はてなキーワード: 火の鳥とは
http://anond.hatelabo.jp/20140516113017
原子核分野のとある古典的な方面では人の引退とともに技術も失われていっている。
ブラックボックス化したコード(フォートランで書かれている)とか「〇〇さんが生きていればこれを計算できたのにね」
みたいな場面を何度か見てきた。
他の分野もきっと似たようなものなのだろう。原子力工学とか冶金とかは絶滅危惧種なんだっけ?
次世代に引き継がれなければ失われていく。
そして一度失われたものを取り戻すのは難しい。
日本が金にならない能を保護するのも金のないイタリアがオペラを保護するのも同じ理由だろう。
各国が科学技術にそれなりにお金をつぎ込んでいるがそれでも次世代に伝えられるものは一部だ。
各分野は専門化し、細分化し、それに伴い必要な専門家の数は増えていく。一方、継承できる次世代の人数は増えない。
人気のなくなったところからひっそりと消えていく。これは悲しいけどしょうがないね。
http://www.j-comi.jp/book/comic/45521
何の予備知識もなくただのレトロゲー漫画だと思って読んで深い感銘をうけたので感想を書く。(※ネタバレ含む)
1979年からのゲームにまつわる著者の少年時代のエピソードを細かい小ネタ解説を交えて
進んでいく前半パートは気楽に楽しく読めた。
細かい文字が多く読みにくい部分はあるものの、スペースインベーダーを模したおもちゃの詳細な解説は読み応えがあるし、
近所のゲームコーナーのヒーローおじさんやお金持ちの男の子などしんみりさせるエピソードなどは
自分より一回り上の世代ではあるが共感とノスタルジーを感じた。
旧友が岡山弁丸出しでMZ-700のゲーム内容を語るシーンなどのギャグセンスは秀逸であり一気に登場人物に
感情移入してしまうが、その後急に内輪ノリでお友達がゼビウスについて語りだしてしまうのは突き放された印象でちょっと興ざめ。
レトロゲーム史の記録にこだわらず少年時代のノスタルジー漫画として割り切ったほうが、読ませる筆力がありそうである。
そのあたりから徐々に自伝的色合いを増し、第10話から話が急展開してゲームからアニメへ主人公の興味が移ってしまう。
3年間アニメ制作に情熱を燃やし尽くした筆者を待っていたのは、「まんが道」における「連続原稿落とし事件」並みの絶望であった。
努力はした、けれども能力が足りなかった。でもみんなで頑張ったんだからよかったじゃないか。
そんな自己欺瞞を「オネアミスの翼」に粉々に打ち砕かれるシーンには胸を打たれる。
「どれだけ熱意があっても、どれだけ精魂を傾けても、クズはクズだ。ぼくはこの時はじめてそれを学んだ」
この後、この挫折をバネに著者がゲーム業界で成功していれば、ゲーム版「まんが道」といってもいい希望に満ちた素晴らしい物語になっただろう。
だがその後モノローグはこう続く
「そして、それは最初であって決して最後ではないことをぼくはこの後何度も思い知らされることになる」
アニメフェスティバルで手塚治虫に会って、一生かかっても恩返ししたかったのだというエピソードのあと、
現在の著者近況に戻って物語は終わる。希望はなかった。ただ傍観者としてゲーム業界の進歩を眺めているというようなラストだった。
おそらくこれはまだ続きを書くつもりなのだと思う。
気になったので著者のその後について調べてみた。
大学在学中に漫画家デビューしたものの売れずその後セガに入社、現在はフリーライターとのことである。
セガガガ(2001年、セガ) - 原案・美術設計・プロデュース
ASTRO BOY・鉄腕アトム -アトムハートの秘密-(2003年、セガ) - ディレクション・シナリオ・背景グラフィック
ガンスタースーパーヒーローズ(2005年、セガ) - ディレクション・シナリオ・背景グラフィック
ブラック・ジャック 火の鳥編(2006年、セガ) - ディレクション・シナリオ
サンダーフォースVI(2008年、セガ) - 企画原案・美術設計・プロデュース
セガガガはセガファンには有名な内輪ネタゲーであり、この人はやはり内輪ネタで本領を発揮するタイプなのかと思われる。
クソゲーとも言われているようだが情熱だけで独善的に突っ走る著者の性格がまだうまく作用したケースなのではないだろうか。
ASTRO BOY・鉄腕アトム -アトムハートの秘密-は、火の鳥アトム編を補完するGBAの名作として手塚ファンに語り継がれている。
この実績を持って手塚治虫への恩返し云々というエピソードにつながってくるのだろう。
どの程度関わったのかはわからないが、これが現在のところ著者のゲーム業界におけるハイライトと言えそうである。
そして最新のキャリアがあの伝説のクソゲー、シリーズファンから存在を抹消されているサンダーフォースVIであったことを知って
とてもフクザツな気分になった。情熱だけで独善的に突っ走った結果手に負えなくなり、誰も喜ばない作品が出来上がって
「仕方なかったのだ、これはこれでよかったのだ」と自己欺瞞するしかなくなるという高校時代のエピソードとぴったり重なる。
ちょうどこのゲームをリリースしたあとにこのパートを執筆していたというのだから著者自身それを痛感していたことだろう。
思うにゾルゲ市蔵氏は才能豊かな人である。絵も上手いし、曲がりなりにも高校生で二十数分というアニメを完成させている。
自伝をこれだけ客観的で読み応えのある物語に仕上げる才能は相当なものである。
センスが無いのか、悪趣味なのか、思い込みが激しいのか、高校時代のエピソードとサンダーフォースⅥに関しては
情熱を発揮する初期の段階で方向性を間違えていたと思えてならない。
そのようなタイプは大勢のスタッフを引っ張ってプロデュースしていくゲーム制作の仕事が向いていないのでは、とも思える。
もっとも、このマンガも絶版になったうえJコミ無料公開してもそんなに閲覧数が伸びていないので、
漫画家のほうが向いているとも一概にはいえないのであるが、なんとか自分の才能を活かせる表現形態を見つけて欲しい。
先週「はだしのゲン」を巡る大きな騒動があり、ここはてな界隈でも話題となったことは記憶に新しいと思われます。
また、教育委員会自体は否定しているものの、右翼系団体からの圧力があったという話があったことも話をさらに大きくさせました。
この辺の話は極東ブログさんが事実関係及び時系列を客観的にまとめた記事があるので、そちらを読んだ方が手っ取り早いと思われます。
さて、ここでブックマークを拾いながら「はだしのゲン」を閉架処理にしてしまうことがいけない理由を見てみたいと思います。なお、これは私がチェックした時点(8月22日深夜0時)においてスターを多く集めている順に書いていることをあらかじめここに記しておきます。
まずは一番目に挙げた記事から見ていきましょう。
調べてみたら在特会が噛んでいた事案だった http://www.nicovideo.jp/watch/sm17718509
ケロイドまみれの人とかヒロポン中毒者とか、発達期の子供が読むとトラウマになる描写ばっかだからいいんじゃん。おかげで子供ながらに戦争・原爆とか絶対ダメだこれって思えたよ。
絵が嫌いで読まなかったけど、それを選ぶのは子ども自身であり、閉架扱いにしたら選択の機会が事実上殆どなくなる。閉架は隠すことと同じだろ。
わからんでもないんだけど、これって「なんか聞かれても答えられる自信がありません」っていう教育委員会の敗北ではないのかな。
不謹慎な言い方かもしれないけど「はだしのゲン」はホラー漫画であり、仁義なき戦いであり、人間の虚飾を引っぺがしつつ、人間賛歌でもあるという極上のエンターテインメントだよ。ぜひ小さいうちに読むべし!
進駐軍によるレイプシーンの事かな。私はあれでレイプの酷さを知った。小学生高学年以上なら大丈夫だと思うけど。/戦争の汚くそして酷い面を覆い隠して、何がしたいんだろう。
こうして見ると、はだしのゲンを戦争の悲惨さを刻み付けるために読ませるべきだという意見は三人ほどおり、またそれに賛同の意を示すかたが意外と多いという事実が分かります。(ちなみに、私はスターを入れていませんが、id:panamolyfumizouさんや、id:IGA-OSさんの意見に共感しました。)
二番目に挙げたブックマークでは某レイシスト集団、ひいては歴史修正主義者に対するコメントばかりなので、「はだしのゲン」という作品そのものに関するコメントは、人気ブックマークに現れていませんでした。もちろん、そういったコメントもあることにありましたが、人気のブックマークの一覧にはありませんでした。当該まとめが取り上げている事案が事案なので仕方がないでしょう。
とは言え、他の「はだしのゲン」を取り上げた記事においては、必ず一つは人気ブックマークにおいて「はだしのゲン」でトラウマが、「はだしのゲン」の描写によって戦争反対が云々、などと言及されているものがあります。また、子供の頃トラウマになった作品挙げていけなどといったしょうもないまとめ系記事でも必ず挙がり、ここでも戦争が云々などと必ず触れられます。統計的なデータは取っていませんが、ネット界隈を見渡す限り、このあたりは共通認識であると言っても構わないでしょう。まあ、統計云々以前に、少なくとも、「はだしのゲン」を読んで性的欲求を満たされただとか、積極的に首ちょんぱしたり戦争を行うべきだという思想を獲得したなどという感想はないことは言えるでしょう。
さて、長くなりましたが、ここからが本題、即ち表題に書いてることについてです。
表現規制賛成派がどういう理由でもって表現規制に賛成しているかはみなさんもよくご存知の通り、漫画やアニメにおける描写が現実の性犯罪を引き起こす恐れがあるということからです(もちろん、他にも理由はありますが、ここではこの理由に絞ります)。
つまり、例えば漫画やアニメの中で小学生あるいは中学生にしか見えない見た目の登場人物が、和姦であれ強姦であれ触手であれ蟲であれ、何らかの性的行為を行っている描写を読者が見て、現実世界でも実行しようという誘引が働くという訳です。米国で問題になったレイプレイの議論も参考になります。また、他の暴力描写が含まれる作品、例えばバトルロワイヤルなどを巡る議論も同様です。フィクションにおける描写が、現実世界においても同様の事例を発生せしめる可能性があるという科学的根拠のない意見でもって、規制をなそうという暴論がまかりとおっているのです。
ところで、上記に述べた「はだしのゲン」を小中学生に見せようという意見を見てみましょう。彼彼女らは、「はだしのゲン」を読むことによって子供達に何らかのトラウマを与えて、また戦争の悲惨さを教え、更にはレイプやシャブの非道さを教えられるというのです。
今度はポルノ表現を見てみましょう。ポルノ規制反対派は、猥褻描写が行われている漫画あるいはアニメを見ることによって、例えばレイプされても感じるのだからレイプしようだとか、現実の児童にも手を出そうとか、そんなことを読者が考えるとみなしているわけです。
この論理構造、本質的には一緒じゃないですか?即ち、何らかの視覚的表現が何らかの影響を読者に与えるというのです。私は、この点でもって、「はだしのゲン」は戦争の悲惨さを云々だという論理には危うさを覚えています。しつこく繰り返しますが、描写が凄惨な漫画を読んで反戦争を唱えると、レイプ漫画でレイプされている人が感じるということを"知って"実際にレイプするとは、本質的に同じ論理構造です。
私自身は、今回の閉架処分には反対です。理由は実に簡単で、漫画の表現なんて現実世界に何の影響も及ぼさないし、そもそも現代においては「はだしのゲン」なんか可愛く見えるくらいグロテスクな表現を使ったブツが大量にあるからです。そんな中で「はだしのゲン」だけを閉架処分にするだなんて無知きわまりないです。また、表現の自由という観点からもありえない決定です。ましてや、「はだしのゲン」が特定個人を誹謗中傷している作品ならまだしも、少なくとも史実にしたがって描かれた作品なのです。やはり、今回の松江市の決定は悪しき前例以外の何物にもならないでしょう。
なお、反戦に関しては、個人的にはたかが漫画を使うのではなく具体的なデータ及び記述でもって丁寧に教えた方がよっぽど良いと思います。情緒に反戦を訴えても意味がありません。それは、より強い思想によって塗り替えられるだけです。確固たる客観的記述を知ることの方が、歴史修正主義者たちの出す捏造された資料を読んで騙されることがなくなるためはるかに有用です。個人的に、ネトウヨがこうもうじゃうじゃいる理由はここにあると考えています。教育関係者には自省を促したいところです。
さっき、NTV系列で放送された「二人の桃源郷」というドキュメンタリーを見て、大泣きをした。
作品を見てこんなに泣いたのは生まれて初めてだ。
「ニュー・シネマ・パラダイス」よりも「トイ・ストーリー3」よりも「ショーシャンクの空に」よりも「汚れた血」よりも「ぐるりのこと。」よりも「ゾンビ」よりも
「ブラックジャック」よりも「火の鳥」よりも「ジョジョのシーザーが死ぬシーン」よりも「寄生獣」よりも「ハイスコアガール1巻ラスト」よりも
「星の王子様」よりも「火垂るの墓」よりも「ライ麦畑でつかまえて」よりも「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」よりも「罪と罰」よりも、
比べ物にならないくらい感動して泣いた。
ストーリー紹介はここで省くが、将来子供に見せたいし、色々な人に見てもらいたい作品。
思い出して、また、号泣。
もやもやしながら推移を見てきたわけだが、追いオリーブによって決定打が打たれた。
「見苦しすぎワロタ」。
今となってはもう明らかだが、これはもともと、店にいやな思いをさせられた客と、客にいやな思いをさせられた店との、ただの口論に過ぎなかった。
どちらが正しいか、というより、どちらが相手の状況を汲み取れる大人だったか、という程度の。
ところが、乙武氏は致命的な対応をしてしまった。彼は自分の最大の弱点にして最大の武器「五体不満足」を掲げてしまったのだ。
これは最強のカードだ。
おすぎとピーコに勝てるのは、三つ子以上のオカマであることが必要なように、
このカードに勝つには、六体以上の不満足を満たさなければならない。(不満足を満たすとはこれいかに)
あまり面白くない冗談を書いてしまったが、これの何が致命的であるかというと、かねてから彼が主張するバリアフリー、健常者も障害者も対等である、という意識は、お互いの意識改革によって実現されねばならないのに、対等のテーブルを自分から早々に降りて、攻撃に転じたことを意味するからだ。
(ふと、現在の彼の心境は、手塚治虫『火の鳥』鳳凰編の、茜丸ーー我王と鬼瓦を作る競争をして、誰の目にも我王の作品が優れていて、自分が負けるのが分かるのだが、茜丸は我王の、殺人鬼であった過去の所業を明かすことで、我王を追放して自らの面目を保つーーに似ているかもしれない、と思う)
彼は一人の客として、店側の不寛容に文句をたれるべきだった。(60万人に店名を挙げ褒めるもけなすも、私は問題のあることだとは思わない。それは影響力をもった彼の自己責任だ)
しかし、障害者差別のカードは、「かの差別”的”発言に寛容で、バリアフリーの主張を持つ」乙武氏がここで切るカードではなかった。
スレタイでもあったが、「私怨」を差別問題にすり替えたことによる周囲の落胆と、差別問題の後退は、やはり大きい。
(そんなの有名人ひとりに出来ることじゃねーよ、という意見はあるだろうが、彼はその力も、魅力もある、稀有な人物であると思っている)
失われた信頼を取り戻すのは、長い時間と苦労を伴うだろう。茨の道もあるし、これまでと変わらない道も、あるにはある。選ぶのは彼なので、その選択にとやかく言うことはできない。
しかし、やはりもう一段踏み込んだ言葉を発言する責任はあると思う。ネットを巡る日本の言論状況は、今回の問題も含めて、きわめてリテラシーが高く、本質を逸れてない意見が多かったように思う。西洋の言論のアプローチとは異なるかもしれないが、決して遅れても、愚かでもない。じじつ、最初にあげた2chの一行は、彼の、反省はしているが謝罪はしていない長文の本質が簡単に見抜かれている。
オッス、元増田です。ご検証ありがとうと礼儀としちゃ言うべきなんだろうけど、そんな話じゃないんだけどなーという印象。
「僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね」は主語が大きすぎてなんともですが、個人的には少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」終了後も「七色いんこ」や「ミッドナイト」はよく読んでました。「ゴブリン公爵」は忘れてください。
また手塚クラスになると過去の名作に触れる機会も多く、「火の鳥」(「太陽編」の前まで)は朝日ソノラマ版で読んだし「ブッダ」も床屋で読みました。
ここで全称命題の話にしますか(笑)。前世代、前々世代に比較すればあながち的外れな考察でもないと思いますけどね。もちろん統計データなんてありませんけど、クラスのほとんどが読んでいた、半分くらいは読んでいた、5人くらいは読んでいた、と比較すればほとんど読んでいないという大きな主語は、この場合、個人的にあれも読んでいた、これも読んでいたというのよりはよほど実態に即していると考えます。それともそれこそ何か統計的なデータでもお持ちでしょうか。
1971年生まれで、チャンピオンを追いかけている人は相当稀少だったのではないでしょうか。何といっても同時代的には「ドラゴンボール」「北斗の拳」「聖闘士星矢」「キン肉マン」などのジャンプ黄金時代だったわけですし、6割ジャンプ、2割マガジン、1割サンデー、残りの1割でその他というのが実感です。70年代黄金期を過ぎてのチャンピオンの凋落ぶりは言うまでもなくて、看板作品でも老若男女誰でも知っている作品というのがもうここ30年ないですよね。
たとえば週刊ポストには「弐拾手物語」が長期連載されていましたし、週刊プレイボーイが本宮ひろ志の「俺の空」を載せたり平凡パンチは岡崎京子の「ジオラマボーイ パノラマガール」を連載してました。
「漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね」は勇み足というか、元増田の興味に引っかかるのが「アドルフに告ぐ」だけだったものと想像します。
ま、これは確かにそうですね。一般週刊誌は文春、新潮、朝日のみというのが感覚的には正しいと思います。この三誌とそれ以外では、オーソリティがまるで違うからです。この三誌がクオリティマガジンとは言いませんが、WILLに連載するのと、中央公論に連載するのとでは全然意味が違うのと同じです。ロッキード事件やリクルート事件など社会的な問題でたびたび尖兵となってきた雑誌と、スポーツ新聞に毛が生えたような雑誌とでは社会的な意味が違います。それは現在に至るまで、掲載されている作品の内容でも歴然と異なります。
特に80年代は、週刊文春は花田体制の下、絶頂期にあって、100万部を毎週越えるような規模としても内容としても一軍でしたから、基本的には政治経済、時事的なトピックでそれだけ中心的に扱われているメディアに漫画が乗った(プレイボーイならいざ知らず)ということ自体がトピックであったという意味で、アドルフの例は出しましたけどね。ただしアドルフ以後、この三誌での漫画連載は定着しませんでしたが。
ブコメで「サンコミックスが昭和40年代に出るまで単行本はハードカバーが普通、ただし人気作しか単行本化されなかった」とあります。
純粋にハードカヴァーの作品自体であれば貸本屋の漫画は基本的にハードカヴァーでしたし、店頭でよく見かけるものとしては、学研の「ひみつシリーズ」もハードカヴァーでした。ただしサンコミックスなんてほとんど誰も知らないように、社会的な景色の話ですからマニアックな話をしてもしょうがないわけです。平積みにされて、多数の人が「おお、漫画もハードカヴァーになる時代なんだな」と認識することが重要であって、消費物としてではなく作品としての漫画、芸術としての漫画という意味合いを一般化したのは手塚がやはり尖兵であったという、そういう話です。「火の鳥」と「のらくろ」のどちらが先なのかは分かりませんが。
赤塚さんはあと、コロコロでは「花の菊千代」を連載しています。その後、ボンボンでも何作か連載していますが、知る人ぞ知るという程度の作品で、連載作家として仕事はしていたわけですが、雑誌の主力になるようなパワーはなく、その仕事自体が大御所としての余暇的なものであったと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20130510192931
「僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね」は主語が大きすぎてなんともですが、個人的には少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」終了後も「七色いんこ」や「ミッドナイト」はよく読んでました。「ゴブリン公爵」は忘れてください。
また手塚クラスになると過去の名作に触れる機会も多く、「火の鳥」(「太陽編」の前まで)は朝日ソノラマ版で読んだし「ブッダ」も床屋で読みました。
ブコメで「サンコミックスが昭和40年代に出るまで単行本はハードカバーが普通、ただし人気作しか単行本化されなかった」とあります。
80年代の記憶でいえば「のらくろ」の復刻版がハードカバーで出てました。
たとえば週刊ポストには「弐拾手物語」が長期連載されていましたし、週刊プレイボーイが本宮ひろ志の「俺の空」を載せたり平凡パンチは岡崎京子の「ジオラマボーイ パノラマガール」を連載してました。
「漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね」は勇み足というか、元増田の興味に引っかかるのが「アドルフに告ぐ」だけだったものと想像します。
いやまあ「一般雑誌」は週刊朝日、週刊新潮、週刊文春のみというなら別ですが。
このエントリを書くにあたって事実関係を調べるためにWikipediaの手塚治虫やその作品、藤子不二雄、赤塚不二夫などの項目を読んで懐かしい気持ちになりました。赤塚不二夫のコロコロコミックの連載が「チビドン」だなんてすっかり忘れてましたが画像検索で思い出しました。
「日本人は共同幻想体をシェアしてた」という表現はまさにその通り。
元増田がどういう心境で元のエントリを書いたのかはわかりませんが、この年になるとこうやって昔をふり返るのも悪くないものです。
1974年生まれぐらいの人から見て、手塚治虫ってこんな感じに見られてたなあっていう話。
僕が子供の時は各界に権威者つーか、記号みたいな人がいたのね。
美空ひばり=歌うまい、みたいな。石原裕次郎とかさ、リアルタイムじゃ「太陽にほえろ」しか知らんけど、あの固太りのおっさんのどこが恰好いいの?とか思ってても、裕次郎=二枚目、みたいな記号が権威をもってたんですよ。
いまさ、例えば歌姫って言っても、こーだくみも歌姫なら、浜崎だって歌姫でしょ。僕が子供頃だったら歌謡曲の女王ってたら美空ひばり、ミスタープロ野球ってたら長嶋茂雄、いや島倉千代子はどうなの、とか王貞治の方が記録を残してるよとか、そういう異論は通用しなかった時代なのね。
今だって神様だけどさ、もう当時はカテゴリー的には昭和天皇と同じカテゴリーなのよ。美空ひばりとか長嶋茂雄とか、石原裕次郎とかは皇室と同じポジションにいたわけ。
そういう意識を共有して、日本人は共同幻想体をシェアしてたのね。
タクシーに乗ってさ、いきなり運転手が「いやー昨日は巨人が負けて残念でしたね」って話しかけるみたいな、共同幻想ね。そこにはスワローズファンなんて存在しないの。いや、俺はホエールズファンだからなんてのはあってはならないの。石原裕次郎=二枚目ってのを受け入れるのはさ、天気の話をして場をつなぐ友好的な社交を受け入れるってのと同じことだったわけよ。
そういう仲でさ、手塚治虫=神様=天才=善人=医者、っていうさ、そういう受け入れられ方をしてたわけ。世間はアトムとジャングル大帝しか知らんから。
手塚の場合は、まあ、実際に天才だったわけだしさ、裕次郎が二枚目っていうのよりは実態があったけど、僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね。アニメは見たよ。
子供が多い時代だったから、しょっちゅうアニメは再放送されてて、「ジャングル大帝」「ふしぎなメルモ」「悟空の大冒険」「鉄腕アトム(リメイク版ね、♪ボクの腕と脚はジェットで空をとーべるー、の方)」「ジェッターマルス」とか観ていた。僕が一番好きだったのは「悟空の大冒険」だけどさ、まあ正直言って、藤子不二雄とか赤塚不二夫のアニメの方が面白かったなあ。
みたいなことを80年代に手塚は言ったらしいんだけど、晩年の手塚は権威を利用して、また新しいチャレンジをしてたね。
僕がリアルタイムで、手塚の「連載」を読んだのは「アドルフに告ぐ」なんだけど、これ、週刊文春に連載されてたんだよ。一般週刊誌だよね。週刊文春読んでる中学生もやな感じだけど、漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね。で、「火の鳥」と「ブラックジャック」がハードカヴァー版で刊行されたんだけど、漫画のハードカヴァー版も多分、手塚が最初。
権威を利用してたけどさ、最晩年の頃の手塚はむちゃくちゃ現役作家でさ、現役作家として再ブレイクしてたんだよ。ま、あの人、現役じゃなかった時代はないんだけど、藤子F先生が「ドラえもん」に専念して、赤塚先生がかろうじてコロコロとかに細々と連載してる中でさ、手塚は社会のど真ん中で新作でブレイクしたんだよ。
その最中に亡くなったんだけど、「アトム期」「レオ期」「どろろ期」「ブラックジャック期」って連続してるけど、それぞれ別の顔、別の座標軸でブレイクしてるんだよ。で80年代にもブレイクの山をもひとつこしらえたっていうかさ、死んだときは神様じゃなくて現役作家だったんだよ。
「ブラックジャック」とか「火の鳥」の名声で食ってたんじゃなくてさ、多くの読者に早く来週の掲載作品を読みたいって思われる作家だったんだよ。
まあ、おっさんのむかしばなしなんだけどね。
火の鳥が生物でないのは不死だから? それとも「宇宙意志の発現」だから?
火の鳥の「非生物っぽさ」って後者に由来するような気がするんだけど。
「既死」の存在であるゾンビは非生物として扱われることが多い。
ええとね、ええとね。
こういう話は超好きなのでレスがあったことは嬉しいです。
畢竟、回答にはちんちんを書いとけば正解として、生命の部品交換が可能な場合と、ドラえもんの修理が不可能な場合の話。
SF脳として、の話は基本的に終わらないです。頭の中の狂科学者がいろいろやっちゃうから。
例えば、修理が不可能な場合。
皆さんの身近な問題として、セガサターンが壊れたら、と言うのがありますね。
僕の頭の中の岸和田教授は、きっとパーツくらい自作してしまう。その上で助手に搭載するくらいのことはやるので。
現実的では無くとも、可能である。それを不可逆とは言えないのです。
生まれたが死なない状態。これを生命と呼ぶか。
僕は呼ばないと思います。火の鳥に登場する火の鳥そのものは、宇宙意志の発現だったりします。これは生命でしょうか。
ルパン三世に出てくるマモーは、度重なる自己クローン化の結果、緩やかな劣化という存在としての死を突きつけられています。
すべてを台無しにするようですが、最新電子頭脳を搭載した電子レンジでさえ、訪れるのは死ではなく故障です。
そうだね、火の鳥も対象になるよね。
そこで「火の鳥も18禁ですよね」と問うと、「あれは傑作だから対象外」と返答がある。
この返答をもって「恣意的」と呼称しているので、条文どおりに運用されて「火の鳥まで規制」と言うなら、それはそれでいいんですよ、反対派は。
そうなったら、規制に反対する賛成派の人が多いだろうな、と言うだけの話であって。
カルデロン一家の件では法務大臣の裁量権内である在留特別許可を「人情という恣意に訴えた超法規的措置」と書くのに、
エロマンガだと「恣意性の排除」と書くのは何でなんすかねー。俺の頭が悪いから理解できてないのかな。
順番としては、まず公に訴えて、法が改定されてから移住すべきだった。
今回の条例の件は違う。可決はしたがまだ施行前であるから、これから施行規則を決めてゆける段階だ。
カルデロンとは逆だ。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20101215/1292426086
2年ほど前にネットでも盛り上がったカルデロン・のり子さんとその父母の強制退去問題だ。
この退去問題では、入国管理局に強制退去を勧告されていたフィリピン人のカルデロンさん夫妻に対し「在留特別許可」を出すかどうかでネットを二分するほどの大論戦となった。(カルデロン夫妻は偽造パスポートにて入国していた)
カルデロンさん夫妻には当時中学生になる娘さんがいて、「娘と離れたくない」という理由で在留の許可を申請していた。
(娘さんは日本で生まれ、日本での生活が長期間にわたったため在留の資格がもともとある)
もちろん偽造パスポートでの入国は違法だが、国の制度としていわば「恩赦」とも言える「在留特別許可」という制度があり、不法残留だろうが違法入国だろうが在留を許可することは出来た。
(そしてカルデロンさん一家と似たような状況で許可をもらっている前例もあった)
これに対し、「痛いニュース」に代表されるような2ちゃんねるのネット保守層の意見は「一緒に暮らしたいのであれば、娘と一緒にフィリピンに帰れ」「法は法。日本にいるなら法を守れ」という一見すると「正論」とも言える意見を数多く出していた。
カルデロンのり子さん「お父さん返して!」と父親強制収容に悲痛な叫び
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1222628.html
古舘氏「もしカルデロン一家が自分の親戚だったら、どうでしょうね?みなさん」とお涙頂戴…一方、アラン&サラの親族7名が元不法入国・滞在者と発覚
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1252493.html
上記の「法は法」の論理でいえば、条例が成立してしまった以上、粛々と守るしかないように思えるのだが、痛いニュース管理人はそのようには思わなかったようだ。
「火の鳥は近親相姦があるけど規制?」 猪瀬副知事「されません」「傑作であれば、条例なんてないも同然」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1577320.html
もちろん、記事管理を複数人でやっていることや2ちゃんねるの意見も移りゆくことは知ってはいるけれど、痛いニュースが「一貫性」というものに無頓着なのが気になったのだ。
カルデロン一家に対し数々の「正論」を打ち立てた当時の2ちゃんねらーは、「法は法。東京にいるなら条例を守れ」「エロマンガ規制が嫌なら東京から出て行けば?」などと書かれたらどのように反論するのだろうか。
--------
多くの人にとって一見常識のように思える「健全」というものは、たいていの場合危険である。
善意を前提としている以上歯止めが利かないし、多くの場合は反論が出来ないからだ。カルデロン一家の件で在留許可に反対した人々は「健全な日本」を守りたかったのだろう。だが、エロマンガを規制したい人たちだって「青少年の健全な育成」を守りたいのだ。
国境というゾーニングも販売規制というゾーニングも、排他的である危険性は常に含んでいる。
ましてや、「常識・正論」という衣をまとった「感情」で押し通されてしまえば、それは多くの場合「排他」であるだろう。
ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』 マルティン・ニーメラー
まず、なんでそう都に信頼を寄せられるのかわからないよ。
一昔前の漫画に出てくるような「キチガイPTA」のパントマイムみたいな言動を繰り返してる。
何かが通れば踏み込んでくるし、条文の曖昧な部分は何に利用されるかわからない。
「不当に賛美」ってどういう事なのかさっぱり分からんけどお前は責任持って説明できる?
燕雀いずくんぞだ。
お前のメンタマには金儲けや利益にしか見えないんだから話が通じないじゃん既に。
刑罰法規に触れる性交もしくは性交類似行為または婚姻を禁止されている近親者間における性交もしくは性交類似行為を、不当に賛美しまたは誇張
俺の大好きな萩尾望都作品もヤバいだろう。
小売の商品陳列の問題を言いたいなら作品内容に手を突っ込む条例支持すんのは変だよなあ?
それとも分かっていないのか、どっちなんだろう。