はてなキーワード: 現代アートとは
政治家という権力者と市民への補助では公金への考え方も違って当然だろ。。
それが同じだと思ってるなら考え直せ。。
あと彼らの言う「アートに理解がない」ってのは海外と比べても日本の平均が低すぎてどうしようって意味。
現代アートが大衆に受けないなんてのは本人たちもわかりきってるよ。
なにせまったく金にならないんだもん。
たとえばチンポムって名前自体は有名だから勘違いされがちだけど、
数年前までめちゃめちゃ貧乏生活でバイト掛け持ちしながら資金持ち寄りでアート制作をしてた。
で、例の気合100連発や非難が殺到したピカッは作品作りの過程やその後の進展などを通して、現地の人やアート部外者と十分以上に「対話」をし、粘り強く合意を形成した証明に他ならないんじゃないですかね、
当然ご存知かとは思うけど。
カジノやソシャゲと違うのは、単なる金儲けじゃなくて、外交ツールとしても使えるってことだな。アメリカが冷戦時に現代アート持ち上げて、「うちはこんな訳わからんもん好きに作れる自由で文化的な国じゃー」ってやったように。
芸術とかアートを語って解説する人って相手がそういうのわかってない前提でバカにして馬鹿にされたくなかったら認めろってスタンスなの?
成果物が王族とか貴族むけとかそうでないものもあるってそれ完全に別ものの話してるよねなんで混ぜてるの?
フェラーリとかマセラッティとかあるけどもちろんダイハツ軽もあるってそれもはや工業製品や自動車商品またはその道具をつかった価値や付帯するサービスの話じゃないよね
自動車本体自体の話をするのにタイヤが四つとか発明とか動摩擦とか燃料の話または税金や維持費の話をする尺度だよね
パトロンつけて大聖堂の絵を描くのに生活費がという意味の分からない構図から伝統音楽を奏でることで生計をたててる人までまぜてなんの話なの
ここだけにかぎらず全体的にそういういいかげんな基準で「わかりやすく」してくれてるのがその程度のものなのだったら現代アートってそういうもんだねって理解なんだけどたぶんそれで正解なわけだよね
そういう口先で取りつくろって問答が面倒になったらはいはいお前の勝ちっていわれたら勝利宣言するようなのが現代アートってわけね
それだと腑に落ちる
現代アートの発展に公金投入が必要、さらにはある種のエリート主義が必要というのも認めるが、現代の民主主義でそれが受け入れられるとは思わない。
アートだけ「税金よこせ、でも素人には分からないんだから庶民、役所、政治家の文句は一切聞かない」という聖域的立場を得ることが許容されるとは思えない。
温泉に行ったぐらいで首長をクビになるぐらい税金の扱いはウルさいというのに、アートだけなぜ?と言われるのが現実ではないか。
私個人はボーナスで作品を買う程度には現代アート好きだが、それでも現代アートはハイコンテクストすぎて国民的理解を得るのは不可能だと思っている。
税金は基本的にわかりやすいものにしかつけられないものなので、本質的に現代アートと民主主義は相性が悪いのだと思う。
もしタウンミーティングなどで直接民主主義的に作品を一つ一つ審査したら、現代アート、ましてやポリティカルアートなんてまず予算通らないだろう。
こういう話はMOTのリキテンシュタイン購入なんかでもあって、今までも薄氷を踏んでいたところがあった。それがいよいよ本当に破れてしまったのがあいトリだと思っている。
アーティストや美大教員なんかと話しているといつも思うのだが、アート業界の人は現代アートがどれほど好かれて「いない」のかの自覚が弱い。
結構な年のアーティストが「業界外の人と飲みに行ったらあまりにアートに理解がなくて傷ついた」みたいなことを言っていたりする。
興味ない人なんてそんなもんでしょう?と私が言うと「アートは絶対に正しく素晴らしいモノであり、わからない人は無知か騙されているんだ」といったイスラム原理主義者のような返事が返ってくる。
私からすれば、現代アートなんて変なガラクタをありがたがっている裸の王様みたいに思っているのが多数派だと思うのだが、彼らにその自覚はないらしい。
無理解の人間が多数派なのだから、アート業界はその意義を相当戦略的に説明しないといけないし、それでも徒労に終わることはある程度覚悟しないといけないと思っている(私は後者)。
だがそういった認識は極めて弱く、業界内の内輪に引きこもり、あいトリみたい事案が起きれば活動家まがいに騒ぐだけ。粘り強く合意形成を目指すことはなく、熱が冷めたらうやむやになって終わり。
アーティストは左翼が多い業界のはずなのに、アート好きとばかり固まり「多様性」がないし、アートに興味ない人と「対話」や「共生」する気はないように見える。
彼らの言う「民主主義」とか一体何なんだろうか?本当は民主主義とかどうでもよくて、単にアート至上主義の人間だけが集まり独裁する社会を望んでいるだけなのでは?と感じている。
一昔前に、塗りつぶしただけみたいな絵が現代アートとして高額落札されてたけど、あれに表現力感じちゃうってどういう育ち?
表現の不自由展騒動がきっかけなのか、最近「アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。
とりあえずポリティカルなことや特定の展覧会や人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違いを淡々と正してみる。
文章が読めない人向けに繰り返すが、別に「表現の不自由展」など特定の展覧会や作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート・芸術」に対する先入観について語っている。
前史時代から近現代に至るまで、金銭や作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれた芸術作品や芸術家はいない。
「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族や王族の庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品がメディチ家の庇護のもと、もしくは依頼で作られている。
モーツァルトのようにフリーの音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。
現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。
こちらは王政・封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。
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政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位でアーティストを雇い、パブリックアートの制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である。
因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックやベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動がバンバン興った。
それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代の前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界のアート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本の美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。
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一方、プロパガンダ芸術で有名なのは、ソ連やナチスなど。政府の意向や政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品は政府の思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。
上述した政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。
ただ、これらの政府の体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。
あくまで個人的な見解だが、プロパガンダ芸術はその性質上大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。
なお、これらの国では、現代アート・前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧の対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストがアメリカに渡り、祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。
上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。
だが「20世紀を代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。
現代であれば例えばバンクシーは思いっきり政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。
文学・音楽・映画にだって、政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。
「政治色をもつ作品はアートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。
むしろ、現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族や王族むけに作品を作っていた。そもそもが一般大衆向けの芸術ではない。
同時代の大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人が酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎やケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術のほとんどは淘汰されている。
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今現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキーやジョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったことだってある。
これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆の感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展の花形だし、ストラヴィンスキーはバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさんは美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆の感覚はあてにならなくなる。自分の感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。
かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ。
この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドとキッチュ」っていう論文が分かりやすい。
この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆の感覚と芸術作品の価値の乖離について論じている。要するに、「大衆に迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。
80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話や聖書の出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。
実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実の女性の裸を描くなんて、淫猥である!不道徳極まりない!下品なメスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。
しかし、どちらの作品も今やマネの代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代の芸術家からはオマージュの対象とされるような絵画として扱われている。
一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象は枚挙に遑がない。
簡単にいえば、写真が実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真と絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。
で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌやピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法は写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画だからこそできる表現」というものが重視されていくようになった。
そして「じゃあ絵画の価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート。特に後者の現代美術への影響は色濃い。
もちろん、写真のようにリアルな作品に価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアル」であるかどうかとは別の土俵で表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。
分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。
文章中でも少し触れたが、アメリカや中国、欧州と比較すると日本の美術市場はかなりちっぽけだ。国内でアートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府が美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在のアメリカの立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。
アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。
理論武装しているのは解るが、これが何十年と残る芸術なのか?っていうクォリティ的な面が良く解らない。
「素人には解らん。文脈が解る人には解る」で質が伴ってないんじゃないか?少なくとも素人目にも解る良さが皆無なんだよね。扇動屋の炎上商法にしか見えない。
これがアートならイケハヤ氏も現代アーティストなんじゃないか?と思う。
素人には"芸術"理論の何たるかが解らない。いかに不謹慎現代アートがそれに則っているのかも解らないんだから、解らない方が悪いという理屈なんだろうけど。
漫画家とかイラストレーターとかで素人が支持して世に出てくる商業芸術家は凄く解り易いと思うし、そっちの方がずっと純粋な世界だと思うんだけど。
宇川直宏氏みたいなお友達の芸術村の人間が、今回の津川氏に箔を付けさせて津田氏がトリエンナーレの芸術監督に就任させたりするのも、何とも情実の世界だなぁ…と。
正直あいちトリエンナーレ関係のニュースは補助金関連の辺りから食傷気味であえて距離を取っていた。
Chim↑Pomが炎上してるってのをネットで見ても、「まぁ元々ある程度炎上商法的な立ち位置だしな…」と思ってしまったのも事実だし、「被曝最高!」「放射能最高!」の文字列が並ぶニュース記事を見て、「あぁこれだけ見れば物言いたくなる人がいて当然だな」とまず思った。
昨晩のTBSラジオ「session22」のOPにリーダーの卯城さんが出演し、作品の意図と、「気合100連発」の音声がO.A.されていた。
https://twitter.com/session_22/status/1182282259946041345?s=21
帰りの車中でこれを聞いてて初めて詳細を知ったんだけど、自分は正直なところ、分別のつく人ならこれを福島ヘイトと捉えるわけがないと思った。
悪意のある誤読や切り取りか、ニュースの見出しだけ見て判断してしまったのでない限り、作品を鑑賞した上でそのような感想を持つことは考えにくい。
…と思っていたんだが、卯城さんが表現の自由について至極真っ当な「正論」を話しているのを聞いていると、この数年来感じていた違和感が思い起こされてしまった。
あえて手垢のついた言葉を使うが、その正論はどこまでいっても「リベラル」な正論なのだ。
ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』とダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の議論を下敷きにすれば、保守はシステム1に、リベラルはシステム2に主に訴えかける主張だ。
リベラルな言論空間は、徹頭徹尾システム2で考え抜いた言葉が要求される。
要するに、面倒臭いのだ。
フェイクニュースの流行やトランプ以降の世界は、「ネット空間で誰もが発言できバズを狙えるようになったことで、個人の承認欲求がこの『面倒臭さ』を圧倒してしまった」ということで、かなりの部分説明できると個人的には思っている。
ただ、アートを含めた文化全般の価値を信じ抜きたい人間としては、その面倒臭さ(=作品の文脈や、各カルチャーの歴史を調べた上で作品に接する態度)を軽視する風潮にはどこまでも抵抗していきたいと強く思う。
文脈を一切排除した現代アートは語義矛盾だ。20世紀以降の芸術はそれまでのスタンダードを破壊することに拘泥しすぎたきらいはあるが、作品の意図を読み解くためには、19世紀までの西洋美術の功罪を知ることが必須だ。
これはクラシック音楽のスタンダードからの脱却を図った現代音楽を聴く際にも求められる態度だ(クラシックの素養なしにサティやストラヴィンスキーやシュトックハウゼンを十分楽しめる人はまずいないだろう。)。
またそれは、パンクの登場が世間に与えた衝撃を知るためにはロックの誕生からプログレ・商業ロックに至るロック史を知る必要があり、エルヴィスが世間に与えた影響を知るためには19世紀末以降のアメリカのポピュラー音楽史を知る必要があるのと同じことだ。
それはとても面倒臭くて時間がかかる作業だ。しかしその作業なしに、過去を顧みることなしに、創造は有り得ない。
ポピュラー文化は人口に膾炙してこそ文字通りポピュラーになるわけで、文脈を知らない人を巻き込んでいく必要性のためにこの桎梏を抱えざるを得ないわけだが、情報が溢れる現代においてはその困難さの質が極めて短期間で変容してしまうように思う。
ただ、文化が社会の発展に寄与した功績を理解できる人ならば、こうした時間のかかる作業がマネタイズできない時代においてこそ、その価値が保全される必要性をひしひしと感じているのではないだろうか。
昭和天皇の肖像を燃やしたり慰安婦像置いたりとやりたい放題の展覧会『表現の不自由展その後』
「こういう表現であっても認められるべきだ!」という賛成意見と「さすがにダメじゃない?」と反対意見、日々議論が白熱している。
私は賛成でも反対でもなく、こういった状況になることが企画者の意図、
……かと思って傍観していたんですけど展覧会が中止されたりかと思えば再開されたり、入場制限が行われたり市長による抗議活動などヒートアップするよくわからない状況。
と思って色々調べていたところ、そもそも企画者の意図していたことが全然違った。ちゃんと説明した方がいいよ。
まず前もって知っておいて欲しいのは『現代アート』そのものについて。
定義としては過去の美術、芸術に囚われない、『前衛的で新しい芸術』だろうか。
時代性を反映していることが現代アートの条件とされている場合もあるが、作家によってはそこまで意識をされていないことも多い。
最先端の技術で作られた作品であったり、今までなかった発想やテーマ、思想で作られたりと従来の美術や芸術の枠組みに入っていなければ現代アートと呼んで問題ないと思う。
アートのくくりだからといって美しいとは限らないわけです(ここを勘違いすると現代アートのなんでもありな表現に嫌悪感を覚えると思う)
で、自分が思っていた『表現の不自由展』とはこういった過激な作品を展示した上で、『表現の自由』とはどうあるべきかを考えてみよう!
で、調べた。全然違った。
これがこちらです
https://bijutsutecho.com/magazine/series/s16/19768
長い!よくわからん!
っていう人もいると思うのでざっくり説明すると
アート界隈、戦後民主主義は『個(個人)の時代』だったけど今は『公の時代』!
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昔の『公の時代』といえば社会の抑圧や検問が厳しかった戦前の大正あたりだ!
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戦前と戦前の美術の間には『意識の断絶』があるように感じる……
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ドイツではそんなことおきていない、なぜ?
↓
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これです。いや、わかりにくい!
この騒動で読みにきた人は『ドクメンタ』って何〜?っていう人がほとんどだと思うのでウィキを貼っときます。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ドクメンタ)
あいだに出てくる『退廃芸術』も重要ワードなので貼っときます。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/退廃芸術)
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戦時中ナチスドイツは模範的な美術作品を設定して『大ドイツ芸術展』を開催、一方で近代美術や前衛芸術を集め『退廃芸術展』を開き晒し者にした。
戦後、その晒し者にされ弾圧された『退廃芸術』名誉を回復しよう!と開催したのが『ドクメンタ』、1955年からスタートし今もなお毎年開催される現代アートの展覧会。カッセル市やヘッセン州の出資によるドクメンタ有限会社が企画、運営している。
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日本は戦後今まで排除してきたものにアートとして向き合ってないから、戦前と戦後で『意識の断絶』が起きている。
そんでもって公的な立場でやるとなおいいよね!っていう感じです。
ざっくりなので違ったらすみません。というかここまで問題になった訳ですから、公的にわかりやすい文章を出した方がいいですよ。
この展覧会がめちゃくちゃ炎上した原因となる1番の問題点だと思うのが、
これです。
なんて巷では議論が白熱していますけども、この展覧会がやりたかったのは『表現そのもの』に対する可否ではなく、今まで向き合ってこなかったものに対して受け入れたり、考えたりしていこうよ、ということ。
こんなタイトルが付いてるから作品が『表現』そのものに対してのジャッジの道具に使われている。
「表現の自由だからこういう作品であっても認められるべきだ!(賛成派)」「いや、こんな表現は到底受け入れられるものではない!(否定派)」
といった議論ではなく、
「今まで触れてこなかった考えを知ることができた(賛成派)」「こういうのはどうかと思うけど、どういった思想で作ったのはわかった。その上でこんな表現はいけないと思う(反対派)」
という議論がかわされるべきだ。
この展覧会を擁護、または批判している者の中に、企画者の意図を理解している者はどれだけいるだろう?
というか、こんな意図を説明なしにわかる人はエスパーだと思う。
企画者の意図を考えると、『表現の不自由展』というタイトルはふさわしくない。
インタビューから考えるならば、『意識の断絶』がこの展覧会を企画するにあたっての1番のキーワードではないかと私は思う。
企画者の考えとして、表現の不自由が起きている根本の原因は戦前戦後のアート界隈での意識の断絶、と読み取れたからだ。
『意識の断絶』というキーワードを元にタイトルを考え直した方がいい。少なくとも『表現の不自由展』というタイトルよりは誤解を与えずにすむだろう。
『表現の不自由展』、企画展名のインパクトを狙いすぎたため、意図が大きくぶれてしまっているのではないか。名前だけしか見てない者にも邪推をされまくっている。