はてなキーワード: 現実とは
あの本、ちゃんとしたモデルの構築がない(社会学系は概ねそうだが)ので、どこまで行っても結局は私はこう思うの範疇を出ないんだよね。それにキャッチーな名前付けが加わるくらいで。
それがあったら外的なデータを使った検証とか、そこまで行かずとも演繹結果の現実に対する説明力で妥当性がチェックできたり、将来予測の一助とできたりするんだけどさ。
自分はここ10年ぐらいでいくつか転職して年収400万から300万以下へ、そして400万から……といった年収の浮き沈みをしている
そうした生活の中で感じたが年収300万と400万では額面の見た目以上に生活の質が違う
・年収300万円
月収だと25万、手取りは20万円ぐらい。まあこのころでも若い人よりましな給与とは理解している。
住居:1ルームで6万(この時点で残るのは14万)
通勤:乗り換え1回、1時間半ほどで副都心らへんの職場に(土地勘ある人はわかると思うが、そういう職種)
労働時間:残業は平均2時間ぐらい、月に40時間ほど、残業代はない、見込み残業45時間込みで年収300万
生活:
1.食事
1食平均500円以下じゃないときつい。3食1500円なら30日で4万5000円で抑えられる。
1食1000円を30日だと9万円!!エンゲル係数驚異の50%弱だ。無理でしょ。
自分はデブなので人の倍は食うため、とにかくもやしと鶏肉を食ってた。あとは炭水化物。それしか食えない。
安いパスタに安いパスタソースは手間もなくて500円以下で正義。
昼食だけ職場の近く800円のオフィス向けキッチンカーの弁当を食べていたが、これはそもそも長時間労働の前後で弁当作る暇がないからだった。
食事に余裕はない。ただストレスで食欲が増しまくってここが一番上振れしやすかった。いっぱい食べた月は赤字。
2.貯金
貯蓄はほぼほぼできなかった。
手取りと支払いはトントンかちょっと余裕があるぐらいだったかな。
昇給して年収が300万に乗るまでは貯蓄を切り崩して暮らしていたほど。
自分はもう老後とか(辛くて)考えないことにしてたけど、これで人生は無理やね。
3.買い物
生活用品は転職前に買ったものが壊れると同じ値段で買いなおせなかった。
とにかく生活の質が悪化していく。100均は重宝したけれど、やっぱり品質や使い勝手は金かけた方が良くて、どんどんストレスが増していった。
布団は買いなおしてぺらぺらに、スプリングの壊れたマットレスはなくなり、毛布は穴あき。これで疲れが取れなくなっていく。
ただ関東圏なので買い物は楽だった。なんでも周辺にそろってる。でも何にも買えない。
生活必需品以外は諦めてた。
スマホは格安SIMの、中華系アンドロイド。これ以外の選択肢はないね。
4.娯楽
これは少しだけ金を使えた。
漫画はアプリの無料分、アニメはアマプラ。アマプラは車がないから家電を通販で買うしかないから必然的に契約した。
ソシャゲで金は使わなくなったというか遊ばなくなった。だって金も時間もねえもん。
関東圏には遊べるところがいっぱいあるけど、そもそも電車に乗るのすら金かかるんだもんなあ。という感じ。
ただ昔は創作とかしてたし、増田とかにも書き込んでたが、このころはまともに書き物できなくなった。
金がない時間的余裕がない精神的が余裕がない。受動的な趣味しかできなかった。関東にいるのにコミケには1度しか行かなかった。
5.睡眠
無。
ストレスで寝れなくなる。
大体残業までした仕事の後に人ごみに囲まれて帰って興奮してる状態でかえってすぐに寝れるわけがない。睡眠時間なんてどんどん削れていく。
平日が苦しいだけで過ぎて行って、休日はそれを回復するだけで時間が浪費していく。
このまま苦行だけで人生が終わるんだと思ってた。
・年収400万円
住居:2LDKで7万円
これは悲しい現実なんだが、世の中はある程度給料の良い仕事の方が楽になっていく。
生活:
1.食事
2日に1回は1000円出しても余裕。それ以上の外食も結構いける。
2.貯金
月数万づつは貯蓄できる。
とりあえず1年に50万ぐらいは余裕で行けるぐらいには毎年たまる。
10年働ければ同じ手取りでも、まあ老後数年は生きれるかとは思えて余裕が出てきた。
3.買い物
300万時代と比べるとワンランク上のものが買えている。その上で貯蓄できる。
PS5買えたわ。布団もベッドになって腰痛がなくなった。
部屋が大きくなって本棚買って小説や漫画を置けるようになったのも精神衛生上とても良い。
金のあるなしは経済格差と同じぐらいに文化格差に影響あると思った。
ただし自分は車を持ってないから地方都市の郊外ででかい買い物しようとしたら不便。通販があるからまあいいやぐらい。
4.娯楽
車がないとつらい。ただ車を買うと維持費で赤字になりそうだから手を出さなかった。
関東で400万ならかなり遊べたんだろうとは思う。
映画は何とか電車で遠出して見れるぐらいで頻度はかなり減った。
インドア系だからそこまで影響はないが、美術館とか博物館とか近くにないのは悲しい。
ただ貯蓄ができてるので、金出して旅行とかはできる。
選択肢があって夢が見られるのは何よりの娯楽だと感じた。
貧乏で関東にいるより、貯蓄あって関東に遊びに行く方が遊べる感。
5.睡眠
寝れるようになったわ。
最新の検証結果をただ分かりやすくまとめ直しているだけですよ。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/nenkin/nenkin/zaisei-kensyo/index.html
自分の思い込みや予想をする前に、まず現状や将来予想について、どのような事が年金に影響を与えるか、たとえば少子化がさらに進んだ場合にそれがどれくらい年金金額に影響を与えるか、国が想定ている悪いパターンの少子化がどれくらいのレベルまで想定しているかなど、まず公開されいる情報をしっかり知ることが大事だと思います。
例えば、前回は2019年に検証がされ、今回2024年に見直しがされましたが、様々な点で2019年の将来予想より現実の方が年金にとって良い結果となっていました。
逆に言い方をすると2019年は悪い方に予想してていたことになりました。
一部の政治家の方は楽観的な方のデータを取り上げるので誤解されがちですが、年金問題を検討している方々は決して楽観的な予想をしているわけではありません。
・認知の歪み
あなたの認識はあなたの願望や勘違いによって現実と異なることがあります
頻繁に飲みに付き合ってくれる後輩は本当に喜んでいますかあなたの権力に逆らえないだけではないですか
電車で目の前にいるミニスカの女性が「俺に触られたがってるからこんな格好をしている」というのはあなたが思ってるだけではないですか
1. 憧れと諦念の狭間にある心情
この人物は、絵を描くという行為に対して憧れを抱いていますが、その憧れは深く追求するほどの強い情熱には育っていません。「描けたらいいな」といった軽い希望に留まっているため、自らの手で努力を重ねてその技術を得ようとする意志は見られません。このような姿勢は、自分の可能性に対してどこか諦めや無力感を抱いている心の表れかもしれません。
絵師という存在を「特別視する必要があるのか」と疑問視していることから、彼(または彼女)は、世間が特定の才能を持つ人を過度に称賛する姿勢に反発しているようです。しかし、この反発は、実際には自分がその才能を持っていないことへの劣等感を隠すための自己防衛にも見えます。
自分が持てないものを称賛することは、自身の不足感を突きつけられるようで痛みを伴うものです。そのため、「特別視する必要はない」と断言することで、自分を納得させようとしているのではないでしょうか。
この人物は、周囲が絵師やクリエイターに向ける称賛に対して、どこか疎外感を抱いている可能性があります。もしかすると、自分がその輪の中に入れない現実を前に、そうした存在を「特別ではない」と位置づけることで心の安定を保とうとしているのかもしれません。
彼が「なぜ特別視する必要がある?」と疑問を投げかけるのは、他者と自分の間に無意識に線を引き、外側から眺めることで自分自身を守る行為のようにも感じられます。
4. 才能に対する諦観と未練
「絵師を格上に見るものではない」という言葉には、絵師への羨望と同時に、自分がその位置に立てないことへの諦観がにじみ出ています。本当に興味がないのであれば、そのような感情は表に出てこないでしょう。裏を返せば、彼は絵を描く才能に対して何らかの未練や「もし自分にもその才能があれば」という思いを抱いている可能性が高いです。
絵師を「特別視する必要はない」という言葉には、彼が周囲の価値観に対してどこか孤独を感じている様子が見て取れます。それは、才能や努力を評価する世間の基準と自分の現実とのギャップに苦しんでいるからこその発言かもしれません。自己認識がゆがみ、自分自身を過小評価してしまっている可能性も考えられます。
まとめ
この人物は、自分が持ち得なかった才能に対して羨望と諦めの狭間で揺れている一方、その才能を持つ他者を特別視する社会の風潮に孤独感や疎外感を感じています。彼の言葉には、自分自身への未練や不満が滲み出ており、その背景には、手を伸ばす前に諦めてしまう弱さや、どこか自分を憐れむような感情が潜んでいるのではないでしょうか。そうした彼の言葉を聞くと、才能を持たない苦しさや、自分の限界に向き合う孤独な心情が伝わり、少し胸を締めつけられるような思いがします。
Chat GPT 4o
リベラル「千里の道も一歩から!石のように固いそんな意思で!」
普通の日本人「アレ、なんか違うかも…w」
これが現実
ネット上だと色んな理由で親と絶縁してるって人がいるけど、その後も本当にずっと絶縁状態なの?
若い頃はそういう気持ちでいても現実問題、親が歳とって倒れたとか介護とか色々起こるしどうしてるのかなって気になる。リアルな声を聞きたい。
実際こういう人はどうしたらいいんだろうな。
止めたら止めたで、現実世界で問題起こしそうな気もするし。リアルなケアが必要な人なんだろう。
自分では暇潰しと言っているが、すぐに投稿消したり手が込んでるからね。そうではないんだろう。
その都度banされて別垢作ってる可能性もあるね。
小並だけど、社会が良くなってこういう心境の人が少しでも減るといいなと願うよ…
生成AIの進化は、私たちの期待に反してその利用における格差をより鮮明にしています。
根本的に遂行不可能なタスクを命じた場合を除き、生成AIから満足な出力を得るためには、豊富な語彙力を身につけるか、LoRAやRAGといった技術的補完手段を理解するかの二択しかありません。
仮に技術的補完手段であるLoRAやRAGなどが不要になった場合は、適切な語彙の使用が必要となるだけです。
しかし、現時点でのAIが可能なタスクを行わせることすらも、満足にできない人々が大勢いることを考えてください。
おそらく、この状況が変化することは期待できないでしょう。
AIが進化すればするほど、それを使いこなせる人とそうでない人との差が広がっていくという、避けがたい現実が浮かび上がってきます。
なぜなら、これは技術的スキルの差ではなく、個人の基礎的な認知能力の差に基づくものだからです。
このような状況は、将来的により深刻な社会的分断を生む可能性があります。
巨乳女性用のファッションブランドoverEが男に嫌がらせされまくり身体的男性の入店を拒絶した問題で
アニメアイコンが店を中傷しまくって差別だから男を入れろオーナー犯す殺すの大合唱中
フィクション作品における特殊能力者や人間以外の人型種族って、現実の人種や民族や障害や遺伝性疾患のメタファーだったりすると思うんだけど。
作中ではそれによる差別が描かれながらも、産むべきではない、子供を産む事は罪だという倫理的な問題提起がなされる事は少ない。
何だかんだでどの作品も当然のようにナタリズムが前提になっていて、産む事は当たり前のように肯定され、反出生主義に至らないのでどんなに丁寧に描かれていても今一つ惜しい感がある。
最近完結編の劇場版が公開された「進撃の巨人」ではある条件で巨人になって人を食うエルディア人という種族とそれに対する差別が描かれていて。
話の終盤で主人公の兄がエルディア人限定とはいえ反出生主義的アプローチをしていたが、
結局主人公の行動により巨人の力の大元が消えて変身能力もなくなって何となく解決してしまったので興醒めだった。
フィクション作品だからこれで解決なんだろうけれど、実際には遺伝による障害や疾患は奇跡の力で消えてなくなったりなんかしない。だから予め産まない事が唯一の解決策なのに、梯子を外された感じになってしまって残念だった。
ジャンププラスで連載中の「エクソシストを堕とせない」という漫画でも、人と堕天使(悪魔)の混血は異形の姿で生まれてくるというエピソードから、
人間との間に子供を作って死なせてしまった敵の一人が反出生的な主張をしていたけれど
子供は生まれて来たくなかったなんて一言も言ってないから自分の気持ちを押し付けているだけだとかいう
反出生主義に対するよくある反論で自己完結してしまって残念だった。
たとえ生まれて来た後では生まれて来たくなかったと言わなかったとしても、生まれる前の段階では生まれて来たくなかったと言う可能性があるから、子供は産むべきではないんだが…。
どうせこの漫画も主人公とヒロインとの間には都合よくまともな見た目の子供が生まれて終わるんだろうな。
ダン・ブラウン原作で映画化もされた「インフェルノ」は、世界の人間の約半数を不妊にする計画が実現するというかなり思い切った結末だったが、
近年、自己中心的な主張を掲げる者たちが多くの支持を集める現象が顕著になっている。この背景には、日々の生活に困窮する人々が増えているという現実がある。生活が苦しい状況では、教育を受ける機会や知識を深める余裕を持てない者も多く、結果として学問的な視野や批判的思考が育ちにくい。
そのような人々は、複雑な問題を単純化し、耳触りの良い言葉で希望を与える利己主義者の主張に魅了されやすい。彼らは、自分たちを代弁してくれる存在だと信じ、その言葉を疑うことなく受け入れる。一方で、十分な教育を受け、広い視野を持つ者たちは、そうした主張の矛盾や危険性に気づく。しかし、彼らは無駄な争いを避ける傾向があるため、利己主義者に直接反論することは少ない。その結果、利己主義的な声がますます大きくなり、低学歴の大衆による支持がさらに強固なものとなっていく。
このような流れが続けば、世界は合理的で建設的な議論が失われ、短絡的で破壊的な主張が主流となる可能性が高い。知性と理性を持つ者が声を上げなければ、人類の未来は暗い絶望に覆われるだけ。この状況を打破するには、教育の普及と、人々が批判的思考を育む環境を整えることが急務。さもなければ社会はさらに分断され、共通の未来に向けた歩みを完全に失う危険性がある。
最近知ってショックだったこと。実は「となりのトトロ」のラストシーンで、サツキとメイとおばあちゃんとカンタはみんな死んでるらしいんだよね。
最初は「そんなわけないでしょ」って思ったけど、考えてみたら辻褄が合うことだらけ。映画の中で出てくるトトロやその他の不思議な存在って、普通の人間の世界にはいないし、あの時期に実際に生きてたらもう大人になってるはずじゃん。あのトトロって死後の世界にいる魂とか、そういう存在なんじゃないのかなって。
最後のシーンで、サツキとメイがトトロと一緒に笑ってるけど、それってもう現実じゃなくて、幻想的な死後の世界の一部なのかも。実は、みんなの亡霊があの映画の中で繋がってたってことに気づいたとき、急に怖くなった。
VTuberとかアニメ、漫画、ソシャゲあたりのオタクコンテンツ。この辺の流行って若者からじゃなくて、流行り物が好きなおっさんとおばさんが回してるよな…ってことに最近気付いた。
現実の流行って、結構、種類が豊富で「なにこれ?」みたいな変なのが流行る。一方で、インターネットだと「また似たようなやつ来たな」って思うことが多い。
俺、氷河期世代でさ、周りも含めて色々きつい時代だったわけよ。就職氷河期とかほんと地獄だった。面接行っても全部落ちてさ、どこにも拾われなくて、家帰って親に怒られる毎日。あの頃は本気で「なんで俺たちだけこんな目に遭うんだ?」って思ってたよ。だけど、今こうやって振り返るとさ、結局は自己責任なんだよな。努力が足りなかったとか、要領が悪かったとか、いろいろ理由はあるけど、全部自分の選択の結果だなって。正直、あの頃の苦しみが甘えだったんじゃないかって思うことすらあるんだよね。
で、今の俺は年収700万しかない貧困弱者男性。嫁には「甲斐性なし」って毎日言われるし、子どもを叱る時は「いい子にしないとパパみたいな負け犬になるよ」とか言い出すしさ。最悪なのは、子どもが真剣な顔して「パパみたいにはなりたくない」って言うんだよ。あの時は本気で笑えなかった。たしかに、他の世代の人たちみたいに大企業でバリバリやってるわけじゃないし、起業して成功とかもしてない。そんな俺に家庭内での居場所なんてないよなって思うわけよ。
しかもさ、俺ら氷河期世代ってマジで能力が低いんだよ。後輩たちはすごいよな。「肉体強化」とか「念力」とか、さらには「アンチマター」だの「ブラックホール」だの、ぶっ飛んだ能力を普通に持っててさ。広範囲攻撃で一気に片付けるとか、こっちはそんなの夢のまた夢。俺なんてギリギリ対人戦闘ができるかどうかってレベルでさ、マジで戦う前から勝負がついてる感ある。あいつら、戦う相手選ぶ余裕まであるんだぜ。こっちはそんなの考える暇すらないのにな。
だからさ、俺はその差を埋めようとして思考加速剤とかめちゃくちゃ使ってるんだよ。最初は「これなら追いつける!」って思ったけどさ、副作用で体はボロボロだし、疲れは全然取れないしで、マジでしんどい。休日もひたすら寝てるだけ。起きても何もやる気起きなくて、結局心身ともに消耗してるだけなんだよな。こんな俺、どうやって前に進めばいいんだろうって考えるけど、最後に行き着くのはやっぱり「これ全部自分のせい」なんだよな。自分が選んだ道、自分が積み重ねた結果が今の俺を作ってる。それが氷河期世代の現実だと思う。
でも、たまに思うんだよね。「本当にそうだったのか?」ってさ。俺ら、もっと救われる道があったんじゃないかって。いや、遅いけどさ。
給食のプリンがひとつ余っている状況を考えてください。食べたい人達がジャンケンで勝負をし、勝った人がプリンを食べられるものとします。
ここでジャンケンは手続きであり、手続きが機能しているとは、負けた人も含めてその結果を受け入れていることを指します。負けた人が暴力でプリンを奪い取ったとしたら、ジャンケンによるプリンの分配プロセスは破綻しています。
政治における手続きとは、要するにゲームのルールに則した行動です。
政治という営みは本来、生の現実における力関係(先の例だと腕っ節が強いとかですね)をいったん括弧に入れて、一定のルールに基づいた新しいゲームに登場人物を放り込む仕組みです。ゲームの外側には、暴力や財力、コネといったさまざまな力が存在しますが、そうしたものをフラットにし、ゲームによって物事を決めるのです。
なぜそうするのか?プリンを奪われた人は、今度は奪われないように体を鍛えたらいいのではないか?
それもひとつの考え方ではあります。でもそういうやり方ではえてして血なまぐさい世界になりがちです。また、勝者が勝ち続けられるわけでもありません。かつて勝者だったものが負けてしまうと、だいたい酷いしっぺ返しを食らいます。独裁者が晩年狂気に陥るのはそのせいです。
不安定で暴力的な世界を力で渡っていくよりは、誰にでも勝機のある世界で安定して暮らしたい。だからルールを決めて政治というゲームをやるのです。古代ギリシア以来の人類の知恵というものでしょう。このゲームの駒は基本的には言葉です。言葉は(建前としては)誰にでも平等だから。武力や財力と違って、言葉を独占することは誰にもできません。それによって均衡が維持され、破綻が回避されるわけです。
また、登場人物の力が均衡することによって、より創造的な問題解決がなされ、世界がより豊かになるという利点もあります。
そういうわけなので、政治においてもっとも重要なのは、このゲームが成立するように努めること、ということになります。たとえば権力者が自分の「生の権力」を用いてゲームのルールを歪めたら(例えばプリンを力で奪ったとしたら)それは叩き潰さねばなりません。そうなると学級崩壊へ一直線です。国の場合は戦争になり得ます。
言ってしまえば、政治というゲームは、民衆がその力(生の暴力)を「強者をゲームの土俵に乗せる」ことに(のみ)使うことによって成立する、と言えるでしょう。市民にはそういう態度が求められます。この「生の暴力」の一番穏当な例は投票行動ですが、ジャーナリズムや市民革命などの手段もあります。
例えば10項目の変数を扱う画面があり、このほぼすべてがフラグ値として利用される超絶難解仕様だとする
各項目の値の組み合わせにより1024パターンもの表示状態があるが、運用の関係で実際には321パターンしか使われていない
このパターンがある日仕様変更で610パターンになり、既存条件もすべて変更された
さて、この仕様に対し変更容易性に寄与するといわれるDDDなどの素晴らしい設計パターンが本当に機能するのだろうか?もし機能しないのであれば、変更容易性の高いプログラムというのは存在するのだろうか?
不変のプログラムこそが変更容易性の高いプログラムというのであれば悪い冗談だと思う
現実にここまで極端なものはそうそうないと思うが、業務システムやそれに類する何かを扱っている場合、似た様なシーンは割とよくあると思う