はてなキーワード: 現代アートとは
横だけど
この定義だと広すぎてカオス自体が「コミュニティ」含まれてしまうのでは、とか
「原著作及び二次創作の送り手と受け手」まで限定したとしてもやはりまだ(二次創作者でもある)カオスが含まれるんじゃね?とか
「同じコミュニティだから」(現代アートじゃないから)批判されてると思うんだけど、違うのかな?
批判の文脈は「同人としての文脈」だよね。
だから、送り手と受け手としても含まれて、クリムゾンや蛸壺屋のように批判されるべきだよね。
ここに対して、一貫して「僕らのやってるのは現代アートだ」って反論が出てるし、また同じ理路で擁護もされてる。
でも、それっておかしくね?
彼らはどっちなんだ?
元記事を正しく読んでほしい。二点、指摘する。
ついでに二点、蛇足する。
タイトルで言いたいことは言い切っているのだけど、以下補足。
「カオス*ラウンジがこうなら二次創作同人*1は〜」という言説は比較として正しくない。「カオス*ラウンジ」は現代アートの活動主体のひとつであり、「二次創作同人」はジャンルを指す言葉だからだ。正しく比較するなら「カオス*ラウンジがこうなら【ここに個々の二次創作同人主体(サークルもしくは作家)】は〜」もしくは「現代アートがこうなら二次創作同人は〜」である。
では「カオス*ラウンジがこうなら個々の二次創作同人主体は〜」という比較を考えてみる。文脈はもちろん著作権である。著作権法をあくまで愚直に適用するならば、原著作者の許諾を得ない限り、前者も後者も違法であることに疑いはない。ここでよく持ち出されるのが「二次創作同人は黒ではなくグレー」「〜版元から黙認されている」という言葉である。これは、二次創作同人でも言わば「一線」を越えてしまった事例が存在する(有名なものでは、ときメモビデオ事件*2、ポケモン同人誌事件*3、ドラえもん最終話事件*4など)ことを考えれば、全ての二次創作主体に対して適用できるものではない。しかし、それでも、多くの二次創作同人サークルや作家は原著作者から訴えられることなく活動している。
なぜか。もちろん、主体の数が多すぎて原著作者が訴えきれない、あるいは主体の経済的な利益が小さすぎて訴え損になるという考えはある。しかし、それに加えて、私は彼/女らがコミュニティにその成果物および/または価値を(結果的)に還元しているからだと考える。ここで言う「コミュニティ」とは、原著作の送り手、受け手、その他一切合切の関係者の集まりという意味である。彼/女らの成果物はそれが二次創作物であるがゆえに、必然的にコミュニティに還元される。二次創作物によって原著作のファンが盛り上がり、その盛り上がりがより深いコミュニティを形成し、さらに新たなファンを呼ぶ事例を、私はこれまでに何度も見て来た。とある作品の同人イベントに原著作者がお忍びでやってきて、参加者に対してこっそり「ありがとう」という言葉を残していった例も知っている。また、価値の還元としては、二次創作同人活動がきっかけで、その原著作者と関係がある商業媒体に登用された二次創作同人作者も知っている。価値とは何も経済的なものに限らない。むしろ長期的に見れば、人的な価値の還元は経済的なそれよりも利得が大きいだろう。
さて、カオス*ラウンジである。彼らは他のコミュニティから収奪を行っていると言える。彼らのホームグラウンドたる現代アートからでなく、オタク系の諸コミュニティから、だ。彼らはその「アート」の素材をオタクコミュニティに依存しているにも関わらず、その成果物は現代アートコミュニティに向けて公開されており、しかし彼らが得た価値はオタクコミュニティに還元されることはない。控えめに言っても、カオス*ラウンジからオタクコミュニティに向けて、オタクコミュニティが有する価値(=カオス*ラウンジにとっての素材)の利用について対話の申し出がなされた例を、私は知らない。この申し出は価値を利用される側であるオタクコミュニティからでなく、利用するカオス*ラウンジからなされて然るべきであろう。この対話を行わないまま、または不十分なまま事を進めるのならば、カオス*ラウンジはオタクコミュニティからの批判を甘受しなければならない。その上で、アートの力でもってオタクコミュニティを納得させる、素晴らしい作品によってグウの音も言わせないのが筋だろう。このふたつができないのならば、彼らの括弧書きの「アート」はアートではなく、ただの収奪に過ぎない。そして事実、オタクコミュニティからは彼らの「アート」活動に対する批判が上がっている。「水かけアート」に対するデザイナーからの批判*5が最も分かりやすい一例だろう。
そう、カオス*ラウンジの「アート」の諸問題の本質は、著作権法論でもなく、同人論でもなく、実はアート論でもない。コミュニティ論なのだ。対話が不十分なままに収奪する者と、収奪されることに反発するコミュニティの問題なのだ。したがって、この問題は次のいずれかが為されなければ解決したとは言えない。カオス*ラウンジがオタクコミュニティからの収奪行為を謝罪し、今後一切の収奪を行わないという宣言をし、それを履行する。あるいは、カオス*ラウンジが行う「収奪」行為が収奪でないとオタクコミュニティに対して対話または括弧書きでないアート作品の発表による説得を行う。それまでは、収奪されたオタク系の諸コミュニティ側からの「作品を勝手に使うな!」という類の非難は許され続け、カオス*ラウンジが許されることは決して無いだろう。
面白い事思いついた!
それを3回繰り返したらもう心折れたよ
なんで規約違反してないのに現代アートタグつけた絵を投稿しただけでアカウント消されるのか
最初のアカウントなんて、アカウント番号6万番代で、ランキング入りした事こそ無いけど結構色んな人にブクマされた絵を投稿したアカウントなんだけどなぁ
1→2の流れが特に秀逸。テキストとして読まれるべき1が、スクショというイメージ的な理解+HIRAKIという機械的な技法により、そのテキスト性を換骨奪胎される様はまさに衝撃の一言。加えて言うなら、2の作者はそのようなことを意識せず、ふたば的な思考パターンで「とりあえずHIRAいとくか」と作っている(ように見える)点も末恐ろしい。
2→3→4の流れも見逃せない。スクショ+HIRAKIにより2の画像の左上と右上に配置されるようになった1の陰陽マークが、3と4においては目として使われている。1におけるユーザのアイコンとしての意味を剥奪され、2で記号的に配置されていただけのこのマークが、3の作者によって目として解釈される余地が与えられたのだ(3の作者自身もそう解釈していたのかもしれない)。4ではコラの領域を完全に離れ、蟹としての意味づけが分かりやすく強化され、さらに「現代アート」の文脈=「息できる?」が泡を吹くという蟹的な記号で以って付け加えられている。元の記号の意味が完全に失われ、新たな意味、文脈、記号が与えられている。このアナーキーさはアートとして擁護するしかない。
1から4に至るまで 00:11→00:29→00:41→01:24 と1時間強しか経過していない点、そして2、3、4の作者が全て異なる点も特筆しておく。これだけ短時間のうちにこういったコラボが成立することが恐ろしい。いや、もはやこれは「コラボ」という陳腐な言葉で片付けることはできない現象かもしれない。
キュレーターが挑発的な態度・と解釈されうる態度をとったこと、
作家が幼い無防備な反応を返したことが問題を必要以上に悪化させたのだろうか。
合ってるんじゃね?
だいたいその理解でいいと思う
というよりあんま知られてない人達だったと思う
実際に破滅ラウンジの感想とかも「面白い」「分からんけど面白い」「ただただ分からん」の三種類が主で、
アートな人の間以外で、この騒動以前時点の評価は「知らない」「だれそれ」状態だと思う
だから「反転」ははっきりと違うよ
「おれら」とは違う高尚ぶった「現代アート」の連中が
閉鎖性のある内輪の場所で遊んでいたら、土足で入り込んできて
「お前等のおもちゃは俺等も好きなように使わせてもらう。今後もそこら中の他人のモノは俺等のモノだかからよろしく」
と言い出す輩が現れた。
住民がそんなことやめて謝罪して取り下げろって抗議しても横文字のアート論をならべてまともな返答をしないし
「体力のないコミュニティが潰れても仕方ない」と普通に考えたら宣戦布告としかとれない発言までしてきたんだよ。
その過程で同人との差違やウォーホルだの著作権・商標権だので2ヶ月の間、散々議論されてきたけど
ここ数週間はカオスラウンジの面々はほぼ完全無視を決め込んでいた。
おそらくPixiv騒動が無ければカオスラウンジは今回の騒動を無かったことにしていたと思う。
理解しろとは言わないけれど、今回の件に言及するなら調べた上で行ってほしい。
カオス*ラウンジのアレのどこら辺がここまで激しい敵意を喚起するのかがちょっとわからない。
権利処理が緩いこと、訴えれば確実にクロなケースも相当な割合で黙認され続けてることが
同人・ネットを含む豊かな文化の背景にあるのは間違いないように思える。
(中には明示的に許可を出しているところもあるがまだまだ少数派)
やっぱ商売しようとしたというのが致命的なのかなとも思うけど、同人アンソロの商業コミックとかですら
ここまで激しく叩かれたりはしていない。
一次権利者がNGを出したら、二次創作同人だろうとネット上の二次創作絵だろうとコラ絵だろうとカオス作品だろうと、
法的にはほぼ同等に真っ黒になるのがほとんどだと思う。
商売して利益出してるかどうかは権利者側の訴えるかどうかの判断材料になるだけで、
法的な黒白の度合いには基本的には関係がない。(よね?)
「おれら」とは違う高尚ぶった「現代アート」の連中が、表舞台で堂々と「おれら」のネタで商売しようとしてる、
けしからん、みたいな感じなのだろうか。
キュレーターが挑発的な態度・と解釈されうる態度をとったこと、
作家が幼い無防備な反応を返したことが問題を必要以上に悪化させたのだろうか。
そこに限定してならば、まぁ理解出来るんだけど。
でも今回ふたばでキメこな騒ぎが起きるまでって、そもそもカオスの人たちって
「pixivで(主に)二次創作作品を発表してる人たち」であり、位置的には広い意味では上記「おれら」側だと
実際に破滅ラウンジの感想とかも「面白い」「分からんけど面白い」「ただただ分からん」の三種類が主で、
今回みたいな敵意をぶつけているものとかほとんど見た記憶がない。
やっぱ商売しようとしたことが大きかったのか。
それとも「堂々と」商売しようとしたことがポイントなのか。
今回のコピペ紹介で初めて知って、元ネタへのリスペクトが感じられず馬鹿にされてると感じたとか?
これに関連したPixivの対応が最悪だってのには全く留保無く同意出来るけど、あそこの運営がアレなのは
今回の問題以前からずっと一貫しているので、そこには特に理解困難な部分とかはなかったりする。
でもカオスそのものへの敵意の激しさは自分にとっては理解が難しい。
マジで誰か教えて!
挑戦的wwとかありがたがってるのはなんでもすぐに「現代アートww」「前衛すぐるww」とか言ってるアホだけかと思ったけど。
そんなモノ出すなら主力商品を値下げしてください。
松本人志監督作品の映画「しんぼる」を見た。以下「しんぼる」及び「バベル」の相違点について言及しているため、両作品のネタバレ含むので注意。
松本人志はテレビで見せるフリートークと、コントで演じる役とのギャップが激しい芸人である。フリートークで自我を全面に押し出して、コントでの演技は別人格かのような憑依型。この二つを偏らず両立させて、しかも成功している。
映画「しんぼる」においてもまた、見た目奇抜だが、無口で平凡な思慮の浅い男(それでいてどこか狂気をはらんでいるような)男を自分に憑依させて演じようとしている。
では、何故見た目を奇抜にする必要があったのか、果たしてこの主人公があのような服や髪型のチョイスをするような人間だろうか?
見ているとそのような矛盾や違和感が何度も起こる、矛盾や違和感だけを繋げて映画にしたといっても良いぐらい出てくる。しだいに全てに何か理由があるんじゃないかと思うようになり、どうしてもそれを考えてしまう。最終的に「くだらない」が「面白い」って事ね、という所に一応行き着くが、やっぱり「で、それが何なの?」という疑問の答えにはなっていない。
この映画が、観客の解釈や理解をうながす為に作られているのは間違い無い。「もっと理由や意味を考えてみて!」と言われているような、そうやって考えるのが面白いという事だろうか。その結果裏切られてしまうカタルシスを楽しめ、そういう作品なのかもしれない。
解釈や理解しようとする事自体を楽しめ、というテーマだとして、ではその映画に正しい理解や解釈の正解は存在するのか? 存在しているはずだ。その方が面白いから。
という訳で、正解を探す事にする。
僕が考えた正解なんじゃないかと思う答えを検索してみると、バラバラの要素としては既出なのだが、統一されたものが無いのでここにその解説を書いてみよう。
「しんぼる」は、日本人の海外に対するコンプレックスを表現した作品だ! と強く断言してみる。
「しんぼる」は、2006年カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した「バベル」という映画を非常に意識した作品である。
バベルのネタバレになるが、バベルはメキシコ出身の監督と脚本家による映画で、ナショナリズム的な視点から観ると、思慮の浅い日本人のせいで、モラルの無いモロッコ人の子供が銃を使い殺され、それに巻き込まれた白人は自分達の事しか考えない。それにひきかえ他民族の子供を低賃金で助けるメキシコ人は陽気で善人だ、という解釈が出来る。松本人志はナショナリズムが強い思想の持ち主なので、バベルを観てメキシコ人ふざけんなよと、日本を馬鹿にすんなと怒ったはずだ。
だからしんぼるでは、同じ文脈で皮肉たっぷりに、思慮の浅いヘンな日本人のせいで、メキシコで不条理な出来事が起こり子供が不幸になる、バベルと同じくその因果関係に理由は無い。また物語の舞台となる国の数も同じ。バベルのアメリカモロッコで起こる出来事と違い、しんぼるでのロシア中国で起こる出来事は不幸ではなく、ただくだらない出来事なのだが、これはバベルの偶然性による不幸に対する皮肉なのだろう。バベルの偶然性による不幸が、メキシコ人監督の恣意的なナショナリズムにすぎない事への批判である。
さらに、映画の撮影の仕方も同じで、カットバックを使った演出もさる事ながら、しんぼるにおいてメキシコの場面での映像は、ドキュメンタリーのような手ぶれのあるハンディカメラの映像なのだが、これはバベルが終始そのように手ぶれのある映像だからである。
次いで、上記のバベルに対する皮肉を、さらに拡大して日本の文化による世界に対する皮肉、あるいはバベルを絶賛したカンヌ(フランス)のアートシーンに対する皮肉として、現代アートの文脈でアイテムが構成されている。
まず主人公の髪型や衣装は、フランス芸術文化勲章を持つ海外でも評価の高い草間彌生の格好で間違いない。脱出劇としては広すぎるあの白い部屋もインスタレーションそのもの。飛び出てくる意図的に日本の物に偏ったアイテム、それを使っての笑いは日本の文化の文脈のようでいて海外向けの笑いでもあり、これは海外でウケる日本の現代アートのコンセプトそのものである。
バベルやカンヌに反発を覚えながらも、欧米文化の中で迎合して同じ舞台に立たないかぎり世界的に受け入れられないというジレンマを抱え、それに対して下ネタとパロディという形で皮肉をこめ、彼らの持つ日本人のイメージを利用して、滑稽な道化のふりをして笑いを取り、しっかり世界にウケる現代アートの文脈にそって作品を作っている。
そして映画のクライマックス、最後の最後に、神のような姿になった主人公の背後の壁に立体的な世界地図が現れる。多くの日本人は何の疑問も持たないと思うが、外国人にとっては違和感のあるシーンである、その世界地図は日本が中心となっている。
このように「しんぼる」という映画は、日本と日本以外の世界を意識した作品である。世界に向けて表現しながら、媚びずに日本的であろうとした訳だ、しんぼるというタイトルも、英語のひらがな表記であるのはそういう理由だろう。
要約すると、松本人志による海外アートシーンを皮肉った「日本最高!」を世界に向けて表現した映画。
おそらくアートの文脈を松本人志が知っていたとは思えないので、その文脈を組み込んだのは脚本を共同作成している放送作家の高須氏によるものなんじゃないかと思われる。
憶測だが、バベルの脚本家か監督は菊地凛子演じる聾唖の女子高生のイメージを、例の毎日新聞waiwai事件の、元ネタの記事を見て得たんじゃないだろうか。元ネタ(http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/435.html) 女子高生、ノーパン、チラ見せ、男を誘惑、家で裸、という点が同じである。最もリアルに創り込むべき役なのに、日本にそんな女の子居る訳がないというような人物を設定した矛盾。海外受けするメジャーなアニメや映画でその様なイメージの女子高生キャラが居てそれの影響を受けたとは思えないんだが、しいて挙げるなら岩井俊二作品の女子高生の不安定さと元ネタの記事を合わせた感じだろうか。