はてなキーワード: 現代アートとは
津田氏は、ITライターのような事をやっていたが、別にITに造詣が深い訳では無く、本人に言わせれば「食うため」とはいえ、犯罪指南のような記事を書いて糊口をしのぐような仕事をしていた人物だ。溝口敦がいくらヤクザノンフィクションを書いていると言っても「ヤクザの成り方」「ヤクザのような金儲け方法」みたいな記事は書いていなかったろうから、根本的に作家としても何段も落ちるような仕事をしてきた人間だと思う。
どうして大学教授で大規模現代アート展のトップとかやっているんだ?本当に意味が解らない。
小田嶋隆だって、ITに詳しくない暇ねたIT方面ライターとして、その方面で知識を伸ばす事も無く、埋め草のような与太記事を書いてきた作家だと思うが、なんで世間に物申すオジサン知識人みたいな顔しているんだ?そもそも、良識左翼なんて心底バカにしたような記事を書いてたと思うんだが…これが老いるという事なのかも知れないが、本当に不思議。
暇なので眺めていたら、面白かったので。シェアさせていただきます。
大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも | AbemaTIMES表現の自由ガーはやめといた方がいいんじゃねーかな。お前ら人工知能学会や自衛隊ポスターなど、何の違法性も無いイラストを難癖つけて時に撤去謝罪させただろ。表現の自由は出し入れできるもんじゃねーぞ。2019/08/05 13:40
ユミソン on Twitter: "愛知では「公金が・市民が」と言っていますが、先日のドイツでの展覧会では、日本からの助成は無く市民からの苦情もなかったのですが、日本政府が抗議に来ました。"抗議も法に則ったものであれば表現の自由の範疇だろ。お前ら都合が悪い事は「わかってない」とか言って逃げを打つよな。2019/08/05 18:47
「表現の自由」不要と言うに等しい 展示中止に危惧の声 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル表現の自由マンが噴き上がっているが、百田尚樹が脅迫受けて講演会やサイン会中止に追い込まれても同じように擁護しなかったよね。都合により出し入れ出来る表現の自由は便利ですなぁ。2019/08/06 11:28
都合により出し入れできる表現の自由…?んん?
貞本義行@腰痛 on Twitter: "キッタネー少女像。 天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。 かの国のプロパガンダ風習 まるパク! 現代アートに求められる 面白さ!美しさ! 驚き!心地よさ!知的刺激性 が皆無で低俗なウンザリしかない ドクメンタや瀬戸… https://t.co/3wqZGCqLzd"作品を壊せとも展示するなとも言ってないのだが、表現の自由であれほど噴き上がった皆様が個人攻撃をしているのは何なのか?自分の都合で信条を出し入れする節操なしかな?2019/08/09 21:17
発言に対する批判は個人攻撃で表現の自由の侵害。「自分の都合で信条を出し入れする節操なしかな?」
貞本義行氏の件のツイートのどこに悪意を感じるかアート作品に対する自由な批評を許さない人が多いねえ。貞本義行の人格や作品にまで踏み込んで批判している奴は、表現の自由の根本を理解していない。2019/08/10 12:36
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 62 | 10715 | 172.8 | 77 |
01 | 47 | 6405 | 136.3 | 46 |
02 | 29 | 8069 | 278.2 | 60 |
03 | 16 | 3071 | 191.9 | 47.5 |
04 | 10 | 2569 | 256.9 | 45 |
05 | 26 | 2088 | 80.3 | 44 |
06 | 15 | 1028 | 68.5 | 44 |
07 | 32 | 7320 | 228.8 | 66 |
08 | 89 | 12772 | 143.5 | 30 |
09 | 152 | 9812 | 64.6 | 33.5 |
10 | 120 | 9832 | 81.9 | 33.5 |
11 | 153 | 17203 | 112.4 | 53 |
12 | 161 | 21010 | 130.5 | 62 |
13 | 181 | 16353 | 90.3 | 49 |
14 | 163 | 11344 | 69.6 | 32 |
15 | 205 | 14115 | 68.9 | 36 |
16 | 200 | 12946 | 64.7 | 29 |
17 | 158 | 10620 | 67.2 | 29.5 |
18 | 129 | 11384 | 88.2 | 34 |
19 | 141 | 10150 | 72.0 | 38 |
20 | 129 | 14425 | 111.8 | 40 |
21 | 179 | 13660 | 76.3 | 32 |
22 | 127 | 10094 | 79.5 | 30 |
23 | 133 | 13876 | 104.3 | 49 |
1日 | 2657 | 250861 | 94.4 | 39 |
ティーンズ(12), 自責思考(5), 安全配慮義務(5), コミケット(5), 盆暮れ(5), アンパンチ(4), 綿矢りさ(5), 準備会(6), ロリマン(6), 他責思考(11), ビッグサイト(8), ルクセンブルク(3), 向き合う(29), コミケ(70), 向き合っ(34), アート(25), ステレオタイプ(13), 参加者(13), 青葉(9), 非モテ(49), 手作り(10), コミュ障(30), オリンピック(24), 夏休み(11), 展示(11), 弁当(22), N(16), コミュ力(11), スタッフ(16), コミュニケーション(28), ヘイト(16), 童貞(32), 韓国(52), イベント(33), 運営(23), 長文(14), 裁判(13)
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このエントリでいう「現代アート=既存の権力」について、コメントしている人たちが考える「権力=○○」が違いすぎて話かみ合ってない。
>「これはアート! わからないお前は勉強が足りない!」とか言っている人たちがいる。
素直に読めば、これは「アートをやっている人たち」を指すであろう。確かにこれはある。古参のオタクがニワカの新参をマウントするやつ。
ただ、その後の「権力」「カルト」というところを見ると、この増田は現代アートそのものに懐疑的である。
コメントは当然ながら、あいちトリエンナーレを意識した書き込みが多いが、このエントリ自体もそれに触発されたものと考えるのが自然だ。
そう考えると、この増田はあいちトリエンナーレをどのような視点で見て、このエントリを書いたのだろうか。
もし、作品撤去の件を肯定的に見ている場合、「あんなものを芸術というなんて、頭おかしい」という意味でこのエントリを書いたのだろう。
だからアートを「カルト」というし、「津田は現代アートという権威を借りてヘイト展示をやったんだ」という論理が成立する。
一方で、作品撤去を弾圧と考える人々もいる。そうした人々にとって権力者とは政府・政治家・公権力(あいトリに政治家が発言した件)であり、
「アートで社会にメッセージを送っただけなのに表現の自由を奪われた」となる。
また、タイトルの「醜い優越感」というキャッチーなキーワードも気になる。
増田はアートになんてこれっぽちも関わりなく生きてきた人間なのか、自分には理解できないものに対するひがみのようなものも感じる。
「これはアートだ、と言えば何やってもいいのか」というやっかみの気持ちもあるのだろう。
「自称現代アートに詳しい人たち」は常に「アートなんて分からない人たち」を置いてきぼりにしてきた。
特に、全国各地にある公立の美術館だって、一般市民にアートを教育普及するための施設であったはずなのに、「自称アートに詳しい人たち」に私物化されてきただけであった。
だから、ネトウヨにとっては「税金を使ってこんな展示をしてくれやがって」という気持ちになることはよくわかる。
しかし、今回の津田芸術監督はそうした「自称アートに詳しい人たち」側の人ではないのである。
むしろ、「自称アートに詳しい人たち」からは「素人のお前なんかにできない」と散々コケにされている側なのである。
だから、津田さんにとっては「権威=美術業界」(=アートではない)からもけなされ、ネトウヨや公権力からも弾圧され、泣きっ面に蜂である。
今回のあいちトリエンナーレは自分は既存の日本における美術業界の権威に風穴を開けてくれることを期待していた。
だが、日本社会に立ち込めるネガティブな圧力を改めて浮き彫りにしてくれることとなった。
今回の件について、美術業界の批評家や美術史家、美術学芸員といった人たちから、まともな「批評」がなされるのだろうか。
これからも日本の美術業界は「自称アートに詳しい人たち」の自己満足展覧会と「クールジャパン」的な何かをやるだけの、一部の人たちの既得権益として温存されるのだろう。
「これはアートじゃない!」と怒って見せる人々が考える「アート」とは「自分を楽しませてくれるもの、喜ばせてくれるもの」なのではないかと想像します。
「綺麗」とか「面白い」とか「何も考えなくてもよい気持ちにさせてくれるもの」こそ芸術やアートであるべしと。とても感情的で感覚的なものととらえているのではないでしょうか。
一方で、美術業界の人たちはアートを「思考の表現」と考えている節があります。だから、見た目の美しさや子どもっぽい楽しさを生み出そうとするよりは、社会を生きる中で感じる様々なことをカタチで表現しようとしていると思います。
楽しい、美しいだけなら、それは既にエンターテインメント業界の人たちがこれでもかとやっているわけで、「自分を喜ばせるものを作ってくれ。金なら出す」という一般の人々の欲求はそれで満たされているはずです。
もし、アートを理解しようと思うなら、「この作品を通じて制作者は一体何を表現しようとしているのだろうか」と鑑賞者側が考える必要があります。
「考える」ことができずに、反射的に「これはアートじゃない!」と怒ってしまう人には、現代アートは向いていません。
もちろん、よく考えて、論理的に反論、批評ができるなら「これはアートじゃない!」と怒ってもいいのかもしれません。ですが、他者の作品や意見に反論、批評ができるほどの知性を身につけるには普通の人が思っている以上に時間も経験も必要なのです。
「現代アート関係者には批判とさえ認識されない。残念。」が連中の思い上がりを象徴している。
美大出身者の学閥やお友だちごっこ。権威と名声にしか興味のない自意識過剰な学芸員や美術評論家。公立美術館は新聞社の金で動いている商業展覧会しかやらず、たまに反権力的な内容の展示をやれば検閲される。そうした業界におもねる美術メディア(ビテチョーとか)はそうした業界人を褒めたたえるばかりで、業界内での批評精神、自浄作用も失った。税金で雇われたキュレーターが自分たちのことを「アートピーポー」と自称していたが、「アートピーポー」であることに酔っている変わった人々と自分には見えた。
学生の頃、一生懸命アートの歴史を勉強していたが、大人になり、現実のアート業界を知って、ただの茶番だと我に返った。特にここ数年のアートシーンの劣化具合はあまりにひどい。
元増田の「要するに《現代アート》というのはすでに既存の権力になっていて、彼らはそれを無批判に持ち上げることにこそ価値を見出しているわけだ。」に共感する。日本全体を見ても「権力を支持したい。体制側が正義。」という人間があまりに増えすぎている。それは美術業界でも同じだ。SNSでアートやってますと言いながらネトウヨっぽいリツイートをしている人って昔はあんまり見かけなかった。アーティストなら反体制だろというわけではないけど、自分の頭で何も考えていないから体制派を無批判に受け入れるし、自分の考えと異なる意見を知ろうともしない人がアーティストに簡単になれる時代なのだなと思う。
(=自分が大学で勉強するか、大学で勉強した人に手配してもらう必要がある)というのも「大学の先生が言っていることは正しいこと」という思い込みが後ろに隠れているわけだが、大学で学んだ経験がある自分からすると、大人になってから「あの大学教員の言っていることは偏ってた、おかしかった」ということは多分にあった。何も知識のない時は師やメンターの言うことをそのまま学ぶ時期であるが、学びが終わったら、「それは本当にそうなのか?」と考えられるようにならなければならない。
「偉い人がすごいって言ってるから、この作品はすごい」って言っているうちはまだまだ子どもである。そうした子どもばかりになっているのが今の日本のアート業界なんだと思う。海外のことは知らんけど。
今どんだけ必死でアート無罪を唱えたところで、自分が気に食わなければ「お前のそれはヘイトだから別」みたいにテノヒラクルーするのわかりきってるからなー
自分の可愛い相手だけなんだよ、コンテキストがどうの現代アートがどうのと主語のでかいことをほざくのは
だいたい君らハラスメントの話題なんかになると、「受け手がどう感じたかが全て」みたいなこと軽はずみに言っちゃうじゃない
それでなんでアートが絡んだ時だけは発信側の都合が全て通って、見る側が必死に忖度しなきゃいけないとか思っちゃうのか
今までずっとそういう特殊な世界の権威主義を政治的正しさの名のもとに軒並みシバき倒してきたはずなのに、自分の党派に都合のいいアートだけはなぜか特権を認めちゃいたいわけだ
才能があり経済的に稼げる能力のあるデザイナーはみんな大衆的なポップアートに行ってしまい、いわゆる大衆がイメージする現代アートにはポップアートへ進めなかった(つまりまともに就職・就労できなかった)人が集う分野になってるんだよ
アーティストも生きてるのでお金が必要であり、優秀な人は現代社会需要の高いポップアートでお金を稼ぐんだ
つまりポップアートでの就職・就労は一般人の感覚で言う大手企業就職と同等のものなわけ。超優秀な人はトヨタとか三菱地所へ行くイメージだ。優秀な人からどんどん有名企業へ行くのは何処の業界も同じ
現代アートは一般人の感覚でいうところの派遣とかアルバイトとかそういうレベル。比喩じゃなくて本当に派遣とかアルバイトしながら現代アートを“やるしかない“連中も多い
「これはアート! わからないお前は勉強が足りない!」とか言っている人たちがいる。
こういう人たちには現代アートを批判するという視点が完全に欠如している。
要するに《現代アート》というのはすでに既存の権力になっていて、彼らはそれを無批判に持ち上げることにこそ価値を見出しているわけだ。
「俺たちはわかっている。俺たちはすごい」とね。
ここで崇められているのは《現代アート》というひとつの偶像であり、そこには《現代アート分かってる人(びと)》という信者の群れが存在するということになる。
現代アートもかつては批評性を持ち得たのかもしれないが、現時点においては運動性を失いすでに腐っていて、残っているのは本質を失い形骸化したカルト的な何かだ。
当然《現代アート》も《現代アート分かってる人(びと)》も支持されない。
あとは滅びを待つばかり。
1)
いや、専門家の批評・論評も、素人の「このアニメつまんね」の一言も、どちらも作品に対する評価だよね、というだけの話で。
もちろん議論していただくのは構いませんし、一方で別に議論しなければならないわけでもない、プリミティブな感想で済ますのだってアリでしょう?と。
2)
teebeeteeさんは「手法」「技術」「様式」あるいは「文化」のような言葉が妥当である様に仰いますが、「いつものやり方」といった意味を持たせたい場合、(「手法」ではなく)「風習」という語彙の選択は、それほど無茶苦茶な事でもないでしょう。また、例えば「慣習」であればteebeeteeさん的にOKだったのだろうか?という事も気になります。辞書的には、あまり意味の差はないようですが。
それと、嫌韓の人たちが使っている言葉なので、「かの国」は問題のある言葉である…の様な考え方は、とても真っ当な思考だとは言えません。完全に順序が逆転しています。
恐らく、貞本氏のツイートには『“かの国のプロパガンダ風習”っておかしいよね』の意味が含まれているとは思いますが、では例えば『A氏のスキップって変ちくりんだよね』と言った時、それはA氏という人物全てを否定した事になるのでしょうか?と。
敵愾心について。その内容、またはもたらす影響力の大きさによって、思想・表現が「絶対悪」にされる事こそが「価値観の自由競争(市場)」に反する、正に「表現の不自由」ですよね。『「表現」はどの様な「影響」を与えてもよい』というのは最早、前提レベルです。
teebeeteeさんがその様にお考えかどうかは分かりませんが、『「とある表現」は悪影響がある』みたいな考え方の時点で、思考が捻転してると気付くべきです。それを「悪」と設定するのも、「別のとある思想」以上のものではないのですから。せめて『私にとって都合が悪い影響がある』と言うべきでしょう。
もちろん、あくまでteebeeteeさんの中では「悪い事」だ、という限りにおいては、特に言う事はありませんが。同様に、人道なんてものも(ぶっちゃけ武士道だの騎士道だのみたいな存在ですし)、普遍的な規範として掲げず、teebeeteeさん個人それとしているに留まるならば、やはり特にこちらから言う事はありません。
3)
まず貞本氏の『現代アートに求められるのは、面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!だ』という考え方があり、それに対してブコメで『貞本氏は現代アートへの理解が浅い』といった様な批判がある、というのを踏まえての話です。
つまり(teebeeteeさんも貞本氏の「現代アートに求められる」の事をあまり一般的ではない、と仰っていたが)、『「もっとアートに親しんでほしい」的なイベント』としては、むしろ貞本氏の様な理解こそが本流であって、「不自由展」のようなものの方が異端ではないの?という話です(別に異端だから即、展覧会から排除せよという話ではない…もちろん不人気ゆえに淘汰される事はあると思うが)。
4)
という事は、例えば「このアニメつまんね。もっとxxxな感じだったらよかったのに。」といったものは「独善」だ、という事ですか?だとしたら、それはやはり極々正当な「独善」ですよね。
先に述べた通り、貞本氏のツイートに「潰す(中止・撤回させる)」といった意味は見受けられません。また「運動」(抗議活動)によって中止・撤回させよう!…といったものでもありません(そもそも現時点でそれをする意味はないが)。
“自分の興味や許容範囲を芸術祭に押し付けていいのは、正規に専任された芸術監督だけ”というのもおかしいです。むしろ逆に、すべての人が正当な需要の発露として“押し付け”てよいはずです。
北海道物産展(別に北海道じゃなくてもいいけど)のラインナップは、確かにバイヤーさんが「キュレーション」したものかもしれませんが、だからといって客や客予備軍が『あの店は良かったし、あの店はイマイチだった、もっとこんな感じの展になって欲しい』『この程度の品揃えでは行きたくならない、xxxとかあればいいのに』と、その需要を発露してはならないなんて事はないでしょう?まぁ、あれらの場合はもっとダイレクトに売上が物語ってしまいますけれども。
またそれが、店頭で、あるいはSNS等で「この店は相応しくない!閉店すべし!」といった抗議活動を行う事とも全く違う、という話も理解できますよね?
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後、納得したというより、やはり「風習」の解釈は考えすぎだと思うが、teebeeteeさんが「風習」という言葉にそのような意味を見出したため、そう感じる事になったという事については、あくまでteebeeteeさんの内側の話であり、こちらから文句を言う筋合いはない、teebeeteeさんの勝手である、という話ですね。
一方で、これはteebeeteeさんに向かって言うわけではないのですが、感想が「事実化」する、という現象には気を付けたほうがよいでしょう。
例えば、『貞本義行は差別主義者だ(と思う)』という自身の内側で熟成された感想でしかなかったものが、https://b.hatena.ne.jp/entry/4672773449994362818では既にいくつかのコメントにおいて「事実化」しており、『差別主義者が言い訳している』という見方しか出来なくなっている様子が観測できます。
また、
中韓アニメーターは所詮下請け扱いでまともなクリエイターとして見ていないんでしょう。そうでなければ「かの国の」などと国民全体を侮蔑するような表現は使わないはずです。— aschheimm (@aschheimm) August 9, 2019
貞本義行氏の件のツイートのどこに悪意を感じるか貞本さんのツイートはBBCの特集で話題の「犬笛」表現に加え、女性蔑視、ルッキズムやI have black friends論法も同時に使ってるので、差別主義者の典型表現がふんだんに詰まった文章になってるんですよね。2019/08/10 06:36
も紛うことなき「事実化」ですが、まずこの「犬笛」判定が「エスパー」と紙一重である事には注意された方がよいですし、また「犬笛」か「エスパー」かに関わらず、記述されていないそれを責めるという事は、つまり内心への糾弾である…という事くらいは認識された方が賢明でしょう。
キッタネー少女像。
天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。
かの国のプロパガンダ風習
まるパク!
現代アートに求められる
面白さ!美しさ!
驚き!心地よさ!知的刺激性
が皆無で低俗なウンザリしかない
ドクメンタや瀬戸内芸術祭みたいに育つのを期待してたんだがなぁ…残念でかんわ— 貞本義行@腰痛 (@Y_Sadamoto) August 9, 2019
というツイートに対して、
https://t.co/3wqZGCqLzd"所詮個人の(特定集団の、というべきか)感想だし何を言おうが勝手だが、胸の悪くなるような悪意でグジュグジュの言語感覚が本当に気持ち悪いので、人の目に触れるところに文字を書いちゃ駄目な人だな、と思った。
特に胸糞悪くなる様な文章では無いと思うのだけれど、どのあたりがそうなのだろう。もちろん、胸糞悪いというのも、個人の感想なら勝手だし、ブコメを書いちゃ駄目な人だとも思わなのだが。
私の書いたことを反復してやり返されてるあたりに煽りを感じなくもないけど、
上記ツイートを読んで胸が悪くならない人にとっては正当な疑問だと思うので、
説明を試みる。
「キッタネー」なんて言うのは、論評の範囲を外れた軽蔑の吐露でしかないと思うが、
ここは文頭でもあるし、多少どぎつい表現で書き出して読み手を引っ掛けるのは、
ぎょっとするけど、まぁ何を言うのか読んでみるか、と思わされるところはある。
ただし問題は、後段で「キッタネー」と思う理由の言語化を試みていないところにある。
あえて斟酌するなら、技術の不足や表現の杜撰さによって不快を感じた、ということで、
イラストレーターの鋭敏な美的感覚からすればそういうこともあるだろうと思う。
「そんな重いものを表現するのに、そんな適当な仕事でいいのか?」という方向で、
表現の意図を(賛同しないにせよ)酌んだ上で、その実現における難点を、
実物に即したかたちで(つまり実際に観察した上で)言語化しているのであれば、
「キッタネー」と文頭で言うことぐらいは許されると思う。
でもそれをしないで「キッタネー」とだけ言ってるので、やはり論評とは言えない。
単に政治的文脈に対する不快感を、仮構した芸術的不備に転嫁しているように読める。
ただしこれだけなら「感想」の範囲ではあって、明確な悪意までは感じない。
単にぶっきらぼうで露悪的な言動を好む人なんだな、と思うだけ。
「天皇の写真を燃やし〜」という作品についての論評として書かれているのだが、
ここで「風習」という語を選択するところには、明確な悪意が込められている。
この文脈(作品の表現の引用元を指摘する)で「プロパガンダ」と連結しうる語は、一般的には
「手法」、次点で「技術」「様式」、あるいはちょっと意味を拡大して「文化」といったところである。
しかしそれらの語を選ばず、あえて非標準的な「風習」という連結語を選ぶことの含意を分析すると、
「プロパガンダ」に「風習」という語が含む土俗的、前近代的なイメージを付着させ、
かつそれを、発言者が揶揄の対象としている(おそらく)東アジアの一民族が古来から持つ習俗、
と考えていることが見て取れる。
言い換えるなら、特定の民族に対して「未開人」「土人」などと呼称するのと同型の差別的な認識を、
しっかり内面化し、かつ機会があれば表現するのをためらわないからこそ、
「風習」という語が(「手法」や「文化」を押しのけて)ここで選択されているわけである。
作品についての論評の一部(引用元の指摘は端的な論評と言える)ということで、
ギリギリ許容されうるのかもしれないが、婉曲的なヘイトスピーチである。
婉曲的、は外してもいいかもしれない。
「現代アートに求められる」もの(あまり一般的ではないようだけど)を列挙して、
これは個人の感想であって、自由に発言されるべきものだとは思う。
より辛辣にすべく「低俗な」と付け足すところに、悪意の奔出が感じられるのだが、
「発言者がウンザリすること」自体を「低俗(下品で程度が低い)」だと言っている、
とも解釈しうるので、「(作品が)低俗なことにウンザリ」と補うべきだったと思う。
悪意が先走りすぎて言語が崩れている箇所、と言える。
「胸の悪くなる」とまで言ったのは、こういうところである。
4)「育つのを期待していたんだがなぁ……」
言うまでもなく、展覧会の将来を勝手に先取りして否定して悲観してみせるのは、
現在行われている展覧会あるいは個別の表現の評としては、意味のあるものではない。
発言者としても「これは良くないな」と思ったからこそ、自己リプライで要望を書いて、
自分の望むようなものであれば応援したいのに、というポーズを見せているのだと思われる。
あと、ドクメンタや瀬戸内芸術祭にだって、発言者が不快に思うような
プロパガンダと解釈しうる展示がまったくないとは思えないけど(なにしろ大きいから)、
それはまた別の問題である。耳に入らなければOKなのかもしれないし。
ただし、勝手によその芸術祭の権威を借りてきて論難の武器に使うようなのは、
あまり責任感のある言動とは言えない。虎の威を借るなんとやらに見える。
名前を出すなら、せめて一つくらいはモデルケースを挙げて論じて欲しいところである。
ついでなので、上記ツイートに自己リプライで書き足されている部分についても、
悪意を感じる箇所を指摘しておく(埋め込みは省略)。
どのメディアを指していってるのか知らないけど。
6)「プロパガンダをアートに仕込む行為も全く否定しないけど正直
アートとしての魅力は俺には全く響かなかった」
アートとして失敗してると思うなら、プロパガンダとしても効力は薄いと予測できるわけで、
ひっそり敵失を喜んでいればいいんじゃないでしょうか。
そういうわけにもいかないのかな。
以上のようなわけで、拙ブコメの
「人の目に触れるところに文字を書いちゃ駄目な人」
というのは不当で過剰な個人攻撃だったかも、という視点から再検討してみたんだけど、
主に2)の理由によって、撤回するほどでもないな、という結論になりました。
もちろん露悪的な言い方であることは進んで認める。
報道や各種メディア、個人が様々な媒体で伝えているこの事柄に対して、私個人のごく私的な見解など、どうしようもない話の一部になるのだろうけれど、つらつら書いてみようと思う。
・検閲
今回発生した問題は検閲の問題ではない。現在紙面やネットで騒いでいる検閲という問題は、当事者の手を離れた部外者による場外乱闘であった。扇情的な展示に対して、権力を扱う不用意な政治家が、自制せず権利を侵害する発言を行ったことは大問題であるが、ここまでくるともはや展示云々ではなく、国家、自治体による権利侵害(の実行又は脅迫)という、大事な問題だが、別方向の問題として切り離して考えるべきで、後述する問題を覆い隠してしまうことになる。展示を取りやめたのは、大量の抗議や脅迫、犯罪予告により、芸術祭にかかわる方々の安全を確保できなくなったという状況に陥り、該当展示の実行委員会(実行キュレーター)の同意なしで中止に至ったという顛末と理解している。
芸術市場が大きい欧米諸国に対し、日本国は元々芸術品の売買に対して諸国のような減税優遇措置をとっておらず、バブル期を除き、民間のギャラリーを経由した売買や、流通操作で伝統工芸品を大型百貨店の展示場で、国内のみ通用する相場で販売する程度であったが、バブル期~90年代の大型公共投資の連続からハード面での地域振興策が資金、コンプライアンスの両面で実行が不可能になった自治体における「少額で、短期間で既存のインフラを活用でき負担が少なく、運が良ければ国際的な知名度を上げることができる。」ツールとして、この10年雨後の筍のように芸術祭が乱立する事態となった。そこでは、ノウハウのない自治体が、自称地域文化の担い手である新聞社に丸投げ、そこからコネ採用された力のないキュレーターは、自身の貧弱なコネクションで囲い込んだ微妙な作家しか呼べず、投下した税金の割に貧相な芸術祭になった場合。自治体が運悪く山師に金を預けてしまい、多額の不適切支出で泣き寝入りになった場合。など皆さんが思っている以上に税金を使用したイベントにはトラブルが多い。税金が投入されるイベントは前提条件として・補助金申請等の手続が煩雑・大小の自主規制や、地域ルールに縛られる・税金が原資なので、疲弊した財務状況の自治体では開催不能、批判を招く場合がある。税金は芸術より生活政策に資金が回されるのは当然である。所詮流行りの水物なのだが、皆さんが思っているより所謂コスパの良い地域振興策なのでなくならないだろう。
今回の問題では、アートと異なる展示がなされているという意見が多く出ているが、大きく表現の自由と括られる中でも、その自由の元に「どの媒体で」「どのような手段で」「どの程度の深度で」、成果物として表現しているかは人それぞれ、所属する社会により異なるという点。またアートは政治と不可分であるが、極端な扇情(アジ)を行わなくとも、その行為がそもそも自由を行使しなければ表現できない、自由で平和な状況でなければ創作活動はできず、人の創造性を発揮できない点が大前提であり、自由の中で個々人が世界との関わりの中で何らかの美醜混じった真理を見つけ、それを昇華したのがアートとすると、今も表に出ない問題の一つ、表現の自由を行使する媒体と手段の衝突という背景が見えてくる。
新聞社や論壇を中心とするジャーナリズムは、文字を用い、抽象化している諸概念を文章化し、権利と自由を、守り、啓蒙し、扇情したりするわけだが、小説などと異なり「直感的に察する/察させる」機能は弱く、相手を文字化、文脈という論理化してしまった問題に対し、「同意するか」「同意しないか」の二者択一を求めてしまう。そして問題となった展示は、実行委員会の多くが学者又はジャーナリズム出身という状況で、同じ表現の自由でも、性質が異なる表現を行ったことが原因にあり、一般市民が考える「アート」とイコールにならなかった。「これはアートではない」という声である。表現はしているが、アートではないと。
アーティストと名乗る作家にも問題がある、この「ステートメント芸術」と揶揄される表現は、業界に詳しくなれば詳しくなるほど根深く、呪いともいえる。
アートという行為、物質/空間/映像/音楽で意図が伝わるよう、意識を特定のベクトルへ向けるよう誘導し、表現しなければならない所なのだが、その実力がない作家の中に、延々とそれらしい説明文を付けて意味づけする行為や、文脈という補助要素を主要素に持って来て、実態だけを見ても理解不能となる。そのような作家は大体退場していくのだが、言葉が主戦場のジャーナリズム界隈と親和性が高いので、変な形で融合してしまうことがある。
「文脈を追うのが現代アートだ」という解釈の誕生である。一面では事実だが、全てではない。
ビジネスの世界でこの行為を言い換えた表現としては「ストーリー」という言葉がある、そしてこれを最大限活用した米国の企業、セラノスの末路は多くの人を巻き込み凄惨なものであった。
・何が問題だったのか
①監督が芸術キュレーターの経験がなく、自身の分野であるジャーナリズムの文脈で解釈した表現を、芸術祭にねじ込んだ為、酷く食傷を起こしてしまった。
②食傷を起こしてしまった後の対応が、構造を理解している人の不足で収まっていない。
①食傷を起こした理由は長々と書いた。経緯として自分たちが表現の自由の最前線で、他の作家は何も考えていない。ように捉えられてしまうキュレーション(自由の世界におけるジャーナリズムの優越性)をしてしまったのが原因にあると考える。結果、津田氏がFM番組で発言したように「自分一人ならナイフで刺されてもいい覚悟だが、関係のない人を闘争に巻き込んでしまった」という発言につながっている。
表現は自由であるから、闘争を持ち込むなとは言えないが、徹底的なゾーニングと仕掛(言語化できている主張表現に容易にアクセスできる導線を作る)ことが必要であった。言語化できている(と思われる)主張表現に対して、実態が追い付いていなかったのではないだろうか。
不特定多数の威圧行為は、少数で行う創作活動にとって凶悪な暴力であり、過去も多々あり、これからもなくならない。すべての事柄に寛容な社会など来ないし、永遠に付き合わなければならない。
②をわざわざ書いたのが、今回の騒動で最も被害を受けている、他の参加作家に対して謝罪と対策を行っているのかよくわからない状況だからである。
・誰が最も被害を受けたのか
昨日声明文を出さざる得ない状況に追い込まれた、他の参加作家である。それぞれの表現を深化させて今日を迎えているが、キュレーターがバランスを取らず、独自にプレイヤーとして創作活動を我田引水した結果。必要のない状況で、自身の作品を見てもらうという重要な事柄を達成されないまま原理原則論の確認や主張を行わされたのは、イベントの主催者として責任が重大である。表現の自由は大事だと言うに決まっている。また、作品を撤収せざる得ない状況に追い込まれた海外からの参加者に対して、展示機会を奪った結果になった事も忘れてならない。マスコミが何をキーヴィジュアルとして記事にするか理解して、扇情的な人形を配置しているのは明白で、記事を見た輩が抵抗/抗議を通り越して、挑発と解釈してしまった訳である。撤収した2人は、必要のない場面で・積極的に日本側の行為に抗議を行う・無視した場合に自国内で起きている扇情的民族主義の標的になることを避ける。2者択一の判断に迫られた。
昨日声明に協賛したのは参加作家全員でないだろう、検閲を受けたわけでもない、こういうキュレーターのミスによる騒動に対してのスタンスは作家ごとに異なるのは当然である。
・なぜここまで注目が集まったのか
芸術は本質的に生活必需品とは言えない。生活環境が改善し、可処分所得と余暇がある状況下で初めて人は関心を持つようになる。今の日本、問題は起きているが、ネットで百家争鳴する位この国は文化的に成熟しており、得体の知らない世界に関わりを持ちたい気持になったのは素晴らしいと思う。物事の全ては飛び込んでこそ妙が分かる。威圧や脅迫はださく醜悪である。そしてアートはこんな長文も飛び越えて一瞬であなたの感性に突き刺さる力を持っている。
あいちトリエンナーレの件。いろいろ論点はあるがとりあえずこれについての違和感を書く。
フィフィなどが言っているこの意見。多くの共感を集めているが、コーランとの類比には無理がある。
この発言は戦前の国家神道を彷彿とさせるカルト的な考えの表出に見える。
天皇を現人神とする国家神道を前提しなければ、こんなことは言えないはずではないか。
天皇制は、少なくとも表向きは、宗教ではないということになっている。
それなのになぜ、昭和天皇の写真がコーランになぞらえられるのか?
それは天皇を人ではなく神のようなものだと考えているからではないか?
Piss Christの例もある。
https://freespeechdebate.com/ja/case/小便キリスト/
少なくとも宗教的権威を例に出しても議論は終わらせられないということは言える。
現代アートについてろくに調べもしていない、感情的な反応の域を出ないだろう。
しかも、(1−1)で確認したとおり、天皇は宗教的権威ですらないのだ。
天皇も一人の人である。その写真を燃やすことは関係者を悲しませる。
これは(1)とは真逆だ。(1)は、天皇を宗教的権威として扱っていた。
これに対してここでは天皇は人として扱われている。
この意見を真に受けるなら、すべての人の写真を燃やす表現はNGだということになりそうだ。
本当にみんなそう言えるか? たとえば元彼の写真を燃やすようなドラマの表現はNGか?
しかもそれはすべての死者にまで拡張して適用されるべき基準なのか?
まして、天皇は人ではあるが、ただの人ではない。
建前上は政治的・宗教的な力を持たない象徴ということになっているが、
実際にはどう考えても権力を持っている。
(今回こんなに大きな問題になっていることがそれを証明している。)
非常に特殊な立場の人であり、しかもその特殊さは権威に結びついているのだ。
天皇制の廃止は主張しないが、通常の人と同じロジックが適用できるかは怪しい。
また、なぜあなたが勝手に家族の代わりに傷ついているのかもわからない。
現上皇や天皇が悲しみを口にするなら、ある意味では理解できる。
(ただし、その場合はその権威の大きさがゆえに別の問題が生じるだろう。)
それに合わない人を抑圧・排斥しようとする人が多数派になりつつある現状には、
それを排斥することは多数派の福祉、あなたの福祉ではあっても、公共の福祉ではない。
こういうときに「国益」という言葉が使われるのも恐ろしい。何が国益かなぜあなたに分かるのか。
「非国民」が投獄されるような社会まであと一歩、いや、半歩の距離しかないだろう。