はてなキーワード: 現代アートとは
今、写真の勉強をしているが、写真家と呼ばれる人達が高学歴になってきたので学がない自分にとっては非常に辛い時代になってきた。
写真家と呼ばれる職業の人達が意外と高学歴が多い。ここでいう写真家とはプロカメラマンと呼ばれるような職種の人達ではない。
今でこそコンセプチュアルアーティストとも芸術家とも呼べるような写真家達だ。
以前は東京写真専門学校やビジュアル系専門学校卒やどこかのカメラマンのアシから写真技術を駆使しながらも作品を完成し、コンテストに応募し
優秀の美を飾るようなことがステータスだったが、ここ最近の写真作品はどれも現代アートのようにコンセプト重視となってきたため、写真技術だけ
ではなく写真と言葉、ステートメント、ポートフォリオの見せ方、プレゼンが重視になってきたように思える。
港 千尋ー早稲田大
奥山由之ー慶応義塾
木藤公紀ー東北大学
・・
そのほかにも最近の写真受賞をしている方を見るとコンセプトがしっかりしておりとても哲学的で視点が面白い。
プレゼンスタイルも高学歴だと簡単だし、コンセプト文章を作るのも簡単なのだろう。
勿論、これだけではないので東京芸大であったり、京都市立芸大、その他の多摩美、日大、武蔵美、大芸大なども
多くいるが、それらの人は芸大できっちりと教育を受けてきた人達ばかりだ。他にも海外で写真を学んできている人もいるだろう。
写真ポートフォリオレビューでもフランス人やアメリカ人のポートフォリオレビュアーが増えてきており、一通りに
まずは英語が最低でもできていないと自分の写真の意図が通じない。自分はF欄大卒であるが故に英会話はおろか人のステートメントさえ理解できない、
書けない、プレゼンすらできる能力もない。はっきり言う「バカ」だ。
「明るい部屋」や「写真論」を読んでもプンクトゥムも理解できず3行で寝てしまうという始末。
元々、コンセプト写真は海外写真家が活発に制作してきたものではあるものの、写真の技術とセンスはなんとかなるが、頭を使って文章を組み立てる
特に最近は写真家と名乗る人が少なくなってきており、写真=芸術とみなし、芸術家と自称する人も多いので写真家と呼ばれる人も少なくなってきたように
思えるし、InstagramやSNSの発達で従来の写真表現の在り方も日々変化しつつある。それらにもうついていけない。
写真集は集めてみるものの、どの写真が良いのかわからない。自分が良いと思った写真は周囲からは「そんな写真家の写真集が良いの?」
と揶揄される始末。マイナー・ホワイトやピーター・ウィトキンなどの写真には特に強く惹かれるが未だに「どこが良いの、そんな写真が。」と言われる。
マイナー・ホワイトが良いと言ってる時点で写真を見る目やセンスすらないのかもしれない。
物心がついた頃には、すでに文字が読めていたらしい。というのはさすがに大げさだろうけど、それでもひとよりは、読み書きの習得が早かったのだろう。
とにかく絵本を読むのが好きな子供だったようだ。家にある絵本を片っ端から読んで、新しい絵本を沢山強請ったらしい。おかげで実家には、本棚いっぱいに絵本が置いてある。
小学校に入学する頃には、簡単な漢字の読み書きも出来ていた。それ故に、ひらがなのなぞり書きを何十回もさせられる国語の授業と宿題が、ものすごく苦痛だったことをなんとなく覚えている。
小学校には当然、図書室があった。片っ端から、というわけでは無いが、よく本を借りて読んでいた。児童文学を中心に読んでいたと思う。それ以外の本はあまり好きではなかった。
自分は物語が好きなんだ、小説が好きなんだ。と、漠然と思っていた。
中学生ぐらいになると、読む楽しさに加えて、書く楽しさを覚えた。読書感想文を書くのが好きだった。こっそり小説なんかも書いたりしていた。
二十歳を過ぎた今でも、小説を中心に、本をよく読んでいる。自分でも書いてみたりしている。
なんとなく素敵な気持ちになる。
なんとなく安心する。
だけど、今になってやっと、自分は別に、小説が好きだったわけじゃないんだと、気づき始めた。
どこかの誰か、知らない人が書いたブログの記事だったり、小説投稿サイトに投稿された作品だったり。増田だったり。大きな本屋さんや、図書館よりも、何倍も多くの文章を読むことができる。
そうやって沢山の文章に触れていると、時折、ものすごく好みの文章と出会うことがある。一文読んだだけで、心が奪われる文章。次々と読み進めてしまい、止まらなくなる文章。読んでいるだけで酷く安心感が得られる文章。
理由はわからないけど、「なんとなく大好きな文章」と出会うことがあるのだ。そういう文章の中には、意味すら理解できないものもある。何が言いたいのかわからない、内容が伝わってこない、それなのに、なぜか溜まらなく好き。そういう文章と出会う。
絵画とか、現代アートとかに近いのかもしれない。理屈じゃなく、素晴らしいと感じるのだ。
きっと自分は、工夫された文章が好きなのだろう。その工夫が、自分の好みと合致したとき、幸せに感じるのだ。
小説が好きなわけじゃなかった。物語を伝えるために、表現豊かに工夫された文章が好きだったのだ。
反対に、誰にでも誤解なく正確に伝わるよう書かれたような文章は、あまり好きにはなれなかったのだ。
文章を読むとき、芸術先品を鑑賞するようなつもりで文章を読んでいるのかもしれない。さながら、絵画を見るような、音楽を聴くようなつもりで。自分にとって文章というのは、ずっとそういうものだったのだろう。
それに気が付いてから、より文章を「書く」ことに注力した。とにかくいい文章を書きたい、自分が好きな文章を書きたい、と思うようになった。誰のためでもなく、自分のために。
消費者として好きだったものを、今度は自分が生産者となって作ろうと考えるのは、ごく自然なことだろう。しかし、それは当然簡単ではない。
絵を見るのが好きだからと言って、絵を描くが上手いわけでは無いように。音楽を聞くのが好きだからと言って、作曲が出来るわけでは無いように。
自分は文章を読むのが好きだが、ご覧の通り、「書く」方はこんな状態である。基本がなってない上に、センスもなく、なまじ変なこだわりが強いばっかりに、ぎこちなさが目立つ読みにくい文章。はっきり言って下手くそな文章。
文章が好きで好きでたまらなくて、ネット上に転がっているどこかの誰かの殴り書きすらも、芸術作品としてとらえている人間の書く文章が「それ」である。
結局消費者はどこまで行っても消費者でしか無くて、生産者とは相いれないのだろうな、と。まあ、自分で書いていて悲しくなるけど、そういう現実も、あるにはあるのだろう。
http://moro-oka.hatenablog.com/entry/2016/12/12/055556
>当然だが作品をつくる作家だけがいてもアートは成り立たない。
>それを見る人、理解する人、評価する人、批判する人、そういったそれぞれの「反応」があって初めて作品はアートとして成り立つ。
>作家がどれだけ頑張って素晴らしい作品を作っても、それを真摯に見てくれる人がいなければ、何の意味もない、
>李禹煥の石はただの石になり、Chim↑Pomのビルバーガーはただの廃墟になり、ダミアン・ハーストのサメはただのホルマリン漬けのサメとなり、
ごもっともだったりそこはどうかしらだったり思うところが色々ある記事なんだけど、
一番気になったのはこのセンテンスについてで、趣旨からは外れた些細な部分かもしれないが
真っ先に「デュシャンは頑張って便器作ったわけじゃねーだろ」とつっこんでしまったのだった。
作家と作品と場所だけで、アートは成り立たないんだろうか。本当に?真摯に見てくれる人の目が絶対に必要?本当に?
他者の目がなくても、まずは場所とモノの二者関係で成り立ったのがデュシャンの作品だったり、ダミアン・ハーストだったりなんじゃないのか?
芸術を志す(した)人が『僕らは芸大に通ってるだけの普通の隣人ですレッテル貼らないで』って言い立てながらその口で
芸術には未だに『真摯に見てくれる人』の目が必要なのかと思うと、おそろしくがっかりする。
結局それは他者の奇異の目はいらないと言いながら、真摯な目は必要とするという、非常にご都合の良い宣言にほかならないのだから。
アートとして成り立つ作品の前段階には、多分、アーティスト自身と作品との戦いがある。
アーティストがアートという謎と真摯に向き合った結果がデュシャンの『泉(便器)』で、李禹煥の『もの(岩)』で、
ダミアン・ハーストの『ナチュラル・ヒストリー(ホルマリン漬けサメ)』なら、
それを初っ端から"理解する人、評価する人、批判する人"などと真摯な目を期待しなければ成り立たないほどに
そのアートは軟弱ではないはずだし、それを見た人の好奇の目すら飲み込んで人々を頭の中を???でいっぱいにするからこそ、
>しかし、こうした注目は、危険ではありますが、あるいは悪いことではないのかもしれません。
>その注目を、もっと深いところまでわたしたちが持っていくことができれば、わたしたちのやっていることを理解してもらえるチャンスになるかもしれません。
>芸術というものの重要性に気づいてもらえるかもしれません。そうした期待を込めて、書きました。
結局彼女の書きたいことは、「芸術家という人の“こと”」であって「芸術」そのものについてではないし、
それならば彼女が就活してるだの、近況で夢を背負わされて辛いだの自分自身の出来事の記述に終始してることに納得できる。
でも、それは彼女の作った芸術作品でもアートでも何でもないし、私は「芸大生とはなんぞや」という議論と
「芸術というものの重要性」の議論は全くの別物で、前者を特に議論しようとは思いもしない。
現代アート愛好家であり愛鳥家のひとりとして、意見を申し上げたいと思い、メールを差し上げるとともに、郵送いたします。同時にウェブでも公開します。2つの要望があります。
(1)展示を即時中止してください。
ラウラ・リマ氏による『フーガ』に関して、ずさんな管理によって鳥を逃がしたり、病鳥を放置したり、適切な環境を整えないなど、目を覆いたくなるほどの展示がなされていたことを知りました。鳥に対して明らかな虐待的行為が行われ、また会期終了後の鳥の扱いが宙に浮いたまま、その場しのぎの対策が行われました。このことは、多くの現代アート愛好家と愛鳥家を悲しませ失望させました。
この作品は小鳥のいのちを軽視し、いのちの尊さを毀損しています。アートコンセプト「想像力を結集した創造の旅」というメッセージのもと、小鳥たちのいのちが傷めつけられるのを目撃するのは愛鳥家として胸が張り裂ける思いです。そればかりではなく、上記の鳥の扱いは、「動物の愛護及び管理に関する法律(動物愛護法)」、「愛知県動物の愛護及び管理に関する条例」及び「豊橋市動物の愛護及び管理に関する条例」に違反しています。
創作したラウラ・リマ氏、国際展キュレーターのダニエラ・カストロ氏、チーフ・キュレーターの拝戸雅彦氏、芸術監督の港千尋氏、及び実行委員会委員長の、この作品と継続に対するそれぞれの公式な見解を求めます。「無限の想像力を結集」した「創造の旅」というコンセプトのもとで展覧会を開催したにもかかわらず、寄せられた多くの批判に沈黙したまま、作品公開を継続するというのは、アートや鑑賞者に対してあまりにも無責任な姿勢です。展示終了まで、まだ時間が残されています。この件で、現代アートに対する不信感が愛鳥家をはじめとする多くの動物を愛する人々に広がっています。一刻も早く、アーティスト、キュレーター、芸術監督、及び実行委員会委員長による見解を公式サイトで明らかにしてくださるよう求めます。
これに賛同できない奴は現代アートわかってない馬鹿だから相手する必要がないっていう態度で
逃げようとする奴が出てきたことが問題なんだよな
社会ね規範や人々の心理に関して、観覧者に日常では感じ得ない問題を提起することかな
あくまで個人的な考えだけどね、そもそもこんな野暮な質問投げかけてる時点でなんもわかってないよね
万人に言い切れるような答えたがあるならアートになんてならないから
作品を鑑賞してその通りだと納得してしまえばそこでその作品の価値は終わるからね
そういう意味でもデリヘル嬢ワークショップはアートとして稚拙なんだよ
あれを見て大半の人が人権無視だというようなことしか考えずまともに考察する価値はないと思うということは
話は逸れたけどパフォーマンスとかの現代アートっていうのはSMプレイみたいなところがある
SMって同意を重ねた上でなんとか人を拘束して鞭打ったり蝋燭垂らすような暴力が正当化されているじゃん
マゾヒストがこんなはずじゃないといいだしたら捕まりかねないでしょあれ
現代アートもまともな作家ならみんなそういうセンシティブなところをちゃんとクリアさせてる
「現代アート展示会場にデリヘル嬢を呼ぶ」というクソみたいなことをやろうとしていた界隈が本当にクソだった
http://kyoumoe.hatenablog.com/entry/20160131/1454226318
これはアートじゃないボケ、コメントばかり目についたので雑感。
怒りのまとめを目にした時、ああ、ハプニングなんだねと思った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0
日本でも関西の具体美術を中心にハプニングを制作・実行されており、
東京でも1960年に、アンドロイドのCMで現役ばりばりにボクシングペイントをしていた
篠原有司男が「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」が結成されている。
この界隈というか中心にいたのが、一昨年なくなった老人力の「赤瀬川原平」。
その赤瀬川原平が結成していたのが、ハイレッド・センター。
ハイレッド・センターというか、赤瀬川原平は、1,000円札の模写で
1965年に通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴されることになる。
というわけで、いたって古典的なハプニングがいまだに行われていることに驚いたけど、
そこのところは分かっていた方がいいんじゃないかな。
結論を言うと、市芸で実行されたらそれはアートになってしまうんだね。
それはなぜかというとまたの機会に。
六本木ヒルズの美術館を出たところに、美術館関連のショップがある。
大体はよくわからない現代アートなんだけど、数枚、マンガ絵があるのね、
それがもう、びっくりするほど下手くそなの。
顔だけのアップで、数枚みんな同じ左向き、同じ顔、同じ髪型、貼り付いたような笑顔。
デッサンが狂ってて左目が異様に大きくて右目が小さい。
小学校のクラスメイトの女子にこういう絵描いてる人居たなぁ、3年生くらいの時に。
って感じのイラスト。
お値段2万5千円。
高っ!
ちょっとTwitterに流れてくるイラストだけでも比べ物にならないくらい上手いものが多いのに
これの何がそんなに価値があるんだろう?
趣味は、イラストやデザイン画を描いてピクシブなどネット上でアップして楽しんでいた。
仕事はイラストやデザイナーとしては程遠いため、趣味でのみやっていますが、
長く描いているおかげでネット上でそれなりにファンもいて満足していた。
それとは別に、facebookを学生時代の友人限定ではじめた。
タイムライン上では、季節の挨拶を取り入れた趣味のイラストやデザイン画をアップロードすることも行っていた。
また、美術館など行くのも好きなので美術館に行った感想や、面白かった現代アートやデザインなどの記事もシェアして
それなりに楽しんでいた。
そんな時、同窓会が開かれてfacebookでもつながっている友人(Aとする)からあることを教えてもらった。
内容はというと友人Aから、共通の友人である(Bとする)がインターネット広告会社に入ったことのこと。
学生時代あまり絵やデザインを描いている印象もないのだが、プログラミングを勉強したのかと軽く思ってた。
話がどんどん進んで友人Aから、友人Bが私のイラストなどのデザインをパクっていると言い出した。
友人Aも仕事がデザイン系であるからなんとなくわかるらしく、友人Bが盗んでいるから気を付けなと警告してくれた。
どうやら、仕事上なんらかの接点があったらしく友人Bの仕事上の作品を見たらしい。
友人Bは、企業の公式サイトをデザインも含め一括で作成する広告会社に入社したのをきっかけに、私に興味をもったと友人Aは言っていた。
確かに、Facebookの友人Bの投稿を振り返ってみると、私がシェアしたデザイン系の記事の配信元はすべていいね!を押してチェックしていることや、
今年に入って料理にイラストを描く趣味を新たに開拓したのだが、それもすべて彼女のfacebookに興味があることとして投稿されていた。
また、投稿日時も確認したらすべて私が投稿した後に、友人Bは投稿している。
私は仕事がデザインやアート系ではないので盗まれて頭にくるというよりかは、気持ち悪いなという方が気持ちとしては強い。
友人Bは、facebookの友人の中で自作のイラストに一番いいね!をくれている友人だったので、私自身ちょっと有頂天になっていたところも
ある。広告会社に入っているのも、もちろん知らなかったけども、それまでの印象がわりと良いのもあって非常に残念に感じている。
デザインやイラストなど美術系の仕事はしたことはなく、パクるパクられるというのはよくあることなのかなという疑問も
あって、また人に話せない内容なのでこの場を借りて投稿してみた。
これらのジャンルは、そこそこ権威のある賞やコンペなどがあり、そのジャンル内外で凄く評価されているプロと呼ばれる人々がいるが、
ネット上では「こんなのが評価されてるっておかしくねwwwww 俺が作ったヤツの方がカッコイイしww」「マジだwwww」みたいなやりとりが往々にして繰り広げられている。(勿論、自分だって、プロの作ったものが全部カッコイイと思うわけじゃないよ)
しかし、上に挙げたジャンルで高く評価されている作品や製品、全部が全部おかしいって感じるのであれば、逆説的に「自分の感性の方がおかしいのではないか?」という結論に至るはずなんだけど、そうならないのが凄いなって思う。
思想家が教育が悪いからだと言い始めたらだいたい才能が枯れたな、って感じですよね
数読んでる本が主食です()みたいな連中は文章がひどいとか座席の図面が出てきたとかそのぐらいなんも構わずゴリゴリ読んでつまらんかったっていう印象がある。本なんて所詮娯楽なんだから、とか悪びれる余裕があるというか。週に3冊も読んでなさそうな物書きとかいう自分が差別される側だと気づいてない人間に限って己の縛りプレイを勝手に他人に課しては読めないとかいい始める。
当時はそれが珍しいものであったというだけで,古い作品の内容自体は昔から珍しいものではない.作品が批判的であるというただその観点からのみ現代美術として認められただけのことである.また,数ある似た作品も内容がタブーであったことから一部の人間にしか知られず,問題の作品の支援者や作者を含めた多くの人々はこれが批判的で新しいと”非常に稚拙ながら”感じたにすぎない.実際,作品の作成された時代を考えればインターネットすらないのだから,作者があれをアイデンティティだと感じたのはまだ納得がいける.(支援者はこの現代においてそんなことも知らない頭の悪い人間としかいえないが) 作者を含めた支援者がおり,しかもそれが森美術館や評論家などの世間一般から言えばアートに詳しい人間であるということは,どちらかといえば現代美術をとりまく頭の悪い人々を露呈させたといえる.現代アートというのは,作品が1つ以上あれば事足りるものである.少なくとも他者がいくらでも想像しているものであっては意味がない.同じようなものがごろごろあるようなものは,社会に対して批判的なものとして捉えることはできないからだ.しかし,今回は内容の特殊性から,類似品が多くあるにもかかわらず知られなかったため,このような問題が起きてしまった.私は森美術館を含めた支援者が社会的に叩きのめされないのは納得がいかないが,狭い世界で遊んでいる彼らを自戒させるのは容易ではないだろうし,放っておいても社会に危害を加えるわけでもなく彼らがバカのままというだけだから,しょうがないだろう.
追記する必要性を感じた為、いくつかの指摘に対して反応しておこうと思う。
まず最初に明記しておきたいのは、特定の個人に対して何かを主張したつもりはない。
個人攻撃(発言ではなく、発言者を話題とする)と取られてしまったのであれば、ひとえに自分の書き方の問題であるので謝罪したい。
引用元を明確にするために記載しているが、発言者は置換可能だと捉えて欲しい。
既に別ポストで述べたとおり、性差別を批判する際に、その表現の中に性差別を含んでいるからと言って批判そのものには影響しないと考えている。
しかし、好ましい態度では無いと思う。
これは、「人工知能学会誌の表紙イラストの表現」を批判する際に「批判の表現は差別を含んでいても、主張が正しければ良い」という態度を肯定すると、
「人工知能学会誌の表紙イラストの表現が差別を含んでいても、主張が正しければ良い」という態度をもまた、肯定することになるからだ。
「主張」の軽重によって、差別が許容されうるとは思わない。
ただし、表現の手法によっては、より慎重であるべきという主張はあり得る。
前述したとおり、表現の手法によっては、より慎重であるべきという主張はあり得る。
同様に、人工知能学会誌の表紙イラストは、政治的な主張を可能な限り避ける努力をすべきである、という批判もあり得る。
あらゆる条件下で絶対的な価値を持つ主義は無い。そのため、それぞれの信ずる所を主張することに意義はあると思う。
ただし、主張は相手に伝わらなければ伝達にならない。相手の意志を変えることが出来ない。
好悪の表明ではなく、批判である場合は、攻撃にならないようにすべきだと思うし、前提条件を共有する努力を怠ってはならないと思う。
人工知能学会誌の表紙イラストが問題であると思う場合は、相手とその問題意識の前提条件を共有した上で、指摘する必要があると思う。
(共通認識を仮定して話すことと、共通認識に齟齬があったときに相手を非難することとは、異なる)
この件で、フェミニズムに対する差別(偏見)が生じてしまったことには、責任を感じる。
可能な限りジェンダー論(社会的・文化的な性のありよう)等の主義には踏み込まず、主張の方法論だけにフォーカスしたつもりだった。
ある主義や属性に対して、「〜だから」というのは、差別的だと思う。
例えば、「最近の若者は」と論ずるときに「最近の若者全てがそうである」ことを明示しなければ、差別的な表現だ。
ある主義主張(例えば、自分はアファーマティブ・アクションを肯定する立場だが、いくつかのフェミニズムには共感できない)は、
主義主張に対して論じられるべきであって、個人攻撃と同じように、ある主義や属性によって差別されるべきではないと信ずる。
「〜を主張する人間だから、他の意見も聞く必要は無い」は、差別だ。
全てには反応できないので、いくつか抜粋した。
saebou
ありふれた学術用語のheterosexual male fantasyって言葉を使っただけで「差別表現」と言われるのか…だいたい「家事の性差別を肯定するのは、ヘテロ男性」なんて言ってないし絵の性的含意の話をしてるわけだし… http://htn.to/6oHfV2
自分の知識が無い事で、整理をする前の段階であったという指摘であるのならば、謝罪したい。
CiNiiで、「ヘテロ男性の性幻想」や「heterosexual male fantasy」では見あたらなかったため、サーベイ論文を示していただければ読んでみたいと思う。
釈明するとするなら、自分の知っているジェンダー論に関する論文では、可能な限り性を注意深く扱っているように見えた。
Sexual fantasyや、Homosocialという単語には、男性性という意味を含まないし、男根主義(Phallogocentrism)も「主義」の話をしている。
また、発言からは人工知能学会誌の表紙イラストが性差別であると指摘しているように受け取れたので、そうなるために必要な前提条件を提示した。
論理の組み立てに誤りがあるのであれば訂正したい。読解力の問題であるという指摘であれば(前提条件の提示が無い為)同意できない。
saebou @Cristoforou
この表紙むちゃくちゃ気持ち悪い。こういう表紙にするって決めた人たちの中には女性の学会員はいたんだろうか?女性のロボットがつながれてて家事をしてるってヘテロ男性の性幻想丸出しだよね。 / “学会誌名の変更と新しい表紙デザインのお知ら…” http://htn.to/drzHrj
「こういう表紙にするって決めた人たちの中には女性の学会員はいたんだろうか?」という表現から、
「ヘテロ男性主義」という意味ではなく、性的指向としての「ヘテロ(異性愛)」性別としての「男性」を指していると判断した。
すなわち、「異性愛の男性の学会員の性幻想が表現された表紙デザインだ」と主張し、非難しているように読めた。
個人のツイートであるからそういった配慮を欠いて発言したとするなら、
性差別を指摘する際には好ましくないのではないかということは、既に別のポストで述べた。
(なお、学術用語であることは、差別表現ではないことを意味しないがそれは別の話になる。
ある集団内で定義された単語である場合は、その前提条件は明示する必要があると言うことも、既に別のポストで述べた)
nekora
そんな真面目で大層な話ではなく、現代アートの人の単なる面白半分の煽りでしたとさ http://twitter.com/5putniko/status/416366121084678144 バカフェミに延焼してキモヲタが釣れて大変ご満悦の模様
Sputniko! スプツニ子!
おっ! 朝おきてみると美少女アイコンたちから、リプが!笑 おおきいお友達のみんな、いちばんのもんだいは、表紙デザインそのものよりも 「学会がこういう論争が起きかねないことに無自覚」ということなんだよ!♡ わかったかな〜?♡ (๑˃̵ᴗ˂̵)و
リンク先のツイートを読むと、何を問題にしているかが不明確なので、良く分からなかった。
「学会がこういう論争が起きかねないことに無自覚」というのは推測であって、その根拠が明示されていない。
「いちばんのもんだいは、表紙デザインそのものよりも」という提示からは、表紙デザインの表現が問題なのではない、と読み取れてしまう。
(論争を起こす目的で表紙を掲載したのであれば問題はない、と言っているのか想像するしかない為、理解できなかった)
staton
id:hungchang 100字制限があるから攻撃的,差別的表現になっても仕方がないというのは酷い言い訳だと思いますよ.
前述したが、個人の発言と学会誌の表紙との持つ意味合いの違いは、あると思う。
ただし、既に別ポストで例示したとおり、攻撃的、差別的表現を含めずに批判することは出来たと考えている。
また、もしも文字数制限があることが攻撃的、差別的表現をせざるを得ないとするのであれば、
差別について指摘、批判する時に、文字数制限がある媒体を使うことは好ましくないと思う。
MersA
そう思っていた。