はてなキーワード: 法則とは
「子供を産むな」であって「滅んで」という内容になってないな
(産まなければ遠からず弱者が滅ぶ…という意味だとしても、働きアリの法則と同じで「強者だけの世界」なんてものは成立しない)
そもそも、現代の日本で弱者を滅ぼすことは不可能。普通の会社が正社員の首を切れないのと同じ(異常な会社は切るけど)。死にゆくだけなのに何とかして老人を延命させるのと同じ
でも「子供を産むな」ってのは命令するまでもなくその通りになってるじゃないか
なんで敢えて言うのかな
自分を含めた弱者と言われる存在はちゃんと「自分の代で血が途絶える」状態になってる
「こんな人間の遺伝子を残してはいけないし、もし間違って子供が生まれたら子供に迷惑がかかる(元々自分自身迷惑している)」
と思って生きてきた
そんな人は多いんじゃあないかな
親から良い遺伝子と金を受け継げない人間は往々にしてそんなもんだろう
というか、増田は「死にたくない」のか
偉いな
ところで、弱者は子供作らない方がいいけど結婚はした方が良いんじゃないかな
国にとっても周りにとっても「結婚している人間」は安心だ(おまけに、子供が居なければ子の急病で仕事休むこともないから安心)
短期滞在や上級国民であらゆる法則を無視出来る人じゃないと、非常に宗教を持つ人にとっては暮らしにくい国だぞ日本は
「いただきます」「おかげさまで」「生かされている」は宗教から来るものだし、
パッと思いつくものでも、建物を建てる時のあれこれ、事業所やお店の神棚、七五三、例大祭、厄年、お盆・年末年始、葬式のあれこれがある
ワイが子どもの頃、当たり前のように子ども会のイベント神社でやってたし、神社でクリスマス会やったなぁ
修学旅行で神社やお寺へなどの宗教施設訪問も当たり前のようにやったなぁ
あと西洋宗教などの神が人間を評価する国の人は熱心に宗教信仰していなくても、
だいたい自己責任の思想と能力主義が強いし、自由意志を否定すると発狂する米🌾
なぜなら人間は自己の責任に基づいて行動をしそれを神は見ておられて評価するからだ
でも日本の神様はそういうのないからな。そもそも人を支配しないし万物に神性や魂が宿るって考えだから
動物や現象の神様だけでなく海外の神様も神社に祀るから。その神様アイコンにするから
とりあえず、教典がある宗教がいいです!なら、日本にいる出稼ぎ庶民外国人に聞いたら良さそう
MCUがいよいよもって危機に瀕している。最新作、マーベルの興行収入はズタボロだ。
製作費2億7000万ドルと言われ、リクープ可能なラインを表す2.5倍の法則を適用すると資金を回収するのに6億ドル近くの興行収入を稼がねばならない。
MCUが凋落するにつれ、ついにスーパーヒーロー映画コミュニティが行ってきたプロパガンダが暴かれるかもしれない。
MCUは日本のTwitterなどでも見られるようにリベラルで国外の文化に親和性があるような人が取り上げムーブメントを作り上げてきた。
その中で彼らはMCUは"女性の活躍が見られる"や"ダイバーシティが..."と言った言説でMCUへ観客を誘致してきたわけだが実際にはマーベルはそれらの作品群とは真逆の客層に対して物を売っていた。
マーベルの読者が別に保守主義者にモノを売っていたというつもりはない。
実際にはDCの方が傾向で言えば保守主義的な人々にモノを売っていたし、スタン・リーを筆頭にどちらかというとリベラルで左派的な価値観の作品群を従来から押し出していた。
しかし重要なのはそれらの作品は女性ではなく男性にモノを売っていたと言う事だ。
つまり基本的にスーパーヒーロー物のアメコミはboyが主要客層だったし、女性作家が増えたとはいえマーベルコミックは今でもそうだ。
そういった作品群の中であまりにも男性メインすぎたので女性を主体としたキャラクターを開発してきたという歴史がある。
これはつまり週刊少年ジャンプがあくまで男の子をマーケティングターゲットにしてきたが、現実の読者を精緻に分析することで、それに合わせて徐々に女性キャラクターの造形が変化していったに過ぎない。
しかし、MCUはそのバックグラウンドを奇妙に偽装してきた。一部のMCU作品は女性キャラが主体となった女性主導の女性向け映画だというように喧伝してきた。
しかし実態は男性向けの作品を無理やり女性向けにアジャストしたに過ぎない。
スーパーヒーロー映画は映画館のスクリーンをあまりにも独占しすぎるため、女性向け映画がまるで上映できず、むしろ2000年代後半からアメリカの映画館はどんどん男の向けになっていった。
そういった文脈知らない日本人向けに、こんなに立派な女性向けヒーロー物があるぞと日本の一部スーパーヒーローファンは喧伝してきたがその化けの皮がついに剝がれる時が来た。
実態としては日本の映画館でのヒーロー物は男性によく見られていたのだがアメコミクラスタはなぜか女性にも人気があるかのような言説を押し出していた。
実際には女性キャラが主導する作品でも男性の方が良く見ていたのだ。いくつかの記事ではよく見ると女性スーパーヒーロー映画の男女比が男性の方が多いと書いてあるにもかかわらず、女性の観客が多いと勘違いしている人を見た。
しかし、これはシンゴジラが女性にも人気があるなどとうそぶくようなものだ。もちろんシンゴジラを好む女性はいるが圧倒的少数派だ。
これは、そういった実情に対して苦悩している女性に対して"実際にシンゴジラは女性に人気だ!お前もそう言え!"と強制しているようなものだ。
人生、宇宙、そしてすべての意味とは何か?「銀河ヒッチハイク ガイド」では、答えは 42となっている。
科学の質問の範囲は、一部の分野では縮小し、他の分野では急増した。
宇宙がある意味数学的であるという考えは、少なくとも古代ギリシャのピタゴラス派にまで遡り、物理学者や哲学者の間で何世紀にもわたる議論を生み出してきた。
マックス・テグマークはこの考えを極限まで推し進め、宇宙は単に数学によって記述されるのではなく、数学自体であると主張している。
この議論の基礎は、人間とは独立した外部の物理的現実が存在するという仮定である。
これはそれほど物議を醸すものではない。物理学者の大多数はこの長年の考えを支持していると思うが、まだ議論されている。
形而上学的独我論者はそれをきっぱり拒否し、量子力学のいわゆるコペンハーゲン解釈の支持者は、観察のない現実は存在しないという理由でそれを拒否するかもしれない。
外部現実が存在すると仮定すると、物理理論はそれがどのように機能するかを説明することを目的としている。
一般相対性理論や量子力学など、最も成功した理論は、この現実の一部、たとえば重力や素粒子の挙動のみを説明している。
対照的に、理論物理学の聖杯はすべての理論、つまり現実の完全な記述である。
現実が人間とは独立して存在すると仮定する場合、記述が完全であるためには、人間の概念をまったく理解していない、人間以外の存在、つまりエイリアンやスーパーコンピューターなどに従って、現実が明確に定義されていなければならない。
言い換えれば、そのような記述は、「粒子」、「観察」、またはその他の英語の単語のような人間の負担を排除した形で表現可能でなければならない。
対照的に、教えられてきたすべての物理理論には 2 つの要素がある。
それは数式と、その方程式が私たちが観察し直観的に理解しているものとどのように関連しているかを説明する言葉である。
理論の結果を導き出すとき、陽子、分子、星などの新しい概念を導入するが、それは便利だからである。
原理的には、このようなバゲッジがなくてもすべてを計算できる。
たとえば、十分に強力なスーパーコンピューターは、何が起こっているかを人間の言葉で解釈することなく、宇宙の状態が時間の経過とともにどのように進化するかを計算できる。
もしそうなら、外部現実における物体とそれらの間の関係のそのような記述は完全に抽象的でなければならず、あらゆる言葉や記号は何の事前の意味も持たない単なるラベルにならざるを得ない。
代わりに、これらのエンティティの唯一のプロパティは、エンティティ間の関係によって具体化されるものになる。
ここで数学が登場する。
現代数学は、純粋に抽象的な方法で定義できる構造の正式な研究である。つまり、数学的構造を発明するのではなく、それらを発見し、それらを記述するための表記法を発明するだけである。
人間から独立した外部の現実を信じるなら、テグマークが数学的宇宙仮説と呼ぶもの、つまり物理的現実は数学的構造であるということも信じなければならない。
そのオブジェクトは、十二面体よりも精巧で、おそらくカラビ・ヤウ多様体、テンソル束、ヒルベルト空間などの恐ろしい名前のオブジェクトよりも複雑である。
世界のすべてのものは、あなたも含めて純粋に数学的であるはずだ。
それが本当であれば、万物の理論は純粋に抽象的で数学的でなければならない。
理論がどのようなものになるかはまだわからないが、素粒子物理学と宇宙論は、これまでに行われたすべての測定が、少なくとも原理的には、数ページに収まり、わずか 32 個の未説明の数値定数を含む方程式で説明できる段階に達している。
したがって、すべての正しい理論は、T シャツに書ける程度の方程式で説明できるほど単純であることが判明する可能性さえある。
しかし、数学的宇宙仮説が正しいかどうかを議論する前に、外部の物理的現実を見る 2 つの方法を区別することができる。
1 つは、上空から風景を観察する鳥のような、数学的構造を研究する物理学者の外側の概要。
もう一つは、鳥によって見渡される風景の中に住むカエルのように、構造によって記述される世界に住む観察者の内面の視点。
これら 2 つの視点を関連付ける際の 1 つの問題は時間に関係する。
数学的構造は、定義上、空間と時間の外側に存在する抽象的で不変の存在である。
宇宙の歴史を映画に例えると、その構造は 1 コマではなく DVD 全体に相当する。
したがって、鳥の視点から見ると、4 次元時空内を移動する物体の軌跡は、スパゲッティのもつれに似ている。
カエルには一定の速度で動く何かが見えますが、鳥には調理されていないスパゲッティのまっすぐな束が見える。
カエルが地球の周りを回る月を見ると、鳥は絡み合った2本のスパゲッティが見える。
カエルにとって、世界はニュートンの運動と重力の法則によって記述される。
2 つの視点を関連付ける際のさらなる微妙な点には、観察者がどのようにして純粋に数学的になることができるかを説明することが含まれる。
この例では、カエル自体は厚いパスタの束で構成されている必要がある。
その非常に複雑な構造は、おなじみの自己認識の感覚を引き起こす方法で情報を保存および処理する粒子に対応している。
まず、自然界ではさらなる数学的規則性がまだ発見されていないことが予測される。
ガリレオが数学的宇宙の考えを広めて以来、素粒子の小宇宙と初期宇宙の大宇宙における驚くべき数学的秩序を捉える素粒子物理学の標準モデルなど、その系譜に沿った発見が着実に進歩してきた。
長年にわたって多くのタイプの「多元世界」が提案されてきましたが、それらを 4 つのレベルの階層に分類することが役立つ。
最初の 3 つのレベルは、同じ数学的構造内の非通信の並行世界に対応します。レベル I は単に、光がまだ到達していない遠い領域を意味する。
レベル II は、介在する宇宙の宇宙論的膨張により永遠に到達できない領域をカバーする。
レベル III は「多世界」と呼ばれることが多く、特定の量子事象中に宇宙が「分裂」する可能性がある、量子力学のいわゆるヒルベルト空間の非通信部分が含まれる。
レベル IV は、根本的に異なる物理法則を持つ可能性がある、異なる数学的構造の並行世界を指す。
現在の最良の推定では、膨大な量の情報、おそらく Googolビットを使用して、観測可能な宇宙に対するカエルの視点を、すべての星や砂粒の位置に至るまで完全に記述する。
ほとんどの物理学者は、これよりもはるかに単純で、T シャツには収まらないとしても、本に収まる程度のビット数で特定できるすべての理論を望んでいる。
数学的宇宙仮説は、そのような単純な理論が多元宇宙を予測するに違いないことを示唆している。
なぜなら、この理論は定義上、現実の完全な記述であるからである。
宇宙を完全に特定するのに十分なビットが不足している場合、星や砂粒などの考えられるすべての組み合わせを記述しなければならない。
そのため、宇宙を記述する追加のビットは単にエンコードするだけである。
多世界の電話番号のように、私たちがどの宇宙にいるのか。このように、複数の宇宙を記述することは、単一の宇宙を記述するよりも簡単になる可能性がある。
極限まで突き詰めると、数学的宇宙仮説はレベル IV の多元宇宙を意味し、その中に他のすべてのレベルが含まれる。
宇宙である特定の数学的構造があり、その特性が物理法則に対応している場合、異なる特性を持つそれぞれの数学的構造は、異なる法則を持つ独自の宇宙である。
実際、数学的構造は「作成」されるものではなく、「どこか」に存在するものではなく、ただ存在するだけであるため、レベル IV の多元宇宙は必須である。
スティーヴン・ホーキング博士はかつてこう尋ねた。
「方程式に火を吹き込み、それらが記述できる宇宙を作り出すものは何でしょうか?」
数学的宇宙の場合、重要なのは数学的構造が宇宙を記述することではなく、それが宇宙であるということであるため、火を噴く必要はない。
レベル IV の多元宇宙の存在は、物理学者のジョン・ウィーラーが強調した混乱する疑問にも答える。
たとえ宇宙を完全に記述する方程式が見つかったとしても、なぜ他の方程式ではなく、これらの特定の方程式が使われるのか?
他の方程式が並行宇宙を支配しており、観察者をサポートできる数学的構造の分布を考慮すると、統計的に可能性が高いため、宇宙にはこれらの特定の方程式があるということだ。
並行世界が科学の範囲内なのか、それとも単なる推測に過ぎないのかを問うことは重要である。
並行宇宙はそれ自体が理論ではなく、特定の理論によってなされた予測である。
理論が反証可能であるためには、そのすべての予測を観察および検証できる必要はなく、少なくともそのうちの 1 つだけを検証できれば十分である。
たとえば、一般相対性理論は、重力レンズなど、私たちが観察できる多くのことを予測することに成功しているため、ブラックホールの内部構造など、私たちが観察できないことについての予測も真剣に受け止めている。
多くの並行宇宙に存在するのであれば、我々は典型的な宇宙にいると予想されるはずです。
ある量、たとえば、この量が定義されている多元宇宙の一部の典型的な観測者によって測定された暗黒エネルギー密度や空間の次元の確率分布を計算することに成功したと仮定する。
この分布により、我々自身の宇宙で測定された値が非常に非典型的なものになることが判明した場合、多宇宙、したがって数学的宇宙仮説が除外されることになる。
生命の要件を理解するまでにはまだ程遠いが、暗黒物質、暗黒エネルギー、ニュートリノに関して私たちの宇宙がどの程度典型的であるかを評価することで、多元宇宙の予測のテストを始めることができる。
なぜなら、これらの物質は銀河形成など、よりよく理解されているプロセスにのみ影響を与えるからである。
これらの物質の存在量は、多元宇宙のランダムな銀河から測定されるものとかなり典型的なものであると測定されている。
しかし、より正確な計算と測定では、そのような多元宇宙は依然として除外される可能性がある。
おそらく最も説得力のある反対意見は、直感に反して不安を感じるということである。
数学的宇宙仮説が真実であれば、科学にとって素晴らしいニュースであり、物理学と数学の洗練された統合により、深い現実を理解できるようになる可能性がある。
実際、多元宇宙をもつ数学的宇宙は、期待できるすべての理論の中で最良のものであるかもしれない。
なぜなら、規則性を明らかにし、定量的な予測を行うという科学的探求から現実のいかなる側面も立ち入れないことを意味するからである。
どの特定の数式が現実のすべてを記述するのかという問題は見当違いであるとして放棄し、その代わりに、鳥の視点からカエルの宇宙観、つまり観察をどのように計算するかを問うことになる。
それは、宇宙の真の構造を明らかにしたかどうかを決定し、数学的宇宙のどの隅が私たちの故郷であるかを理解するのに役立つ。
いくつか考えられるだろうな。
自分なりに前向きに現実に適応していくために占いを利用してる、という考え。
例えば占星術は天体の位置や動きと人間や社会のあり方を経験的に結びつけて占うっていう体になってる。
「自分の運命や運勢に一定の法則や意味がある」と信じることで、本来は不確実である未来に対する不安や恐怖を和らげる効果があるんじゃないか。
不確実性に由来する不安に対処するための手段の一種だと考えると、占いにハマる人は悩みや不安を抱えていて、それを晴らすための手段が占い以外にあまりない人なのかもしれん。
そのデカさを感じさせる描写がでてくるとワクワクする。銀河を股に掛けた帝国とか、星一つ丸ごと兵器のデススターとか大好きだ。
科学理論がテーマの話も、結局は宇宙全体の話とイコールになるので、スケールが感じる。
物理法則が変わっちゃうと宇宙って滅茶苦茶広いのにその全部がどうにかなってしまう。スゴイ。
タイムトラベルものとかも、時間が長ければながいほどいい。セカイの軸が広がることはセカイのデカさだ。
スケールのデカさがあれば自然と未知ってものが発生するが、でも、未知であるだけじゃ不十分なんだよね、俺的に。
特に国産SFでありがちなのは、なんか科学要素をドラッグだとか、あるいは共感覚だとか、社会とのつながりとかに見出して、最終的に個人の脳と心の内にセンスオブワンダーを演出しようとするんだけど、はあ? という感じ。ワクワクしない。俺の求めるサイエンスフィクションではない。私の内を旅するのは、それは哲学小説。
本音としてはね。でも、首にしたら、違う人の生産性が落ちたりするんだよね。
退職(転職先決まってから)って形だったけど、それでも後味悪かった。
よく2・6・2の法則ってあるけど、
下の2割を切った影響って結構あると思ってる。
オカルトぽくて嫌だけど。
・普通の人材の中でも下の人が、次は自分が一番生産性悪いから切られるかもと怯える
とか、そういうあたりかなーと。
特に昔ながらの社員は家族だ!みたいな企業ほど影響はあると思う。
Netflixの解雇事例もあるにはあるけど、日本みたいな村社会では難しいんじゃないかな?
そうじゃないなら、会社の仕組みでなんとかするようにしないと
経営は難しいと思う。
それらを混ぜても期待する燃焼反応を示すとも限らないし
というかちゃんとした設定(物理法則や歴史)があったとしてもそれを全て理解している人なんてそんなにいないし、全てを理解したいと思っている人もそんなにいない
ピーター・ムーアというアディダスやナイキのロゴを作った人から命名された法則。
ジャガイモとビールが合うように、ある食べ物には必ず合う飲み物があるという法則。
オープンワールドのゲームでは、アンカリングされた地点にファストトラベルできる機能があると便利だよいう意味。
「オデ…オデ…」と一人称をオデにするだけでゴーレムのように見えてしまう効果。
監獄にスタンフォードの本を配ったらみんな改心したという感動の実験。
蝶はよく見ると気持ち悪いのに、みんなに愛されている。
https://anond.hatelabo.jp/20231105142941
なお、個人的にこの作品の最大の問題はどっちかというと皇居のすぐ近くに自衛隊の戦力が駐屯していて、しかも実質治外法権みたいに好き勝手やってて軍閥みたいになってるとこだと思う。軍隊なんて外国と戦うより自国民に銃を向ける率のが高いのが当たり前(だからシビリアンコントロールという概念がある)だが、自衛隊員ってそういう常識的なこと言うと発狂する人いるのですげー怖い。
戦国自衛隊。映画はそういう無双とか補給とか関係ないところでロックンロールしてるだけなので、正直どのぐらい無双なのかよくわからない。
ドリフターズ。火薬から作る。ただし、敵が超パワーで無双するので銃あんまり無双できてない。
陰の実力者になりたくて! 魔力が使える貴族は銃とか効かないっぽいが魔力が使えない一般市民を動員した兵士は銃で武装してる。
ファイブスター。上記のような「超強いやつが剣ふるうほうが銃より強い」イメージってたぶんファイブスターだと思うのでいちおう挙げとくが、よくわからん。
ハロルド・シェイ。異世界転生のメタ物みたいなのの元祖。復刊しろ
他バリエーションある?
上記の条件のうち、いくつかを満たしているものを作家ごとに紹介する。
作品のオチには触れないつもりだが、途中に何が出てくるかとかそういったレベルでは作品の内容に触れる。
思い入れが多い。ただ、近年のイーガンの長編は自然科学の素養が無いと何を言っているかまったくわからない作品が多いので(高校どころかひどいのになると大学院レベル)、短篇集から入るのがオススメ。人類の寿命が実質無限大なので、天文観測のために2人きりで宇宙に出て平気で数万年かけて工事するなんてエピソードもあったりするんだけど、わかりやすい宇宙人ヤバい系だったら「ワンの絨毯」かな。この長編版の「ディアスポラ」は未読。イーガン大好きなんだけど、たまに作者の顔がちょっと透けちゃう。
「火星の人」はなぜか「オデッセイ」の邦題で公開された映画の原作で、火星にたった一人取り残された男が持ち前のオプティミズムで生き延びていく話だ。不足する酸素を作り出し、糞便からジャガイモを育て、何とか地球とコンタクトを取り、必死で地球への帰還を目指す。コンタクトを取れた瞬間に希望が開けていく様子が素晴らしい。
「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は、基本的にネタバレなしで読んでほしい。冒頭は記憶喪失の人物が意識を取り戻したところから始まり、振り子の周期から重力加速度を割り出すことで自分は地球にいないことを悟る。そして、ご地球外のミッションに送り出された理由を思い出す(ブクマの指摘でネタバレ削除)。
仲間の二人が死んでミイラ化しているという絶望的な状況からスタート。この作品も、サイエンスに対する信頼が読んでいて楽しい。
近未来、スーパープルームで海面上昇と地殻変動が起こり、人口が減少した世界。日本列島もさらに小さな島嶼の群れになっている。この世界には現生人類に似た陸の民と、魚のような生き物と双子として生まれ、その魚を肉親・パートナーとして暮らす海の民がいる。短編も長編もあり、海の民と交渉する陸の民の物語もあれば、やがて次の訪れるであろう、人類滅亡クラスのさらに大きなスーパープルームから人類を何とか生き残らせようと健闘する人びとが主役の話もある。なんとか宇宙に進出するとか、人類を海に適応した海生生物にしてしまうとか、核融合炉で地下都市を建設するとか、その絶望的で悲痛な努力が胸を打つ。作品によっては「異形コレクション」にも収められている。ある意味では「日本沈没」の精神的な続編でもある。
「最後の宇宙飛行士」は後述の「宇宙のランデブー」にプロットが似ていて、太陽系に未知の物体が侵入してくるんだけど、オウムアムアの正体に対する考察にもなっていて面白い。また、主役がどうしても宇宙に出たいんだけど、ミスで同僚を死なせてしまったがゆえに長らく宇宙とは無縁の生活を強いられているところからスタートする。挫折したヒーロー、いい意味で映画的で、リーダビリティが高い。ややホラー寄り。
古典のはずなんだけど児童書をのぞいて意外と読めていないなって作家。なんだけど、自分は「タイム・マシン」という小説で「複数の種に分岐してしまう人類」「知性を失った人類の子孫」「太陽が死んで滅亡に瀕する地球」という趣味を開花させてしまった。そういう意味では自分の読書傾向に決定的な影響を与えたと言っていい。
言語や数学をモチーフにした幾分難解な作品が多いのだが、最初の作品の1つである「Self Reference Engine」は少し肩の力を抜いて読める。舞台は現実改変能力を手に入れてしまったAIの発生により、無数のパラレルワールドに分裂してしまった宇宙で、AI同士が互いの存在を物理法則もろとも演算して書き換えようと争っている。壮大な世界観だが、22の断章の中ではシリアスありユーモアあり小噺あり抒情的短編ありと、何でもありだ。とにかく翻弄される人類がおかしい。
この人は「天冥の標」で有名なんだけど、長すぎるし自分も未読だ。「老ヴォールの惑星」とか「フリーランチの時代」とか、短篇集も面白いのが多くて、特に「老ヴォールの惑星」はエイリアンの生態ものでは特に面白かった。上記の条件を満たす作品じゃないけど好き。
この人はどちらかと言えば「筺底のエルピス」で有名かもしれないけど、僕が好きなのは短編の連作集「What We Want」「平林君と魚の裔」「止まり木の暖簾」だ。これは銀河系が巨大な通商連盟に支配されているという設定で、アメリカは大統領の契約違反で国民ごとエイリアンに売り飛ばされている。主人公は必死になって地球に帰還した関西弁の日系アメリカ人。特に面白かったのが2作目の「平林君と魚の裔」で、この通商連盟の究極の目的が明らかになる。
問題なのは、この短篇集があちこちのアンソロジーでバラバラに収録されていることかな。せっかくなのでそれぞれ購入したうえで他の作品も読んで、お気に入りの作家を増やしてほしい。僕も河出書房の「NOVA」とか東京創元社の年間傑作選とかでお気に入りの日本人作家を増やした。後者は新人賞作品も載ってるしお得だよ。
「幼年期の終わり」については一度ここに書いたけど、人間が進化していって人間の形を失っていく未来が好きだ。それでも残る人間らしさとは何だろうか。共感だろうか、知識だろうか、はたまた血縁だろうか。
「2001年宇宙の旅」はキューブリックの映画で有名で、「ツァラトゥストラかく語りき」のパロディが笑えるほど量産されているんだけど、これもまた人類の進化を扱った作品なのでオススメというか、進化ものでは避けて通れない作品。悪役である人工知能HAL9000がなぜ狂ったのかは「2010年」で明かされるんだけど、理由がわかるとちょっとかわいそうになる。「3001年」は「ぼくのかんがえた最強の未来社会」っぽくてそういう楽しみがある。
あえて注意することとしたら、解説で紹介されているキューブリックの映画に関するブラッドベリとクラークの発言に現代の価値観では不穏当な個所があることかな。
あとは「宇宙のランデブー」。太陽系に侵入してきた物体を探査するという一直線のプロットなんだけど、とかく未知のものに触れる驚きがいい。人物描写が浅いと批判されるのもわかるんだけど、人類が訳の分からないものに触れて戸惑うのが好きなんだからしょうがない。
意外とクラークを読んでいないことに気づく。
「果てしなき流れの果に」については前に書いたね。基本的の小松左京の作品の傾向は宇宙と人類と日本人の運命がテーマらしいので、「三体」が好きだった相性がよさそう。実は残念ながら長篇は「日本沈没」しか読めていない。と言うか三体は宇宙と人類と中国人の運命がテーマだよね。