれにせよ、自身の欲望に根差したシステムに変更を加える行為は、決して簡単ではない。我々は、そのような欲望と暴力のシステムをどうしても看過せざるを得ない。
それは、スナッフフィルムに限った話ではない。ある種の極度に暴力的なコンテンツに限った話ではない。我々の身近には、その手のシステムが息づいている。我々は、日常的に、そのようなシステムに触れることになる。我々は暴力と欲望に根差したシステムに、普段から関与し、触れることになる。
例えば、不均衡なコミュニケーションもそれだ。一方の話者の力関係が他方の話者に優越しすぎたコミュニケーションは、暴力的な影絵を描く。そこには権力の不均衡が生じ、そして暴力と欲望充足を生じさせることになる。そのようなシステムが我々の日常では機能しているし、何なら我々はそのようなシステムに組み込まれている。
例えばそれは企業と個人の力関係においてそうであるし、あるいはある種の閉じたコミュニティにおいてもそうである。そのような力関係において、いわゆる弱者が欲望充足の手段とされることは珍しくない。我々の身近に、そのようなシステムは往々にして存在している。
我々はそれを看過しながらに生きている。あるいは、そのシステムを自身の一部として受け入れながらに生きている。
何故なのだろう?
「ビットコインの価格が600万円超えてるんだろ。知ってるよ。」と、少し詳しい人なら答えるかもしれない。
しかし、そうじゃないんだ。
今、仮想通貨界で起こっているバブルは、決して「ビットコインを持ち続けている人が儲かっている」という単純なものではない。
ビットコインをトレードして、勝った人・負けた人が出る。そんな宝くじのような世界ではないんだ。
「きちんと知識を持って、お金を増やそうと真剣にやった人『全員』の資産が確実に増える」。そういう状況が訪れている。
20台後半くらいからは結婚したり家族を持つ人も増えてくるだろうし、手取り給与も増えてきて「将来のために運用しないとな」と思っている人も多いだろう。
そういう人たちの中で、
「仮想通貨における安定運用」をしっかりと学習して実践した人と、そうでない人の差で、埋められない差が確実に出てくる。自分は本心からそう思っている。
今からでも遅くないので、仮想通貨を利用した資産運用を真剣に考えるべきだ。
おそらく、増田なんて見てるのは自分の境遇と大して変わらない人たちだと思う。
だから、単純にみんなに伝えたいと思い、この文章を書くことにした。
資産運用に興味がある人は、これを見てから、仮想通貨による運用を検討するかしないかを選べばいい。
また、検討した後に実際にやってみるかやってみないかは、完全に自由だ。
いま、仮想通貨界では、「ほぼ確実に」資産を増やせるといわれている運用方法が、いくつかある。
ここでは、最も確実な(と自分が思っている)例を1つだけ挙げようと思う。
この増田が伸びれば、他にもたくさんある稼ぎ方についても語ろうと思う。
「ほぼ確実に増やせる」というのが、響きがものすごく怪しいため、賢い人は疑ってかかるだろう。
だが、事実そうなので、その賢い頭でしっかりと考えてほしい。
考えれば考えるほど、確実に増やせるという事実に疑いようがないことが分かってくると思う。
ここで挙げるのは、「現物と先物のサヤどりをする」という手法だ。「現先」などと呼ばれている。
余談だが、海外の仮想通貨取引所は、優れた商品開発を行っている。
商品・技術・サービス品質、どれをとっても日本の仮想通貨取引所はくらべものにならない。
日本には真剣に運用するに値する商品は一つもないので覚えておいてほしい。
さて、ビットコインは数年前から「デリバティブ(派生商品)」が多数開発されており、「先物」はその中でもメジャーな商品だ(やはり日本にはまともな先物商品は一つもない)。
いま海外取引所では、ビットコインの現物はだいたい60000ドルなんだが、
実は、6月25日に満期を迎えるビットコイン先物(期日になると、ビットコインの現物を受け取れる)は65000ドルなんだ。だいたい9%ほど割高になっている。
この「先物」というのは、いわゆる空売りができるんだ。売った後に、買い戻せばいい。
するとどういうことができるかというと、
③6月25日まで待つ。すると、差額の5000ドル分が儲かる(事実として、儲かる)。
手持ちの資金が10万ドル(≒1100万円程度)あったとする(資金がない人は1/10にして考えてほしい)。
そして、残りの40000ドルを証拠金にして、65000ドルのビットコイン6月先物を1枚分空売りするんだ(ショートする、という。レバレッジを使えるため、40000ドルもあれば比較的安全に65000ドルのビットコイン1枚を売れる)
6/25になれば、現物の価格も先物の価格も同じ価格に収束して、もともとの差額だった5000ドル分が儲かるんだ。
今日から6/25までは65日間あるので、65日間で5%の利回りを得られたことになる。
65日間で5%の利回りということは、1年間に換算すると年利約28%だ。
この利回りを「確実に得ることができる」。
もちろん手数料などかかるが、この利回りと比べると微々たるものだ。
これまでの資産運用の王道は、世界経済に分散してインデックスETFなどを積み立てで購入することだった。
そうすると、バラツキはあるが長い年月でみると5~10%程度の年利を得ることができるんじゃあなかろうか。
そういうものだった。
だが、仮想通貨界はそういうレベルではない。「確実に」「65日間で」「利回り5%」を得ることができる。
だから、冒頭で述べたように、仮想通貨を利用した運用方法を知っている人と知らない人とで、とてつもなく大きな差が生まれるんだ。
一応、上記の運用方法で気を付ける点を話しておこう。2つある。
ひとつはカウンターパーティーリスクと呼ばれるもの。
これは、6月25日までに、利用していた海外取引所がつぶれたり、ハッキングされたり、日本からの入出金が停止されたりする などでお金が失われてしまうことだ。
これについては、可能性としてゼロではないので覚えておくこと。
ただ、海外のメジャー取引所はぶっちぎりの優良企業なので、自分は割り切って使っている。
もう一つは、6月25日までにビットコインが暴騰し、先物をショートしている40000ドルの証拠金が足らなくなってしまうことだ。
これについては、例えば10万ドルのうち、3万ドルを現物買いに使い、残り7万ドルをショートに使う、などでレバレッジを調整することになる。
最後に、なぜこういう「確実にお金を増やせる状況」が起こっているか?ということについて書く。
それは、このバブルで6/25にはビットコイン価格はもっともっと高くなっているだろう、という期待感が強いからだ。
いまのうちに65000ドルで先物を買っておけば、6/25にビットコインが70000ドルまで上がっていれば、差額を儲けることだできる。こう考えている人が多いからだ。
バブルというのはこういうことだ。
自分でビットコインを買わなくてもいい。そんなリスクを取らなくても、いまの市況であればもっと確実に、安全にお金を稼ぐことができる。
だから、本当に詳しい人は、ビットコインの価格だけを見て「バブル」と言ってるわけではないんだ。
いま、仮想通貨界には「ほぼ確実に資産を増やせる」手法は何通りもある。
「いろんな手法を利用してお金を稼ぎたいけれども、資金をすべて運用に回しているからこれ以上はもう何もできない」とうれしい悲鳴を上げている。
普通に数百万円の元手があれば、1~2か月もあれば100万円程度の収益が、本当に嘘ではなく、実現できる。
これが今の仮想通貨界。
自分はtwitterで情報収集をしているんだが、1ヵ月で数千万円を「手堅く」稼いでる人は全然珍しくない。
怪しい詐欺師ではない。普通のサラリーマンたちなんだ。ちょっとだけ技術好きで、仮想通貨を2017~2018年ごろからずっとやっている、本当に普通の人たち。
本当にラッキーだったと思う。
自分の収益を上げると嘘っぽい、釣りだと言われそうだが、今年に入ってから本業の年収以上くらいは稼いでいる、と言っておく。
まあ、自分のことは嘘だと思ってもらって構わない。
しかし、上のほうに書いた運用方法が実際に実行可能であることは、本当に事実なんだ。
バブルはきっとそのうち弾ける。
あと何か月持つかは分からない。自分は、この仮想通貨界で、一生懸命資産を増やそうと思う。将来のために。
自分は本当に運がよかった。だから、この増田はみんなへのおすそわけだ。
将来に渡って安泰でいられるかどうかは、自分次第だ。
ブコメに返信させていただく。
>それ、ただのカバードコールでオプション売買戦略の古典的な手法だよ。米国株の個別株でも同じような事ができる
おっしゃる通り。
仮想通貨では様々な銘柄の期限付き先物が揃ってきており、6月限の先物乖離がだいたい4~10%程度となっている。サヤ取りし放題の状態だ。本当にありがたいことだ。
>カウンターパーティーリスクを負いたくないんだよ、普通に。
実際にリスクがあるため、ここを気にする人に強く勧めることはできない。
この話は詐欺ではない。
詐欺だと決めつけて思考を停止させることは、もったいないことだ。
先物をレバレッジかけて買っている(ロングしている)人が多すぎるんだ。
仮想通貨では「オープン・インタレスト」という指標が公開されている。それを見れば分かる。
>“バブルはきっとそのうち弾ける”のがわかってるのに何で6/25までは大丈夫だと思ってんの?
分かっておられないようなので、詳しく書く。
この手法は、バブルが弾けても弾けなくても、6月25日には5000ドル分儲かる仕組みになっているんだ。
例えば、今日暴落してビットコインが現物30000ドル、先物35000ドルになったとする。
すると、現物は-30000ドル分の損失。しかし先物のほうは売っているから、価格が下がると+30000ドル分の利益が出て、相殺されるんだ。
そして6月25日には必ず現物も先物も同じ価格になる。このとき、最初の差額の5000ドル分の儲けが出るんだ。
途中また裂きはあり得るんだが、先物の証拠金にさえ注意しておけば、必ず6月25日には収束する。
違う。
ここ5年くらい、欲しくて欲しくて思い詰めているようなアクセサリーがあった。ピアスとネックレスのセットで約70万円。いやいや70万てwwと自分でも無用の長物だと分かっているんだけど、それがあれば自分は自分を好きになれる、より素晴らしい自分になれる気がして、だから欲しくて仕方なかった。
店頭にも足を運び現物も見た。とても素敵だ。これをつけてシャツにタイトスカートにハイヒールを合わせてオフィスを闊歩したら、どんなにか気分がいいだろうと思った。そのアクセサリーがあれば、「おしゃれで仕事ができる美人」というセルフイメージが持てる気がした。
勤続10年目なので、会社から祝金が出る。なので、それを原資に足して買おうと決めた矢先、異動が決まった。異動先はこれまでいた経営部門と違い現場仕事が多く、タイトスカートもハイヒールも縁遠い雰囲気だった。仕事自体は面白そうなのでまあいいのだが、そう思うともはやあのアクセサリーは何の意味もなさなかった。現場で汗を流すのに、おしゃれである必要もなければ美人である必要もない。そもそも私の新しい仕事は、作業着と安全靴が支給されるような世界なのだ。
年間120日とかの休みの日(しかも全然出かけないこともある)につけるアクセサリーに70万払うのもバカバカしいので、あのピアスとネックレスは購入しないこととした。あんなに欲しくて、毎日HPやInstagramを見ていたのに、びっくりだ。つまるところ、私はあの綺麗なアクセサリーそのものが欲しかったのではなくて、「あの素敵なアクセサリーをつけてバリバリ働く私」が欲しかったんだな、と思った。
仕事の都合で田舎に移り住んで早3年、ようやく4月から東京に戻れる!嬉しい〜!!!本当に嬉しい!!
二度と田舎には住まないぞという強い決意を忘れないためにも、ここに辛かった日々を書き留めておく。
ちなみにここで言う田舎とは、田んぼや山だらけのど田舎ではなく、国道沿いにチェーン店が並び、その先にどデカいイオンがあるようなそういう田舎です(伝われ)
車がないと不便なことは想定内だった。
でも、歩いてる人間より車の方が偉そうなことに腹が立つ!!例えば車道に出たい車と歩行者が道でばったり会ったとき、都内では歩行者優先で、歩行者が通り過ぎるまで車は止まっていますよね。それが当たり前だと思ってた。
でも、田舎では違った。一瞬止まるが、「うわ、なんだよ邪魔だな」と言わんばかりのスピードで去っていく。車が去るのを見届けてから歩かなければならない。都内の感覚で「止まっていてくれるだろう」と歩き出すと、ぶつかって事故になる可能性があるので気をつけた方がいい。
それ以外にも歩行者をないがしろにした危ない運転はわりと多くて、「高齢者が運転してるのかな…」とチラッと運転席を見ると7割くらいは若いor中年くらいの女性。なんでなの…
都内に住んでた頃は自分のことを出不精だと思っていたので「田舎でもそんなに苦労しないだろう」とたかを括っていた。しかし、それは間違いだった。
例えば家具を買い替えるとしよう。良いものを買いたいから、現物を見たい。ショールームは東京にしかないのか…となった時どうするか。
交通費5千円と往復4時間かけて見に行くという選択肢もあるが、あまりに大変だ。じゃあニトリでいいや…となり、どんどんニトリや通販で買った家具が増えていく。だってそれ以外に選択肢がないから。
都内に住んでれば散歩感覚で何度でも気が済むまで現物を見に行けるのに。
そういえば、おしゃれなカフェなんて日本中どこでもあるんだと思ってたけど、田舎にはない。一番おしゃれなカフェはプロントです。
カフェに限らずとも、なんとなく「たまには◯◯でも行ってみよかな〜」と思って近くで検索するが見つからない…といった経験を何度もした。
友達と会う約束をした時に「こっち(田舎)まで来て」とは言えないので100%私が都内まで出向くことになる。終電がとても早いので気を遣わせるし、次の日が仕事だと体力的にキツかった。平日の夜にご飯に行くこともできなくなった。
友達と遊ぶハードルが上がってしまったことと、家族も友達もいない田舎にひとりぼっちなんだと思い込み、孤独感から一時期すこし体調が悪かった。(これは田舎というより私のメンタルの問題ですが…)
最初は「社会人だし、友達とは休日にたまに会えれば十分!」と思っていました。でも、「会おうと思えばいつでも会える」のと「会いたくても遠くて会えない」のは精神的な状態がとても変わります。
色々と書いてきたけど一番はこれ!!というか半分以上はこれ!!
テレビでしか見たことなかったヤンキーが未だにたくさん生息しています。
車を改造して光らせたり車高を低くしたり、コンビニ前でたむろするヤンキーってドラマでしか見たことなくて、絶滅したのだと思ってた。
でも、田舎ではありふれた存在だった。カラフルな電球でピカピカ光らせたショボい車を駅前に停車させて、大音量で音楽を流し、意味わからないウザ絡みされこともあって普通に怖かった。たまーーに警察が口頭で注意しているが、効果はないようで週末になると必ずいる。
暴走族(?)もまだいるのか、夜中にバイクの音がやたらうるさい。叫び声や馬鹿でかい音楽もよく聞こえる。治安が悪い〜〜
異動になる前は「田舎だけど生活には困らなそうだし、家賃も安くて広い家に住めるからラッキー!」くらいにしか思ってませんでした……本当に甘かった。
治安が悪いのもなんとなく知っていたのですが、実家(新宿らへん)もいうてそんなに治安良くないし大丈夫でしょ!って思ってました。
でも、治安の悪さの種類が違うというか…。こてこてのヤンキーに初めて遭遇したので、本当にびっくりしました。
田舎も嫌いになったし、「こんなショボい場所に住んでる自分」も嫌いになりました。
良くも悪くも慣れちゃった部分もあるんですが、「早く戻りたい!!」って心の中で唱え続ける3年間でした。
あと、②で書いた機会損失が地味に大きかったと思う。
趣味にもよるが、都内に住んでると「行きたいけど遠いからいいや」って思うことがゼロに近いし、それがいかに恵まれてるか認識できない。
都内に住んでる人間が言う出不精とは「(近くでなんでも済むから)遠くまで行かない」というだけだ。
新しい趣味ができたからそれが学べる教室などに行きたい!仲間に会いたい!と思っても、よっぽどメジャーな趣味でない限り田舎にはない。
何時間もかけて通おう!と思えるバイタリティがあればいいが、「じゃあいいや…」となってしまった場合、趣味や自分の可能性を1つ捨てることになる。本当にもったいない。
私はもう何があっても田舎には住まない。
かなり好きなもんでも、3時間もあればかなり語り尽くしてしまうだろ
語るのって難しくないですか?
あれかな、漫画とかだったら、現物を1ページ1ページめくりながら解説・感想を加えていくのを「語る」つってんのかな
そんなんズルでしょ それだったら俺ぁ、ポケモン全然詳しくないが、名探偵ピカチュウについて3〜4時間は語れることになる
本編を使うのは「語り」じゃねえ
己のパッションのみで突っ走るべきでしょ
で、「何日でも語れる」ときた
絶対無理なんだよな 一日の長さをナメるなよ
いくらでも歌えるぞ〜ッ!って気持ちで一人カラオケなんかに行っても、5〜6時間あればかなり満足してしまう
歌なんて一曲あたりの消費時間がそこそこあるものでもそうなんだ
脳髄から言葉を絞り出す営為が100%の「語り」行為を、そうそう何時間も続けられるワケがないです 何日なんてもってのほか
とにかく盛りすぎなんですよね